【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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ついに始まった、ニューギニア侵攻・ガ島飛行場破壊の二正面作戦。
深海棲艦との戦争が始まって以来、最大の艦隊決戦が予想されていた。

戦地に赴く艦娘と軍人は何を思うのか。

そして深海棲艦は、雌伏の時を経て新たな進化へと至る。
深海棲艦の歴史上、最悪の存在がソロモン海に接近していた。


第八話 水底に鉄を敷く

 

 

 〇三〇〇。

 山本長官率いる連合艦隊、そして第一、第二艦隊は、ひっそりと真夜中のラバウルから出港した。戦艦と空母を中心とし、前哨には麾下の駆逐艦を配置している。敵は島の北と南に別れているようだが、連合艦隊が狙うのは南のポートモレスビー港だった。陸地への海上ルートを確保できれば、あとは深海棲艦の手が比較的及びにくい内陸を渡ってニューギニア西端の油田地帯を押さえることができる。今回の作戦には陸軍もうるさく口を出してきた。艦娘の登場以来、大規模な戦いから蚊帳の外に置かれていた陸軍としては、どこでもいいから占領して威信と誇りを知らしめたいという意図もあった。山本長官は、陸軍をいたずらに前線に移すことを嫌っていた。今は海での戦いで手いっぱいだが、いずれ深海棲艦の海上封鎖を破って、さらなる陸地に進出することもありうる。それを見越しているからこそ、とくに用もなく貴重な戦力を前線に晒すことに躊躇いがあった。

 現に今でも、参謀本部・軍令部ともに戦線拡大方針をとっている。海での連戦連勝をうけて、困窮しながらも国民は軍を支持している。それを逆手にとり政治を動かし、かつて青写真を描いた大東亜共栄圏を、このさい一気に実現してしまおうという風潮が、じわじわと生まれ始めていた。

「アメリカと戦うか、深海棲艦と戦うか。いずれにせよ、東アジアの覇者になりたがっているのは違いない。きみたち艦娘としては、この戦いをどう思う?」

 司令官室にて、山本長官が尋ねる。洋風の意匠が施された室内には、艦の美しさを体現するに相応しい顕体がひとり、二メートルはあろうかという長身をソファにあずけている。彼女こそ、連合艦隊の誇る旗艦、最強の艦娘である戦艦・大和だった。

 亜麻色の髪を後頭部でまとめ、桜の花びらのような髪飾りが良く似合う。ゆったりと落ち着いた大和撫子。その瞳には隠しきれない高揚が小さな火花を散らしている。

「大和には分かりません。人間に味方するという、強い気持ちがあるだけです」

 言葉少なに大和は答える。彼女は艦娘のなかでもイレギュラーな存在だった。坊ノ岬沖に忽然と姿を現し、どこに行くでもなく、ただ海に浮かんでいた。そのことについて軍令部は大和に問い詰めたことがあった。彼女自身、この世に生まれてくる前の記憶は曖昧だったが、おぼろげながら戦いの情景が断片的に思いだされるという。艦娘が生まれながらにして艦体の操舵、火器の扱いをこなせるのは、その記憶によるところが大きい。

 前世での戦争体験。荒唐無稽な夢物語だが、無視できない何かを山本は感じていた。そもそも艦娘自体が、半ば神話のような存在なのだ。となれば、普通の人間では考えもつかないことが真実であってもおかしくない。

 加えて、彼女たちは皆、日本の軍艦のような名前を最初から持っていた。

 もし、彼女たちが別の世界、あるいは別の時間における大日本帝国の艦だとしたら。彼女たちが前世で経験した戦争が、日本とアメリカとの戦いなら。考えるだけで、掌に嫌な汗が滲む。飛龍や夕立のように、前世の記憶を肯定的に捉えている娘もいる。しかしながら、大部分の艦娘が、できれば単なる悪夢であってほしいと願っている節があった。

「今回の作戦、きみはどう感じている?」

 慎重に山本は尋ねる。大和は少し困った笑顔をつくる。

「作戦的な統帥の良し悪しを判断できるだけの知識は、大和にはありません。ただ、わたし個人としては、戦いに参加できることを嬉しく思っています。艦隊決戦は、戦艦の晴れ舞台。最高の誉れです」

 大和は言った。その言葉に嘘はなさそうだった。横須賀が急襲されたとき、恐れをなした軍令部は大和をトラックに呼び戻そうとした。しかし、それまで軍の命令に粛々と従ってきた大和が駄々をこねる子どものように抵抗した。よって彼女は前線に残されることになり、横須賀には代わりに武蔵が着任した。

 戦うこと自体には積極的らしい。それが分かっただけでも、この扱いづらい戦艦級と会話したかいがある。

「そろそろ艦橋に戻ろうか。あまりきみと長話していると、宇垣参謀長にどやされてしまう」

 山本は、大和とともに部屋を後にした。

「霧が出てきましたね。電探の感度を上げておきます」

 うっすらと靄のベールをかぶり始めた海を見て、大和は言った。

 

 幾田の率いる第一一駆逐隊は、第三水雷戦隊旗艦の軽巡・川内を先頭とし、連合艦隊の主力となる大和、長門、陸奥を中心に輪形陣を敷いていた。叢雲の艦橋にて、幾田はひとり海を眺めていた。今回は速度を必要とする戦いではない。そのため火器管制の補助員は乗せていない。大切なのは索敵と火力だ。こちらは最初から決戦のつもりで準備を整えてきた。いち早く敵を見つけ、正確無比かつ強力な砲雷撃により殲滅する。海路より敵を駆逐し、ニューギニアへの一歩を踏みしめるまで、この艦隊に止まることは許されなかった。

「雨も降ってきたわね」

 幾田の隣で叢雲が言った。聞き耳を立てるかのように、彼女の頭上に浮かんだ不思議な艤装が小刻みに左右に振れている。敵に見つかりにくい代わりに、こちらの砲撃も外れやすくなる。天気は急激に崩れてきた。戦艦や正規空母ならもろともしない波でも、身体の小さい駆逐艦には脅威となる。速度が落ちる上、波に揺られるため照準も定まりにくい。

 時間が経つにつれ、霧は深みを増していく。南方特有の驟雨とあいまって、人間の視力では二、三キロ先も見渡せなくなった。出港直前まで夜戦、夜戦と騒いで橋本少将をゲンナリさせていた川内までも、珍しく緊張した面持ちで電探に意識を集めていた。ポートモレスビー港まで、あと約七〇海里。来るなら早く来い。霧と雨に潜んでいるだろう、まだ見ぬ敵の大艦隊に、誰もが息まいていた。

 神経の糸を張りつめたまま、夜の行軍が続く。

 その沈黙を破ったのは川内だった。

『電探に感あり。右三〇度。軽巡ないし重巡』

 無線により川内の報告が艦隊に行き渡る。即座に艦娘たちは砲雷撃戦の準備に入った。戦艦を中心とする島の封鎖部隊だろうか。ニューギニアという陸地を目指す以上、避けては通れぬ戦いだ。

『このスコールでは水偵を飛ばせません。川内さん、敵の進行方向および規模は分かりますか』

 大和が自ら尋ねる。川内はしばらく沈黙したのち、報告を続けた。

『視認してみないことには、この距離じゃ規模までは分からない。でも敵が接近してくる様子もないよ』

 まだ敵は、こちらに気づいていないらしい。電探の反応を信じるならば、おそらく敵の前衛だ。ならば必ず後ろに敵の本隊が控えている。先手を取れるならば好都合だ。山本長官は、第一艦隊と連合艦隊に単縦陣を命じる。大和の四六センチ三連装砲が、ゆっくりと巨大な鎌首をもたげていく。このときを待ち望んでいたかのように、大和の口元に隠しきれない笑みが浮かぶ。

 連合艦隊の右舷に複縦陣をとっていた第一艦隊が、単縦陣に移行していく。旗艦・扶桑を先頭に、美しい陣形を紡ぎ出す。あとは寝ぼけ眼で航行する敵艦に、戦艦たちによる無慈悲な斉射をお見舞いするだけだ。夜明けまで、まだ時間がある。空母を艦列の後ろに下がらせ、陣形の準備は完了する。

 あとは、どこまで接近できるかだ。通常、戦艦の最大射程である四〇キロでの砲撃命中率は五%以下となる。よって戦艦同士の艦隊決戦は、彼我の距離一〇から一五キロにて行われる。敵の戦艦がル級やタ級ならば、連合艦隊の戦艦たちが撃ち負けることはない。

 電探を頼りに、じりじりと距離を詰める。ぼんやりとだが、艦娘の目に敵影が見え始めた。濁った夜景の向こうに、巡洋艦クラスの艦が一五ノットほどで悠々と進んでいる。さらに駆逐艦に守られるように、大型の艦影が何隻も列の中央に見える。

 距離二〇キロ。敵の輪形陣を打ち破り、旗艦撃沈も夢ではない。

『砲雷撃戦用意!』

 大和の号令が行き渡る。初戦を勝利で飾れるよう皆が祈る。

 連合艦隊の艦列から爆音が響き渡る。だが、それは味方の砲撃音ではなかった。突如として噴き上がる水柱、そして炎。引き裂かれ軋む鋼鉄の断末魔。艦娘の悲鳴が無線をつたって艦隊に轟く。

『千代田!』

 後方を守っていた第二艦隊の千歳が叫ぶ。被弾したのは連合艦隊の軽母・千代田だった。突然横腹に強烈な雷撃が命中し、すでに艦が傾斜し始めている。しかし、前方の敵に動きはない。誰が魚雷を放ったのか。可能性はひとつしかない。

 潜水艦がいる。

『駆逐隊は、ただちに輪形陣に移行。対潜警戒を厳となし、空母を守りなさい。わたしたち戦艦が前面に出ます!』

 即座に大和が指示を飛ばす。しかし突然の雷撃を受け、艦列は乱れていた。いかに練度の高い駆逐艦とはいえ、砲雷撃戦の途中で、いきなり守りの陣形に入ることは困難だった。あわや戦艦と激突しかける艦娘もいた。潜水艦だけではない、もう視界に入っている敵艦隊も恐怖の的だった。海上と海中から挟み撃ちにされたら、戦艦といえどもただではすまない。特に魚雷は、砲弾より遥かに火薬の量が多い。命中しさえすれば、駆逐艦が戦艦を撃ち沈めることも可能だ。

『うろたえるな。敵は目の前にいるぞ!』

 長門が叫ぶ。まだ戦艦たちは冷静だった。ひるむことなく正確な動きで再び照準を定める。奴等が近づいてくれば、艦隊の混乱はさらに大きくなる。可能なら、近接での殴り合いになる前に、連合艦隊の火力をもって撃沈したい。

『主砲斉射。薙ぎ払え!』

 大和の裂帛。横一列に並んだ戦艦たち、その主砲が一斉に火を噴いた。あまりに凄まじい衝撃波が艦を中心にして円状の波を揺り起こし、海の形を変えていく。艦橋の中にいてもなお、地鳴りのような振動で肺腑の底が震えた。彼方に巨大な水柱が上がり、敵前衛の軽巡や駆逐が爆発する。小さい駆逐艦にいたるや、艦が横倒しになりそうなほどの衝撃だった。艦体が真っ二つに折れた敵もいる。命中したうちの半分が瞬く間に海中へと没し、半分はもうもうと黒煙に包まれ動かなくなる。だが、敵の旗艦とおぼしき巨大な戦艦級は無傷だった。麾下の戦艦、重巡、軽母は巧みに回避行動をとり、砲弾の火線から我が身を逸らしていた。あれは熟練の動きだ。スピード勝負になる。大和らは、すぐ第二射撃の準備を進める。だが、敵は思いもよらない行動をとった。なんと生き残った全艦が左に転舵し、さっさと逃げ始めたのだ。戦力としては、ほぼ互角であるはずなのに、敵は躊躇いもなく霧の深い方向へ撤退していく。怖気づいたとでもいうのか。申し訳程度に反撃してきているが、やる気のない砲弾は艦娘たちの手前で水柱をあげるばかりだ。どうやら悪天候と濃霧にまぎれて逃げ切るつもりらしい。

『逃がしてはだめ! 追撃します!』

『落ちつけ。罠の可能性もある。霧はさらに深くなっている。下手に敵のふところに突っ込むな』

 突撃にはやる大和を長門がいさめる。大和は山本長官に追撃の許可を乞うた。不利を悟ったとたん撤退をきめこむとは、攻撃一辺倒だった深海棲艦も少しは賢くなっているのかもしれない。少し考えたのち、山本は追撃を命じようとする。だが、彼の声は直後、無線から溢れ出す阿鼻叫喚に掻き消された。後方から凄まじい怒号と悲鳴が上がる。空母と戦艦の背後を守っていた駆逐隊が集中雷撃を受けていた。海面に走る雷跡は、視界に入るだけでも三〇をこえ、すべて放射状に散開している。輪形陣を敷くかぎり、回避は困難だった。たちまち新たな水柱と爆炎が駆逐艦を包む。

『第二〇駆逐隊、朝霧、夕霧大破。速力大幅に低下、機関の状況は不明』

『第一五駆逐隊、黒潮大破、親潮状況不明』

『第二四駆逐隊、海風大破』

 他にも続々と被害報告が続く。千代田の援護に回っていた千歳が中破。さらに重巡・最上と三隅が、混乱のなか衝突、最上は艦首に裂傷を受けた。まさか敵の主戦力は潜水艦によるスナイピングだったのか。荒れた海では雷跡が見づらく、戦艦の砲撃音で水中の音をうまく拾えない。

このままでは主力である戦艦までも魚雷の餌食になりかねない。

 前進せよ。すべての状況を鑑みたうえで、出せる指示はこれだけだった。山本長官の命令で艦隊が動きだす。天候はさらに荒れ、波はいよいよ時化てきた。濃霧にまぎれてしまえば敵に見つかりにくい。ただ、速度を落とすことなく荒れた海を渡るのは、駆逐艦には酷だった。それに被弾した艦は目に見えて機関の出力が落ちている。山本長官は決断を迫られた。

『このまま前進を続け、敵の包囲網を破ります。陸まで持ちこたえて!』

大和の声となって艦隊の意志決定が伝えられる。これを聞いた叢雲は、信じられないという表情で無線にかじりついた。

『待ってください。一一駆は白雪と初雪が中破しています。連合艦隊の速度についていけません!』

 叢雲からの通信を、大和は無視した。

『戦速を維持できない者は、それぞれの判断で艦列を離脱、後方より追随するかラバウルに帰還せよ』

その声音には苦渋よりも苛立ちが表に出ていた。

 この命令に、駆逐艦たちは蒼白となった。輪形陣から外れたら、敵潜水艦に狙い撃ちにされる。さらに中、大破した艦が敵に見つからずラバウルまで帰りつける確立など、ゼロに近い。戦闘に勝つために弱きを見捨てる。戦場での生々しい決断だった。

『大丈夫だよ、叢雲。わたしはまだ走れる』

 艦尾に被弾し、焼け焦げたタービンを晒しながら白雪が言った。初雪も同調する。第一一駆逐隊の進路は幾田の判断に委ねられた。叢雲は、祈るような目で自らの提督を見つめる。無事である自分と深雪だけを連れて輪形陣に加わり、あとは途上に置き去りにするのか。それとも一一駆全員で進退を共にするのか。

「輪形陣を離脱する。叢雲、戦速に満たない艦たちに告げなさい。『叢雲を旗艦とし、対潜水艦戦闘を継続しつつラバウルまで撤退する。一一駆に続け』、と」

 幾田は結論を出した。叢雲の瞳が輝いた。すぐに無線を開く。彼女は、傷ついた白雪と初雪を見捨てなかった。それどころか損傷した艦娘たちを集め、全員で離脱しようとしている。だが、幾田は決して駆逐艦への同情から、このような指示を出したわけではなかった。敵の行動が不自然に思えたのだ。あれだけの大部隊を用意しておきながら、戦わずに逃走。仮に囮だったとしても、潜水艦の雷撃は駆逐艦や軽母ばかり狙っている。本当に叩くべき大和や長門といった大戦艦クラスの艦には、まるで手を出そうとしない。

 理由は分からないが、敵の目的が駆逐艦の破壊だとしたら。

 そこで幾田は急遽、傷ついた駆逐艦たちを集めた。万が一、敵の狙いがこちらに移ってくれたら戦艦たちは無傷のままポートモレスビーまで辿りつける。こちらは機関を損傷した、言って見れば瀕死の艦ばかり。存分に敵と戦い、ひと花咲かせて水面を枕に討ち死にできれば、そちらのほうが遥かに幸せだ。

 しかし、叢雲の呼びかけにも関わらず、彼女の隊に集まったのは塚本率いる第一六駆逐隊の時津風だけだった。左舷中央に雷撃を食らいながらも、必死の応急処置で奇跡的に助かった彼女は、塚本の命令で叢雲隊に加わったことを告げた。

『艦娘は生き残ることが最優先だ。しれぇはそう言いました』

 涙ながらに時津風は言った。叢雲は歯をくいしばる。致命的な損傷を受けた艦は、もっといるはずだ。それなのに、撤退を選んだのは時津風だけ。他の艦娘たちは、たいして役に立てないまま轟沈することを覚悟で、連合艦隊に追従していったのだ。無慈悲に進撃していく巨大な艦を、小さな駆逐艦たちが波に翻弄されながら健気にも追いかけていく。彼我の差はぐんぐん広がる。やがてどちらの影も闇夜と霧に溶けて消える。

『敵はどこだ!』

 感情の波によって増幅された無線電波が、これだけ離れても大和の怒号を伝えてくる。

 叢雲は、制服の袖で乱暴に涙をぬぐった。

「ラバウルに撤退する。全艦続け!」

 凛として幾田が叫ぶ。

 雨脚は弱まってきたが、まだ霧は晴れない。相変わらず最悪の視界のなかを、羅針盤と艦娘の眼だけを頼りに、ゆっくりと進んでいく。対潜ソナーと電探は常に稼働していたが、この状況では大して役に立たない。ひたすら潜水艦に見つからないことを祈る。

 異変が起きたのは、○四五○。一一駆の無線に、突如として反応があった。艦娘の通信にはスクランブルがかかっており、その解除コードは艦娘同士でしか知り得ない。つまり、この海のどこかで仲間がコンタクトを取ろうとしている。新たに顕現した艦娘かもしれない。

『こちら叢雲。こっちに意識を向けなさい。聞こえるなら、艦種と名前を教えて』

 叢雲が代表して通話する。一一駆のメンバーには聞こえるらしいが、時津風には通信が入っていなかった。緊張した面持ちで、叢雲は相手からの返事を待つ。かなり遠いのか、無線にはかなりのノイズが混じっている。叢雲は、か細い無線電波を懸命に拾いつづけた。蜘蛛の糸を手繰り寄せるような心もとない航行だったが、少しずつ無線が意味のある音を伝え始める。

 ノイズのなかに、はっきりと声が聞こえた。

 音は断片的だが、その声には覚えがあった。吹雪型の四隻全員が同時に息を飲む。とくに叢雲にとっては、聞き間違いようのない声だ。ともにこの世界に顕現した、最も古い親友。そして自身の長姉。

「吹雪!」

 叢雲が叫んだ。白雪たちも、つぎつぎと姉の名を呼び始める。しだいに通信が明瞭になっていく。

『…………タスケテ……ミンナ』

 意味のある単語が少しずつ零れ落ちる。深海棲艦の本土急襲。白峰と運命をともにしたはずの、初期艦のひとりにして吹雪型一番艦、駆逐艦・吹雪が救助を求めている。叢雲は何とか了解した旨を示そうとしたが、相手に伝わっているのか分からない。ただ吹雪は弱り切り掠れた声で助けを呼び続けている。思わず叢雲は指示を待たずして艦首を電波の方角へ向けようとする。

「提督、彼女のもとに行かせて!」

 叢雲が懇願する。しかし、幾田はすぐに了解しなかった。

「本当に、これは吹雪からの通信なの? 敵の擾乱や欺騙ではなく?」

 幾田は懐疑を持っていた。あの海戦で、吹雪は姿を消した。もし轟沈していなくても、敵の捕虜となった可能性は高い。ならば、同じ艦娘をおびきよせる絶好の餌となる。

「吹雪は、むざむざ敵に利用されるような子じゃないわ。間違いなく自殺か自沈する」

 強い口調で叢雲は続ける。

「それに、たかが手負いの駆逐艦をおびき寄せるために囮なんて使うかしら。敵の主力はいまだ健在。どう足掻いても、わたしたちが勝てる相手じゃない」

 確かに叢雲の言う通りだ。彼我の戦力差を考えるに、敵は欺瞞工作などしなくても、真正面から艦娘を撃ち沈める力を持っている。だが、深海棲艦は理屈の通じない連中だ。仮に吹雪が敵の手中にあるとして、なぜ彼女は大人しく従っているのか。

「人質を取られてるのかもしれない」

 苦々しげに叢雲は呟いた。言わざるべきだったか。歪んだ唇に、若干の後悔が滲んでいた。

 吹雪が従わざるをえないほど、彼女にとって大切な人物が囚われているなら。刹那、幾田の頭脳は、海に飲まれたはずの彼に辿りついた。

「いずれにせよ、進まなくちゃいけない。あんたの婚約者が生きてようがいまいが、吹雪がいる以上、わたしたちは彼女を助ける義務がある」

 あくまで叢雲は吹雪救出を主張する。白峰への私情で艦隊を動かしていいものか迷っていた幾田は、少し眼を伏せて叢雲に礼を言った。叢雲は不機嫌そうにそっぽを向く。しかし、頭上の艤装は、ほんのりとピンク色に染まっていた。

「罠の可能性も十分あるわ。もし敵の攻撃が始まったら、すぐ逃げなさい。わたしだけでラバウルまで帰るから。これは艦隊司令の命令よ』

 無線にて、叢雲は麾下の艦娘に告げる。例え罠であっても、この事態に関わる情報は今後のために持っておかねばならない。幸い叢雲の艦体には致命傷が無い。いざとなれば速力を活かして戦闘域からの脱出を試みるつもりだった。生還できる確率がゼロに近くとも。

「わたしと一緒に沈むのは、あんただけでたくさんよ。道連れにしてやるから」

 通信を切ってから叢雲は苦笑した。感謝をこめて幾田は彼女の頭をなでる。珍しく怒ることもせず、叢雲は提督の好きなように身を任せた。

 彼女の予感が的中したのは、東の空が白んできた頃だった。

 突如として複縦陣の左舷二〇〇メートルに水柱が上がる。敵からの砲撃だが、挟叉を試みることもなく、わざと距離を開けて撃っている。これは警告だった。

『叢雲ちゃん。来て』

 吹雪の声がはっきり聞こえる。叢雲の電探に、すこしずつ敵影が映りはじめる。一〇海里ほど先に、戦艦級が二隻、軽母が二隻、そして未確認の大型戦艦が一隻。連合艦隊が撃ち漏らした大部隊が、叢雲隊の進路を塞ぐように展開している。どうやら敵の懐に誘いこまれたらしい。

「これは、たぶん敵からのメッセージよ。敵は、わたしを所望している。他の艦は退避させましょう」

 脂汗を流しながらも、叢雲は冷静に言った。砲雷撃戦になれば、味方はあっという間に海の底だ。ならば少しでも多くの艦をラバウルに返せる選択をする。幾田も彼女に同意した。

「後続の艦は即時反転、ラバウルに帰還せよ」

 幾田は短く告げる。すぐ麾下の駆逐隊から反論が上がるが、これは命令だと黙らせる。白雪たちは叢雲に激励を告げ、別離を口にすることなく出せるだけのスピードで海域を離脱していく。

『死なないでね』

 しんがりにつく時津風が、後ろ髪引かれるように呟いた。

 艦隊が脱出するのを見届け、叢雲は物見遊山でもするかのように、ゆっくりと前進を賭ける。少しでも時間を稼ぐためだ。すでに幾田の肉眼でも数多の敵影が視認できるようになっていた。軽母ヌ級、戦艦ル級、そして大和型に匹敵するような巨体をゆうゆうと海にあずける、未知の戦艦。敵は皆、こちらに砲塔を向けている。しかし攻撃してくる気配はない。

『助けて、叢雲ちゃん。砲を伏せて、そのまままっすぐ』

 仲間に対して俯角を掲げろなどと、妙な表現を使う吹雪。やはり敵の罠だったらしい。敵の砲塔に囲まれ、喉元にナイフを突きつけられているような気分だった。嫌な冷や汗を流しながらも、叢雲は泰然と進んだ。巨大戦艦のわきに、コバンザメのように駆逐艦が張りついている。深海棲艦特有の黒や青ではない、ちゃんとした鋼の色。その姿は間違いなく吹雪だった。しかし艦上に吹雪の顕体は見つからない。

「わたしたち、どうなるのかしらね」

 苦笑しながら叢雲が言った。強がってはいるが、両手をきつく握りしめ、小刻みに震えている。幾田は、そっと彼女の手を握った。幾田の掌のなかで、少しずつ小さな拳がほどけていく。まるで母と娘のように二人は手を繋いだ。

「あなたと沈むのなら本望」

 正面の戦艦を見据えながら、幾田は言った。

「まったく、こんなのと道連れなんて、わたしもついてないわね」

 泣きそうな顔で叢雲は笑った。

 そのとき、ふたたび通信にノイズが混じる。吹雪の声が消え、奇妙なエコーのかかった複雑な音が流れ始める。それは大人びた女性の声だった。

『―――surrender.言語変換。降伏せよ。降伏せよ』

 一方的に降伏を求めてくる敵艦。その艦首には、やはり見たことの無い敵の顕体が屹立し、こちらを睥睨している。ほぼ全裸に近い、真っ白な剥き出しの肌。大きく二つに分けた髪。そして身体の輪郭には、血が透けているかのような赤いオーラをまとっている。瞳は宝石のような深紅だ。周囲の艦を圧倒するような荘厳さは、彼女を深海棲艦の「姫」と形容するに相応しい。飛行場姫に続く、新たな種類の姫だった。

『もし降伏するのならば、我々はあなたに攻撃をしない。降伏の意志があるのならば、砲を俯角に掲げて示せ』

 抑揚のない声が無線機から流れる。叢雲は指示通り砲塔を動かす。それを見届け、艦首の顕体が相好を崩す。

『意志を確認した。戦争の子と、我らの片割れ。敵意なく我らはあなたがたを歓迎する』

 ヒトである幾田と、艦娘の叢雲。ふたりの存在を奇妙な言葉に当てはめる。そして彼女は、まるで人間のように両腕を広げ、微笑みながら告げた。

『Welcome to our Fleet Peacemaker』

ようこそ、裁定者の艦隊へ。

平和を敷く艦隊へ。

 皮肉にも、それは戦争が終わったのち、人類こそが使うべき言葉だった。

 

 

 連合艦隊が、謎の敵部隊と遭遇している頃、ガ島空襲のための機動部隊は、発艦予定の海域に到達していた。すでに金剛率いる艦砲射撃部隊と別れ、あとは艦載機を飛ばすだけだった。赤城、加賀、飛龍、蒼龍の飛行甲板に、つぎつぎと暖気を済ませた艦載機たちが並ぶ。操縦士たちは、緊張した面持ちで艦娘からの発艦を待っていた。最小限の誘導灯だけが頼りの夜間発艦。人殺し多聞丸という恐ろしい提督のもとで、指の皮が擦り切れそうなほど訓練を積んだが、初めてづくしの今回の作戦は、ベテランの士官にも拭いきれない不安を与えている。方角通りに飛べばいいとはいえ、恐怖は常につきまとう。

 爆撃隊発艦の合図とともに、爆弾を抱えた艦爆と艦攻が飛び去る。空にレールを敷くかのように一糸乱れず軌跡を描いていく。

 星空に吸い込まれていく機体を眺める渋谷。飛龍の飛行甲板から今、爆撃隊を守るため一機の紫電改が飛び立つ。尾翼には、まるで自分を狙えと言わんばかりの派手な赤い稲妻マーク。摩耶の艦橋から、祈りを込めて水戸涼子少尉の出陣を見送った。作戦部には、搭乗員の精神的支柱である彼女の戦死を恐れ、泊地に残そうとする将校もいた。しかし涼子は、空中戦の経験がある自分が先陣を切らねば、いざというとき爆撃隊を守れないと主張し、頑として譲らなかった。その経緯を知ったとき、渋谷はますます涼子の生還を祈らずにはいられなかった。

 最後の一機が放たれるまで、どうか敵と遭遇することがないように。空母艦娘たちは、脳裏をよぎる悪夢を吹き飛ばそうと強く願う。やがてガ島空爆隊は、すべてが無事に発艦を終えた。これで空母に残っているのは、万が一のための直衛機だけとなった。ひとまず主任務を完遂し、機動部隊に弛緩した空気が流れ始める。

『作戦終了。全艦、哨戒を密にしつつラバウルに帰投します』

 機動部隊旗艦、赤城の指示が飛ぶ。艦隊は輪形陣を維持したままゆっくりと転舵し、旗艦の途についた。

「せっかく装備強化したのに、出番なしか」

 茶化すように摩耶が言った。彼女の器用さは十分渋谷の知るところだったので、精密な射撃が必要となる対空兵装を強化してもらったのだ。幸い、トラックから工作艦・明石が着任していたので、摩耶の好みにあった改良がなされた。その結果、摩耶は針鼠とでも形容すべき、すさまじい対空火力を得た。ずらりと並ぶ火器の数々を制御しきれるのは、ショパンを弾きこなせる摩耶以外にいないだろうとのことだった。

「でもまあ、一応は感謝してるんだぜ」そっぽを向きながら摩耶が呟く。「だから、これからもおまえは、自分の艦だけを見てりゃいいんだ。ヒコーキなんて門外漢なんだからよ」

 渋谷は聞こえないふりをした。いやしくも戦場で人間関係のいざこざを掘り起こしたくはなかった。

 そんな二人の微笑ましくも緊迫したやり取りに、電探の反応音が終わりを告げる。

「来たか。まあ、これだけガ島に近寄ったら、ただで返してくれるはずないよな」

 牙を剥いて不敵に笑う摩耶。距離は約一五海里。おそらく敵の哨戒部隊だろう。こちらには第八戦隊に戦艦二隻、重巡二隻がいる。さらに軽巡「長良」が率いる第一〇戦隊も、かなり練度の高い艦ばかりだ。理想は、このまま速度を維持して海域を離脱することだが、もし接戦になっても押し勝てる自信はあった。

『敵接近。一〇時の方向。速力、約三五ノット。重巡二、軽巡二、駆逐四。初めて見る戦艦一』

 先頭をいく長良から報告が入る。敵の速度はかなり早い。おそらく榛名や霧島と同じ高速戦艦か、新手の巡洋戦艦を中心とした部隊だろう。こちらは大型の空母がいる以上、頑張っても二〇ノットが限界だ。

「相手がその気なら、戦力で勝る我々が有利だ。それに夜戦には一日の長がある」

 渋谷は言った。これは戦闘になると思った摩耶は、すぐ主砲の調整に入る。

『反航戦による撃ちあいが予想されます。戦艦以下、単縦陣に移行。空母は後ろに下がってください』

 旗艦の赤城から命令が届く。艦娘たちは、ただちに決められた通りに陣形を組み直していく。榛名を筆頭に、霧島、利根、筑摩が続く。摩耶の率いる第七駆は、その背後に空母四隻を隠した。敵との距離は、およそ一五キロ。あと数分で反航戦の射程内に入る。大丈夫、負けるもんか、と駆逐艦たちが己を鼓舞する。しだいに近づく戦火の足音が、艦隊の空気をピリピリと高めていく。歴戦の金剛型戦艦の二人は、砲撃の合図を出す、ぎりぎりのタイミングを見計らっていた。

 だが、ここで敵の部隊が予想外の行動に出た。

 従来のセオリーなら、そのまま反航戦に入るはずが、その場でVの字に逐次回頭を始めたのだ。これは、まさに幾田との演習で摩耶がやらかしたのと同じ行動だった。砲を構えているこちらからすれば、回頭中の艦は停止しているも同然だ。

劣勢とみるや、早々に逃げをうつ。ある意味合理的な行動に思えた。だが、やはり深海棲艦は馬鹿だ。艦娘たちの緊張がほどけていく。

 敵が回頭を終えるまで、およそ一〇分。それは艦娘たちにとって黄金の一〇分だった。

『この機を逃がさないで! 砲撃開始!』

 榛名が叫ぶ。瞬く間に、艦娘の単縦陣から炎と煙が上がる。練度の高い戦艦、重巡の砲撃は初弾で敵を挟みこみ、次弾で確実に当ててくる。敵駆逐艦が黒煙とともに沈んでいく。後続の敵軽巡や駆逐艦は、文字通り的だった。しかし、まだ少し距離がある。駆逐艦娘の攻撃は、ほぼ空振りに終わっていた。

 砲音と火薬の匂いで一気に士気が昂るなか、摩耶は砲撃もそこそこに、敵の一連の流れをじっと観察していた。敵は単縦陣のまま、回頭を終えた艦から、こちらの艦列と平行線をたどるように進んでいく。ただし、速度は敵のほうが上だ。敵は砲撃も雷撃もしてくる様子がない。速度だけを優先し、どんどん艦娘を引き離していく。

 摩耶の頭に、これまで勉強してきた図上戦術が展開されていく。敵の動きに見覚えがあったのだ。その答えを記憶から引っ張り出す。

「おい提督、まさかあれは―――」

 摩耶が叫ぼうとしたとき、みたび敵が動きを変える。平行線から北東に転舵していく。

 まるで、こちらの進路を塞ぐように。

「東郷ターン!」

 摩耶は愕然として言った。予感が的中した。摩耶の叫びが無線にのり、全ての艦娘たちと指揮官の顔を蒼白にした。敵がとった行動は、かつて日本海海戦で、東郷平八郎提督の率いる日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を破った戦術、「東郷ターン」そのものだった。反航戦にはいる途中で逐次回頭をして敵の攻撃をひきつけ、速力を活かして敵の進路を塞ぎ、理想的な丁字有利を作り出す。貧しい島国の艦隊が、欧州列強の一角であるロシアを撃ち沈めた、知恵と勇気溢れる奇襲だった。海軍軍人ならば知らぬ者はいない。日本が誇るべきその戦法を、そっくりそのまま敵にやり返された。あろうことか、敵は人間ですらない。あの深海棲艦である。一向に学習しない無能、突撃ばかり繰り返すイノシシ、と嘲笑ってきた深海棲艦なのだ。

 ここに来て突然、彼女たちは戦術を会得した。人類の編み出した英知をもって人類を攻撃した。

 敵の主砲が復讐の火を噴いた。度重なる敗北の鬱憤を晴らすかのような、快心の砲撃。先頭の榛名に弾が集中する。絹を裂くような悲鳴が艦隊に轟く。音速を超える徹甲弾に身体中を引き裂かれ、撃ち抜かれながらも、榛名は最後の力を振り絞って艦首を右に向ける。艦隊に離脱の道をつくるため、激痛にあえぎながら右に転舵していく。

『ここで動けずして、何が高速戦艦か! 霧島、後続の皆をお願い』

 そう言って、榛名は一隻だけで同航戦の構えを見せる。まるで味方の盾となるかのように真正面から敵に砲を向ける。

『何を言ってるのですか。帰るときは全員で。自分の言葉をお忘れですか?』

 霧島が不敵に笑う。ふたりの姉妹はここぞとばかりに敵と殴り合いを始める。どれだけ被弾しようが全く砲撃のリズムを緩めない。二隻の猛攻で、なんとか退路をつくる余裕が生まれた。

 しかし、小さな希望の火は一瞬にして吹き消された。

『電探に感あり。四時の方向より敵艦接近!』

 長良の報告。新手の登場だ。摩耶も急いで電探を確認する。艦種は不明だが、八隻からなる艦隊が一列になって接近してくる。異様なのは敵の先頭だった。一隻だけ四〇ノットを超える速度で突出し、後続を置いてけぼりにしている。それも電探の反応からすると、戦艦クラスの敵だ。

 摩耶の本能が告げる。こいつが敵の主力だ。

「七駆は輪形陣をつくる。空母を囲め」

 渋谷が駆逐艦たちに指示する。摩耶が前方正面に、朧、曙、漣を右舷、潮、霞、陽炎を左舷、不知火をしんがりにつけた。東郷ターンにはショックを受けたが、まだ渋谷は冷静だった。冷静でなければならなかった。なにせ戦況が最悪に近いのは分かり切っていたからだ。敵の第二陣が接近している。このままいけば乙字戦になる。まさに乙の字の中棒のごとく、敵に上下から挟みこまれて逃げ場を失う。敵の第二陣の接近をうけ、味方は相当に混乱していた。

 

 戦局は空母にも伝わっていた。空母の護衛を担当する第七駆が輪形陣に戻ったことで、おおかたの予想はついたが、報告が届くごとに状況は悪化していった。飛龍の戦闘指揮所にて、山口多聞少将は顕体に告げる。

「直衛機の準備をしておきなさい」

 もうすぐ夜が明ける。南雲中将からの指示は届いていないが、山口は自分の判断を飛龍に伝えた。逡巡する飛龍に、山口は続ける。

「艦載機の搭乗員は、きみが命を預かる部下だ。そして彼らはきみを信じて命を預けている。命令は自分で出しなさい」

 厳しくも温かみのある声で山口は言った。飛龍は少し瞳を潤ませ、艦載機の暖気を命じた。

「さて、敵に空母はいるかどうか」

 しだいに白み始めた東の空を見据え、山口は呟く。

『敵艦見ゆ!』長良の声が艦橋に響く。『戦艦一、軽巡二、軽母一、駆逐四。戦艦はル級でもタ級でもありません。未知の形状です』

『直衛機、発艦準備!』

 ようやく南雲の命令が、赤城の口を通して伝えられる。

 

「なんだ、ありゃあ」

 颯爽と乗り込んできた戦艦を見つめながら、摩耶が呆然と呟く。長門型に近い大型戦艦であるにも関わらず、その速度は目算四〇ノットを確実に超えている。明らかにル級など旧来の敵戦艦とは性能を異にしていた。その艦首には、小さな子供のような姿があった。しかし、その姿はヒト型の深海棲艦では特に異形を極める。途中で切断されたかのように直立的な短い脚、そして背中から伸びる巨大な尻尾のような艤装。摩耶と眼があうと、牙を見せて笑いながらぞんざいな敬礼をしてくる。深海棲艦の笑顔に、生理的な嫌悪感を覚える摩耶。

『艦隊を二分します。第七駆と第一〇駆は空母を守りつつ離脱。第八戦隊、第一〇戦隊は敵を食い止めてください』

 赤城が言った。空母を確実に逃がす選択だった。すでに第一陣では、不利な陣形にありながら果敢な砲撃によって敵主力である巡洋戦艦クラスを大破に追い込んでいる。余った戦力で第二陣を叩けば、包囲網を突破するチャンスが生まれるかもしれない。だが敵と直に会いまみえた摩耶には、ただの気休めにしか思えなかった。

「戦艦抜きで勝てるような相手じゃねえだろ!」

 そう叫び、麾下の駆逐艦に砲雷撃戦を命じる。とにかく少しでも奴にダメージを与えなくてはならない。まるで待ち侘びていたかのように、喜々として新種の敵戦艦が砲撃を始める。いきなり至近弾。その水柱の大きさに朧が息を飲む。まともに食らえば一撃で轟沈もありえる威力だった。対して、こちらの砲撃と雷撃はかすりもしない。戦艦とは思えない機動力で器用に弾を回避していく敵。

『対空電探に感あり! 敵艦載機接近』

 不知火から報告が入る。すでに直衛機が発艦したのは飛龍のみ。空母が危ないと判断した摩耶は対空戦闘の準備に入った。針鼠と化した摩耶の艦橋周りから凄まじい数の火線が空に伸びていく。敵の艦爆や艦攻が、つぎつぎと摩耶の針にひっかかる。しかし、さすがに重巡と駆逐艦の弾幕では、敵をすべて落すことはできなかった。弾幕をすり抜けた艦攻が、高い練度を思わせる低空飛行で魚雷を投げ込んでいく。

「まずい! 魚雷が……」

 対空戦闘と砲撃で手いっぱいだった摩耶が、まっすぐ輪形陣に突き進んでくる雷跡を見つけた。このまま直進すれば輪形陣をすり抜け、飛龍の横腹に命中してしまう。そのとき、右舷を守っていた曙が最大船速をかける。タービンが悲鳴をあげた。魚雷は間一髪、彼女の艦首にあたり爆発する。

「守りきれないなんて屈辱は、死んでもゴメンなのよ!」

 苦悶の呻きを噛み殺し、曙が叫んだ。絶妙に被弾箇所を選んだため、奇跡的に損害は少なかった。

 空の戦闘は、しだいに機動部隊の有利に傾いてきた。赤城、加賀、蒼龍から艦戦が発艦し、敵艦爆と艦攻を撃ち落としていく。敵の第二次攻撃隊は、爆弾を捨てて遁走する機も出始めた。しかし、敵の艦戦は手ごわかった。じりじりと消耗を重ねながら、なんとか競り勝っている。

 制空権は確保しつつある。第八戦隊の奮闘で、敵の巡洋戦艦を撃沈。新種の戦艦率いる機動部隊も、軽母ヌ級と戦艦を残し、中・大破が相次いだ。

『敵包囲網を突破します。敵第二陣の旗艦を、これより戦艦レ級と呼称します。第七駆は、レ級を抑えてください』

 赤城の声は苦しげだった。ル級、タ級につづく、新たな戦艦。重巡一隻と、駆逐艦七隻でレ級に挑めば、勝てたとしても味方の被害は計り知れない。艦隊の誰かが犠牲になることを前提にする命令だった。

『空母を守ることがわたしたちの役目。提督、ご命令を』

 毅然とした口調で不知火が言った。

『みんなで一斉に攻めれば、あんな戦艦わけないし!』

 明るい漣の言葉で、艦隊全員が勇気づけられる。

 摩耶は渋谷を見つめていた。渋谷は、強い光を宿す少女の眼をしっかり見据え、何も言わず頷く。

「よし、行くぞお前ら! 深海の生っちろい化物に、第七駆逐隊の意地を見せてやれ!」

 摩耶が吼える。駆逐艦たちが気合の一声で旗艦に応える。艦隊の火薬庫とまで揶揄された問題児だらけのチームが、ついに一丸となった。潮、霞、陽炎が加わり、壁をつくるかのように空母を単縦陣で覆う。あとは正面からの殴り合いだ。敵軽巡、駆逐に雷撃が命中。敵戦艦の砲撃が不知火の艦尾付近を撃ち抜くも、タービンが傷つくことはなかった。陽段しても士気は落ちない。これなら押し切れる。いつまでも笑っていられると思うな。敵戦艦の顕体を睨みつけながら摩耶は思った。

 敵の顕体は、異形の尻尾を左右に振りながら、じっとこちらを見つめている。幼い顔から笑いが消え、見開かれた丸い瞳が、無表情に摩耶を射抜いていた。

「よし、空母を脱出させるぞ!」

 無線に向かい摩耶が言った。ほうぼうに傷を負いながらも艦娘たちの士気が頂点に達する。

 その瞬間、摩耶の視界のなかで、敵の口元が歪む。

 摩耶は脊髄の芯に寒気を覚えた。この世のものとは思えない獰猛な微笑み。暴力と戦争の意志を結晶化させたような、歪な顔。ありえないことに、なおも動き続ける彼女の口は、言葉らしき音を刻んでいる。摩耶は唇の動きから意味を読みとる。

『Humpty Dumpty sat on a wall』

 馴染みの無い発音。だが、それは単なる言葉ではない。連続した音から成る旋律だ。

 上機嫌に揺れる巨大な尻尾。彼女はふたたび摩耶と視線を絡ませる。両の眼窩と唇が嗜虐の形にニタリと歪んだ。

『Humpty Dumpty had a GREAT fall!!』

 意味は分からない。ただ摩耶は恐れを感じた。優勢にあるはずの自分が、なぜか罠にかかかった小動物のような気持ちになった。

 そして摩耶は絶望を見る。海ではなく、空に。

 つい数秒前まで、摩耶を含め艦娘機動部隊の誰もが、ありえない、と思っただろう光景。それが現実のものとして皆の視界を恐怖で染めていく。戦艦から、つぎつぎと艦載機が飛び立っているのだ。その形状も、深海棲艦の空母が運用していた機体とはまるで異なる。人類製の模造品ではない。機体に接続する翼の付け根がふとく、まるで真っ黒な紙ヒコーキのような形だった。しかし、今は機体のことなどどうでもいい。その機は、一〇〇〇ポンドはあろうかという巨大な爆弾を抱えているのだ。

 艦娘の希望が最高潮に達した瞬間、敵は動いた。その行動に、殺意よりも恐ろしい何かを摩耶は感じた。

 馬鹿な、と渋谷も思った。艦娘の発案により技研が研究していた、戦艦が艦載機を運用する新たな艦種、『航空戦艦』。それを、なぜ深海棲艦が。

「対空砲火ァ!」

 悲鳴まじりに摩耶が叫ぶ。大量に飛来する敵機を撃ち落とせるだけの直衛機は残っていない。摩耶と駆逐艦は、ありったけの火砲を空に向けて放つ。しかし敵は高度を保っている。

 しかし、艦娘の懸命な努力を嘲笑うかのように、今度は潮が絶叫する。

『ソナーに感あり。これは……魚雷です! 魚雷多数! 数え切れません!』

 泣きそうな声で潮は言った。白み始めた海には、ゆうに一〇〇近い雷跡が放射線状に撃ちだされている。その緒元は、やはりあの戦艦。砲撃力に加え、艦載機の運用、重雷装艦に匹敵する雷撃能力、さらに駆逐艦を超える速度。

 あの戦艦一隻で、一個艦隊の力を有している。

 空と海との挟み撃ち。摩耶は持てる限りの爆雷を投下する。それでも防ぎきれる量ではない。判別不能なほど悲鳴が重なり合う。陣をすり抜ける魚雷。落しきれなかった艦載機の急降下爆撃。ついに空母に火が灯る。赤城、加賀が被弾、なんとか蒼龍が回避行動をとっている。

「諦めるな! 撃ち続けろ!」

 喉が潰れてもなお、摩耶は艦隊を鼓舞する。

『第八戦隊が戻って来たわ! 霧島さんよ!』

 北東から迫る艦影を見て、陽炎が歓喜した。もうもうと黒煙をあげながらも、高速戦艦の名に恥じない速度で霧島を筆頭に、生き残った艦が応援に駆け付ける。

『摩耶、もう少し耐えて。今行くから!』

 ゆるぎない声で霧島が言った。幸い、雷跡は見えている。あとは敵の砲弾があたらないことを祈るだけだ。もう少し。摩耶は思った。しかし、そんな儚い希望も、突如として横腹に炸裂する衝撃と炎に吹き飛ばされる。ボイラーが何基か潰れたのが分かる。人間ならば内臓破裂に等しい激痛が摩耶を襲う。流れ込んでくる海水。腹の中身を掻きまわされる感覚。口から飛び出そうになる胃袋を無理やり押し戻し、摩耶は海を睨んだ。雷跡は見えなかった。なぜ。

『まさか、甲標的まで?』

 震える声で霞が言った。甲標的とは、小型の潜水艦のようなもので、水面下を潜航して敵艦に近づき、至近距離から魚雷を発射する。レ級本体から撃ちだされる放射線の間を、甲標的が潜航していたらしい。つまり派手な雷撃は囮で、ひっそり接近していた甲標的からの魚雷こそが本命の攻撃だったのだ。敵は、まるでピアノの白鍵と黒鍵のように、魚雷と甲標的とを互い違いに組み合わせていた。

「摩耶、無事か!」

 腹を抑えてしゃがみこむ摩耶に、渋谷が駆け寄る。

「こんな痛み、幻想にすぎねえよ。それより敵を見てくれ」

 眼をぎらつかせて立ち上がる摩耶。敵はいまだ憎たらしげに微笑んでいる。

『砲撃開始!』

 ついに霧島率いる第八戦隊が攻撃に加わる。それでも、敵は摩耶から視線を逸らさなかった。

『―――Couldn’t put Humpty together again♪』

 歌が終わる。刹那、摩耶と渋谷の視界に光が炸裂した。

 速度が落ちて回避行動が遅れた瞬間、敵の砲撃が艦橋に直撃した。たて続けに二発。一瞬一瞬が、コマ送りのように見えた。粉雪のごとく横殴りに散るガラス、ボコボコと膨れ上がる炎。宙に浮いた渋谷の身体を抱きとめる。直後、ふたりは艦橋から放り出された。抉れた鋼に片手でつかまり、片手で渋谷の右手を掴んだ。艦の傾斜角は二〇度。このまま落ちれば、運がよくて海。下手をすると甲板に叩きつけられる。喫水線も少しずつ上昇していた。

 摩耶は轟沈を覚悟した。

 だけど、ただでは死なない。せめて提督だけは。渋谷を引き上げようとする。しかし渋谷は朦朧とする目に力を込めて彼女を制止した。力なく開いた唇から不明瞭な言葉が洩れる。

「……俺に構うな。撃て、動け」

「馬鹿言うな!」

 摩耶の声に涙の気配が混じる。敵弾が、今度は艦尾をかすめた。しかし今の状態では砲撃はおろか回避行動もままならない。格好の的だ。

「艦隊を守れ」

摩耶を見上げ、いつものように渋谷は笑う。頬に熱い雫を感じる。摩耶は唇を噛みしめ、言葉にならない呻きをあげる。渋谷への感情ばかりが涙となって滂沱のごとく流れ出す。

「おまえは生きろ」

 渋谷は自ら手の力を緩めた。骨が折れそうなほど摩耶は握りしめてくる。だが無情な重力はふたりを引き裂く。手と手が離れる。渋谷は摩耶の顔を目に焼きつけながら落ちていく。遠くから砲撃音が聞こえる。霧島、榛名、利根、筑摩が四隻がかりでレ級と撃ちあっている。空母は無事だろうか。

 摩耶、すまない。

 海に抱かれた瞬間、浮かんでは消えていく様々な想いが、深い闇に溶けて沈んだ。

 

 

 水戸涼子少尉の駆る紫電改が、空母機動部隊から緊急の入電を受けたのは、ガ島飛行場への爆撃が終わった直後だった。報告を理解し、愕然とする。敵機動部隊の襲撃を受けている。可能ならば艦戦をこちらに回してくれ、という内容だった。涼子は思案する。飛行場を念入りに爆撃した後となっては、燃料はガ島からラバウルまでの片道で精いっぱいだ。娘機動部隊の位置は、ガ島とラバウルの直線航路から、南に約三〇キロずれている。もし対空戦闘をすれば、燃料が足りなくなる恐れがある。その場合は四隻の空母のいずれかに着艦しなければならない。しかし、もし四隻とも飛行甲板が破壊されていたら、その先にあるのは広大な海への不時着だけだ。生き残れる確率は、ほぼゼロだ。

 それでも涼子は決意する。一度腹を括ってしまえば、もう躊躇うことはなかった。自分の僚機として搭乗している、腕ききの操縦士五人に信号を送る。

「ひとり一〇、いや二〇機落そう。そうすれば敵も諦めるさ!」

 持ち前の明るさで涼子は言った。敵は手負いの軽空母と航空戦艦。多聞丸と幾田にしごき抜かれた精鋭たちが応援に向かえば、練度の低い敵など蚊トンボのように撃ち落とせる。ただ、戦闘に勝てたとしても無事ラバウルに帰還できるかは賭けだった。

 残りの艦戦部隊は、敵の報復にそなえて艦爆、艦攻隊を守る使命がある。応援に行けるのは、涼子を含め六名のみ。

 六機の銀翼が、曙光の煌めきをまといながら、新たな戦場に飛んでいく。

 そこで見たのは、地獄のような光景だった。黒い敵の艦載機が、卑しいカラスのように無力な空母たちに群がり襲っている。赤城、加賀からは飛行甲板が見えないほど黒煙が上がり、蒼龍も艦首に大穴が開いている。辛うじて飛龍だけが、甲板からなけなしの艦戦を発艦させていた。

 怒りに燃える六機は、猛禽のごとくカラスに牙を剥く。空は彼女たちの独壇場だった。風を操るように敵の攻撃をかわし、背後から機銃弾を叩きこんでいく。だが、いかんせん多勢に無勢だ。

「まずい!」

 涼子は機体を降下させる。撃ち漏らした敵機が、飛龍に急降下爆撃をかけた。錐で抉るように鋭い、命を顧みない急降下。もしかしたら敵に命などないのかもしれない。涼子は顔を青くしながら思った。飛龍の甲板が吹き飛ぶ。ちくしょう、と涼子は叫んだ。これで着艦できる空母はいなくなった。

 制空権は、ふたたびこちらに戻りつつある。だが、敵機を完全に駆逐する頃には、我々の燃料がもたない。涼子は後ろを振り返る。恐怖を飲み込んで自分についてきてくれた仲間たち。彼らを死なせることはできない。

「総員、ただちにラバウルに帰投せよ。ここは、わたしに任せて」

 涼子は言った。僚機からの抗議は受け付けなかった。やがて仲間たちは彼女に敬礼しながら戦場を離脱する。彼らの脱出を見届け、涼子はもう一度海面を見る。味方も、少しずつ脱出している。傾いた重巡がいる。艦橋の半分が吹き飛び、炎をあげている。気づかないうちに、砕けそうなほど奥歯を食いしばっていた。

あとは自分が、すこしでも敵をすり潰せばいい。

「さあ、かかってきなさい!」

 怒りと悲しみを力に変えて、涼子は叫んだ。

 




最大規模の激戦となりました。

なぜ深海棲艦は、これほどまでに急激な進化を遂げたのか。
次回、深海棲艦の核心部分が少しだけ顔を覗かせます。


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