空母ヲ級運用指南 ~蜃気楼の海~   作:mafork

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【あらすじ】
 演習の勝利により、平和主義の空母ヲ級は保護されることになった。
 つかの間の自由を得た熊野に、いつもの日常が戻ってくる。
 しかしその間にも、周囲の状況は少しずつ動いていた。




3:本土襲撃部隊(上)
3-1.呪われた船


 艦娘達は、海原を駆け抜けていた。

 荒れた波を蹴り破るようにして、主機が体を前に運ぶ。目指す先にあるのは、逃走する敵空母だ。水平線の付近では狼煙のように黒煙が吹き上がり、悪あがきの砲撃の炎が明滅している。

 手を伸ばせば、届きそうな距離だ。

 これを逃すことは、許されない。

 

「各艦、自由射撃」

 

 第7戦隊旗艦、熊野は命令した。よく知る最上型の艦娘達が、水平線の彼方に砲を向ける。

 同型艦の、似通った砲撃音が連鎖した。

 弧を描いて着弾。

 乱立する水柱が、敵空母を檻のように囲い込む。戦隊の砲撃の散布界に、敵を捕らえたのは明らかだった。

 だがその時、敵空母の周囲に煙幕が焚かれた。

 

「増援だよ! 水雷戦隊!」

 

 最上型1番艦『最上』が警告する。

 

「電探に感あり。水中から、もう2隻。浮上したみたいです」

 

 2番艦の三隈も報告した。いつもはおっとりとした少女だが、さすが今は様子が違う。

 熊野は迷い、そして自らの艤装と、仲間たちの力を信じた。

 

「針路を維持! 煙幕を突っ切り、敵空母へ!」

 

「ようそろ」

 

 熊野の後ろで、愉しむような声がした。

 振り返らずとも分かる。緊張した時ほど、こうして彼女は熊野の背中を押してくれるのだ。

 

「突っ走って迷子になんないでよ。すーぐ迷子になるんだから」

 

 鈴谷が言った。最上型の3番艦で、誰よりも付き合いが長い。最も信頼している仲間の一人であった。

 熊野の心に戦意が溢れた。艤装がさらに凄まじい振動と熱を発し、体を前に運ぶ。

 勝算はあった。

 当時、熊野は航空巡洋艦になったばかりだが、一番艦の最上はすでに改造を済ませてからかなり経過していた。2人の水上機は、翔鶴が派遣した戦闘機と共に、傷ついた空母の頭上を支配し、綿密な着弾観測の連携を可能にしている。

 そこに、驕りがあったのか。

 

「敵、煙幕から出ます」

 

 三隈が報告。

 次の瞬間、白い霧を突き破り、見慣れない影が視界に飛び込んで来た。

 黒いセーラー服。細い腕。脚は艤装に隠れて見えない。

 妙に大きな帽子を被り、紫の光が虚ろな目に揺らめいている。

 違和感と同時に、戦慄が全身を駆け抜けた。

 それはもはや戦術などではなく、ただただ動物的な勘だった。空母の追撃戦で水雷戦隊に遭遇するという事実が、なぜだか怖くて怖くて仕方がなかった。

 身をよじって、回避。

 すぐ後ろの水中を、『何か』が駆け抜けていく。

 

「魚雷だ!」

 

 最上の悲鳴に、心が疑問で埋め尽くされた。

 魚雷が残す雷跡など、見えなかったからだ。

 敵の魚雷は、艦娘のものとは違う。一番明確な違いは、その発射速度と、雷跡の有無だ。雷跡を残さない酸素魚雷は、艦娘でしか使用されていないはずだった。

 

「熊野! やばいよ!」

 

 後ろで悲鳴が上がる。

 魚雷戦の機先を制されていた。回避による転舵で艦隊の動きが乱れ、再び雷撃の陣形を整えることができない。

 いや、反撃どころではない。

 戦場で不意を突かれた。

 水上機があっても。仲間が多くいても。時間を戻すことはできない。

 

「わたくしが」

 

 前に出る。

 そう言おうとした矢先、脇からよく知った影が飛び出した。

 それは、すぐ後ろにいた鈴谷だった。

 

「だめだよ、熊野。今は、あんたが旗艦なんだから、さ」

 

 敵水雷戦隊は驚異的な練度で大きな弧を描き、もう一度雷撃を行う。誰を狙っているかは、動きだけですぐに分かる。

 爆発。

 悲鳴は聞こえなかった。

 

「熊野、私は、気にしないで……」

 

 夢はそこで終わった。

 

 

     *

 

 

 苦い思い出、というのは、艦娘になら誰にでもある。

 判断のミス。兵装選択のミス。そして僅かな不運。あまりにも複雑な分岐の先にあるものは、近しい誰かの死や損害だ。

 熊野は目を閉じる。するとずっと意識の奥にあった言葉が蘇った。

 

 熊野、私は気にしないで……。

 

 病室には、朝日が差し込んでいた。

 空調の効いた室内に、柔らかな光が差し込み、白を基調とした内装を照らしている。窓際のベッドに横たわる少女も、安らかな寝息を立てていた。

 きれいな子だな、と熊野は思った。

 長いまつ毛に、白磁のような頬。口元は微かな寝息を立てており、そのリズムに沿って、純白のシーツに覆われた胸が上下していた。

 一緒に海を駆け回った頃を思い出す。

 口を開くと、なかなかに明け透けな態度で、口調も砕けたものなのだが、それでも時折見せる仕草ははっとするほど絵になっていた。

 いつもそこにあったのは、花開く直前の、伸び盛りの美だ。

 だがかつての彼女が、今まさに咲こうとしている花だとすれば、今の彼女は、さしづめ摘み取られた花だろう。

 ベッドの脇に供えられた心電図は、今も稼働し、定期的な電子音を鳴らしている。途切れることはないし、間隔が開くこともない。それは淡々と、彼女が治療中だという事実を告げている。

 彼女の長い髪が目元にかかっていたので、熊野は指先で払ってやった。さらりとした手触りの、綺麗な銀の髪だ。

 

「快方に向かっています」

 

 熊野の隣で、白衣の男性が言った。

 熊野は椅子に座っていて、男性は立っている。熊野の目線の高さから、男性の持つカルテが見えた。

 

 『最上型重巡洋艦 3番艦 鈴谷』

 

 カルテの患者名には、そうあった。鎮守府の病棟では、例え患者であっても艦娘になる前の本名が明かされることはない。

 

「容体も安定しています。呼吸器は三日前に外され、抗生物質の投与もほぼなくなりました。意識がないので点滴は必要ですが、じき通常の食事から栄養を摂取できるでしょう。面会も、本日からご自由にどうぞ」

 

 医師の説明に、熊野は安堵した。

 脳裏に、激しい海戦の様子が思い起こされる。

 航空母艦への追撃戦。

 翔鶴に叩かれた航空母艦を追撃するだけの、容易いはずだった仕事。

 だが、敵水雷戦隊の奮闘で地獄に変わった。熊野は魚雷で中破し、僚艦の鈴谷は沈没寸前の傷を負った。鈴谷は、意識を失う前に、気にしないでと言ってくれたが、そんなわけにはいかない。

 その時の旗艦は、熊野だったのだ。しかも、航空巡洋艦に改造され、彼女より強くなっていたはずの。

 自分が重巡のままであったなら、火力で敵をねじ伏せられたのではないか。あるいは、もっと効果的に兵装を使えていれば、違った未来もあったのではないか。

 そうした後悔が、波のように引いては押し寄せてくる。

 呉に最上と三隈を残している第7戦隊は、2人がMI作戦に組み込まれたのを機に本土での稼働可能艦が旗艦の熊野一隻という異常事態となり、事実上の開店休業状態だった。

 だから、海上護衛という重要だが重巡の仕事でない遠征任務もこなしていたのだ。

 今の熊野の佐世保での立場は、ヲ級のことを差し引いても、果てしなく微妙だ。

 

「朝早くに、ありがとうございます」

 

 思考が暗くなる前に、熊野は医師に礼を言った。

 医師が一礼して部屋を後にする。

 熊野と鈴谷だけが部屋に残されると、よそよそしい電子音だけがかろうじて静寂の発生をせき止めていた。

 

「鈴谷」

 

 熊野は、鈴谷の額を軽く小突いた。

 

「ただいま」

 

 応えは、ない。

 おかえりなさい。

 きっといつかもう一度聞けるようになるはずの、溌剌とした声が耳の奥に再生されただけだ。

 

「……帰ってきた気が、しませんわ」

 

 席を立ち、病室を後にすると、安堵はどろりとした怒りへ変わっていく。

 あの水雷戦隊、今度会っては、ただではおかない。人型をした珍しい駆逐艦――駆逐棲姫と命名された――がいたから、会って見間違えることはないはずだ。

 だが熊野の艤装は、長距離の遠征と、戦闘、演習で酷使をしたため、今は工廠で分解整備を行っている。今日の午前中までは訓練も戦闘もできない予定だった。

 熊野はとりあえず、朝食を摂りに鎮守府の食堂へ向かった。

 戦闘の命は、1が補給、2が情報。

 まずはご飯を食べるのだ。

 

 

     *

 

 

 日     時:8月13日08:35(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:佐世保鎮守府

 

 鎮守府には幾つも食堂がある。駆逐艦、巡洋艦、戦艦、空母の艦娘寮に併設された食堂に加え、技術科や事務方用に庁舎にも食堂が用意されている。

 艦娘は寮の食堂と庁舎の食堂の両方を利用することができたが、朝食だけは寮の食堂で摂る規則になっていた。そのため熊野は、病院棟から寮に戻って、寮食堂ののれんをくぐった。

 軽巡、重巡共用の食堂はそのまま講堂として使えそうな大きさだったが、朝一番の出撃が終わった後だからか、人影は少なくがらんとしている。

 食堂では誰がどこで食べるか、大体決まっているのだが、今の時間であれば特に拘る必要もなさそうだった。隅の方のテレビに近いテーブルへ、トレーを持っていき、朝食を食べ始める。

 今日のメニューはご飯とおみおつけ、そして焼き魚とサラダである。

 熊野はホカホカのご飯を口に運びながら、テレビの音を聞いていた。

 海軍がアリューシャン方面で大戦果を挙げたことを告げていた。誇らしげに報告をする軍令部の映像が延々と流れ、終わるとスタジオでコメントが入る。

 鎮守府にいる熊野にとっては、もう一週間前も前の情報だった。秘密保持もあるが、こうやって情報を小出しにして印象を操作しているという説もある。

 その後、また話題が変わる。アイドルグループの新曲のこと。山から逃げた鹿が住宅街を4時間も走り回ったこと。野球チームの勝敗(熊野の贔屓は勝っていた)。そして半ば定例的な、近隣国との外相会談。

 熊野はご飯を食べながら、次々と内容を切り替えるテレビを見つめた。

 

(いつも通り、か)

 

 熊野は聞こえる内容をそう総括した。

 熊野が沖田達と出会い、空母ヲ級との演習に臨んでから、一週間が経過しようとしていた。その間に沖田達は鎮守府を去り、ヲ級は一時的に身柄を佐世保鎮守府に預けられている。

 扱いは『協力者』であり、無体な扱いではないらしい。

 だが赤松提督が取った対応は、そうした表面的な扱いの程度に留まらない。

 空母ヲ級を鹵獲したことを、横須賀や呉を含めた、鎮守府や泊地に向けて堂々と公表したのである。裏に回っての陰謀合戦を好まない、赤松提督らしい処置と言えた。

 無論、そのヲ級が人語を話したり、世間話ができるぐらいに友好的である、とまでは明かされていない。あくまで作戦行動中に『特殊な』空母ヲ級を鹵獲した、という扱いだが、彼女の存在を前もって把握していた横須賀鎮守府などはすぐに気づくだろう。

 熊野がテレビを気にしているのは、そういう経緯もある。いつ報道機関が佐世保がヲ級を捉えていることを報道しても、おかしくないからだ。

 もっとも、一週間近くその手の話題がないのを見る限り、事態を把握した海軍の上層部が報道を抑制させているのかもしれない。

 

(……一体、あの子はどうなるんでしょう)

 

 演習の勝利を受けて、赤松提督はヲ級の扱いを保留にした。しばらく会っていないが、ついつい心配してしまう。

 考え事をしながら、熊野は湯気の立つお茶を飲む。

 

「まったく、深海棲艦を捕まえるなんて、思い切ったことしますよねぇ」

 

「そうですわね」

 

「さすが赤鬼の異名をとる、赤松提督です。正面突破は大好物と」

 

「まったく、難儀なものですわ」

 

 そこまで応えて、熊野ははたと考えた。

 改めて正面を見る。いつの間にか、青い髪を結い上げた少女が熊野の正面に座っていた。

 

「青葉」

 

「どーも、青葉ですぅ。ご一緒してまぁす」

 

 重巡洋艦『青葉』はそう言って笑うと、割り箸を割った。湯気の立つご飯に海苔を載せながら、

 

「生還おめでとうございます。大変だったみたいですねぇ」

 

 そう言って、熊野の無事を喜んでくれた。

 彼女は熊野とは所属する戦隊が異なるが、同じ重巡洋艦ということでよく共同で任務に出たりしていた。噂好きではあるが、気の良い艦娘である。

 

「さすがの青葉も、今回ばかりは心配してました」

 

 自然と笑みが浮かぶ。

 

「それは、失礼を。お陰様で、いたって健康ですわ。あなたもご無事で何より」

 

 熊野は嫣然と笑った。青葉はポリポリと漬物を噛みながら、鼻から息を吐き出す。

 

「でも、方向音痴の熊野さんだから、また迷子になったかと」

 

 熊野は露骨に嫌な顔をした。

 

「……冗談になってませんわ」

 

「うーん確かに。熊野さん、一度コンビニ行くにも迷った時ありますもんねぇ。いやいや、市内から天測を使って帰ってくるのは、きっと佐世保史上例がないでしょう。都市の灯りで星が見にくいと真顔で言うんですからもう」

 

「む」

 

 恥ずかしい話を出されて、熊野はお茶でむせそうになった。

 上品さを崩さないためになんとか堪えて、

 

「昔の話ですわ」

 

「でも、残念なこともあります。青葉がその場にいれば、今度こそわが身を顧みず熊野さんの曳航を敢行したというのに」

 

 青葉は大げさに悲しんで見せた。思わず苦笑してしまう。

 

「あなたでは、また何か月かかるかわかりませんわ」

 

「あらら。つれない」

 

 青葉と熊野は――これは艦としての史実の話だが――共に大破し、一緒に泊地へ向かったことがあった。その時は先に熊野が航行不能に陥り、重傷の青葉も熊野の曳航を断念した経緯がある。

 このように艦の時に関わりを持った相手とは、艦娘同士も関わりを持つことが多かった。

 艤装に込められた艦の魂がそうさせる、という人もいるが、熊野は単に腐れ縁だと思っている。

 

「輸送船に合流したんですよね? そこで、その輸送船を守るためにまた戦ったとか」

 

 熊野は驚いた。

 回流丸との話は、いつの間にか青葉の耳にも入っていたらしい。軍属になると外界との交流が限定されるので、彼女のように噂話に敏感になる艦娘も多かった。

 

(どこまで話してよいか)

 

 熊野は、提督に敷かれた緘口令の範囲を思い出す。

 空母ヲ級のことは公表されたが、回流丸との関係性は明らかになっていない。勿論察しがいいものは気づくだろうが、公にされたわけではない。

 熊野は、回流丸で戦闘は極力話すべきではないと結論付けた。

 

「ええ。小規模な戦闘でしたけど」

 

「さすがですねぇ」

 

「そう褒められたものでもありませんわ。その前の遠征での、ミスが直接の原因ですし」

 

 熊野が回流丸に救助されたのは、直前に行っていた海上護衛任務で、負傷し、漂流していたからだ。

 

「……で、その輸送船なんですけどね」

 

 青葉は焼き魚を突きながら、何でもないことのように言った。

 

「その会社の人、元鎮守府の人なんですって」

 

 熊野は箸を持ち掛けた手を一瞬止め、結局また持ち直した。興味なさそうに漬物をご飯に乗せながら、

 

「そうなのですか」

 

「沖田元大尉。暗号通信関連の後方支援部署の後、兵站課燃料部、そのうち海上護衛の部署へ」

 

 ご飯を口に運ぶ。漬物の歯ごたえと温かいご飯の組み合わせは、質素ながら絶品である。

 『お嬢様という割には味覚が侘しいよね』、とは鈴谷の言である。実際美味しいのだから仕方がない。

 

「演習では、あまりに勝ちに汚いので苦情があったとか。それでも満期除隊して、お父上の会社に戻るまで、兵站、用兵両面で優秀な方だったそうですよ。予備士官で戻ってきて、船団の指揮もやったみたいですねぇ」

 

 熊野はちょっと興味を惹かれた。

 兵站課から、輸送会社へ。言われてみれば、納得の経歴である。

 

「そういえばですねぇ」

 

 青葉は相変わらず熊野の方を見ずに、魚の解体に勤しんでいる。だがその後ろに、好奇心の炎がメラメラと燃えているのが見えた。

 

「少し前、演習があったそうで……」

 

 熊野は身を固くした。危うく飲み込んだ米がつっかえそうになる。

 あのヲ級の賢さや穏やかさを示すことになるので、空母ヲ級が演習をしたことも勿論秘密である。翔鶴や川内を始め、あの演習に参加した者には緘口令が敷かれている。

 

「熊野さん、出てましたよね? 丁度その輸送船がいた頃で、空母ヲ級が鹵獲されたころと同じくらい」

 

「さ、さぁ?」

 

「あの輸送船も同じころいなくなってるんですけどぉ」

 

「漁にでも行ったのでは?」

 

 クラゲを捕りに。

 青葉はじっと熊野を見つめる。熊野は内心を悟られないよう、お茶を飲む。

 しばらくの沈黙を、テレビの音が満たした。キャスターの呑気な笑い声。

 

「……とまぁ、こんなに大っぴらに訊いても、仕方がないですね。失礼しました」

 

 青葉はそう言って、漬物を口に入れた。

 

「何かあったとしても、お話できるはずもないですし」

 

 熊野は、青葉の好奇心の強さが心配になった。

 

「……青葉。あまり噂の種を作るのも感心しませんわよ?」

 

「そうですねぇ。巷では、青葉のコラムはねつ造だと言われているそうで」

 

 青葉は人差し指を顎に当て、大げさに顔をしかめて見せた。

 熊野は苦笑を返す。

 彼女は僚艦の古鷹に、『青葉のはファンタジーだから……』と半ば伝説的なフォローをされたことがある。その古鷹も、今はMI作戦で不在であるのだが。

 青葉は神妙になって、朝ごはんを補給する作業に集中した。それで一旦話題が途切れ、無言で食べる時間が続く。

 

「あの輸送会社に、何かありますの?」

 

 熊野はなんとはなしに訊いた。

 正直なところ、興味もある。

 

「熊野さんは、佐世保へ来てどれくらいでしたっけ?」

 

「まだ、1年ですけれど」

 

「そうですか。じゃあご存じないでしょうけど」

 

 青葉は、佐世保鎮守府が関わるある事故の話をした。当時は呉にいた熊野も、聞いたことがある話だった。

 

「……なるほど」

 

「よくある話ですよ」

 

 青葉はそう言って笑った。どこか影のある微苦笑だった。

 その意味を問おうとした時、

 

「あれ、珍しい組み合わせ」

 

 そんな台詞と共に、新しい顔がテーブルに現れた。

 現秘書艦の川内である。彼女も朝食にトレーを載せて、これから食事を始めるようだ。

 熊野は壁の時計をちらりと見て、時刻を確認する。

 

「提督はもう執務でしょう? 秘書艦がここにいて大丈夫なんですの?」

 

「うん、昨日夜戦演習があってさー。今戻ってきたとこなんだけど、朝ご飯だけでも食べて来いって」

 

 そう言って、一しきり川内は夜戦の武勇伝について花を咲かせた。

 熊野と青葉は顔を見合わせる。なんでこの子は徹夜明けの方が肌がツヤツヤしているんだろう。

 

「あ、そうそう」

 

 探照灯で敵の戦闘機を撃墜する新戦術に話が及んだ時、川内はふと思い出した。

 

「熊野、提督が呼んでたよ。9時≪マルキュウマルマル≫に提督室だって」

 

「優先順位!」

 

 びっくりして熊野はご飯を切り上げなければならなかった。

 

 

     *

 

 

 日     時:8月13日9:00(明石標準時刻)

 作 戦 領 域:佐世保鎮守府 工廠地下3F

 コンディション: ―

 

 

 25メートルプールほどの、水たまりがあった。

 その上にはクレーンのアームが伸び、ワイヤーを水中に垂らしている。巨大な竿で釣りをしているようにも見えた。

 天井は高く、壁は広い空間だ。据え付けられた無数のライトが、水面を白々と照らしている。

 

「いいですよー」

 

 女性の声が響いた。

 僅かに軋むような音を立ててから、クレーンがゆっくりと巻き上げられる。

 よほどワイヤーが長いらしい。たっぷり時間をかけて水中から何かが引き上げられる。

 上がって来たのは、色の白い少女だった。クラゲを模した帽子を被り、グレーのスーツを体に張り付かせている。水揚げされた魚のように、帽子や服の表面はぬるぬると光っていた。

 さらによくよく見れば、体のあちこちに梵字のような文字が書かれた札が貼られていた。

 

(差し押さえみたいだなぁ)

 

 吊られたヲ級を見ながら、プールサイドで沖田はぼんやりと思った。

 ヲ級が佐世保鎮守府に拘束されてから一週間近くが経過している。提督に呼び出されたついでに、様子を見に来る許可はすでに取ってあった。

 彼の横では、鎮守府の制服を着た女性が、クリップボードを片手に唸っている。

 

「艤装に浸水なし。水圧による変形なし。……うわ、潜航時に動力が電動化!? 潜水艦並ですねぇ」

 

 言って、女性は手に持った書類に書き込んでいく。桜色の髪の下で、大きな目が興味深そうに瞬いていた。

 

「明石さん」

 

 沖田は女性を呼び止めた。

 女性――工作艦『明石』が、書類から顔を上げる。

 

「何です?」

 

「ウチのクラゲで何を釣るつもりですか?」

 

「失礼ですね。立派な潜水能力の実験ですよ」

 

「潜水――」

 

 沖田は首をひねった。明石が手を振って笑う。

 

「勿論、普通の艦娘はやらないです。でも、深海棲艦は海に潜れるみたいですから、こういう実験こそ重要です」

 

 言いながら、明石は沖田を水槽から離れたプレハブに案内し、そこで椅子を勧めた。彼女もパイプ椅子を持ってきて座る。

 2人が向き合うと、彼女は問診をする外科医のように、慣れた手つきで書類の順番を入れ替えた。

 

「これからの質問も、その一環ですよ。お忙しいところお呼びしちゃってごめんなさい」

 

「いえいえ。御用もあって来ました」

 

 そう言って、沖田は持ってきたケースを開けて、中から小さな箱を取り出した。

 箱を開けて明石に見せると、彼女は目を丸くして驚いた。

 

「艦娘用工作機械! 海外製じゃないですか!」

 

「帰りがけに、こういう荷物も積んできたのです。鎮守府の工廠にも紹介しようと思っていたのですが、ご入り用なら佐世保にも卸しますよ」

 

「ていうか個人的に欲しいです! 今買います!」

 

「あ、いや税関通さないと脱税になっちゃうので……。一応鎮守府へ卸してる商社にも話を通さないと」

 

 あまりの剣幕に、沖田は気圧された。

 明石は残念そうに唇を突き出す。

 

「そうですかぁ」

 

「申し訳ない。でも、よかったですよ。淡々と工廠に卸されるよりは、美人に買われる方が物も幸せでしょう」

 

「はは、またまた~」

 

 明石はからからと笑う。工作艦という艦種なだけあって、職人肌で、からりとした気質の少女だった。

 本来はトラックやリンガといった遠方の泊地に所属し、艤装の修理や本人の治療を担当する艦娘なのだが、今は本土に籍を置いていた。沖田が収集した噂によれば、彼女一人に工作艦としてのノウハウが集積している現状に、上層部が危機感を覚え、一時的に竣工場所である佐世保に転籍させたらしい。

 

(エースパイロットや熟練艦長が、内勤になるみたいなものかな)

 

 思いながら、沖田も頬を緩める。

 海軍は嫌いだったが、そこで働く一人一人に恨みをぶつけるほど、沖田も愚かではない。

 ある意味の分裂であったが、立場という仮面を被るのは、どこの誰でもそうだろう。

 

「それで、お話というのは?」

 

「ああそうでした」

 

 明石がはっと我に帰る。思わず苦笑してしまう。

 だが仕事はしっかりする人だということを、沖田はすでに知っていた。

 

「ざっとですが、能力の照合結果が出ました」

 

 明石は耳元の髪をかき上げ、書類に目を落とす。細く長い指と、文字を追う眼差しは、高度な専門性を感じさせた。

 

「全体的な構造、機能から、彼女は空母ヲ級の『Normalタイプ』であると判定します」

 

 深海棲艦は、同種でもNormal、Elite、そしてFlagshipに分けられている。後者の方が明らかに強力で、特にFlagshipは全く別の艦種と言えるほどの強化が為されるのが常だった。

 見分け方は簡単で、Normalタイプは目が青く、Eliteは赤、そしてFlagshipは金である。

 

「特に言葉を話すところで意見が割れてたんですが、深海棲艦の中にも話す個体はいるので、沖田さん達が教育したというのであれば、個体差の範疇に収まるのだと思います」

 

 深海棲艦の『賢さ』というのは、個体の間でかなりばらつきがある。動物並のものから人間を遥かに上回るものまで、幅が広い。

 犬のように突撃してくる個体もいれば、人類側の暗号を解読して待ち伏せをするような個体もいる。

 これは深海棲艦の生態に由来するものとされ、海域を支配する個体や艦隊ごとの旗艦といった明確な『頭』によって指揮されるため、『頭』以外には思考能力が必要ないのだ。逆に言えば、深海棲艦の戦略とはそれを指揮する泊地なり艦隊なりの長に左右されると言える。

 明石は沖田に対し、そんな話をした。

 

「経歴見ました。まぁ、ご存知ですよね」

 

 言いながら、明石は沖田にも書類を渡した。

 様々なグラフと専門用語が並び、理解できないところの方が正直に言えば多かった。目が滑る。

 だが、明らかに目を引く箇所があった。

 一部の項目に、「Flagship級」の文字がある。

 

「ただし」

 

 明石は指を1本立て、ズイっと沖田の顔に近づけた。

 

「そこにある通りです。艤装を確認したところ、艦載機の搭載数や、一部の装甲部位に、Normalタイプには見られない強化がありました。具体的には、魚雷対策の喫水下のバルジや、搭載数そのものの拡張なのですが……」

 

 明石は、念を押すように言った。

 

「これはFlagshipに見られる特徴です。念のためお聞きしますが、仲間にしてから、改造した覚えはありますか?」

 

 沖田は首を振った。

 明石がボールペンを所在無げにノックする。

 

「ところで……艤装の帽子や、杖の保存はどうしていたんですか?」

 

「冷凍保存です。必要な時はケースから出して、ヲ級本人に起こさせます」

 

「れ、冷凍保存……」

 

 明石は口元を引くつかせた。

 

「れ、冷凍食品みたいですねぇ」

 

「実際そんな感じですよ」

 

「ていうか、あの帽子って冬眠するんです?」

 

「さぁ……でも、寒いと活動が弱まるみたいなので、安全のために。機材はあいつを拾った国が、全て調達してくれました」

 

 明石はクリップボードの書類に何事かメモをした。

 

「他に、安全のために行っていることはありますか?」

 

 沖田はちょっと考えた。窓から見える、吊るされたヲ級の姿を見やる。首筋まで覆うスーツの上から、白い首輪が巻き付いていた。

 

「今は、特には」

 

「信頼していたんですね」

 

 深海棲艦を。

 

 明石の表情は変わらなかったが、沖田はそう付け足された気がした。正直なところ、弁解の余地はなかった。

 

「改めて言われると、そうですよねぇ」

 

「無害そうなのは、分かりますけど……」

 

 明石はページをめくった。

 沖田も続く。

 空母ヲ級に対する聞き取り調査の結果が載っていた。善は急げということで、演習が終わった夜にかけて、佐世保の技術者が聞き取りを行ったのだ。

 彼らは別に深海棲艦の専門家というわけではないが、爆弾や航空魚雷、そして発着艦の仕組みについて技術的な興味があったらしい。深海棲艦が使う強度の高い暗号通信や、艦載機との緊密なネットワークを構築している無線技術など、高度な内容の質問もあったが、調査報告書には、ヲ級が明確な回答をした痕跡はなかった。

 明石が顎に指を当てながら、話を戻した。

 

「では、やっぱり航海の最中にFlagship級に変わるような扱いは、なかったんですね。とすれば、考えられるのは、逆のパターン、です」

 

「逆?」

 

「はい。当初はFlagship級であったが、何らかの理由で現在はNormalタイプに落ち着いている……とか?」

 

 沖田は頷きを返した。

「我々の実感も、その方が近い。艦載機の発着艦も昔はもっとスムーズでした」

 

「うーん。てことはですよ?」

 

 明石は指を一つ立てた。

 

「あなた方といる内に、少しずつ弱体化した?」

 

 沖田は目を瞬かせた。

 弱体化。

 ヲ級は怪我や艦載機の補給も、経口でアルミや鋼材を摂取するだけで済んでしまうので、機械的なコンディションというのには気を遣いようがなかった。

 一円玉をポリポリやっていれば、いつの間にか傷や艦載機が元通りになっている。

 しかし言われてみれば、じわじわと弱体化している、と言われればその通りだった。

 艦載機のスムーズな発着艦。自身の艦載機の管制。

 あの空母ヲ級に苦手なことは多い。だが長い付き合いの中で、どんどん下手になっていっている、という感覚があるのも事実だった。

 

「弱体化」

 

 沖田は繰り返した。不吉な単語だった。

 戦うたびに、彼女の何かがすり減っているのだとしたら。深海棲艦は、艦娘のようにはいかないのかもしれない。

 嫌な気持ちを祓うように、資料の先のページを捲る。

 白黒の写真付きのページが目に留まった。

 船の写真だ。鳥瞰図で見ると、キュウリを上下に切ったような、細長いシルエットをしていた。甲板は均された地面のように平らかで、中央右舷に艦橋と煙突が寄せ集められたように屹立している。

 回流丸のようなコンテナ船ではなく、かといって砲を満載した戦艦でもない。別のある目的のためだけに収斂された機能美だ。

 

(航空母艦?)

 

 そうとしか思えなかった。

 木製の甲板であるあたり、かなりの旧式といえるだろう。

 写真の下に艦の名前と、大まかな艦暦が載っていた。

 この国のものではない艦だ。アルファベット表記なので、すぐに正確な艦名が出てこない。

 ページを捲ると、また別の艦の写真が出てくる。こっちはすぐに読めた。

 

 航空母艦『天城』。

 竣工年月、第1航空戦隊、除籍年月。

 

 眉をひそめる。次のページも同様に、航空母艦の写真と艦暦が載っていた。

 空母『雲龍』、竣工年月――。

 

「気になりますよね?」

 

 明石が言った。

 

「そこにあるのは、世界の海軍で、まだ着任――つまり艦娘として活動していない艦です」

 

「これが……何か?」

 

 明石は少し間を置いてから、言った。

 

「それを説明するためには、深海棲艦に艦娘と同じく、旧い軍艦の魂が宿る場合がある、ということを説明しなければなりません。本来、艦娘に宿るべきものが、深海棲艦に宿る。

 降りる場所を間違える、つまり『降りそこなった』艦です」

 

 沖田は眉をひそめた。

 正直なところ、沖田は海軍にいた頃から、こうした艦娘にまつわるオカルト的な話が苦手だった。

 沖田にとって艦娘とは、艤装という一種のパワードスーツを着込んだ兵士であり、物理法則だけでは説明のできない頑強さと火力を持っていても、その運用はごく現実的な規則と戦略に基づいていたからだ。この認識は、ほどんどの海軍軍人で同じだろうと思う。

 

「魂?」

 

「はい」

 

「降りそこなう?」

 

「ええ」

 

 沖田はページを捲る。

 明石は苦笑した。

 

「信じてないでしょう」

 

「まぁ、正直。理解できない、という方が正しいかもしれませんが」

 

「そうですねぇ」

 

 明石は遠い目をした。

 

「沖田さん、兄弟っています?」

 

 沖田は少し考えて、言った。

 

「いません」

 

「そうですか」

 

 これは私がよく説明するときに使う言葉なんですが、と明石は前置きして、言った。

 

「艦娘になると、なんとなく、自分の新しい家族ができたような感じになるんですよ。ずっと前から知っていた兄や姉のように、旧い艦のことを感じることができるというか。時にはその記憶や、技術さえ引っ張ってくることができるほどに」

 

「艦娘にだけ、その魂とやらは感じることができる?」

 

「ええ。その魂が、深海棲艦に宿る場合があるんです。しかもそうなった深海棲艦は、特殊で、強力なものが多い」

 

 沖田は話の展開を察した。横目で吊られているヲ級を見やる。

 

「あいつには、何かの魂が入っている?」

 

「可能性の話ですよ。これ以上のことは、提督の口からご説明されると思いますが」

 

 つまり明石には、ここまでの説明をする権限しか与えられていないということだろう。

 沖田は心の底に疑問を沈殿させたまま、ページを捲る。

 沖田に、ヲ級が持つ魂とやらを特定するような心当たりはない。

 この仮説が正しいかどうかは、もはやヲ級本人に思い出してもらうより他ないだろう。

 艦娘に妙に興味を持っていた彼女だったが、自分の内に艦娘と同じものがあると聞かされたら、あいつはどんな顔をするだろう。

 

(あいつの、中身か)

 

 便宜的な『ヲ級』という呼称でもなく、船員が付けた『ヲー』とか『クー』とかいう呼び名でもなく、ちゃんと名乗るべき名を持っている可能性だけは胸に留めておくことにした。

 艦娘が、背負った艦の名前を名乗るように。

 

「海外が多いですね」

 

 ページを捲っている間に、ふと気づいた。いつの間にか漢字表記は消え去り、アルファベットばかりが並んでいた。

 

「下手なんですよ」

 

「何が?」

 

「艤装の制作が。自動化、マニュアル化の弊害ですね。艦の記憶というのは、要するに個性の塊みたいなものですから。個性を、いかに機械という仕様の中に落とし込むか。この辺の微妙な調整は、一品料理的で、私たちが得意とするところ。マニュアル化は不可能です」

 

 明石は胸を張る。

 こういう仕草は本当に年相応の少女だ。

 沖田はページを捲り続けるが、あまりの未着任艦の多さに、段々嫌になって来た。パターンとしては、ある型の1番艦が未着任だと、その艦種の全てが未着任になる傾向にあるらしい。

 空母を量産していた大国などは、ひどい有様だった。

 

「……まさか、この海のどこかに、あいつの同型艦がまだいたりするんですかね」

 

「どうでしょう」

 

 明石は肩をすくめた。

 

「そちらの可能性も、ありますよ」

 

「あるんですか……」

 

「ええ」

 

「しかも、魂入りは強いと」

 

 明石は苦笑した。

 思い当たることが多すぎるのだろう、自嘲的で、どこか謎めいた笑いだった。

 

「もちろん、艦の記憶から引き出せる力には、個人差はありますよ。艦娘と同じですね」

 

 

 

     *

 

 

 日     時:8月13日10:25(現地時刻)

         8月13日20:25(協定世界時 明石標準時刻-10H)

 作 戦 領 域:東シナ海 琉球諸島 西方

 コンディション:風南7、積雲1、視程無制限、海上高波

 

 

 琉球諸島と台湾の中間の地に、その島はあった。

 上空から見ると、アーモンドのような形をしている。

 火山性のごつごつとした島で、水源はない。かつて人が定住していた頃もあったが、無人島になってからすでに一世紀近くが経過しようとしている。

 草木は生い茂り、無数のアホウドリ達が近海の魚を求めて島の周囲を旋回していた。

 きらり、とその空で輝きを放つものがあった。

 鳥のように見えるが、羽ばたきはない。その翼は胴体から一直線に伸び、左右にバンクするたびに金属質な煌めきの線を空に曳いていた。

 緑色に塗られたその航空機は、『彩雲』という。高速を誇る偵察機で、空母『瑞鶴』が発艦したものだ。

 バシー海峡での深海棲艦襲撃を受けて、遠く離れた泊地から、この地へも哨戒に来ていた。

 

 彩雲は操縦者の妖精が島を観測するたび、背面飛行をしたり、大きくバンクしたりと忙しない。島には木が生い茂っており、また切り立った崖が存在するため、どうしても一方向だけ見ていると死角ができてしまうのだ。

 しかし、やがて彩雲は哨戒もそこそこに切り上げて、大空へと去っていく。

 アホウドリの群れが、侵入者がいなくなったことを喜ぶように空へ戻って来た。

 元から政治的な理由で、各国の主張が入り乱れていた島だ。深海棲艦の登場がなければ、いずれは深刻な係争に発展したのは疑いようもない。海軍力の象徴である艦船、まして艦娘がその島の周辺をうろつくことは、一度棚上げされた問題の再燃になるとして、外交上暗黙的に避けられていることだった。

 恐らく偵察機にしてみれば、そんなところを延々と飛び回ることを避けざるをえないのだろう。ひょっとしたら、当初は哨戒予定地域にすら入っていなかったのかもしれない。

 深海棲艦が出現して以降、この島に人がはいったことはほとんどない。海軍力の傘がないところには、漁師でさえ近寄らない。せいぜい小型の軍艦が、申し訳程度に島の近況を遠目から観察する程度だ。

 だからこの島は無害だ。今も昔も。誰もがそう思っている。

 

 ちゃぷり。

 

 彩雲が去ったのを確認するように、波の間から潜望鏡が覗いた。

 それを合図とするように、海中から水面近くに、複数の影が浮上した。

 その中に、黒いセーラー服を着た、青い肌の少女がいる。周辺には鯱のような深海棲駆逐艦を従え、虚ろな目で航空機が去った空を見ていた。

 そしてその後ろで、また一人浮き上がる。

 彼女は体に張り付くようなグレーのスーツを着て、クラゲのような帽子を被っていた。帽子と、少女の目には、金色の光が揺蕩うように揺らめいていた。

 笑い声が聞こえた。

 海の底の、最も昏い部分から聞こえてくるような、怖気が走る笑いだ。

 アホウドリが驚き、一斉に空へと飛び立っていく。

 

 

     *

 

 

「わたくしが!?」

 

 提督室に呼ばれた熊野は、思わず吃驚してしまった。

 赤松提督は、執務机で筆を執りながら、淡々と告げる。その横では、休眠状態の第7戦隊の、便宜上の司令官となっている軍人が、緊張した面持ちで屹立していた。

 

「そうだ」

 

「り、理由を」

 

「3つある。1つ、貴官は現状『旗艦』でありながら、戦隊を持たない余剰戦力である。2つ、すでに今回の対象との連携の経験がある。3つ」

 

 提督はそこで言葉を切った。

 提督室の中に、どこかで試射をしたらしい連装砲の音が響いてくる。

 

「対象も、重巡熊野を希望している」

 

 熊野は言葉を失った。反論なしと受け取ったのか、提督は通告した。

 元より提督の『命令』に、艦娘が逆らえる道理はないのだが。

 

「最上型重巡洋艦『熊野』。貴官に特命を任ずる。佐世保鎮守府が拘束する空母ヲ級に関し、その演習、質問に随行することを当面の任務とする」

 

 ヲ級に関して、実際の性能面を調査しようとすれば、当然海に出ることになる。その際には海域の哨戒をしたり、性能の諸元を観測する艦娘が不可欠となる。

 その役目を熊野に任ぜようというのだ。

 だがそれは、前線から外すということと同義だった。

 

「わたくしは、前線に……!」

 

 頭に鈴谷の顔が過ぎる。

 彼女をああした人型の駆逐艦に、一矢報いたいという気持ちが心中で燃えていた。

 

「まだ、頭が冷えていないようだな」

 

 赤松提督は厳然としていた。机に構える痩身の影が、大きな壁のように見える。

 

「遠征での単身の突出。先週の演習での判断。過去を引きずっているように見えるが、どうか」

 

 そう言われては、熊野は言葉を飲み込むより他になかった。言いかけた思いが棒のように喉につかえた気持ちだ。

 

「悔いか」

 

「……」

 

「復讐か」

 

「それは」

 

「いずれにせよ、それは艦娘の心を蝕む。よほどの事態がない限り、今のお前を前線には出せん」

 

 第7戦隊の司令官が、敬礼する。すでに話は固まっているらしい。

 艦娘だけでも作戦行動は可能だが、戦場での情報整理や物資払出等の事務作業、その他慣例的な理由でこの軍人のような司令官が戦隊や駆逐隊毎に置かれるのが常だった。

 すでに根回しは完了している、ということだろう。

 

「……了解、いたしました」

 

 熊野は全ての気持ちを押し殺し、敬礼をする。部屋を後にした。

 その後の、静かになった部屋の中。

 赤松提督が少し疲れたような顔をして、深く息を吐き出していた。

 

「相変わらず、才能も不安材料も、随一だな」

 

 

 

 




熊野が主人公ということで、鈴熊期待されてた方、ごめんなさい。



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