【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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輸送任務中、思わぬ邂逅を果たした第二駆逐隊の面々と吹雪。
彼女たちの輸送任務には、いったいどのような意味があるのか。幾田提督が操る謀略の糸は、艦娘ですら全貌を見通せず、ただ今は命令のままに踊る。その先あるものが、人類の勝利であると信じて。 


第二十二話 天の許さぬ叛逆を

 

『砲を俯角に掲げて。大丈夫、落ち着いて』

 島風が言った。駆逐隊は、完全に敵に包囲されてしまった。全ての砲門が、正確にこちらを狙っている。ここで暴れたら、全員が海の藻屑になりかねなかった。今は冷静に敵の目的を見極め、反撃の機会を探す必要がある。接近してくる吹雪は、第二駆逐隊の輪形陣を抜けて、島風の隣に艦をつける。そして鉄の橋をひっかけて互いの艦隊を繋ぐ。さらに敵の一個駆逐隊が同じように一隻ずつ第二駆逐隊の艦に接舷した。

『目的は何だ?』

 島風が呼びかける。艦娘用の回線とはいえ、深海棲艦に下った吹雪は、いつ盗聴されているか分からない。叢雲と違い、その顕体に索敵用艤装を持たない島風は、アウルムの気配を感じ取ることができなかった。

『艦内をあらためさせてもらいます。それが、わたしたちの任務』

 吹雪が言った。彼女は梯子を渡り、島風の艦に移動する。左舷甲板にて、島風と吹雪は見つめ合う。島風は「いいだろう」と一度だけ頷いた。それと同時に、吹雪は与えられた兵士を呼び寄せる。続々と梯子を渡ってくるのは、かつてソロンを襲撃したような人間をベースとした深海棲艦の陸上戦力だった。しかも、深海棲艦の意匠が施された黒と青の装甲を纏い、小火器のような武器まで携帯している。兵士たちは一糸乱れぬ動きで艦内を検分していく。小さな害虫の群れが身体中を這いまわるようなおぞましさを感じながらも、島風はじっと沈黙を保っていた。同じことが行われている第二駆逐隊の面々も、島風の指示通りに大人しく従っている。

 やがて兵士の一人が、吹雪を艦尾に呼び寄せる。貨物室を埋め尽くす、その物体を見あげて吹雪は溜息をつく。それは、まさに巨大な鋼鉄の卵だった。全長は八メートル。表面は黄色く塗装されている。

 長く見つめていると、どうしようもなく不快感が湧き起ってくる。吹雪は思わず顔を背けた。自分に埋め込まれた深海棲艦の部分が、目の前の物体に拒絶反応を起こしている。機械の兵士たちも、球体から一定の距離を取り、不必要に近づこうとはしない。

「米フィリピン軍から預かった荷は、これなのかな?」

 同行していた島風に吹雪が尋ねる。島風は頷いた。

「これに関して、わたしたちは何も聞かされていない。ただ本国に移送しろと命じられただけだ。第二駆逐隊を人質に、情報を引き出そうとしても無駄だよ」

 島風は言った。吹雪は、足早に貨物室から立ち去っていく。あの物体から離れても生理的な嫌悪感は消えない。おそらく、これは深海棲艦にとって共通の本能なのだろう。人間が生まれながらにしてタンパク質の腐乱臭を嫌うのと同じで、深海棲艦も「あの兵器」を受け入れがたきものとして認識している。

 意志なき兵士たちが、わらわらと卵に集まり、少しずつ甲板へと運び出していく。人間から鹵獲したものであっても、再利用する意図はさらさらなかった。ただ証拠として持ち帰るだけだ。さらに、艦橋を探索していた兵士が、金属製のアタッシュケースを甲板に運び出してくる。吹雪が中身を確認する。

「設計図と、実験報告書の写しだね」

 そう言って、吹雪は紙の束を乱雑に鷲掴む。設計図があったところで、今の日本の技術レベルで同じ兵器を再現できるとは思えなかった。それでも、この図が人間側に渡るのは深海棲艦にとって脅威だった。一度、陸地にまぎれこんでしまえば、際限なく情報はコピーされて全世界に波及する。そうなれば、もう情報を根絶することはできない。

 吹雪は、巨大爆弾を甲板のへりまで移動させる。そして、兵士たちは接舷タラップを渡り、爆弾を吹雪の艦尾格納庫に移した。。さらに吹雪は島風が見ている前で、書類の束を潮風に解き放つ。風に委ねられた紙は雪片を散らすように水面に舞い落ち、消えていった。

 こうして、提督から預かった二つの『荷』は、あっけなく敵の手に落ちた。

 これでいい。島風は考える。こうすることで、とりあえず最悪の事態は回避できる。あとは吹雪の出方次第だった。

『これで任務は完了です。島風ちゃん、後はよろしく』

 艦娘回線で吹雪が言った。兵士を撤収させていき、最後に自分も艦に戻った。

『これから、どうするつもりなの?』

『終わらせる、わたしの使命を。だから、島風ちゃんは、島風ちゃんの任務を果たして』

 島風の問いに、決意を秘めた声で吹雪は答える。ゆっくりと島風の艦から離れていき、それにならって第二駆逐隊に接舷していた敵艦も移動を始めた。外周に控えている敵主力の元に戻っていくようだ。おそらく、ある程度の距離をとったら一斉に攻撃してくるだろう。

 そのとき、島風のもとに通信が入った。

『やばいよ。歩兵を艦内に残したまま敵艦が撤収しちゃった』

 白露の声だ。陽炎、時雨、夕立も同じ状況を報告する。つまり四隻は艦内を敵勢力に占拠されたことになる。顕体が殺されたら艦は機能を停止してしまう。

『敵は、歩兵を捨て駒にしてでも我々を沈めたいらしい。もうすぐ戦闘が始まる。歩兵には対応できそうか?』

 島風が問う。反撃のチャンスがあるとすれば、吹雪が何か仕掛けた瞬間だ。それまでに各艦、自力で顕体の安全を確保して、砲雷撃戦ができる環境をつくらねばならない。

『武装は、自動拳銃一丁のみ。でも艦橋内の隔壁を閉じれば、敵は航海室にいる奴等だけになる』

 陽炎が言った。敵は、それぞれ四体ずつ。射撃の訓練は受けていたが、装甲をまとった敵を同時に四体も仕留めるのは至難の業だ。

『参ったな。ボク、射撃は苦手なのに』

 時雨が不安そうに言った。

『生き残るためには、やるっきゃない。とにかく死なないで。島風、合図をお願い』

 陽炎が言った。まだ室内の敵は攻撃の構えを見せていない。背筋を嫌な汗が伝う。一分一秒が拷問のように長く感じる。

 島風は甲板から、撤収していく敵艦の様子を窺っていた。四隻の駆逐艦は、すでに配置に戻っている。吹雪だけが、ゆっくりと敵旗艦と思しき軽母に向かっていく。その間に、全ての敵艦が艦娘部隊の照準を合わせた。

 この瞬間、突然、吹雪の主砲が火を噴いた。敵軽巡と駆逐に命中、さらに斉射された魚雷は面白いように停止している駆逐艦群に吸い込まれていく。艦娘に集中していた敵艦は対応が遅れ、混乱する。

『今だ!』

 島風が念波を飛ばす。

 陽炎、白露、時雨、夕立は一斉に拳銃を抜いて歩兵を撃った。少し遅れて敵が小銃の乱射で応戦する。艦娘たちは横に走り抜け、ぎりぎりで弾をかわす。艦娘の動体視力は、激動中であっても、しっかり敵の頭部を捉えていた。わずか二秒の間に三体が脳幹を撃ち抜かれて停止する。航海室に激しい火花が散り、開戦から五秒後には銃声が止んだ。

『報告せよ!』

 島風が問う。

『陽炎、負傷なし』

『白露、左大腿に被弾。戦闘に支障なし』

『時雨、左肩被弾。戦闘に支障なし』

『夕立、負傷ないっぽい』

 直後、島風は砲雷撃戦開始を告げる。砲が高く掲げられ、計一一隻の敵艦隊に弾頭を撃ちこみ始める。吹雪の奇襲から、わずか十秒足らずのうちに艦娘は反撃の態勢をつくりあげていた。

 敵は混乱しつつも、常に最適の行動を選び続けた。黒煙を上げる駆逐艦が三隻、軽母の前に壁をつくる。それを見て島風に焦りが生じる。この戦いにおいて、真っ先に撃破するべきは敵軽母だ。一隻ずつ艦載機の飽和攻撃を受けたら、いかに対空能力が高くとも轟沈してしまう。それは他の艦娘も分かっていた。しかし敵駆逐は耐え続ける。軽母撃破を優先したため、他の敵艦からの砲撃が激しくなった。先遣部隊はつぎつぎと被弾する。乱戦の最中、島風のもとにノイズまじりの通信が届く。

『島風ちゃん、西に脱出して!』

 吹雪の声だった。痛みに耐えるように、喰いしばった歯の隙間から声を捻りだしている。

『でも敵軽母が……』

『行って! わたしが抵抗できる間に!』

 吹雪が叫ぶ。どうやら意識がアウルムの侵蝕を受けているらしい。島風はただちに艦隊に転進を命じる。そして周囲の敵艦を叩くことだけに集中しろと伝達した。島風は艦橋にのぼり、離れていく戦場の中に吹雪の姿を見つける。発艦寸前の艦載機を大量に乗せている軽母に向かって、敵をかいくぐり単身突撃していく。ふたつの艦隊が接触した瞬間、吹雪の艦首もろとも敵旗艦はどす黒い爆発と炎に包まれる。敵の艦体には大穴が開き、傾斜していく飛行甲板から艦載機がボトボトと海に落下していく。

 吹雪は敵と爆弾を道連れに自沈した。日本を離れる際、幾田に依頼して、自身の艦に大量の爆薬を積みこんでいた。ひとりでも多く艦娘を生かすため、一度は艦娘として死を迎えた吹雪の、最期の決断だった。

 敵は旗艦を喪い、動きを止めた。その間に先遣部隊は完全に戦場を離脱することができた。島風はすぐに艦を止め、被害を確認するとともに白露の艦に渡る。銃弾は左大腿部を貫通していた。幸い、大きな動脈は外れていたが、戦闘中の出血がたたり、機関の出力が弱くなっていた。同じく被弾した時雨を陽炎が手当てする。銃弾は肩甲骨で止まっていて、摘出するには外科的処置が必要だった。本土に辿りつくまでは手を出さないほうがいいと陽炎は判断したが、時雨は得体のしれない敵の弾が体内にあることを嫌い、麻酔なしでの摘出を求めた。結果、野戦医療の経験がある夕立が摘出にあたり、彼女の体内から鉛玉を抜きだした。

 この戦いで、陽炎と島風が中破し、白露、時雨が大破にまで追い込まれた。主要部分への被弾を免れた夕立が、大破した二隻を曳航する。とにかく本土にまで辿りつくことを優先し、島風は航路変更を決断した。

 そして彼女たちは十二月十八日、紀伊半島沖に漂着。そこから沿岸づたいに横須賀を目指した。満身創痍の駆逐隊が、新横須賀港に辿りついたのは、その二日後のことだった。彼女たちは、すぐ鎮守府に招き入れられ艦の修理を受けた。銃撃を受けた白露と時雨は、すぐに海軍病院に搬送された。十二月二十五日、残るメンバーは軍令部に出頭し、マリアナ沖海戦の敗退から、スリガオ海峡開戦、シブヤン海海戦を経て、フィリピン奪還に至るまでの過程を報告する。島風と陽炎が代表を務めたが、その場では、アメリカフィリピン軍との協力関係や、クーデターのこと、深海棲艦の本拠地、さらに艦娘に託された『荷』については一切の情報を伏せた。

「軍令部は今、誰が敵で誰が味方か分からない。切り札となる情報は、確実に信用できる人にだけ暴露すること」

 報告を終えて、永田町の通りを歩きながら島風が言った。これから、その信用にたる人物と謁見する予定だった。二人は例によって身分を隠すために、海上兵装から私服に着替えていた。

「思ったより、ひどいわね」

 少し顔を俯けて、陽炎は言った。冬場とはいえ、異様に町は静かだった。一九四二年、第七駆逐隊のメンバーとして再編成され、本土を発ったとき、まだ本土には活気があった。物資は苦しくとも、戦争に勝てるという希望が人々の活力となっていた。ところが、たった二年と少しの間に、この国はやつれ果ててしまった。破竹の勢いで太平洋を取り戻していったはずの海軍から、いつしか戦勝の知らせが途絶えた。そして深海棲艦による世界支配宣告。前線からの物資の輸送も無くなり、それでも軍は押し黙ったまま。民の心から希望が消え、鬱屈と不満ばかりが、どろどろと淀み溜まっていく。頻発するデモは、民のささやかな捌け口だった。しかし、今はその声すら消えている。

「静かだわ。不気味なくらい」

「深海棲艦との開戦が急だったから、軍部は戦争に向けて、臣民への十分な思想統制が間に合わなかった。当然、戦況が不利になれば暴動も起きる。軍にだって反抗する。でも、それさえできないとなると、いよいよヤバいかもしれないね」

 島風は言った。静かに降り積もる黒い感情は、些細な火花で一気に爆発するかもしれない。恐怖に飲まれれば理性を失う。理性の消失は、すなわち言葉の消失であり、残るは血を血で洗う暴力のみ。

 内憂外患のこの国で、彼女は何を為そうというのか。その心内は、長く彼女の傍にいた島風にも分からない。分かる艦娘がいるとすれば、あの娘くらいか。

 ふたりは、鎮守府移転によってすっかり寂れてしまった旧横須賀港の敷地に入る。かつて艦娘の乾ドックとして使用されていた建物が、今回の集合場所だった。尾行がないことを確認し、錆びついたドアを開ける。がらんとした建物の中には、水のない巨大プールのようにドックが口を開けており、その縁にテーブルと椅子が並んでいた。先に到着していた夕立がふたりに手を振った。本土に取り残された艦娘の代表者が、それぞれ顔を連ねている。戦艦「伊勢」、軽母「龍驤」、軽巡「球磨」「天龍」「五十鈴」、駆逐「睦月」「五月雨」。奥に腰掛けているのが、おなじみの秘書艦「叢雲」と、陸軍所属の艦娘である揚陸艦「あきつ丸」だった。叢雲の隣には、本土における唯一の『提督』たる幾田サヲトメ中佐。そして、あきつ丸の隣に席を構えるのは、前線から帰還した陽炎や夕立にとって、初めて見る人物だった。男は立ち上がり、艦娘たちに自己紹介をする。

「陸軍参謀本部付情報将校の、荒牧稔大尉です。以後、お見知りおきを」

 そう名乗り、荒牧は恭しく頭を下げた。

「彼はわたしの協力者よ。陸軍における支持者との連絡役を担当してくれている」

 幾田が付け加える。島風と陽炎のふたりを上座に呼び寄せた。

「さっそくだけど始めましょうか。あなたたちが、前線からここに至るまでの過程を話してちょうだい。包み隠さずに、ね」

 そう言って幾田は叢雲のヘッドパーツを確認する。兎の耳のような艤装の先端には青い光が灯っている。幾田と島風は、この場の安全を確認する。艦娘による通信を使わず、直接、肉声で情報を伝えることで、より保全性が高まる。これなら万が一、アウルム以外の敵に盗聴される可能性もない。

 島風は要点だけをまとめて簡潔に伝える。その一つ一つが、情報から締め出されていた本土の艦娘たちを驚嘆させた。クーデター、アメリカの新型兵器、それらにまつわる情報を敵に破壊されたこと、吹雪の死。そして、今後の戦争の運命を決めるほどの最上機密である、深海棲艦の本拠地と、水面下で進行中の極秘作戦。

「切り札の二枚が揃ったわね」

 満足げに幾田は微笑む。改めて島風に労いの言葉をかけた。思い描いたシナリオ通りに事が進むよう、戦場をコントロールしてくれたのは島風だった。陽炎でさえ、極秘作戦については初耳だった。

「初めから、そのつもりだったのね」

 少し唇を尖らせ不服そうに陽炎は呟く。

「ごめん。情報の保全のために、前線の仲間に話すわけにはいかなかったんだよ」

 さして気にするでもなく、島風は言った。陽炎は諦めたように、それ以上の追及はしなかった。

「これで逆転のためのカードは揃った」幾田は厳しい声で続ける。「しかしながら戦局は依然として圧倒的に我々の劣勢。使い時を間違えれば、今度こそ本当に勝利の目は潰える。だが、我々の持ちうる戦力が最高のタイミングで最も正しい選択をすれば、一厘ほどもないはずの勝率が、その刹那のみ八割、九割にも跳ね上がる」

 力強い言葉は、長らく出撃の機会さえ与えられなかった艦娘たちに熱意を灯した。

「本題に入りましょう。敵の本拠地が明らかになった以上、この海で戦える全戦力を一点に集中させる必要があります。そこで、我々と志を共にする艦娘および軍人戦力の本土脱出作戦、その概要を決めておきたい」

 いよいよこの時がきたか、と艦娘たちは思った。陸軍にも理性派と呼ばれる、艦娘の存在意義を尊重する派閥がある。彼らの協力を仰ぐことを考えつつ、脱出計画が話し合われた。艦娘たちが瞳に希望を宿す中、叢雲だけは神妙な面持ちで自らの提督を見つめていた。彼女は、いつも通り微かに微笑んでいる。部下に不安を与えないために張りつけた仮面。叢雲は、この仮面が剥がれ落ちた瞬間を見たことがあるからこそ、彼女が内心に抱える想いを知っていた。

 正午を回ろうとしたとき、叢雲が不意に叫んだ。

「警戒!」

 その一言でテーブルは静まりかえる。数秒後、彼女の偽装が淡いピンク色を放った。

「あいつが呼んでるわ。最近、本土に辿りついた艦娘がいたら、その目的と現状を報告しろとのことよ」

 叢雲は言った。敵からの質問に対し、幾田が口頭で答える。アメリカから預かった未知の兵器のサンプルと設計図を海上で喪失したこと。そして、輸送を任された艦娘たちも荷物について詳しいことは何も知らされていなかったこと。

 叢雲はしばらく沈黙し、敵からの返答を待つ。

「了解した。我々は新たな作戦を進める、だってさ」

 アウルムの言葉を代弁する。うまく敵を欺けたと幾田は思った。しかし、まだ用件は終わっていないらしく、艤装の色は変わらない。次第に叢雲の表情が厳しくなっていく。

「……ラジオをつけてみて。何か面白いことを聞かせてくれるそうよ。何よ、深海棲艦にしては、やけに情緒ある言葉遣いじゃないの」

 忌々しげに叢雲は言った。言葉は軽いものの、これが尋常ではない事態であることが周囲のメンバーにはすぐに分かった。荒牧が大きなボストンバッグを開き、最新型のラジオを机上に置いた。深海棲艦の世界宣言以来、彼は電波を拾えるラジオを、いつでも持ち歩いていた。

 チューニングする必要はなかった。あらゆる振動数が一律に支配されていた。流れてくるのは、かつて放送されたときと同じく、奇妙なエコーがかかった声だ。しかし、今回のそれはアウルムのものではない。

 男性の声だった。

 幾田と叢雲にとって、聞き間違いようのない声。艦娘たちの中でも、睦月は大きく目を見開き、悲しみと驚きが同時に瞳に弾ける。彼の教えを受け、戦場を共にした駆逐艦だからこそ、あらかじめ知っていても衝撃は大きかった。

 十二月二十五日、正午。深海棲艦は、ふたたび人類の言葉で宣告する。かつて人間の男だった白峰晴瀬が、今は深海棲艦の声で幾田に語りかける。

『人類に告ぐ』

 恐怖と混乱にあえぐ全世界に向かい、白峰は言った。

『一九四四年三月の勧告以来、我々は人類を観察しつづけてきた。我々の提示する世界平和を前にしても、なお人類は武装を捨てず、戦争継続の意を示した』

 幾田は固く唇を閉じ、彼の言葉を聞いていた。そのような得体のしれない勧告に、人類が従えるはずがない。武器を捨てれば、もはや自らの不利益を排除することはできず、敵に抗う術も永遠に失うからだ。

『この事態を受け、人類は、あらゆる欠乏と恐怖を自ら欲し、平和を否定する愚かしき生命体であると判断する。人類の存在は悪である。悪が、この世界の支配者であってはならない。我ら裁定者は、生命の最高状態である絶対平和の名のもとに、この地上に満ちたる悪を断罪することを、ここに宣言する』

 朗々たる声で、白峰は人類に死刑宣告を下す。幾田の口角が皮肉な笑いで歪む。現状、国レベルでしか意志統一されていない人類が、無条件で世界平和を受け入れようなどという展開にはるはずもない。それは白峰も最初から分かっていたはずだ。

 前回の勧告は、いわば茶番だった。

 白峰は、なおも続ける。

『これは宣戦布告ではない。我々は人類を、もはや対等な相手とは認めていない。ゆえに、これから行われるのは戦争ではなく一方的な虐殺である。駆除である。悪を断罪することに一片の慈悲もなく、殺戮することに一切の躊躇いもない。ただひとつ望むことは、滅ぼされゆく過程で人類が自らの愚かさと間違いに気づき、悔い改めることである。これから我々は、全世界同時に死と破壊をもたらす。特に、我々の行動に対し、積極的な加害意志を示した、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、ロシア、イタリア、そして大日本帝国には、凄惨な裁きがもたらされるだろう』

 やはり大日本帝国は標的となっていた。だが、この宣告はむしろ幾田を安心させた。今さら本土が攻撃されたところで世界の運命はさして変わらない。むしろ艦娘という独立した存在が攻撃対象に含まれなかったことは幸いだ。まだ敵は、艦娘を大日本帝国の所有物と見なしているらしかった。

『ただし、駆除の最中にあろうと、人類には三つの選択肢を残す』

 ここで白峰は、ささやかながら人類に救いの手を差し伸べる。

『ひとつ。愚かしい存在のまま最後の一個体に至るまで我々に殲滅されること。ふたつ。我々の世界平和を受け入れ、全ての武装を放棄し、我らの軍門に下ること。そして、どちらも選ばない場合―――』

 この一瞬、微かに声の様子が変わる。挑発するような、それでいて慈しむような声音で白峰は言った。それは幼いわが子を諭す親のごとき、絶対上位者から下位者にくだされる諮問だった。

『―――我ら裁定者は、その者に問う。我らの掲げる世界平和よりも優れた支配が存在するか否か。存在すると答えるならば、絶対的平和を超える理想世界の作り方を我らに示せ。そして、その方法にのっとり、この世界を再構築せよ。もし、その方法および結果が、我ら裁定者の作る平和を上回るものであれば、我らはそれに従おう』

 人類が最後には賢明な選択をすることを祈る。そう結びの言葉を残し、通信は終わった。あとは同じ内容の宣告が繰り返されるだけだった。

 これが彼の質問。深海棲艦に対して人類が意見することを許された、最初で最後の機会。

 動揺する艦娘たちを尻目に、叢雲はひとり無表情で思索にふけっていた。最後の三つ目の選択肢は、明らかに幾田への挑戦だった。やはり白峰は、幾田を信用していない。その一方で彼女を評価している。もしかしたら自分と違う回答を導き出せるかもしれないと期待している。敵対してもなお、二人は互いを強く意識している。軽い嫉妬を覚えている自分に気づき、叢雲は小さく舌打ちした。

「一体、何が起こるというのでしょうか?」

 荒牧が尋ねる。幾田は静かに立ち上がり、艦娘たちの注意を集める。

「すぐに軍令部の詰め所に戻ったほうがいいわ。敵が大挙して押し寄せてくるのなら、必ず沿岸警備のために出撃することになる。ここはいいから、軍令部付の皆は早く」

 その指示により、艦娘たちは慌ただしく旧ドックから退出していく。今こちらから率先して動くのは危険だった。艦娘を安全に本土から脱出させるには、まずは敵の動きを知らねばならない。本土が攻撃されるのは確実だろうが、その方法が知りたかった。ルソン島を制圧したという強襲揚陸部隊だろうか。それとも戦艦群による艦砲射撃だろうか。あるいは化学兵器による攻撃も考えうる。

 だが、幾田の懸念は、一分と経たず解消されてしまった。

 建物の外から、つぎつぎと艦娘の悲鳴があがる。幾田と荒牧は、すぐにドックを飛び出した。

「あれは何や?」

 龍驤が東の空を指さす。最初、幾田はそれを渡り鳥の大群かと錯覚した。しかし、明らかに高度が違う。雲をこすらんばかりの遥か上空を、黒い点線が雁のように「く」の字の隊列を組んで飛行している。ここから視認できるだけでも、その数はゆうに一〇〇以上。無数の編隊は、空に幾何学模様を描いていた。艦娘たちは、一瞥しただけで、その飛行物体の異常性を理解する。

「ありえへん。あんな艦載機……」

 龍驤が呆然として呟く。目算でも、飛行高度は一万メートルを超えている。帝国海軍の開発している最新試作機でも、九六〇〇メートルがやっとだ。つまり現段階で、敵を迎撃できる戦闘機は皆無。あの高度ならば高射砲も届かない。

「叢雲、外洋警戒にあたっている沿岸警備隊と連絡を」

 幾田が指示する。すぐに彼女は、警備隊の如月から返答を貰い受ける。

「周囲に敵空母および敵艦影は無し」

 叢雲は言った。つまり、あれは艦載機ではない。飛行場から繰り出される、大型の航空機だ。しかし、艦載機でないとするなら、あの敵機たちはどこから来たのか。敵の航路を辿ると、ちょうど南の方角から飛来していることが分かる。日本列島の南は、広大な太平洋が広がるだけだ。小笠原諸島に敵は揚陸していない。そこからさらに遠方となると、考えられる場所はひとつ。

 マリアナ諸島。

 この瞬間、幾田は敵の作戦の全貌を垣間見た。深海棲艦が、第三艦隊をマリアナから追い払ったのは、本土と中部太平洋の戦力を分断するためだけではなかった。むしろ、本命は別にあったのだ。マリアナ諸島のどこかに飛行基地を構え、そこから帝国本土に直接、爆撃を加える。あまりに遠大で恐ろしい戦略だった。つい先ほど白峰は全世界に対し攻撃を宣言した。その直後の本土爆撃。つまり、これと同じ事態が世界中で起こっているとしたら。

「マリアナから本土まで、どれだけ距離があると思ってるの……?」

 空を仰ぎながら、呆然として叢雲が呟く。北マリアナ諸島から帝都まで、片道二四〇〇キロ。往復で四八〇〇キロ。これほどの馬鹿げた距離を飛び続ける飛行機など、今の世界には存在しない。海が封鎖されている状況下では、もはや人類に反撃の術は残されていなかった。

 幾田の予想は的中していた。これこそが白峰晴瀬の目的であり、それを実現するための手段として開発されたのが、空飛ぶ要塞「アポロン」だった。太平洋領域においては、マリアナ諸島、アリューシャン列島、セイロン島、オーストラリアのポートダーウィン、四つの大飛行場を中心とした爆撃範囲は、太平洋に接する全ての陸地を余すことなく覆い尽くす。アポロンを開発したのは、特殊戦艦「グラキエス」。この超長距離爆撃機は、提督に捧げた彼女の遺作にして、深海棲艦の勝利を完成させる最高傑作だった。

 裁定者の粋を結集した悪魔のごとき爆撃機は、まっすぐに帝都・東京の空へと吸い込まれていく。

「軍令部に艦娘を戻すのは危険です。爆撃に巻き込まれるかもしれませんし、指揮系統が混乱すれば無駄な出撃を強いられることになります」

 冷静に荒牧は言った。この攻撃が敵空母のものだと軍令部が判断を誤ってしまう可能性もある。それでも艦娘は新横須賀鎮守府に向かおうとするが、夕立の言葉により全員が動きを止めた。

「第二波来てるっぽい!」

 彼女が指さす空には、新たな黒い点線が出現している。第一波の航路を西に三〇度ほどずらし、敵が押し寄せてくる。狙いは明らかに横須賀だった。

 東の地平線は、ほどなくして赤黒い色に包まれていく。幾田は、音もなく焼き尽くされていく帝都を傍観することしかできなかった。やがて第二波が横須賀に爆撃を開始した。手の届かない大空を悠々と飛び去る機体のうち、ひとつが編隊を外れて旧横須賀鎮守府の方角に接近する。幾田たちのいるドックから五百メートルほど離れた場所に、一発だけ爆弾を投下した。轟音と熱風が吹き荒び、艦娘たちの肌を焼く。

 白峰からの挑戦状。しかし幾田は、とくに表情を変えることなく爆心地に背を向けた。

「今さら何を贈られても、あなたに心が動かされることはないわ」

 呟きは鉄の暴風に混じって消える。

 

 十二月二十五日。東京の中心部には一五五〇発の爆弾が落下し、周辺部の住宅地には焼夷弾が降り注いだ。火花を噴きあげる筒の表層には、『メリークリスマス東京プレゼント』と、あざけるような日本語で記載されていた。深海棲艦は、よほど人類について研究しているようだった。

 ついに本土が攻撃の対象となった。これまで海の向こうの話だった戦争の地獄を、この日を境に大日本帝国は直接、その身に刻まれることとなる。帝都大空襲を皮きりに、日本全国の主要都市が「空飛ぶ要塞」による苛烈な爆撃を浴びた。東北および北海道は、最初の一カ月こそ被害を免れていた。そこで帝都を仙台に移す計画まで持ち上がった。しかし、深海棲艦は常に人類の先手を打ってくる。北の千島・アリューシャン列島方面から飛来したと思しき爆撃機により、札幌をはじめとする人口密集地は容赦なく破壊と炎に蹂躙された。おそらく、ソロモン諸島で交戦した飛行場姫と同じ型の陸上戦力が、マリアナとアリューシャン列島のどこかに巣食っているのだろう。敵の攻撃は、単なる無差別爆撃に留まらなかった。帝都の中枢を爆撃したのは最初の一度きりで、敵は帝都周辺および地方都市を重点的に爆撃した。結果、焼け出された難民が次々と帝都になだれこみ、治安と生活環境は悪化の一途をたどり、都市機能を麻痺させた。さらに追い討ちをかけたのが、日本列島を襲った未曾有の大寒波だった。十二月から一月にかけて気温はマイナス一〇度を下回り、水道管は凍りつき、野鳥が凍え死ぬほどだった。爆撃で民は家を失い、政府には配給できる燃料もない。地方では餓死者を凍死者が上回った。炎と冷気、人間が生きるには過酷すぎる環境が、日本列島を死の沈黙で包み込んでいく。

 追い詰められた人間の感情は、ついに大暴動となって帝都に吹き荒れた。窮鼠猫を噛むという言葉通り、権威を振りかざしてきた軍部に対し、暴力をもって民は主張する。満足な食事と温かい寝床を。脅かされることのない暮らしを。そのために軍部が何をすべきか、彼らは叫ぶ。

 深海棲艦への無条件降伏。生き永らえる道があるとすれば、これ以外の選択肢はなかった。

 一九四五年二月。

 軍および政府は、内外に対して守勢を貫くしかなくなった。帝国の存亡を賭けた戦いに降伏という選択肢はない。しかし、今さら一億玉砕を唱えても、すでに反逆の意志が暴走した民衆が従うはずもない。政府、軍、法律、議会、国を支えてきたあらゆる権威が、国民反乱によって無力化されていく。とくに地方は無法地帯と化していた。文明国であるはずの日本が旧石器時代に戻っていく。ただ身内の生存を目的とする原始的集団が棍棒を振り回して、各地で自治を行い始めていた。

 今、ここで深海棲艦が揚陸してきたら、まともに迎撃することもできない。フィリピンのルソン島のように制圧されてしまうだろう。土地を失えば国は滅ぶ。軍は、せめて残された軍備を空襲から守るため、各師団の戦車や装甲車、武器弾薬を隠匿、帝都に集中するように命じた。さらに軍令部と参謀本部は、長い軋轢を乗り越えて結託し、最後の反攻作戦を練っていた。

 二つの飛行場が存在する限り、日本の果てまで逃げても安全な場所などありはしない。そこで、横須賀に帝都防衛の艦娘を最低限だけ残し、それ以外の艦を北方海域に出撃させる計画が持ち上がった。マリアナは無理でも、北方の飛行場ならば破壊できるかもしれないと考えての作戦だった。そうすれば、北海道と東北の一部を取り戻せる。しかし、この国は、もはや艦娘を移動させることすら困難なほどに疲弊していた。一か八かの賭けのため、あらゆる艦娘が東京湾の臨時鎮守府に集められたが、連日つづく大暴動により、艦隊は湾から動けず、浮き砲台と化していた。

 戦争責任を問われ、強硬派の東条内閣は総辞職の瀬戸際だった。しかし、未だ国政の主導権に固執する軍部は、陸海軍大臣現役武官制を盾に、もし現内閣が総辞職した場合、後任の大臣を出さないと明言していた。大臣が出なければ内閣は成立しない。軍部にとって都合のよい政府をつくるための伝家の宝刀だ。

 軍部と民衆の対立が決定的となった、二月十二日。その早朝、幾田は、赤坂にある米内光正の私邸を訪ねていた。軍人としてではなく、あくまで来客を装った非公式の訪問だ。艶やかな黒髪をまとめ、帽子の中に隠している。男物のコートをまとい、さながら男性のようだった。傍らには私服に変装した叢雲も控えている。

「国家瓦解の危機に際し、ついに今上陛下の勅言を賜った」

 どっしりと腰を降ろした米内が、重々しく口を開く。

「『非常なる擾乱に対し、各々の信念をもって恐怖を律し、もって臣民ひとりひとりが国家の柱たらんと心せよ』。つまり間接的にではあるが、国の行く末は国民が決めるべきと仰っている」

 米内は言った。この勅言は、現内閣の輔弼のもとに発表されたものではない。今上陛下の言葉を取り次ぐ鈴木侍従長が、内閣の頭を飛び越えて、宮内庁の名のもとに直接、ラジオ放送局に発表を指示した。明治の元老が政治を取り仕切っていた時代から、宮中は政治に口出ししないという暗黙のルールが完成していただけに、今回の宮内庁発表は異例だった。俗世とは隔絶した存在であるはずの今上陛下が、自ら言葉を下さねばならないほど、国の中枢は麻痺していた。急進派と穏健派の軍人は激怒したが、後の祭だった。

「陛下は民の窮乏を嘆いておられる。しかし、その一方で、民を戒めてもいらっしゃる。一時の怒りや恐怖に飲まれ、無条件に敵にくだれば、もう二度とこの国は立ち上がれなくなる。国の基盤は民であるとお考えだからこそ、民に理性と自律の心をお望みだ」

「しかし、陛下のお気持ちは、民には届いていないようです」

 幾田は言った。内閣を攻撃しても弾圧にさらされるだけで埒が開かないと悟った暴徒たちは、勅言放送を機に、皇居へと直訴すべく靖国通りでの大規模デモを画策していると、理性派の情報将校から連絡が入っていた。陸軍は、すでに歩兵第一連隊および第三連隊、近衛第一連隊、予備部隊として海軍陸戦隊にまで緊急呼集をかけていた。

「その責任は、明治政府に始まった国家体制にある。立て前だけの議会政治。度重なる戦争による軍部の膨張。民意は国政から締め出され、強固に結びついた軍部、貴族政治家、財閥の特権階級が全ての決定権を握っている。近代国家にあるまじき支配体制だ。ゆえに、民に罪はないとする陛下の御心は正しい」

 米内は少し躊躇いながらも、自らの意志を伝える。

「この国は一度、滅びねばならない。これまで積み重なってきた悪しき伝統を白紙に戻し、真に正しい国家をつくり直す。一時の崩壊により、万世の安寧を得られるのならば、アメリカ・イギリス連合軍に敗北することもやむなしと考えていた。しかし、今戦っている相手は人類ではない。敗北を喫せば、再起の機会は永遠に失われるだろう。そこで、国家を破壊しようとも戦争には勝つという、きみの考えに賛同したわけだ。いや、賛同するなどという表現はおこがましい。あらゆる責任と痛みを、きみに押しつけ、その後にのうのうと新国家の中心に居座ろうとするのだから」

 他の者も同じ気持ちに違いない、と米内は言った。しかし幾田は静かに首を振る。

「お気になさらず。わたしという存在を最大限に利用するには、この道しかなかったのです。わたしが生きた意味を残せるのならば本望です。それに、これから起きる戦いは、わたしの私闘のようなものですから。わたしが決着をつけるのは当然です」

 しかし、と幾田は続ける。

「もし後味がお悪いようでしたら、どこか海の見える公園にでも、わたしと叢雲の銅像を建ててください」

 そう言って幾田は微笑む。彼女の復讐によって、この国が正しく生まれ変わるのならば、何を意見することがあるだろうか。米内は、もはや海軍軍人の域を超えた女性に深く頭を下げた。

「了解した。この戦争の決着と、我が国の新たな夜明けを、お願い申し上げる」

「万事、計画通りに。後のことは、よろしくお願いします」

 歴史の節目となるふたりの会話を、叢雲は静かな瞳で見つめていた。

「これが、頼まれていたものだ」

 米内は、一枚の封筒を幾田に差し出す。宮内庁の印字で封がされていた。

「鈴木侍従長は最後まで、陛下を政治の道具となすことに苦悩していた。それでも、我らと志を同じくする理性派の一人として、最後には断腸の想いで決断してくれた」

「はい。必ず前線に届けてみせます」

 うやうやしく封筒を受け取り、幾田は私邸を後にする。路面につもった固い雪を踏みしめながら歩く。一回目の大空襲で焼け落ちた建物は放置され、道端にはゴミのように死体が横たわっている。下を見ても上を見ても無残だった。帝都の中枢でこの有様なのだから、地方の惨状など推して知るべしだった。

 路地にまぎれるように設置された火事避けの公園に、五人の少女たちがいた。きちんと服を着ていて、孤児の集団には見えない。彼女たちは遊ぶでも騒ぐでもなく、白い雪のなかにじっと立っていた。

「お待たせ。これをお願いね」

 幾田は、赤髪の少女に封筒を渡す。少女は無言で頷く。

「危険な任務になるわ。でも、必ず全員で無事、本土を脱出してください」

 五人は、その場で小さく敬礼する。少女たちに背を向け、幾田と叢雲は歩きだす。

「叢雲ちゃん、一緒にいかないっぽい?」

 少し不安げな声で赤い目の少女が言った。

「大丈夫。後から追いつくから。あんたたちは自分の任務に集中なさい。それと島風、帝都に詳しいんだから、きちんと仲間を誘導しなさいよ」

 振り向きざま、叢雲は言った。その瞬間、島風の頭に秘匿回線が開かれる。短いメッセージを受け取りつつ、「任せて」とだけ答える。第二駆逐隊のメンバーには見えないよう、少しだけ苦笑する。最近、艦娘たちは自分のことを危険物処理班と勘違いしていないだろうか。動揺を表に出さないだけで、本当は皆と同じように辛いこともあるし、受け入れがたいこともある。しかし今さら、そんなことは言えなかった。

 幾田は、その足で第一師団司令部に向かう。

「皆と行かなくてよかったの?」

 道すがら、幾田が尋ねる。叢雲にとって艦隊に戻る最後のチャンスだったはずだ。このまま自分と歩いていけば、待ち受けるのは過酷な戦いであり、その先に勝利や栄光があるわけでもない。艦としての本懐を遂げるのならば、一日でも早く海に出たいはずだ。

「今なら、まだ間に合う……」

 そう言いかけたとき突然、叢雲は彼女の前に飛び出し、制止するように左手を突きつける。

「この駄目提督、もう忘れたの? わたしはあんたの秘書艦なの。あんたが行く所に、わたしもついていく。陸だろうが海だろうが関係ないの! 分かったら、つまんないこと考えてないで目の前の作戦に集中なさいな!」

 この期に及んでまだ説教させるなんて、とぶつぶつ文句を垂れる叢雲。その頬は凍てつく空気に晒されても淡い桜色に染まっている。突き出された左手薬指に、少し大き目の銀の指輪が輝いていた。幾田は何も言わず、そっと叢雲の手を取る。幾田の両手は、僅かに震えていた。感謝と懺悔の混じる瞳が、許しを乞うように叢雲を見つめている。

「……分かればいいのよ。まったく、わたしがついてなきゃ、あんたは駄目なんだから!」

 そう言って、叢雲は威勢よく幾田の前を歩き始めた。

 第一師団司令部に到着したのは午前十時だった。司令部には、すでに召集された部隊の指揮官が召集されていた。この日に群衆が決起することは、瀬川大尉があらかじめ情報を掴んでいた。そこで、急進派の当直指令将校ばかりを集めていたのだ。幾田のもとに、ひとりの男が歩み寄る。第一歩兵連隊の司令官、本間二郎大佐だった。

「ご協力、感謝します」

 急進派の先鋒である男は幾田に敬礼する。陸軍におけるクーデターの実行計画は、彼が立てたものだった。幾田は答礼し、現状を説明する。

「艦娘戦力の了解も得られました。彼女たちも、戦いを止めることはできないという意見です。艦娘への連絡は、この叢雲が行います」

 幾田の紹介を受け、叢雲はぺこりと頭を下げる。

「安心しました。陸軍は、これで本来あるべき誇りを取り戻すことができます」

 本間は冷静な声で言った。開戦以来、主戦場は海ばかりとなり、陸軍は完全に蚊帳の外に置かれた。ニューギニアやガダルカナル島での陸軍の専横も、こうした現状に焦りと不満を抱えていたからだ。ニューギニアの悲劇により、さらに立場の悪くなった陸軍の後ろ盾を申し出たのが、二正面作戦を勝利に導いた「作戦の神様」である幾田だった。深海棲艦の揚陸戦力を警戒し、陸軍の力は近い将来、かならず必要となると各界を説き伏せた。彼女の持つパイプを使い、後回しにされ続けた陸軍予算の獲得にも貢献していた。幾田を支持する派閥は、若手将校を中心に、海軍のみならず陸軍にも増大していった。

「あなただけには打ち明けますが、この戦い、わたしは勝利を望んではいません。全て作戦通り進んだところで、クーデターの責任者は陛下の御前に首を捧げねばならない。しかし、その犠牲で誇り高き帝国陸軍が生き永らえるなら、ここに集った将兵の命を賭ける価値はあります」

 そう言って本間は、司令部の一室に幾田を招いた。そこには緊急呼集に応じた部隊の、歩兵中隊および野戦砲兵大隊の長が居並ぶ。明らかに緊急呼集された部隊ではない指揮官も混じっていた。これだけ集まれば十分だ、と幾田は考える。呼集を受けた部隊以外にも決起準備が進んでおり、総数はおよそ二千五百。敵と互角に戦えれば、それでいい。

 皆の視線が集まる中、幾田は壇上に立つ。すでに作戦の全容は伝わっており、特に喋ることもなかったが、けじめという意味では自分が代表として部隊に立つ意味があった。青年将校たちの顔は、決意と希望に満ちている。軍部のクーデターはこれで三回目だ。五・一五と二・二六のときは、あくまで『陛下の軍隊』としての矜持を持っていた。最後には自分たちの行いが正義であると認めてくれるだろうという淡い期待もあった。しかし今は違う。錦の御旗に弓を引く、逆賊となることを最初から覚悟していた。例え陛下の言葉に逆らうことになろうとも、国家のために立ちあがる。それゆえ、過去の蜂起とは比べ物にならないほど意志は固い。

 結果はどうであれ、きみたちは新たな日本の礎となる。幾田は内心で呟く。幾田の真意を知らず、喜々として彼女の駒になることを選択した男たちは、さながら傾国の魔女に翻弄される純粋で愚かな戦士だった。

「ついに、この時がきた。もう何も言うことは無い。我々が、この国に新たな道を拓く。さあ、戦おう!」

 感情だけを声に込めて幾田は叫んだ。男たちの応答が怒号となって鼓膜を揺らす。将校たちは解散し、それぞれの部隊へと戻っていった。幾田は海軍軍装に着替え、司令部前に待機している陸戦隊と装甲車部隊に合流する。

 一四○○。

 靖国通りの皇居側に、突如として機銃を構えた装甲車が突入する。そして、通りを塞ぐように隊列を組み、小銃を担ぐのは召集を受けた陸軍ではなく、海軍陸戦隊の第一、第二中隊だった。この時点で参謀本部より下達された命令と食い違っており、現場警備を任されていた警視庁警備隊は混乱に陥っていた。指揮官に説明を求めようにも、すでに武装した四百人からの部隊が通りを封鎖してしまっている。陸軍の歩兵中隊は、なぜか陸戦隊よりも二百メートルほど後方に待機している。政府側の騒乱をよそに、通りの西側から地面を震わせるような勢いで暴徒が押し寄せてくる。まさに人の津波だった。恐怖と欠乏に飲まれ、尊厳をすり減らして生き延びてきた、人間として限界そのものの顔をした男たちが怨嗟と憤怒の叫びを張りあげ、皇居めがけて押し寄せてくる。『愚戦』、『米ヲヨコセ』、『民ハ国家ナリ』、『軍ハタラフク食ッテルゾ。汝国民飢ヘテ死ネ』。暴徒たちの頭上にプラカードが踊る。やむをえず警備隊は警棒を抜いた。しかし軍が構えるのは、殺戮のための道具である小銃と機銃だった。

 次の命令を放てば、もう後戻りはできない。決定的な断絶。陛下が守り抜こうとした国民に、国民を守るための手段である軍が銃口を向けている。叢雲がこちらを見ている。彼女はいつも、その厳しい声と瞳で正義を問う。自分の為そうとしていることは正しいのか、最後の命綱をくれる。

 これから始まる戦いは、国のためでもなければ民のためでもない。幾田サヲトメという一人の人間の挑戦。帝国海軍軍人でもなく、憂国の志士でもなく、ただあの男に勝ちたいという執念。その結果として、この国が救われるにすぎない。

「わたしだけの戦争」

 ぽつりと幾田は呟く。彼女の瞳は輝き、口元には微笑が浮かんでいる。今、彼女は確信している。これこそが進むべき道であると。叢雲は苦笑しながら、そっと瞼を閉じた。どこまでも彼女についていきたい。自分が信じる道があるとすれば、それは彼女と共にあるという確信をくれる。

 幾田の右腕が上がる。そして冬の空を貫く一声とともに振り下ろされる。

「撃て!」

 この瞬間、幾田サヲトメは天に弓を射た。西南戦争以来、そして帝国史上最悪の反乱が始まった。

 

 


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