1-1.たいせんしょうかい
日 時:8月2日13:14(南西諸島海域 現地時刻)
作 戦 領 域:南西諸島海域 I島沖80海里地点
コンディション:風南東5、積雲1、視程97、海上凪
水平線が、海と空を上下に切り分けていた。
僅かに雲が残る以外は、空の青さはどこまでも続き、澄み切った大気は果てしない見晴らしを約束してくれていた。
そのまま風防越しに海面へ視線を落とせば、こちらも航跡一つなく、波立つ海面が彼方まで伸びている。500メートルの上空から見ると、うねりが規則正しく並んだその光景は、青い砂丘が続いているかのようだった。
≪調子はどうだね?≫
取り付けられた無線機が、ノイズと共に男性の声を出した。
回答はすぐには得られず、しばらくプロペラエンジンのカタカタという金属音が、風防の中を満たした。
「もんだいない」
答えたのは、低いが、どこかたどたどしさの残る女性の声だった。
「はじめる」
≪そうしてくれ。対潜哨戒だ、洋上の
うん、と女性は声を出した。
操縦桿を倒し、ペダルを操作。機体を右に傾けて洋上を見ながら、ゆっくりと降下していく。レシプロ機の簡素なコクピットに、真南に差し掛かった太陽の光が差し込んだ。
実際の飛行機に乗り慣れた者なら、この時に微かな違和感を感じるかもしれない。外に見える太陽が、大きすぎるのだ。高空で見る太陽は巨大に感じるのか、それともこの飛行機が小さいのか、どちらかであろう。
ゴーグルの下で、女性の大きな目が細められる。呟く唇は、ひどく白い。
「あつく なりそう」
≪そうだろうね。しかし冷たい上空にいては、対潜哨戒はできない≫
対潜哨戒。敵の潜水艦を探すことだ。
潜水艦といえば常に潜っているイメージだが、実際には潜航時間、速度は限られているため、洋上を航行している割合も高い。飛行機から探すことは可能だ。
しかし、彼女たちが探しているのは、特に人間大の『特殊な』潜水艦だ。それを探すためには、高度を落として、海面をよく観察する必要がある。
≪しかし、そうかそうか。君は暑さが苦手だったね≫
女性が注意深く海面に視線を走らせている間、ノイズと共にもう一度男の声がした。
≪だとすると、今度行く国は厳しいなぁ。あそこは気温もそうだが、とにかく蒸し暑いんだ≫
女性は応答せず、そのまま次の言葉を待った。男性は世間話が好きで、女性は聞き流すことに慣れているようだ。
≪まぁ君が行きたがる理由は、聞かないけどさ≫
女性は答えなかった。手足のように飛行機を操り、海面の見張りを続ける。
その顔には、無表情がずっと面のように張り付いていた。
「しゃちょー」
先に沈黙を破ったのは、女性の方だった。
≪どうした?≫
「うみに とりがいる」
≪鳥?≫
「うん すごいかず」
≪鳥山ができてるってことか?≫
女性の沈黙は、肯定を意味していた。
漂流物があると、そこに海鳥が集まることがある。
≪念のため、確認しろ。潜水艦に、鳥が集まったなんて話は聞いたことないけど≫
「わかった」
ペダルを操作し、機体を左にバンクさせた。エンジンの回転数を上げながら、時速400キロ以上で標的に接近する。
敵なら、そのまま撃沈すればいい。
あくまでも、敵なら、だが。
波が機体のすぐ下まで感じるほど高度を下げたとき、女性の顔がかすかにこわばった。
「しゃちょう」
≪どうした≫
「ひとだ」
≪……なんだって?≫
漂流物の上を通り過ぎると、鳥山がぱっと散った。
見間違いではなかった。
女性の目は、あおむけのまま流されている人型を、一瞬だが捉えていた。同時に、その腕や足に取り付けられた、鉄の箱のようなものも。
水面に広がった豊かな髪は、その人物が女性であることを示唆していた。
≪そりゃ、君……≫
その特徴を報告した女性に、無線機の向こうの男性は、驚き、しばらく置いてから、とても困ったような声を発した。
≪まさか、艦娘ってやつじゃないの?≫
*
艦娘。
かつて沈んだ船の名を襲名し、洋上で戦う力を得た女性達である。
本来の名を捨て、艦名を名乗ることで、軍艦の記憶と、力をその身に宿している。製法不明、門外不出のその技術が、今の海を鎮守する原動力だった。
サイズに対する打撃力、頑強さ、速力は他のどの兵器にもないものだ。そしてそれは、同様の特性を持つ人類の天敵と渡り合うに、彼女らが不可欠であることを意味している。
その天敵は、名を『深海棲艦』という。
いつ現れたのか。知能はあるのか。何が目的なのか。人類の様々な問いに、連中は砲火の一手で応え続けた。
深海棲艦は、艦娘でないと歯が立たない。
深海棲艦は、ミサイルや爆弾で一時的に傷つけることはできるが、殺すことはできない。艦娘の攻撃だけが、深海棲艦を滅ぼすことができる。
光と闇。陰と陽。コインの表と裏。
例えは色々とあるが、その本質は変わらない。
海底から見出された、2つの異なる力。
海の底から湧いて出る怨念を沈め、鎮めるために、人類はかつての戦争で同じ場所に送り込んだ船の魂を、今を生きる少女に宿らせたのだ。
≪かんむす……≫
無線機のスピーカーが、女性の声を発した。声の背後からは、羽音のような、飛行機のプロペラの音がする。
≪かん、むす、か≫
一語一語、まるで文法的な誤りがないか確かめるような言い方だった。
そのぎこちない声が、ボイラーの振動音と、窓から聞こえる波の音に溶けて、消える。
熟考するような間の後、男性の声が応えた。
「そうだ。漂流しているということは、救難信号を出しているか、意識があれば無線の通信に応じるかもしれない。何か、話しかけてみたまえ」
無線機から、りょうかい、という短い応答が来た。
さてどうなるか、と男性が息を吐く。窓からの光に照らされる顔は、まだ若く、細い目は常に笑っているような印象を与えた。人の良さそうな笑顔と取るか、軽薄そうな笑顔と取るかで意見が分かれそうな表情だ。
藍のスーツのポケットからハンカチを取り出して、額の汗を拭っている。
蒸し暑い中でもジャケットを脱がないのが、彼のこだわりなのだろう。
「社長、大丈夫でしょうか」
後ろから、彼を社長と呼ぶ声がした。
「さぁ……。彼女の会話力で、ちゃんと通じればいいけれど」
「そうではなく」
神経質そうに続けるのは、社長と呼ばれた男性の後ろで、壁にもたれていた女性だった。
黒髪をベリーショートに刈り込み、顔立ちは端正だったが、化粧気はない。着ている白いツナギは、気温のためか腕がまくられ、鍛えられた腕の肉が見えていた。
「この海域に艦娘が漂流しているということは、何かしらの戦闘があったということでは?」
「ああ、そうですね。ハナさんのいう通り、可能性は高いでしょう」
社長が肯定すると、部屋全体の視線が彼の方に向いた。
社長と妙齢の女性、ハナの他に、部屋には20名ほどの男たちがいた。彼らも一様に船内作業用の白いツナギを着ている。内一人は船長帽をかぶっており、口の周りの白髭をさすりながら、目を細めて社長の方を見ていた。
≪おうとう あり≫
無線機の声に、全員が聞き耳を立てる。
社長が促した。
「でかした。なんて言ってる?」
≪……わかんない≫
「はぁ?」
≪むにゃむにゃ いってる≫
「広域帯受信機。こっちでも拾えるかもしれん」
誰かの指示で、別の無線装置が操作される。近距離用の超短波無線だ。
ほどなくして、弱弱しい女性の声が、粗いノイズと共に部屋に聞こえ出した。
≪う……ん……≫
「声かけて」
≪なまえ は?≫
その質問にも、応えはない。女性の言葉通り、無線の相手はむにゃむにゃと寝言と呻きの中間のような声を出し続けている。
社長はため息を吐いて、言った。
「まぁいいや。君、でかした。不謹慎だが、ちょっとした手土産ができそうだ」
≪わたしは どうする?≫
「そのまま艦載機は上空で待機、哨戒を続けてくれ。間違っても、その艦載機も、君自身の姿もこれ以上は見られないように。君について質問されたとき、とても面倒なことになる。彼女の回収は、我々が直接行うよ」
船長帽をかぶった、白髭の男から指示が飛んだ。大きな腹を揺らして叫ぶ。
「面舵! 針路65度!」
「面舵、針路65度、ようそろ」
操舵手が復唱する。部屋に供えられた操舵輪が周り、窓から見える海と空の模様が、ゆっくりと右へ流れていく。
彼らの乗った船が、針路を変えていくのだ。
「海軍か……」
社長は、吐き捨てるように呟いた。
*
『故郷に、帰りたかった』
まどろみの中で、そんな思いを感じ取った。
なぜか時制は過去形で、悔いと諦観の色があった。
微かに目を開ける。熱と涙で歪んだ視界の中で、不鮮明な映像がゆらゆらと揺れながらも、ゆっくりと立ち上がっていく。
船の上からみる景色だった。熱で揺らめく海の景色に、壊れてひしゃげた砲塔、穴だらけの甲板。その上を走る男たちの影。
空では無数の飛行機が、獲物にたかる鳥のように、船の周りを旋回している。
彼女はその続きに興味が沸かなかった。
思えば、何回も見た光景で、その船がやがて沈んでしまうことを知っているからだ。
船の名前は――そう、『熊野』といっただろうか。
彼女の名前でもある。
この段階で、彼女は気がついた。
これは、夢だ。
彼女は艦娘で、艦娘は古い船の記憶を背負っている。今見ているそれも、感じている思いも、彼女自身のものではない。
船の記憶がみせる、ある種の蜃気楼だ。
コツッ コツッ
耳の中で、雑音がする。ああ、これは、無線のノイズか。
無視した。どうせ、夢の中なのだ。
コツッ コツッ
耳の奥に、音が響く。なんでか知らないが、鼻も痛い。
夢なのに、妙に気が利いているじゃないか、と苦笑する気持ちになる。
コツッ コツッ
沈んでいた意識が、ゆっくりと浮き上がる。
背中で微かな振動を感じた。海水で冷え切った体に、装備――特に艦娘の場合、『艤装』と呼ばれる――が熱を入れ直し、その機能を回復させていくのだ。まるで船のタービンが、機関始動前に暖気されていくように。
≪きこ、える?≫
無線機が、確かに人の声を発した。
反射的に瞼を開く。夏の日差しが網膜を焼いた。おぼろげな記憶の映像は、膨大な光にあっという間に駆逐されてしまう。
光に目が慣れ、世界が輪郭を取り戻すと、段々状況が理解できて来た。
鳥だ。
目の前に鳥がいた。
黒々とした瞳の海鳥が、胸のあたりに足を載せて、困惑気味に熊野を見つめ返していた。海鳥は頭を少し傾げると、また思い直したように首を後ろに振りかぶり、くちばしを彼女の鼻に触れさせる。
こつん。
熊野は、今まで何をされていたのかを知った。
360度の大海原に、少女の絶叫が高く響く。
「ひゃぁぁああああ!!!」
その声に触発されたように、鳥は羽を広げて飛び去った。まるで悩みなどない自由な身を誇るように。
一方、熊野のさらに上空では、黒い物体が、驚いたようにひどく姿勢を崩していた。大きさは周囲の鳥と変わらないが、速度は明らかに速い。
そして、水中。
伝わるのは声だけではない。
始動した機関は、スクリューを回す。その音は水中にも伝わる。むしろ水中の方が、音はより速く、遠くまで伝わる。
少女からかなり離れた地点で、水面から黒い筒が伸びる。
それは潜望鏡だった。