【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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摩耶から落下し、海に飲まれた渋谷少佐。
目を覚ました彼は、おそるべき存在と対峙する。

なぜ深海棲艦が戦術を獲得できたのか。なぜ急速な進化を遂げたのか。
その理由が明かされようとしていた。


第九話 深海の王

 

 

 

 瞼越しに青白い光が差してくる。渋谷はゆっくりと目を開けた。確か自分は海に転落したはず。しかし肉体は、明らかに空気を感じている。身体に痛みも感じない。ここは死後の世界なのだろうか。そんなことを真面目に考えていた。頭を冷静に保ち、周囲の景色を見る。なぜか自分は椅子に腰かけ、目の前には現実味のない真っ白なテーブル。向かい側にも椅子がある。さらに、ここはどうやら飛行甲板の上らしい。ただ日の丸はなく、黒と青を基調とした不気味な色合い。左に見える艦橋も、どこか禍々しい意匠だった。

 海の上に浮かぶ大型空母。渋谷はようやく自分の立ち位置を理解した。かすかな鉄と硫黄の匂い。間違いない、これは深海棲艦の空母だ。戦慄とともに立ち上がり、海上を見渡す。遥か彼方に島影がある。だが、普通の島でないことはすぐに分かった。ただの人間でしかない自分にも理解できる。あの島を包み込む、悪意とも憎しみともつかない、圧倒的な怨念の気配を。島の海岸線に目をこらすと、深海棲艦と思しき多数の艦が停泊している。どうやら、ここが敵の工廠と母港らしい。すなわち深海側の鎮守府だ。渋谷は必死に周囲を見渡し、場所の手掛かりを探ろうとしたが、視界に入るのは暗い海ばかり。空にも分厚い雲が渦巻き、星を見ることもできない。

「目覚めたようですね」

 不意に背後から声がする。慌てて振り向くと、いつの間にかひとりの女性が立っている。しかし当然のごとく人間ではない。黄金色の瞳、生気のない青い肌。なにより石膏像のように整った美しい肢体が、かえって冷たさと不気味さを感じさせる。

「空母、ヲ級の顕体か……?」

 後ずさりながら渋谷が尋ねる。頭のパーツはないが、その独特の風貌を見れば明らかだ。今は拳銃すら持っておらず、反撃の手段は皆無だ。しかしヲ級は、とくに敵意を見せるでもなく無表情に応える。

「空母ヲ級。人間が使う、わたしの同型艦の呼称ですね。しかし、人間の認識に誤りがあります。わたしは群ではなく一個体。わたしの名はアウルムです」

 空母ヲ級は、自らの名を名乗った。

「あなたを攻撃する意志はありません。ただ仲間の気まぐれにより、実験的に召喚されました。しかし、わたしの主はあなたと会話を望んでいます」

「召喚とはどういう意味だ。俺はいったい、どうなったんだ? それに主とは誰だ」

「申し訳ありません。鹵獲した人間から抽出した言語知識を、我々のネットワーク言語と互換しているため、発進情報と受容情報に意味の格差が生じる場合があります。理解しづらくても容赦ください」

 木で鼻を括るような硬直的な言葉だった。

「椅子に座って御待ちください。主を呼びます」

 ヲ級は言った。次の瞬間、空席だったはずの椅子に誰かが腰掛けている。軍服に似た真っ白な装束。肌も髪も抜けるように白い。だが、その双眸だけは血のような赤に染まっている。

「突っ立てないで座ったらどうだ?」

 聞き覚えのある声だ。忘れようとも忘れられない、かつての友。純白の男は、ゆっくりと顔を上げる。

「久しぶりだな、渋谷」

 白峰晴瀬は、生前のままの美しい顔で微笑む。

 理性よりも感情が爆発していた。とっさに掴みかかろうとするが、渋谷の手は空を切る。白峰も胸倉を突きぬけていた。恐れをなして腕を引っ込める渋谷。それを見て白峰は苦笑する。

「無駄だ。きみは僕に触れない。とにかく座れ」

 男は言った。渋谷は仕方なく椅子に座る。身体を預けているというのに、感触も重さも感じない。白峰の隣には、まるで秘書艦のようにアウルムと名乗る空母ヲ級が寄り添っていた。

「さて、聞きたいことは山ほどあるだろうが、知っての通り僕は自分から話すのが苦手だ。いつものように質問してくれ」

 白峰は静かに言った。渋谷は慎重に考える。戦友とはいえ彼は一度死亡している。おまけに旗艦クラスの深海棲艦から「主」と呼ばれていた。彼の立場がどのようなものであるにしろ、この状況が四面楚歌であることに変わりはない。

「まず、俺はどうなったのか教えてくれ」

「海に漂流しているところを拾ったと報告を受けている。つまりきみは敵に鹵獲され、その技術によって意識だけをこの空間に転移させられているということだ」

「つまり現実には、俺の身体はソロモン海にあるということか?」

 白峰の言葉は半分が意味不明だったが、なんとか自分なりに解釈してみる。おおむね正しかったようで、白峰は頷いた。

「そうだ。好奇心旺盛な艦に拾われ、実験体となっている。こうして人間の意識を丸ごと我々のネットワークに乗せる実験だ」

「じゃあ、これから俺はどうなる?」

「データを取り終え、飽きたら海に捨てられるだろう。殺されはしないと思うが」

 淡々と事実だけを述べる白峰。どうやら自分には捕虜にする価値もないらしい。ソロモン海に放棄されたら、待っているのは死のみだ。しかし、少しでも生き残れる可能性があるならば、自分は今、とてつもない情報の宝を目前にしていることになる。

「そこに見えている島は何だ?」

「あれについては、僕も詳しくは知らない。言えることは、あの場所こそが、この世界の『異常』の始まりであるということだ」

 白峰は言った。異常とは、深海棲艦だけではない。艦娘もまた人類にとっては異常な存在だった。つまり深海棲艦も艦娘も、生まれは同じだとでも言うのか。だが、これについては今考えても埒があかない。白峰は答えたこと以上の情報を絶対に喋らない。渋谷は質問を続ける。

「その空母ヲ級は、おまえとどういう関係だ?」

「彼女は、かつてウェーク島で戦った敵であり、横須賀鎮守府正面でも戦った敵だ。僕は彼女に敗れて死んだ。しかし、実際は捕虜にされていたようだ。頭の知識を吸い尽くされ、実験台として精神を破棄される予定だったが、彼女と会話ができるようになり、利用価値を認められて深海の奴隷となった。この肉体は、深海の技術によって再構築したものらしい。寿命は大幅に縮まったようだが、今のところ不自由はない」

 赤い瞳で渋谷を見つめながら白峰は言った。深海棲艦と同じ素材でできた身体。渋谷は寒気を覚えた。

「待て、奴隷と言ったな? なら、なぜヲ級はおまえを主と呼んでいる?」

「それについては、わたしが説明します」突然、アウルムが口を挟んだ。彼女は無表情のまま続ける。「彼は深海棲艦の力で生きています。よって深海の意志に逆らう選択肢はありません。その事実より奴隷という表現は可能です。しかし、わたしたちは自主的に彼に指導を乞うています。その側面を重視し、わたしたちは彼を奴隷ではなく主と呼びます。兵器の操手であり、わたしたちの意志の統率者です。人間の言葉に変換するなら―――」

 提督。

 こういったものでしょうか。

 ヲ級の言葉は、渋谷の頭に驚愕しかもたらさなかった。これまでの深海棲艦との戦いは、王将のない将棋であり、キングのないチェスだった。敵の駒は限りなく増える。誰を討ちとれば勝利なのか分からない。しかし、ここに来て倒すべき目標が明らかになった。深海棲艦を率いる提督。彼を殺さない限り、世界の海に平安はない。

「アウルムは、いわば僕の幕僚だ。先見の明があり、指揮統率能力に長ける。そうでなければ、たかだか人間ひとりを鹵獲するために、空母で横須賀に突っ込んだりすまい。さらにもうひとり技術開発と個別の戦術に長ける者がいる。そろそろ来るはずなのだが……」

 白峰が言いかけた時、またしても新たな映像が出現する。背が低く、頭には黒い雨具のようなものを身に着けている。白峰の姿を見るなり、嬉しそうに駆け寄り背後から抱きしめた。無邪気に微笑む姿は、まるで幼い少女のようだ。背中から伸びる、怪魚のごとき巨大な尻尾が無ければ。

 ついさっきまで艦娘と死闘を繰り広げていた異形の戦艦。戦艦レ級がそこにいた。

「彼女はグラキエス。僕の二人目の幕僚だ」

 頬すりする彼女の頭をなでてやりながら、白峰は言った。

「おまえが名付けたのか?」

 顔を引きつらせたまま渋谷が尋ねる。白峰は小さく頷いた。ラテン語でアウルムは黄金、グラキエスは氷を意味する。彼らしい趣味だ。なぜかすんなり納得してしまう名前だった。

「ねえ提督。こいつはもういらない。捨てて良い?」

 グラキエス、もとい戦艦レ級が尋ねる。にやけた顔が一変、ゴミをみるかのように不快げな表情をつくる。深海棲艦とは信じがたい、人間以上に豊かな表情だった。

「これも何かの縁だ。もう少し話をさせてくれ」

 白峰がいさめる。するとレ級は「縁、縁って何?」と騒ぎ始める。

「なるほど、進化する戦艦か。ほんとに常識がいくつあっても足りない。深海棲艦に戦術を教えたのも、おまえだな」

 白峰を睨みつける。ただ彼は頷いた。

「そうか。一応、確認させてくれ。おまえは深海棲艦の提督で、つまり人類の敵なのだな?」

「そうだ」

「敵に操られているのではなく?」

 さらに問い詰める。心の片隅で、白峰が頷いてくれるのではないかと期待した。自分は深海棲艦に操られ、意志を強制され、無理やりかつての仲間と戦わされているのだ、と。

「ちがう。彼女たちの提督となったのは、まぎれもない僕自身の意志だ」

 その返答は、渋谷の淡い望みを打ち砕く。

「帝国軍人の誇りを捨て、祖国を捨て、同胞たちを殺戮するのに何の躊躇いもないのだな?」

「きみたちが今のままである限りは」

 言葉の真意は分からないが、渋谷は質問を続けた。

「婚約者を殺してでも、深海棲艦の指導者として戦い続けることが、おまえの正義なのか?」

 一瞬、言葉を切る白峰。しかし、やはり彼の回答はイエスだった。

「なぜだ」震える拳をテーブルに叩きつけ、渋谷は立ち上がる。「おまえの行いの、どこに正義がある? 海を封鎖して人間を殺し、あまつさえ愛した女も踏みにじって。それ以上の正義が、本当にあるのか!」

「きみに話す必要はない」

 ぴしゃりと白峰は言った。

「さて、そろそろ退場願おう。きみの出現は、グラキエスの気まぐれによるイレギュラーなものだ。本来の客人を待たせているので、これ以上話す時間はない」

 白峰は立ち上がる。彼に詰め寄ろうとするが、なぜか両足が動かない。

「だが、やはりきみと再会したのは何かの縁を感じる。だからひとつだけ教えてやろう。我々は、しかるべき時がきたら人類諸君に対して、ある質問をする。その回答を求める。人類の答え如何によって、世界の運命が決まる」

 白峰は言った。

 その言葉の意味を問いただそうとした瞬間、まるで暗幕が降りたかのように視界が闇に閉ざされる。繰り糸が切れた玩具のように、ぷつん、ぷつん、と膝が、腰が、腕が動かなくなり、やがてあっけなく意識も途切れた。

 

 

 渋谷が消えた甲板には、白峰と二人の深海棲艦が残された。

「艦娘は、なぜ我々を個体ごとに識別しようとせず、ル級やヲ級といった具合に、艦のクラスで分類するのでしょうか。あちらは艦ごとに固有の名を持つそうです。見分けがつかないのに無意味であると思います」

 アウルムが尋ねる。

「きっと敵も、同じように思うだろう。彼女らに深海艦の見分けはつかない」

「理解しかねます。我々は皆、思考の方向性、伝達速度などに大きな個体差を持ちます。しかし、敵は皆同じ思考の者ばかりに思えます。あれでは個体ごとの区別などつきません」

 アウルムが反論する。おそらく、深海棲艦と人類にちかい艦娘では、なにをもって個人とするか、その評価尺度に大きな差があるのだろう。人類は見た目や表層の嗜好を重視する。かたや深海棲艦は深層の思考回路をもって個体差を判別する。

 人間が深海棲艦を見た目の類似性で一括りにするように、深海棲艦には艦娘など全部同じノッペラボウに見えているのだ。艦娘にとってアウルムが『空母ヲ級』でしかないように、深海棲艦にとって、睦月も如月も弥生も望月も、『駆逐艦睦月級』でしかないのだ。艦娘は、深海棲艦を見た目でしか区別できない。深海棲艦は、艦娘を区別するところが見た目以外にない。

 白峰は自分の考えを伝える。アウルムは一言、「理解しました」と呟いた。

 しかし、無個性極まる人間にも、やはり異端はいるものだ。白峰は、それを確かめにいく予定だった。深海棲艦のネットワークから「縁」に合致する概念を探しているグラキエスに白峰は尋ねる。

「客人のもてなしは準備できているか?」

「南方がしっかり押さえてる。あいつを捨てたら、わたしも行くよ」

 グラキエスが尻尾を振りながら言った。

「南方の報告は面白い。人間だけじゃなくて、とても面白い艦を見つけた。これから先は、もっと楽しくなりそうな気がする」

 獲物を見つけた蛇のように瞳孔を細めて笑う。彼女に悪意はなく、虫を潰して遊ぶ幼児のような、純粋な喜びが溢れていた。

「何をもって自己なのか。それは自分で見つけるしかないと提督は教えてくれた。わたしは、何にでもなれる。ゆえに悩む。わたしは、わたし自身を映し出す鏡が欲しい。わたしが問いかけても壊れない、丈夫な鏡が。無ければ自分でつくる。提督、これからもわたしを教え導いてね」

 そう言い残し、グラキエスの意識体は自らの艦へと戻った。

 彼女の進化は目覚ましい。白峰は思う。アウルムは先見の明があり、目的のためならば手段を選ばない豪胆さと、自らをより賢く強くしようとする底なしの意欲がある。それに対し、グラキエスは興味を持つ対象が広く、ひとたび狙いをつければ徹底的に掘り下げていく研究者肌だった。これまでの深海棲艦は、いわば人類の猿真似だった。艦や機能、艦載機の形まで、既存の型を真似た。しかし、思えば別に人類の模倣をする必要もなかった。グラキエスに出会い、白峰はその事実に気づいた。なんでもありなのだ。技術が追いつきさえすれば、深海棲艦はなんでもできる。人間のように誇りや伝統、人間関係といった非合理なしがらみで正しさを見失うこともなく、ただ優れた存在を正義とし、それを目指す。兵学校の頃、教官に否定された自分のアイデアを丸ごと受け入れ、検討し、実践に移してくれた。

そんな深海棲艦のなかでも、グラキエスは突出した個体だった。彼女は好奇心の赴くままに進化した。戦艦並の砲撃力、艦底から直接射出される魚雷、新しい艦載機の運用。圧縮燃料によるエンジンの開発、高速化。彼女とは夜通し語り合い、互いのアイデアをぶつけあった。さらに彼女は人類特有の感情まで完璧に掌握した。それに成功したのは、彼女を除けば一部の上位個体だけだった。

ソロモン海でグラキエスと戦った人類は、今ごろ度肝を抜かれているに違いない。白峰は苦笑する。きみたちに、ほんの少しでも正しい道が見える眼があれば、深海の化物ごときに遅れを取ることもないだろうに、と。

そして深海棲艦は、さらに進化した戦略・戦術・技術を今も開発しているのだ。

「よろしかったのですか?」

 思考に割り込むようにアウルムが尋ねる。

「もし彼が生きて仲間と合流すれば、我々の情報が少なからず伝わります」

「構わない。一言一句違わず渋谷が伝えたところで、何もできはしない」

 白峰は言った。そのとき、白峰の脳髄に直接、情報が流れ込んできた。三次元方向に伸びていく立体パズルを思わせる深海棲艦の言語。秘匿回線でアウルムが今後の戦略案を伝えてくる。深海棲艦の意志疎通はこれで行われ、人類言語のように受け手によって意味の解釈が異なることもない、極めて合理的で美しい言語だった。最初これを受けたときは、ただの拷問にしか思えなかった。人類史上、最も苦痛の大きい拷問。膨大な情報で自我が圧迫され、何度も意識が分裂しそうになった。しかし、今ではずいぶん慣れたもので、複雑な会話も難なくこなせるようになっていた。白峰だけが深海の提督になりえたのは、彼女たちの意志疎通を受け入れることができたからだろう。生まれながらにして彼の思考は、深海棲艦に近いものがあったらしい。

 言語にしろ、正しい思考法にしろ、深海棲艦は人類より遥かに優れた潜在能力を持っている。にも関わらず、これまで敗北を重ねてきたのは、それを活かせる「型」がなかったからだ。いかに最新鋭の武器を持とうとも、戦いの「型」を知らない烏合の衆であれば、戦術を知る敵にあっという間に滅ぼされる。ならば、自分が与えてやればいい。知りさえすれば彼女たちは人類の何十倍の速度で進化できるのだから。

 アウルムの話は「重」かった。グラキエスへの考察を塗りつぶし、まるで白峰の頭を自分由来の情報だけで満たすかのように。

「わたしも感情を理解しています。グラキエスほどではありませんが、どうかご配慮願います」

 ほんの少し瞳を歪ませてアウルムは言った。表情に変化が現れてきた。新たな進化を目の前に、白峰は優しく微笑んだ。

 

 

 涼子は独りで飛び続けていた。

 僚機を撤退させたのち、彼女はなおも戦い続けた。ついに新型の敵戦艦が海域から離脱し、空の脅威は打ち払われた。空母たちの状態は気がかりだったが、もう自分には一刻の猶予もない。涼子はすぐラバウルへの直線航路に入った。しかし、戦闘で消費した燃料は大きかった。彼女はすでに理解していた。このまま進めば燃料が足りず、ラバウルに辿りつけないことを。

 それでも、わずかでも希望があるのなら。涼子は飛び続ける。燃料メーターが限りなくゼロに近い。一キロ、一メートルでも先へ。その想いを燃やし尽くしたかのように、プロペラが沈黙していく。全ての鼓動が止まった機体。宙を漂う鉄の棺桶。死の静寂が満ちていた。浮力を失い、しだいに降下していく。不気味なほどの静けさの中で、涼子はぽつりと溜息をついた。ラバウルまで、あとどれくらいだろう。方角は分かっている。でも、泳ぎ切れる距離だろうか。

 見慣れたはずの海が、ひどく恐ろしい。

 無限に広がる群青が、ちっぽけな命を飲み込もうとしている。恐れる気持ちすら馬鹿馬鹿しく思える。この海に抱かれてしまえば、希望も絶望も、何もかも無に溶けてしまうというのに。

 そのとき、涼子の視界に何かが映った。海面に漂う無数の白い物体。イルカの群れだろうか。しかし泳ぐでもなく波に弄ばれている。その輪郭をはっきり捉えたとき、涼子は吐き気を覚えた。死体だ。艦娘に乗っていたであろう、軍人の死体。それが二十、三十と塊になっている。

 その中に、涼子は見つけた。まだ命ある者の姿を。同胞の死体にしがみついてでも、必死に生きようともがいている。虚無の穿たれていたはずの胸に、ふたたび熱い意志が込み上げる。涼子は重たい操縦桿を倒し、螺旋を描くように大きく旋回しながら降りていく。やがて機体は死体のすぐ横に着水した。キャノピーを開き、海に飛び込む。凄まじい腐臭が鼻をつく。どうやら、この戦いでの戦死者ではない。手足のない死体を掻き分け、生者のもとに急いだ。

 その男は目を閉じたまま、腐りかけの死体に腕をかけていた。体温が奪われているらしく、ひっきりなしに身体が痙攣している。

「しっかりして! こっちを見て!」

 涼子は彼の頬を叩いた。その瞬間、気づいた。青ざめた顔で、うっすらと瞼を開く男。彼の顔は良く知っている。何度か言葉を交わすうちに仲良くなり、いつしか自分の心が無視できない存在となっていた。

 渋谷礼輔少佐。彼が今、瀕死の状態で助けを求めている。

「……水戸少尉……?」

 掠れた声で渋谷は言った。まだ意識はあるようだ。

「そうです。とにかく、ここを離れましょう。生きてラバウルに帰るんです!」

 涼子は渋谷に肩を貸そうとする。しかし渋谷は首を横に振った。

「今は俺の話を聞いてくれ。今後の作戦を左右する、重要な情報が―――」

 しかし涼子は渋谷を無視する。彼の腕を自分の肩に回して、死体の群れから抜け出していく。

「駄目だ。俺は右足をやられている。それより話を聞いてくれ。きみが情報を持ちかえるんだ」

「じゃあ左足を動かして! バタ足くらいできるでしょう。生きることを諦めてはいけない。大丈夫、わたしを信じてください」

 強い言葉に、渋谷は黙って従うしかなかった。ふたりはひたすら泳ぎ続けた。体力が尽きれば死に繋がる。この土壇場でも渋谷を置いていく気にはなれなかった。やがて彼女は渋谷の右腕に裂傷があることに気づく。泳いでいるうちに傷が広がったらしく、ゆらゆらと血が流れ出ていた。とっさに彼女は渋谷に貰ったハンカチを取り出し、躊躇いなく破く。それで傷口をきつく縛った。大量の血を流せば危険だし、サメやフカに襲われる危険も高くなる。かつて中部太平洋の戦いで不時着水し、骨も残さずフカの餌食となった仲間を思う。暗い海の底に怯えながら、必死にふたりは泳いだ。

 

 どれくらい時間がたっただろうか。もう手足の感覚がない。海面から頭を出すだけで背いっぱいだった。諦めれば楽になれる。それでも涼子は生きる苦しみを選び続ける。やがて、疲労で霞んだ視界に影が映る。水平線の先に、巨大な島影が浮かんでいる。海の終わり。絶望の終わりだった。

「見て。帰りつきましたよ」

 涼子は嗄れた喉で囁く。渋谷も顔を起こし、前を見据える。喋る余力もなかったが、唇から洩れる空気の音が、彼の気持ちを涼子に伝える。

 ありがとう。

 涼子の眼から涙が溢れる。

 ふたりの軍人が、命を持ってラバウルに帰還した。

 

 




深海提督の登場です。

これで、艦娘と深海棲艦の戦いに終着地が見えてきました。



ヲ級、ル級といった呼び名は人類が勝手に決めたものであって、深海棲艦は使用していません。彼女たちには、きちんとした個体識別サインがあり、一隻一隻が個の存在として動いています。

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