【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

19 / 25
 帝国海軍史上、最大の海戦とでも言うべき、フィリピン同時侵攻作戦が始まる。しかし西村艦隊を待ち受けていたのは、前世の記憶に違わぬ、あるいはそれ以上の絶望的な戦力差だった。このまま巨大な運命に屈するか、それとも自力で細く険しい道を切り開くか。
 スリガオ海峡とレイテ湾、ふたつの戦場にて、ついに艦隊は決戦のときを迎える。


第十八話 あの海をこえて

 

 〇四三〇。

 まだ世界は夜の暗幕が降りている。志摩中将率いる第四遊撃部隊は、旗艦である重巡・那智を筆頭に、レイテ沖二〇海里にて待機していた。将校たちは突撃にはやる気持ちを必死に押さえていた。黎明まで、まだ時間がある。わずか三〇分の時間が異様に長く感じられた。今頃、西村艦隊はスリガオ海峡を渡っているだろう。編成された四個の遊撃部隊のなかで、西村艦隊が最も規模が小さい。不安ではあったが、今は西村艦隊を信じて待つことしかできない。互いに連絡が取れない以上、事前に取り決めた作戦通りに動くしかなかった。

 那智は険しい目でレイテ湾を睨む。第四遊撃部隊は、見た目こそ構成に変化はなかったが、こっそり湾内に進行している艦娘たちがいた。福井靖少佐率いる伊号潜水艦、通称・海中機動部隊である。隠密行動にはぴったりの部隊だ。

『連絡はあったか?』

 那智が通信機の向こうに問う。

『まだ無いよ。そうせかさないでったら』

 無愛想な少女の声が返ってきた。駆逐艦・島風だ。彼女は先行し、通信の中継地点として、那智と福井部隊の中間に陣取っていた。敵の巣の近くに単艦で停泊しているにも関わらず、島風の口調には、ふてぶてしいほど緊張が見られない。よほど戦闘の腕が立つのか、あるいは最速の艦としての驕りがそうさせるのか、那智には分からない。いずれにせよ戦場を前にして死の恐怖を感じない者は危険だった。

 那智が気を揉んでいる頃、福井の旗艦・伊401と、彼女に連なる伊号潜水艦たちは、ひっそりとサマール島南の海岸線を辿り、レイテ湾に忍びこんでいた。潮の流れは早く、暗礁も多かったが、気負っている者はひとりもいない。なにせ呉の海は、こんなものではなかった。複雑奇怪な潮流、荒れ狂う波のようにグネグネとうねる海底の地形。潜水艦乗りにとって地獄のような海で、彼女たちは福井にしごかれてきたからだ。スクリューの回転を少なくおさえ、海水の流れに身を任せることで、海と一体化する。現在の人類の技術では不可能と言われた完全無音潜航、それに近いパフォーマンスを発揮している。潜水艦狂である福井の執念が為せる技だった。過酷な伊号の運用に、伊19は不満たらたらだったが、とくに提督を慕う伊168や伊401に引っ張られるうちに、いつの間にか慣れてしまっていた。

 偵察のため、伊19だけが海面近くに浮上し、残りのメンバーは水深五〇メートルに留まっている。

『提督、こちら伊19。スリガオ海峡は、敵だらけなのね』

 すぐさま彼女から通信が入った。福井は詳しい数を報告するよう告げる。

『いちばん手前に、戦艦級が六隻、単縦陣。その両翼に、軽母級が二隻ずつ。よく見えないけど、その奥にも艦隊がいるのね。たぶん巡洋艦級だと思うの』

 伊19、通称・イクの報告を受け、すぐさま福井は状況を把握する。敵がスリガオ海峡に多重の単縦陣を張っているのは、ミンダナオ海から海峡に入った西村艦隊を迎撃するためだろう。圧倒的な火力にものを言わせ、夜戦から薄明攻撃にて一気に撃滅する。しかし、六隻もの戦艦に加え、わざわざ空母を配置しているのは、西からだけでなく、我ら第四遊撃部隊のように東から攻めてくる勢力も警戒してのことだろう。東と西、どちらから艦娘が攻めてきても、確実に撃退できる布陣と戦力。

『どうするんです、提督? まともに戦っても勝てっこないでち』

 ゴーヤこと伊58がぼやく。

 確かに彼女の言う通りだ。戦術の伝統的理論に、攻撃三倍の原則というものがある。領域を支配して陣を敷く敵を、その地から引っぺがして撃破するには、敵の三倍の戦力が必要になる。それだけ攻撃は大変だということだ。しかしながら、我が部隊は三倍どころか、敵の三分の一にも満たない。普通に考えれば勝ち目はない。

 ところが、福井は不敵に笑っていた。

『提督、大丈夫? 壊れてない?』

 伊8、通称ハチが心配する。それほどまでに福井は笑いを押さえることができなかった。制御室にて、提督の隣に座る伊401の顕体、しおいは、正確に彼の意図を読みとっていた。それゆえに黙して仲間たちの言葉を待つ。

『数に惑わされるな』

 ようやく真剣な表情に戻り、福井は言った。

『よく敵を見ろ。やつらの陣形、何か思うところはないか?』

 福井は部下たちに問う。すると伊168ことイムヤが真っ先に答える。

『戦いやすそうね』

 彼女の言葉を受け、イクが歓声を上げる。

『分かったの。駆逐艦や軽巡が、あんまりいないのね!』

『その通りだ。戦艦による大艦巨砲主義の配置は結構だが、やつらは大日本帝国と同じ過ちを犯している。イクが指摘したとおり、潜水艦の天敵とでも言うべき駆逐艦、軽巡がいない。少なくともレイテ湾側には』

 福井は言った。スリガオ海峡の東側は、大型の戦艦六隻が単縦陣で塞いでしまっている。あれでは、もし向こう側に駆逐隊がいたとしても、レイテ側に回すことができない。

『つまり、奴等は我々を見くびっているのだ。人間の艦隊に潜水艦などいない、とな』

 福井は言った。深海棲艦の布陣は、レイテ湾側での対潜戦闘を、ほぼ考慮していない。周到で合理的な深海棲艦が、潜水艦はいないだろうという憶測で布陣を決めることはありえない。つまり彼女たちは、確固たる根拠をもって、この戦いから対潜戦闘を外している。なぜこのような判断に至ったのか、その理由は分かる気がした。福井の潜水艦部隊は、ほとんどの時間を呉で訓練や実験に費やしていた。外洋に出撃するのは輸送任務くらいで、これまで戦いに参加したことがない。ゆえに深海側は知らないのだ。人類側に、きちんと戦えるだけの潜水艦戦力がいることを。さらに福井は本土を出る際も、島風と協力して非戦闘を貫いた。味方が襲われようが一切反撃せず、ただ粛々と海の下を進んだ。幾田からの手紙によれば、潜水艦部隊が本土を出たことを、一切敵に伝えていないという。ならば敵は、潜水艦娘がいまだ本土に閉じ込められていると誤認しているはずだ。

 これまでの徹底的な隠密行動が、ついに日の目を見るときがきた。

『この戦力差で正面から挑めば、当然ながら勝機は無い。それでも戦って勝たねばならないとき、我々は何をするのか』

 奇襲だ。福井は結論づける。そして我が艦隊には、奇襲にもってこいの部隊がいる。厳しい訓練を積んで高い練度を誇るも、出撃の機会に恵まれず、敵に存在を一切知られていない部隊が。

 伊号潜水艦たちは、提督の意図を完全に理解した。

『とはいえ、戦場では何が起こるか分からない。マリアナでのレーダーピケット艦、そして反跳爆撃しかり。常に細心の注意を払いつつ大胆不敵に行動する。それが、我ら海中機動部隊の方針だ』

 福井は言った。敵艦隊が我が部隊に油断してくれるのはいいとして、問題は白峰だ。彼は人類側に、きちんと訓練を受けた潜水艦たちがいるのを知っている。あのヒト並外れた合理性の化身が、深海棲艦に油断や慢心といった人間特有の弱さを持ちこんだだろうか。敵の内情が分からない現在、敵艦隊の配置が慢心によるものであることを祈るしかなかった。

『作戦を教えて、提督。わたしはあなたについていく』

 イムヤこと伊168が即座に答える。潜水艦たちは口々に同意した。部隊の士気は少しずつ高まりを見せている。

 福井は、すぐさま作戦立案を進める。敵は間違いなく強大だったが、艦娘たちと同じく恐れ以上の高揚感が全身をビリビリと駆け巡っている。潜水艦を愛する者として、艦娘と出会う前から日夜、新たな兵装、戦術開発に取り組んできた。一九四二年春、彼は初めて顕現した潜水艦である伊168を賜った。人類艦の性能を遥かに上回る彼女を運用したことで、技術が追いつかないと諦めていた新たな試みの数々を成功させることができた。戦争が始まって三年半、これまで地道に磨き上げてきた全てが戦場で花開こうとしている。潜水艦の新たな歴史を刻むべく、人類史上最大の海戦に挑めることを福井は幸せに思う。

 わずか一〇分で完成した作戦は、島風を通して第四遊撃部隊の旗艦・那智に届けられる。いかに前例のない作戦だろうと、戦わずに逃げ帰ることは許されない。この作戦には、志摩艦隊だけではなく、スリガオ海峡の西村艦隊の命も掛かっているのだ。志摩中将の司令部は、ただちに作戦に対して裁可を与えた。

「いよいよ始まるんですね、わたしたちの初陣が」

 しおいが固い声で言った。伊号潜水艦のなかでも、航続距離など艦のスペックに恵まれ、何かと頼りにされることの多い彼女だが、生死を分ける戦場において実戦経験の少なさは、無視できない劣等感となっている。その劣等感が、どうしても彼女たちに過剰な恐怖や緊張を強いてしまう。

 提督として、最後の殻を破ってやらねばならない。この戦いに勝利するのみならず、これから先、彼女たちが第一級戦力として活躍していくために必要な儀式だ。

『諸君、海の中は好きか?』

 唐突に福井は問いかける。潜水艦たちは、その質問に答えあぐねていた。潜水艦なのだから海中にいるのが当たり前だ。しかし、ずっとそこにいたいとは思わない。訓練を無事に終えて、陸にあがって太陽の光と潮風を浴び、仲間たちと呉の街を散策するのが何よりも楽しかった。

『実を言うと、俺はあまり好きではない』

 潜水艦狂とは思えない発言。部隊に苦笑の漣が起こる。

『海の中は、100メートルも潜れば、ほぼ何も見えない盲目の世界だ。おまけに回りは高圧力の海水ばかり。ただでさえ人間は水の中で生きていけないというのに、潜水艦の外は、まさに死の世界だ。真っ暗で孤独。時間の感覚も麻痺する。俺独りだったら、一週間くらいで気が触れているのではないかと思う。だが諸君も知っている通り、我々は呉の暴れ海で、一カ月に渡る無浮上潜水訓練を行い、見事やり遂げた。当然、俺は狂ってなどいなかった。それは諸君らがいたからだ』

 福井は断言する。潜水艦は、静かに耳を傾ける。

『潜水艦は孤独だ。絶対数の少なさしかり。海上の艦や飛行機と違い、被弾すれば絶対に助からないことしかり。深海の戦いは、実際に戦う者にしか理解できない。誰にも理解されない我々は、本質的に孤独な存在だ。しかし、俺が諸君らと共に生きてきて、孤独を感じたことはない。独りでさえなければ、深い海を漂うことなど恐ろしくもなんともないのだ。むしろ、居心地がいいじゃないか。誰にも邪魔されず、自由に行動できる。海の中は自由だ。海上に浮かぶ人間と深海棲艦が勝手に決めた勢力圏など、ちょいちょいと乗り越えることができる。世界を覆う海、その全てが我らの庭だ』

 福井は笑う。瞳を輝かせながら語る福井を見て、しおいは思う。このヒトは、本当に潜水艦を愛してくれているのだと。自身が顕現し、呉に着任したばかりの頃を思い出す。得体のしれない艦娘、それも、危険なうえ艦隊決戦の花道から外れる潜水艦になど乗りたがる軍人はいなかった。あわや港の置物になるところだった自分たちを拾ってくれたのが福井だ。軍の若きエリートとして初期艦まで与えられた男が、駆逐艦隊すら持つことを拒否して潜水艦の運用に携わった。訓練や実験は厳しくて不平不満も口に出したが、本心ではみんな彼を尊敬し、慕っている。

 ゆえに、しおいは胸が痛むのを感じる。パラオを出発する前、福井から極秘に伝えられた作戦。そこには部下のために自らを犠牲にしようとする提督の覚悟が表れていた。

『我らは、我らの道を行く。存分に暴れよう。フィリピンの海を引っ掻きまわせ。敵だけじゃなく、味方の鼻をあかしてやろう。戦艦など恐れるに足りない。洋上にぷかぷか浮いているだけで海の覇者を気どっている奴等に、痛恨の一撃を見舞ってやれ』

 我らは自由だ。

 福井は言った。しばらく艦内には静寂が続いた。しおいは提督にばれないよう歯を食いしばり、潤む瞳を天井に向ける。みんな、同じ気持ちだった。信頼する者の言葉は、いともたやすく恐怖を自信と喜びに変えてしまう。

「しおい、先陣をきれ」

 福井からの指示が飛ぶ。少女は、とびきりの笑顔で提督に応える。

『よし、こうなったら、とことん潜っちゃうよ! 遅れずついてきてね!』

 しおいは言った。後続の艦から元気よく返事が届く。

『海中機動部隊、急速潜航!』

 福井の叫びが、エンジンのうなりが、暗い海を震わせる。

 〇四三五。観測役の伊19を残し、福井部隊は潜水していく。スリガオとレイテをめぐる起死回生の作戦が始まった。

 

 潜水艦が動くと同時に、第四遊撃部隊は進路を西に取った。偵察をしていた島風と合流し、作戦に合わせて艦列を組む。第一七駆の磯風、浜風、浦風、そして付属の島風が鶴翼の陣形で先行し、那智、足柄、妙高、羽黒が単縦陣にて続く。航空戦力である瑞鳳、龍鳳はしんがりについた。艦隊は、物見遊山でもするかのように、ゆっくりと進んだ。ついに水平線に敵潜艦列を視認する。敵も、こちらに気づいているはずだ。しかし動きはない。スリガオ海峡の封鎖を優先し、あくまで第二遊撃部隊の撃滅を目的としている。ここまでは福井の読み通りだった。

 作戦開始まで、あと少し時間がある。

『敵は余裕綽々だな』

 部隊の緊張を解こうと、那智が僚艦たちに言った。

『そりゃそうでしょ。巡洋艦級もかなりいるみたいだし、ぱっと見、戦力差は六、七倍ってところかしら』

 さらりと足柄は言った。だが悲観する様子はまるでなく、むしろ感情の昂りが声に乗っていた。

『戦術上は第二と第四で敵を挟撃しているので、わたしたちに有利なのですが。この戦力差では、二匹の犬が像に喧嘩を売っているようなものですね』

 しみじみと妙高が言った。

『きっと大丈夫ですよ。百戦錬磨のお姉さま方が負けるはずありません』

 妙高型の末っ子である羽黒が言った。艦娘のなかでも珍しく、妙高型の姉妹は全員が二度目の改造を受けていた。摩耶が防空巡洋艦として姿を変えたように、彼女たちもまた垢ぬけた堂々たる容姿となっていた。妙高型は、それだけ高い練度を誇っていた。

『そうだな。栄えある妙高型が、敵戦艦ごときに遅れを取るはずがない。南フィリピンの戦い、必ず勝利を手にしてみせよう』

 勇ましく那智は言った。普段の言動から軍人たちには弱々しく見られている羽黒も、いざ戦いになれば誰よりも頼りになることを知っていた。姉妹全員揃って戦えるのなら、強がりではなく、本当に勝利の希望があるのではと思えてくる。

『重巡の皆さんは、なんだか気楽そうだな』

 艦隊の先頭にて、一七駆の饗導艦・磯風が、内線でこっそり仲間の駆逐艦たちに呟く。

『あれくらい肝が太くないと、重巡の身分で旗艦は張れないんでしょ。ふつう、部隊の旗艦って言ったら戦艦か正規空母クラスじゃない?』

 島風が言った。

 そういうあんたも、よっぽどだと磯風は思う。大きな戦いを前にしても、異常なほど気負いがない。ただ一隻、本土の包囲網を抜けてトラックまで潜水艦を護衛してきた彼女の力量は、磯風も認めていた。しかし、彼女の場合、余裕がありすぎて戦闘そのものを軽視しているようにも思えてしまう。全てを見通し、達観しているかのような態度は、同じ駆逐艦として少し気味が悪かった。

 〇四三七。作戦開始まで、あと三分。

『戦闘準備!』

 磯風の号令とともに、一糸乱れぬ動きで発射管に魚雷を装填していく。彼我の圧倒的な戦力差を覆すチャンス。活かすも殺すも自分たちの働きにかかっている。ここからは海中とは連絡が取れない。福井提督が立案した作戦に、忠実に従うことが任務だ。はるか彼方の敵を睨みつつ、磯風は時間の経過を見守る。作戦開始まで、のこり三秒。

『統制雷撃、始め!』

 凛とした声とともに、一七駆の艦から放射状に魚雷が打ち出される。

 

「時間だ」

 福井は言った。伊401は水深一五〇の地点で中性浮力を保っている。〇四四〇時ぴったりに斉射された魚雷の推進音が、部隊の頭上を通過していく。福井は水中ソナーのヘッドフォンを装着する。その隣でしおいも自身の耳を澄ませている。魚雷は、まっすぐ敵戦艦の横腹へと直進していく。ところが、あと二百メートルというところで、海中に爆発音が轟いた。放たれた魚雷は次々と水柱になって海面に散っていく。

「敵の動きはどうだ?」

 水面で目視観測している伊19に尋ねる。

『戦艦級、いずれも健在。爆雷を放った様子はないのね』

 イクから報告が届く。どうやら敵は魚雷対策を怠っていなかったようだ。敵戦艦の一歩手前で魚雷が爆発したということは、そこに何かしらの防壁があると見て間違いない。以前の深海棲艦ならば考えられない、高度な戦術的芸当。白峰の裏切りがどれほど人類のマイナスになったのか、福井は初めて実感する。

『防潜網か、機雷が敷設されている。爆発音が重複していたから、たぶん機雷だろう。細心の注意を払いつつ、レイテ湾北側から接近を試みる。イク、潜航して我に続け』

 福井が指示をくだす。五隻の潜水艦は、潜航地点から正確に北西二〇度へと進む。もし敵が設置したのが機雷なら、接触しただけで味方は即死する。こちらの魚雷を全て破壊した威力と性能は、対潜水勢力用の新兵器である可能性も高かった。敵は、海の上で防御用の陣地を構築している。まさに浮かぶ鉄の城壁だ。レイテ湾側の艦は、梃子でも動かないつもりだろう。しかし、それでも福井は進撃を決心していた。例え新兵器の機雷が敷設してあったところで、海峡全てを封鎖しているとは考えにくい。もし第二遊撃部隊以外の全艦娘がレイテ湾に押し寄せてきたら、敵は自分が設置した機雷網に阻まれて動けなくなる。止まった艦は、もはやただの標的。万が一の事態に備えて、少なくとも海峡の両端は道を空けているはずだ。そうしなければ、海峡いっぱいに跨る単縦陣から、艦隊を動かすことができない。機雷があろうがなかろうが、潜水艦部隊は、その隙間をくぐって接近を試みる。

 最小限の音波の反応を見ながら、伊401を筆頭に潜行していく。念のため、海面付近をイクとゴーヤが、海中をしおいとイムヤが見張りながら進んだが、やはり機雷らしき異物は見つからなかった。海中機動部隊は、敵単縦陣の北端に張り付いた。

『魚雷第二射、来るよ』

 しおいが報告する。〇四五〇、第一七駆が二度目の統制雷撃を始めた。先ほどと同じコースで魚雷は直進する。相変わらず敵戦艦は泰然と構えている。砲撃の射程圏外にいる艦娘など、眼中にないようだった。

「かかったな」

 福井は口角を歪めて笑う。獲物を捉えた潜水艦たちもまた、喜びに目を細める。目標は戦艦列の両端に二隻ずつ配置された軽空母だ。海中の猛禽たちは、まず目の前に浮かんでいる北端の二隻に狙いを定めた。

『イク、ゴーヤ、潜航せよ。創造的な進化を遂げるのは、敵の専売特許ではないことを思い知らせてやれ』

 指示に従い、二隻が水深一五〇まで潜っていく。彼女たちは、潜水艦の歴史上、前例のない新戦術を試そうとしていた。通常、敵艦を狙い撃つ際、できるだけ海面近くまで浮上しなければならない。あまり深いところで魚雷を撃っても、敵艦の下を素通りしてしまうからだ。しかしそうなると敵に見つかりやすくなり、爆雷による被撃沈のリスクも高まる。そこで福井は、潜水艦を安全な深海に残したまま魚雷攻撃できる方法を発明した。まず海面にいる艦が敵までの正確な距離と方角を測定し、海中の部隊に伝える。部隊は、得られた情報をもとに新型魚雷に充填された水素ガスの量を調節する。ガスが多ければ素早く魚雷は浮上し、少なければゆっくり海面にのぼっていく。水深と敵までの距離を考え、適切なガス量を導きだせば、深海に身を潜めつつ敵艦に魚雷を命中させることができる。むろん、新型魚雷の開発から、実戦訓練を経て、全員が技術を体得するまでは長く険しい道のりだった。一年半、ほぼ休みなしで訓練を重ね、ようやく実戦で使用できるレベルとなった。

『海の娘の艦隊勤務、月月火水木金金。あの地獄のような日々が、やっと報われるのね!』

 少し泣きそうになりながらイクが言った。誰ひとり、一発も外すつもりはなかった。これまでの常識では、魚雷は船の左右舷に命中するものだ。しかし彼女たちの手にかかれば、うまくいけば海の下から抉るように、敵の船底に魚雷を突きさすことができる。船底が抉れて穴が開けば、たとえ大和型のような最強クラスの防護力を誇る艦でも一発で撃沈できる。それは、まさに悪魔の所業だ。悪魔に魂を捧げるような過酷な訓練を乗り越えてきた彼女たちしかできない所業だった。

『一番から四番、発射管開け。斉射したのち二〇秒後、五番から八番、放射状に撃て』

 福井の命令どおり、五隻の潜水艦から魚雷が放たれる。

 一七駆が撃った魚雷が機雷に阻まれて爆散すると同時に、敵軽母を囲うように円状の水柱が上がる。わずが五分後、二隻の軽母は爆発するでもなく、傾斜して転覆するでもなく、まるで海に丸飲みにされたかのごとく、浮かんだままの姿で海中に吸い込まれていった。レイテ湾外から、その光景を偵察していた駆逐艦たちは、我が味方ながらゾッとした。潜水艦は怒らせないほうがいいよ、と島風が呟いた。

 〇五〇〇。戦端は開かれた。

『海中部隊援護する。出撃だ!』

 那智の命令とともに、第四遊撃部隊主力が動く。瑞鳳と龍鳳を後方に残し、重巡と駆逐艦だけの単縦陣でレイテ湾に乗り込む。東の水平線に、一筋の白い光が滲み始めている。薄明が近い。龍鳳と瑞鳳は、航空支援のため艦載機の準備を始める。

『駄目押しだ、もう一発!』

 磯風が統制雷撃の号令をかける。最初から敵にあてることは考えていない、欺騙のための雷撃。敵が潜水艦の存在に気づくことのないよう、戦場を魚雷で引っ掻きまわす作戦だ。島風と磯風を右舷に、浜風と浦風を左舷に引き連れ、妙高姉妹が単縦陣にて湾内に突入した。もう少しで敵味方双方の射程圏内に入る。

 一方、海中では福井の部隊がソナーを通して敵の動きを探っていた。北端の敵軽母二隻を撃沈した。次は機雷線と並行になるよう敵の眼前を移動し、今度は南端の軽母を平らげる予定だった。あとは気の向くまま、敵戦艦のどてっぱらに魚雷を浴びせてやればいい。方角と距離さえ分かって入れば、伊号潜水艦は最高深度からだろうと魚雷を命中させることができる。

 ほぼ完全無音潜行を続けながら、しおいは海の音を拾い集める。

「戦艦に動きあり。中央の二隻が後退、その左右の二隻が、やや後退。両端の二隻、南端の軽母はそのまま。単縦陣にて三日月の陣形を取っています」

 海中のスクリュー音の方向と強弱をじっくりと耳を澄ませ、しおいは巧みに敵の動きを割り出す。福井は少し首を傾げる。敵の動きが妙だった。もし雷撃が駆逐艦からの攻撃だと判断したなら、接近してきているだろう那智戦隊を迎え討つために陣形は変えないはずだ。中途半端に三日月の陣形に移行する理由が分からない。もし敵が我々、第三勢力の存在を危惧しているなら、こんな緩慢な動きは取らないはずだ。

 だが、ひとつはっきりしていることがある。

 深海棲艦は不合理な行動はとらない。もはや彼女たちは愚か者ではなくなった。その行動の意味が分からないのは、自分たちが何かを見落としているからだ。

「妙ですね。軽母二隻は、敵にとってかなりの痛手のはず。なのに、ほとんど陣形を変えないなんて」

 しおいが言った。潜水艦群は、すでに南に向けて進路を取っている。微弱なソナーを使い、常に機雷には警戒しているが、その反応も皆無だ。このルートは安全であるはず。それでも福井の首筋には嫌な汗が流れた。

「敵に未だ動きはないです。このまま、そーっと……」

 しおいは思わず声をひそめる。魚雷の推進音はおろか、爆雷や砲撃の音さえ聞こえない。戦場とは思えない平穏な静けさが海を満たしている。

 ちょうど敵単縦陣の真ん中にさしかかったとき。

 突然、海が震えた。

 海中で地震など起こり得ない。そんな錯覚を感じてしまうほど、強烈な音の波動がレイテ湾の縦深を駆け巡る。特殊鋼で覆われた艦体がビリビリと軋む。何万頭ものクジラが一斉に吼えたかのような、巨大で低い音のうねりが艦内にこだまする。福井はとっさにヘッドフォンをミュートした。しかし遅すぎた。頭蓋骨を内側から殴られているかのように、わんわん反響する重低音が脳みそを掻き乱す。音は自分の内側からばかり迸る。隣でしおいが大きく口を開け、何かを叫んでいる。しかし全く聞こえない。

 福井は自分の耳が破壊されたことを知った。

 潜水艦乗りにとって、耳は目の代わりだ。聴力を喪った福井にとって、ここは盲目の世界も同じだった。

「しおい、すまない、耳をやられた。各艦に被害報告。状況を掌握せよ」

 なお冷静に福井は指示を出す。しおいは頷くと、僚艦たちに通信を開く。皆、艦体に異常はない。先ほどの音波は攻撃ではないようだが、攻撃以上に恐ろしい現実を少女たちに突きつけた。

『音波緒元特定。敵戦艦群からだ!』

 青い顔でしおいが叫ぶ。瞬く前に艦隊は動揺のざわめきに包まれる。いつも明るく元気なしおいの怯えた表情だけで、尋常ではない状況にあることが福井にも伝わる。

「落ち着け。俺は今、音が聞こえない。俺の質問に首を振って答えろ」

 しおいの両肩を掴み、福井は言った。いくぶん落ち着きを取り戻し、少女は頷く。時間がない。福井は矢継ぎ早に質問を浴びせる。さっきの音波は敵戦艦からか。それはソナーの類か。敵は移動していないか。しおいは、全て首を縦に振って答える。現状は、福井が思い描いた最悪の可能性に見事ぴったり一致した。

 ソナーにはアクティブとパッシブの二種類ある。パッシブは海中の音を拾い集める。アクティブは自分から特定の音波を放ち、その反射により周囲を把握する。コウモリの超音波みたいなものだ。敵の位置や距離を正確に測定することができるが、音を出すので自分の位置も敵に教えてしまう。だがこの状況で、敵の位置が分かったところで何の意味があるのか。

 戦艦が対潜ソナーを使ってきた。

 またしても人間の常識が邪魔をした。福井はくやしさのあまり歯噛みする。戦艦は対潜装備を持たないという慣習。そんなものは深海棲艦には通用しない。完全なる油断だった。しかし混乱している場合ではない。

 一秒でも早く、次の動きを決心せねばならない。

 対潜ソナーを使うということは、当然、潜水艦に対する攻撃手段も持ち合わせているはずだ。それが何かは分からない。しかし敵が陣形を変えたということは、間違いなく攻撃態勢を取るためだ。艦娘たちは震え上がった。レイテとスリガオの境界に、文字通り閉じ込められた。左には機雷網、右には戦艦群。逃げ場はない。

 福井の頭脳は最速で回転する。一〇秒後、提督として彼は決断をくだした。

「もうこちらの居場所はバレている。全艦、二〇〇まで潜行しつつアクティブソナーを使え」

 その言葉で、潜水艦たちは急速潜行を開始する。同時に、渾身の力で音波を放った。敵艦から再度、海を丸裸にするような爆音が射出される。周波数の異なる音の波は彼我の中央で衝突する。混ざり合い乱流を生み、けたたましい音の渦をあちこちに作った。

 海中での大騒動は、レイテ湾の駆逐隊にも届いていた。

『信じられんけど、敵戦艦がソナー打ってきよった! 潜水艦が危ない!』

 浦風が通信機に向かって叫ぶ。戦場には想定外が嫌というほど溢れている。作戦通り進むことのほうが珍しい。慌てる駆逐艦たちに、足柄はそう言った。

『最大船速! これより敵を狙い撃つ!』

 那智の指示が飛ぶ。艦体が上下に揺れるほど荒々しく波を乗り越えていく単縦陣。カタログスペックを遥かに超えるスピードを全員が出していた。

『多少陣形が乱れても構わん。敵はまだ停止している。今こそ勝機だと思え!』

 もうなりふりかまってはいられない。被弾覚悟で、敵に対して単縦陣による真正面からの殴り合いを挑むしかない。駆逐艦は、少しずつ重巡を追い抜いていく。その中でも島風の速さは突出していた。後続の駆逐艦をも突き離し、単艦でスリガオ海峡の入口へと突っ込んでいく。

 〇五一〇。東の水平線が光のベールに包まれる。第一薄明が始まった。

『第一次攻撃隊、発艦準備よし!』

 後方に残った瑞鳳、龍鳳から声が届く。ふたりの役目は制空権の確保と爆撃だ。潜水艦が敵軽母の半分を沈めてくれたおかげで、互角の戦いができるはずだった。

『航空支援にかかります!』

 甲板に零戦と艦爆を並べ終わり、瑞鳳たちは合成風力を生むため助走に入るべく機関を始動させる。

 その瞬間、スリガオ海峡から砲音が轟いた。

 単縦陣両端の敵戦艦、二隻。その主砲が一斉に火を噴いた。

 初弾は大外れだ。そう誰もが思った。敵が放った弾丸は、艦列のはるか頭上を飛び越えていった。その隙に、遊撃部隊は梯形陣から、敵に対して単縦陣にて向かい合う。だが、すでに攻撃態勢を整えた島風だけは、敵が外したと思しき砲弾の行方を目で追っていた。計一八発の弾丸は、ほぼ平行に近い放物線を描いて海面に着水する。だが、その先の光景は、信じられないものだった。

 魚雷? 島風は首をひねる。海に沈んでいくはずの砲弾が、なぜか雷跡のような白い糸を引きながら高速で海面を走っている。艦娘の中でも並はずれた島風の動体視力は、その弾丸の細部までハッキリと捉えていた。大和の使用する九一式徹甲弾より、遥かに長い。鋼鉄の弓矢のような弾丸は、その先端から末尾にかけて鋭い三角の羽が生えている。着水した後も沈むことなく、まるでトビウオのように高速で海面を走っている。

 その先にあるものに気づき、島風は叫んだ。

『瑞鳳、龍鳳、回避して!』

 弾丸は、敵射程圏外に留まっていた二隻の軽空母めがけて突進していく。我が目を疑う光景に気づき、まず瑞鳳が弾丸に対して艦首を向ける。間一髪、弾丸は艦首の先だけを抉り取って通過する。しかし瑞鳳の後ろにいた龍鳳は、回避行動が間に合わなかった。海を翔ける矢は、つぎつぎと龍鳳の横腹に吸い込まれていく。たちまち艦内から爆炎が噴き出した。

 このような弾丸は、今まで見たことがない。

『敵の新兵器!』

 判明した事実を、素早く島風が艦隊に伝える。重巡たちは信じられない面持ちで振り返る。安全だと思っていた場所で煙を上げる軽母たち。これでは後方に待機させた意味がない。

『ふたりとも、動けるなら今すぐ下がれ!』

 司令部の命令を那智が伝える。しかし、あの兵器の射程が分からない以上、どこまで下がっても安全なところなどありはしない。着水してなお推進力を持つ弾丸。マリアナに続き、フィリピンでも敵は新しい試みをぶつけてくる。

『いいえ、このまま退いては制空権を喪います』

 瑞鳳が反論する。他の艦とは違い、空母艦娘は艦載機搭乗員を含め、多くの人間を預かっている。このまま下がれば自分たちは助かるかもしれないが、乗組員の命は保証できない。

『幸い飛行甲板は無事です。予定通り龍鳳とともに攻撃隊を発艦させます。龍鳳隊の収容もわたしが行います。敵の空母を叩きますので、進撃を続けてください』

 凛とした声で瑞鳳は言った。西では、すでに敵軽母が艦載機発艦の準備を始めている。対空能力の高い駆逐艦が少ない状況では、もし制空権が奪われたら部隊全滅もありえる。那智は瑞鳳の意見を容れた。

『作戦を続行する。敵をこちらに引きつけ、空母を守る! 遊撃部隊、砲撃始め!』

 那智の号令とともに、重巡四隻の主砲が逆襲の火を吹く。呼応するかのように、戦艦群の砲身がこちらに狙いを定める。まだ動いているだけ、回避しやすい。駆逐艦たちも、必死に雷撃を行う。水柱が互いの至近距離に爆ぜる。

 ふたたび敵主砲が仰角を取る。敵の動きを見極めていた羽黒が、後方の空母に警告を飛ばす。しかし、今度は異様なほど高く砲身が上がっていく。まるで空を射抜こうとするかのごとく、ほぼ垂直にまで砲身が立った。

『今度は何をする気……』

 そう呟きかけ、浜風は目を見開く。

 潜水艦が危ない。彼女の本能が囁いたとき、一斉に弾丸が射出される。天高く放り出された弾丸には両脇に羽が生えていた。最高高度に達したとき、羽は折りたたまれる。まるで海面に急降下突入する海鳥のごとく、重力をまとって凄まじい速度で真下に落ち、つぎつぎと海原を貫いていく。

『あれ、爆雷じゃなかろうか?』

 浦風が問う。しかし、もう答えは分かっていた。わざわざ海に弾丸を撃ち込んだということは、奴等の標的は明らかだった。深海棲艦には、前世の記憶はおろか、この世界の常識も通用しない。遊撃部隊にできるのは、少しでも敵の行動を阻害することだけだった。

 海中では、潜水艦たちがさらに潜行を続けていた。深度は三〇〇メートル。艦体が水圧に押され、ぎしぎしと苦悶の声を上げる。伊号潜水艦が潜れる限界の深さだ。

『海面に着弾音あり』

 何か巨大な物体が複数、海面を打撃する音が聞こえた。聴力が麻痺している福井に代わり、しおいが状況掌握につとめる。福井の嫌な予感は、ことごとく的中していた。やはり敵戦艦も、対潜装備を持っていた。それも、音の大きさからして、駆逐艦の放つ爆雷とはケタ違いの威力であることが分かる。

『衝撃に備えて!』

 しおいが言い終わる前に、またしても世界が揺れた。至近距離で爆弾が炸裂したような衝撃が艦体にぶつかる。水に囲まれているとは思えない、本物の地震に等しい揺れが部隊を襲った。最深部まで潜って、この威力。もし福井が潜行の指示を出していなければ、艦体はバラバラに破壊されいたはずだ。艦娘たちは沈黙している。本当にどうしようもないとき、もはや絶望の声も出てこない。前後左右どこにも逃げ場などないことを理解した。

 艦長席から投げ出され、福井は床にもんどりうつ。口の中に鉄の味が広がる。口角から血を垂らし、倒れ伏しながらも彼は、どこまでも冷静に先の展開を読み続ける。

 もし、乗艦しているのが普通の潜水艦なら、とっくに生きることを諦めていただろう。とっくに詰みの状態だ。しかし彼女たちと一緒なら、まだ希望はあった。持てる装備と行動の組み合わせ次第で、この包囲を破ることができる。海戦は将棋と同じた。どんなに不利な状況からでも、逆転の一手を導くことができる。

「全艦に通達。新兵器を使用する」

 席に這い戻りながら、福井は言った。しおいは目を見張る。手の内を明かせば、敵はすぐに対応し、次の戦いでは通用しなくなる。本当なら、ここで使うべきではない潜水艦娘の切り札。正直、ここまで手を剥かれることになるとは思っていなかった。この作戦が失敗すれば、今度こそ完全に海中機動部隊は詰みを迎える。

「海中の音が多少乱れようと、あの馬鹿でかいソナーの前には障害にならないだろう。敵がソナーを打ってくる前に、仕掛ける」

 そう言って、福井は射出する方向を各艦に細かく指示する。敵は半月の陣形をとり、その小さな懐に潜水艦を囲い、爆雷で狩りだそうとしている。このままでは袋の鼠だ。ならば袋を破る方法は、ただひとつ。

「部隊を膨張させる」

 福井は言った。しおいは決意の滲む笑顔で応えた。

 部隊はさらに深く海を潜っていく。水深メーターが三四〇を指し示す。福井はアンカー投下を命じた。レイテ湾の海底に錨を打ち込む。水圧に締めつけられた船体は、特殊鋼といえども金切り声を上げた。潜水艦の限界深度を、とうに超えている。

「どれくらいもつ?」

 福井が尋ねる。しおいは右手の指を五本立てる。身を隠せるのは、もって五分。このわずかな時間のうちに深海棲艦が、こちらの思惑に嵌ってくれることを祈る。

「偽装弾頭、発射!」

 その声と共に、潜水艦娘たちは一斉に魚雷を発射する。普通の魚雷よりも幅が広く、ずんぐりとした形をしている。およそ魚雷には相応しくない大きさだった。何より異常なのが、末端の推進部は酸素も二酸化炭素も噴出していないことだ。ガスではなく、わざわざ速度の遅いスクリューを推力にしている。それはまるで、極小化した潜水艦のようだった。

 五本の新型魚雷を扇状に射出してから三分後、西の海から獰猛なソナーが響き渡る。その音波に反応し、まるで細胞分裂するかのごとく中央部分が切り離され、新たな魚雷となって別の方向に進んでいく。当初五本だった魚雷が十本に増えた。敵の主砲が垂直爆雷を投下する。だが、その衝撃で、さらに魚雷は分裂。十本が二十本に増えた。各魚雷は、分裂を終えると側部の穴から多量の気泡が噴き出して、その中に包みこまれる。激しい対潜攻撃により九本が撃破されたが、残った魚雷は縦横無尽に敵陣へと突撃していく。敵戦艦は、第四遊撃部隊への砲撃を中止してまでも、再度、海中に爆雷を投げ込む。深海に轟く衝撃波。しかし今度は遠い。敵は射出された魚雷に振り回され、てんでバラバラに見当違いの海域をつつきまわしている。

 残り一分。軋む装甲の隙間から、艦内に水がしみ込んでくる。自己を脅かす圧倒的な海の脅威が悪寒となってしおいを襲う。もう限界が近いと思った瞬間、ついに敵は根競べに負けた。

『敵の陣形が乱れた! やつら、後退していくよ!』

 しおいが叫ぶ。彼女の口の動きで福井は、作戦の推移を理解する。

『浮上せよ。深度一〇〇。敵戦艦に対し単横陣をとれ』

 にやりと笑う福井。新兵器は見事に役割を果たした。敵は今頃パニックだろう。ソナーを打ってみたら、湾内が新手の潜水艦だらけになっていたのだから。放出された大量の泡にソナーがぶつかり、まるで海中に巨大な物体があるように見せかける。突然増えた謎の軍団に恐れをなし、陣形を緩めてスリガオ海峡の方向に後退し始めている。見た目は、ただの巨大な魚雷でありながら、潜水艦のスクリュー音とそっくりな推進音を放ち、泡によって自らの体積を大きく偽装する。さらに敵の攻撃に応じて、分裂する機能も持たせている。これが、福井と艦娘たちが技研の尻を蹴り上げて開発した、新型魚雷。その名も能動偽装弾頭だった。進化しているのは深海棲艦だけではない。人間がいかに非合理で愚かな生き物だとしても、百人の愚者のうち、たったひとり正しい道を征ける者がいるのなら、時間はかかろうとも正しい方向に進化することができるのだ。潜水艦娘たちを預かったとき、福井は思った。これからは航空機と並び、潜水艦の時代が来る。時代の潮流が見えない人間たちに冷遇されようとも、自分だけは彼女たちのために正しい道を歩く者であろうと。

 たとえ反逆者の汚名を被ろうとも。

 彼の狙い通り、敵は次々と増えていく潜水艦の反応に驚愕し、思わず防御の態勢に移行した。絶望に覆われたこの戦いに、わずか一点、不意に差しこんだ希望の光。

 それを福井率いる海中機動部隊が見逃すはずがなかった。

『この機を失せば、もう反撃の可能性は潰える。全発射管に通常魚雷を装填。合図とともに斉射』

 福井の言葉で、部下の瞳に再び炎が灯る。海底から解き放たれた海の猛禽たちは、ぴしりと横一列に並び、敵陣に向かって突撃する。敵は囮の弾頭に振り回され、統制も取れないままバラバラに爆雷を播き散らしている。これで、一カ所に固まってもピンポイントで撃破される可能性は低くなる。

『さあ、狩りの時間だ。俺たちの執念、実る時がきたぞ!』

 艦娘たちは次々と了解の意を示す。敵までの距離、三キロ。爆雷の衝撃派が近くなり、間隔も短くなる。敵の攻撃をかいくぐりながら、彼我の距離をわずか三キロまで詰める。互いの喉笛を一撃で裂ける、まさに先手必勝の距離だった。

 もう後には引けない。偽装弾頭は、すでに半分が撃沈されている。発見されるのは時間の問題だ。皆が生きて海峡を抜けるためには、この絶望的戦況に大どんでん返しをもたらすしかない。

『撃て!』

 裂帛の命令が飛ぶ。渾身の力で放たれた四〇の魚雷群は、飢えたピラニアのごとく六匹の大魚に突撃する。艦娘たちの血と涙の結晶が、敵の下腹に食らいつき、噛みちぎるように鋼鉄の装甲をもぎ取った。

『まだまだ! 次弾装填! もう一発!』

 福井が叫ぶ。船底の破れる音、火薬の炸裂音が断末魔の爆雷と混ざり合い、海中で鋼の交響曲を奏でる。びりびりと艦内の空気にまで音は伝染する。ようやく聴力の戻りはじめた福井は、まったく懲りずに戦いの音楽に聞き入った。これこそ、追い求めてきた海中戦の旋律。

 今生きているのは、偶然の産物にすぎない。敵は手当たり次第、海中の物体に向けて爆雷を投げ込んでいる。次の瞬間、たまたま攻撃が当たって死ぬかもしれない。そんな状況下でも彼は恍惚に浸る。

『イク、ゴーヤ。中央突破だ。南フィリピンの運命は、きみたちの双肩にかかっている』

 中央の敵戦艦の轟沈音を確認し、福井は最後の命令をくだす。ふたりは、さらに深く潜行していく。残された部隊の至近距離で、衝撃波が炸裂する。みたび艦内は巨大地震に襲われる。迸りそうになる悲鳴を奥歯ですり潰し、娘たちはなおも撃ちあいを続ける。この海域に、もはや安全地帯などありはしない。もともと海中にいる潜水艦は、撃沈されたら一瞬で無に帰す。たぶん痛みも何も感じない。他の艦娘たちのように感傷に浸る時間もないだろう。藻屑と消える瞬間の前に、存分に暴れ回り、戦闘艦としての本懐を遂げてやる。三人の覚悟は魚雷にのって、戦艦、軽母を貪り続ける。

「もっとだ。もっと暴れろ!」

 爆音とともに福井は叫ぶ。そこらじゅうに死が散乱している海のなかを進みながらも、なぜかしおいは一抹の幸福を感じていた。このヒトのためなら沈んでもいい。これまで何となく感じていた自らの指揮官への想いが、ようやく言葉の形に結晶する。

「さあ、深海棲艦ども。このままだと貴重な戦艦が全滅するぞ。さっさと対潜用の巡洋艦と駆逐を前に出してこい。俺たちが沈む前に!」

 これが、福井の作戦だった。自らを囮にし、敵の陣形を崩して一カ所に引きずり出そうとしていた。

 主力の支援を受けて潜行したイクとゴーヤは、ついに鉄の壁をくぐりぬけ、レイテ側からスリガオ海峡に突入した。

 

 海峡の入口で大乱闘が起こっている。海上にて戦う遊撃部隊主力は、すぐにそのことを理解した。いくつ直撃弾を浴びせても泰然として沈まなかった敵戦艦が、一隻、また一隻と海に引きずりこまれていく。ついに敵単縦陣の中央に穴が開いた。

 潜水艦部隊が、とうとう勝機をこじ開けた。

 ここぞとばかりに遊撃部隊はさらなる接近戦を試みる。空でも混戦が続いていたが、瑞鳳、龍鳳が必死に踏みとどまったため、制空権は艦娘側に傾きつつあった。このまま敵をスリガオ海峡の内部に押し戻す。あの大部隊では、せまい海峡内で迅速な機動はできないだろう。だが、いかに敵を追い込んだところで、現段階では多勢に無勢であることに変わりはない。すでに龍鳳が大破、敵砲弾と艦載機の爆撃を浴びて、妙高と足柄が中破、浜風と磯風が小破していた。おまけに肝心の西村艦隊と連絡が取れない。

 戦艦が引いたということは、その奥に隠れている敵部隊が、こちらに押し寄せてくる可能性もあった。もし敵が西村艦隊の撃滅を諦め、さっさとレイテ湾に主力全部隊を移してきたら、遅かれ早かれ志摩艦隊はすり潰される。

「おっ、はっちゃんから通信だ」

 かわした砲弾の水飛沫を浴びながら、島風が言った。海底から微弱な念波が届く。かなり雑音が混じっていたが、今後の展開を伝える福井提督の言葉だった。そこには二つの内容があった。ひとつは司令部に報告すべき新たな作戦。もうひとつは、島風個人に宛てた私的なメッセージだ。島風は作戦内容だけを那智に伝達する。

『時を待て、ということか……』

 内容を受領し、那智が呟く。この戦いに勝てる見込みがあるとすれば、スリガオ海峡の西村艦隊と敵を挟撃できたときくらいだ。敵の大部隊と海峡閉鎖によって大きく狂った当初の作戦を立て直すために、伊19と伊58が海峡内に向かっている。しかし無事に敵陣を抜けたとしても、西村艦隊が生き残っている保証はない。例え生存していたとしても、その後、両艦隊は連絡手段のないまま、ペアでダンスを踊るかのごとく一糸乱れぬ連携を為さねばならない。どれかひとつでも失敗すれば、第二、第四遊撃部隊は敵物量の前に押し潰される。

 那智は単縦陣を転舵させつつ、駆逐艦には敵の機雷網の破壊を命じる。第一七駆逐隊と島風は、突撃予定線上の機雷に向けて魚雷を集中砲火する。

 このまま距離を開けて撃ちあえば、いずれ持久力に勝る敵に競り負ける。ならば攻勢に転じるしかない。奇襲と主動、両方を発揮して敵陣を内側から切り崩す。それが福井の立てた新たな作戦だった。

「提督、あとのことは任せて」

 スリガオ海峡を見つめながら敬礼する島風。珍しくも彼女の瞳には、まるで永遠の別れを覚悟するかのように、悲愴な真剣さが満ちていた。

 

 〇五二五。

 第二遊撃部隊は、後方からの追撃を食い止めるだけで精いっぱいだった。山城は魚雷に加えて、さらに敵戦艦の砲弾を食らい、前方甲板から黒煙をあげていた。扶桑も艦橋右に被弾している。駆逐艦の被害は言わずもがな、小破未満の艦は時雨だけだった。それでも彼女たちは、なんとか踏みとどまっていた。おそらく第四遊撃部隊が交戦を始めたのだろう、海峡出口を封鎖していた戦艦の壁が崩れだしていた。しかし、なお海峡には巡洋艦と駆逐艦の大群がバリケードを敷いている。このまま進めば敵の射程に入ったとたん、一斉砲火を浴びて全滅してしまう。真綿で首を絞められるように、じりじりと追い詰められながらも、一縷の希望を信じて彼女たちは戦う。

 ふたたび旗艦・扶桑が悲鳴を上げる。砲弾が、今度は第二主砲に直撃していた。竹のように裂けた鉄の砲身が、ぶらりと垂れ下がる。雷撃と砲撃の嵐のなか、仲間たちが無残な姿に壊されていくのを見続け、時雨はぽつりと呟く。

「もう、駄目なのかな」

 思わず諦めの言葉が零れる。運命は変えることができる。何を根拠に信じていたのだろう。そもそも世界に運命なんて無いのだ。艦娘が前世の艦とは別物であるように、敵も全く新たな進化を遂げている。前世と、この世界は断絶している。運命など関係なく、その場その場で強い方が勝つ。これが戦争の摂理なのだ。

 せめて一矢報いてやろう。海中の音に耳を済ませたとき、時雨は奇妙な音を拾う。艦娘専用の通信網に、微かだが念波が引っ掛かっている。それも、レイテ湾の方角から届いていた。

『誰、誰がいるの?』

 まさか援軍だろうか。しかし、あの敵陣を抜けた艦は見当たらない。それでも時雨は必死に呼びかける。彼女の想いが通じたのか、しだいに電波は強度を増していき、やがてハッキリ声が聞きとれるようになった。

『第二遊撃部隊、こちら海中機動部隊、伊19、伊58。誰でもいいから、聞こえたら反応くださいなのね!』

 独特の声が時雨に届く。まぎれもなく、第四遊撃部隊に所属している福井提督の潜水艦、伊19の声だった。

『伊19、こちら時雨! すぐ旗艦に伝えるよ!』

 時雨は叫び、扶桑に通信を送る。それをキッカケに、艦娘たちは次々と海中の仲間の存在に気がついた。

『伊19、こちら扶桑。要件を賜りたい』

 痛みをこらえながら、動揺を見せない口調で扶桑が尋ねる。艦隊の誰もが、これが最後の希望であると察していた。

『新しい作戦を伝えるのね。今、海中部隊主力のしおいとイムヤとハチが、レイテ湾側の敵戦艦、軽空母を叩いてるの。たぶん敵は、潜水艦が跋扈していると勘違いするはずだから、駆逐や巡洋艦をハンターキラーとしてレイテ湾に投入するはず。そのとき、軽巡・駆逐と戦艦の列が入り混じり、敵の陣形が乱れるの。そのタイミングで、第二、第四遊撃部隊は突入する。だから、第二遊撃部隊に関しては、タイミングが来るまでレイテ湾に向かって漸進してほしいのね。とにかくタイミングが大事なの。ふたつの艦隊が力を合わせて、ぎりぎり押し勝てる。いざ突撃となれば、後方の敵はイクたちが相手するから、扶桑さんはスリガオ海峡をこえることだけに専念してほしいのね。あいつらさえ撃ち破れば、きっと勝てるから』

 早口に伊19は作戦の概要を伝える。扶桑は了解の旨を報告した。彼女の経験からしても、この作戦が成功する確率は五分もない。それでも、例え一分でも一厘でも、仲間たちを生きて因縁の海峡を脱出させることができるなら、この身を盾にしても遂行する所存だった。

『いいわね、山城?』

 言葉少なに、僚艦に尋ねる。顕現してから、ずっと一緒だった妹には余計な言葉はいらない。

『はい、姉さま。艦隊旗艦の意のままに』

 躊躇いなく山城は答える。心は決まった。あとは実行するのみ。

 敵の動き次第で、艦隊の運命は決する。もし、敵が陣形を崩す前に突撃してしまえば理想的なT字戦による砲撃を食らい、西村艦隊は全滅する。かといって遅すぎれば、敵が態勢を立て直してしまい、潜水艦は狩り尽くされ、遊撃部隊も各個に撃破されるだろう。

『皮肉なものだわ。こんな運任せの作戦を、よりによってわたしに託すなんて』

 自虐的に扶桑は笑う。苦し紛れの笑いが、仲間に伝染していく。扶桑の発言で、時雨は心のなかで何かが弾けたのを感じた。前世でともに戦った仲間たちへの負い目。自分ひとりが生き残ってしまった悔しさ。今もなお無傷でいることの焦り。そのような余計な感情が逆流して、ふっきれたみたいに明るい希望へと変わる。

『そうだね。扶桑じゃ、ちょっと心配だから、ボクが先頭を行くよ』

 時雨の一言が、たちまち艦隊に波紋を呼ぶ。戦艦たちはもちろん、とくに阿賀野が強く反対した。四水戦の旗艦として、駆逐艦を率いるのが使命だから、もっとも危険な先頭は自分に任せろと主張する。

『駄目だよ、阿賀野さんも被弾していて、機動に不安があるんでしょ。だったら、艦隊決戦のために火力に集中できるようにしなきゃ。ボクは幸いにも、ほぼ無傷だ。勝つためには何だってする。ボクが適任だ』

 時雨は頑として譲らなかった。意見が割れるなか、扶桑は決断する。

『旗艦命令です。時雨、あなたに先陣をお願いします』

『任せて』

 ボクの幸運が、皆を守ってくれますよう。仲間の犠牲のうえに成り立つ幸運艦の称号は、時雨にとって重荷でしかなかった。しかし今は違う。その因果が、今度は自分だけではなく仲間の命も救ってくれることを願う。

 西村艦隊は梯形陣に移る。そのしんがりには、伊19と伊58がついた。

 全員で海峡を抜ける。わずかな希望を抱き死の海峡を渡っていく第二遊撃部隊。しかし、彼女たちの想いは非情な現実には届かない。一隻の艦が、少しずつ艦列から離されていく。もはや微速も上げることができず、その艦は病んだ渡り鳥のように、仲間に迷惑をかけまいと自ら落伍する。

『ごめん、わたしはここまでだ。皆、先に行って』

 大破した朝雲が静かに告げる。機関部にまで浸水し、艦は左舷に一五度ほど傾いている。これ以上進んでも、決戦のとき、艦隊の機動戦闘についていけないのは明らかだった。自らの状態を客観的に判断したうえでの行動だった。彼女の決意を無碍にはできない。扶桑は断腸の思いで離脱を許可する。

『それでいい。わたしはここで後方の敵を食い止める。機動か火力、どっちかに集中すれば、わたしはまだ戦える!』

 遠ざかる仲間を見て、朝雲は勝気に笑った。彼女の選択が、どういう意味を持つのか、艦隊の全員が分かっていた。機関が崩壊した彼女は浮き砲台も同然。敵の二個艦隊を前にしては、時間稼ぎの先に待っているのは轟沈のみ。

『イクさん、ゴーヤさん。朝雲を、よろしくお願いします』

 痛みをこらえるかのように、押し殺した声で山雲が言った。言わずにはいられなかった。まだ薄暗いスリガオの海に、ぽつんと浮かぶ盟友の姿が、どんどん小さくなっていった。

 ふたりの潜水艦は、ぴったりと朝雲の真下に寄り添う。

『ごめん、山雲のことは忘れて。わたしのことは気にしなくていいから。沈むのも覚悟してる。だから、あんたたちは自分の任務に集中してよ』

 朝雲が言った。大破した自分が、ほとんど役に立たないことは分かっている。ふたりの足を引っ張りたくなかった。しかしゴーヤは「何を馬鹿なことを」と一蹴する。

『自己犠牲は間に合ってるでち! 冷静に考えてみたらわかるでしょ。敵の二個艦隊、無数に跋扈する潜水艦に対して、わたしたちはたった三隻。全員が全力を発揮しなくちゃ、足止めすることもかなわない』

『ゴーヤの言う通りなの』

 発射管に魚雷を装填しながらイクが言った。

『正直、朝雲が落伍してくれてありがたいの。誰か一隻でも囮として残ってくれなかったら、この作戦を完遂することはできなかったと思う。わたしたちから提案するのは気が引けたし』

 伊19の飄々とした言葉に、少し顔のこわばりが解ける朝雲。こんな状態でも、ふたりは勝利に貢献できると言ってくれる。ならば、せめて彼女たちの期待に応えたかった。

『何をすればいい?』

 朝雲が尋ねる。絶望を打ち破り、瞳には闘志が揺れていた。

『簡単なお仕事よ。あなたの役割は徹底して囮。最小限の火力と機動だけしてくれたら、あとはわたしたちの指示に従ってくれるだけでいい』

 さらりとイクは言った。

『敵の艦種と方角を指示するから、その都度、砲雷撃で支援。あとは、言われた通り敵からの攻撃をかわして』

 ゴーヤは説明しつつ、イクとともにアクティブソナーを大出力で放つ。もうこちらの居場所はバレている。遠慮する必要はなかった。音波の反射に耳を済ませば、ふたりの脳裏に、まるで本当に肉眼で見てきたかのように海中の様子が浮かび上がる。敵の数は、巡洋艦隊と潜水艦を合わせて、ざっと一五。相手にとって不足はなかった。敵は海峡を単縦陣で封鎖しつつ、西村艦隊を追撃している。

『二八七度。目標、敵第一巡洋艦隊。魚雷装填準備!』

『ソナーに感あり! 二〇度、三五度より魚雷接近! 朝雲、回避は最小限に!』

 イクとゴーヤが同時に叫ぶ。イクが攻撃の指示を出し、ゴーヤが回避の指示を出す。それに加え、朝雲が海上から視認した敵の数および進行経路について海中のふたりに報告する。海の上と中、ふたつの領域から情報を補完し合う。三隻は、わずかに機関と艦首を動かし、紙一重のところで魚雷をかわす。

『ふたりとも、わたしの後ろに!』

 朝雲が言った。砲撃が激しくなり、いつ被弾するか分からない。彼女は必死に弾道を読み、瀕死のエンジンに鞭打って回避行動をとる。

『旗艦から仕留めるの。全射出口開放。ゴーヤは八〇度から二八〇度で扇状に射出! 魚雷発射用意! 撃て!』

 イクとゴーヤが、一六本の魚雷を一斉に放つ。間隔の狭い単縦陣をとっていた敵艦隊を、包み込むようにゴーヤの魚雷が襲いかかる。さらに、敵旗艦に集中砲火されたイクの魚雷は、つぎつぎと戦艦の横腹に吸い込まれていく。まさに不意打ちだった。朝雲一隻だと思い込んでいた敵は、正確かつ大容量の雷撃など予測していなかった。駆逐艦は艦体が折れかけ、黒煙を残しながら海峡に没する。轟沈までいかずとも敵戦艦は完全に動きを止めた。だが、撃ち漏らした敵からは、さらに激しい砲撃が返って来る。かわしきれなかった朝雲が、新たに砲弾を食らい、艦橋の付け根が爆発する。それでも朝雲は、ひるまず援護射撃を続けた。炎に焙られ、煤を飲み込んでなお、彼女の瞳はぶれることなく敵を見据えていた。

『新たな目標、三二度!』

 イクが吼える。雷撃と砲撃、海中と海上で互いの攻撃が入り乱れる。魚雷と魚雷がぶつかりあうほど、戦闘は苛烈を極めた。三人の奮戦により、少しずつ敵を漸減していく。しかし敵は、どこまでも冷静だった。壊滅した第一巡洋艦隊の様子を見て、後続の第二艦隊は、敵に潜水艦がいることを認識し、陣形を単横陣に変えてきた。

『ソナーに感あり。一二〇度、二四〇度から魚雷接近!』

 ゴーヤが状況を伝える。敵艦隊を相手にしている間に、敵潜は、こちらを包囲していた。両側から挟みこむように肉薄してくる魚雷。伊号潜水艦は、攻撃の手を緩めることはできない。

『朝雲、ここが正念場でち!』

 ゴーヤが檄を飛ばす。彼女を守りきれない無力さに唇を噛む。朝雲には返答する余裕すら無かった。

「せめて、あいつらだけでも……!」

 敵潜を、西村艦隊主力に近づけてはならない。焼けつく機関の感覚が激痛となって顕体にフィードバックされる。艦を蹂躙する炎と海水、漏れだすオイルが、おぞましい吐き気となって朝雲を襲う。血反吐を吐きそうになりながら、彼女は歯を食いしばって回避する。騒がしい海中の戦闘音に混じって、敵潜が接近してくるのを感じた。朝雲は爆雷も魚雷も撃たず、流れる汗もそのままに、じっと目を閉じて時を待つ。

 再び、同じ方向から、今度は倍近くの魚雷の推進音が聞こえた。至近距離から放たれた魚雷。それに怯えることなく、朝雲は俯いたまま笑みを浮かべる。

『わたしが、何もできないとでも思ったか!』

 本当に最後の力を振り絞り、狙い澄ました方向と角度で爆雷を投下する。破壊しきれなかった魚雷が一本、艦尾に命中する。折れた艦尾と引き換えに、朝雲は左右から迫る敵潜を一網打尽にした。その間にも、敵は伊号潜水艦の雷撃を浴びて、戦闘可能な艦を半分以下に減らしていた。

『よく凌いだの。あとは、イクたちに任せて!』

 イクが言った。敵は回避運動を取りながら、まだスリガオ海峡を北上しようとしている。朝雲が戦闘不能になった今、できることは正面から敵に突撃することだけだ。

『待って!』

 朦朧とする意識の中、朝雲はとっさに彼女たちを引きとめようとする。それは自殺行為だ。しかし、海中の影はすでに朝雲から遠ざかり始めていた。

『後方は気にしなくていいの。あいつらを絶対、レイテ湾には向かわせない。朝雲は、このまま進んで。主力に追いつく頃には、きっと全部終わってるの。勝っても負けても』

 その言葉を最後に、潜水艦娘との通信は途切れた。

 ふたりを追いかけたかった。しかし、速力二〇ノットも出せない自分が戦場に出向いても無意味だった。朝雲は艦首を北に向ける。喫水線ぎりぎりまで甲板は沈み、大きく右に傾いている。波に弄ばれながら、朝雲は独り主力を追いかける。顔は前に向けつつも、後方の海域には、最後まで耳を傾けていた。海中の戦闘音は、彼女が完全に戦域を離脱するまで止むことはなかった。

 

 

 

 ○五四五。

 東の水平線から昇るまばゆい光が、太平洋の闇を切り裂く。

 レイテ湾側の敵が、ついに動いた。スリガオを封鎖していた戦艦たちは、海中を縦横無尽に荒し回る潜水艦を、とうとう撃滅することができなかった。陣形を単横陣に変えつつ、その間を縫うように、スリガオ海峡内に待機していた巡洋艦と駆逐艦が、五、六隻ずつのハンターキラーチームを計六個もつくり、一斉にレイテ湾に雪崩れこみ始める。すでに敵は、福井部隊による決死の奇襲によって戦艦二隻と軽母三隻、重巡二隻、軽巡四隻を喪っている。全戦力をもって海中の脅威を狩り尽くそうとしていた。

 これこそが、待ち望んでいた時だ。第四遊撃部隊の旗艦・那智は、この瞬間に決勝の機を見出した。

『北東九〇度に折り返し、単縦陣に移行。瑞鳳、龍鳳は、できる限り航空戦力を叩け。皆、あとは何も考えるな! 敵戦列ど真ん中、乾坤一擲の正面突破だ!』

 司令部の意志を那智が全艦に伝える。不意に現れた決戦のとき。ここまで敵の激しい砲撃に晒され、耐えに耐えてきた艦娘たちは闘志を爆発させるかのように叫ぶ。

「なんとか、ここまで来れたよ、提督」

 被弾した第二主砲に炎を棚引かせながら、不敵な笑みを浮かべて島風が呟く。

 これこそが、福井靖の考案した一世一代の逆転手だった。敵は今、スリガオとレイテの間で団子状態になっている。戦力を集中したことで、その火力は、もはや艦娘の遊撃部隊とは比較にならない。だが、狭い海峡に単縦陣を敷いているのも同然で、機動力は皆無に等しい。この状況に福井は勝機を嗅ぎ取っていた。

『那智姉さん、わたしが先導します!』

 重巡のなかで、唯一無傷だった羽黒が提案する。那智は一瞬、返答を躊躇った。同じ妙高型の姉妹とはいえ、那智にとっては幼い妹だ。もし旗艦でなければ、自分が切り込み隊長に名乗り出たかった。

『敵艦列に突っ込むまでが、一番危険です。もし集中砲火を浴びて先頭が沈めば、陣は蟻を散らすようにバラバラになります。耐えられる可能性が高いのは、わたしです。わたしにやらせてください!』

 普段の気弱な言動からは、想像がつかないほど勇ましく、決意の滲む羽黒の声。自らの命を顧みず、ただ部隊の勝利だけを見据えている。彼女は、すでに立派な軍艦であり、その精神は一人前の武人だった。

『いいだろう。羽黒を筆頭に、単縦陣を組む。足柄、妙高はわたしに続け。駆逐艦にしんがりを任せる。できるだけ間隔を詰めろ! 最大船速だ!』

 那智が再度、指示を飛ばす。

 敵から一五キロの地点で、第四遊撃部隊は完全なる単縦陣に移行する。自ら丁字不利になって突っ込んでくる艦娘たちは、かつて戦術を持たなかった頃の深海棲艦を彷彿とさせた。千載一遇とばかりに、敵は一斉砲撃を試みる。砲弾が雨あられと降り注ぎ、抉り飛ばされる海面は、まるでスコールのごとく艦隊に土砂降る。敵の攻撃は、セオリー通り、丁字の先頭にいる羽黒に集中した。しかし羽黒は、一切速度を緩めない。回避行動も取らず、ひたすら前に突撃する。敵まで一〇キロ。敵弾が砲塔を叩き折り、甲板を吹き飛ばしても、左舷に大穴を開けても、羽黒は止まらない。敵の焦りを代弁するかのように、これ以上ないくらい激しくなる砲撃。痛みに顔を歪ませながらも、決して敵から目を逸らさず、正面の主砲のみで敵艦列に正確な砲撃を叩きこむ。火炎をまといながら疾走する羽黒の姿は、まさに阿修羅。戦闘の邪魔になる感情を全て捨て去った、機械仕掛けの阿修羅だった。

 スリガオ海峡における指揮をとっている戦姫級の深海棲艦は、異常事態を自覚していた。なぜ艦娘どもは止まらないのか。イレギュラーにまみれた戦場だが、はっきり自己を揺るがすような恐怖を感じたのは、これが初めてだった。

 両者が衝突するまで、あと五キロ。

 戦姫は、勝利を確信する。先頭の重巡艦娘は、炎と黒煙にまみれて原型も定かではない。あとは理想的な丁字有利のまま、一隻ずつ撃ち崩してやればいい。潜水艦は厄介だが、この戦力差ならば撃滅は時間の問題だ。なにも焦ることはない。

 妥協や慢心の入る隙のない深海棲艦の思考ロジックが勝利を確信したならば、もう崩れることはないはずだった。ところが、彼女の確信は、わずか数秒後に全面修正を余議なくされる。なぜなら、彼女はレイテ湾の方面しか見ていなかったから。

 

「ボクたちに勝利を!」

 時雨が吼え叫ぶ。同じ単縦陣にて、第二遊撃部隊がまっすぐにスリガオ海峡の中央を駆け抜ける。奇跡の駆逐艦を筆頭に、鋼の塊たちが全身全霊の突撃をかけた。敵の戦艦列とハンターキラー群が交差する、わずかな隙を彼女たちは待っていた。深海棲艦は身動きできず、ひたすら火力にて艦娘を迎え討つ。しかし、いくつ砲弾を叩きこんでも羽黒と時雨は止まらない。艦が粉砕され、剥き出しの魂だけになろうと進み続けようとする鬼神のごとき意志が彼女たちを突き動かす。

 丁字不利のまま、さながら一本の槍のように艦娘たちは進み続ける。戦術の定石を無視した彼女たちの動きは、今度は深海棲艦に混乱をもたらした。指揮官の戦姫は、その合理的な思考により、すでに彼女たちの狙いを理解していた。しかし、分かったところで、どうすることもできない。自軍の大艦隊は海峡内で横に伸び切り、無理に回頭すれば、たちまち味方同士で激突する。

 〇六〇五。時雨と羽黒が、敵艦列の横腹に突っ込んだ。 

「全艦、戦闘態勢!」

「艦隊の運命、この一戦にあり!」

 那智と扶桑が同時に叫ぶ。

 ついに第二、第四遊撃部隊は、ごったがえす敵艦列に突入する。まるで十字を描くかのように、東と西から敵艦列を貫く。この瞬間、丁字不利が逆転する。南北に分断する敵に対し、最高に近い丁字有利の態勢を占める。さらに艦隊は直進を止めず、ついに、ふたつの遊撃部隊はスリガオとレイテの間で邂逅する。

「撃て!」

 ひとつになった遊撃部隊に、最後の命令が轟く。

 海面を薙ぎ、潮流を震わせるほどの一斉射撃。弾丸という弾丸が空を引き裂き、魚雷という魚雷が海中を掻き乱す。零距離からの、鋼鉄の飽和攻撃。深海棲艦は、艦種の区別なく、手前にいた艦から順番に身体を折られ、爆炎をまといながら海に還っていく。死と破壊の渦中にあろうと、敵も味方も一切攻撃の手を緩めない。空中で砲弾がぶつかり合い、焼けた鉄片が海に降り注ぐ。スリガオ海峡の終わりは、煙と炎に覆い尽くされ、やがて全てが見えなくなった。

 

 ○六三〇。

 雲を割り、燦然と陽光が海を照らす。きらめく水面の上を、ゆっくりと航行する朝雲。彼女は、スリガオ海峡の出口にさしかかる。そして彼女は奇跡を見た。晴れゆく煙のなか、ちりじりに撤退していく敵の姿を。そして、真っ白な曙光に包まれながら、凛として艦列を組むふたつの遊撃部隊を。とめどなく溢れる涙の膜が瞳を覆い、虹がかかったように艦隊を七色に彩る。

『朝雲。わたしたち、勝ったわよ』

 ひどいノイズにまみれていたが、それはまぎれもなく盟友の声だった。別離を覚悟した姉妹艦が、少し震えた声音で朝雲に語りかける。いち早く気づいた山雲に続き、艦隊は次々と朝雲の姿を認める。皆、朝雲を待っていたのだ。轟沈寸前ながら生きて戻った彼女を、艦隊の全員が讃える。西村艦隊の駆逐艦たちが、満身創痍の朝雲を引率すべく寄り添う。

『ほら、前を見て。ボクたちは、ついにあの海をこえるんだ』

 感極まった声で時雨は言った。隣では、山雲、満潮が微笑んでいる。ぼろぼろになった肉体を起こし、ふらつきながら朝雲は艦首に立つ。炎に焼かれ、煤を浴びて真っ黒になった顔で、しっかり進路を見つめる。目の前には、海の上に太陽がまっすぐ光の道を敷いている。

 ○六四五。

 栄光の朝日に身を染めて、艦隊はスリガオ海峡を抜けた。

 絶望的な戦力差を覆し、勝利を掴み取った艦娘たち。大破し、機関に傷を負った艦も多いが、海上艦は一隻たりとも轟沈を出さなかった。この奇跡に、軍人たちも涙せずにはいられなかった。

 しかし、戦闘が終了しても、ついに戻ってこない艦がいた。

 福井靖少佐率いる、海中機動部隊。この戦いに勝利できたのは、ひとえに彼と潜水艦娘たちの功績だった。犠牲なくして勝利は得られないという現実を見せつけるかのように、ついに彼女たちは一隻たりとも浮上してくることはなかった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。