一九四三年二月。
艦隊の火薬庫。
渋谷が率いる異形の駆逐隊、重巡「摩耶」を旗艦とする、「朧」「曙」「潮」「漣」「陽炎」「不知火」「霞」から成る第七駆逐隊は、運用二週間にして、早くも同僚たちから不名誉な渾名を頂戴することになった。なにせ問題児が多い。まず曙と霞は平気で提督を罵倒する。演習に不満があれば命令無視は当たり前。さらに曙は霞と、霞は元祖第七駆逐隊の四隻とよく衝突した。演習が崩壊しかかるたび、摩耶が怒って威嚇射撃をする始末。それに対し、指揮権の濫用だと叫び、応戦する駆逐艦。漣や潮が曙を宥め、陽炎が霞を宥めることで、どうにか部隊としての体裁を保っていた。しかし事態をややこしくするのは、摩耶、曙、霞だけではなかった。隠れた問題児がいたのである。それが朧だった。第七駆逐のオリジナルメンバーだった彼女は、合併相手である第一八駆逐隊の面々を快く思っていなかった。とくに長女気質でリーダーシップの強い陽炎が、「第七駆逐隊」駆逐艦の代表として周知されていることが許せないようで、元一八駆のメンバーにつっかかる。
同じ部隊内に、幾重にも火線が交差しあい、ちょっとの刺激で乱戦が始まる。まさにヨーロッパの火薬庫ならぬ艦隊の火薬庫であった。唯一希望があるとすれば不知火だ。彼女が傍にいるときは、曙と霞は大人しくなる。
渋谷にとっての生命線は、リーダー的存在の陽炎、鬼軍曹のごとき威厳を持つ不知火、そして面倒見がよく優しい漣だった。この三人を如何に使いこなすかによって部隊の運命が決まる。訓練は毎日が冷や汗ものだった。まるで複雑極まる川渡しクイズに挑戦しているかのようだ。
そこで渋谷は、午後の教練と夕食の間をつかって、麾下の艦娘を一日一人ずつ散歩にさそった。海岸沿いを歩いたり、それぞれの艦の甲板を一周したりした。とにかく会話しないことには絆は生まれない。曙と霞も、この時間だけは悪態を少なめにして、普段感じていることや仲間への感想を話してくれた。
ただ、摩耶だけは誘っても来なかった。最近不機嫌な彼女は、新たな心配の種だった。
摩耶のことは気になったが、今日は朧の番だ。気持ちを切り替える。彼女のリクエストで、渋谷は鎮守府から少し離れた磯辺を歩いていた。磯溜まりを覗きこみ、ヒトデや蟹を嬉しそうに捕まえる朧は年相応の少女に見えた。演習中の剣呑な空気が嘘みたいだ。
「最近、仲間たちとはどうだ?」
「あいつらを仲間だなんて思ってないよ」
掌に乗せた蟹を眺めながら、さらりと朧は言った。
「あたしの仲間は、七駆のみんなだけ。陽炎型のネームシップか何か知らないけど、あいつが七駆の代表なんて認めない。なにさ、優等生ぶっちゃって。あいつがリーダーなんて認めてないんだから!」
普段溜めこんでいた不満をぶちまけていく朧。新参者の陽炎と不知火が提督に頼りにされていることも気に喰わないらしい。渋谷への口調には棘があった。
「だが、陽炎はきみのことを嫌ってはいないぞ。もっと七駆の子たちと仲良くなりたがっていた」
「だから、そういうところが嫌いだって言ってんの!」
声を荒げる朧。渋谷は神妙な顔をしつつも、そろそろ本音が聞けそうだと内心期待していた。
「どうしてあたしを嫌わないの。怒らないの。あたしは嫌われて当然のことをした。あいつの化けの皮剥がしたくて、ひどいことを言った。なのに」
声に悲しみが混じり始めた。どうやら渋谷の与り知らぬところで一悶着あったらしい。じっくり腰を据えて聞く必要がある。渋谷は話を促した。
「どうせ一八駆でもリーダーだったんでしょ。仲間を守れなかったマヌケなリーダー。霰を沈めたマヌケ。初めて艦娘を海に沈めた馬鹿。それどころか、自分の提督も守れず殺してしまった。そんな奴がうちに来て、いきなり指導者づらすんな。あんたに任せたら七駆の仲間たちが殺される。殴られるのを覚悟で言った。でも、あいつは殴らなかった。泣いてたんだ。泣きながら逃げてった。でも明日には平気な顔してるんだ。笑って皆の先頭に立って、訓練に行くんだ」
朧は言った。白峰の戦死、吹雪と霰の轟沈は、艦娘の間でも大きな影を落としているようだった。
「軽蔑した?」
朧が問う。渋谷は黙って首を横に振った。
「まだ、きみを軽蔑したりしない。これからきみはどうしたい?」
逆に渋谷は質問する。しばらく眉根を寄せて逡巡したのち、朧はそっと蟹を海に帰した。
「あいつと話をしたい。今度は逃がさないように、ちゃんと話したい」
凛とした声。瞳には決意が灯っている。怒りと悲しみと寂しさ。それぞれの感情が燃えたぎり、彼女に力を与えている。
「行ってこい。ただし艦船による戦闘は許さん」
「ありがとう、提督」
そう呟き、朧は走り出す。
その後、鎮守府に戻り陽炎の部屋に飛び込んだ。幸い、同室の不知火と霞はいなかった。激しい口論が始まり、やがて殴り合いのケンカが始まる。騒ぎを聞きつけた霞を交えての乱闘が始まる。そこに曙が加わり、宿舎は地獄絵図と化した。呆れた不知火が長門に仲裁を依頼し、彼女の怒号とげんこつをもって事態は収束した。
長門は怪訝な顔で渋谷に説明する。喧嘩していた当人たちは、楽しそうに笑っていたという。それを聞いた渋谷は安堵の息を吐いた。罰として朧と陽炎には一週間の風呂場掃除が科されたが、浴場には二人と並んでタワシを手にする渋谷の姿もあったという。喧嘩を煽った連帯責任とのことだった。
朧と陽炎が和解したことで、ひとつだけだが火線が消えた。それだけでも艦隊運営はかなり容易になった。いよいよニューギニア侵攻の準備も本格的になり、演習の回数は増えていった。
ようやく体裁の整ってきた第七駆逐隊を見て、南田中将は、艦娘同士の演習を許可した。
相手は、幾田サヲトメ中佐率いる第一一駆逐隊「叢雲」「白雪」「初雪」「深雪」だった。彼女は今日、演習の挨拶がてらラバウル鎮守府を訪れる予定だ。問いただしたいことが山ほどある。ちょうどよい機会だと渋谷は思った。しかし、あの幾田がそうそう思い通り会話の席についてくれるはずがなかった。
摩耶をともない、会議室で待機する渋谷。そこに現れた幾田は、予想外の人物を引きつれていた。
「久しぶりね、渋谷少佐。このたびは演習、よろしくお願いします」
にこやかに幾田は言った。彼女の隣には二人の女性。秘書艦の叢雲とともに並ぶのは、まぎれもなく人間の女性だった。海軍の軍服、その襟元には少尉の階級章がついている。
「先に紹介しておくわね。ラバウルに創設された、艦娘空母部隊専門の航空戦力となる、第二二飛行隊に配属された、水戸涼子少尉よ」
「ご紹介に預かりました、水戸涼子です。よろしくお願いします!」
元気よく敬礼する若い操縦士。まだ幼さの残る小顔。大きな瞳に、ショートカットの髪がよく似合う。艦娘に例えるなら千歳だろうか。戦闘機乗りとは思えない、可憐な女性だった。
海軍では小回りのきく艦載機のパイロットとして積極的に女性を任用していた。まだ数は少ないが、すでに実戦を経験している者も多く、その腕は男性にも引けを取らない。かつて幾田も艦上爆撃機の操縦をしており、飛行要員の女性士官たちは、皆が時代の先駆者である幾田を尊敬していた。その中でも水戸は幾田の秘蔵っ子だった。本土の予備練習隊では幾田が直接、彼女を指導した。あまりに熱が入り過ぎて、周囲から下卑た想像を向けられるほどだったという。
「彼女は、艦載機の操縦士として艦娘に乗ることを初めて了解してくれた人なの。やはり皆不安なのよ。いくら艦娘が人類の味方をしてくれるとはいえ、未知の兵器に命を預けたくはないでしょう? だから、こうして艦娘に搭乗する飛行要員たちは、艦娘と触れ合いながら訓練を受けてもらうの。ちょうど、鎮守府には鳳翔さんと千代田がいるから、パイロットたちもここで生活してもらうわ」
幾田が説明する。なるほど、艦娘に続いて人間も加わり、さらにこの鎮守府は大所帯になるらしい。
「ちなみに、第二二飛行隊は女性を中心にした部隊だから、男性特有のがさつな指導は必要ないので気をつけてね。わかっているとは思うけど、女性士官に不埒な真似をすれば、本当に銃殺刑だから」
友人といえども、きっちり釘を刺す幾田。女性の任用にあたり、軍令部は風紀を厳しくしていた。つまらない男女間のいざこざが起これば、戦争以前に帝国海軍の威信に関わるからだ。
幾田は、前に出るよう水戸にすすめる。渋谷の前に立ち、若い女性はふたたび敬礼する。
「第二二飛行隊を代表して、鎮守府提督の渋谷少佐に挨拶に参りました。艦娘との交流におきましては、御指導御鞭撻、よろしくお願いします!」
そう言って、きびきびと退出していく。渋谷は、半ばあっけに取られて彼女の後ろ姿を見送った。
「さて、あなたが渋谷くんの秘書艦ね」
幾田の視線が摩耶にうつる。摩耶は一言も喋らず、じっと幾田を見つめていた。
「もし演習に出るなら、お手柔らかにお願いするわ。こちらは駆逐艦しかいないんですもの」
そう言って、幾田は握手を求める。摩耶は何も言わず、差しだされた手を握り返した。彼女たちのやり取りを、少し離れたところで叢雲が見ていた。渋谷が出会ったばかりのころ、叢雲には表面的な怒りと不満ばかりが目についたが、今の彼女の瞳は深い感情をたたえていた。人間同様、艦娘にも気持ちの浮き沈みがある。しかし、まるで浮上することを忘れたみたいに、彼女の気持ちは深いところに留まり続けている。その悲しみとも憂いともつかない瞳の色が、今まで見てきた他のどの艦娘よりも一線を画する存在感を彼女に与えていた。
「では渋谷少佐、演習を楽しみにしています」
終始、会話の主導権を握ったまま、有無を言わせず面会を締めくくる。艶やかな黒髪をなびかせながら、叢雲を従え颯爽と退出していった。
「あいつ、やばいな」
ぼそりと摩耶が言った。
「あいつ、とは幾田中佐のことか?」
渋谷が尋ねると、摩耶は苛立たしげに喉を鳴らした。
「戦争を知っている目だ。それも悪い方に傾いちまってる。あいつとは今初めて会ったけど、はっきり分かる。できればもう二度と鉢合わせたくない相手だ」
そう吐き捨てると、「演習にあたしを出すのか?」と問うた。
「そのつもりだ。相手のほうが練度も高く、火器管制のための補助人員も乗船している。駆逐艦二隻、それにおまえが加わってようやく互角といったところか」
渋谷が答えると、摩耶はほんの少しだけ表情を和らげた。
「気をつけろよ。ああいう奴は、何してくるかわからない」
そう言って、早足に部屋をでていく摩耶。今からでも幾田を追いかけたい気分だったが、彼女は今回の作戦立案にも携わっている重要人物。下手に刺激して作戦本部との関係を悪くすれば、思いがけないとばっちりを食らう可能性がある。今は彼女と彼女の部下である艦娘を信じるしかなかった。
演習は、大方の予想どおり幾田の勝利に終わった。
観戦していた作戦部の参謀たちは、過酷な戦力差を引っくり返して勝利した幾田の手腕を讃えた。しかし、艦娘を直に率いる者にとって、あるいは砲火を交えた艦娘たちにとって、幾田の行動は感情的に受容できるものではなかった。
当初、戦局は渋谷艦隊に有利だった。摩耶を先頭に、うまく一斉回頭をつかいこなし、敵が単縦陣に移行する前に同航戦の準備を整えた。ところが、そこから幾田の逆襲が始まった。深雪が単艦にて、渋谷単縦陣の懐に突っ込んできたのだ。これに喜んだ陽炎、曙、霞と、予想外の行動に畏れをなした潮、漣、朧が砲撃を開始。砲撃が深雪に集中している間、叢雲を先頭に幾田艦隊が摩耶の進路をふさぐようにして丁字戦に持ち込み始めた。ここで即座に摩耶が回頭を始めた。丁字不利になる前に砲雷撃戦にうつろうとした渋谷にとって晴天の霹靂だった。完全なる命令無視。突然の回頭に、駆逐艦たちは慌てふためいた。摩耶に続いてスムーズに逐次回頭ができたのは、陽炎と不知火だけだった。あとの艦は隊列を乱してしまい、ばらばらに回頭を始めた。海の上で進路を変えれば、その時間は敵から見れば止まっているのと同じで格好の的である。そこに、叢雲、白雪、初雪からの砲雷撃を叩きこまれた。演習用の弾や魚雷が実際に着弾することはないが、その砲撃音は皆を恐怖させた。
結果、逃げ切れたのは摩耶、陽炎、不知火のみ。漣は小破、朧、曙大破。潮と霞は轟沈判定となった。敵はといえば、深雪一隻のみ轟沈にとどめ、他は無傷だった。演習後の検討会は騒乱を極めた。いつもは、やれ動きがのろいだの、やれ砲撃が下手くそだの、指揮がなってないだの、提督を交えて仲間内での非難叱責がほとんどだった。しかし今回は違う。攻撃の矛先は、まずは敵の戦術に、つづいてそれを指示した幾田中佐に向いた。
「艦娘を愚弄してるわ! あんなの捨て艦と同じじゃない!」
青筋を立てんばかりに霞が喚く。
「とかげの尻尾切りか。こんなふざけた命令に従う艦娘も艦娘なら、提督も糞極まりないわね」
曙が憎たらしげに言った。
「深雪、可哀そう」
泣きそうな顔で潮が呟く。
「あんな命令にも、ちゃんと従ってたよね。だから余計に可哀そうだし、相手の提督が許せないんだ」
朧が強い瞳で渋谷にまくしたてる。
艦娘たちが共通の敵を前に一致団結している反面、渋谷の心は揺れていた。完敗であることは明らかだ。それは提督の力量差として無条件に受け止めている。しかし、ひとりの人間としての渋谷礼輔は、やはり幾田の戦術に反発していた。捨て艦。霞の言葉が、脳裏にまとわりついて離れない。味方の艦を囮にする。本来ならば絶対にやってはいけない悪手だ。駆逐艦といえども、乗員は二百名を超える。それだけの人間を十死零生の戦況に放りこみ、むざむざ殺させるなど出来るはずもない。
だが、艦娘となれば話は違う。人間が乗り込んでも数十人。もっといえば、艦娘ひとりでも航行が可能。ならば、駆逐艦一隻(一人)と引き換えに勝利できるのなら、と考えることは合理性から逸脱しない。
こんなことを考えついた自分に嫌悪する。
一通り敵への罵詈雑言を吐いたあと、おなじみの阿鼻叫喚の反省会に突入する。
「それにしても、あんたが命令無視しなければ、ここまでの被害は出なかったと思うわ」
摩耶を指さす霞。彼女は相手が提督だろうが重巡だろうが物怖じしない。
「そうよ。なんで勝手に進路を変えたの? あのまま同航戦してれば、被害は変わらなくても相手を一隻くらい沈めることができたはずよ」
珍しく曙と霞の意見があった。
「もしかして、怖かったの? たしかに、あのままだったらあんたに砲撃が集中してたわよね。火薬だけの空鉄砲が、そんなに怖いの?」
霞の怒りは止まらない。本来なら鉄拳を食らってもおかしくない挑発。しかし摩耶は目を閉じたまま反論もせずに座っていた。それが余計に皆の神経を逆撫でした。
「開き直るの? なんとか言いなさいよ!」
金切り声で霞が叫んだ。漣や朧たちの視線も、なんとなく非難の色を含んでいる。それでも摩耶は沈黙を保ち続ける。
「おい糞提督。あんたからも何か言いなさいよ。あいつは命令違反したのよ。あたしらがちょっと喧嘩しただけでギャーギャーうるさいくせに、なんで何も言わないの」
曙が不満をぶちまける。たしかに摩耶が命令違反したことは事実だ。ここで何も言わなければ、依怙贔屓と受け取られ、部下の信用を失いかねない。
「摩耶、今回のことだが……」
いきなり摩耶は立ち上がった。一瞬だけ渋谷を睨みつける。食いしばった歯。怒りに歪んだ目は、むしろ奥に隠れた悲しみを際立たせる。
いつもの悪態をつくこともなく、摩耶は黙って部屋を去る。
「おいこら、逃げんな!」
追いかけようとする霞の首根っこをつかみ、陽炎が制止した。
「落ち着いて。みんなして摩耶さんひとりを責めても仕方ないでしょ! 敵の囮に気を取られて砲撃して、集中力を欠いたのはわたしたちだって同じ。検討すべきは、わたしたちひとりひとりが、いかに敵の欺騙にひっかからないか。そうでしょう?」
腰に手をあて、ぴしゃりと陽炎が言った。まだ不満げな霞や曙、朧を不知火が一睨みで黙らせる。
「摩耶さんは旗艦です」
検討会でも滅多に喋らない不知火の言葉に、場が静まりかえった。
「旗艦が沈めばどういうことになるか習ったでしょう。艦隊は壊滅します。不利な戦況になれば、わたしたちは旗艦を守らなければならない。でも、あの状態ではできそうになかった。だから摩耶さんは一人で逃げざるをえなかった。ある意味、その判断は正しかったのです。命令違反は確かにいただけませんが、落ち度があるのは我々全員です」
大人びた、静かな声だった。会議室は落ち着きを取り戻した。
それ以降、検討会は珍しく理性的に進んだ。
「提督、申し訳ありませんでした」
いつの間にか不知火が隣に来ていた。
「わたしたちはヒトであり兵器です。でも演習のとき、自分たちが兵器であることを忘れていました。個人の想いを優先するあまり周囲が見えず、合理的であるべき戦場の思考を失くしていたのです。その結果、敗北を招きました。戦いにおいては、兵器になりきるべきだったのです。深雪は兵器になりきっていたのでしょう。それが正しいのです。だから、わたしは彼女を憐れむことはしません」
不知火は言った。その瞳は、駆逐艦娘とは思えないほど理知に満ちていた。
「きみの言う通りだ。しかし、きみたちが、きみたちの心がヒトであることは、まぎれもない事実だ。たとえ戦場における行動理念が兵器のそれだとしても、最後に従うべき心は人間であることを忘れないでほしい」
そう言って、渋谷は立ち上がる。会議室を出た渋谷は、摩耶を探して鎮守府をかけずり回った。
「それは、ある意味、人間のエゴですよ。提督」
少し寂しそうに不知火は微笑んだ。
作戦本部の一室で、幾田サヲトメは何をするでもなく執務机に向かっていた。今回の演習は成功と言えた。もし摩耶が退避しなくても、こちらの損害は軽微だっただろう。部下の艦娘たちも指示の通り動いた。予定通りだった。幾田は重い腰をあげる。まだ海を見る気にはなれなかった。廊下から足音がする。壁に背をあずけ、飾り気のない天井を見上げる。
「提督、いるの?」
ドアの向こうから秘書の声がする。幾田は入室を許可した。
「何よ、灯りもつけないで」
入るなり、叢雲は不機嫌そうに言った。すでに陽は水平線の向こうに隠れている。暗闇に浸るようにして、幾田は生気のない顔で叢雲を見つめる。力なく垂れ下がる左腕。鈍く光る銀の指輪を、叢雲は忌々しげに一瞥する。
「今回の演習、あれはどういうことなの」
正面から対峙する叢雲。深雪一隻を犠牲にする作戦を、叢雲だけは事前に聞かされていなかった。
「それを知ったら、あなたは演習中でも反発するでしょう。旗艦の決心が乱れたら、麾下の部隊は壊滅する。だから、あえてあなたには伝えなかった」
さらり、と幾田は答える。
「ふざけないで!」
瞳孔を収縮させ、叢雲は吼えた。
「反発するに決まってるでしょ! 平気でわたしたちを囮にして犠牲にするなんて。深雪、泣いてたのよ。演習に勝って、誰も喜ばない。皆、不安でしょうがないのよ。本当の戦いで沈められたらどうしようって。これじゃ、あんたと一緒に戦えない。あんな作戦を平気で立てるあんたを信用できない」
まくしたてる叢雲。いちばん辛そうなのは彼女だった。敬愛する提督だからこそ、艦娘である自分たちに仇為す行動が辛い。愛する人を許せないことが、こんなにも辛い。
「わたしのこと、嫌いになった?」
「ええ。今のあんたなんか大っきらい」
叢雲は吐き捨てる。嫌いだ。死んだ人間に囚われて、愛する人間の形見を呪縛みたいな首輪に変えて。叢雲は叫びたかった。死者のことなど忘れろ。本当に婚約者を弔いたければ勝たねばならぬ。勝ちたいなら、艦娘だけを見ろ。
わたしだけを見ろ。
しかし、叢雲は言えない。彼女の心は人間と同じだ。愛する者を喪う気持ちは共感できる。残酷な言葉を吐きたくない。しかし、傷ついた心に鞭打ってでも幾田には自分の提督でいて欲しい。ともに戦い、ともに泣いて、最後には喜びを分かち合う仲間として。そのジレンマに挟まれ、叢雲は口を開けない。ただ喰いしばった歯の隙間から洩れる荒い息づかいが、やり場のない彼女の感情を物語る。
「ごめんね、叢雲」整った青白い顔に、寂しげな微笑みが浮かぶ。「それでも、わたしはあなたを使う。あなたたちを使う。勝つために」
その目尻から、一筋の涙が伝った。形の良いおとがいから、ぽつり、ぽつり、と零れ落ちる。
「馬鹿!」
怒りとも悲しみともつかない声で叢雲は叫んだ。提督に言ったのか、自分に言ったのか、それすら叢雲には分からない。ただ今は行動で示した。壁から引き剥がすように提督の身体を抱きしめる。提督は体を捩って抵抗するが、やがて抱擁に身をまかせた。震える両手が、弱々しく叢雲の腰に回り、縋るように爪を立てた。
ただ、こうすることしかできなかった。言葉はいらない。どうせ互いを傷つけるだけだ。なれば叢雲は、さらに強く自らの提督を抱きしめる。幾田は静かに涙を流す。誰が為の涙なのか叢雲には分からない。それでもせめて、彼女の傷が癒えるよう、幼い身体でめいっぱい受け止める。いつの間にか自分も泣いていることに叢雲は気づいた。普段の彼女なら決して見せない、子どものようにみっともない、嗚咽まじりの号泣だった。
結局、渋谷は摩耶を見つけることはできなかった。
港の外れまで来てしまった。すでに陽は落ち、ラバウルの空には星がまたたき始めていた。鎮守府に戻るため波止場を歩いていると、前から人影が走ってくる。小柄な女性は、渋谷を見るなり笑顔で近づいてきた。
「こんな姿で失礼します。渋谷少佐ですよね。この前はお世話になりました」
ランニングシャツというラフな格好で、水戸涼子少尉は言った。どうやら自主的に走り込みをしていたらしい。艦載機の操縦といえども機械式の操縦桿を動かすには、それなりに体力を消耗する。
「どうかしましたか? 元気がないようですが」
目ざとく渋谷の表情を読みとり、涼子が尋ねる。摩耶と年齢層の近いこの子ならば、相談相手になるかもしれない。一縷の望みを渋谷は抱いた。
「恥ずかしい限りだが、秘書艦である摩耶とうまくいっていないんだ」
摩耶が不機嫌になった経緯と、今回の演習のことをかいつまんで説明する。涼子は真剣に耳を傾けていた。
「ちょっと、この辺を歩きませんか」
涼子の提案を受け入れる渋谷。海岸沿いを歩きながら、今度は彼女が自分の見解を述べていく。
「演習、見ていました。わたしは飛行機乗りなので戦術の深い知識はありませんが、あの状況では少佐の判断は正しかったと思います。僭越ながら申し上げますと、少佐の選択が百点とするなら、摩耶さんの行動は六〇点くらいでしょうか。間違っているとは言い切れませんが、やはり好ましい選択ではありません。それをあえて選んだというなら、摩耶さんには戦闘に勝つための戦術より、もっと他の何かを優先する戦術をとったということでしょう」
これは、わたしの推測にすぎませんが、と涼子は続ける。
「摩耶さんは、少佐を守りたかったのだと思います。麾下の駆逐艦を犠牲にしてでも、提督の命を守るために戦闘海域からの離脱を選んだのだと。摩耶さんとは、まだ直接お話させてもらったことはありませんが、分かるんです。彼女は本当に少佐のことを大切にしています。新しい駆逐艦の子が入ってきて不機嫌になったのも、たぶん少佐といられる時間が少なくなって不満なのでしょう。彼女たちは人間と変わりません。優しさも悲しみも、誰かを想う気持ちがこじれて嫉妬したりなんかも、人間と同じです」
「では、やはり摩耶は俺の安全を確保するために」
「そうとしか考えられないです」
涼子は自信に満ちた声で言った。不知火の言葉でなんとなく見当はついていたが、改めて指摘されると気持ちが混乱した。部下として自分を慕ってくれるのは嬉しい。しかし、そこから戦場の思考が抜け落ちて、単なる個人の我儘になってしまうのは危険だ。ふたつの想いに板ばさみになりつつも、渋谷は摩耶との関係を修復することを望んだ。涼子に教えを乞いたいのは、その手段だ。
「そういうことでしたら、何か贈り物をするのはいかがでしょう」
涼子は少し照れたように言った。
「しかし、ご機嫌取りだと思われないだろうか」
「相手のことをよく考えて選んだなら、きっと大丈夫です。摩耶さんは、言葉づかいや表情はきついですけど、きっと繊細な心をお持ちなんだと思います。少佐だけが知っている彼女の繊細さにふさわしい贈り物ならば、きっと彼女は喜んでくれるでしょう」
「そういうものだろうか」
「はい。子女なら誰しも、贈り物を頂ければ嬉しいですよ。それが自分の性格に合致したものならなおさら。艦娘も普通の女子と同じなんです。わたしは訓練生のとき、航空母艦の鳳翔さんにお世話になったことがありましたから、よく分かります。同じなんです。だから、わたしは艦娘さんの空母に乗ろうと決めたんです」
芯の通った声だった。気がつくと、鎮守府の近くまで歩いていた。渋谷は礼を言って涼子と別れる。そして摩耶のことを想った。乱暴で攻撃的でありながら、その思考は深く、感性は繊細な乙女そのものだ。そして驚くほど何事も器用にこなす。
ふと、渋谷は思いついた。これなら摩耶のお眼鏡にかなうのではないか。さっそく渋谷は、まだ使用されていない木造鎮守府の奥へと足を進めた。
演習から二日後。摩耶を先頭に、七隻の駆逐艦たちが逐次回頭の訓練を行っていた。重油がもったいないので、できるだけ速度を落としての航行だ。前線とあって、念のため火器の制御系統も掌握していたが、今のところ使用することはなさそうだ。艦首に立つ摩耶は忌々しげに鎮守府を睨みつけていた。珍しく渋谷は摩耶に乗艦していない。お偉方との会議と言っていたが、本当かどうか疑わしい。無性に沸いてくる悲しみを、無理やり苛立ちを燃やすことで掻き消していた。
「左四〇度、逐次回頭用意! 陸地の方角には敵が待ち構えていると思え。集中切らすな!」
摩耶が指示を飛ばす。旗艦の摩耶に続いて、潮、曙、漣、霞、朧が一隻ずつ回頭していく。しんがりは陽炎と不知火が務めていた。今回はうまくいった。全員が隊列を乱すことなく向きを変えて進んでいく。
時刻はもう正午だ。ここらで切り上げたほうがいいだろう、と摩耶は判断した。隊列を揃えての逐次回頭は本職の軍人でも難しい。駆逐艦たちは久々に成功の喜びを噛みしめている。
摩耶が帰港を指示しようとしたとき、ふと潮から妙な通信が入った。
『あの、摩耶さん』
「潮か。どうした?」
『対空電探に変な反応がありました。故障しているかもしれないんですが、東の空に……』
聞き終える前に、がばっと頭を上げる摩耶。索敵に全集中を傾け、雲のかかったソロモン海の空を睨んだ。乳白色の雲に、色の違和感が微かにある。それは横一列に並び、少しずつ、しかし確実に移動していた。
ただちに信号を飛ばす摩耶。友軍機の返信なし。
「敵襲だ!」
摩耶は叫んだ。駆逐艦たちが慌てる前に、対空火器の準備を通達する。つづいて鎮守府に対しても電信を送った。数分後、陸地に緊急時のサイレンが鳴り響く。
『敵航空機視認。その数……およそ二〇!』
不知火が報告する。いったいどこから来たのだろうか。本土急襲の教訓を活かし、島の周辺には常に哨戒艇が出ている。空母の類がいれば、すぐ発見されるはずだ。
「艦列を整える! 鎮守府に対し単縦陣をとれ! 敵機をひきつけ、対空砲火を浴びせろ!」
鎮守府を守れ! 摩耶が怒号を上げる。敵機は恐ろしい速度で低空を飛行している。舐め切ってやがる、と摩耶は思った。完全に海の艦など眼中にない様子だった。
艦娘の視力は、人間を遥かに上回る。すでに摩耶は敵機の全貌を捉えていた。空母に積むのは不向きな、巨大な翼。明らかに陸上から飛び立つことを前提に作られた大型の爆撃機だ。
もし飛行場が爆撃されたら、戦闘機を出すことができなくなる。そうなれば空からは一方的に爆撃されることになる。大和の対空砲火をもってしても、敵の数によっては焼け石に水かもしれない。
剣呑な灰色の翼が、ついに射程に入る。同時に、第七駆逐隊も敵の攻撃範囲に飲み込まれた。
「一機でも多く撃ち落とせ!」
縦に並んだ艦が一斉に火を噴く。渡り鳥のような編隊を組んだ敵機が、ひとつ、ふたつと被弾して落ちていく。しかし敵は海上の艦娘たちに目もくれずラバウル泊地に飛来していく。
彼方から爆音が聞こえる。ついに地上爆撃が始まったのだ。炸裂する火薬、鉄やコンクリが弾け飛ぶ音。艦体が摩耶の制御から外れようとしている。恐怖が体を突き動かす。鎮守府に戻りたい。あいつを助けたい。しかし、摩耶は自分の頬を叩いて正気を保った。ここで敵を食い止めることが、あいつを救う可能性につながる。そう艦体に言い聞かせた。
『味方の飛行機が飛んでるわ!』
霞から通信が入る。飛行場から発進した戦闘機が、見事なドッグファイトで敵の爆撃機を撃墜していく。護衛の敵戦闘機とも互角以上に張り合っていた。摩耶の視力は、その中の一機を捉えた。尾翼の部分に、目立つ赤い稲妻マークが入った艦上戦闘機・紫電改。そのキャノピーから一瞬、見知った顔が見えた。水戸涼子といったか。あの日、いけすかない女性提督とともに鎮守府を訪れた操縦士。彼女の腕は群を抜いていた。敵三機に囲まれても一歩も引かず、粘り強い旋回でじわじわと撃ち勝っていく。
そして、ついに大和、長門、陸奥からも対空砲火が始まった。海と空、挟み撃ちにされた敵機は次々と落されていく。だが、安心するのは早かった。
『第二波、来ます!』
漣の声。陸のほうに気を取られすぎていた。さきほどの編隊よりもさらに多くの敵機がまっすぐ空を駆け抜ける。その中の一機が、弾幕をすり抜け、大和に急降下爆撃を試みた。大和の主砲塔を中心に爆煙に包まれる。しかし、煙が晴れたとき、大和は無傷のまま悠々と浮かんでいた。分厚い装甲は、五〇〇キロ爆弾一発程度ではびくともしなかった。
だが、摩耶はじりじりと不利を感じ取っていた。敵の物量は圧倒的。このままでは押し負ける。第二波を退けると、しばらく不気味な沈黙が続いた。数十分後、またしても第三波が来襲する。戦闘開始から、すでに二時間以上。緊急発進した戦闘機は燃料がつきて着陸し、それでも警戒のため飛び続ける機は機銃の弾が底をついていた。
先の見えない戦いに、皆が恐怖した。敵がやって来るまでの数十分は、永遠に等しく思えた。誰もが早く終わってくれと願った。
あまりに長い昼は、幸いにも完全に矢弾のつきる前に、第四波をもって終了した。絶え間ない死の恐怖と、いつ終わるともしれぬ戦闘に極限まで神経をすり減らした操縦士たちが、まだ破壊されていない滑走路へと着陸していく。撃墜七という大戦果をあげた紫電改だが、キャノピーから降りる涼子の顔は憔悴しきっていた。
今回の戦いで、艦娘の轟沈こそなかったものの、五本ある滑走路のうち三本が破壊され使用不能となった。さらにラバウル泊地司令部、市街も爆撃に見舞われた。木造鎮守府は、建物右側が火災により半壊した。戦闘機の被撃墜数は一二、この戦いでの死者は民間人を含め一〇〇を超えた。
あれだけの敵機と戦い、よく持ちこたえた。本来なら称賛されるべきなのだろうが、生き残った人々の顔は一様に焦燥と恐怖に染まっていた。あの大型爆撃機は、どこから来たのか。空母からでは、まず離発着できないことを考えるに、可能性はひとつだ。
深海棲艦が、陸に進出した。
第三次深海棲艦ショック。
おそらくソロモン諸島のどこかに敵の飛行場がある。西のニューギニア決戦を目の前にして、ラバウル泊地は、その東側にも恐るべき爆弾を抱え込むことになった。