【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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艦娘の集う前線を遠く離れた、大日本帝国本土。その帝都・東京。
この戦争における自らの使命を悟り、海の軍人である幾田サヲトメは陸で戦う覚悟を決める。彼女の愛する艦娘もまた、その戦いに身を投じていく。深海棲艦ではなく、人間との戦いに。


第二十三話 平和への回答

 

 一四〇〇から、一六〇〇にかけて、陸海軍における急進派指揮官および青年将校によって蜂起した反乱軍は、靖国通りでの虐殺を皮切りに、瞬く間に政治の中心である永田町一帯を制圧した。区画整備された街路は、皮肉にも絶好の戦車の通り道となり、機械化部隊はすんなりと皇居周辺まで侵入する。機銃で武装された装甲車と戦車部隊が主な通りを塞ぎ、バリケードが完成した。皇居を囲うように築かれた壁の内側では、反乱軍の独壇場だった。海軍省、警視庁、陸軍省および参謀本部を制圧、さらに首相官邸を包囲した。国会議事堂前には陸軍閥の指揮所が置かれた。幾田率いる海軍閥は、第一生命ビルを占拠し、ここに司令部を構えた。作戦の初段階は、制圧と粛清である。軍部と国政の改革を訴える理性派の将校、政治家、財界人が襲撃された。しかし、鈴木侍従長や、君津少将、石原中将、米内海軍大臣など主たる標的の自宅は、もぬけの殻となっていた。要人暗殺のみ失敗したものの、反乱軍は大部分の目標を達成した。重要なのは、両軍の穏健な推進派のメンバーを殺すことなく、制圧領域内に取り込んだことである。現首相である東条大将は、いまだ戦争継続か否かについて立場を明らかにしていない。首相官邸を包囲した青年将校は、あくまで軍部主導による体制を維持し、戦争を継続するよう東条を説得した。陛下の言葉と国民の窮乏を目の当たりにし、立場を決めかねていた推進派は、命惜しさもあり、とりあえず反乱軍の意志を汲むことを申し出た。どのような義があれど陛下に弓を引くことはできないと答えたごく一部の推進派は、殺されはしないが背中に銃を突きつけられたまま軟禁状態となった。

 現内閣総理大臣が反乱軍に与したことは、反乱軍の宣伝工作により帝都中へと拡散した。このような事態は前代未聞だった。現内閣の意志を擁する以上、彼らの行いは、もはやクーデターとは呼べない。陛下の言に逆らい国民を弑虐したという事実だけが、かろうじて彼らを反乱軍と呼ぶことを許していた。

 一七○○には作戦の第一段階は完了していた。クーデターにしては珍しく、細部まで綿密にシミュレートされたうえに戦力を整えての蜂起だったので、その速度は電撃的だった。陸軍では、はやくも第二段階を実行に移すべく、防御と攻撃に兵を再編している。議事堂前の指揮所では、勝利を信じる青年将校たちに笑顔が生まれ始めていた。

 第一生命ビルの指令室にて、幾田は飛びこんでくる情報をまとめ上げ、次の指示を考える。この反乱を裏から操る幾田にとっては、敵も味方も関係ない。行動を起こすタイミングこそが雌雄を決する。予定よりも反乱軍の動きは早かった。今のところ陸軍と海軍は、別々の指揮系統のもとに動いている。常に陸軍の動きに注意しつつ、自らの兵力を適切に動かし、それらを最適な瞬間に戦場にぶつけなければならない。失敗すれば、失われるのは自分の命一個では済まない。反乱軍の誰よりも、幾田は精神をすり減らしていた。

 日が暮れて、帝都が宵闇に沈む。

 一八三〇、その連絡は突然もたらされた。

「あきつ丸より通信。陸軍が動いた。第三歩兵中隊、第六歩兵中隊、第一五機械化部隊が赤坂を南下」

 叢雲が情報を伝える。やはり予定よりも早く陸軍が動いた。それは想定済みだ。しかし、続く報告に、叢雲の顔に焦りが生まれる。

「陸軍歩兵部隊が、東京鎮守府を攻撃。現在、政府軍と交戦中。艦娘の安否は不明。一連の動きに対し、政府軍は即時反撃を開始。あちこちで乱戦が予想される」

 叢雲の言葉に、幾田は頭を抱えそうになった。これは事前に検討された作戦にはなかった。おそらく本間大佐だ。頭の切れる男は、幾田の息のかからない独自の戦力を抽出し、艦娘を押さえにかかった。おそらく艦娘が政府軍によって支配されることを危惧し、先手を打って反乱軍の麾下に加えようとしたのだろう。

「もし反乱軍が艦娘の指揮をとれば、彼女たちは間違いなく政府軍に砲弾を浴びせるよう命令されるわ」

 忌々しげに叢雲が言った。反乱軍の陸軍閥は、政府軍以上に艦娘を警戒していることが、これで明らかとなった。もともとの計画では、帝都内戦の混乱に乗じて艦娘に物資を積みこみ、東京湾から脱出させるつもりだった。北方攻略のため、本土の艦娘となけなしの資源が港湾に集中している。反乱軍は、艦娘とともに物資も狙っているらしい。明らかに、数か月以上の長期戦を見越した動きだ。

「いざとなったら、艦娘は実力行使で反乱軍から艦体を奪い返すことはできるでしょう。問題なのは、第二駆逐隊よ」

 幾田は呟く。第二駆逐隊の存在こそが計画の要であり、目下最大の問題点だった。叢雲も知っての通り、第二駆逐隊と島風は鎮守府にいない。帝都内に潜入して、独立した任務に従事している。もし鎮守府が制圧されたら彼女たちの任務は失敗し、仮に鎮守府が持ちこたえたとしても、帝都を破竹の勢いで進撃する反乱陸軍と接触すれば、任務どころか命すら危ない。

「あきつ丸に、作戦を早めると伝えて。それと、陸軍は長期戦を考えている。帝都各地の食糧庫、武器弾薬庫が狙われることも。あと、第二駆逐隊が任務を達成した場合、政府軍とともに鎮守府に突入させる。そのために、急いで鎮守府奪還作戦を」

 あらゆる可能性を考慮し、幾田は叢雲に指示を伝える。しかし、陸軍が独断で動いてしまった今となっては、第二駆逐隊の任務が成功する可能性は限りなく低い。通信艤装を持たない彼女たちに、この距離では叢雲の念波は届かない。孤立した彼女たちは、あっという間に戦闘に巻き込まれてしまう。そうなれば、奪取した荷物の運搬など不可能だ。

「わたしが行くわ」

 叢雲が言った。幾田の瞳に迷いが浮かぶ。

「彼女たちに状況と指示を伝えなければならない。それができる艦娘は、もうわたししかいない」

 提案ではなく命令。言い出したら聞かない、いつもの叢雲の口調だった。幾田は苦笑しながら、叢雲に第二駆逐隊の救援を命じる。背を向けようとした叢雲を、ふわりと背後から抱きしめ、耳元で囁く。

「戻ってこいとは言わない。作戦の後の行動は、何も指示しない。あなたの心に従って」

 言い終わったとたん、叢雲は腕を振りほどき、その小さな両手で幾田の頬を掴み、引き寄せる。そして少女は怒りと照れが混じったように、にかっと笑った。

「当たり前でしょ。わたしは、わたしのしたいようにする。待ってて。必ず成功させるから」

 そう言って、叢雲は勢いよく司令室を飛び出していった。

 直後、幾田は無線機を手に取る。こちらが動かせる陸戦隊は、わずかに二百。残りはビル周辺の建物を制圧し、さらなるバリケードを構築している。第二駆逐隊と反乱軍が鉢合わせることがあってはならない。一八五○、幾田は新たな命令を下達した。

 

 戒厳令の敷かれた夜の帝都を、五人の少女たちが忍び歩く。街に人の影はなく、銃声だけが凍てつく大気に轟く。すでに交戦が始まっているようだ。政府軍の指揮は理性派の将校らが握っているが、高級軍人のほとんどが反乱軍の制圧下に取り残されており、指揮系統は不安定だった。政府軍は数が多いだけに臨機応変な動きが取れず、物量にまかせた乱戦に陥っている。

「こんなに早く戦闘が始まるなんて」

 民家の路地裏を抜けながら、島風が呟く。本来ならば、永田町一帯で反乱軍と政府軍が睨みあっている間に、こっそり任務を果たして安全に鎮守府まで移動する予定だった。ところが、皮肉にも陸軍の迅速かつ周到な独断専行により、戦域が帝都中に拡大してしまった。艦娘は、両軍に味方するという二枚舌外交を使っている。戦い抜くために服従を誓った艦娘が、勝手に帝都を闊歩していたら、どちらに見つかっても危険だった。さらに、今回与えられた任務は、ある場所から、あるものを運び出すという、物資運搬の役割だ。その準備中に発見されでもしたら、最悪の場合、裏切りと見なされて射殺される。

「モノがモノだからね。国家機密だっけ。いち艦娘が触れていいものじゃない」

 時雨が言った。彼女たちが盗み出そうとしているものは、いわゆる戦略兵器と呼ばれていた。戦争とは、いくつもの戦闘を重ねることで決着がつく。通常の兵器は、戦闘の勝利を手に入れるためのものだ。しかし戦略兵器は、それを使うことが直接、戦争の勝利に結びつくほどの強力な手段だ。アメリカの原子爆弾、深海棲艦の超長距離爆撃機が、それに該当する。

 やがて艦娘たちは、目黒の丘陵を拓いて作られた建物の前に立つ。

 帝国技術研究所。あらゆる軍需産業の元締めにして、新装備や兵器の実験を行い、陸海軍省の諮問を経て、実践に配備するか否かを決定する機関。巨大な工場を彷彿とさせる箱型の建物は、どこも電灯が消え、闇に包まれている。頭に叩き込んだ地図通り、金網を乗り越えて敷地内に潜入する。こちらの武装は、ひとり一丁ずつの拳銃のみ。幸いにして、戦いの気配はない。途中、警備兵と思われる死体がいくつも転がっていた。

「急ぎましょう。もう始まってるみたい」

 拳銃を構えながら、陽炎が先頭に立って走る。第二駆逐隊の面々は、ずらりと並ぶ三角屋根の格納庫を横切り、その中央にある建物の前に立つ。そこには夜行迷彩に身を包んだ男たちが入口を守っていた。

「第二駆逐隊ですね。小隊長がお待ちです」

 男のひとりが陽炎の姿を確認し、五人を格納庫の中にいざなう。高い場所についた窓から青白い月光が差しこみ、建物が守っていた国家機密を映し出す。それは鶴のように美しい翼を広げ、彼女たちの前に鎮座していた。月光の映える流線形のフォルムは、この機体が戦闘用であることを忘れさせるような繊細さと艶やかさを併せ持つ。

「これが、わたしたちが運ぶべき代物」

 陽炎が感嘆の息を吐く。

 その機体の名は試製晴嵐。資材に乏しい日本が、いつか訪れる勝利の日を夢見て練り上げた技術の結晶。艦載機を飛び越える高高度からの爆撃を可能とする、深海棲艦の「アポロン」と目的を同じとする戦略爆撃機。それも、潜水艦から発艦できるという最高の奇襲兵器だ。しかし、深海棲艦の本拠地が分からなければ使用用途は限りなくゼロに近く、うたかたの夢を掻き集めてようやく完成したのは、わずか二機。

「これは試作機です」

 音もなく、機体の影からひとりの男が現れる。

「さらに改良を加え、速度と高度を高めた改型は、分解を終えてトラックに収容済みです」

 男は言った。まだ若く、二十代後半に見える。その割に言動は落ち着いており、がっしりした肉体は、いかにも実戦現場の隊長といった雰囲気だった。

「第二駆逐隊の陽炎です。ご協力、感謝します」

「荒牧大尉から伺っております。陸軍情報部隊の、市川少尉です」

 市川は陽炎と握手を交わす。彼は米内や荒牧と同じ、この内乱について全ての情報を開示された第三勢力だった。隠密部隊三〇名を率いる小隊長として、研究所の制圧および晴嵐改の搬出準備を行っていた。

「お急ぎください。ここは反乱の中心部から距離はありますが、戦闘が始まるのは時間の問題でしょう」

 市川は言った。資源不足により存在意義を失った研究所は、反撃のときに備えて武器弾薬の保管所となっている。物資欠乏にあえぐ両軍が、ここを放置するはずがない。陽炎は、ただちにトラックに艦娘と軍人たちを分乗させようとする。鎮守府に入れさえすれば、こちらのものだ。帝都に取り残されていた艦娘が、陸軍の護衛のもと帰還したと主張すればいい。あとは鎮守府で艦娘の指揮をとっている伊勢、日向が上手くやるだろう。

 しかし彼女の目論みは、一発の銃声によって崩壊した。

 最初は弱い音だった。ぱちぱちと遠い爆竹のごとくまばらに弾けていた音が、いきなり巨大な爆発と破裂音の連鎖に膨れ上がって街に轟く。機銃と砲音は、どんどん研究所の方向に近づいてくる。

「外周警戒班を呼び戻せ! 格納庫地帯まで撤収せよ。その際、北西方向の扉は全て封鎖せよ」

 市川が素早く指示を出す。研究所の出入り口は、全部で三カ所ある。北西、北東、南正門だ。戦闘が勃発したのは北西。ならば自分たちは、もっとも距離のある南正門から脱出するしかない。

 そのとき、艦娘の意識の表面にノイズが走る。誰かが至近距離から、直接、通信を求めている。第二駆のメンバーは、その緒元がいる方向へと意識を指向する。ラジオのチューニングを合わせるように、少しずつノイズが晴れていく。

『第二駆逐隊、こちら叢雲。聞こえたら返答求む』

 すぐに陽炎が返信を送った。叢雲は、『よかった、間に合った』と安堵の思念を返してくる。音声の乱れ具合からすると、かなり肉体的に疲弊しているようだ。

『現状を伝える。当初の作戦から、大きく逸脱している。心して聞いて』

 そう言って叢雲は、作戦と現実のズレを説明する。みるみるうちに陽炎の表情は険しくなっていった。陸軍の拙速は予想通りだが、まさか鎮守府にまで奇襲をかけるとは。政府軍は永田町一帯への攻撃と、兵糧の奪い合いで手いっぱいであり、鎮守府は籠城を続けるのが関の山だった。反乱軍に囲まれた鎮守府に突入することは不可能だ。

『今、研究所の北西二キロ地点で、政府軍と海軍陸戦隊が戦ってる。戦況は膠着状態だから、今のうちに脱出して』

「しかし、脱出しろと言っても、その後はどうする? 鎮守府に入れないんじゃ作戦の意味がないじゃない」

 白露が言った。

『旧横須賀鎮守府に向かって。そこに迎えを寄こす。わたしが、あきつ丸に伝えておくから』

 叢雲が提案する。寂れた旧横須賀港ならば攻撃に晒されることはないだろう。しかし、あきつを動かすとなると、もう政府軍の動態を知ることはできなくなる。そうなれば戦況は暗中模索となり、幾田はさらに追い詰められる。だが、この他に手はなかった。叢雲が、陽炎に決心を促そうとしたとき、当のあきつ丸から緊急の情報が飛び込んできた。

 反乱陸軍の、機械化歩兵二個小隊が、南門と北東門付近まで接近している。

 いちいち驚いている暇はない。叢雲は、ただちに最新の情報を伝える。研究所は敵対勢力に囲まれた。陽炎に分かるのは、戦況は悪化の一途をたどっていることだけだった。叢雲は、新手の敵を押さえこむために政府軍を動かせないか、あきつに打診する。しかし彼女からの返答は芳しいものではなかった。

『政府軍の召集が進み、部隊規模が大きくなるにつれ、理性派の将校だけでは制御が困難になっているのであります。しかも、ほとんどの部隊が永田町一帯で睨みあいとなり、反乱軍の中枢と一色即発の状態。兵糧を奪った反乱軍の分派が戻って来た場合、さらなる混戦が予想されます。研究所に新たな兵を派遣するのは、例え可能であってもかなりの時間を要するものと考えられます』

 おそらく、反乱軍も驚いているだろう。事前に綿密な計画を練り上げた自分たちの作戦速度に、ぴったりと政府軍が追いついてくるのだから。まるで、あらかじめ計画が漏洩していたかのように。幾田にとって、万が一にも反乱軍が勝利することがあってはならない。しかし、艦娘を生かすためには、あまり早く負けてもらっても困るのだ。

 反乱軍と政府軍が拮抗し、鍔競り合っている僅かな間だけ、この国の艦娘は誰の支配下にも属さない宙釣り状態となる。その一瞬こそ、艦娘が軍の支配から解き放たれ、自由な意志をもって海洋に出る最後のチャンスなのだ。

『状況は理解したわ。自力で研究所から脱出する』

 自分を鼓舞するように、力強く陽炎は言った。

『それで、あなたはどうするの? 単独で動いていて、合流できるようであれば一緒に旧横須賀港まで行きましょう』

 陽炎は言った。叢雲の艦体は、召集を受けて東京鎮守府に停泊している。そこまで彼女を導く必要があった。

『……わたしは、まだやることがあるから。横須賀で落ちあいましょう。武運長久を』

 そう言い終わると、叢雲との通信は切れた。

 陽炎は、ただちに市川小隊長に状況を伝える。艦娘は陸戦に疎いので、専門家の意見が必要だった。

「脱出路は三つ。そのうち北西方面は戦闘が激化しているため危険です。残る南、北東のいずれかを、一点突破するのが良いでしょう」

 すぐに市川は答える。使用できるトラックは三台。うち一台には晴嵐改が積載されている。もし二手に分かれたなら、各門を押さえている敵小隊に各個撃破される可能性が高い。そこで本命のトラックを真ん中に挟みこみ、二台を壁とすることで一点突破することを決めた。そして脱出ルートは大通りに近い南門に定めた。少しでも突破の成功率を上げるには、敵を撹乱しなければならない。

 市川からの命令を待たずして、二つの門を警備していた兵から連絡が入る。数百メートルの至近距離から銃声が鳴り響く。反乱軍との交戦が始まってしまった。敵は、研究所内の勢力を、施設を守る政府軍と見なし攻撃を加えてきた。敵は、それぞれの門に装甲車両と輸送車両を有する一個小隊。数は敵が優勢だが、部隊の練度を加味すると、実力は均衡している。両者は押すことも退くこともできず、火線を交しつづける。しだいに北西の戦闘が、じりじりと敷地に近づいており、流れ飛んできた迫撃砲が建物に命中した。早急に決着をつけたいのは、どちらも同じだった。

「南門にバリケードを構築しろ。ハリボテで構わん」

 市川が指示する。艦娘たちと協力し、コンテナの部品である鉄板や、厚紙でできた箱、木机など、手当たり次第集めて重ねる。当初、陽炎には市川の行動が理解できなかった。なぜ脱出するほうの南門にバリケードを築くのか。しかし、その答えは、約半時間後に明らかとなった。南側での攻撃が和らぎ、しだいに北東側が激しさを増していく。敵は、立てこもる勢力が南にバリケードを作ったのを見て、北東方面から脱出しようとしているのではと考えたのである。そこで主力を北東に移し、一気に制圧しようとした。これこそが市川の撹乱戦術だった。これにより相対的に南側は手薄になる。北東に部隊を移すと見せかけて、南側から脱出するのだ。

 銃弾を避けながら、南側まで静かにトラックを牽引していく。ただちに兵たちを片側二台のトラックに便乗させた。艦娘には、最も安全な真ん中に乗るよう促したが、陽炎は首を横に振った。

「艦娘は夜目が効きますし、力も強いです。それに、銃器の扱いは一通り学んでいます。わたしと夕立を、攻撃隊に加えてください」

 陽炎は言った。数秒悩んだのち、市川は彼女の申し出を受け入れた。この作戦の最重要目標は晴嵐改。その安全性を高めるため、第二目標である艦娘を危険にさらすことは、合理的判断の範疇だった。

 機関銃を荷台に固定し、銃口だけを天幕から出す。右側に陽炎、左側に夕立が射撃位置についた。第二駆逐隊では、夕立と陽炎が射撃成績ではツートップだ。勇猛に戦ってくれた市川部隊から、これ以上の犠牲を出したくはない。飛び跳ねる心臓を理性で押さえこみ、身体の震えが移りそうになる照準を、しっかりと固定する。

 北東を守っていた、最後の警備兵が荷台に乗り込む。

『行くよ!』

 中央トラックの助手席に座った島風が合図を出した。

 三台のトラックが、同時に全力でエンジンをふかす。急加速する鋼鉄の塊は、わざと作っておいたバリケードの薄い部分を突き破った。南門に残っていた兵は不意をつかれ、連携を乱す。夕立と陽炎が、同時に引金を引いた。凄まじい勢いで弾丸が排出されていく。殺すことが目的ではない。とにかく敵に攻撃させないことが肝要だ。目に映るものを全て打ち抜く勢いで照準を動かす。敵の装甲車は穴だらけとなり、エンジンルームに被弾した輸送車は炎を吹き上げる。それでも敵は反撃を試みる。小銃の弾丸が乱れ飛び、トラックの天幕を引き裂く。陽炎の頬を銃弾がかすめた。隣にいた兵に命中し、血しぶきが髪を濡らす。誰が死のうと目を逸らすことはできない。細い道を抜け大通りにでるまで、ふたりは引金から指を離すことはなかった。安全圏に抜け、ただちに死傷者と荷の確認がなされる。死者二名、負傷十三名。幸いにも晴嵐の機体にダメージはなかった。陽炎はいったんトラックを止め、二台を市川小隊に譲渡する。負傷者の輸送のためだ。市川は一台を輸送用とし、もう一台で旧横須賀港までの護衛を申し出たが、陽炎は却下した。

「ありがとうございました。必ず深海棲艦を撃ち滅ぼしてきます」

「日本国民は、あなたがたの名を永遠に忘れないでしょう」

 市川は言った。互いに敬礼を交わし、小隊は帝都方面へ、駆逐隊は島風の運転のもと横須賀方面に移動する。幸いにして、艦娘なき港を軍は重視しておらず、警備兵の姿はなかった。

「こっちであります!」

 闇に包まれた旧ドックから声が聞こえる。トラックのヘッドライトを向けると、そこには陸上軍装のあきつ丸がいた。一カ所だけドックに海水が引かれており、そこにはあきつ麾下の大発動艇が一隻だけ浮かんでいた。タラップを渡り、大発にトラックを積載する。

「自分の脱出用に、一隻だけ隠しておいたのであります。しかし、これで陸の情報を伝えることができなくなりました」

 自身も大発に乗り込みながら、あきつ丸が言った。

「第二駆の方々、早く乗るであります。鎮守府では、伊勢、日向殿が脱出のための指揮を取られています。事態が動く前に、わたしの艦体まで戻りませんと」

 あきつが呼ぶ。その言葉に、第二駆の面々は戸惑いを隠せなかった。

「だって、まだ叢雲ちゃんが……」

 夕立の言葉を遮り、島風が彼女たちをタラップに追い立てる。

「叢雲は来ないよ。そう伝えられた」

 普段の言動からは想像のつかないほど、重く冷たい声で島風は言った。

「伝えられたって、いつよ?」

 陽炎が反論する。だが、体格の良い島風は有無を言わさず、メンバーを大発に押し込んだ。

「公園で指令書を受け取ったとき、秘匿回線で言われた。皆に心配かけたくないから、わたしにだけ伝えたんだ。あの人は、わたしなら傷つかないし悲しまないとでも思ってるのかね」

 寂しげな微笑を浮かべる。その顔を見た陽炎たちは何も言えなかった。島風はあきつ丸と相槌を交わし、艇を出すように求める。夜の静寂を荒立てないよう、ゆっくりとモーターを回して海面を滑るように沖合に向かう。

「それで、叢雲はなんて?」

 陽炎は尋ねる。聞かずにはいられなかった。今回の作戦は、艦娘を無事に本土から脱出させるために計画された。叢雲は幾田を連れて脱出する予定だが、それが難しい場合は叢雲のみ動くことが計画されていたはずだ。なぜ叢雲が、今になって命令に逆らったのか分からない。

「わたしは常に提督とともにある。運命を共にすることを、わたしは望んだ。そう彼女は言った」

「その意味が分からないよ。だって、幾田提督は、あくまで理性派のスパイとして、反乱軍に潜入しているんだろう? その身の安全は確約されていると、石原中将や米内閣下から説明を受けたじゃないか! だったら、叢雲の脱出を優先させるべきじゃないのかい?」

 時雨が反論する。

「そうよ。脱出作戦の成功を見届けたら、海軍陸戦隊もろとも降伏するって言ってた。もしかして、その後に叢雲と本土を出るつもり? 一隻で前線に出るなんて無茶だよ」

 白露も、納得いかない顔で詰め寄る。

 しかし、島風は沈痛な顔で唇を噛んでいた。

「そうか、きみたちは、そう伝えられていたのか」

 ようやく島風は、小さく口を開いた。もう大発は東京湾に入っており、引き返すことはできない。

「……どういう意味よ?」

 陽炎の胸に、嫌な予感がこみ上げてくる。

 情報戦の基本は、情報の秘匿と暴露のタイミングである。幾田の教えに従うなら、ここが暴露の潮時だ。しかし、できれば伝えたくなかった。このまま何も知らずに本土を出るべきだった。あのとき研究所で、叢雲と一緒に横須賀に向かうのが最善だった。無理にでも引っ張って来るべきだった。しかし、そんなことを叢雲が承知しないことも分かり切っていた。

「幾田提督は、降伏しない」

 覚悟を決めて顔をあげ、第二駆の面々に、はっきりと島風は告げた。

「彼女こそが反乱の首魁だから。政府軍もそう認識している。彼女が降伏すれば、綿密に練り上げた計画のもと、やっとのことで永田町に封じ込めた君側の奸を、生かして解放することになる。わたしたちの前世で、この国を愚かな戦争に導き、民を虐げたあげく、責任を取ることなくのうのうと戦後世界に居座った大馬鹿者どもだ。そいつらは、ここで滅ぼされなければならない。明治、大正、昭和と積み重なってきた悪しき伝統、軍部の独走、国際社会からの孤立、それら全てを是正するには、この国の土台ごとまっさらに吹き飛ばすしかない。そのためのクーデター。これを起こすため、深海棲艦の空爆すら利用し、国民の命を炉にくべて叛逆の心を煽った。ゆえに、幾田提督は降伏しない。最後のひとりが駆除されるまで、戦い続ける。新しい国家をつくるための人柱になることを自ら望まれた。それが幾田提督を裏切った者への最大の復讐となるから。国を巡る戦いに、艦娘は関係ない。艦娘に心理的負担をかけぬよう、使命を果たすことだけに集中できるよう、この戦いの真相についての情報は、わたしと叢雲、あきつ丸以外の艦娘には伏せられた」

 島風は言葉を切った。いつの間にか両の瞳から、涙が流れていることに気づいた。

「……わたしは反対だった。幾田提督は、戦争が終わった後の世界に必要となる人間だ。戦争が終われば消えてしまう艦娘なんかより、自分の命を優先するよう具申した。でも、聞き入れては貰えなかった。今まで艦娘を私怨のために利用し、赤城や加賀をはじめとする多くの艦を、自らの作戦のもとに沈めてしまったから、その償いでもある。そう提督は言った。わたしは提督の願いを受け入れた。何も知らず、何も聞かず、能天気な島風を演じ続けてきた。最後の最後で、わたしは提督を裏切ってしまった。でも、知っておいてほしかった。せめて第二駆だけには。提督のおかげで、わたしたちは再び海に戻れるのだと」

 静かに涙を流す島風。第二駆は完全に沈黙していた。やりきれぬ感情ばかりが渦巻いて、何一つ言葉が出てこない。

「……じゃあ、叢雲ちゃんは」

 呆然としながらも、ようやく夕立が口を開く。

 誰も答えずとも、全員、その続きを理解していた。幾田サヲトメは死を覚悟した。そして叢雲もまた、彼女に寄り添い歩く。

 艦娘は、深海棲艦と戦う艦である。叢雲は、自らの存在意義よりも大切な何かを、この世界に見出したのだ。

 大発は進む。暗い東京湾のなかで、一カ所だけ水面に紅蓮の光が揺れている。ついに反乱軍が鎮守府に押し寄せたのだ。鎮守府全体が業火に包まれ、闇夜と混じり合い、輪郭すら定かではない。状況確認のため、赤い背嚢から特別製の通信機を取り出すあきつ丸。これで、通信艤装を持たない艦娘や、遠い地点にいる叢雲と連絡を取っていた。ちょうどそのとき、鎮守府から通信が飛び込んできた。

『あきつ丸か? 急いで戻れ! もうここはもたない!』

 激しいノイズに混じって、日向の怒鳴り声がスピーカーから吐き出される。

 

 鎮守府は燃えていた。

 現在、日向があきつ丸と通信を試みている。現場指揮は伊勢に任せられていた。鎮守府の窓という窓、扉という扉を塞ぎ、建物全体を城壁として、艦娘と鎮守府の軍人たちは内側の港と入渠ドックの施設に籠城していた。しかし多勢に無勢であり、防壁のほとんどが突破され、ついに最終作戦として建物に火が放たれた。それでも、敵兵は蟻のごとく、あらゆる隙間から侵入を試みてくる。小さなバリケードまで人員が回らず、あちこちから突破されていた。軽巡以上の艦娘は自ら小銃をもって応戦している。さながら港と鎮守府の間では、パリ・コミューンのような原子的な銃撃戦が続いている。

「物資の搬入を優先しろ! あれがなければ、海に出ても戦えない!」

 伊勢が叫ぶ。鎮守府が襲撃を受けた時点から、ここに蓄えられた弾薬、糧食など、あらゆる戦闘物資を各艦に積載し始めていた。軍人たちを説得したのは、伊勢と日向だった。このまま敵がなだれ込めば、海に逃げるしかない。そのとき弾も食糧もなければ、北方攻略どころか政府軍に加勢することもできない。そう主張し、なんとか補給を進めることができた。まもなく運び込みは終わるが、それ以前に敵兵が艦になだれ込んできそうな勢いだ。白兵戦では圧倒的に分が悪い。今すぐにでも出港したいが、そうすると共に戦っている政府軍を乗艦させねばならない。どうするべきか。弾丸が頬をかすめ飛ぶ鉄火場で、伊勢は考えあぐねていた。

「政府軍を乗せて東京湾には出られません。必ず反乱軍への砲撃命令がくだります。それは、わたしたちの望むところではありません」

 伊勢の隣にいた、駆逐艦代表の五月雨が言った。彼女も長い髪を結いあげ、果敢に銃を扱っている。

 そのとき、鎮守府の西側にある修理ドックの外壁が吹き飛び、敵兵がバリケード内に突入してきた。そこには第三〇駆逐隊、第一一駆逐隊が停泊している。

「やむをえない。駆逐艦は総員、艦を出せ!」

 敵に乗っ取られるよりはマシだ。伊勢はすぐに指示を出す。五月雨は天龍、龍田の援護射撃のもと、自らの艦に向かって疾走する。離れていても気醸をすることができるのは幸いだ。艦に飛び乗ると、タラップが接続されたままスクリューを回した。駆逐艦に乗り込もうとした軍人たちが、つぎつぎと海に落下していく。その光景に、駆逐艦たちは目を逸らし、あるいは背を向ける。そして進むべき海だけを見つめる。

 こうなってしまっては、もう後には引けない。

 この事態に混乱した政府軍のお偉方が、艦娘に銃口を向け始める。

「総員、艦に乗り込め。ここに我らの指揮官はいない」

 伊勢は決断をくだした。政府軍を艦に乗せることはしない。彼らはここで、勇敢に艦娘を守り、戦死したことにしてもらう。

 兵器としての自覚を持つ者だけが、その命令に一切の躊躇なく動いた。軽巡・球磨は、艦を制圧しようと乗り込んできた政府軍に弾丸を叩きこみ、艦尾から海に落した。艦娘の裏切りに気づき、港湾に集結し始めた軍に対し、駆逐艦が援護射撃を浴びせる。コンクリートが火花とともに粉砕し、舞い散る埃で湾内が覆われていく。しかし、すでに数十人からの軍人が、天龍、龍田、龍驤を始めとする艦体に乗り込んでしまっていた。皮肉にも海への出撃が多かった艦娘は銃器の扱いになれず、彼らの制圧に手こずっていた。隔壁を閉鎖しただけで、どうしても、トドメを刺せない艦娘もいた。

 これが人間の世界の戦い。やり切れぬ思いのなかで、艦娘たちは、これまで『戦いの選択』を提督に任せきりだったこと、その重荷に気づく。そしてこれからは、自分たち自身が背負っていかねばならぬことも。

 

 あきつ丸は通信を開く。

『状況を説明してください』

『積めるだけ物資は積みこんだ。海から脱出させてやるという名目で、生き残った政府軍の連中を動員したんだ。現在は、不覚にも侵入を許した人間たちと交戦中だ。脱出が遅れている』

『……到着まで、あと半時間ほどかかります。可能であれば、自分の艦体のみ曳航をお願いしたいのであります。叢雲どのは、別行動が決定しました』

 あきつ丸は冷静に次の手を伝える。

『了解した。しかし、戦闘状況が切迫した場合、おまえの艦体は遺憾ながら放棄する』

『構いません。どうか皆無事で』

 通信は切れた。

 主力がうまく脱出できれば、東京湾の中央で合流すればいい。あとは小笠原諸島まで一直線だ。あきつは通信機を強く掴む。あとは時間との勝負だ。脱出成功の知らせを、一秒でも早く彼女たちに届けなければならない。燃え盛る帝都と鎮守府を見つめながら、あきつは祈った。

 

 

 永田町一帯では、深夜にかけても激しい戦いが続いていた。政府軍は、この内乱の首謀者である反乱軍よりも用意周到に動いた。反乱陸軍の先遣部隊は、ことごとく政府軍とぶつかり、物資を奪うという目的を遂げることができなかった。反乱軍は、敵に道路を利用されないよう爆薬で破壊し、その向こう側に鉄線や装甲車によるバリケードを築き、さらに戦車と迫撃砲によって応戦した。大日本帝国の中枢は、一夜にして野蛮な野戦場と化した。建物の影から突如として榴弾砲が飛び出し、反乱軍の装甲車を吹き飛ばす。出会いがしらの乱戦が突発していく。もはや陸軍と海軍の連携戦術を取ることもできない。陸軍は国会議事堂を、海軍は第一生命ビルを本陣とし、それぞれの抗戦を続けていた。今のところ両軍の勢いは拮抗している。しかし陸軍の援軍が期待できなくなった以上、海軍陸戦隊だけは、圧倒的不利に置かれている。

 第一生命ビルの指揮所にて、幾田はかつてない焦燥に駆られていた。

 あくまで、この反乱の首謀者は幾田サヲトメであり、主戦派の精神的支柱もまた彼女だった。しかし、陸軍の実質的指揮権力は、本間大佐がトップとして握っている。彼の独断により鎮守府は思わぬ危機に陥った。叢雲が無事に戻らねば、あきつ丸と通信ができず、鎮守府の艦娘たちの現状が分からない。何より危険なのは、本間大佐の思考が読めないことだ。理性派の率いる政府軍のなかにも、やむをえず理性派についた推進派の将校は多い。その中には本間大佐に同情的な者がほとんどだ。反乱を起こすほど熱心な主戦派が少ないだけで、軍や政府、財閥の大部分は自分たちの既得権益を守るために、現在の軍・財閥主導の国体と戦争の継続を望んでいるのだ。もし本間大佐が、それらの勢力と単独で和睦を結んでしまえば、この反乱は意味を失う。

 砲弾の地鳴りが、ついにビルを揺らすほど接近している。敵の攻撃が一層激しくなり、ついにビル前のバリケードまで陥落していた。

「全砲門準備!」

 幾田は声を張り上げる。こうなれば、ここを最後の砦として使用するしかない。ビルの屋上付近の窓が一斉に開き、そこから野戦砲が砲身を突き出した。道路を突撃してくる機械化部隊に、空から砲弾の雨を降らせる。さらに、第一生命ビル付近の建物も、窓という窓あら機銃、迫撃砲を繰り出す。幾田は街全体を要塞に仕立て上げていた。まだ叢雲は来ない。艦娘たちの行く末を見届けるまでは、この場所を落とすわけにはいかない。

 

 幾田の予感は的中していた。本間大佐は、その鋭い観察眼と先見の明により、この内乱の落し所を見極めていた。彼は、すでに政府軍の主戦派のもとに使者を送っていた。和平交渉のための使者だった。それを政府軍の中枢は受け入れ、互いの代表が、交渉場所に指定された首相官邸まで出向くこととなった。

 ○四○○。国会議事堂から、首相官邸に向けてバリケードを四台の車が通過する。前から三番目に、本間大佐が乗車していた。すでに赤坂方面では戦いが停止され、街はつかの間に静けさに包まれている。それでも念のため、護衛の車両と護衛兵を連れて来ていた。本当ならば、もっと戦いを長引かせて互いに疲弊するタイミングでの和平交渉が理想だったが、あまりに政府軍が上手く動いたため、行動を早めざるを得なかった。

「やはり、あの女は信用できない」

 鷲を思わせる鋭い眼光で、本間は言った。

「幾田中佐が裏切っていた、ということでしょうか?」

 隣に座る、若い情報将校が尋ねる。

「そうだ。艦娘どもが反乱軍に味方することを了承するとは思えなかった。奴等は、そこまで物分かりのいい連中ではない。試しに鎮守府を襲撃させてみたら、案の定だ」

「確信がおありだったのですか」

「いいや、証拠などなかった。しかし俺には分かるのだ。長いこと、参謀本部の伏魔殿に身を浸していると、嫌でも陰謀と敵意の匂いに敏感になる」

 本間は言った。彼は五・一五事件、二・二六事件の渦中を経験している。どちらも情勢を的確に読み、勝ち馬に乗ることで生き延びてきた。今回のクーデター、後の世が二・一七事件とでも呼ぶべき事態においても、自らの進むべき最善の道を見出している。

 ○四三○、車は首相官邸の敷地に入った。

 敷地を囲うのは、政府軍の護衛兵が、わずかに百ばかり。官邸から半径一キロと建物内は中立地帯とされている。本間は腹心の情報将校を伴い、一階の会議室に入った。

 南側の席には名目上、反乱軍側の人間が座る。本間大佐、鈴江財閥系の銀行頭取、そして東条英機総理大臣など主なメンバーが二〇名。そして北側には、政府軍側のメンバーが相対する。近衛文麿、小磯国昭、板垣征四郎など、一五名。いずれも、この国の未来を決めるに足る実力者たちだった。政府軍側には、君津少将の姿もあった。本間大佐は、誰よりも先に君津少将に一礼する。参謀本部では本間の師にあたり、伏魔殿を生き抜く術を教えた人物だった。殺害すべき標的のひとりだったとはいえ、本間にとって敬意を払うべき存在に変わりはない。

 和平会議は○五○○開始の予定だったが、すでに場の空気は弛んでいた。会議の結論は出ているも同然だった。国を想っての反乱であり、首謀者が軽い罰を受けるなら、兵たちは原隊に復帰させ、お咎めなしとなる。二千もの反乱兵を懐柔し、さらに軍主導の国体が維持できるとなれば、どちらにとっても願ったりかなったりだ。無理やり反乱軍に仕立てられた東条などは、すっかり安心した表情でくつろいでいる。

「あなたと戦うことにならず、幸いです」

 本間は君津に言った。老人は僅かに苦笑する。

「本当にそう思っているのなら、おまえは甘くなったな。というより鈍ったと言うべきか」

 好々爺然とした穏やかな声で君津は答える。口の減らないジジイだ、と本間は内心で笑う。この場にいる人間のなかで、理性派は君津ひとり。政府軍内でも主戦派が優勢なのは、この会議室のメンツを見れば一目瞭然だ。

「あなたは、なぜ陸軍の高官でありながら、自ら国の主導権を手放そうとしてなさる?」

「逆に聞くが」君津が尋ね返す。「このまま国民の意見を無視し、軍部が国政を握り続けることの意味は?」

「国が、世界が滅亡しようとしている非常事態です。この修羅場を乗り越えるには、綺麗事は言っていられない。確固たる意志を持つ軍部でなければ、戦いを勝利に導くことはできないのです」

 本間は即答する。五・一五事件によって、陸海軍大臣現役武官制が復活して以来、ほとんどの軍人が誇りと為していることだ。弱肉強食の帝国主義の世界で日本が生き残るには軍の力が不可欠だった。

「もしおまえが前世にいたなら、きっと同じことを言うだろうな」

 君津は言った。

「前世、とは艦娘のいた世界での大日本帝国の話ですか?」

「そうだ。山本大将の研究により、明らかになった世界。深海棲艦が現れなければ、我々が突き進んだ未来の話だ。深海棲艦との戦いによって、大部分の軍人たちは日清、日露の両戦勝の夢から醒め、理性的に世界を見つめ始めると考えた。しかし、陸軍、海軍合わせても、それが出来た者はごく少数。通りでアメリカやイギリスに勝てぬわけだ。批判されぬ権力は必ず腐敗する。腐敗した愚者が国政を握れば、国は傾き崩壊に至る。軍部に身を置く者としては情けない限りだが、この腐敗を自らの身を切ってでも是正しない限り、我が国に夜明けは来ない」

 理性派としての立場を明らかにする君津に対し、本間は敵意を込めた視線で睨みつける。しかし、元部下の恫喝にひるむような老人ではなかった。

「国の命運に比べれば、軍の誇りなど取るに足らない」

 きっぱりと君津は言い放つ。目の前の師が、完全に相容れぬ存在となっていることを本間は確信する。

「あなたが何を叫ぼうが、この国は変わらない。軍をないがしろにした言葉、忘れませんぞ。後の沙汰を覚悟しておくことですな」

 椅子にふんぞり返りながら本間は言った。しかし、どこか嬉しそうに君津は、やれやれと首を振る。

「わしがこの場にいる意味に、まだ気づかんとは。おまえは敵を見分ける目には長けている。しかし、味方を見る目はどうだろう。この場で、わし一人が敵たりうる人物だと思っていないか?」

 君津の目が獰猛に光った瞬間、○四五〇、突如として廊下に慌ただしい足音が響き渡る。ドアを蹴破り、陸軍軍装の兵たちが雪崩れこんできた。たちまち会場はパニックに陥る。しかし銃口を突きつけられては、誰も動けない。

「貴様ら、何のつもりだ!」

 本間が叫ぶ。銃口を政府軍の代表たちに向けている兵たちは、本間が護衛として引き連れてきた部隊だ。

「我々、反乱軍の意志表示ですよ」

 兵たちの真ん中に、情報将校が立っていた。

「降伏などありえない。徹底抗戦です。和平など望んでいるのは、ここに集うお偉方のみ。我々二千五百名の兵は、命を賭して戦うことを欲している」

 情報大尉、荒牧稔は本間に言い放つ。

 誰ひとりとして言い訳の時間を与えることなく、小銃は火を噴いた。冷静に席についたままの君津少将だけを避け、他の代表を無慈悲に殺戮していく。本間は反乱軍の代表を捨ておき、我先にと廊下に飛び出した。まさか、荒牧が理性派の手の者だとは迂闊だった。なんとかして議事堂の作戦本部に連絡しなければならない。しかし、暗い廊下には、すでに立ち塞がる者がいた。大人の背丈の半分程度の身長、長い銀髪の頭部には、動物の耳のような機械が浮かんでいる。

 人間とは思えない美貌。少女は、感情のこもらない瞳で拳銃を構えている。

「あなたは自分の役目から逸脱した。もう作戦に必要ないわ」

 少女は冷たく言い放つ。本間が腰の銃を抜こうとしたとき、彼女の弾丸は男の心臓を貫いていた。「帝国万歳」と呻き声を上げながら本間は倒れ伏す。

「終わりましたね」

 兵を下がらせながら、荒牧は言った。会議室は地獄絵図と化していた。立っている代表のは、返り血を浴びた君津少将だけだった。

「いや、まだだ」

 老人は、そう言って壁際に歩み寄る。そこには右足を撃ち抜かれて血だまりをつくり、東条英機がうずくまっていた。

「相変わらず、悪運の強い男だ」

 呆れたように君津は言った。

「頼む、助けてくれ。総理大臣として、要求には何でも従う」

 割れてひしゃげた眼鏡をずり落しながら、蚊の鳴くような声で東条は言った。

「帝国成立して以来、我が国の政治に蔓延ってきた無責任の体系。その集大成を、あんたに見ているようじゃわい。内輪で権力争いにせいを出したあげく、失敗しても誰も責任を取らない。艦娘の前世で敗戦を招いた愚かしさよ。だが、それもここまでだ。きっちり足元を掃除してから、この国は新たな歴史を歩み始める。あんたらは死ぬことでようやく、この国の礎となるのだ。せめて誇りに思って逝くがよい」

 笑顔のまま君津は、関東軍時代からの愛用のモーゼル拳銃で東条の頭蓋を撃ち抜いた。

「なんとか成功したわね」

 硝煙と血のにおいの染みた銀髪を揺らしながら、叢雲が入室する。うまくいくかは賭けだった。非常事態用に、あらかじめ荒牧大尉が考えていた布石だ。

「さて、わしは交渉が決裂したことを伝えてこよう。反乱軍に降伏の意志なし。軍部は雌雄を分かって対決するより術はなし、と。これより政府軍は再編に入り、一時攻撃を中断する。明日の○九○○までは、停戦を保証しよう」

 血みどろのまま、意気揚々と君津は去っていく。叢雲は感謝の念をこめて老人に敬礼する。彼は幾田に最後の時間をくれたのだ。これで彼女の戦争は完遂されるだろう。

「これで、あとは艦娘の皆さんの脱出を待つだけですね」

 叢雲に向かい、荒牧は言った。

「御苦労さま。ここからは、わたし一人でいく。あなたまで無駄に死ぬ必要はない」

 そう言って、叢雲は再び夜の帝都に消えて行った。これで反乱陸軍は頭を失い孤立、混乱する。そうなれば、若い青年将校たちは自ら幾田の指揮下に飛び込むだろう。

「ありがとうございました」

 小さくなっていく少女の背中に、荒牧は深く頭を下げる。ひとりの軍人とひとりの艦娘、彼女たちがいなければ、この国は何の進歩もなく深海棲艦に滅ぼされるだけの運命を辿っただろう。しかし、ここで運命は変わった。ただの滅亡ではない。滅びようとも、新たなる姿で復活する。

 彼女たちは、この国が再誕するチャンスをくれたのだ。

 

 

 

 第一生命ビルは、陥落寸前まで追い詰められていた。すでに周囲の建物は炎を噴き、陸戦隊の三割が消失。芋づる式に部隊は壊滅してしまう。幾田は自ら銃を握り、接近を試みる敵兵を狙撃した。野戦砲の轟音が、敵に占領されたバリケードを吹き飛ばす。しかし、敵戦車の砲も撃ちこまれ、瓦礫とともに飛び散った血肉が幾田の頬を濡らした。鼓膜がおかしくなったのか、戦いの音が遠くに聞こえる。床に這いつくばりながら、必死に銃を探す。しかし肉体は疲弊しきり、全身から血の気が失せていた。視界は薄れて手足は震えている。這いずるのがやっとだった。

 またしてもビルが揺れる。一部、崩壊した天井が崩れて部屋を埋めている。玉砕を覚悟した幾田は、轟音の中に懐かしい声を聞いた気がした。今際の際の幻聴かと思った。しかし、次第にハッキリ声が聞こえ、ついに自らの身体が細い腕に抱き起こされる。月光に煌めく不思議な青い銀髪が頬にかかる。

「ああ、叢雲……」

 幾田は震える右手で、最愛の娘の頬をなぞる。

「よく頑張ったわ。もうすぐ停戦になる。あと少しの辛抱よ」

「艦娘たちは……」

 粉塵でざらつく口を何とか動かし、幾田は尋ねる。

「ここに向かう途中で、あきつ丸から通信があったわ。艦娘は無事に鎮守府を脱出、小笠原諸島に向かって東京湾を航行中」

 待ちに待った希望の報告。幾田はそれを聞いたとたん、最後の力が抜けて、震えさえ止まった。叢雲は彼女の身体から濃い血の臭いを感じる。左大腿と右わき腹に銃創があり、きつく巻かれた包帯の上からどす黒い血が広く滲んでいる。

「駄目よ! まだ死んでは駄目! あんたの戦争は、まだ終わってない。きっちり幕を降ろしてからにしなさい! どこまでだって付き合ってやるから!」

 叢雲は彼女を抱き起こし、ビルの奥に避難させる。そして自ら前線に戻って機銃を持ち、闇夜の敵兵を狙い撃った。もう人間を殺すことに躊躇いはなくなっていた。

 ○六三二。少しずつ銃声が遠のき、やがて戦場は嘘のような静けさに包まれる。君津少将が停戦を取りつけたくれたのだ。その間に、叢雲は幾田の応急処置にあたった。麻酔なしで銃弾を取り出し、傷口を縫合する。幾田は悲鳴ひとつあげず、強く噛みしめた唇から血を流して耐えた。夜明け前には、議事堂前の陸軍指揮所から使者が来た。本間大佐が戦死し、全ての指揮系統を幾田のもとに移したいという申し出だった。幾田は、まだ防御力の残る第一生命ビルに陸軍を移すことを提案し、かくして反乱軍の主力が、このビル一帯に集結した。

 ○七○○。幾田は、あらかじめ用意しておいたラジオ放送の準備をした。反乱軍の声明発表用だったが、今は別の目的で使う予定だった。生命ビルの社長室に、臨時の放送設備を置く。他の将校は全て締め出し、幾田と叢雲のみ中に入ることを許された。

「頑張って。あともう少し」

 叢雲に支えられながら、幾田は席についた。あらゆる放送局のマイクが勢ぞろいし、反乱軍首魁による世紀の発表を、今か今かと待ち構えている。朦朧とする視界のなか、彼女は時を待った。

 ○八○○。

 叢雲が全てのマイクを起動させるとともに、自らの通信艤装を最大限に出力する。これならアウルムには聞こえるだろうし、少なくとも日本を監視している、いずれかの深海棲艦に届くはずだ。

「聞こえているか、帝国の民。海軍中佐、幾田サヲトメである」

 掠れた、しかし威厳のある声で幾田は言った。

「諸君らの嘆きは、我々にも聞こえていた。閉ざされたままの海、接収される食糧、鉄、燃料。全てが不足して、餓死、凍死が相次ぐこの国を、戦うことしかできない我々はどうすることもできずにいた」

 懺悔するかのような幾田の言葉。帝国中の人間が神妙な面持ちで、かつて軍神と慕った女性の独白を聞いていた。

「我々を窮乏に追い込んでいる真の敵は何か。言うまでも無く深海棲艦である。しかし敵の圧倒的な力と知略は、とうとう我々を分裂させ、仲間内で戦わせるまでに至った。わたしたちは、それでも、あえて敵の策略に乗る形で、この戦いを起こさねばならなかった」

 幾田は少しだけ天井を仰ぎ見て、息を整える。

 同時に叢雲は、通信艤装の出力を最大にする。アウルムに対して、初めて自ら呼びかける。やがて通信網に敵の意識が触れる感覚がした。これで彼女にも、幾田の声が聞こえるはずだ。

「戦いを放棄することは愚行である」

 幾田は言い放つ。深海棲艦の世界平和に、真っ向から異を唱える。

「戦いを止めるということは、自ら進化を拒絶する愚行だ。人間は、常に争い競い合うことで進化してきた。平和な世界とは、進化することを止めた愚か者の箱庭だ。民衆よ、本当に理解しているか? 深海棲艦の平和に屈することの意味を。人類が積みあげてきた知恵を捨て去り、無知蒙昧なる裸の原始人となってエデンの箱庭に自ら身を投げることの意味を。何も考えることを許されず、ただ『争いがない』だけの世界。それは地獄と、どう違う? 深海棲艦に支配された世界には、もう二度と知恵のリンゴを勧めてくれる蛇は現れない。人間は完膚無きまでに進化を奪われ、英知を奪われ、猿に等しい存在に堕落して、未来永劫、神の管理下に置かれるのだ!」

 息がつまり、幾田は激しくせき込む。血の混じった唾液がマイクに飛び散った。

「裁定者に告ぐ」

 朦朧とする意識のなか、マイクに縋りつき、血反吐を垂らしながら彼女は声を絞り出す。

「おまえたちが掲げる世界平和は、確かにすばらしいものなのだろう。戦争の悲劇を、世界から完全に切り取ることができる。しかし、それは神の理屈だ。おまえたちの世界平和は、神の理想とする世界にすぎない。我々人間には無意味であり、相応しくない。海を封鎖しようと陸に爆弾を落そうと、人間は服従しない。人間と犬の間に子どもが産まれないように、生物の根本から食い違っている、的外れな思想だ。人が生きるこの世界に、神の理屈を持ちこむな!」

 よろめく幾田を叢雲が支える。艤装が、ほんの微かな通信の揺らぎを感知する。アウルムは確かに聞いている。そして、この微弱な揺らぎは、彼女の心の波紋だ。怒りか動揺か定かではないが、あの黄金のごとき不変の精神が、間違いなく幾田の言葉に影響されている。

「日本国民に告ぐ」

 まだ倒れるわけにはいかない。肉体が力を失い崩れ落ちるなか、視線だけはまっすぐ前を見つめる。今の彼女は魂だけで喋っていた。

「神の家畜ではなく、人間として生きていきたいのならば、戦うことを止めてはならない。ただし、間違った戦いは回避しなければならない。この国は、深海棲艦がいなければ、あわや勝ち目のない戦争に挑み、国民一億総玉砕という愚の極みたる結末に突進するはずだった。ゆえに、我々は、その愚かな過ちの元凶たる、くだらない人間を処分するために、この反乱を実行した。戦争は長い目で見れば、世界に悲劇と不利益しかもたらさぬ。そのことを知ったならば、これから、この国は産まれ変わる。しかし、やはり愚者はこの世の過半数を占め、人間は愚かな過ちを繰り返すだろう。これからも戦争は起こり、世界から争いは絶えないだろう」

 それでも、と幾田は続ける。

「九十九人の愚者が道を阻もうと、たった一人、正しい道を歩める者がいれば、この国は必ず復活する。深海棲艦に蹂躙されることもなく、アメリカの乳飲み子として復興し、日本人の自我を失うこともなく、力と誇りに満ちた新たな国家へと進化する。間違いながらでも、幾千幾万の命を犠牲にしても、曲がりくねりながら、少しずつ正しい道を進んで行ける。必要な戦いを選びとった先に、人間としての、真なる平和が待っている」

 

 人間よ、正しく戦え。

 

「これが、わたしの『平和への回答』だ。わたしの願いは、たったひとつ。滅びゆく国家と世界、死に絶えゆく人間に、この願いを手向け、我が辞世の言葉とする」

 そう言い残し、すべての放送局のマイクを切った。

 幾田は机に崩れ落ちる。「お疲れ様」と呟き、叢雲はアウルムへの通信を遮断した。

 

 ○九一五。生命ビル周辺は、まだ静かだった。しかしビルを取り囲むように政府軍の大部隊が動いている気配はある。いよいよ総攻撃が始まろうとしている、嵐の前の静けさだった。幾田は軍服を脱ぎ、露わになった肌を叢雲が丁寧に拭いていく。血と体液で濡れた身体を、少しでも清めていく。

「どうせ血で汚れるのに」

 うなだれながら、幾田が呟く。

「最後だから綺麗にするんじゃないの。ほら、しゃんと顔を上げなさい」

 そう言って、ぬるま湯を含んだタオルで幾田の顔をそっと拭う。いつもと変わらない、少しきつめの声。少女は強くなった。幾田は思わず微笑んでしまう。「何よ」と叢雲がつっかかる。

「あなたと出会ったときのことを思い出していたのよ」

 幾田の言葉に、少しだけ叢雲は頬を染める。

「あれから、いろいろあったわね」

 照れ隠しだろうか、早口になる叢雲。

「ええ、本当に」

 わずか三年と少し。人間の寿命からすれば、あっという間の三年。しかし、幾田はその短い時間に、人生のほとんどを費やしてきたような気がしていた。自分の身体を優しく拭いてくれる叢雲を見ていると、まるで我が子の成長を見ているようだ。

 幾田の頬を、一筋の涙が伝う。

 成長した我が子を、道連れにしようとしている自らの運命が、たまらなく悲しく、悔しかった。

「もう、今さらね」

 怒ったような声で叢雲は苦笑する。そして、膝立ちをしながら幾田の頭をそっと胸に抱きしめる。

「同情とか、責任感とか、後悔とか、そういうので泣かれても嬉しくないんだからね。むしろ、わたしに失礼だわ」

 ちらり、と叢雲は自分の左薬指に輝く銀のリングに目を遣る。

「わたしは、あんたの対等なパートナーなの。あんたの娘じゃない。泣くなら嬉し涙にしなさいな!」

 叢雲のすがすがしい言葉で、幾田の顔に微笑みが咲いた。少しずつ肉体に力が戻り始め、幾田は再び軍服をまとい、自らの足で立ちあがる。叢雲もまた、艦娘としての正装に着替えていた。

 一○二○。

 ついに最後の攻撃が始まる。ビルの窓や屋上に配置された野戦砲も、敵戦車部隊の援護射撃によって、次々と沈黙していく。とうとう敵歩兵がバリケードを超えて、ビルの内部に侵入し始めた。海軍陸戦隊の生き残りと、反乱陸軍が立てこもり、決死の抵抗を続けていたが、圧倒的な物量差に追い詰められ、すり潰されるように全滅していった。ビルを揺るがす砲音が絶え間なく響き、最上階フロアにも敵の叫び声がこだまする。

 幾田と叢雲は、部屋の奥の壁際に立った。幾田は左手に、叢雲は右手に拳銃を持っている。武装は、これだけだ。

「潔く自決でもする?」

 いたずらっぽく幾田が尋ねる。

「まさか。最後の最期まで、わたしたちの信念を貫いてやろうじゃないの」

 叢雲はそう言って、空いている左手を幾田に差し伸べる。幾田は右手で、指輪ごと少女を包み込む。

 ドアの前で激しい銃声が響く。悲鳴とともに沈黙し、複数の足音が廊下を駆け抜けてくる。

「ねえ、提督」

 そう言って、叢雲は前を見据えたまま、ぎゅっと強く幾田の手を握り締める。

「どうしたの?」

 幾田が尋ねる。ふたりの正面のドアが、何度も蹴られて軋む。叢雲が、くるりと幾田を見上げる。

「あなたの艦であれて、わたしは幸せでした」

 最高の笑顔で、叢雲は言った。

 ドアが蹴破られ、小銃を構えた兵士たちが雪崩れこむ。反乱の首謀者の命を取るべく、獰猛な銃口が二人の女に向かう。しかし兵士たちは、ほんの一瞬、引金を引くのが遅れた。死を前にした女たちは、笑っていたからだ。もう何も思い残すことはないと言わんばかりの、この世を超越した微笑みを浮かべていた。

 ふたりの拳銃が火を噴く。二発の弾丸に撃ち抜かれ、兵士二名が崩れ落ちる。敵兵は応戦を始める。その間にも、絶え間なく兵士は部屋に押し掛けてくる。数秒で終わると思っていた。しかし、五秒、十秒、十五秒が過ぎる頃には兵士たちの顔に恐怖と畏怖が刻まれる。未だ部屋には銃弾が飛び交っている。もう何発撃ち込んだだろう。それでも二人は倒れない。逃げも隠れもせず、ただひとつところに立ち続ける。腹部に穴が開き、口から血が噴き出しても、まだ弾丸を放つ。

 永遠に思われる時間が過ぎ、ついに銃声が完全に止まった。

 

 政府軍によって制圧された第一生命ビル、その社長室は、手つかずの状態で保存されていた。状況検分に現れた君津少将は、部屋の奥の壁にもたれかかるようにして、肩を寄せ合いうずくまる女性たちを発見する。彼は無言で膝を折り、両手を合わせた。

 彼女たちは、頭を預け合って眠っているかのようだった。まるで長年連れ添った夫婦のように繋いだ手を離すことなく、艶やかな黒とまばゆい銀、互いの髪の毛を絡め、満足そうな微笑みを浮かべて、幾田サヲトメと叢雲は静かに息絶えていた。

 艦の本懐を捨ててまで、提督への愛を貫いた少女。駆逐艦「叢雲」は、艦娘史上はじめての、陸で死ぬことを選んだ艦となった。

 

 

 

 

 

 幾田の声を、最後まで拾い続けていたのは、本土の通信網と直結した、特別な通信艤装を持つあきつ丸だけだった。彼女はこらえる涙とともに、彼女たちの死を胸の内に秘匿する。彼女たちの戦死が確定したことを知っているのは、第二駆逐隊と島風のみとなった。本土を脱出した艦隊は、東京湾を抜けて小笠原諸島に辿りついていた。そこで、ある艦娘と合流予定だった。

 大発から晴嵐改のパーツを降ろし、その艦娘の艦体に搬入していく。

「陽炎さん、島風さん、お久しぶりです!」

 小麦色の肌をした艦娘が、作業中のふたりに駆け寄る。

「待機任務、お疲れさま。これで前線に出撃できるわよ」

 持ち前の精神力で笑顔をつくり、陽炎は言った。

 伊401は嬉しそうに敬礼する。フィリピンを出るとき、実は先遣部隊の後を追うように彼女が潜行していたのだ。吹雪の襲撃後、途中で部隊と別れ、小笠原諸島の外れで、およそ二カ月の間、本土からの脱出部隊を待ち侘びていた。潜水艦部隊は全滅した、というのがフィリピンの第二、第三艦隊の見解だった。しかし、こうして彼女は生き残っていた。この事実は、特別な任務を帯びた艦娘にしか知らされていない。

「わたしたちの任務は、決戦兵器とあなたを最前線まで送り届けること。敵がフィリピンに集中していることを祈りましょう」

 そう言って、陽炎は荷の積み込みに戻る。しおいは、これまで顔を合わせる機会のなかった、陸軍籍のあきつ丸に挨拶をしていた。あきつの背に隠れるように、同じく陸軍の艦娘が、おずおずと立っていた。その性能は実戦向きではなく、長らく本土周辺の輸送任務ばかりに就いていたため、彼女の存在自体を知らない艦娘も多い。しおいは久方ぶりの潜水艦仲間と会えて嬉しそうにしている。

 ふと陽炎は南の空を見つめる。もうすぐ、あの懐かしい前線に戻ることができる。諍いながらも共に戦い、絆を育んできた七駆の仲間たちと提督。何より、いつも自分を支えてくれた陽炎型の次女に、もう一度会いたかった。

 

 

 

 

 フィリピン東海岸より、およそ一五〇キロの地点に、アウルム率いる黄金艦隊は航行していた。日本本土の空爆は順調に進み、あとは帝都・東京を集中爆撃すれば、日本の統治機能は、ほぼ失われるだろう。二月二十日には、サイパン島から帝都爆撃隊が飛び立つ予定だった。

 全ては順調だ。だが、他の裁定者と異なり、アウルムだけは自己の思考が安定しなかった。二月十八日、日本近海に撒き散らされた、『平和への回答』は、取るに足らぬ妄言であると、ほとんどの艦が相手にせずに聞き流した。裁定者の通信網に乗って世界中に拡散し、提督の耳にも入っているはずだが、彼が何のアクションも起こさないということは、その程度の内容だったのだろう。しかし、アウルムだけは、僅かながら原因不明の焦燥を抱えていた。本土から艦娘部隊が脱出したという報告が哨戒艇から入っていたが、今のところは捨て置いても問題ない。二個艦隊で守られたマリアナは鉄壁を誇り、中部太平洋の泊地も、ほぼ破壊を終えている。脱出したところで行く当てもない。

 人間の行動など、全てが掌の上だ。幾田が裏切ることも想定の範囲内であり、裁定者の本作戦に何の影響もない。

 ならば、なぜ自らの論理回路に不安定を感じているのか。グラキエスの言葉を借りるなら、『胸騒ぎ』、あるいは『予感』。このような曖昧模糊とした人間的な感情に振り回される理由が分からない。強いて言えば、太平洋方面艦隊の意識が、日本とフィリピンに注がれていることくらいか。最大の問題である原子爆弾が抹消された今、残る問題は海洋を自由に動ける艦娘だけ。彼女らを沈めれば、人類に対する勝利が確定する。

 ところが、わずか数時間後、彼女は思い知ることになる。経験を積めば積むほど、至高論理は不安定になり、人間に近づいていくのだということを。予感に根拠などない。仮に、それが正しかったとしても、そんなものは確率論の話だ。しかし、そう割り切ることができないから、それは『予感』なのだ。

 中部太平洋に展開していた偵察用ピケット艦が、緊急の通信を試みてきた。驚くべきことにその緒元は、はるか遠く、アメリカ大陸を封鎖する大西洋方面艦隊の総旗艦からだった。方面艦隊を飛び越えての緊急通信など、未だかつて一度も無かったことだ。アウルムは、すぐに暗号化された内容を解読する。

 一秒経たずして、アウルムは広大な飛行甲板の上で、不意に空を仰ぎ見ていた。

「Jesus」

 記憶の底に眠っていた、グラキエスから教えられた言葉が蘇る。

 

 ダグラス・マッカーサー大将と参謀二名が、サンフランシスコ軍港に帰還。合衆国中枢に海洋封鎖の原因および解決策を提示。さらに原子爆弾の実験試料、実験結果報告書、裁定者に対する有効性も暴露。合衆国大統領ルーズベルトは、海洋封鎖を打開するべく、徹底抗戦を宣言。その際、原子爆弾の使用も示唆。また、フィリピン米軍は日本軍によって救われたことを強調し、さらに深海棲艦と孤軍奮闘しているのも日本軍であることも表明。艦娘についての言及はなし。

 マッカーサーを輸送したのは、大日本帝国海軍の潜水艦であると思われる。潜水艦撃沈を確認したという太平洋方面軍第三艦隊の誤認を追及する。現在、海域の敵潜水艦を、全力をもって追跡中。

 

 潜水艦は、あの戦いで全滅したのではなかったのか。

 原子爆弾と実験試料は、日本近海に沈んだのではなかったのか。

 この戦争の真実を知るマッカーサーは、部下とともにオーストラリアに脱出するのではなかったのか。

 潜水艦の生存という、わずか鼠の穴ひとつ。そこから見事にダムは決壊した。数分前まで勝利確実と演算していた思考が、今や作戦の存続に大きな不安が立ち込めている。

 二か月。

 この二カ月の間、裁定者は日本とフィリピンに集中していた。いや、今思えば集中させられていたのかもしれない。その間に、潜水艦が人知れず太平洋を横断し、マッカーサーと原爆資料を本国に送り届けた。ここにきて、裁定者の計画が人間に翻弄されている。原子爆弾本体は、おそらくアメリカに戻されたのだろうが、もしかすると、まだ太平洋のどこかに紛れ込んでいる可能性はある。

 幾田は、国そのものを囮にした。大日本帝国の破壊と引き換えに、輸送計画を成功させた。

 大胆不敵。人類と艦娘は、我らの管理下における戦争を逸脱しようとしている。

 アウルムが思索している最中に、今度は提督直卒の第一艦隊の旗艦、大戦艦「イグニス」から通信が入る。南方よりフィリピンに接近する最中、ピケット艦が第二艦隊と思しき艦影を捉えたが、敵はすぐに戦線を離脱。ここでも予想外なことに、フィリピンの部隊は本土ではなく、まっすぐ前線を目指していた。

 アウルムは、すぐに提督に意見具申を行う。アメリカが原子爆弾の製造に乗りだそうとしている今、空爆を止めるわけにはいかない。よって、これ以上、海上艦の建造に資源は使えず、戦力増強は見込めない。導き出される答えはひとつ。

 太平洋艦隊の全部隊をもって、敵対勢力を、一隻残らず撃滅する。その際、一部大陸封鎖を解くこともやむなし。

 この意見は、ただちに提督の裁可を得た。

『やれば、できるじゃないか』

 そう言って、僅かに微笑みながら白峰は通信を切る。その言葉は、誰に向けられたものだろうか。裁定者の思想に真っ向から戦いを挑んだ幾田か、それとも自らの足で立つことを覚えた艦娘か。あるいは、ようやく進化の兆しを見せた人類そのものか。

 アウルムには関係ない。どのみち、正しくない者は全て滅ぼすのだから。

 敵に退路はない。裁定者の心臓部を知った今、人類の運命を賭けて乾坤一擲の大勝負を挑んでくるだろう。ならば、我々は口を開けて待っているだけだ。愚かな艦娘どもが、太平洋艦隊の牙の内側に飛び込んでくるのを。

 黄金艦隊は、ただちに南東へ転舵する。

 最終決戦のときは近い。

 




次回は最終回ということで、テレビ番組で言うところの1時間スペシャルとなります。

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