会いましょう、カシュガルで   作:タサオカ/tasaoka1

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断章 それは責任と共に。

――イルマ・テスレフという名前には聞き覚えがあった。

フィルビーにとって、それは重要な計画の部品でしかなく、

哀れな、そして都合のいいフィンランド人の衛士という無味乾燥のデータにすぎなかった。

彼女の役割はトリガーであり、また、それを促すための工作は既に始まっていた。

優秀と評価されたこの職員にとり、彼女は人間ではなく計画の一部としか認識していない。

だからこそ、フィルビーがその工作の中止を告げられた時、

上司の前で、彼はクリスマスを前に撃たれた七面鳥のような面を晒していた。

無理もない話だった。

予兆すら感じさせず、それは突然起こってしまった。

毎朝の決まった手順に乗っ取り出勤し、業務を始めようとした所だった。

職員たちが恐れる主任室に呼び出され事の顛末を聞かされた。

ここ数年間、彼が尽くしてきた仕事が全て安楽死させられると告げられる事となる。

それも、部品であるはずのたった一人の女性の名前をきっかけに出されて。

彼が抗弁することはない、指示は絶対だった。

皮肉なことにイルマを部品としてみていた彼も、また同じく組織の部品の一つだった。

そして彼は中央情報局(ラングレー)で生きる中で得た処世術を生かして現状の理解を進める。

だが、この時ばかりは、自らの心の作用に反して表情筋が崩壊していた。

囚人が手掘りつづけた穴を重機によって埋められる様に、それはよく似ていた。

 

「合衆国にとって、現状の試みは不利益となった、残念だよ」

 

淡々と主任は語りだした。

玩具を取り上げられた幼子に言い聞かせるような口調で。

それがフィルビーに残っている忠誠心を逆なでしないように気を使っている物であった。

主任である彼にとっても今回の決定は承知しかねる出来事であったのは確かだった。

 

「やはり難民の女性を使うというのは不味かったね

軍はカンカンだ、抗議の嵐でね、今にも此処に乗り込んできそうだった

調子に乗って、今度の作戦に手は貸さないとまで言ってきている」

「……なぜ、露見したのでしょうか」

 

それは、もっともな疑問だった。

不条理に叩き潰されてしまうのなら、せめてその理由を知りたいと思う当然の心理が働いた。

フィルビーが思うに、あの案件は大洋を挟む帝国に対する大きな楔にもなり得た計画だった。

同時進行するあらゆる策も含めて、今後数十年間の防波堤ともなり得る列島を手に入れる。

それが不可能ではないという考えを実現する案でもあった。

全ては彼が忠誠を誓い、努め続けた国益が成就するためにである。

予測された流血の量に対しても、それは十分に見合っているはずだった。

またフィルビー自身の名誉と出世のためにもそれは必要な階段である。

彼の意識にも人並み野心は存在し、そしてまだ若い男性であった。

イギリス移民の末裔でありながらも、白人の貧困層から這い出た男にもそれぐらいの欲望が眠っていた。

だからこそ一国を揺るがす騒乱の種を撒く破滅的な仕事であったとしても、

彼はそれを転機として認識し、実に精力的に動いていてた。

ワシントンにて各委員会を説得し、時には脅しながら、議員の協力や後ろ盾を取り付けたからこそ……。

だが、それが、なぜ。

止めどなく男の脳裏に浮かぶ疑問に、その上司は全てを答える義務はないと暗に口を結んで伝える。

 

「わからない、私にもあずかり知らんところなのだよ

 なにせ我らが軍人上がりの大統領(プレジデント)の命令だ、それも名指しでな

 君が今思う全てより、遥かにコレらは大事ということさ」

 

主任は机の上のファイルを忌々しげに叩いた。

『Ⅵ』とだけ書かれた表紙には、秘という旨を伝える最上級の印が押されていた。

フィルビーはそのファイルが何かわからなかったが、コレらは、が意味することの幾つかを知っていた。

沈黙に関すること、BETAの突然の活動停止が諜報に関する暗い世界に与えた影響は大きかった。

幾つかの長期案件(ロングケース)が破綻して、小規模な活動が停止されてまで優先される事項が発生した。

合衆国『外』に対する彼の同僚たちが大慌てで、実にずさんな手口で事を進めることになったのもそれが原因だった。

ついに、フィルビー自身にもその手が及んだということだ。

そんなことは知ってはいるが、基本的にCIAにおいて不用意に首を突っ込めばそこが最後だ。

突っ込んだ場所が断頭台の枷になり得ることを実例とともにフィルビーは知っていた。

部内の評価を高めるためにも、つまみ食いは厳禁であるのは常識だった。

その誘惑に抗えないものはそもそも人事に採用されず、もしくは局外職員となって人生を終える。

そんな分をわきまえていながらも、大いなる流れには逆らえなかったが。

 

「向こう側における動きは、帝国の同業他社がその任を請け負ったとのことだ

 お互い様と言ったところかな? いや何にせよ、今は我々の想像を常に超える」

 

様々な経験の末、手に入れた能力で持ってフィルビーは主任が珍しく苛立っている事を知った。

こんな姿を見るのは初めてだったが、彼も違う立場でありながら似た思いを抱いていた。

だが自らの部の長がそんな姿を見せるのは、つまり、そういうことだということも理解し始めていた。

弁護するのであれば、フィルビーは、彼は決して無能ではなかった。

ただ運が、彼の味方をしていなかっただけだった。

 

「キミにはこの案件が冷えるまで、日本にて向こう側と連絡役を務めてもらいたい

 いいか、これはキミを助けるためなんだ」

 

一種の懇願だった。

主任にとり、彼を騒動の極地となり得る本局から遠ざける術であった。

そして、直接関係者を帝国に差し出すことによる損害の中での補填は魅力的だった。

無論、それは主任個人の権限で決められたものでもなかった。

優秀な部下を手放すのを、上司は決して好きでやるわけではない。

故に、フィルビーにも責めようがなかった。

ただ彼らには、どうしようもない権力の大鉈が振るわれたことは確かであり、

中間管理職の悲哀は例えこの業界においても容易に起こりうると言うことの証明であった。

 

「幸いにも日本語はできるだろう?」

 

それは当然だった。

だが彼の頭に存在していた冷静な部分が理解を進める。

アングロ・サクソン的な自分は浮くだろうなとの傍観を。

あの灰色で雑多な町並みに、自分は決して溶け込むことはできないという敗北感を感じたことがある。

いくら大陸系や欧州の難民が増えたからと言って、未だに白い肌と堀の深い顔は目立つ。

やはり、仕事は選ぶべきだったか。

そんな決別とも、諦めとも言える言葉が彼の脳内に浮かんで消えた。

 

「ならば、サケでも飲んできたらいい、また会おう、フィルビー」

 

以後、主任と彼が会うことはなかった。

それから数日後の帝国にて、コートを着た男性とフィルビーの姿が目撃される。

旅館を拠点とし、事態の裏側から当事者としてその終結を促した局員の道行きは謎に包まれている。

だが後年、フィルビーはCIAを辞職し、多大な苦労とともに帝国に帰化し、様々な制約のもとで口を閉ざし続けた。

節度を伴侶にサケを飲み続けたのは、彼にとっては大いなる満足を抱くに十分な人生だったろうか。

それは本人にしかわかりようがない話であったが、彼はすでに報いを受けていた。




12月17日、加筆修正。

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