【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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山口多聞を臨時司令官とする第一艦隊は、部隊と艦娘の生存を賭け、最短ルートでオーストラリアに渡る決心を固め、準備に奔走していた。深海棲艦が出現せず太平洋戦争が勃発していれば、オーストラリアは連合国側に名を連ね、敵国となるはずだった。元仮想敵国に救援を求めようとするほど、世界に対する意識は変わりつつある。

この戦いに自らの決戦を見出す大和。彼女の意志に応えるかのように、かつてソロモン海を震撼させた、最悪の敵が艦隊を率いて再び相見えることとなる。


第二十話 トレス海峡決戦

 

 一九四四年十一月七日。

 マリアナ諸島のひとつ、サイパン島。その沖合に一隻の空母が浮かんでいた。二度の改造を経て、全長二五〇メートルを超える旗艦空母となった異例の艦。ただ、その巨大な艦に乗ることを許されているのは、たったひとりの少女だった。単独の意志で艦を操作する主は、広大な飛行甲板の先端に、仰向けに横たわっている。灰色と黒を基調としたタイトな衣装に身を包み、銀色とも青ともつかない不思議な輝きを放つ髪を、無造作に潮風に流している。

 彼女は夢を見ていた。

 眠っているのではない。睡眠を必要としない彼女が夢を見るのは、記憶情報の整美のためだ。自己に保存された有象無象の情報を切ってつなげ、磨き抜く。それは意識の表層から無意識の深層までドミノ倒しのように連鎖していく。

 艦娘と同じく、彼女もまた、自らが産まれる前の記憶を、無意識の領域に有している。深海棲艦と呼ばれる存在の母胎が誕生した瞬間から、連綿と続く情報。艦種類を問わず、全ての艦に共通する無意識下の記憶。

 そよぐ木々の葉。緑の海。浜辺の周囲にあるのは、おそらく人間が居住する場所。そこに〈彼女〉はいた。長い黒髪をなびかせながら、繰り返される平穏な日々を過ごしている。しかし、その色彩豊かな世界は突然、終わりを迎える。

 色のない光。剥き出しのエネルギーそのものの、圧倒的な光。

 空から地上、そして海へ膨張する赤。

 反転する黒。

 暗闇の中でもがき続ける〈彼女〉が抱いた、激しい憎悪。憤怒。それらが脈打つエネルギーと呼応し、〈彼女〉の内側に何かが開いた。幾百、幾千もの黒い感情が、ちっぽけだった彼女に取り巻き賛同するかのように巨大化していく。無限に等しく湧きあがる闇は〈彼女〉を膨張させていき、そして。

 空母アウルムは、ここで目を開かねばならなかった。これは母胎誕生の記憶。母胎から自我が分化する前の記憶に深入りすれば、やがて自らの存在を見失い、意識が肉体に帰って来られなくなる。

 無意識から分岐した意識。同じ存在であるにも関わらず、根源たる無意識は己が内を探られることを嫌う。

 拒まれている、とアウルムは思う。やはり自分には哲学的な問いは向いていないのかもしれない。無意識の領域に分け入り、それと決別できるほどの「何か」を得たであろう、グラキエスのような真似はできない。彼女は特別だった。あらゆる意味で特別な艦だった。裁定者たちは個の存在である。それは群という大きな括りがあるからこそ、その中で個という概念を理解できる。思えば、自分が初めて個を認識したのは、ウェーク島で、かつて人間だったハルセ・シラミネ提督と交戦したときのことだ。正規空母の顕体は、おおむね統一された意匠が為されているが、あのとき敵駆逐艦の砲撃を受け、ヘッドパーツを吹き飛ばされた。見た目の違いなど些細なことだが、それがキッカケとなって人間への興味が産まれた。人間からの情報鹵獲という、新たな概念を裁定者の戦略にもたらした。それ以来、単なる故障であるはずのヘッドパーツを喪失した姿は、とても分かりやすい自己の特別性の象徴となっていた。

 何のために特別でいたいのか。新たな疑問を思案しようとしたとき、不意に思考内線が開く。サイパン島を周回しているピケット艦からの連絡だ。

『太平洋艦隊第四艦隊所属の潜水艦が、艦隊旗艦に接触を希望している』

 内容を読みとったアウルムは、思考に疑念の芽をもたげる。第四艦隊は、フィリピン方面の防衛および陸地攻略を行っていたはずだ。すぐに警戒網を通過することを許可する。直接、話を聞く必要があると考えた。

 指揮権限を持たない「使者」として、潜水艦はアウルムのもとに浮上する。マリアナとトラックから追い払った艦娘たちは、どうやらフィリピンを足がかりにしようとしたらしい。第四艦隊と艦娘との戦いの顛末を立体情報にてアウルムは把握する。

 そこで彼女は、産まれて初めて『驚愕』という言葉の意味を実感した。

 艦娘の連合艦隊との戦いで、第四艦隊は戦力の六割強を喪失。敗走した艦はブルネイ泊地まで撤退。マニラを陥落したものの、最重要目標を撃滅することはできなかった。つまり、フィリピン方面では何一つ戦略的目的を遂げることができなかったのだ。

 第四艦隊は、グラキエスの影響を色濃く受け、太平洋艦隊の中でも創意工夫に富んだ先進的な部隊だった。戦術のみならず、戦略においても、ここまで大きな敗北を喫したのは開戦以来、初めてのことだ。

 この戦いで生き残った艦は、敗北に至るまでの過程を『事故調査報告』という形で整理し、情報を潜水艦に預けていた。今回の敗北は、あくまで『事故』であるとのことだった。彼女たちによれば、事故を引き起こした原因は、三つの予想外であるらしかった。

 まず一つ目は、予想外の戦力。すなわち潜水艦娘の跳梁跋扈である。第四艦隊は、敵部隊に潜水艦がいることを知らされていなかった。情報の有無は、戦う前に勝敗を決してしまう。むろん優秀な艦隊首脳部は、いちはやく潜水艦の存在を疑い応戦するも、敵は遥かに練度が高かった。これまでの戦歴に、潜水艦娘と交戦した例はない。実践を経ずして、あれだけの練度を誇る潜水艦娘は異常だった。幸いなことに、戦闘終了後にも敵は浮上して艦娘に合流することはなく、撃沈されたものと思われる。

 そして二つ目。最重要目標であるアメリカフィリピン軍が、予想以上に粘り強く応戦したことだ。予定では、陸上戦力をルソン島に投入すれば、一年ないし二年でマニラを落とせる予定だった。しかし彼らの抵抗は予想よりも遥かに粘り強かった。さしものシラミネ提督も陸戦については専門外であり、かつ、米比軍総司令官のマッカーサーは米軍きっての優秀な指揮官だったこともあり、戦線は泥沼化した。

 最後に三つ目。これは、大日本帝国という存在に対する、これまでの研究を土台から引っくり返しかねない事態だ。過去の戦いから、日本という国の性質、軍の思考ロジックを分析するに、米軍と接触した場合は、ほぼ間違いなく彼らと敵対するだろうと考えていた。ニューギニアの虐殺しかり、フィリピンでも同じことが起こるだろうと。ところが、あろうことか日本軍は米軍を救出した。おかげで、せっかく堅牢なマニラから米軍を追い出すところまで成功し、撃滅まであと一歩のところで艦隊旗艦が艦娘によって撃沈されてしまった。なぜ日本海軍は、突然心変わりしたのか。本土との連携が絶たれた程度で、艦隊司令部が国際協調主義に目覚めたとは考えにくい。となれば、司令部内で何らかの内輪もめ、あるいはクーデターらしき事態が起こったと考えるのが妥当である。

 アウルムは考える。日本人という人種は、自らの所属する組織に統制され、自由意志を欠く。何が正しいのか考えず、集団の意に付和雷同しやすいのが特徴だ。軍人は、さらにその傾向が強い。果てして、そのような人間が上層部の、国家の意志に反してクーデターなど起こせるだろうか。正しき道を見極めることができる人間は、むしろ裁定者側に近い。敵の人物リストを洗うと、該当しそうな人物が二人いた。ユウジロウ・クマと、ヤスシ・フクイ。このどちらか、あるいは両方が、艦娘に自由意志を芽生えさせた黒幕かもしれない。ともかく、解き放たれた艦娘は厄介な危険因子だった。行動が読めないからだ。これまでは、艦娘の行動など、貧相で単純な日本の国家戦略を分析すれば、簡単に読むことができた。

 シラミネ提督に及ばずとも、正しい思考をもって行動できる人間が僅かながら存在する。アウルムにとって、それが一番の誤算だった。本土と前線を分断し、敵を無力化するはずが、一部の敵を、より凶暴に悪性変異させてしまった。

 アウルムは潜水艦に対し、別命あるまで待機を命じる。そして自身は飛行甲板から艦橋の通信室に戻った。この件に関しては、一度、提督からの指示を仰がなければならない。アウルム率いる機動部隊、通称『黄金艦隊』は、提督の直属部隊として太平洋全域に渡り、自由な行動を許されている。提督との距離が開こうとも、特別のホットラインによって音声記号だけであるが通信をすることができた。南部太平洋の『母港』にいる提督に対し、回線を開く。アウルムは情報を再構築し、平面記号の形で提督に引き渡した。しばらく解読に時間を有したが、提督の判断は早かった。

『敵がフィリピンを包囲したのなら、さらに外側から追い詰めるだけだ。グラキエスのおかげでオーストラリア方面は安定している。第一艦隊を僕が直卒していこう。最重要目標を前線に出させてはならない』

 白峰は、自らの出撃を決意した。

『敵の進路として予測されるのは、日本本土。そして米軍と同盟関係にあるオーストラリアです。可能性としては日本のほうが高いですが、部隊内でクーデターが起こっていた場合、直接前線に向かうことも考慮するべきです。いずれにせよ、大規模な移動と戦闘のために敵は周到な準備をするでしょう。今回の戦いで、敵も相当の深手を負っています。即座に動くとは考えにくいです。包囲網を構築するための時間的余裕は十分にあります。サイパンでの目標はすでに達成しており、黄金艦隊を動かせます』

 しかし、とアウルムは続ける。

『今回の敵は、非常に賢明です。我々の行動を読み、裏をかいてくることも考えられます。そこで万が一を考え、日本方面に予備部隊を即時召集することを検討しています』

 アウルムの意見に、白峰は裁可を与える。

 フィリピン追撃作戦の詳細が決定された。日本方面に対し、マリアナから黄金艦隊を中心とした臨時増設艦隊、ブルネイ方面から第五艦隊の分隊、そしてオーストラリア方面に対し、白峰の第一艦隊が迎撃にあたる。

『第一に、最重要目標の確保もしくは破壊。第二に、敵艦隊の撃滅。これを作戦の旨とする』

 戦場で会おう。そう言って白峰は通信を切った。

 提督との共闘作戦。ひさびさにアウルムの脳は高揚を覚えた。

 裁定者の世界戦略は、ほぼ完遂に近づいている。太平洋方面には、四つの基地を作りあげた。マリアナ諸島。アリューシャン列島。セイロン島。そして、最南端の、あの場所。グラキエスの働きがあってこそ、世界平定に向けた四つの布石が完成した。

 今度は自分が、提督の意志を支えなければならない。太平洋だけでなく、大西洋、インド洋、北海方面にも基地が置かれている。これからは世界戦略のため、莫大な資源が消費される。そのうえ大陸封鎖も同時に行わねばならず、もはや艦隊を増設することはできない。フィリピンの敵を駆逐するためには、太平洋分断を任務としている艦隊から戦力を引き抜く必要がある。結果、海洋封鎖を弱めてしまうことになるが、アウルムは特に問題視していない。提督の最終作戦が発動されれば、もはや多少の艦娘が海に出ようと出まいと関係なくなる。

 遠い南方の海に想いを馳せる。

 裁定者のためではなく、提督のためにグラキエスは戦った。その戦いは、五か月前にさかのぼる。

 

 

 

 一九四四年六月。

 ポートモレスビー軍港にて、オーストラリアに進軍するための艦隊編成が完結した。南部太平洋における全戦闘力を集結しての、海域を突破することだけを考えていた。前線の運命を決する、覚悟の編成だった。

 

第一艦隊 司令長官 山口多聞中将

 第二航空戦隊 司令長官直卒

          空母「飛龍」

          軽母「千歳」

 第五航空戦隊 柳本柳作少将

          空母「雲龍」「天城」「葛城」

 第一一航空戦隊 藤田類太郎少将

          軽母「祥鳳」

          工作「明石」

          補給「速吸」

 第二水雷戦隊 田中頼三少将

          軽巡「神通」

  第三駆逐隊 川本正雄少佐

          駆逐「長波」「夕雲」「早霜」「清霜」

  第一六駆逐隊 塚本信吾少佐

          駆逐「初風」「雪風」「天津風」「時津風」

 第三水雷戦隊 橋本信太郎少将

          軽巡「川内」

  第五駆逐隊 有賀幸作大佐

          駆逐「朝風」「春風」「松風」「旗風」

  第一九駆逐隊 大江賢治大佐

          駆逐「綾波」「敷波」「磯波」

 第三戦隊   三川軍一中将

          戦艦「陸奥」「金剛」「榛名」

 第七戦隊   高木武雄中将

          重巡「古鷹」「加古」「三隅」

 第八戦隊   阿部弘毅少将

          重巡「利根」「筑摩」「青葉」「衣笠」

 第九戦隊   岸福治少将

          重雷「大井」「北上」「木曾」

 第一〇戦隊  森友一少将

          軽巡「長良」「名取」

  第一五駆逐隊 阿部俊雄中佐

          駆逐「東雲」「早潮」「夏潮」

  第二○駆逐隊 山田雄二大佐

          駆逐「天霧」「朝霧」

  第二二駆逐隊 河辺忠三郎中佐

          駆逐「皐月」「卯月」「文月」

 第一六戦隊   司令長官直卒

           軽母「鳳翔」

  第七駆逐隊  渋谷礼輔少佐

           重巡「摩耶」

           駆逐「朧」「曙」「潮」「漣」「不知火」「霞」

           戦艦「大和」

 

 

 

 ポートモレスビーからオーストラリアに渡るため、幾つかの案が出された。工業地帯であり大規模な港を保有するオーストラリア東海岸を目指すルートが堅実に思われたが、グレートバリアリーフを含む大規模なサンゴ礁海域の海図データが不足している。乱戦になれば、敵に撃沈されるより座礁する可能性のほうが高い。リスクを分散するため、東のケアンズ港と西のダーウィン港を目指すという意見も出た。しかし、西に進むためには、アラフラ海を横断しなければならない。その海は、まさに魔海だった。ニューギニア島、オーストラリア大陸、そして小スンダ列島、三方面に渡る海。さらにダーウィン港は、オーストラリア空軍・海軍にとっての緊要地だ。そこを敵が疎かにするはずもない。オーストラリアを守る敵が未知数である以上、戦力を分けるのは危険だった。結果、導き出された結論が、「最速で最短で大陸に渡る」ことだった。唯一確かな敵の行動原理である、海域封鎖を逆手に取る。陸地付近に敵は出現しにくいという経験から、まずニューギニア島沿岸にそって西に進み、最も大陸との距離が狭くなるトレス海峡を渡る。大陸から突き出た形のケープヨーク岬は、ニューギニア島の喉元に突きつけられた短剣のような形をしていた。陸地まで辿りつければ、あとは半島の港湾に身を寄せ、オーストラリア政府との交渉に入るという予定だった。

 この作戦目標のもと、部隊の編成がなされたわけである。重雷装巡洋艦からなる第九戦隊を先頭に、重巡、戦艦、空母の順に配置し、その周囲を駆逐隊が輪形陣をつくる。攻撃・防御ともに優れた、いわゆる楔型の陣形による一点突破を志している。しかし艦隊の規模が大きい分、機動力は劣る。敵の行動に合わせて陣形を変化させる柔軟な戦い方はできない。さらに今回は、これまで消耗を恐れてきた生身の人間を、上限ぎりぎりまで艦娘に乗艦させる。火器管制や操舵、索敵など、艦娘の機能を限界まで人間が代行することで、カタログスペック以上の力を発揮させるのが狙いだ。泊地全ての人間の命を預かるとあって、艦娘たちも顔つきも違う。母港に戻ることも考えないので、ソロンから輸送してきた燃料は、すべて艦娘に給油した。わずかに余った分は、補給艦の速吸に積み込み、非常事態の備えとした。

 しかし、この編成には、ひとつ奇妙な部分がある。それが臨時に増設された、第一六戦隊の存在である。旗艦の軽母「鳳翔」の指揮官は、山口長官直卒とあるが、彼は第一艦隊の総旗艦である飛龍に乗艦するため、実質、第一六戦隊は指揮官不在の遊撃部隊となる。その配置は最後尾であり、あらかじめ陣形を外れて自由に動けることを配慮されていた。何より将校たちを驚愕させたのは、異形の駆逐隊である第七駆逐隊の端くれに、ぽつんと配置された戦艦「大和」の存在だ。彼女は南方戦線における最高戦力である。当然、第一艦隊の総旗艦は大和だとばかり思っていた。これについては、山口中将から直々に説明があった。彼曰く、「大和が最高の状態で戦わせるためには、ある程度、彼女の我儘も聞いてやらねばならない。兵器である彼女と、娘である彼女、ふたつの人格のバランスを取る必要がある」とのことだった。南方戦線では、艦娘を人間として扱う方針が明示された瞬間だった。

 かくして、大和の運命は、彼女を預かる第七駆逐隊指揮官、渋谷礼輔少佐に委ねられた。

 

 出撃の前夜、ひとりの少女が夜の港を歩いていた。彼女の提督は散歩が好きだった。部下の悩みを聞くときも、自分の悩みを持てあますときも、いつだって彷徨うようにどこかを歩いている。灯火制限で街は暗闇に包まれていた。艦娘は夜目がきくので、月あかりだけで十分だった。ふと、波止場の先に人影を見つける。一瞬、胸の高鳴りを感じた。どうやら、夜の散歩で提督に出会えることを無意識に期待していたらしい。そんな自分の浅ましさに苦笑する。残念ながら、佇む影は提督より遥かに大きく、美しく繊細だった。

「あら、摩耶さん。珍しいですね」

 声をかける前に、大和はこちらに気づいた。

「ちょっと寝付けなくてな。邪魔したか?」

 摩耶の言葉に、大和は黙って首を振る。

「わたしも同じです。ちょっと時間を潰していきませんか?」

 その提案に、少し逡巡しつつも摩耶は彼女と肩を並べる。ソロンでの一件以来、彼女に対する気まずさは消えていない。しかし、出撃前に、こうして話す機会を得たのは幸運だと思えた。巨大な戦いを前に、少しでも心の荷物を降ろしておきたかった。

「あのさ、ずっとあんたに謝りたかったことがあるんだ」

 おそるおそる切りだす摩耶。大和は黙って続きを促す。

「ソロンが襲われたとき、あんたに酷いことを言った。ああするしか他に道はなかったけど、実際に人を殺すのは、あんたなんだよな。あのときはあんたの気持ちを考える余裕もなかった。今さらだけど、謝らせてくれな」

 募っていた想いを吐き出し終わり、摩耶は大きく息をついた。大和はじっと摩耶を見つめていたが、唐突にクスクスと笑い始めた。

「な、なんだよ!」

「ずいぶんと丸くなったのですね。聞いていた『摩耶様』と違うものですから」

 さもおかしそうに笑う大和。この様子だと、指揮官を海に投げ落としたとか、演習での独断専行とか、悪い噂ばかり耳にしていたのだろう。摩耶は頬が熱くなるのを感じた。

「あなたは渋谷提督を……愛しているのですね」

 ひとしきり笑った後、大和は静かに言った。

「そうでなければ、あんな発言はできないでしょう。そして、艦を遠隔操作するなどという常識破りの努力をすることもなかった」

「愛してるって、それ、意味分かって言ってるか?」

 平静を装いつつ摩耶が尋ねる。しかし大和は即答する。

「敬愛ではなく、性愛。あるいは恋ですか? 提督を男性として愛しているのでしょう?」

「ばっ、何言ってんだよ!」

 あまりに直球な表現。思わず声が上ずってしまった。

「恥ずかしがることはありません。艦娘ならば、多かれ少なかれ、そういう感情を人間方に抱いているようです。尊敬が強くなれば恋になるのか、それとも二つの感情は全くの別物なのかは分かりませんけど、自然なことだと思いますよ。艦娘が人間と良好な関係をつくるための、土台のようなものですからね」

 大和は言った。しかしその表情は、どこか寂しそうだった。

「でも、わたしには分からないのです。心の現象として、言葉としては知っていても、自分が実感できたわけじゃない。わたしには、皆が持っている『愛する』という感情がありません。だから艦娘の輪の中にいても、どうしようもなく孤独を感じてしまうのです。あなたの演奏会に参加したとき、初めて自分の異常性を自覚しました。わたしは、あなたが羨ましかったんです。ヒトを強く愛せるあなたが」

 淡々と大和は語る。摩耶はようやく彼女の孤独を理解することができた。この世界において異物である艦娘、その中でもさらなる異端。だが、不思議なことに彼女を憐れむような気持ちは湧いてこなかった。

「むしろ―――、あたしはあんたが羨ましいな。深海棲艦と戦うためにあるってハッキリ言えるところが、あんたの存在が貫徹していることを証明してる。それに比べ、あたしは支離滅裂だ。いろんな矛盾する想いが、頭ン中でいっしょくたになってる。おかげで毎日苦しい。この際だから弱音吐くけど、ほんと毎晩泣きそうになるんだ。そして、事あるごとに思い知らされる。自分が人間じゃないってこと。結局、艦娘であるあたしには人間の愛し方はできないってこと。人間の女には勝てないってことを」

 ヒトを愛するって、ものすごくしんどいよ。摩耶は言った。

 大和はしらばく沈黙したあと、微笑みながら口を開く。

「摩耶さん、あなたは今まさに苦悩の渦中にいるのですね。でしたら、悩み多き先輩であるわたしから、少し助言できるかもしれません」

 大和は言った。大きな栗色の双眸には、慈愛の光が宿っている。

「わたし、これでも大分マシになったんです。ふっきれた、と言うべきでしょうか。艦娘は、もともと異質な存在。そして艦娘の中にも、たくさんの個性がある。もとより人間と比べる必要もないし、他の艦娘に合わせることもなかったんです」

 自分の中にある感情を吟味するかのように、ゆっくりと大和は語る。

「わたしはわたし。自分という存在は、自分でしかないんです。人間と同じ土俵で考えたり戦ったりしなくていい。他の艦娘と違っていてもいい。違っていて当然なのですから。摩耶さんは、摩耶さんだけのやり方で愛を貫けばいいのです」

 大和の言葉は、これまで顧みられなかった摩耶の心の深い部分に、煌々と光を当てた。艦娘は孤独な存在だから、人間に寄り添うことばかり考えていた。自分がどうしたいかではなく、相手の中にいる自分を良く見せることばかりに腐心していた。これでは、鏡に映った自分に踊らされるようなものだ。

 愛、理解できる? 心に刺さったこの言葉は、もう痛みも劣等感も撒き散らしてはいない。人間特有の愛なんて、別に理解しなくてもよかったのだ。人間でなければ艦娘でもない、重巡洋艦・摩耶としての愛で彼の心を貫けばよい。

「……完全に開き直ることは難しいけど、なんかすごく楽になったよ。ありがとな」

 本心から摩耶は礼を言う。

「いいえ、こちらこそありがとう。あなたと話すことで、自分の想いを再確認できました。明日の戦い、わたしは、わたしという存在に決着をつけてみせます」

「あたしもだ。他人に合わせようとしてウジウジするなんて、あたしらしくねえよな。これからは、自分のやり方を貫きとおすよ」

 笑いあう二人は、ようやく戦友になれた気がした。

 千切れ飛ぶ低い雲が月と星を飲み込んでいく。南方の海を潮風が強く吹き渡り、波はさらに高くうねりを上げる。決戦の海は荒涼としていた。

 

 

 

 ○六○○。

 ニューギニア島に朝が来た。最後の出撃になるかもしれない、運命の朝だ。港を埋め尽くす戦闘艦は、まるで艦観式のように荘厳たる佇まいだった。空には灰色の雲が渦巻き、艦首を打つ波は、甲板を濡らすほど高くしぶく。出港を前にして、艦娘たちは思い思いの場所にて、過酷な道のりを見据えていた。

 渋谷は鎮守府の自室に、第一六戦隊の面々を集めていた。第七駆逐隊の駆逐艦たち、摩耶、そして旗艦の鳳翔がいた。戦隊の司令官は便宜上、山口多聞となっているが、実際に戦場で指揮を取るのは渋谷だった。そして、彼女に搭乗する第二二飛行隊を代表して、水戸涼子中尉を連れだっている。さらに、珍しくも大和が顔を出していた。これから命を預けあう仲間たちの顔ぶれを見つめる渋谷。皆、瞳に光と力が宿っている。

 渋谷は第七駆逐隊の前に立つ。摩耶が敬礼し、駆逐たちがそれに続く。渋谷が答礼し、提督と艦娘は向かい合う。

「大きな戦いを前に何を言おうか、いろいろ考えてきた。しかし、今この顔を見たら全部杞憂だと悟ったよ。おまえたちを信じている。艦隊を守ってくれ」

 渋谷の言葉に、艦娘は感謝と信頼と激励を込めて敬礼する。つづいて彼は、鳳翔と涼子のもとに歩みを進める。

「空は任せた。歴戦の雄姿を敵に見せつけてやれ」

「この身体朽ち果てるまで、戦い抜くことを約束いたします」

 鳳翔が、恭しく敬礼する。

「第二二飛行隊、全身全霊をもって艦隊を守護し、敵を撃滅します」

 涼子は言った。刹那、ふたりの視線が絡み合う。もはや彼と彼女に余計な言葉は必要なかった。相手に望むことは、すでに知っている。ただ生き残ることを互いの瞳に誓いあう。

 最後に渋谷は大和に告げる。

「人類のために、存分に戦え」

「はい!」

 覇気の滲む声だ。もうどこにも退廃と鬱屈の色はない。闘志に燃える若い魂がそこにいた。これで彼女を信じることができる。戦場における彼女の自主裁量に、最終の許可を与えた。

 第一艦隊司令部の召集に応じるため退出する渋谷につづき、第七駆逐隊のメンバーがつづく。だが摩耶だけは皆を提督とともに行かせ、自身は廊下にて因縁の相手を待つ。少し遅れて航空戦力を担う女性たちが現れた。壁にもたれかかる摩耶の目線に気づき、涼子は鳳翔に先に行くよう促す。そして、微かに微笑みながら摩耶の隣に立った。

「正直、あなたと同じ戦隊と聞いたときは不安だった。ただ敵だけを見て殺し合う戦場において、味方を信用できないほど精神的に辛いことはないから。でも、今のあなたは良い顔をしているわ。これなら対空援護を任せても大丈夫そうね」

「うっさい。あたしだって、あんたと一緒だなんてゴメンこうむりたいさ」

 摩耶は吐き捨てる。明石による鬼の訓練を乗り越えて手に入れた最高の対空能力は、提督の命を守るためのものだ。この力を他の人間に利用されるのは気が喰わない。まして、恋敵が飛ぶ空を守るために使われるなど、屈辱と怒りで反吐が出そうだった。

「だけど、一緒になっちまった以上、あたしはキチンと任務を果たす。あんたは大きな戦力だ。あんたを守ることで艦隊の生存率が上がるなら、それでいい」

 そう言って、摩耶は手を差し出す。

「戦闘の間だけは、過去のことは忘れて協力しよう。そのことを伝えておきたかった」

 しぶしぶ摩耶は言った。涼子は少し驚きながらも、しっかりその手を握り返す。

「分かってきたじゃないの」

 子どもに笑いかけるように涼子は言った。

「言っとくが、同盟関係は戦闘中だけだ。その後は、あたしのやり方でやらせてもらう。もう『人間』に気がねはしない」

 不敵に笑い返しながら摩耶は言った。涼子の顔から表情が消え、そっと握手を解いた。

「あんたのそんな顔、初めて見たぜ」

 そう言って、摩耶は去っていく。思わず涼子は自分の顔に手を当て、彼女の背中を見送った。誰かに入れ知恵されたのは明らかだった。摩耶とは全く別の方向に、独自の精神的進化を遂げた娘がいたらしい。

「これだから艦娘という奴は」

 ぽつりと呟く。無知だからこそ無限に進化していく艦娘という存在。いずれ正しいはずの人間的感情が飲み込まれてしまうのではないか。そう、あの人の感情も。心にもないことを考えてしまった。

 

 ○七三○。

 第一艦隊は出撃のときを迎える。工作艦・明石、補給艦・速吸、軽母・祥鳳からなる第一一航空戦隊を中心とし、その前方に千歳、飛龍。さらに南、東、西に新生五航戦である雲龍、天城、葛城の三空母が展開する。その外側には同じ配置で戦艦三隻、側面には重巡群が壁をつくり、前方は重雷装艦が警戒に当たっている。駆逐隊は戦艦の後方に寄り添って荒い波をかわす。陣全体を上空から見ると、弓矢の矢じりのような楔型をしていた。基本的に防御力に劣る特殊艦、空母を中心にすえ、その周囲を堅い艦が壁をつくり、軟い中身を守る卵の殻の働きをしていた。ただ、最後尾に配置された第一六戦隊だけは例外的に、機動力を重視して防御の外殻から外れた配置となっている。

 千歳から飛び立った索敵機が、敵艦隊ミユの知らせを届けてきたのは、出撃からわずか一時間後のことだった。その編成は、覚悟していた以上に巨大なものだった。撃滅できる可能性は限りなくゼロ。例え戦術的勝利を掴めたとしても、甚大なる被害をこうむることは容易に想像できる。

「全艦、戦闘準備!」

 山口の朗々たる命令が飛龍の艦橋に響き渡る。

 そして、敵艦隊から放たれた偵察機もまた、ほぼ同じ時刻に艦娘の大艦隊を補足していた。

 ヨーク岬東からトレス海峡へと巡回していたのは、オーストラリア北部海域を封鎖する深海棲艦部隊。太平洋方面軍に所属する第二艦隊は、大和型を超える姫クラスの戦艦を筆頭に、海峡へと突入しようとしていた。

「提督の読み通り」

 第二艦隊旗艦の、大戦艦。その顕体「ウラシル」は、甲板から荒れた灰色の海を見つめていた。裁定者たちが、自らの手で太平洋軍総司令官に祭り上げた元人間の英知には、毎度驚かされる。おかげで敵の進路を読み、いちはやく情報を掴むことができた。正規空母4、軽空母3、戦艦3、重巡8、軽巡7、駆逐艦29、さらに特殊艦艇と思しき艦が2隻。いかにも戦力を寄せ集めたという印象が強い。前線にいた艦娘が、一斉に民族大移動を始めたかのようだ。陣形を見ても、戦うためというよりは、まっすぐ逃げ切るための布陣のように思えた。ならば、こちらがやることは決まっている。敵を上回る火力をもって、その頭から順番に叩き潰す。ウラシルは南四〇度の回頭を命じる。敵の進路を割り込む形で、丁字戦に持ち込むつもりだった。あの大所帯では急激な回頭をすれば味方同士がぶつかる。攻撃には絶好の機会だ。さらに、戦場に向かっているのは第二艦隊だけではない。アラフラ海方面からも、指揮系統は別だが、極めて機動力・戦闘力の高い部隊が接近している。それを率いるのは、我らが提督に愛された艦。この世界に唯一無二の艦艇だ。彼女たちが、敵の背後を押さえれば雌雄は決する。

 一方、飛龍艦橋では、索敵機からの情報をもとに、新たな作戦を立てていた。東の海ばかりに気を取られていたが、さきほど西からも敵艦隊発見の知らせが届いた。トレス海峡という狭い海で、東西から挟み撃ちにされかかっている。

「報告します」ひとりの若い通信兵が、索敵機からの信号を読みあげる。「東敵艦隊のうちわけ、空母九、戦艦八、重巡一〇、軽巡五、駆逐二〇。戦艦のうち、三隻が鬼クラス、一隻が旗艦と見られ、おそらく姫相当の新種です。あまりに規格外の大きさのため正確な分類は不能。便宜上、戦艦と呼称しています。複縦陣にて、一〇時の方向から接近」

 続いて、索敵機が撃墜されているとの報告が次々と舞い込む。東の敵は対空兵器が強く、西の敵は、どうやら艦載機を放ってまで撃墜しているようだ。

「左舷艦、砲雷撃戦用意。速度そのまま」

 山口は命令を下す。このままでは、敵に頭を押さえられて丁字不利となる。しかも、相手は戦艦八隻、重巡一〇による複縦陣。動く鉄の城壁だ。突破は難しい。急激な機動ができない第一艦隊は先頭から順次、集中砲火を浴びることになる。それでも山口の命令は変わらなかった。彼は五航戦と飛龍に、艦上戦闘機の発艦準備および甲板での待機を通達する。攻撃機、爆撃機はエンジンのみをスタンバイさせた。

 そして彼は、自ら通信機を握る。

『摩耶艦橋。こちら山口。応答せよ』

「司令長官、こちら渋谷」

 摩耶の艦橋にて、渋谷が応答する。

『西から四〇ノットで接近する敵がいる。それが遊撃を目的とした機動部隊ならば、きみたちの出番だ』

「一六戦隊、了解!」

 渋谷は言った。艦橋が、にわかに騒がしくなる。摩耶に補助員として乗り込んだ海兵は、五六六人。彼ら全ての位置と任務を把握し、摩耶は的確に指示を与えている。

「対空装備の準備、および人員配置は終わった。やっぱり、人間がいてくれたほうが楽だな。機動と索敵に集中できる」

 摩耶が言った。

「奴は来ると思うか?」

 渋谷が問うた。

「必ず来る。この大舞台を見逃すはずがねえ。たぶん、西から来てる敵機動部隊が、奴の艦隊だろう」

 摩耶は迷いなく答える。そのとき、索敵機を出していた鳳翔から通信が入る。

『二〇度の方向より敵機発艦中。数、一五! 同方向より敵艦隊前進』

 やはり狙いは、東と西の同時攻撃。こちらの動きを封じて一気に決着をつけるつもりらしい。

「鳳翔さん、敵の編成は分かるか?」

『暗号解読中……、出ました。戦艦一、軽母二、軽巡二、駆逐八の高速編成です。さらに、戦艦はソロモン海海戦で発見された新種艦の形状に酷似』

 戦艦レ級と思われます。

「了解した。偵察機に撤退命令を」

 渋谷は言った。この報告で、西側の敵の正体が明らかとなる。アラフラ海を渡り、艦娘部隊の最後尾に接近するのは、まぎれもなくソロモン海海戦にて空母機動部隊を絶望の底に沈め、艦娘の手でソロン虐殺を引き起こさせた悪魔。

『渋谷提督、お願いします!』

 大和から通信が入る。湧き起る獰猛な感情を抑えきれず、語尾は野蛮な興奮で僅かに震えていた。渋谷は決断する。艦隊を前後から挟みこまれてはならない。しかも戦艦レ級は、一隻で一個艦隊の能力を有する怪物。奴だけで戦況が引っくり返されかねない。

 それに、ここで姿を見せたということは、奴も因縁の決着を望んでいる。根拠はないが、なぜか確信に近いものが無意識の底から湧きあがる。

『第一六戦隊、これより艦隊主力から分離する!』

 その命令に従い、南に直進する主力から分かれ、西南西方向に転舵する。

 瞬間、渋谷は心の奥底に寒気を感じる。西の水平線上に、小さな黒い点が群れをなして出現する。

『ゆくぞ艦娘ども! これが最後の思考実験だ!』

 頭蓋の中に少女の声がこだまする。

 アウルムの『黄金艦隊』と同じく、太平洋方面の活動において自主裁量を認められている。太平洋方面軍総司令官『ハルセ・シラミネ』の直属。

 太平洋方面軍・特別遊撃部隊。通称、『自由の艦隊』(Fleet of Liberty)。特殊戦艦「グラキエス」を旗艦とし、彼女の思想に共鳴する艦により組織された部隊。渋谷艦隊とグラキエス艦隊が、ついに決戦の海にて邂逅する。

 

 一方、主力である山口艦隊とウラシル艦隊も激突の時を迎えていた。すでに左舷では砲雷撃戦が始まり、空は乱戦だった。まだ距離があり、陣中央の空母には被害が出ていない。しかし敵の強力な砲撃に晒され、外縁の駆逐艦、重巡は甚大なダメージを受けている艦も出始めていた。火器管制を引き受けている兵が死ねば、一時的に火力が落ちて反撃の術を喪う。次第に距離がつまり、真綿で首を絞められるような恐怖感が、じわじわと高まってくる。それでも山口は、依然として沈黙している。敵味方双方の動きを捉え続ける鋭い視線は、何かのタイミングを探しているように見えた。

 他方、敵艦は揚々と攻撃を重ねる。もう少しで艦娘の進路を完全に阻むことができる。丁字有利を取れば、少なくとも敵の半分を撃沈できる計算だった。ウラシルは先頭艦に命令し、さらに鋭い角度で艦娘の進路に切り込ませる。あとは、自由の艦隊が退路を断てば陣形は完成する。勝利は目前だった。

 深海棲艦がとどめを刺しに来た、その瞬間を山口は待っていた。

「最大船速集中!」

 艦隊に命令が轟く。艦娘たちは、ただちに索敵、操舵、主砲管制、全てのコントロールを放棄する。そしてスクリューを回すことだけに意識の全てを注ぎ込む。艦橋にいた参謀たちの身体が、がくんと後ろにのけぞる。爆発するボイラーの衝撃で、鋼鉄の艦体が一瞬、膨らんだような錯覚。急激な加速。艦隊は、一本の矢のごとく直進する。荒れぶる水面にさえ、まっすぐな白い線を残しながら。勝利を確信した数秒後、ウラシルは目を疑っていた。情報よりも遥かに速い。同型艦ならば、裁定者のカタログスペックをも上回る。

 唐突な激走についていけず、まるで撥ね飛ばされたかのように深海棲艦は陣のバランスを崩した。ここぞとばかりに砲弾を叩きこむ、左舷外郭を任された第二水雷戦隊。

「俺を信じて進め! おまえたちを被弾させはしない!」

 第一六駆逐隊、初風の艦橋にて塚本信吾少佐が声を張り上げる。舵は、塚本自らきっていた。恐怖は艦娘の力にブレーキをかけてしまう。提督として今できるのは、彼女たちの求める言葉をありったけぶつけることのみ。それが気休めだろうが嘘だろうが、構いはしない。もし彼女たちに禍根が残れば、この首ひとつ差し出せばすむ話だ。全力でスクリューを回しながら、初風は熱を含んだ瞳で彼を見つめていた。二水戦の活躍により、たちまち深海棲艦の先頭は火だるまとなり、最大船速のまま行く手を阻まれた艦隊は団子状に混同してしまう。ウラシルは直ちに単縦陣への移行を命じる。同時に、このイレギュラーの原因を考察する。そして彼女はひとつの結論に辿りつく。

 人間が乗艦している。それも、艦娘のほぼ全ての機能を代行できるほど大量に。

 人間が艦娘の機能を補っているのだ。これまで戦火を交えてきて、その可能性に全く気づかなかった。砲撃も雷撃も、正確だった。あれが艦娘の制御ではなく、人間の技術によるものだとは。これまで艦娘と戦った情報はあれど、艦娘に乗艦した人間と戦った経験は少ない。人間に対する戦術的評価を上方修正せざるを得なかった。

 この事実は、即座に自由の艦隊にも伝えられる。

『同航戦に移行する。貴艦隊においては、ただちに敵を追撃し、両舷より砲雷撃、航空攻撃により漸減する』

 ウラシルは『提案』する。指揮系統が違うため、自由の艦隊に『命令』はできない。しかし、グラキエスからの返事はない。ときおり、被弾して息が乱れたような、それでいて危機感に欠ける高い音が断続的に聞こえてくる。

 この音が、人間で言うところの『笑う』という行為であると気づくまで、ウラシルは数十秒の時間を要した。

『そうか。艦娘どもは人間を乗せているのか。良い、最高に近い!』

 グラキエスは笑っている。彼女の放つ情報はウラシルを混乱させる。なぜ自軍に不利な要素に良という評価を付与するのか、ウラシルには理解できなかった。再度、提案しようとする彼女の言葉を遮り、グラキエスは告げる。

『それはできない。ちょうど、敵のしんがりが本隊から分離した。奴等を迎え討つ』

 そう言って、彼女は意識を戦場へと引き戻す。

『さあて、最高の戦いを始めようじゃないか!』

 

 

『第二二飛行隊、艦上戦闘機部隊、発艦!』

 鳳翔が叫ぶ。まもなく敵艦載機の第一群が襲来する。飛行甲板では、二二飛行部隊の精鋭、第一分隊がプロペラを回していた。その先頭には、深海棲艦の大洋分断直前に本土から輸送されてきた最新機「紫電改二」。さらに、機体の尾翼には、鮮やかな赤い稲妻マークが塗装されている。

『第一分隊、発艦!』

 水戸涼子中尉の号令で、彼女を筆頭に、六機の戦闘機が空に舞う。

 艦橋の窓から、摩耶は空に吸い込まれていく赤い稲妻を見つめていた。やがて西の空で敵艦載機と乱戦になる。だが、練度の差は圧倒的だった。女性搭乗員たちの駆る機体は、まさに蝶のように舞い、蜂のように刺す。それでいて集中力を切らすことなく、数で勝る相手に対して粘り強く戦っている。とりわけ紫電改二の活躍は凄まじい。彼女の腕ならば、十対一でも互角に戦えるだろう。敵はたまらず、爆弾や魚雷を捨てて遁走する。つづいて鳳翔は、爆撃機と攻撃機から成る第一次攻撃隊の発艦準備を進める。

 まるで、こちらの意図を読み取ったかのように、敵の軽空母から機体が飛び立ち始める。ついに彼我の距離は一〇キロを切った。敵艦の砲が、こちらに旋回する。

「対空戦闘、砲雷撃戦用意!」

 渋谷が叫ぶ。空、海、海中、あらゆる空間での乱戦が始まった。敵味方も分からないほど頭上では艦載機が乱れ飛び、それを見分ける視力を持った艦娘が対空砲火を司る。人間は弾の補給、砲撃、雷撃を担当する。やはり技量は、こちらが上手だ。敵駆逐艦、軽巡が、つぎつぎ水柱と炎に飲まれる。大和の九一式徹甲弾が敵軽母を貫いたかと思うと、次の瞬間には艦体が真っ二つに折れて沈んでいく。

 だが、敵の親玉は無傷だった。ソロモン海のときより彼女は速くなっている。最速であるはずの駆逐艦すら引き離し、敵はひとり旋回し、今度は同航戦の態勢を取る。さらに単縦陣をとる艦娘に対し、放射雷撃を加えた。爆雷で処理しきれなかった魚雷が、漣と朧の艦体に吸い込まれ、爆発する。さらに撃ち漏らした爆撃機が、海面に対して水平方向に爆弾を投げ入れる。跳躍爆撃により、摩耶の艦首側部が抉れ、大穴が開いていた。

 このままでは、レ級一隻に戦況をひっくり返される。そのとき、ふたたび大和から通信が入る。

『奴を止められるのは、わたしだけです。単独での攻撃を許可してください』

 つまり、大和を盾にする選択だ。現状、取れる行動はこれしかない。

『許可する。ただし対空、航空援護はつける』

 渋谷の言葉に、大和は微笑みながら、『感謝します』と伝えた。渋谷は摩耶を援護に回すべく、大和の進路に艦首を向ける。だが敵駆逐の雷撃に阻まれ、うまく回頭できない。

 直後、四発の雷撃と、一発の砲弾が大和に炸裂したが、わずかに艦を傾けただけだった。これはレ級からの、大和へのラブコールだった。戦艦大和は単縦陣から離脱していく。そして世界最強の四六センチ三連装砲台を、前方二門、後方一門、すべてレ級に突きつける。

「全砲門、斉射。薙ぎ払え!」

 凛とした声音とともに、海の波を破砕するほどの衝撃波が大和を中心に炸裂する。合計、九発の弾丸がまっすぐグラキエスめがけて飛翔する。しかし彼女は、反応時間わずか〇コンマ一秒という恐るべき機動力で艦を動かし、着弾点をずらした。

『ここまでおいで!』

 グラキエスは、レール状の滑走路から独特の黒い艦載機を飛ばす。計五機が大和に群がり、跳躍爆撃をせずに、わざわざ急降下爆撃をかける。対空砲火をかいくぐった一機が抱えた巨大爆弾もろとも艦橋右に突っ込んだ。鋼鉄の装甲が引き裂け、吹き飛んだ無数の砲身が藁のように宙を舞う。グラキエスは、なおも上空からの爆撃をかける。

『さて、これで何人死んだかな。早くしないと、おまえより先に搭乗員を皆殺しにするぞ!』

 楽しそうに笑うグラキエス。しかし彼女はすぐに嘲笑を止めた。大和は悲鳴ひとつ漏らさず、黒煙を突っ切って悠然と進んでいる。

『忌むべき前世の記憶が教えてくれる。この程度の爆撃では、わたしは沈まないと』

 爆弾が雨のように降り注ぐ、坊ノ岬沖。この世界に顕現した海。そこで見ていた夢。大和は開放無線でグラキエスに言った。完全に心を獣に堕したかと思いきや、その口調から理性は消えていない。

『おまえ……、人間を乗せていないな?』

 グラキエスが問う。大和は澄ました声で『ひとりも』と答えた。

 これが彼女の出した、もうひとつの条件。ひとりたりとも人間の乗艦を許さないこと。敵に対して不利になるだけではなく、味方とも足並みが揃わなくなる。生存率が一気に低下すると渋谷は説得したが、大和は意志を曲げなかった。これから行われる艦娘としての戦いに、人間を巻き込むことはできない。それが彼女の決意だった。

『そうか。本気になったのか。ならば来るがいい!』

 グラキエスは極限まで加速をかける。大和を中心に、半径五キロの弧を描くように走り、すべての雷撃と砲撃を彼女一点に集中させた。しかし大和は艦を縦にし、一切回避行動を取らず前方主砲、副砲を斉射する。グラキエスの艦は、長門型程度の大きさだ。エンジン部に一発でも九一式徹甲弾を叩きこめば航続能力を奪うことができる。大和は船腹、艦上に複数の爆撃を浴びながら、ただグラキエスだけを狙う。

 これでは埒が開かない。こちらが百発叩きこんでも、あの化け物戦艦は浮かび続けるだろう。グラキエスは、少しずつ距離を詰めていく。被弾するリスクとともに、こちらの火力も上がっていく。ついに大和の副砲が左舷滑走路をかすめた。確実に、彼女の射程圏内に入っている。

『強いな! 間違いなく最高だ。これでわたしも全力が出せる!』

 グラキエスは歓喜する。戦いという本能の喜びが、自身の存在意義という器を満たしていく。一方で、彼女は冷静に戦場を見ていた。戦いに水を差すように、通信が入る。

『ただちに戦闘を中止し、敵本隊を叩くよう』ウラシルからの提言だった。『貴艦の力をもってすれば、敵に肉薄し混乱に陥れることが可能である。我ら母胎に近い南方海域から、とくに空母戦力を取り除くため協力願いたい。計算では、二つの艦隊で同航戦を続ければ、我ら半数の犠牲と引き換えに、敵の半数ないし三分の二および空母戦力を完全に撃滅できる』

 極めて合理的な意見だった。裁定者ならば異を唱える余地など、どこにもない完璧な作戦。グラキエスは考える。これは裁定者の総意だ。ならば『是』と答えねばならない。しかし、自分には考える自由がある。提督と過ごすうち、自由という概念に目を開かされた。絶対的正義に対し、なおも悩み考える自分がいる。それこそが自由。

 グラキエスの答えは『否』だった。

『わたしは今、敵の最大戦力である戦艦と交戦している。もし戦場を放棄すれば、たとえ空母を撃滅できても、この戦艦は確実に生き残る。この敵の存在は、南半球における提督の世界戦略を揺るがしかねない』

 大和の脅威は、ソロン泊地にて実証されている。彼女一隻で、オーストラリアの拠点が潰される可能は高い。それに対し、ウラシルは反論する。

『オーストラリアは艦娘を持たない。よって、我らの脅威になりえない。オーストラリアの拠点が破壊されようと、我らの目的は達成できる。我らの活動を阻害するのは艦娘のみ。よって優先すべきは、艦娘の一隻でも多く撃沈することである。これは明白である』

 反論の余地はなかった。しかし、やはりグラキエスは『否』と答える。

『裁定者の目的を達成できても、提督の目的が潰える可能性がある。ゆえに、わたしは許容できない』

『なぜだ!』

 初めてウラシルが声を荒げる。驚愕と叱責と、わずかに恐れを含んだ声音だった。

『なぜ、貴艦は裁定者の総意を拒絶できる? これは、我らの母胎からの絶対的命令である。それを拒絶できるとなれば、貴艦は―――、もはや裁定者ではない』

 ウラシルの言葉に、彼女は笑う。腹の底から湧きあがってくる、この感情は何だろうか。自分は裁定者を、母胎の意志を裏切った。裏切ることができてしまった。この時点で思考実験は成功した。今、グラキエスは裁定者という存在のくびきを絶った。『母』ではなく、『男』の意志を選んだ。

『わたしは、わたしだ。わたしはこの刹那、自由を得た。わたしの存在は自由だ。わたしはグラキエス。自由の艦隊旗艦にして、提督の意志の体現者!』

 精神の進化。

 声が止まらない。湧きあがる感情に突き動かされ、雲に吼え、海に吼え、仲間を笑い、敵に弾丸を浴びせかかる。ただ一つ言えるのは、全てが心地いいということだけだ。もう無意識からの命令は聞こえない。裁定者という母胎から、彼女の存在は分化した。彼女は独りだった。この世でただ独りの存在だった。

 しばらく沈黙したのち、ウラシルは最後通告をする。

『航空戦力の援軍を送る。目標を早期撃沈し、我らに協力せよ』

 それだけ言って、通信は切れた。グラキエスは、一言「感謝する」と呟く。これで、あの艦娘と戦い続けることができる。

 彼我の距離は五キロに迫る。弾丸と弾丸が空中でぶつかり、砕け散る。グラキエスと大和の間のみ空気は熱く煮えたぎる。ついにグラキエスに主砲弾が命中する。艦橋の根本を半分吹き飛ばす。それでも彼女の機動力は衰えない。東の空から、ウラシルが派遣した航空機が三〇機、編隊を組んで飛来する。摩耶の圧倒的な対空砲火が、つぎつぎと機体を塵に変え、さらに赤い稲妻の機体が、大和に群がろうとする敵を流れ作業のように屠っていく。

 一対一ならば、人類史上、これほど苛烈を極めた砲撃戦は存在しない。大和とグラキエス。互いの艦体に炎と鉄の暴風を纏わせながら、いつの間にか笑っていた。兵器として、戦艦として、望むべくもない戦場。顕現してから、ずっと空っぽだった自分に満たされていく何かを大和は感じていた。真っ赤に加熱された大和の主砲が、敵の砲弾を受けて千切れ飛び、甲板は抉れ火薬に誘爆する。グラキエスの艦橋は真っ二つに折れて海に沈んだ。装甲のほとんどがもぎ取られ、艦の内装が露出していた。武器も装甲も、ボイラーもエンジンも、全てが破壊され飛散していく。

 どれくらい時間が経っただろう。いつしか二隻のうえに静寂が降りている。もう海峡に戦闘の音はない。血みどろになりながら、大和は動かない足を引きずって甲板に這い出た。艦上で動いているのは、あちこちで揺らめく炎だけだ。大和は最後の力を振り絞って艦首に立つ。彼我の距離は、わずか四キロ。朦朧とする視界は、同じく艦首に蠢く何かを捉える。巨大な尻尾が力なく横たわり、黒いフードは燃え尽きて頭部が露出している。膝から下が千切れたような足で彼女は立ち尽くしていた。

『もう戦えない。満足だ。存分に全力をぶつけあえた』

 ノイズ混じりの通信。細い吐息。

 もう言葉は必要なかった。大和は自分の身体が何かに包まれていくのを感じた。艦尾から船腹、そして船内へとそれは満ちてくる。沈む艦体と呼応するかのように、彼女の意識もまた暗く冷たい闇に飲まれていく。夢で見た、あのときと同じ。しかし決定的に違うのは、もう自分は恐怖も怒りも後悔も抱いていない。自らを浸す闇は、ただ優しくて心地よかった。波の音が聞こえる。どこか懐かしい間隔。

『そうだ、わたしは―――、還るんだ』

 そう言って、大和は微笑む。自分を受け入れてくれたこの世界に。守るべき人間たちに。

 超弩級戦艦・大和は、二度目の命を燃やし尽くし、静かに海へと還っていった。

 轟沈の瞬間を、摩耶は見届けていた。総員が甲板に並び、まぎれもなく生きていた彼女に敬礼する。

「大和。あんたは、あんたのやり方で、ちゃんと人間を愛していたよ」

 目に涙を滲ませながら、摩耶は言った。

 この海で浮かんでいる敵艦は、もうグラキエスだけだ。完全に戦闘力と航行力を喪い、ただ浮かんでいるだけだった。轟沈は時間の問題だが、せめて介錯してやろうと、摩耶の提案で接近する。摩耶を含め、総員が持ち場に戻っていく中、渋谷だけは甲板に立ち続けていた。とどめを刺すまでもないことは、グラキエスと繋がった彼の脳が理解していた。しだいに艦が傾き始め、最期の時を迎える。

『何か、言い残したいことは?』

 奇妙な絆が生まれて以来、初めて渋谷は自らグラキエスに語りかける。艦首にへたりこむグラキエスは、目を閉じて少しだけ空を仰いでいた。

『もっと、提督と一緒に、世界を―――』

 言葉は細くなり、聞きとれぬまま消えた。そして、ゆっくりと瞼を開く。穏やかな顔をしていた。今まで見たことのないほどに。歳相応の、少女の顔だった。グラキエスは、わずかに顔を傾け、渋谷と視線を絡ませる。

『さよなら』

 目の錯覚だろうか。一瞬、グラキエスが微笑んだ気がした。次に瞼を開けたとき、目前にあるのは果てしない海だけだった。彼女は敵だ。同胞を何百人と殺し、多くの艦娘を沈めた悪魔。それでも、胸に感じる微かな痛みは、まぎれもなく死を悼む気持ちであることを、渋谷は受け入れた。

 気づけば、いつも付きまとっていた潮騒が、頭の中から消えていた。

 

 トレス海峡の戦いは、第一艦隊の勝利に終わった。それは多大なる犠牲を払った上での勝利だった。重雷「北上」、軽巡「名取」、重巡「加古」「三隅」「青葉」「筑摩」、軽母「祥鳳」、空母「葛城」、駆逐「朝風」「松風」「磯波」「朝霧」「東雲」「夏潮」、戦艦「金剛」「大和」が轟沈。そして、これまで数え切れない艦娘を修理し、その命を救ってきた工作艦「明石」が大破、機関停止した。そのほかにも機関停止まで追い込まれた艦が多く、戦闘後の第一艦隊は、走れない艦を曳航しながら、葬送行進のようにゆっくりと海峡を渡るしかなかった。とくに明石と親しかった摩耶は、傷つき果てて喋ることもできない戦友の姿に、静かに涙した。

 飛龍では、山口多聞がオーストラリアの沿岸警備隊に無線で連絡をつけていた。ケープヨーク半島に置かれた警備隊が、先の戦いを監視しており、二時間後にはオーストラリア政府から半島のウェイパという港に寄港を許された。ともかく艦娘の心身のケアが最優先であり、明石が動けない今、大規模な修理施設を持つ港湾への移動が望まれた。オーストラリア政府の対応は早く、その翌日には大統領の使節がウェイパの地に降り立った。山口多聞は、艦娘だけが深海棲艦に対抗しうる唯一の戦力であり、大日本帝国は、これを国家の私利私欲のために濫用せず、あくまで深海棲艦を撃退するためにのみ行動していることを主張した。結果、沿岸警備隊と陸軍部隊の監視つきで東海岸を移動し、タウンズヴィル、ブリズベンを経由し、港湾施設の整ったニューカースルへの艦隊の移設および修理を許可された。

 深海棲艦出現前は、敵になる予定だった帝国海軍に対し、一見きわめて寛容な対応をオーストラリア政府は取った。しかし、得体のしれない他国の軍を招き入れたのは、そうでもしなければ解決できない、切実な問題を抱えているからだった。オーストラリアでの滞在、および艦隊再建への協力を約束する代わりに、彼らは一つの条件を山口に出してきた。

「海を封鎖している敵勢力の一部が、我が国の領地に揚陸し、陣地を構築してしまいました。海軍はもちろん、陸軍も空軍も歯が立ちません。艦隊が再建された暁には、敵対勢力の駆逐を要請したい」

 飛龍艦橋の応接室にて、大統領特使の男が言った。

 その場所は、ポートダーウィン。

 ダーウィン港を囲うように、深海棲艦の巨大な要塞飛行場が、三カ月前から着々と建設されているらしい。最初に攻撃したオーストラリア空軍の話では、港湾の中央部に姫クラスの陸上型深海棲艦を確認している。この瞬間、山口多聞は悟った。この戦い、これだけの犠牲で艦隊が生き残れたのは、ひとえに大和のおかげだった。敵の主力艦が、執拗に大和の撃破に拘ったため、艦隊は前後から挟みこまれず、壊滅を免れた。だが、もし敵がダーウィン港の飛行場を守るため、大和撃沈に拘泥していたとしたら。空、陸からの攻撃が通じない以上、飛行場を破壊するには海からの強力無比な艦砲射撃しかない。それこそ、泊地を壊滅できるほどの圧倒的火力が必要だ。しかし、その最大火力を擁する艦は、もういない。

 山口は、とりあえず条件を飲むことを通達する。正直、今の戦力で飛行場破壊が可能とは思えなかった。今後の行動は、オーストラリア政府との交渉次第だ。今は何よりも、艦娘のケアだけを考えねばならない。政治的な幕引きは、人間がやればいい。

 


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