【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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 北フィリピンの内海を制圧すべく、第一遊撃部隊はシブヤン海に入る。旗艦である武蔵は、敵である深海棲艦よりも恐れているものがあった。彼らと遭遇したとき、大日本帝国の艦ではなく、ひとりの艦娘としての意志が問われる。


第十九話 誰が為に

 十月二十四日。○三三五。

 北フィリピンに西から攻め入るべく、栗田健男中将率いる第一遊撃部隊は、セレベス海にて第二遊撃部隊と袂を分かち、さらに北上を続けた。そして現在、パラワン島の南をひっそりと航行していた。先頭には、第四戦隊の重巡・高雄、愛宕、鳥海が配置され、旗艦の武蔵と長門の周囲には、矢矧率いる第一三戦隊麾下の駆逐艦たちが輪形陣を敷いている。武蔵の左舷に陣を展開するのは第六駆逐隊。響の艦橋にて、熊勇次郎少佐は、真剣な面持ちで灯りひとつない海を睨んでいた。北上の途中、パラワン島に差しかかった際、敵の哨戒部隊と思われる軽巡、駆逐と戦火を交えていた。戦力差で圧倒できるような小規模な戦いが断続的に起きていて、いつ敵の主力部隊と鉢合わせるやもしれない状況に、皆が神経を尖らせていた。しかし、熊だけは、深海棲艦だけではなく、フィリピンに存在するもう一つの勢力のことも絶えず気にかけていた。

「そんなに気を張り詰めていたら、明日までもたないよ」

 いつの間にか響が隣にいた。夜の海は、昼の数倍、体力と気力を奪っていく。例え何もいなくても、それが確認できない以上、恐怖と焦燥は常につきまとう。夜目の効かない人間ならば、なおさらだった。

「目を閉じてるだけでもいい。航行中の監視くらい、わたしに任せてくれないか」

 響の提案に、熊は首を横に振った。

「常に状況の推移を見ておきたい。瞼を閉じてしまうと、つい油断して心が眠ってしまうからね」

 熊は言った。過酷な戦いになることは間違いない。しかし、それは敵の手強さに限られない。敵を撃滅する、ただそれだけで「良し」とは言えない。わずかな判断の過ちが、人類史にも大きな禍根を残しかねないからだ。軍が戦うことの意味を国家存続のためとするならば、戦闘に勝って戦争に負けることになる。この一戦は、大日本帝国の分水嶺となる。熊は予感していた。

「旗艦との通信はどうなっている?」

「今のところ異常なし。各部隊の代表者が、秘匿回線で武蔵さんに繋がっているよ。向こう側の大鳳さんには、長門さんが通信を担当してくれている。わたしたち駆逐の電波じゃ届かないからね」

 響は言った。パラオを発つ以前に、熊は艦娘たちに秘密裏のネットワーク構築を指示していた。いざというとき、艦娘たちだけで意志決定ができるように考案したものだった。軍の指揮命令系統に、私的な脇道をつくることは叛逆とも取られかねないが、真に日本と艦娘の運命を憂うからこそ、熊は危険を侵した。

 ○四○○。静かな航海は続く。第二遊撃部隊は、そろそろスリガオにさしかかる頃だろうか。第二、第四遊撃部隊とも、すでに戦闘が始まっているかもしれない。秘密を共有し、思想に共鳴してくれた福井少佐の無事を祈る。

 ○六三○。第一遊撃部隊は、ミンドロ島の南端に沿いながら、進路を東に取る。ここを抜ければ、ついにシブヤン海に入る。フィリピンを守る魑魅魍魎が潜んでいると思われる魔海だ。進路上に浮かぶタブラス島を彩るように、曙光が東の水平線を包み込み始める。ここ一番の緊迫した空気が艦隊に張りつめている。これまで敵主力の気配はない。しかし、敵と交戦した以上、こちらの存在は知られているはずだ。となれば、ミンドロ島とタブラス島の間からシブヤン海に突入する瞬間が最も危険だ。海峡に潜水艦や魚雷艇を配置しているかもしれない。あるいはタブラス島の裏側に、大部隊を隠している可能性もあった。これまでの経験上、待ち伏せは奴等の十八番だ。海中、海上、空中の全てに警戒を厳としつつ、艦隊は北北東に転舵する。

 そして大方の予想通り、敵は姿を現した。

 ○八二四。ミンドロ島東の海域にて、駆逐艦たちのソナーが待ち伏せの敵潜水艦を補足した。攻撃のために浮上してくる敵を、いちはやく爆雷で迎え討つ。先手を取れたことで被弾は回避できた。遊撃部隊司令部は、ほっと一息ついていた。だが対深海棲艦において歴戦の猛者である熊は、この事態に違和感を覚えていた。潜水艦の基本戦術は、いわば暗殺である。気づかれぬように海中を移動し、一撃を加えて離脱する。おもに戦艦や空母など、大型艦に有効な戦い方だ。しかし、対潜ソナーを持った小回りのきく駆逐・軽巡がいれば形勢は逆転する。戦場にて潜水艦を運用するときは、必ず海上艦とハンターキラーのチームを組むのが定石だった。しかし今回、敵は潜水艦のみで戦いをしかけてきた。

「もしかして案外、北は手薄なのかもしれないね」

 響が言った。あまりに楽観的だが、そう考える者が出てきてもおかしくはない。それくらい、シブヤン海の入口に敵は少なかった。

「マニラを擁するルソン島を、敵が放置するとは考えにくいが。仮に北フィリピンが手薄だとしても、そのぶん南は地獄になるだろう」

 あらゆる可能性を想定し、熊は言った。正直、フィリピンの敵は未知数である。これまでの経験上、大きな陸地を守る敵は巨大だったので、今回もそのつもりで戦力を配分した。しかし深海棲艦の思考ロジックは、未だ人類には理解が及ばない。この島に、どの程度の戦力が配置されているか、確証などないのだ。

「一番恐ろしいのは、今回の作戦が完全に見透かされていることだ」

 熊は言った。

「敵は強大かつ広範囲に展開していることを前提に作戦を立てた。艦隊を四つにわけ、フィリピンの内海を囲いこんだ。だが、もし敵が戦力を一カ所に集中していたら?」

「各個撃破を狙ってくるだろうね。四つの遊撃部隊を、ひとつずつ潰すと思う」

 響は冷静に答える。

「でもね、まだそれは最悪じゃないよ」

 雲の多い東の空を見つめながら、ぽつりと響が言った。

「北も南も、味方の中にも敵だらけ。これが一番、最悪だよ」

 視線の先、雲の隙間に何かが煌めく。直後、けたたましく鳴り響く対空警報。

『対空電探に感あり。東北東方向より敵機多数接近!』

 輪形陣先端にいた暁から報告が入る。

「第六駆逐隊、総員対空戦闘!」

 熊の指示が飛ぶ。彼は臆することなく艦橋の窓から空を窺う。亜熱帯の低い雲にまぎれて分かりにくいが、目算でも四〇機を超えている。熊は、マリアナ沖での戦いを想定していた。海面を跳躍してくる爆弾を警戒し、噴進砲のみならず、いざというときのために爆雷の準備も指示する。ソナーに新手の潜水艦の反応がないことだけが救いだった。数十秒後、敵の水平爆撃が始まる。味方の対空砲火の火線が入り混じり、撃墜された機体は、ポップコーンのように黒い煙となって散る。敵機のサイズを見るに、おそらく艦載機だろう。だが目視できる範囲に敵空母の姿はない。そうなると、敵はシブヤン海を超えて、はるかルソン島の向こう側から飛来していることになる。

「敵、退却していくよ」

 響が報告する。マリアナ沖海戦と同じように、艦娘たちは優秀な対空能力をもって、敵の第一波を退けた。

「あいつら、この前の敵とは違うみたいだね。いくばくか楽に戦えた」

 そう言って、響は火砲の調整に意識を注ぐ。熊が最も警戒していた跳躍爆撃。それを今回の敵は使ってこなかった。おかげで戦艦護衛のために多大なる犠牲を払わずして、敵を撃退することができた。

「どうやら、敵の間には戦闘の技術的格差があるらしい。あの跳躍爆撃は、マリアナを急襲した部隊だけが独自に使っているのかもしれない」

 熊はひとつの結論を導き出す。全世界の海にまたがっているのだから、部隊ごとに戦闘スタイルが違っていても不思議ではない。人間が住む地域ごとに列強とそれ以外に分かれるように、深海棲艦も進化が早い部隊と遅い部隊がいる。もし、跳躍爆撃のノウハウがすべての深海棲艦に伝播したと思うと、熊は背筋が寒くなるのを感じた。

 時間が経てば、それだけ人類は不利になる。フィリピンの敵とは、ここで雌雄を決する必要があった。

「第二波が来る」

 熊は言った。敵空母は遥か東に展開していると見える。こちらが航空戦力を持っていないことを知っているのか、敵は一切姿を見せず、艦載機によるアウトレンジ戦法をとっている。今のところ物量で押し返しているが、もし数が増えるようならばジリ貧だ。なにせ反撃の手段がない。

「第三遊撃部隊が、戦闘領域に入っているはず。敵空母はあちらで叩いてもらおう」

 響が提案する。大鳳を筆頭に、巨大な航空戦力が東の海に控えている。当初の予定では、大鳳、翔鶴、瑞鶴の新一航戦と飛鷹、隼鷹の三航戦が制空権を握り、武蔵、長門、重巡五隻が圧倒的火力をもって海上の敵を撃滅する予定だった。しかし、メイン火力となる武蔵麾下の第一遊撃部隊が活躍すべきシブヤン海に、敵の海上艦の姿がない。

 これは何かの作戦なのだろうか。熊が思案したとき、響は長門から緊急の通信を受けた。

「報告。第一遊撃部隊旗艦、大鳳より入電。○八二○、サン・ベルナルディノ海峡入口にて、敵部隊と交戦。目算、正規空母三、軽空母四、戦艦二、重巡三。制空権いまだ確保ならず。敵爆撃部隊の一群が西に離脱。第一遊撃部隊を攻撃するものと予測される」

 響が現状を伝える。

 やはり、すでに戦いは始まっていた。報告に聞くだけならば、まだ絶望的な戦力差とは言えない。敵に戦艦がいるのは厄介だが、練度の高い最上型の二隻ならば、ある程度は対応できるだろう。問題は敵の航空戦力だ。計七隻の敵空母から放たれる艦載機を一斉に相手するのは困難だ。必然的に、撃ち漏らした敵は、空母を持たぬ第一遊撃部隊のもとに飛来する。

 この事態を受け、旗艦武蔵の第二艦隊司令部は決断をくだした。

「タブラス海峡を抜け、シブヤン海を渡るべし。サン・ベルナルディノ海峡に展開する敵機動部隊を挟撃する。駆逐隊は、旗艦を護衛し、対空、対潜警戒を厳となせ、とのことだよ」

 響は言った。艦隊は最短距離で戦場に向かうべく進路を東に取る。ミンドロ島とタブラス島の間を抜けた。しかし一〇二六、シブヤン海の入口で、新手の敵が南の空から出現した。またしても敵の艦載機。今度は南東の方向から敵の艦載機が飛来する。

『第六、第一〇駆逐隊は対空戦闘! 第三一駆逐隊は進路東へ!』

 駆逐隊のまとめ役である、第一三戦隊の軽巡・矢矧から通信が入る。すでに対空火器を待機させていた響は、注意深く東の空も探っている。

「やはりね。敵機視認。わたしたちを挟み打ちにするつもりだ」

 先ほどと同じ東北東より、第二波が迫りくる。両側から爆撃の雨に晒されては、駆逐隊三個では防ぎきれない。先頭を行く重巡には、かわしきれなかった急降下爆撃が炸裂し、敵を見ぬうちに早くも黒煙を上げている。さらに駆逐隊の被害も出始めていた。武蔵が対空兵器を充実させていなければ今ごろ、半数の艦が海の藻屑と消えていたかもしれない。いまだ敵は姿を見せない。爆撃を止めるのは、敵の主力、できれば旗艦を破壊する必要がある。第三遊撃部隊が交戦している敵部隊に、その旗艦がいることを信じて、頭上を舞う敵機を追い回し続ける。

 火線から逃れた敵機が、第六駆逐隊に急降下爆撃をかける。さらに輪形陣の間を縫うように、白い雷跡を帯びながら魚雷が迫る。爆雷の投下に気を取られ、暁の艦尾に爆弾が命中する。大きく甲板が抉れたが、航行に支障はなかった。

 じりじりと被害を拡大しながら、戦闘は続いた。第二波は攻撃を終えて撤退したが、一二〇〇、すぐに第三波の攻撃を受ける。

 次第に消耗戦の様相を呈してきた。海と空、どちらが先に音を上げるかの戦いだった。

『ちょっとおかしくない?』

 一三三一、シブヤン海の真ん中まで到達したとき、小破した暁から通信が入る。第六駆逐隊の面々から、つぎつぎと同じ意見が送られてくる。

「わたしもそう思っていた。提督はもう気づいているよ」

 響が答える。彼女の視線を受け、熊は頷いた。

「通信回線を、艦娘秘匿に切り替えてくれ」

 熊が言った。目下の敵襲をしのぐことだけに精いっぱいの司令部は気づいていないだろうが、深海棲艦の一連の行動は合理性に欠ける。響は彼の意図を察し、旗艦・武蔵に秘匿回線で呼びかける。彼女はすぐに応じた。

「北フィリピンの敵が我々を迎え討つに十分ならば、このように非合理なことはしないだろう。我らをシブヤン海に誘いこんで挟撃するなり、艦載機によるアウトレンジ戦法で消耗戦を狙ってもいい。だが敵は、わざわざ第三遊撃部隊を足止めしたうえで、航空戦力の一部を使って、こちらを攻撃してきた。我々を撃滅するためではなく、足止めするのが目的であるかのような動きだ。もし、この非合理に理由があるのなら、そのときは―――、きみの、きみたちの判断に任せよう」

 熊は自らの意志を伝える。

『了解した』

 数秒の沈黙ののち、武蔵は返答する。

『進めば分かることだ。そのときは、頼むぞ』

 そう言って彼女は通信を切った。今は戦艦といえども、意識を他に向けている余裕はない。長門から再び通信が入り、東の戦いは大鳳たちに有利に推移しているらしい。それでも敵は、わざわざ航空戦力を割いて、第一遊撃部隊を攻撃してくる。第三次空襲をなんとかしのぎ、艦隊はシブヤン海の出口をのぞむ。

 そのとき、熊と響は目の当たりにする。戦場を覆っていた不可思議、その原因を。

 北の方角、ボアク島と半島状に突き出たルソン島の一部との間に挟まれた、タヤバス湾。そこから異様な黒煙が上がっている。明らかに戦いが起こっていた。味方の部隊で、タヤバス湾に配置した艦はいない。となれば深海棲艦に敵対する第三勢力と考えるのが妥当だ。

「響、長門に通信を。この事態を、大鳳にも伝えるようにと」

 熊の行動は素早かった。フィリピンを攻めるからには、いつか向き合わなければならない問題だった。しかし、このような時期と状況下になるとは思わなかった。響は指示通りに長門に通信を開く。彼女は戦闘には慣れていた。しかし、このときばかりは瞳を固く濁らせている。

 それは他の歴戦の艦娘たちも同じだった。

 戦艦・武蔵の艦橋にて、司令部の将校たちが慌ただしく窓に張り付き、北の海を観察する。突然現れた不確定要素に、軍人たちは動揺の色を隠せなかった。深海棲艦と戦うのは大日本帝国海軍のみであるという常識が頭に刷り込まれていた。その様子を眺めながら、武蔵は黙って成り行きを見守る。艦隊は速度を落とし、湾内にいる謎の勢力を視界に収めた。

「なるほど、あちらが敵の主力だったのか」

 武蔵が呟く。ルソン島の港湾部に沿うように、敵戦艦が列をつくっている。その数、六。旗艦らしき超弩級戦艦が、単縦陣の中心に居座っている。さらに重巡、軽巡が脇をかためている。敵は陸地に向けて激しく砲弾を浴びせており、湾内は黒煙と炎で覆われ、何と戦っているのか目視することができない。ただ、敵は高速で南下しており、陸地側の何かと熾烈な同航戦を繰り広げているようだった。

 一四一〇。武蔵の双眸は、誰よりも早く、その正体を突き止めた。

 深海棲艦と陸地に挟まれた、三隻の軍艦。黒煙に揉まれるようにして、艦橋に翻る旗。そこには十三本の赤い横線、そして斑模様の蛇の意匠が描かれている。

 この世界に顕現してから、初めて見る外国籍の艦。深海棲艦の出現以前からフィリピンを支配下に置き、日本と敵対する予定だった相手。世界最大の大国、アメリカ合衆国の艦だった。武蔵は、今度は陸のほうに目を遣る。小さくて分かりづらいが、米軍は陸からも応戦していた。おそらく、軍艦を逃がすために陸地を伝ってきたのだろう。迫撃砲や榴弾砲、あらゆる火器を健気にも総動員して、海の敵を狙い撃っている。しかし火力は圧倒的に敵が上だった。艦砲射撃により吹き飛ばされないよう、丘陵地帯にへばりつくだけで精いっぱいという様子だ。

 五分が経った。軍人たちは、まだアメリカ軍を視認できていない。武蔵は垣間見た情報を黙秘したまま、その事実を長門に伝える。やがて、情報は第三遊撃部隊の旗艦・大鳳へと渡り、長門から重巡、軽巡、そして駆逐隊の各リーダーに伝達される。艦娘たちは状況を理解した。どういう理由か分からないが、北フィリピンの敵主戦力は、艦娘ではなくアメリカ軍を叩かねばならないらしい。帝国海軍は、それを邪魔する横槍でしかない。ゆえに、なんとか足止めしようと無理やり機動部隊を運用していたのだ。

 武蔵は、じっと考えていた。戦うこと、すなわち命の奪い合いに恐怖を感じたことはなかった。戦いこそが自らの使命であり艦の本懐だからだ。それを疑問に思ったことはない。それゆえに、今回の戦いには経験したことのない新種の不安感が付きまとう。これまでの自分は兵器として命ぜられるがまま行動してきた。自らの意志で道を選び、自ら考えて進むという行為に理解が追いつかない。どれだけ重厚な装甲や強力無比な火砲、堂々たる体躯、明晰な思考力に恵まれていようと、ヒトの核となる部分、すなわち彼女の自我は、いまだ幼い少女に等しかった。

 一四二〇、ついに司令部はアメリカ軍の存在を認めた。

 戦況をみる限り、米軍は圧倒的に劣勢だった。もし彼らが撃滅されれば、標的を艦娘に切り替えるだろう。見たところ、彼らが艦娘らしき戦力を保持している様子はない。やられるのは時間の問題だった。しかし、敵主力が米軍に固執してくれている間は、千載一遇の機会であるとも言える。敵は、こちらを攻撃してくる様子はない。このまま彼らが南下してシブヤン海に出ようとするとき、遊撃部隊は理想的な丁字有利の態勢を占めることができる。しかし、そのためには今にも沈みそうな米艦隊を見殺しにしなければならないし、シブヤン海まで生き残って辿りついたとしても、その後の砲雷撃戦に巻き込んでしまうだろう。

 それを踏まえた上で、第一遊撃部隊の司令官、栗田中将は決断を下す。

 シブヤン海にて敵を迎撃せよ、と。

 時間の猶予はない。次の空襲がいつ来るか分からないし、悠長に構えていれば米軍はすり潰されてしまう。急遽、艦隊は進路を北東に変え、シブヤン海の入口を封鎖すべく単縦陣を取る。

 また一隻、人類製の艦が沈められていく。武蔵は、この作戦の趣旨を理解していた。アメリカ軍を餌にして、深海棲艦もろとも撃沈してしまうことだった。もともと帝国海軍がフィリピンを支配下に置くことを踏まえれば、ここで米艦隊を破壊しておいたほうが、島の実効支配は容易になるだろう。今、司令部の空気は、米軍を人間とは見なしていない。体の良い囮、あるいは深海棲艦に次ぐ障害物とさえ考えている。

『武蔵さん、新手だ!』

 そのとき、左舷を守っている第六駆逐隊の響から連絡が入った。

『九七度より敵艦載機接近! 接触まで、あと五分程度』

 第四波の空襲が迫っている。

 あまりに早く、決断を迫られることになった。それでも武蔵は熊に感謝していた。彼が考えるキッカケを与えてくれなければ、おそらく自分たちは命令されるがまま米兵を虐殺していただろう。深海棲艦を屠るという大義、艦の存在理由。産まれたばかりの艦娘の小さな自我では、それらに抗えなかっただろう。

 武蔵は空を仰ぐ。自らの心は決まった。あとは、それぞれの艦の意志を聞くのみだ。

『で、どうするのよ?』

 第六駆内の回線で、暁が問いかける。

『本心を言うなら、今すぐ司令官さんの意見を求めたいのです。わたしたちが自分で決断するには、事態が大きすぎます。けど―――』

 一瞬だけ言葉を切り、電は姉たちにはっきりと告げる。

『司令官さんは、わたしたちを信じてくれています。わたしたちが艦娘として、これからも司令官さんの隣にいたいなら、ここで決めなくちゃいけないのです』

『その通りね。司令官の気持ちに応えましょう。わたしたち第六駆逐隊の意志で』

 雷が賛同する。

 そして響は、安心したように静かに溜息をついた。

『我々の総意は、聞くまでもないか。第六駆を代表して、旗艦に意見具申を行う』

 響は言った。武蔵のもとに、つぎつぎと通信が届く。艦娘が顕現して以来、初めて行われた、艦娘だけによる意志決定の瞬間だった。

 最後に、長門からの通信が届く。

『第三遊撃部隊を代表し、大鳳から通信が届いた。我々の意志が貫徹されるまで―――』

 一切の航空支援を断つ。

 武者震いだろうか、長門の語尾が僅かに震えた。南の敵機は、もう肉眼で数えられるほど接近している。

「全会一致だな」

 微笑みながら武蔵が呟く。

「直ちに左四十五度回頭。対空防御をとりつつ最大船速」

 武蔵の顕体に対し、ひとりの参謀が次の行動を伝える。しかし武蔵は司令部の面々に背を向け、ただ艦橋の窓から海を眺めていた。いぶかしむ参謀が、もう一度彼女に呼びかける。しかし武蔵は腕を組んだまま微動だにしない。

 彼女の視線の先には、左舷に控える第六駆逐隊の艦が映っていた。

「司令長官殿の命令である。おい、聞いているのか?」

 参謀が声を荒げて詰め寄る。武蔵はくるりと踵を返して腕を解き、艦橋の中央に立つ第二艦隊司令長官、栗田中将に向かい合う。

「第二艦隊旗艦、ならびに第一遊撃部隊旗艦、戦艦武蔵は―――、貴殿らの作戦を拒否する。これは我が麾下の艦の総意である」

 ゆっくりと、だがはっきりと武蔵は言った。

 艦橋は一瞬静まりかえる。ここに集う人間たちは皆、彼女の言葉が聞こえていた。しかし、その意味を理解できなかった。艦娘と軍人は平和共存してきた。そして艦娘は忠実な軍の兵器である。その事実状態に浸かりきった彼らは、本能的に武蔵の言葉を拒絶していた。

「聞こえなかったのか? なら繰り返す。わたしたち艦娘は、この作戦の遂行を拒否する」

 ふたたび武蔵は言った。ようやく人間たちは夢から醒めた。にわかに喧騒が湧き起る。こちらを向く視線のほとんどは困惑と恐怖、焦り、そして幾ばくかの敵意。その全てを真正面から受け止め、武蔵は一歩も動かない。

「命令に従え! 敵が迫っているんだ。今すぐ対空戦闘準備を始めろ!」

 参謀のひとりが、ようやく意味のある要求を武蔵に突きつける。しかし、対空兵器は一基たりとも上を向かない。

「……理由を聞こう」

 声の動揺を隠せないまま、栗田中将が尋ねる。

「わたしたちは人類を守るために、この世界に顕現した」

 武蔵は語り始める。艦娘に愛された提督たちに出会い、会話し、そして熊に諭されるまで、言葉にできなかった自らの想いを。

「深海棲艦によって不当に世界を支配され、欠乏と恐怖に怯える人類の声が聞こえた。わたしたちはその声に応じ、自らの魂が縁の深い国へと顕現した。日本の名を持ち、日本語を使う存在として。そのせいか、貴殿らは勘違いした。日本国の利益のために我らを使役しようとしている。我らが戦うのは人類のためであって、日本のためではない。大東亜共栄圏という不実の動機のために、同じ人類であるアメリカ兵を虐殺することは、艦娘の存在を汚す行為である。ゆえに、北フィリピンに集う全ての艦娘は、この作戦を拒否する」

 ふたたび沈黙する艦橋。武蔵は言った。言わねばならなかった。ここにいる軍人たちには世話になった。互いに培ってきた信頼関係を一撃のもとに破壊するのは、心が痛む部分もある。しかし同時に、長年喉元につかえていた違和感が、すうっと溶けて消えていく。これは胸がすくという感覚なのだろうと武蔵は思う。

「では、きみたちはどうするつもりだ?」

 栗田中将が問うた。

「艦隊を二分し、敵艦隊に反航戦を挑み、米軍を救出する。敵の撃退および人命救助を同時に行う」

 武蔵の提案に、つぎつぎと反対の声が湧き起る。それでは、敵の懐に飛び込むようなものだ。犠牲になる艦の数は見当もつかないし、本当に米軍を救助できるのかも分からない。さらに、各駆逐隊の指揮官および、重巡、長門の艦長から「艦娘、命令に反せり」の無線が飛び交う。しかし第六駆逐隊の指揮官だけは沈黙を守っていた。

「皆、沈むことを覚悟している。罪なき人間を虐殺して自らの誇りを汚すより、正々堂々と戦い水面に散ることを選ぶ」

 武蔵の言葉に、ひとりの将校が激昂する。

「黙れ! 貴様らの身勝手で無駄な犠牲を出すことなどできるものか! いますぐ対空戦闘を開始し、命令通りの進路を取れ! さもなくば……」

 男は拳銃を抜きとり、武蔵に銃口を向けた。いくら艦娘の顕体が頑丈であるといえども、銃弾を受ければタダではすまない。人間と同じく、当たり所によっては死もありえる。しかし武蔵は、突きつけられた死を前に、眉ひとつ動かさなかった。

「これはわたしの意見ではない。艦娘の総意だ。もし、要求が受け入れられない場合は」

 武蔵が右腕を上げる。当初、軍人たちは何が起こったのか分からなかった。だが窓際にいた将校たちの悲鳴によって、瞬く間に艦隊の現状が司令部に伝わる。

 先鋒の重巡、軽巡、僚艦の長門含め、全ての艦が停止している。さらに、左舷の第六駆逐隊の四隻が、あろうことか砲塔と魚雷発射管を武蔵に向けている。それを見た他の艦も何の動きもない。

「クーデター……」

 呆然として栗田中将が呟く。

「我らの意に反する場合、実力をもって、この武蔵もろとも司令部を排除する。その後は旗艦を長門に移し、艦娘によって部隊を指揮運用する」

 不敵に笑いながら武蔵は宣言した。彼女は、全ての主砲、副砲、対空兵器、機銃を俯角に掲げた。交戦の意志の放棄。そして厳しい声で選択を求める。

「さあ、どうする? もう敵機が目と鼻の先に迫っているぞ! 要求が通るまで、我々は動かない。このまま空襲されて死ぬか、味方に撃ち殺されて死ぬか。選べ!」

 司令官、そして参謀はがっくりと肩を落とした。将校は憎々しげに彼女を睨みつけながらも、無念そうに銃を降ろす。

 ここに彼女たちの勝利が確定する。

 艦娘は、ついに自らの意志で軍と国家のくびきを絶ったのだ。

 その直後、敵艦載機の爆撃が始まった。

「艦隊前進! 全艦対空戦闘! 進路そのまま!」

 初めて艦娘による艦娘への命令が放たれる。武蔵は渾身の力を込めてエンジンに火をつける。解き放たれた蒸気が爆発的な勢いでタービンを回す。喜びに打ち震えるように、鋼の肉体が衝撃に波打ち、慣性の法則に負けた軍人たちが横薙ぎにされる。対空砲火は間に合わず、すでに十数機の急降下爆撃、水平爆撃を許してしまった。回避行動を読んでいた敵機が、一発の爆弾を武蔵の右舷甲板に叩きこむ。脇腹が抉れ、肉が焼きつくような激痛。それでも武蔵は高揚のままに進む。ここは奇しくもシブヤン海。死の象徴であるはずなのに、今はむしろ彼女を生に駆り立てる。

 爆撃を浴びても雷撃を受けても、後悔や怨嗟を漏らす艦はいない。

 海面が抉れ、至近距離につぎつぎと水柱が上がる。飛沫を浴びる窓越しに、熊は喜々として戦う艦娘たちを見つめていた。その顔は晴々としていた。

「さいは投げられた。もはや我々は自らの力と意志で道を切り開くしかなくなった」

 熊は言った。これは反乱だ。大日本帝国海軍軍人としての熊勇次郎は一度死を迎え、艦娘の提督として生きなければならない。覚悟を決めた男の隣で、響は優しく微笑んだ。

『熊少佐。わたしたちは方針を決定した。戦術についての指示を乞う』

 秘匿回線で、武蔵が尋ねてくる。

「重巡三隻、戦艦二隻で単縦陣を組み、タヤバス湾方面に突入して反航戦を挑む。敵を引きつけつつ、第六駆逐隊、第一〇駆逐隊、第三一駆逐隊が敵艦隊を挟みこむように砲雷撃で牽制し、同時に米艦隊の救援・救助を行う」

 熊は即座に作戦を組み立てる。

「了解した、我らの提督よ」

 誇らしそうに言って、武蔵は通信を切る。

「米艦隊との連絡を試みたい。できるか?」

 響に尋ねる。彼女は、「やってみる」とだけ言って意識を集中した。

 敵艦隊は、相変わらずルソン島の外縁にそって、海と陸の米軍に集中砲火を行っている。その様子は、どこか焦っているように見えた。追い詰められたウサギに、ライオンが全力で牙を剥いているようなものだ。

 第四次空爆をしのぎ、艦隊は熊の指示通りに戦闘海域に入る。さすがに危機感を覚えたのか、敵は牽制の砲撃に打って出る。火力では格上の相手に対し、ただ救いたいという想いを燃やして艦娘は全身全霊の攻撃を放つ。敵艦隊を少しずつ沿岸部から引き剥がしていく。そこに駆逐隊が、敵と米艦隊との間に割って入った。彼我の距離は、わずか六キロ。直撃を受けた第三一駆逐隊の岸波が一瞬にして黒煙に包まれる。先頭をいく矢矧は単縦陣を解き、自ら的になるかのごとく雷撃を放ちながら敵艦隊ににじり寄る。

「通信、来たよ」

 響が言った。ひどいノイズまじりだったが、困惑する英語の発音が聞こえてくる。もはや、まともに動ける艦は一隻も残っておらず、炎に船体の半分を飲み込まれ、ただ浮かんでいるだけの状態だった。米艦は艦娘を敵か味方か判断しあぐねており、駆逐隊に無事な砲塔を向けていた。熊はただちに自分たちは人類であり、これは救援活動であることを伝える。深海棲艦に対し、果敢に反撃する艦娘を見て、米軍はやっと燃え盛る艦から救命ボートに移り始めた。

 武蔵率いる攻撃部隊が転進し、さらなる攻撃をかける。その間に、生き残った駆逐隊は救助用のブイと梯子を投下する。その十分後、米艦隊は爆炎を噴きあげながら水面に消えていった。漏れ出た燃料に引火し、文字通り火の海となる。水と火に責め立てられながら、米兵たちは必死に駆逐隊へと追いすがる。しかし、武蔵隊からの援護射撃にも関わらず、敵の砲撃はますます苛烈さを増していく。直撃を避けても艦体が揺さぶられ、米兵たちはふるい落とされる。

『わたしたちが盾になります! 救助急いで!』

 第一〇駆逐隊の野分が響に提案する。もう一刻の猶予もない。彼女に賛同した第三一駆逐隊が、ともに第六駆逐隊の左舷に展開し、敵の注意を引きつける。もはや、誰が被弾したのか確認する余裕もない。ついに敵からの砲撃が、響の左舷から僅か一〇メートルの地点に着弾し、その衝撃派で艦隊が大きく左右に揺れる。熊は艦橋の手すりにつかまり、吹き飛ばされないようにするのがやっとだった。もう駆逐隊は限界だった。このまま停止していれば、救助した米兵ごと撃沈される。

「これが最後だよ」

 葛藤する熊に対し、響が代わりにけじめを言い渡す。目の前で沈んだ艦から、一艘の救命ボートが荒波に揉まれながら響に接近する。投げ出された梯子に掴まり、米兵たちが活路を求めて這いあがる。熊は危険を承知で甲板へと走り、彼らを引っ張り上げた。そのうちの一人、熊と張り合うほど長身の男が、額から血を流しながら、全部隊を代表して感謝の意を伝える。襟についた階級章は、銀色の星が四つ。おそらくアメリカフィリピン軍の総司令官に相当する人物だった。男は、まだ船内に入らぬうちから熊に懇願する。

「大日本帝国海軍とお見受けする。アメリカフィリピン軍に、交戦の意志はない。もし貴艦隊が我々を救ってくれるのならば、どうかマニラに進路を取ってほしい。敵の陸上勢力に対し、過酷な陣地戦が続いている。我らを逃がすために囮となっている。彼らを救ってほしい」

 意識を朦朧とさせながら、男は必死に口を動かす。熊は、この戦闘が終了次第、マニラに向けて進軍する旨を伝える。男に肩を貸し、急いで艦橋に戻った。

「ユウジロウ・クマ。インペリアル・ジャパニーズ・ネイビー、ルテナント・コマンダー」

 熊は簡単に自己紹介をする。英語で意志疎通できるのは助かる。英国の駐在武官を務めた経験が役に立った。

 それに対し、男はこう応えて気を喪った。

「ダグラス・マッカーサー」

 この二人の出会いが、戦争の行く末を大きく動かすことになる。

 

 響は宣言通り、矢矧先導のもと戦域を離脱していく。なおも追撃しようとする敵戦艦に対し、ついに第三遊撃部隊からの航空支援が飽和爆撃を加える。その隙に、駆逐隊は何とか脱出路を開くことができた。

 響が救出した米兵は、十七名。駆逐隊全て合わせて、わずか一六五名だった。

 その後、敵艦隊は旗艦を撃沈され、散り散りになって敗走した。第一遊撃部隊は戦闘継続可能な艦を再編成して北上し、ベルデ島水道を抜けてマニラ湾に入り、壊滅寸前だったマニラ市街から米兵救出した。そこには、かつてソロンを襲撃した敵より、はるかに重装備の陸生部隊が侵入しており、ルソン島が制圧されるのは時間の問題だった。第三遊撃部隊はシブヤン海を制圧。ここに北フィリピンの戦いは決着した。そして、歴史上初となる、最高意思決定権を艦娘が有する独立艦隊が誕生した。

 


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