空母ヲ級運用指南 ~蜃気楼の海~   作:mafork

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【あらすじ】

 空母ヲ級とさらに関わりを深めることを命ぜられた熊野。
 深海棲艦を敵としてきた彼女は、すっかり懐かれてしまったことに困惑するばかり。

 他方、その空母ヲ級の具体的な身柄の取り扱いについて、沖田と赤松提督は詰めの交渉を始めた。
 しかし、ヲ級本人にとってみれば、書類上のやりとりなどなんの関心もないことだ。
 海産物の本領が発揮される――。





3-2.海に眠る力

 日     時:8月13日14:34(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:佐世保鎮守府 工廠 地下1F

 コンディション: ―

 

 薄暗い部屋で、熊野は相手を見つめていた。

 そこは半地下といえる空間で、天井付近の壁に申し訳程度の窓がある。電波を通さない特殊な曇りガラスを通して、ぼんやりとした光が室内を柔らかく照らしていた。

 熊野の目の前には、机を挟んで空母ヲ級がいる。帽子や艤装を取り払い、難民用の大量生産品(と熊野は聞いている)である白無地のワンピースを着ているため、肌の色、髪、全てが真っ白だ。

 いつもの無表情を淡い陽光が照らし、微かに憂いを帯びた雰囲気を作っている。造作の美しさも相まって、『少女』というタイトルで油絵の題材にでもなりそうな光景だ。

 それだけにもどかしい、と熊野は眉間に皺を寄せる。

 熊野の手には、書類が握られていた。明石や研究員から、これだけのことを喋らせてほしいと言われている内容だった。

 握りしめられたその紙は、今は熊野の手汗を吸い込むだけものとなっていた。

 

(なんでまた、わたくしが……)

 

 提督に命ぜられ、熊野がヲ級への面談を始めてから、すでに30分が経っている。

 赤松提督が今後どのようにこのヲ級を扱うかは不明だが、今の内に少しでも情報を集めて、他の鎮守府や泊地に対する主導権を握ろうというのだろう。熊野に、ヲ級が少しでも気を許しているというのも響いているのかもしれない。

 この辺りの合理的かつ容赦ないやり口は、さすがと言ったところだろう。

 熊野としても、言いたいことは沢山あったが、彼女への興味が全くないかといわれれば嘘になる。

 

「どうした?」

 

 目を開けたヲ級が、無表情のまま首を傾けた。

 時計の秒針の音が、沈黙の中で妙に大きく響いている。

 

「なんでもありませんわ。再開しても、よろしくて?」

 

 熊野が言う。

 空母ヲ級は、目線だけで熊野に注意を向けた。

 

「他に覚えていることはありませんの?」

 

「ないな」

 

 かなり長いこと話しているせいか、彼女の低い声はかすれがちだった。

 熊野は書類の皺をのばし、もう一度項目を読み上げた。

 

「あなたの生まれた場所」

 

「しらない」

 

「あなた以外の仲間」

 

「しらない」

 

「あなた方の、目的」

 

「しらない」

 

「……好きな食べ物は?」

 

「すぱむ すき」

 

 最後の質問は、「しらない」以外の言葉を話すかどうかを試すためのものだった。

 熊野はとろんとした目で振り返り、隅でメモを取っている研究員を見やった。彼女は苦笑しているが、中止の判断は出さなかった。

 熊野はヲ級に向き直り、再び彼女とのにらめっこに入った。

 これが刑事ドラマなどであれば、机を叩いたりランプを顔に当てたり、故郷の母親の話をしたりするのだろうが、あいにくヲ級には聞きそうにない。かつ丼は少し効果があるかもしれないが。

 

「ヲ級」

 

 そう呼びかけて、やっぱり妙な違和感を感じた。

 ヲ級は深海棲艦の空母に対する総称だから、ずっとこの呼び方をするのには抵抗があった。

 

「知らない、というのは覚えてない、ということですわね?」

 

「そうだ」

 

「なにか、思い出せそう?」

 

 ヲ級は、少し首を傾げた。ふわふわの髪が揺れた。

 

「ない、ものは ない」

 

「記憶に」

 

「あたまに。しらない も おぼえてないも おなじいみだろう」

 

 熊野はちょっと驚いた。

 ヲ級とゆっくり語り合う機会はこれが初めてだったが、熊野はヲ級が思いのほか言葉の概念やニュアンスの違いに敏感であることに気づいていた。舌足らずな口調は、ひょっとしたら発音の問題だけで、頭はいいのかもしれない。

 

(とはいえ……)

 

 熊野は書類を見つめ、呻いた。

 事前の説明で、熊野もこの会話の目的を聞かされている。

 1つは、佐世保の技術者との会話で引き出せなかった、無線や暗号といった高度な技術情報を引き出すこと。そしてもう1つは、彼女の中に特定の艦の記憶があるかどうかを明らかにすること。

 『覚えてない』という回答では、どちらも達成できない。

 

「ええ、と」

 

 熊野は書類越しに彼女を見た。

 空母ヲ級の基本的性質についてのページがあったので、そこと彼女を見比べてみる。

 曰く、射程と火力を備えた最も注意すべき敵。虫のように無感情。艦載機による被害を入れれば、最も人類を追い詰めた深海棲艦。

 プリントされた写真には、杖を振りかざし、艦載機を艦娘に差し向ける姿が写っていた。

 熊野が艦娘になる勉強をした時も、空母ヲ級こそ海上における主敵と教わった。訓練で卒倒しそうになりながら、その顔を頭に叩き込んだものだ。

 書類の向こうで、ヲ級が首を傾げる。その虚ろな目には、苦慮する熊野の姿がそのまま映っているだけだ。

 

「あなたって、何なんでしょうねぇ……」

 

 熊野は、ぽつりと呟いた。

 知り合ってからかなり経つが、やはり彼女は普通の深海棲艦とは違う。

 深海棲艦とは荒れ狂う海のように、ただ怒りや衝動のままに艦娘に火力をぶつけてくる。だが、彼女はそうしない。

 どころか、彼女の側からはほとんど何も発信しない。

 演習の時は、不知火を気遣うそぶりや、体でしなを作るユーモアのようなものも見せていた。が、今思うとそれも行為の意味を理解していたのかは怪しいところだと思う。

 まるでガラス板が一枚あるようだ、と熊野は思う。

 すぐ近くにいるはずなのに、その動作の一つ一つが別世界のもののように遠く感じる。水槽の中のクラゲを観察しているように。

 

「わたし おかしいか」

 

 ヲ級が言った。平坦なトーンだった。

 

「まぁ、ユニークでいらっしゃるのは、確かですわね」

 

「ゆにーく こ、こせーてき」

 

 ヲ級が沈黙した。

 熊野は、妙な気配を感じた。今までの沈黙とは違う、何かを言いよどむ沈黙に思えたからだ。

 

「くまの」

 

「はい?」

 

「えんしゅう おわったあと」

 

 熊野は思い出す。そう言えば、一週間前、演習が終わった後、彼女に遭っている。

 

「ないてたのか」

 

「ちょ」

 

 熊野はもう少しで席を立つところだった。ちらりと後ろの研究員を見る。

 手が動いているから、しっかり記録されてしまった。

 

「べ、べつに泣いていたわけでは」

 

「なんで ないてたんだ」

 

 ヲ級の青い目は、どこか虚ろだが、透き通っている。

 そこには肯定も否定もない。海みたいだな、と熊野は思った。

 

「別に、変なことじゃありませんわ」

 

 ヲ級は、話の続きを待っている。

 頬の熱さのせいか、目が泳ぎ、誤魔化すようなトーンになった。

 

「危険な目に遭って帰ってくると、たまにはそういう気分にもなるのです。ほっとするというか……まぁ、そんなところです」

 

「かんむすはそうなのか」

 

「艦娘というか、きっと誰でもそうですわ」

 

 ヲ級が、虚を突かれたように目を少しだけ見開き、微かに首を傾けた。

 熊野は苦笑した。

 回流丸で会った時に、やたら触られたことや、質問をされたことを思い出した。そういえば、不知火にも随分とちょっかいを出したと聞いている。

 この辺りが、艦娘と同じく、艦の魂が入っているとされる所以なのだろうか。

 

「艦娘のことを、随分気にしますのね」

 

「そう、かな」

 

 ヲ級は目線を机の上に落とした。それから、言った。

 

「わたし。おかしいのか」

 

「え?」

 

「か か かえってきても た、たまに う、うれしく、ない」

 

 ヲ級は所々つっかえながらも、驚くほど長く喋った。無表情の中でも、彼女の言語能力を総動員しているのは分かった。

 

「まえは ああんしんでできた。でも、なんだか、だんだん」

 

「それは……」

 

 熊野は、思わず言いよどんだ

 ヲ級は自らの細い首に、白魚のような指を添える。

 

「く くびわ も」

 

「首輪?」

 

「かんむすも みんな つ、つけてる、と おもってた」

 

 ヲ級は、そこでようやく長く息を吐き出した。なんだかやり遂げたみたいな空気を出している。

 熊野も、後ろの研究員も、あっけにとられていた。

 

「だから ちょうし、も わるい」

 

「調子?」

 

「ひこうきが うまく でない。は、はっと 、ぼうし が いうこと、きかない」

 

 ヲ級は、自らのつむじの辺りをさすった。艤装である帽子のことを言っているのだと、熊野は気が付いた。

 発着艦に手間取っていたが、それは実際に調子が悪かったということなのだろう。

 熊野は書類を机に置いた。しげしげとヲ級を見つめる。

 彼女は珍しく目を伏せた。

 

「だから」

 

 熊野は耳を澄ませて、続きを待った。

 

「あいたかった」

 

「会いたかった?」

 

「かんむす しりたい もっと、たくさん」

 

 More、More(もっと、もっと)と彼女は小さく繰り返した。慌てているからか、英語と日本語が一緒くたになっている。

 

「しりたいの」

 

 深海棲艦は言った。

 

「かんむすのぱわーのみなもとを」

 

 そこから先は、明瞭な音にならなかった。続きが始まる気配もない。

 力の源。

 そう問われたのだと思う。

 熊野は敵海域で針路を決めるときと同じくらいの慎重さで、次の言葉を探した。だが霧に包まれた海のように、向かうべき先は見えなかった。

 

「……心配なさらずとも、じき、色々な艦娘に会えますわ」

 

 はぐらかしたつもりだったが、ヲ級が、つと頭を上げた。

 

「いろいろ」

 

「ええ。佐世保には、いっぱい艦娘がおりますから」

 

 ヲ級が口をつぐんだ。

 おや、と思っていると、やがてぽつりと漏らす。

 

「いっぱい……?」

 

 口元の両端が、少しだけ引きつった。青白い頬に浮き出るその微かな引きつりが、彼女の微笑である。

 

「よこすか」

 

「え?」

 

「よこ、すか、も?」

 

 ヲ級が、少しだけ首を傾げた。唐突だったので、一瞬、音が巧くつながらなかった。

 笑みを張り付けて、応える。

 

「ええ。横須賀にも、いっぱいいますわ」

 

 そうか、とヲ級は呟いた。口の端の引きつりが深くなる。

 

「たのしみ」

 

 熊野は、その言葉に引っかかるものを感じた。

 楽しみ。だが、実際に彼女が佐世保を出て、横須賀へ向かうということは実現するのだろうか。

 当初の目的地は横須賀だったそうだが、今は状況が大きく変わっている。それに、気づいているのだろうか。

 

(いえ)

 

 熊野は思い直した。それは熊野の口から語るべきことではない。

 そこで、部屋のドアがノックされた。

 研究員の女性が答えると、鎮守府の制服を着た女性が入ってくる。桜色の髪と勝気そうな顔立ち。

 工作艦の明石だ。

 

「お話し中すいません」

 

 言って、彼女はヲ級を見た。

 ヲ級は言いかけた言葉を探すように、少しの間口を半開きにしていたが、やがて閉じた。顔を上げた彼女は、いつもの無表情に戻っていた。

 

「どうしましたの?」

 

 熊野が訊くと、明石は言った。

 

「ヲ級の艤装が……」

 

 

      *

 

 

 テーブルに置かれた茶は、一度も飲まれることなく冷めた。

 提督室の応接セット、その革張りのソファは、長く座っていると落ち着かない気持ちにさせられる。

 それは明らかにこの部屋の主のせいだった。

 沖田は、少し離れた執務机にいる赤松提督を見やった。眼鏡をかけた老提督は、今日も純白の士官服に身を包み、背筋をぴんと伸ばして書き物をしている。

 佐世保鎮守府を数度の任期に渡って治め、そして今や平和主義の深海棲艦という爆弾にも宝石にもなる資源を、一手に有している軍人だった。

 

「もう少し待っていてください」

 

 言いながら、赤松提督は万年筆を置いた。書類を持ち上げて、入念に出来栄えをチェックしている。

 やがて満足したのか、その書類を持って沖田の方へやってきて、応接セットの向かいに腰かけた。

 

「ご足労感謝します。久しぶりの故郷はいかがですか」

 

「相変わらずですね。空き地がなくなってたり、ビルが増えたり、政治家の顔が変わったりはしていましたが。モノも豊かになっていますねぇ」

 

 そんな世間話の後、本題に入る。

 

「先日の演習では、見事な指揮でした」

 

 沖田は首を振った。

 そうしながらも状況を整理する。

 ヲ級を佐世保に預けて一週間が経過し、提督は海軍内に鹵獲の情報を公開している。明石が行っていたヲ級の調査は順調に進んでいるそうだ。

 これまでの時間を、赤松がヲ級の能力の裏取りと関係者への調整に割いていたとするなら、いよいよ今日、沖田を呼び出したのは彼女の具体的な扱いについて何らかの指示をする腹積もりなのだろう。

 であれば、この質問は軽いジャブと言えた。

 頭の中が商談に切り替わる。純白の士官服と、藍色のスーツが視線を交わす。

 文字通り、白黒つけるというやつだ。

 

「とんでもございません。すべて、護衛空母の指揮教練の薫陶ですよ」

 

 沖田の謙遜など聞こえていないかのように、赤松は続ける。

 

「ご謙遜を。船団護衛の軽空母で潜水艦や水上機の哨戒をするのと、正規空母同士で戦うのとはわけが違う。相当、あの深海棲艦に鍛えられたと見える」

 

 沖田は苦笑して、曖昧に頷くに留めた。

 鎮守府にいる頃は、まだ海上護衛について鎮守府自体が積極的ではなく、軽空母の指揮も正規空母の指揮も大差なく教えられた。そのせいで基本的な知識はあったが、確かに実践的な要素はヲ級との航海で磨かれたといってよかった。

 ヲ級にできないことが多すぎて、四苦八苦しながら補い合い、だましだましやってきた日々といえた。

 

「これをご覧ください」

 

 赤松は、沖田に書類を差し出した。

 相変わらず見事な筆跡で、契約書が書かれている。まだ朱印は押されていない。想像通りの内容だったので、沖田はざっと斜め読みした。

 

「単刀直入に言いましょう。あの深海棲艦は、やはり佐世保で保護をしたい。しかし正式な形で我々が引き受けるには、あなたとの口裏合わせが必要だ」

 

 契約書を捲る。

 どうも沖田達の立場を、偶発的に深海棲艦に懐かれ、佐世保に保護を申し入れた不運な商船として扱うらしい。

 

「民間会社の、生きた深海棲艦、それも友好的なものの捕獲です。代金代わりに、褒章も出せるでしょう」

 

 沖田が読み終わる頃を見計らって、赤松提督は言った。

 沖田は考える。

 赤松のやり方は、海軍としては好意的といっていいものだ。海軍の民間に対する徴収のあり方は一時ひどいもので、海を行く船に突然乗り付けて、船員に階級を、船に管理番号を割り振っておしまい、なんてこともざらにある。

 今回では、さらに現金での支払いもある。黒字が出る数字だ。しかも海軍なので『無税』。

 まず満足できる水準だったが、沖田には気になることがあった。

 

「……横須賀はなんと言っていますか?」

 

 沖田の質問に、赤松は首を振った。

 横須賀は、沖田達にヲ級の輸送を求め、本来の目的地であった場所だ。そもそもの雇い主と言える。

 彼らとの契約はまだ有効のはずだが、ここ数日、一切のなりを潜めていた。

 

「何も」

 

 真偽の判断はつかない。赤松が補足した。

 

「身動きが取れないのでしょう。佐世保にいると分かっていても、横須賀が本来の所有を声高に叫べば、その前の秘密裏の工作を明らかにすることになる。すなわち、あなた方をこっそり横須賀へ導こうとしたことだ」

 

 どう考えても、対面は悪いだろう。

 

「横須賀に未練が?」

 

「それほどのものではありませんがね。商売の倫理、といいますか」

 

「それがいい」

 

 赤松は頷く。

 沖田は苦笑した。

 

「変わりませんね。下の方は戦うだけだが、上はそうもいかない。各鎮守府や軍令部の中で、意思の疎通は難しいのでしょうか」

 

 皮肉を込めたつもりはなかったが、どうしても嫌味なトーンになった。

 赤松は眼鏡の奥の目を細めた。

 

「今回は、特殊です。お察しの通りだとは思いますが、あの深海棲艦自体が、大きな例外なのです」

 

 赤松提督は特に気分を害した様子はなく、むしろ憐れむような瞳で沖田を見つめた。

 少し席を外し、机から数枚の書類を持ってくる。一番上の紙は、太平洋の地図の上に、海軍の主な拠点が記された組織表だった。

 

「……あなた方の心情を忖度する前に」

 

 冷たい目が沖田の顔に向けられる。まるで海面を走査するサーチライトだ。

 

「あなたの意見を問うておきたい」

 

 提督は言った。

 

「あの深海棲艦を、あなたはどう扱っていますか?」

 

「どうとは?」

 

「ヒトか。深海棲艦か。あるいは、仲間かそうでないか。まぁ、流行りのイデオロギーに関する質問です」

 

「どちらでもありません」

 

 沖田は即答した。

 

「商品ですよ。魚や貝と同じ、新鮮な海産物です。我々は市場へ届けるだけ」

 

「質問を変えましょうか。情が移っている、というようなことはありませんか?」

 

「ありません」

 

 沖田は否定したが、強く言い切ったことが、かえってその内容を揺らがせた気がした。

 

「あの深海棲艦の身を案じる気持ちは、まったく、毛ほどもないということですね?」

 

 なぜか、提督はそこに拘った。

 沖田は自問自答した。ここで否定を重ねられないのが、彼の甘さだった。

 

「……まぁ、さすがに、旅をしたのは事実ですから。どうせなら、安全な場所に降ろしてやりたい、と思う船員はいるでしょうねぇ」

 

 赤松は笑みを深くした。

 

「利害が一致しましたな」

 

「はい?」

 

「私も、あの深海棲艦は保護し、使うべきだと思う。つまり我々は、あの深海棲艦の身の安全、という価値観を共有して話ができるわけだ」

 

 沖田は息を吐き出した。

 まんまと乗せられてしまった。緒戦の主導権は赤松提督が取った。

 だがこれで話がより深く進む。

 

「あの深海棲艦に対する立場は、まだ海軍の中で定まってはいない。だが、一週間の間に、主だった泊地や鎮守府の傾向は見え始めた。今から、主だったものを説明しましょう。勿論、信じるか信じないかは、あなたの自由です」

 

 赤松は、組織の一番上。各鎮守府の上位に位置する軍令部を指さした。

 

「軍令部。鎮守府の上位組織。戦力的な活用には消極的で、実験台としての利用に傾いている。有用性を分かっていても、艦娘を招集し、戦わせてきた手前、今更深海棲艦の人格を認めるのには『体面』というものがあるのでしょう」

 

「体面、ですか」

 

「はい。鎮守府が武人だとすれば、あそこは役人。厄介事は歓迎されない。普通の深海棲艦の扱いと、差を付けるのを拒むのも、頷ける」

 

 赤松の指がその下、横須賀鎮守府に滑る。

 

「横須賀鎮守府。最古の鎮守府の1つで、ここの東雲大将はもう少し戦力的な利用に積極的だ。だが距離的、政治的には軍令部に近い。あなた方へも、なかなかに興味深い提案をしたようですが、今となっては実現するかは不透明でしょう」

 

 沖田は鼻を鳴らした。

 正直なところ、横須賀への運搬中に横やりを入れたのは佐世保なのだから、マッチポンプもいいところである。

 

「そして、こちらが本題です」

 

 赤松提督の指が、組織表の端に移った。そこにはどの鎮守府の下にも置かれず、組織上は軍令部の直轄となっている異様な『泊地』、馬公泊地の名前があった。

 

「横須賀は、あなた方を呼び込むのに随分と気を回したそうですね。電探類の増設に、書類上の便宜、各所での入港の手配。もちろん、騒ぎを起こして軍令部に目を付けられないように、という思惑もあったと思いますが、一番の理由は――」

 

「……」

 

「この、馬公泊地に悟られないためでしょうね。一番、対応が難しい場所だ」

 

 沖田が頬を搔いた。

 提督は全てを見透かしているようだった。

 

「横須賀との間で、秘密条項があるのでしょう。まずは、こちからから仮説を述べることにしましょう」

 

 提督は、少しの間視線を宙に彷徨わせた。

 話の始めどころを探しているようだった。

 

「馬公泊地。深海棲艦の実験泊地。人員1千名強、護衛の艦娘や艦艇もいますが、基本的にははぐれ者の研究者ばかり」

 

「……」

 

「――と、いうことになっている。そこに訪れるはずだった船が、随分前から行方不明になっています。名前は、『東郷丸』」

 

 赤松は執務机から持ってきた書類の中から、2枚の書類を抜き出した。

 1枚は、リンガで発行された、回流丸の船籍発効証だ。出会った初日に赤松に奪い去られていた書類の1つである。

 もう1枚は、馬公泊地が発した報告書だ。日付は約一週間前、沖田達がバシー海峡で襲撃を受けた日付である。確かに『東郷丸』なる輸送船の消息が不明であることと、その船が貴重な積み荷を載せていることが書かれていた。

 

「東郷丸が姿を消したのが、リンガです。確か、あなた方が横須賀から、深海棲艦の輸送先を横須賀へ指定されたのも……」

 

「リンガです」

 

 沖田は諦めたように言った。提督が意味深げに眼を細める。

 

「私のように勘の悪い老人でも、これだけ揃えば、分かりますな」

 

 沖田が肩をすくめた。提督は言う。

 

「馬公泊地が待つ『東郷丸』こそ、あなた方の回流丸でしょう。あなた方は、本来は馬公泊地へあの深海棲艦を運ぶ予定だった。だが情が芽生えたか、それとも事故か、横須賀鎮守府にその存在が露見し、横須賀へ運ぶことになった」

 

 冷めたお茶を飲み、間をつなぐ。緊張で、味が分からない。

 提督は沖田達の行動をすっかり解き明かしてしまっているようだった。

 

「リンガで、船籍と船名を変更。横須賀鎮守府がその気になれば、艦娘の海上護衛を伴う網目のような航路の中に、あなた方の一隻ぐらい紛れ込ませるのは造作もない。そのまま横須賀鎮守府への航路を取れば、海軍のつける全ての記録から東郷丸は消えることになる。護衛もつけず。まるで何かから姿をくらますように。それだけ、馬公を警戒しましたか」

 

「馬公泊地」

 

 沖田は提督の息継ぎの間を狙って、口を挟んだ。

 

「馬公泊地。あそこは何なんですか?」

 

「先に、あなた方の当時の状況を伺っておきたいものですな」

 

 沖田は当時の船の状況を話すことにした。この提督にもはや隠し立ては不可能である。

 

「お察しの通りですよ。ヲ級を拾った後、出先の国で馬公泊地への輸送を厳命されました。お目付け役の艦娘まで付けられて。ただ話があまりに怪しかったので、リンガで補給をした際に、地場の提督にこのことを相談したのです。結果、馬公泊地の独断専行が明るみに」

 

 沖田達が友好的な空母ヲ級を拾ったのは、遠く離れた地中海の地である。

 そこの国から直々に馬公泊地への輸送を命令されたのである。

 しかし、考えれば考えるほど、疑問がわいてくる措置だった。一介の泊地を一国がわざわざ指名する理由が不明だし、それを海軍が全く関知していないのも不自然だ。

 

「あそこは、特別な泊地です」

 

 提督は言った。慎重に言葉を選んでいるのが分かった。

 

「先任の権限があまりに多い。それに、古い思想に基づく影響力もある」

 

「権限?」

 

「艦娘の艤装。その新規開発だ」

 

 沖田は首を傾げる。

 彼の知識では、馬公泊地は深海棲艦の実験泊地に過ぎなかった。

 新規、と沖田は繰り返した。

 

「新規開発とは、今まで存在していなかった艤装を、新しく生み出すことです。艦娘の場合、着任という呼ばれ方もする。もちろん、鎮守府でも装備や艤装の開発はやる。ですがそれは、設計図を基に組み立てる作業です。オリジナルではない」

 

 提督はそこで一旦、間合いを図る武道家のように、言葉を切った。

 情報をどこまで伝えるか、推し測っているのだろう。

 

「海に沈んだ魂を、汲み取り、しかるべき艤装を新しく生み出す作業は馬公でしかできない、ということです。例えるなら、艤装の2号機、3号機はどこでも作れるが、1号機はあそこしか作れない」

 

「そんな馬鹿な」

 

 艦娘という一国を左右する兵器を、たった一手に担っている組織があるというのか。

 通常、そうした重要な部材は、リスク分散のために取引先を分けるのが常識だ。癒着の温床になるということ以外に、国家のアキレス腱となる危険もある。

 だが、赤松の目は真剣だった。

 

「……よく、海軍が黙っていますね」

 

 恐らく沖田でなくとも、ここは海軍の正気を疑っただろう。

 赤松は面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 

「まったく。だがそもそも、艤装の開発者と直接やりとりする権限は、提督の私にさえないのだ。新種の艤装が着任すると、その旨が簡単な電文と共に通知されるだけ。深海棲艦の実験泊地という名目は、その研究から派生した、一つの側面に過ぎません」

 

 今やそちらの方が有名ですが、と提督は付け足した。

 沖田は想像する。

 恐らく、艤装を開発しているという本来の役割は秘匿されているのだろう。艦娘の艤装の仕組みや製法は、権益と秘密の霧によって覆い隠されている。

 

「話が逸れましたな。つまりは、特殊な泊地なのです。今の情勢で海を鎮守する、艦娘(フリートガールズ)の技術を牛耳る場所が、どんな影響力を持つか、分かるでしょう。それがあなた方が、海外の政府から馬公への輸送などという仕事を申し渡された理由でしょう。

 商人のあなたに言うとすれば、艦娘の技術は、いわば寡占市場です。技術と、人脈と、地理的特性、そして国々の歴史が複雑に絡み合っている。

 だが実態は、談合に、八百長、妥協と迷走する方針――いや、やめましょう。

 そんな泊地が、真剣に、あの深海棲艦の身柄を欲していたということです」

 

 沖田は沈黙した。

 赤松が、ヲ級の身の安全を引き合いにだして話を始めた理由が、やっと分かった。要するに、佐世保以外で下せば生きる見込みがない、ということを言いたいのだろう。

 馬公はその最たるものだ。

 

「もうお分かりかと思います。最終的に海軍の管轄であればどこに運んでも同じ、そんな話ではないのです。あなた方の立場にとっても、あの深海棲艦にとっても、どこに持っていくか、それを慎重に選ぶ必要がある」

 

 赤松は少しだけ間を置いた。

 部屋の中に、どこかで試射をしたらしい砲撃の音が響いてくる。

 質問の機会を与えられたと判断し、沖田は口を開く。それはずっとあった疑問だった。

 

「仮にも、貴重な協力者なわけでしょう。なぜ、馬公なり、軍令部なり、そんなに殺したがるのです」

 

 提督はまた少し考える仕草をした。

 

「明石から、聞いていると思います。あの深海棲艦には何らかの艦の魂、つまり艦娘の元が入っている」

 

「確定ではないでしょう?」

 

「私は、9割の確定だと考える。深海棲艦と艦娘の違いは、どこにあるか、考えたことはありますか?」

 

 沖田は肩をすくめた。提督が言う。

 

「本質的な違いなど、実は何もないのです」

 

 提督が一枚の紙を取り出す。白地に黒の斑紋が描かれただけの紙だ。

 

「何に見えますか?」

 

「何の話ですか?」

 

 提督は特に興味を示さず、言った。

 

「合わせ絵というやつです。ロールシャッハ・テストとも」

 

 赤松提督は、紙に浮かんだ模様を指先で叩いて見せた。

 

「艦娘も、深海棲艦も、大本は『これ』です。海に沈んだ人や艦の思い。それが無秩序に荒れ狂えば、深海棲艦という災害になる。だがそれを人間の少女が捉え、何らかの意味を見出し、指向性を与えれば……」

 

 赤松提督は、万年筆を取り出し、黒い斑紋の中に1ポイントだけ黒点を付けた。

 それだけで、斑紋は印象を変えた。無秩序に、煙のように茫洋と広がっていた斑紋が、提督の与えた黒点によって、明確な中心が与えられ――

 

「鳥、のようにも見えませんか? これは艦娘の適性試験で、よく使われる手法なのですが」

 

「……言われてみれば」

 

 赤松は頷き、慎重な手つきでその絵を仕舞った。

 

「こういうことです。人間の持つ、ごく主観的な、『見出す(みいだす)』という能力が重要だ。

 深海棲艦と艦娘の力は、もともとは海に沈んで、散り散りになった思いでしかない。それをそのまま荒れ狂わせるか、それとも人間の脳髄によって明確な指向を与えるか。それだけなのです」

 

 沖田は海底に沈む油田のことを連想した。

 かつて死んだ生き物の死骸、それ自体は単にエネルギーを内包した物体に過ぎない。それにそのまま火を放てば、燃え盛る炎となり、災厄となる。

 だがそれを取り出し、精製し、然るべき機関の燃料として使えば、人類にとって有益となる。

 赤松の話は、要するに艦娘も深海棲艦も、同じものを動力源としている、ということだろう。深海棲艦として顕れるか、艦娘として顕れるか。それは個別のケースなのだろうが。

 

「あの深海棲艦には、明確な個性がある」

 

「ええ」

 

 相当な阿呆だけれど。

 

「通常ではありえない。深海棲艦として発現した思いは、荒れ狂うだけの暴風と同じ。それが落ち着き、会話さえできるのであれば、それは主観的にものを見る能力が備わっているということ」

 

 沖田は頭が痛くなってきた。

 周りを意味もなく見渡してみる。

 提督はその反応に苦笑し、眼鏡のずれを直した。

 

「これは経験的なものですが。そうした深海棲艦は、かなりの確率で、内側に艦の魂を有している。艦の魂が明確な基盤となるからこそ、そこに個性が宿るのです。つまり、艦娘に宿るべき艦の魂が、降りそこなっている可能性が高い、ということ」

 

「降りそこない」

 

 明石からも聞いた言葉だ。

 

「ええ。艤装に宿るべき魂が、降りる場所を誤る。だから、降りそこないです」

 

 もっとも、『何が』降りそこなっているのか、その名前が分からないのですが、と提督は付け足した。

 沖田はようやく話が見えて来た。明石から言われた時は半信半疑だったが、提督により多くの情報を示されたことで、少しは信じてもいいような気になった。

 

「なるほど」

 

 沖田は言った。喉が意味もなく乾いていた。

 

「そういうことですか」

 

「はい。馬公泊地が、なぜあの深海棲艦を望んだか。それは、きっと、中身に興味があるからに他ならない」

 

 沖田は考える。

 あのヲ級には、安全装置がある。首に嵌められた、あの白い首輪だ。

 そして、明石は、こうも言っていた。

 そうした特殊な深海棲艦を撃破すると、新しい艦の魂が解き放たれる――。

 

(撃破)

 

 沖田の中に、不穏な想像が生まれた。

 

「深海棲艦に降りた艦の魂は、その深海棲艦が死ぬと解き放たれる。かくて新しい艦の魂が世に放たれ、しかるべき艤装に着任する。実は、佐世保の翔鶴も、そのクチなのですよ。大規模作戦で特殊で強力な深海棲艦を撃破した時、その艦の魂がどこからか艤装へ着任した」

 

 だが、本当に貴重な相手だと思っているなら、そんな安全装置を嵌めるだろうか。誤作動をしたら、死んでしまうのだ。

 沖田達に輸送を厳命したのが、馬公泊地だとすれば。

 馬公は、心のどこかで『あのヲ級が死んでもいい』と思っているのではないか。

 馬公まで、無事届けばよし。そうでなくても、安全装置が適切に働き、万が一の場合でもあの深海棲艦の始末をしてくれる。

 いずれの場合でも、降りそこなった魂は彼女の死と共に解き放たれ、新しい艤装の開発が始められる――。

 何かうすら寒いものが沖田の背中を走っていた。

 

「航空母艦の重要性は、歴史を紐解かずとも、今更語るべくもない。新たな航空母艦の着任は、海軍にとっての悲願」

 

 提督は言う。

 

「少なくとも馬公は、あの深海棲艦を殺すでしょう。然るべき実験の後、必ず。新しい艤装を作るために。ひょっとしたら、今もなんとか取り戻そうと海を探しているかもしれません」

 

 赤松は応接机に広げていた書類を、一先ずまとめた。

 沖田はその動きを見ながら考える。考えることが多すぎて、段々と頭がぼうっとしてきたが、それでも考える。

 急に情報が増え過ぎて、溺れてしまいそうだった。

 社長業との兼任で、海軍との微妙な秘密を孕んだ交渉をするのが、こんなにも大変とは。

 予想はしていたことだが、交渉のつもりが、情報量が違いすぎてまるで勝負にならない。

 

(予想より、さらにヤバイ山だ)

 

 沖田は呻いた。小銭を稼いで日々をやり過ごしているだけの、小悪党の出る幕ではない。

 一旦、赤松の情報を全て頭から追い出した。

 

「では、佐世保での扱いについて、お聞きしたいのですが」

 

 何が嘘でも、これだけは聞いておかなければならなかった。

 話によれば、ヲ級の立場には救いがない気がした。どこに行っても、待っているのは実験の末の殺害という未来だ。

 赤松は、待っていたとばかりに微笑した。

 

「心配せずとも、佐世保は無体に扱わない。深海棲艦を戦力化できるのは、非常に心強い」

 

 提督は椅子から立ち上がった。緑の絨毯を踏みしめて、壁に掛けられた地図の方へ向かう。

 

「この国が深海棲艦の脅威に遭ってから、多くの命が失われました。今は、束の間の安定だ。だがそれを守る層は、全艦娘を合わせても、150名に及ばない」

 

 赤松は地図を見つめながら、語った。

 

「薄い……本当に薄い、薄氷のような、戦士の層です」

 

 赤松の口調は、どこか思い出すようなものだった。地図を見ながら、鎮守府の歴史を振り返っているのかもしれない。

 

「……若い連中と戦っていると、私だけが随分と年を取ったように感じる」

 

 沖田はその背中が、随分と小さく見えた。

 提督が振り返る。眼鏡の奥の目は、常のような激しい輝きを宿していた。

 

「運用可能な深海棲艦。敵拠点の偵察に使える。艦載機の精製能力を応用すれば、鹵獲した敵装備の使用も可能になるかもしれん。もっと言えば、あの深海棲艦を皮切りに、他の深海棲艦も鹵獲、戦力化できる可能性もある」

 

 聞きながらも、沖田は赤松の言葉を吟味した。不可能な部分と、可能な部分は当然にあるだろう。だが佐世保という前線を預かる身の上で、深海棲艦の戦力化に魅力を感じるのも理解できた。

 回流丸を救うために、単身海に飛び降りた熊野の姿が思い起こされる。

 ああいった英雄的な行動の繰り返しで、ようやく繋とめられているような戦争は、早々に終わりにしたいに違いない。

 

(本当に、貧乏くじだ)

 

 沖田は、心の中で毒づいた。

 沖田達は単なる輸送会社に過ぎない。それがいつの間にか話が大きくなり、今やこんな妖怪のような老提督の相手をする羽目になっている。

 

「沖田大尉」

 

 赤松は敢えてか、昔の呼び方をした。

 

「割り切りなさい。引き際を誤ると、無用な犠牲が出ますよ」

 

 沖田はため息を吐いた。

 束の間、頭の中にある艦娘の姿が過ぎる。それは他の様々な出来事と一緒に心の中に舞い、やがて澱のように沈殿した。

 

「残念ながら、私の身では海軍を全面的に信用することは難しい」

 

 沖田ははっきりと言った。

 彼は、海軍が嫌いだ。思えば今聞いたような内輪揉めこそ、彼が最も失望した部分である。

 

「ですが、今はあなたの話に賭けるしかないようだ」

 

 沖田は提督を見る。

 

「具体的な話をしましょうか」

 

 沖田の言葉に、赤松は口角を上げた。

 佐世保に本当にヲ級を引き渡すだとすれば、障害がないではない。

 回流丸の扱いや、沖田達に与える対価、回流丸についている設備について、幾つか所有権の移転があった。特に電探類は、リンガで横須賀鎮守府の命令で増設されたものもあり、その辺りは詰めるのに時間がかかりそうだった。

 

「これは?」

 

 作業の最中、沖田がふと手を止めた。

 

「……当面の間、重巡洋艦『熊野』を、補佐に充てる?」

 

 提督が告げた。

 

「適任ですよ」

 

「熊野さんが?」

 

「ええ。言ったでしょう、艦娘は、艤装の魂に指向性を与えると」

 

 提督は続けた。

 

「熊野は、どんなに大破しても、生き延び、帰ってくる生還能力に秀でている。僚艦の生存性も高い。演習でもご覧になったと思いますが、大破してからの粘りが、とにかく秀でているのです」

 

 直観的に違和感を受けた。

 艦娘は、背負った艦の艦暦に影響を受ける。しかし、重巡洋艦『熊野』の艦暦は――。

 

「よい艦娘だ」

 

 言いながらも、提督は嘆息していた

 

「……まぁ、不安材料も、随一の娘ですが」

 

 どこも大変だな、と沖田は海軍時代も含めて初めてこの提督に親近感を覚えた。

 

「ああ、それと」

 

 最後に、提督は思い出したように付け足した。

 

「これをどうぞ」

 

「これは?」

 

「紹介状です」

 

 また怪しげな取引かと思ったが、中身を開けてみると、ごく一般的な病院の紹介状だった。軍の司令で書かれるこうした紹介状は、大体普通のものよりも丁重に扱われる。

 

「あなた方の船員全員に有効なものだ」

 

「健康診断でも受けろと?」

 

「その通り」

 

 提督は大真面目に頷いた。

 

 

     *

 

 

 明石が戻ってきたのは、少し経ってからだった。

 実験棟のヲ級を拘束している部屋の前には、赤松提督が配した兵士が立っている。バシー海峡でヲ級を発見した時に、たまたま司令船に乗っていたという理由だけで、今もヲ級の監視に充てられている哀れな兵士の1人だった。

 明石が近づくと、彼はきびきびと敬礼した。

 

「お疲れ様です」

 

「立哨お疲れ様です。ここ移動しますから――」

 

 明石は、立哨の人数に違和感を感じた。

 

「もう2人は?」

 

「申し訳ありません。交代と、急病で少し外してまして」

 

「……一応、大丈夫だとは思いますけど、そういう時は連絡くださいね? 場所を移すので、あなたも一緒に入ってください」

 

 そう断ってから、明石は兵士と共に入室した。

 熊野はすでに退出しており、部屋にいるのはヲ級と白衣を着た女性技術者だけだ。

 ヲ級は大人しく椅子に座って待っていた。

 ワンピース姿をしているので、足をぶらぶらさせているその姿は、退屈した少女そのものだ。出る前に、念のためにと嵌めておいた手枷だけが、かろうじて彼女が警戒対象であることを告げている。

 

「ヲ級、少し、私たちと来てもらいます」

 

 明石が分厚いドアを閉じると、バタンと大きな音がした。

 ヲ級が目線だけで注意を向ける。兵士が緊張するのが分かった。

 

「あなたの艤装が、何かの電波を探知しているようなの。鎮守府の無線機でも信号を感知してる。あなたも聞いて、意味を確かめてほしい」

 

 明石がそこまで言うと、ヲ級が立ちあがった。

 歩哨と女性研究員が、ほっと安堵の息を吐く。

 

「助かるわ。こちらに」

 

「わかった」

 

 ヲ級が歩み出す。そこで、明石は妙なことに気がついた。

 ヲ級の後ろ、壁にかけられたホワイトボードに、赤いマジックで文字が書かれていた。

 ミミズがのたくったようなひどい字で、書かれている内容は――

 

「『ごめんなさい』?」

 

 音読すると、ずっと部屋にいた研究員の女性が苦笑した。

 彼女も扱いかねているらしい。

 一方、その空母ヲ級は、いつの間にか明石のすぐ傍までやってきていた。色のない、しかし艶やかな唇が、かすれるような声を出した。

 

「ごめん」

 

 鈍い金属音がして、何かが地面に落ちる音がした。見るとヲ級の両手を拘束していた手枷が、引きちぎられ、地面に落ちていた。

 自由になった手で、ヲ級が素早くドアを開ける。僅かな隙間ににゅるりと体を躍り込ませると、あっという間に外に出てしまう。バキン、なんて音も聞こえた。

 

「ちょっと!」

 

 明石と兵士はすぐ追おうとしたが、ドアは外側から物凄い力で閉じられた。

 兵士が素早く反応、なんとかドアを開けようとして、絶句する。

 内側のドアノブがない。

 正確にはついさっきまであったのだが、万力のような握力でねじ切られたらしく、ドアノブがあったと思われる接続部が無残な断面図をさらしていた。楕円形に変形したドアノブが、恨めし気に部屋の隅に転がっている。

 これでは内側から開けられない。

 

「ちょ、ちょっと!? ヲ級!」

 

 明石の叫びも空しく、外からは誰かが走り去っていく音が聞こえるのみだ。

 女性技術者が顔を蒼白にした。

 

「ま、まずいですまずいです。これは、これは……」

 

「ああ、巡察に怒られる……」

 

 うろたえる技術者と兵士。だが、明石の姿を見るや、さらに飛び上がらんばかりに驚いた。

 明石はいつの間にか手に溶接機を握っていた。超高温の炎で艤装に穴をあけたり、部品同士を繋ぎあわせたりするのに使う機械だ。工作艦の標準装備。

 明石は力強く言った。

 

「溶断しましょう。せっかくだから」

 

 溶接機の先端から、真っ青な炎が吹き上がった。

 一度やってみたかったんです、と明石が小声で付け足すのを二人は聞き逃さなかった。

 特殊部隊が分厚いドアを蹴り破るアレのことだ。

 研究員の顔も真っ青だ。

 

「駄目です! こんな分厚い扉、幾らすると思ってるんですか!」

 

「でもでも! ヲ級を追いかけなきゃ!」

 

「落ち着いてください! 今、無線で誰か呼びますから!」

 

 兵士は無線機を取り出した。

 こういう時のために、ヲ級を呼び出したり、異常を知らせたりする時の符丁が決められている。しかし、

 

「……ここ、電波暗室だ」

 

 兵士の言葉に、明石は大仰に頷いた。

 

「さてと」

 

「やめなさい!」

 

 

 そうして押し問答をしている間にも、ワンピース姿のヲ級は、とてとてと軽やかな足取りで研究棟を脱出していくのであった。

 その心の内は、艦娘への好奇心にすっかり支配されていた。なにせ、この地には艦娘が『いっぱいいる』そうなのだ。

 だが、ある時、ふと足を止める。そして空の方を見つめる。何か声を聴いたように。

 

「とん とん とん」

 

 彼女は口ずさむ。だが空耳であったようで、やがて首を傾げると、また歩いていった。

 

 これが、後に百戦錬磨の軍令部の情保部をして、『どうして隠ぺいできたのか、誰か教えてほしい』と頭を抱えさせる、空母ヲ級の脱走劇の始まりとなった。

 

 

 




 艦娘が出てきてからかなり経過している設定ですので、おそらく装備のメーカーとか仕組みとかはある程度固まっているのだと思います。

 地中海から沖田達を護衛した艦娘は、ちょうど春イベで着任したイタリア艦にしようかとも思いましたが、その戦慄の航続距離にあきらめました。
 色々な船があるのですねぇ。

 

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