【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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 マリアナから脱出した第三艦隊は、トラック空襲を耐えしのんだ第二艦隊と合流する。孤立した中部太平洋戦力は、本土に帰還することを望むも、次に進むべき道を決めあぐねていた。
 艦娘の意志を汲むことなく作戦を決定しようとする司令部に対し、ふたりの提督は密やかな抵抗を始める。その行動は、艦娘の心に、新たな何かを芽生えさせていた。


第十七話 インディペンデンス・イヴ

 一九四四年十月。

 トラック泊地にて第二艦隊と合流した第三艦隊は、戦闘を継続できる艦娘だけを集めてパラオ泊地に移動した。トラックに残った艦娘たちは、名目上、泊地防衛の戦力とされた。しかし実際のところは足手まといになるから置いてけぼりにされたのだ。再びトラックが空襲を受ける可能性も十分考慮した上での決断。姥捨て山ならぬ艦捨て島だった。熊は涙を飲んで大潮をトラックに残した。戦艦や空母が顕現するずっと前から、第八駆逐隊と一緒に戦ってきた。いつしか上司と部下の立場を乗り越え、戦友としての絆を結んでいた。

 パラオも何度か空襲を受けていたが、被害はトラックほどではない。焼け残った港湾施設を再建し、なんとか艦娘たちが身を休める環境を整えた。トラックから運び入れた燃料と合わせて、出撃できるのは、あと一回。

 どこに攻めるのか。どのように攻めるのか。議論は夜通し続いていた。必ず本土に帰りつくという決意は固かったが、このままパラオから北上しても南西諸島に辿りつく前に燃料が逼迫する。深海棲艦が分厚い本土封鎖を敷いているなら、燃料が底を尽きかけた状態で戦うのは、あまりに危険だった。中部太平洋から、一気に本土を目指すことは難しい。だから中継ぎとしてマリアナ諸島があった。しかし、マリアナは敵の手に落ちた。軍は今、切実に中継地を欲している。そうなると考えられる場所は限られてくる。

 フィリピンだ。

 あの島はアメリカの植民地だった。港湾や石油施設は期待できる。しかし問題も大きかった。もともと太平洋の覇権をめぐり、帝国と敵対する気満々だったアメリカである。アメリカフィリピン軍が、すんなり協力してくれるとは思えない。そして当然、深海棲艦が諸島海域に巣くっているだろう。敵の規模か分からないぶん、余計に不安を煽る。

 一か八か北上に賭けるか、それとも甚大な被害を覚悟のうえフィリピンを取りにいくか。どちらも大きなリスクを背負った二者択一。司令部は大いに頭を悩ませていた。なにせ、ここには議論に最終の決を与える存在がいない。すなわち連合艦隊司令長官が不在なのだ。南部太平洋では山口多聞中将が臨時で第一艦隊長官を引き受けており、連合艦隊長官が欠けた場合、第一艦隊長官が指揮権を持つことになるが、パラオの面々がそんなことを知る由もなく、さらに山口の命令が中部太平洋に届くわけでもない。第二艦隊の司令長官である栗田健男中将と、第三艦隊の長官である小沢治三郎中将は、階級上同列であり、この時点で指揮系統が真っ二つに分断されている。

 話し合いによる合意は、迅速な意思決定を妨げる。

 だが、指揮系統がどうとか以前に、司令部の会議には何の意味もないと熊は思っていた。なぜなら、艦娘が一人たりとも意志決定の場にいないからだ。これは上層部特有の、思考の弊害だった。艦娘と身近に接してこなかった高級将校は、艦娘を単なる軍艦としてしか見ていない。彼らにとって艦娘とは戦争の道具だった。この三年半、艦娘は従順に戦ってきた。彼女たちが反抗しないと分かると、軍人は艦娘に対する畏怖と尊敬の念を徐々に忘れ去っていった。その結果、中部太平洋の運命を決める一大決心を前にして、艦娘は意志決定の場から排除され、港近くの木造宿舎に押し込められている。さらに彼女たちと長く接してきたという理由で、熊と福井もまた、艦娘担当として彼女たちの世話を丸投げされていた。

 このままではいけない。実際に戦うのは艦娘だ。彼女たちの意見を欠いたまま艦隊は進路を決めるべきではない。熊は確固たる信念のもと、宿舎の一角に艦娘を集めた。戦艦、空母、軽母、重巡、軽巡はもちろん、各駆逐隊の代表も参加してくれた。灯火制限のため部屋に光源はなく、月と星の輝きを頼りに、それぞれの席につく。薄暗い部屋の片隅で、福井が傍観者として成り行きを見守っていた。

「きみたちの意見を聞かせてほしい」

 かいつまんで現状を説明する。いずれにせよ過酷な航路だ。長門や武蔵といった戦艦は厳しい瞳で考えこみ、対照的に幼い駆逐艦たちは思い思いに議論を始める。月が東の空に傾きかけたとき、彼女たちの意見は一致を見た。

「フィリピンに渡るべきだ」

 皆を代表して、武蔵が言った。

「もしあの海域を制圧することができれば、防御が容易になるのみならず、艦娘も人間もより安全な港に停泊できる。いざとなれば、複数ある海峡からの脱出も可能だ。今の我々の戦力ならば勝算は十分にある。しかし、本土に向かい北上してしまえば燃料がなくなり、どれだけ艦がいても戦うことができなくなる。戦わずして沈むのはゴメンだ」

 その言葉は正鵠を射ていた。部屋の隅にいた福井が、誰にも気づかれないほど微かに笑った。

「フィリピン。その名前を聞くと、少し気持ちが騒ぎます」

 第二艦隊の主力として奮闘してきた戦艦・扶桑が言った。

「おそらく前世の記憶が関係しているのでしょう。わたしは満足に戦えないまま、悲劇的な最期を遂げたはず。これまでは、辛く苦しいだけの悪夢だと思っていました。でも不思議ですね。今はあまり嫌じゃないんです。わたしには、こんなにたくさんの仲間たちがいる。ここは、かつてわたしが戦った海ではない。前世の悲劇を繰り返さない自信が湧いてくるのです」

 彼女の言葉に、姉妹艦である山城が深く頷く。そんな二人の様子を、第二駆逐隊の時雨が見つめていた。その瞳は、喜びと悲しみが入り混じった、複雑な感情を湛えていた。

「マリアナ沖から生きて脱出できて、わたしも思いました」

 済んだ声で大鳳が言った。

「乗り越える力があるのだと。運命を乗り越え、戦える力がわたしたちには備わっている。だから負けはしません。ヒトと艦娘が力を合わせれば、きっと勝利を掴めます」

 次々と艦娘たちが賛同する。これで彼女たちの意志は決まった。あとは提督である自分が、しっかりと上層部とのパイプ役を果たすことだ。彼女たちの想いをないがしろにしてはならない。熊は皆の前で誓った。

 秘密会議は、これで解散となった。しかし武蔵だけは、全員が退出した後も部屋に残っていた。

「ありがとう提督。わたしたちの想いを聞いてくれて」

 月あかりの下、熊の隣に肩を並べながら武蔵は言った。彼女の身長は二メートルを超えている。自分よりも背の高い人間を見るのは、熊にとって新鮮だった。

「いいんだ。むしろ、こんなことしかできなくて、きみたちに申し訳ないとさえ思う」

 熊は言った。もしかしたら、深海棲艦と戦うよりも過酷な運命を艦娘に押しつけてしまうかもしれない。かつてニューギニアの悲劇と呼ばれた事件を思い出す。西ニューギニアはオランダの支配域だった。今回、攻め入るのはアメリカの領土だ。そして司令部は、大日本帝国こそ太平洋の覇者であるべきと考えている。

 再び虐殺が起きるかもしれない。それも今度は艦娘の手で。

「アメリカ軍と戦うことになるやもしれん。提督は、そう考えているのだろう?」

 熊の表情を鋭く読みとり、武蔵は問うた。熊は、一言「そうだ」と答える。

「きみはどう思う? フィリピンをめぐる戦いで万が一、アメリカと敵対することになったら」

「嫌だな」

 迷いなく武蔵は断言する。

「わたしだけじゃない。艦娘なら誰だって人間を殺したくはないだろう。確かに、わたしたちは日本の名を持ち日本語を喋る、日本の海軍に所属する艦だ。しかし、わたしの存在意義はあくまで、深海棲艦と戦うことにある」

 眼鏡の奥で、少し寂しそうに目を細める。

「むろん、人間がそう単純な生き物でないことは承知している。艦娘という強力な力を手に入れたなら、深海棲艦の駆逐などという世界規模の慈善事業よりも、自国の利益確保のために使いたいのは当然だ。そういう政治的駆け引きが裏でなされているのは、なんとなく察しがつく。だが、この場を借りてハッキリ言わせてもらうなら、そんな人間の都合など、どうでもよいのだ。わたしたちがこの世界に顕現したのは、深海棲艦という悲劇を人類の歴史から根絶やしにするためだ。艦娘の崇高な使命をないがしろにし、救うべき人間を殺せというのなら、それは断じて許容できることではない」

 寂しさの中に、激しさを包んだ声で武蔵は言った。返す言葉もなかった。きっと彼女は、心のどこかで人間に裏切られたと感じていたはずだ。深海棲艦と戦うという名目のもと、帝国は上手に艦娘を利用して、わがもの顔で太平洋地域を実行支配していった。いつの間にか戦いの目的がすり替わっていた。

 国家という人間のエゴの塊に属する限り、艦娘の魂に自由は訪れない。

「戦うのはきみだ。追い詰められたときは、他の誰でもない、きみの心に従え。そのときは僕が全力で支援する」

 熊は言った。武蔵は困ったように笑う。

「提督は軍人だろう。従うべきは艦娘ではないはずだ」

「軍人である前に、僕は提督だ。長いこときみたちと付き合ってきて、ようやくその境地に辿りついた。思えば、初めて艦娘と出会ったとき、初期艦の電に見初められた瞬間から、僕の心は提督になっていたのだろう」

 あべこべじゃないか、と武蔵は苦笑する。だが熊を見つめる双眸には、確かな信頼が宿っていた。

「いざというときは、よろしく頼むよ。わたしの提督」

 そう言って、武蔵は自分の居室へと帰っていく。本当に、艦娘には提督しかいないのだなと実感した。遠いニューギニアの地にいるだろう、姉のことを思い出す。大和は出会えただろうか。自分の全てを曝け出し、魂を預けることのできる『提督』に。

 

 ただ波の音だけが押しては引いてを繰り返す港に、熊はひとり佇んでいた。頭が冴えて眠れそうになかった。気がつけば、いつも艦娘と戦いのことばかり考えている。目前に控える巨大な戦いが、艦娘の意にそぐわなければ、人間と艦娘の関係は取り返しのつかないところまで破壊されてしまうという予感があった。

「会議進行、お疲れさん」

 不意に暗がりから声がかかる。隣には見慣れた同期の姿があった。

「眠れないんだろ? 昔から、おまえは神経質なところがあったからな。ちょっと話につきあってくれ」

 福井は、そう言って熊を手招きする。彼が向かった先には、伊401の艦体が係留されていた。

「聞かれると、少し不味い話がある。ここなら絶対に安全だ」

 福井は一足先に401にのぼり、ハッチを開いて艦内に入った。熊にとって潜水艦娘の艦体に乗艦するのは初めてだった。井戸の底を思わせる暗闇のなかに、梯子をつかって降りていく。一分ほどかかって、ようやく足が廊下についた。非常燈のぼんやりとした光を頼りに、福井の背中を追いかける。百五十名あまりの乗員を収容できる艦内は、ずいぶんと広く、静かに感じた。やがて福井は艦内の一室に熊を投げ入れる。壁には備えつけの本棚が並び、おそらく技術関係の専門書がギッシリ詰まっている。普段は資料庫として利用しているのだろう。簡素な机とパイプ椅子だけが置かれた、無機質な部屋だった。

「さっきの話を聞いて、思った。おまえは帝国に仕える軍人としての自分より、艦娘の提督である自分を選んだのだと」

 椅子を勧めながら福井は言った。

「深海棲艦との戦い、その終焉を望むのならば必ず選ばなければならない。国家か、艦娘か。白峰のように、最初から艦娘のことを戦いの手段として割りきっている者もいる。渋谷のように、その生真面目さゆえに板ばさみにされ、苦悩し続ける者もいる。はたまた俺のように、最初から艦娘にしか興味がなかった異端者もいる。そして、おまえは結論を出した。艦娘の味方になると」

 福井は、本棚から封筒を取り出す。それを熊に差しだした。

「中部太平洋で、この情報を知るに値する人間はおまえだけだ。おまえならば全てを知ったうえで正しい道を歩けると信じている」

 福井は言った。手渡された封筒は重たかった。この中身はおそらく、今後の戦争を左右するほどの極秘事項だろう。そうでなければ貴重な海中機動部隊が、危険を冒してまで本土を出るはずがない。

 どれだけ時間が経ったか分からない。沈黙のなか、熊は資料の隅々まで目を通した。情報は頭の中に入ってくる。しかし、まだ心が追いついていなかった。まだ全ての事実を飲み込むことができない。

「……真実なのか?」

 短く福井に問う。

「そうだ」

 福井は答えた。

 その文書には幾田サヲトメが集めた情報が余すところなく記載されていた。白峰の遭難から始まり、彼の裏切り、それによって流出した人類の英知。飛躍的に進化する深海棲艦。ヲ級とレ級、ふたりの怪物。人類を裏切った男によって導かれる、深海の世界戦略。現在は吹雪を介して、敵の出方を窺っていることも熊は知った。読み進めるうち、これまで解消されなかった全ての疑問が、爽快感を伴い溶けていく。

「バラバラで力任せに暴れるだけだった深海棲艦が、どうして秩序と戦術という概念を手に入れたのか不思議だった。なるほど、白峰が教えたのだな。マリアナでの早期警戒艦戦術も、彼の入れ知恵か。合点がいった」

 資料を置き、熊は深く溜息をつく。

「渋谷も、白峰と接触していたらしい。トラックで幾田や渋谷と話す機会はあったが、そのときは二人とも何も教えてはくれなかった。たぶん、まだその時ではないと判断したんだろう」

 福井は言った。裏を返せば、幾田が情報を開示したということは、ついに動くときがきたということだ。深海棲艦への、真の反攻作戦を始めるときが。

「確かに、この状況ならば本国の政治的意図に艦娘が振り回されることはない。幾田は僕たちを向かわせる気だ。深海棲艦が生まれた場所、奴等の核となる場所に」

「吹雪から得た情報が真実ならば、艦娘も深海棲艦も、元をたどれば同じ存在だということになる。その核を破壊すれば深海棲艦はこの世界から消える。そして、―――」

 艦娘たちもまた、海へと還っていく。

 勝っても負けても人類の歴史は大きく変わる。今、自分たちは歴史の分岐点にいるのだと福井は思った。

「何という因果だろうか。人類の絶望である深海棲艦も、希望である艦娘も、人間の手でこの世界に招いてしまった可能性が高いなど」

 熊は呟く。まだ幾田が本国にも伝えていない情報だった。

「吹雪によると、その島は燃えていたそうだ。なにぶん彼女も深海棲艦の抽象的な記憶を覗いたにすぎないから、その情報がどこまで正しいのかは分からない。ただ、島を焼き尽くす炎は自然のものでないことは確かだそうだ。火は本来、自然の摂理のなかで循環していく存在だ。しかし彼女が見たものは、自然の営みから外れた、禍々しいエネルギーの塊だったらしい。そんなものを取り出せるのは、取り出そうとするのは、人間くらいだ」

 福井は言った。

 ある国家が、パンドラの箱を開けてしまった。絶望は深海棲艦となって世界の海に満ち溢れ、最後に残った希望が艦娘となって人類に味方している。これが、今戦っている戦争の物語だった。

 フィリピンに向かう理由が、ひとつ増えたな。福井は言った。

「そうだ。真偽を確かめなければならない。そのためには、なんとしてもフィリピンの地を踏む必要がある。もし引金を引いた者が生き永らえていて、その始まりの場所を知っていれば、先の見えない戦争に幕を引くことができるかもしれない」

 熊は言った。この狭い潜水艦の一室から、まったく新しい戦争が始まろうとしている。

「分かっているとは思うが、このことは他言無用だ。真相がハッキリするまで艦娘にも話すべきじゃない」

「もちろんだ。深海棲艦を倒すことが艦娘を喪うことと同義だと司令部が気づけば、艦娘を動かさなくなるだろう。そうなれば彼女たちの本懐を遂げさせてやることができなくなる」

 熊の言葉を聞き、福井は満足そうに微笑む。

「俺からも上に意見しておく。なにせ本土を出発した艦隊のうち、トラックまで辿りつけた軍人は俺だけだ。いかに本土周辺の敵が手強いか、みっちり聞かせてやる」

 そうすれば、次に進むべき道はおのずと決まる。

「俺たちは知ってしまった。知った上で、何を敵に回しても自分の意志を貫こうとしている。もう後戻りはできない。ここからは大日本帝国ではなく、俺たちの、いや、艦娘の戦争だ。ゆえに、俺はひとつ心に決めたことがある。それをおまえに伝えておきたい」

 これから始まろうとしている、人類史上最大の海戦。その戦いにおいて、自分が為そうとすることを包み隠さず熊に打ち明ける。

「いいのか。きみは自分自身を殺すことになるぞ」

 全てを聞いた熊は、動揺を隠せない声で尋ねる。だが、福井の決意は変わらなかった。

「潜水艦たちは、この先の戦いにおいて絶対に欠いてはならない戦力だ。彼女らを守るためなら俺の命のひとつやふたつ、惜しくはない」

 一切の迷いなく福井は言った。

 

 第二艦隊と第三艦隊による協議は、ついに収束へと至った。

 攻略目標はフィリピン。熊と福井が強く主張した結果でもあった。フィリピンはニューギニアに次ぐ未知の大規模な陸地であり、強力な敵が待ち構えているのは目に見えていた。そこで、膨れ上がった艦隊戦力の再編成が行われた。艦娘は、西からフィリピン内海に攻め入る第二艦隊、東から攻める第三艦隊に二分され、それぞれの艦隊に二個ずつの遊撃部隊を創設した。

 

 

フィリピン西側から突入

第二艦隊 司令長官 栗田健男中将

 第一遊撃部隊

  第一戦隊 司令長官直卒

         戦艦「武蔵」「長門」

  第四戦隊 鈴木義尾少将

         重巡「高雄」「愛宕」「鳥海」

  第一三戦隊 木村進少将

         軽巡「矢矧」

   第六駆逐隊 熊勇次郎少佐

           駆逐「響」「暁」「雷」「電」

   第一〇駆逐隊 白石長義大佐

           駆逐「野分」「舞風」「秋雲」

   第三一駆逐隊 福岡徳次郎大佐

           駆逐「沖波」「岸波」「朝霜」

 

 第二遊撃部隊

  第二戦隊 西村祥治中将

         戦艦「扶桑」「山城」

         重巡「最上」

  第四水雷戦隊 早川幹夫少将

          軽巡「阿賀野」

   第二駆逐隊 大島一太郎大佐

           駆逐「陽炎」「白露」「時雨」「夕立」

   第八駆逐隊 西野繁少佐

           駆逐「朝潮」「満潮」「山雲」「朝雲」

 

 

フィリピン東側から突入

第三艦隊 司令長官 小沢治三郎中将

 第三遊撃部隊(機動艦隊)

  第一航空戦隊 司令長官直卒

           空母「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」

  第三航空戦隊 城島高次少将

           軽母「飛鷹」「隼鷹」

  第六戦隊   松本毅少将

           重巡「鈴谷」「熊野」

  第一水雷戦隊 木村昌福少将

           軽巡「阿武隈」

   第二一駆逐隊 脇田喜一郎大佐

           駆逐「若葉」「初春」「初霜」

   第六一駆逐隊 天野重隆大佐

           駆逐「秋月」「照月」「有明」「夕月」

 

 第四遊撃部隊

  第二一戦隊 志摩清英中将

          重巡「那智」「足柄」

  第五戦隊  長井満少将

          重巡「妙高」「羽黒」

  第四航空戦隊 大林末雄少将

          軽母「瑞鳳」「龍鳳」

   第一七駆逐隊 谷井保大佐

           駆逐「磯風」「浜風」「浦風」

  海中機動部隊 福井靖少佐

           潜水艦「伊401」「伊168」「伊58」「伊19」「伊8」

           (付属)駆逐「島風」

 

 

 

 艦隊の目標は、フィリピン最北の島であり、マニラなど多くの市街地を抱えるルソン島だった。この島を押さえることができれば、ルソン海峡とバシー海峡を渡り、帝国領台湾に辿りつける。あとは南西諸島、薩摩諸島を伝っていけば佐世保まで帰投することも夢ではない。

 作戦の概要としては、まず戦場をフィリピンの南北に分ける。フィリピン米軍が駐留しているだろうルソン島を含む北側のほうが、敵も分厚いと考えられる。よって北側に攻め入る戦力を主力として充実させた。それが武蔵を旗艦とする栗田中将の第一遊撃部隊と、大鳳を旗艦とする小沢中将の第三遊撃部隊である。第一遊撃部隊が、西側のミンドロ島とパナイ島の間を通り、シブヤン海に突入する。それと同時に、第三遊撃部隊が東側のサマール島とルソン島の間のサン・ベルナルディノ海峡を通りシブヤン海に突入し、内海の敵を挟撃する。これと同等の作戦が、フィリピン南でも行われる。扶桑を旗艦とする西村中将の第二遊撃部隊が西側からミンダナオ海を抜け、スリガオ海峡に突入。同時に、那智を旗艦とする志摩中将の第四遊撃部隊が、東側のレイテ沖からスリガオに突入する手はずになっている。北と南に戦場を分け、それぞれ東と西から挟み撃ちにする。四方向から求心的に攻め入る外戦作戦により、フィリピンに巣喰う敵を撃滅する計画だった。

 誰もが予感していた。いまだかつてない規模に膨れ上がった艦娘たち。これから起こる戦いは、帝国史上のみならず世界史上最大の海戦になるだろうことを。そして、パラオに集った艦娘のほとんどが、フィリピンでの戦いに複雑な想いを抱いていた。勝利の祈りを捧げる娘もいれば、ただひたすら冷静に戦術のシミュレートを行う者もいる。前世の記憶から際限なく膨れ上がる不安を押さえるのに必死な者もいた。

「必ず生きて前線に帰ろう!」

 第一七駆の饗導艦である磯風が言った。

「この戦いが終わったら、トラックで休んでいる谷風を迎えに行こう。そして必ず皆で帰るんだ。塚本少佐のところに」

 浜風、浦風が力強く頷く。全員が、ぼんやりとだが前世での戦いを覚えていた。フィリピンをめぐる一連の戦い、その絶望的な終幕を。しかし今は恐れなどない。一七駆の心は一つだった。遠いニューギニアの地で戦っているだろう第一六駆の仲間たち、そして敬愛する提督の元に、再び戻れる日が来ると信じていた。

 同じく提督の元を離れ、中部太平洋に取り残されていた第二駆逐隊の面々も、決戦への意欲を燃やしていた。

「大丈夫、いつも通りのわたしたちで行こう。この戦いに勝って輸送網を取り戻せれば、トラックだって復活する。そうしたら、明石さんが村雨を治してくれるわ」

 陽炎が言った。もともと陽炎以外のメンバーは幾田中佐の指揮下にあった。最初こそ隊の主導権を巡って白露と衝突していたが、共に戦いを乗り越えるうちに艦種や駆逐隊の垣根を超えた友情で結ばれていた。

「みんな、ぜったいボクより先に沈まないでね」

 時雨が呟く。隠しきれない不安が瞳の奥に揺れている。トラックに閉じ込められたあたりから、何となく心がざわついていた。空襲を受け、第三艦隊がマリアナから逃げてきたとき、ざわつきは予感に変わった。そして編成表を見た時、彼女は運命という名の呪縛を確信した。第二遊撃部隊のメンバー。そしてスリガオ海峡。誰かが示し合せたとしか思えなかった。目に見えない何かに操られるがまま、あの海を渡る。記憶の底に封じていた悲劇の海を。

「今回の作戦、ボクたちの部隊が一番危険な戦いに挑まなくちゃいけない。だから、お願いだよ。もうボク独り、この海に残されるなんて嫌だ」

「何馬鹿なこと言ってんの!」

 白露が微笑みながら時雨の肩に腕を回す。

「ここは前の世界じゃない。その証拠に、わたしがいる」

「あたしも! あたしもいるっぽい!」

 元気よく夕立が言った。

「わたしもいる。あなた以外の全員が、前世ではフィリピンの戦いに参加していない。でも、今回はあなたの隣にいる。あなたと一緒に戦う。この時点で運命なんてひっくり返っているのよ。だから安心なさい」

 輪の中に入りながら、陽炎が言った。時雨の顔に、ようやく本心から笑顔が浮かんだ。

「ありがとう。そうだよね、皆がいてくれるから、もうボクが知っているスリガオじゃなくなるんだ」

 時雨は言った。大鳳の言葉を思い出す。運命を乗り越える力があるのだ。自分と仲間を信じて戦えば、きっと誰も沈まない。いや、沈ませてはならない。誰ひとりとして失うことなくフィリピンの地を踏むのだと、時雨は固く心に誓った。

 

 十月二十二日、夜。

 出港を目前にして、熊は秘書艦である電の艦上に、直卒の部下である第六駆逐隊のメンバーを集めた。スリガオ海峡に突入予定の第八駆逐隊には、すでに出撃の挨拶を済ませていた。大潮と荒潮が機関損傷により第八駆を離れたが、駆逐隊の再編成により朝雲、山雲のふたりが新たに配属された。何の因果か、ふたりとも朝潮型の駆逐艦だった。同型艦ということもあり、ふたりはすぐ朝潮、満潮とも打ち解けた。

「今回の我々の任務は、矢矧率いる戦隊のもと、第一遊撃部隊旗艦・武蔵を護衛することだ」

 熊は言った。艦娘の中でも一番長く苦楽を共にしてきた第六駆。表情を見るだけで、彼女たちが何を考えているのか分かった。自信と不安、高揚と恐怖。戦時下に特有の、あらゆる感情がピンと張りつめている。

「どうした、顔が固いぞ。きみたちは、艦娘を牽引していくべき先達だ。誰よりも早くこの世界に顕現し、厳しい輸送任務や戦闘を通して経験を積んできた。その練度は正規空母や戦艦にも勝ると僕は信じている。そんなきみたちと再び共に戦えることを嬉しく思う」

 熊の言葉で、暁型の姉妹たちはようやく表情を緩ませる。

 戦いに臨むにあたり、駆逐隊にも指揮官を乗艦させることが決まった。熊の強い主張により実現したことだ。経験豊かな軍人が参謀として艦娘に知恵を与えるとともに、指揮命令の連絡要員を兼ねる。戦闘の勘に長けた彼女たちは、本来は自由に動くべきなのだ。軍人が戦闘のあれこれに口を出し、艦娘の自由裁量を阻害してはならない。その能力を最大限に引き出すための補助具に徹するべきだ。

 何より、今回だけは自ら駆逐隊を指揮したいという熊自身の望みが大きかった。

「司令官。やはり、戦うことになるのかな。人間と」

 響が抑揚のない声で言った。フィリピン米軍との接触が予想されることは、すでに艦娘全体に知れ渡っていた。

「まだ分からない。あの島に人間が生き残っているかも、まだ不明な状況だ。しかしながら、何らかの形で米軍の地上戦力と相対する可能性は高い。きみたちは、それを不安に思っているのだろう」

 提督として部下に尋ねる。少女たちは、思い思いに頷いた。

「そのことに関しては、武蔵とも話した。彼女はハッキリ言った。嫌だ、と」

 ともすれば反逆罪に問われかねない、戦艦の赤裸々な意見。それを聞いた駆逐艦たちは皆一様に驚きと緊張の面持ちとなる。

 あくまで軍の一員として、艦娘は生きてきた。軍人として過ごすうち、いつの間にか魂の自由は奪われ、組み込まれた命令系統に逆らうことが許されない軍独特の空気感に縛られていた。ゆえに艦娘は武蔵の言葉に忌避を覚える。幼い駆逐艦ならば、なおさらだった。人間に逆らうという発想が、刷り込みのごとく罪悪感を心の中に掻き立てる。ゆえに彼女たちは耐えてきた。過酷な輸送任務に神経をすり減らそうとも、遠い前線の海でどれだけ仲間が沈もうと、ただ粛々と目の前の義務を遂行してきた。戦うためには従順でなければならなかった。

 だが、ここから先は、そうはいかない。大日本帝国の首脳部が、自国の利益のために艦娘を私物化しようとしているのは明らかだ。艦娘にとっての本懐など、とうに忘れている。もしこのまま艦娘が諾々と軍の所有物であり続けるならば、それは国家の道具であるのと同義であり、永遠に望みを遂げることはできない。

「もしきみたちが―――」

 途中、熊は言い淀む。少女たちより遥かに長く生きてきた自分でさえ、拠り所である軍や国家といった巨大な力に盾突くのは恐ろしい。だが、本当に部下のことを大切に思うのなら、彼女たちの提督であろうとする決意が本物なら、克服せねばならない恐怖だ。

「アメリカ人を殺したくないと言うのなら、僕はそれで構わないと思う」

 これで武蔵と共犯だ。そういえば渋谷も似たようなことを言っていた。摩耶を殺人鬼にさせてなるものか、と。今なら彼の思いを本心から理解できる。熊はうっすらと笑う。そんな彼を、第六駆逐隊は真剣な顔で見つめている。

「艦娘は、人類の味方として深海棲艦と戦っている。きみたちが日本の艦名を持ち、日本語を喋る存在だとしても、今所属している大日本帝国海軍は、いっときの止まり木にすぎない。きみたちは、決して帝国海軍の艦ではない。誰かに支配され、所有されるような存在ではないのだ。ゆえに、きみたちは自分の意志を貫かねばならない。深海棲艦と戦うのは、あくまで地球上の全ての人間に貢献するためならば、守るべき人間であるアメリカ人を殺す必要はない」

 熊は言った。すると、暁型の長女である暁が、おずおずと彼の前に歩み出る。

「でも、今さら海軍に逆らっても、わたしたちに行く所なんてないわ。この海で一番怖いのは孤独よ。戦うこともできず、敵だらけの海を怯えて彷徨い続けるくらいなら、多少心の痛みに目をつぶっても、軍にいるほうがいい」

 いつもの暁とはうって変わって、口調は真剣そのものだった。第六駆の妹たちを悲惨な目に合わせてはならない。長女の責任感ゆえの言葉だった。第六駆の実施的なリーダーは響だが、精神的支柱としては暁の存在が大きかった。一人前のレディを自称する彼女が、初めて見せる大人の顔だった。

「きみたちを孤独になどさせない」

 巨躯をかがめて膝をつき、暁に視線を合わせる。

「そのために僕がいる。僕だけじゃない、少なくとも五人、きみたちのことを何よりも大切に思っている提督がいる。きみたちが決断したことならば、僕は喜んで共に荊の道を歩こう」

「それは駄目よ」

 泣きそうな顔で雷が言った。

「深海棲艦との戦いが終わったら、わたしたちは多分この世界を去ることになるわ。でも、わたしたちが消えても司令官の人生は続いていく。人間だって孤独では生きていけない。わたしたちのために司令官が孤独になるなんて、絶対に駄目」

 雷の優しい言葉を受け、熊はにっこりと笑う。この子たちの提督であれて幸せだと彼は思った。

「ありがとう。でも僕は大丈夫だ。いざとなったら軍を抜けて、民間船舶の船乗りでもするさ。それに、帝国も変わり始めている。きみたちのおかげで、悪しき運命から抜け出そうとする力が、ゆっくりと育っている。きみたちが望みを遂げた後だって、僕はずっと元気に生きてみせる」

 熊は言った。ぼろぼろと涙をこぼしながら、雷が彼の胸元に飛び込む。暁がそれに続いた。続いて電が、最後に響がゆっくりと提督に身を預ける。皆、泣いていた。冷静沈着な饗導艦の響でさえ、目に涙を浮かべている。

「だから、きみたちは自分の心に従え。軍の命令ではなく、魂の声に。きみたちがどの道を進もうと、僕は提督で在り続ける」

 軍のくびきを断て。

 艦娘は艦娘としての大義に生き、艦娘としての幸福を追い求める。それでいいじゃないかと熊は思う。人類のために命がけで戦ってくれる艦娘。愚かにも互いに相争うばかりの人類は、ついでに救われるだけで十分だ。あとは人類自身の問題だ。

 戦いの道具である艦から、尊厳あるひとりの人間となる。艦娘の魂の独立を、強く強く熊は願った。

「スパシーバ、司令官。艦娘は、艦娘として生き、そして死ぬ。これでいいんだって、やっと確信できたんだ。変だな、当たり前のことのはずなのに、嬉しくて仕方ないんだ」

 微笑む響。目尻から一筋、涙が頬を伝う。

「司令官さん。ずっと一緒に戦います。あの日、初めて出会ったときから、あなたのためなら命を捨てても惜しくないと思っていました。電の一目惚れだったのです。自分でも不思議でしたが、やっと理由が分かりました。艦娘の提督だからです。わたしたちの提督だからです。司令官さんは本物の提督なのです」

 だから、電はずっと一緒に。

 熊は第六駆の想いの全てを受け止める。存分に流れる涙を軍服に吸わせ終え、少女たちは穏やかに、しかし晴々と勇ましく前を向き、宿舎に戻っていった。いずれ残される者として、熊は少女たちの背中を見送る。

 Independence Eve.

 熊は呟く。今日という日が、艦娘の独立前夜であることを祈る。

 そして願わくば、明日の決戦が、本当の独立記念日になることを。人間というしがらみから、魂の独立を勝ち取ることを。

 

 十月二十三日。〇八〇〇。

 未曾有の大艦隊が、パラオ泊地を出発する。第二、第三艦隊の連合軍は、それぞれ四個の遊撃部隊に分かれ、覚悟を胸に決戦の海へと進んでいく。西村中将率いる第二遊撃部隊と、志摩中将率いる第四遊撃部隊は、フィリピン南の海を制圧すべく、セレベス海の入口で二手に分かれた。第二遊撃部隊は西のミンダナオ海からスリガオ海峡を通り、第四遊撃部隊は東のレイテ沖から南フィリピンの懐に突撃する。この作戦が成功して内海の敵を殲滅できれば、ふたつの遊撃部隊は、スリガオ海峡とレイテ湾の境界で邂逅する予定だった。

 十月二十四日。〇二〇〇。

 第二遊撃部隊は、ミンダナオ海の入口に迫った。空には雲が立ち込め、星明りひとつ望めない。のっぺりとした宵闇に溶け込むように、フィリピン諸島が水平線にへばりついている。その島々に人工の灯りは見られず、ただ真夜中の漆黒に溶け込んでいる。艦隊は単縦陣をとっていた。列の先頭を、阿賀野が静かに航行する。つづく扶桑を第二駆逐隊が、山城を第八駆逐隊が輪形陣で守り、しんがりは最上がついていた。いよいよ未知の領域に入っていく。駆逐艦たちは、全員が対空、対潜電探に鋭い意識を傾ける。空と海、両方の世界に微細な神経網を張り巡らせるように、わずかな変化も見逃すまいとする。特に、海中の動きには敏感だった。いつ敵潜水艦から奇襲攻撃が来るか分からない。敵潜の跳梁跋扈は、どんな攻撃よりも恐ろしい。強力無比な戦艦でさえ、魚雷数発で撃ち沈められてしまう。扶桑を守る、第二駆逐隊の時雨は、すでに自身の対潜ソナーに、潜水艦らしき微細なスクリュー音を捉えていた。いつ魚雷の推進音が聞こえてくるやもしれない。しかし、今のところ敵から攻撃を受けていない。単なる偵察なのか、それとも虎視眈々と我が部隊の隙を狙っているのか。攻撃してこないことは逆に不気味だった。黒い海の下は常に恐怖で満ちている。いつ爆発するか分からない爆弾を、腹に抱えているようなものだ。

「九時の方向に、またも感あり」

 心なしか小さめの声で時雨が言った。海面の下に浸かる船腹が、ぞわぞわした。駆逐艦たちは、いつでも爆雷を撃ち込める準備をしていた。

 夜のミンダナオ海は、異様に静かだった。この静寂を破ることに、本能的な忌避を感じる。僅かな物音を立てるのも憚られるほど、異常な緊張感が艦隊を支配していた。普段は意識しないスクリューの回転数すら、いちいち気になってしまう。

『陣形そのまま。艦列を維持し、ゆっくりついてきてください。焦らなくていいですよ』

 駆逐艦をまとめる軽巡・阿賀野から通信が入る。第二遊撃部隊は、夜盗の忍び足のごとく、十五ノットほどの速度で、ゆっくりとミンダナオ海を北東に渡る。

 〇三一〇。いまだ敵艦は影も形も見当たらない。神経を研ぎ澄ます時雨は、潮流の流れが早くなっているのに気づいた。ゆったりとしていたフィリピンの海が、しだいに表情を変えて厳しさと激しさを見せ始める。パナオン島と、ミンダナオ島に挟まれた海。因縁のスリガオ海峡の入口だった。

 艦隊は、まっすぐに海峡に艦首を向けている。このまま敵が現れなければ、戦闘をせずレイテ湾まで抜けることができるかもしれない。だが、それはそれで問題だった。ならばフィリピンを守っているはずの敵はどこに消えたのか。こんな大規模な陸地、それも資源地帯であるボルネオ島に隣接する要所を、深海棲艦が放っておくはずはない。

『作戦の通りに航路を取ります』

 艦娘たちの疑念を振り払うため、旗艦である扶桑から短い指示が飛ぶ。あくまで冷静に任務を遂行するという意志の表れだった。警戒態勢を維持したまま、〇三三〇時、スリガオ海峡に突入した第二遊撃部隊は北上を開始する。この海峡の先にはレイテ湾が広がっている。敵がスリガオではなくレイテ湾で待ち構えている可能性は十分にあった。

 そのとき、山城を守っている第八駆の朝雲から通信が入る。

『対潜ソナーに感あり。でも距離が開いていて反応がにぶいわ』

 対潜能力の強化にこだわっていた朝雲の耳は、忌まわしき潜水艦独特のスクリュー音を確実に捉えていた。そこで彼女は、索敵のため自らが最後尾につくことを意見具申する。僚艦の朝潮には危険だと反対されたが、最上が護衛としてつくことで司令部の許可を得た。朝雲はさらに速度を落とし、最上とともにゆっくりと艦列から離れていく。

『いるわね。最低でも三隻。でも、攻撃してくる気配がない。あっちだって、わたしたちの存在に気づいているはずなのに。ちょっと変だわ』

 朝雲が所見を述べる。駆逐艦はおろか戦艦にすら恐れられてきた敵潜水艦は、やはり攻撃してくる気配がない。ソナーの届くギリギリの範囲を、つかず離れず、にじり寄ってくる。獲物を狙っているというよりも、こちらの動向を監視するかような動きだった。来るなら来い、と朝雲は呼吸を荒くする。さんざん痛い目に遭ってきたから、爆雷ならたんまり用意してある。早く目に見えない脅威を一掃したかった。しかし、いくら耳を澄ませても、奴等の目的は見えてこない。

 すべての駆逐艦が海中に意識を注ぐなか、朝雲と一緒に艦列を離れた最上は、じっと南の水平線を見つめていた。重巡は対潜装備が間に合わなかったので、こうして夜間は海上を見張っていることしかできない。猛禽のごとく夜目がきく艦娘であっても、ほとんど光源のない状態では、偵察もままならなかった。ぼんやりと島の輪郭が見える程度だった。そんな彼女の焦りが天に通じたのか、停滞していた雲に小さな裂け目ができた。ささやかに星が瞬く。しだいに雲は南の空に退却していく。

 そして夜の最大の光源である、丸い月が顔を覗かせ始めた。

 〇三五五。そのとき最上は視界に違和感を覚える。南東に見える、ミンダナオ島とデナガット島の間。スリガオ海峡とデナガット海峡を結ぶ、名もなき小さな海峡に、何かが動いた気がした。すぐに焦点を合わせ、目のレンズを引き絞る。最初は、ただの島影だと思っていた。しかし、点在する影は確かに動いていた。列をつくる鼠のようだった影が、しだいに大きさを増しながら接近してくる。

 もし偶然、雲が晴れなかったら、あるいは自発的に偵察に残らなかったら、見落としていたに違いない。敵は砲撃も雷撃もせず、完全無灯火のまま、闇夜に紛れこむように航行を続けている。

 目算、三五ノット。明らかに高速戦艦による巡洋艦隊だった。

『敵艦見ゆ!』

 一秒でも時間が惜しい。最上は考えるよりも先に通信機に向かって叫んでいた。

『戦艦級三、巡洋艦級六、駆逐艦多数! 敵の巡洋艦隊と思われる!』

 この通信は、即座に部隊主力へと伝わる。艦内に警報が鳴り響き、対艦戦闘の準備が死にもの狂いで始まる。

 敵は背後から来た。おそらく潜水艦を見張り役にし、本体はデナガット島に身を寄せて隠れていたのだろう。背後をつかれた第二遊撃部隊は混乱し、次の行動の決心が遅れた。その間にも敵は容赦なく迫ってくる。まるで海峡の入口を封鎖するように単縦陣をとっていた。艦娘たちにとって、最悪の陣形が完成しつつあった。T字不利なうえ、もっとも艦が火力を発揮できない艦尾を狙われている。

 敵の巡洋艦隊は、すべての砲門を、しんがりの最上と朝雲に向けていた。

『砲雷撃戦、始めます!』

 司令部の判断を待たず、最上は言った。主力が態勢を立て直すまで、囮になる覚悟だった。自分たちが浮かんでいる間は、敵の攻撃はこちらに集中するはずだ。最上と朝雲は、進路を東に急転回して、自らの横腹を敵の火線に晒す。そして力の及ぶ限り、あらゆる砲と魚雷を撃ち込んだ。まともに照準を定める余裕もなく、弾は敵の手前で虚しく水柱に変わる。逆に敵の砲撃は正確だった。初弾で狭叉に追い込まれる。敵は潜水艦の情報を通して、海域と艦娘の位置を細かく測量していた。空を切り裂く音とともに、敵弾が最上の第一主砲を直撃する。隕石が衝突したかのごとく甲板に大穴が開き、内部構造が露出した。だが最上は悲鳴ひとつ上げなかった。今すべきは耐えることだ。歯を食いしばって痛みを噛み殺し、果敢に残った主砲で反撃を開始する。

「ここで僕が沈んだら、艦隊は総崩れになる。みんなの盾になれるなら本望だ」

 顔を歪ませながら、最上は不敵に微笑んだ。絶望する必要など無かった。ここはもう、かつてのスリガオ海峡ではないのだから。

「こっちを狙いなさいよ!」

 怒りと勇気が恐怖に打ち勝つ。朝雲は探照灯を照射した。被弾した最上を庇うように、少しずつ前に出る。目と鼻の先で水飛沫が炸裂する。それでも彼女は、挑発的に敵を照らし続けた。無我夢中で魚雷を放つ。死の恐怖さえ燃料にして、前に、前に進む。沈められても悔いはないと朝雲は思った。自らの使命を信じ、たゆまぬ努力を続けてきた駆逐隊は、とうとう姑息かつ卑劣な敵潜にスナイピングを断念させたのだ。結果、深海棲艦は真正面から挑んでくるしかなくなった。正々堂々の撃ち合いで、艦娘が遅れを取るなどありえない。

 自分が囮になっている間に、主力がスリガオを抜けてくれたら。

 敵の砲弾が右舷上部を直撃する。凄まじい衝撃と爆発で、艦体がヤジロベエのように揺れる。敵は、あっという間に着弾距離を計算し、朝雲を挟叉していった。タービンの回転が落ち、浮かんでいるだけで精いっぱいだった。

「山雲、あとは頼んだわよ」

 誰にも聞こえないよう、朝雲は呟く。艦の損傷が、焼けつくような痛みにフィードバックされて顕体を襲う。朝雲は身をかがめながら、前方にいる朝潮型の盟友にエールを送った。山雲さえ無事でいてくれたら、それで満足だ。艦娘として二度目の人生の最期を飾るにふさわしい。駆逐艦・朝雲として、きちんと敵と戦って死ねることが、こんなにも幸せだとは思わなかった。潰れたボイラーから重油が海に流れ出す。内臓が腐って溶けていくかのような悪寒がする。それでも嫌な気はしなかった。甲板に揺らめく炎は、沈みゆく艦にたむける献花のようだ。死の迫る自分の姿が美しかった。

 一隻でも多く道連れにしてやる。

 最後の力を振り絞って撃った魚雷が、見事に敵重巡に命中する。その返礼とばかりに新たな砲弾を受ける。艦橋の右半分が抉れ、大きな穴が開く。ついに彼女のタービンは抗うことを止め、海上を漂流し始める。

『ここまで、みたいね』

 もう敵の砲弾を避ける力も残っていない。あとは浮き砲台として、意識の全てを火力に集中するだけだ。朝雲は最上に離脱するよう言った。最上は、まだ健全に走ることができる。ならば直ちに主力と合流すべきだ。しかし最上は、彼女の提案を拒絶する。

『僕は逃げないよ。ここできみを見捨てたら、きっと僕は自分を許せない。せっかく艦娘になれたのに、艦娘であることの意味を失くしてしまう』

 馬鹿じゃないの、と朝雲は言おうとしてやめた。最上も同じ気持ちなのだと気づいた。

『それに、僕達は、まだ終わりじゃない。聞こえないかい、近づいてくる希望の音が』

 憔悴した顔のまま、不敵に笑いながら最上は言った。

 朝雲は耳を澄ます。またしても砲撃音が夜の海に鳴り響く。しかし、その音は南からではなく北から聞こえた。敵単縦陣の周辺に水柱が上がる。朦朧とする視界のなか、暗い海の上に、輝く光の列が見えた。戦艦・扶桑以下、全ての艦が探照灯を掲げ、南へと反転している。扶桑と第二駆逐隊が右翼から、山城と第八駆逐隊が左翼から、まるでハートマークを描くように二手に分かれ、単縦陣をとっている。やがて艦列は最上と朝雲を庇うように、ふたりの前に出る。

 敵艦隊との距離は、一四キロにまで迫る。ソロモン海以来の、防御不要の艦隊決戦。

『統制砲雷撃開始!』

 旗艦・扶桑の命令が轟く。二隻の戦艦と七隻の駆逐艦から、全砲門が火を噴き、三五発の魚雷が宙に踊り出る。

『なんで戻ってきたの!』

 思わず朝雲は叫んでいた。最後尾の二隻を犠牲にすれば、北上するにせよ戦うにせよ、もっと敵に対して有利な態勢に移行することができたはずだ。それこそ、敵海域のど真ん中で、こんな生きるか死ぬかの境界線で殴り合いをする必要などない。

『わたしたちの任務は、南フィリピン海域における敵の撃滅です。戦うのは当然のこと。そして敵を撃ち倒すには、部隊の仲間を一隻たりとも欠いてはならない』

 激しい砲撃を加えながら、穏やかに扶桑は言った。

 勝利するなら全員で。存分に戦い、それでも力尽きたなら、死なば諸共。一隻残さず華々しく海に没する。その覚悟が無ければフィリピン攻略など不可能だった。スリガオ海峡の出口は、まだ遠い。ここで敵を漸減しておかなければ、この先、何が起こるか分からない。第二遊撃部隊は、深海棲艦の地の利をも覆す正確無比な砲雷撃を敢行する。敵の駆逐艦や巡洋艦が、一隻、また一隻と炎に包まれる。しかし敵もまた、強固な意志を有している。至近距離からのインファイトにも全くひるまず、じわじわと艦娘に接近していく。味方が被弾しようが、気にも留めない。ここは、かつてのスリガオ海峡ではなかった。艦娘は前世より遥かに強く生まれ変わったが、それは深海棲艦も同じだった。

 〇三五五。単縦陣同士の同航戦は、少しずつ艦娘優先に傾いてきた。それでもなお、深海棲艦は厳しい攻撃の手を緩めない。

『ぐっ、手強い!』

 艦尾に被弾した朝潮が苦痛の声を上げる。次々と僚艦を喪っても、深海棲艦は撤退する気配すら見せない。深海棲艦は、人間や艦娘のように感情に任せて非合理な行動を取ることはあり得ない。撤退しないということは、まだ敵は作戦行動中であることを意味する。スリガオ海峡の入口を封鎖し、まるで艦娘を追いたてるように、半ば梯形陣に近い単縦陣で北上してくる。

 だが、今は敵の作戦にまで考えを巡らせる余裕はなかった。砲弾と魚雷の回避、そして機動だけに集中する朝雲の護衛。同時に敵に対しても攻撃を加えねばならない。そのうえ、目の前には新たな脅威が出現していた。

 容赦なき撃ち合いを続けながら、ついにデナガット島の沿岸部まで差しかかる。このまま進路を東に取れば、敵味方ともども島にぶつかる。あるいは浅瀬に座礁してしまうだろう。もし敵より先に回頭を始めたら、相対的に動きが停止するその瞬間を狙い撃ちにされてしまう。条件は敵と同じだ。ふたつの艦隊は、互いに一歩も譲らないチキンレースを挑んでいる。迫りくる島の脅威を我慢できず、回頭を始めたほうが敗北する。

『わたしが先導します! ぎりぎりまで敵を引きつけて!』

 阿賀野が叫ぶ。まさか対潜ソナーを座礁防止のために使う日が来るとは思わなかった。目で戦場を見つめ、耳で海中を探る。艦隊は細やかな回避行動をとりつつ、まだ島に近づく。ついに敵との距離は五キロにまで迫った。敵は潮の流れと、地雷のように潜む暗礁に阻まれ、艦列を乱し始めている。やるなら今だ。扶桑は決断する。

『転進! 二二〇度!』

 扶桑が叫ぶ。駆逐艦たちが戦艦のわきをかためる。対潜装備をもたない戦艦を誘導し、複雑な潮流を抜けていく。わずか数メートルのところで船腹が暗礁にぶつかりかけ、阿賀野が進路を変えるたび肝がひえた。

 砲撃をする余裕もなく、一テンポ遅れて深海棲艦も転進を開始した。しかし、乱れた陣形を立て直せず、しだいに彼我の距離が開いていく。

 〇四三〇。敵巡洋艦隊から離れ、第二遊撃部隊は北西に進路をとった。

 まだ戦いの緊張が続くなか、時雨は思考を巡らせていた。あれほどまでに敵が攻撃に固執するのだから、その目的は艦娘を海峡に閉じ込めることに違いない。だとすれば、おそらくこの先に敵主力が待ち構えているだろう。その規模は、想像するだけで恐ろしい。海峡を閉鎖された今、この部隊の命運を握るのは、東側からレイテ湾に突入する予定の第四遊撃部隊だった。

 そんな彼女の不安を煽るように、またしても対潜ソナーが反応する。

『北北東より、反応あり!』

『雷跡視認! 距離三〇〇、一一〇度!』

 時雨の報告と同時に、陽炎が言った。ついに潜水艦が攻撃をしかけてきた。幸い、ほとんどの魚雷は狙いを逸れていった。直撃コースは爆雷で処理する。だが、なおも悪い情報は続く。今度は先頭を行く阿賀野が、南西の水平線に新たな艦影を発見する。

『新たな敵巡部隊接近!』

 今度は、デナガット島とは逆のレイテ島から新手の敵が現れた。やはり高速戦艦を主体とした巡洋艦隊だ。背後と前方の敵、そして進路方向からの魚雷に囲まれる。いよいよ不味い事態になったと時雨は思う。このまま前方の敵第二群を反航戦でやり過ごせたとして、またレイテ島にぶつかる前に反転すれば、背後から追いかけてきた敵第一群に待ち伏せを食らう。かといって動きを止めれば魚雷の餌食。まさに四面楚歌だった。

『ひとつずつ潰していこう』

 気持ちで負けたら終わりだ。時雨は、あえて明るい声で言った。

『そうね。対潜訓練は嫌というほど受けたもの。わたしたちは潜水艦を黙らせようか!』

 すかさず陽炎が反応する。

『困難は分割せよ、ですね。やりましょう!』

 朝潮が勇猛に叫んだ。駆逐艦たちの士気が上がっていくのを時雨は肌で感じる。彼女たちの意見を受けて、扶桑の司令部が決断を下した。

『駆逐艦は、右舷に単縦陣。潜水艦を任せます。わたしたちと最上は右舷。とにかく敵第二群を寄せつけないように! このまま直進し、レイテ島に最接近したところで九〇度転進します。これで第一群を振り切りつつ、作戦を進めます』

 扶桑が司令を伝える。

 このまま、まともに敵と戦えば、規模の小さい第二遊撃部隊は全滅するかもしれない。ならば、第四遊撃部隊が作戦行動を始めるまで、なんとしてでも持ちこたえる必要があった。敵第一陣の待ち伏せを回避しつつ、スリガオを漸進していくには、九十九折りになった山道を登るように、ジグザグに少しずつ北上していくしかない。二つの目標を同時に達成できる、ぎりぎりの角度が九〇度だった。

 〇四五〇。敵第二群と接触する。距離にして一二キロ、反航戦による、ふたたびの正面からの殴り合い。左舷には砲弾、右舷には魚雷。ふたつの脅威に板ばさみにされる。駆逐艦たちは、飢えたサメのごとく海峡をウヨウヨしている敵潜水艦の処理に追われる。敵の巡洋艦隊を迎え討つは、扶桑、山城、最上のみ。数の上では圧倒的不利にも関わらず、戦闘経験豊富な三隻は、軍人たちの手助けを借りながらレーダーに頼ることなく精密な射撃を敢行する。海上には砲音、海中には爆雷音、空間という空間に戦争の音が轟く。艦娘たちを本物の脅威と認識した敵は、ついに自ら探照灯を掲げた。物質を貫くような冷たく青白い光。互いのサーチライトが交差する。敵に放った砲弾は、二倍になって返ってくる。だが彼女たちは恐れない。やはり深海棲艦も、すべてが一様な強さを保っているわけではない。人間や艦娘と同じように、戦場に立った経験により練度の差がある。フィリピンの敵は、少なくとも扶桑姉妹が戦っていた南方戦線のそれより練度が劣っている。ただひとつ脅威なのは、練度の低さを易々と補ってしまう、敵の物量だった。

 ついに彼我の艦隊の先頭がすれ違う。距離、わずか九キロ。

 敵戦艦の砲弾が、旗艦・扶桑を捉えた。左舷中央に巨大な爆炎が上がる。だが扶桑は一切躊躇うことなく砲撃を続けた。幸いボイラーにまで傷は届かず、航行に影響はない。だが敵の飽和攻撃は、確実に駆逐艦の防御網を抜けつつあった。避けきれず、爆雷による処理も間に合わなかった魚雷が、海中を飛ぶ矢のごとく、まっすぐ山城に吸い込まれる。右舷に巨大な水柱があがる。さらに、敵の砲弾が駆逐艦にも届き始めた。朝雲以外にも、すでに朝潮、満潮、白露が被弾し、小破以上の損害を負っている。耐えがたい痛みに耐え、艦娘たちは火力と機動に、全ての気力を注ぎ込む。山城は僅かに艦が傾いたが、いまだ速度は健全。巧みなダメージコントロールによって浸水を最小限で食い止めていた。

 爆雷が功を奏してか、敵潜水艦からの攻撃が減りつつある。ついに彼我の艦隊は、しんがりが交差し、離れていく。敵はすぐに旋回を開始する。ここぞとばかりに艦娘は砲と魚雷を叩きこみ、その隙に戦域から脱出する。

 レイテ島の沖合わずか三キロの地点で、阿賀野が回頭をかける。

 敵第一群が進路を塞ぐ前に、第二遊撃部隊は、北東に進路を取ることができた。艦隊は一斉に無灯火航行に移る。しかし、機関を潰され大破した朝雲は、少しずつ第八駆逐隊の列から落伍していく。

『わたしに構わず、先に進んで。さっきの敵に追いつかれたら、元も子もないわ』

 迷いなく朝雲は言った。仲間たちの支援を受け、航行だけに専念して、ようやくこの有様だった。いざとなったら単艦で敵に突っ込み、少しでも時間稼ぎをしようと考えていた。

『何言ってるの? ここが部隊の正念場でしょ! あんたも駆逐艦の端くれなら、ここで頑張らないでどうすんのよ!』

 黒煙を上げながらも、満潮が激励を飛ばす。つんけんした態度とは裏腹に、仲間を想う気持ちが声に溢れている。駆逐艦たちから、つぎつぎと応援の言葉が送信されてくる。

『朝雲姉。艦隊から離れることは許されませんよ。勝つ時は皆いっしょに、ですからね』

 姉妹艦の山雲が、おっとりとした口調で言った。待機中だろうと戦場だろうと、まったく芯がぶれることのない山雲。彼女の気の抜けた声を聞くと、不安や悲観で押し潰されそうな自分が馬鹿らしくなる。いつも朗らかで優しい自慢の妹だった。彼女のためにも、ここで沈むわけにはいかない。もし沈むなら、ふたり一緒だ。朝雲は最後の力を振り絞って、艦隊を追いかけた。

 〇五一〇。

 東の空が白み始める。星空の下、うっすらと白い光の幕が水平線にかかっている。黄昏の先、二つの島に挟まれていた荒い海が、とうとう大洋に繋がる。スリガオ海峡の出口だ。被弾した艦は黒い煙を棚引かせながらも、一隻も欠けることなく航行を続けている。

 レイテ湾は、目と鼻の先だった。

 薄明の光が、艦娘たちの視界を開く。皆は言葉を喪っていた。それは決して因縁の航海の終わりを見たからではない。終わりどころか、始まりにすぎなかった。希望の象徴であるはずの夜明けの輝きは、皮肉にも航路の先に待ち構える絶望を、残酷なまでにハッキリと照らし出し、艦娘の前に突きつけていた。

「そう甘くはないよね……」

 時雨が力なく笑う。

 スリガオ海峡の終焉、レイテ湾の始まりに、彼女たちは堂々と鎮座していた。

 駆逐艦級、二〇。巡洋艦級、一三。軽母級、四。そして戦艦級六。それも、鬼・姫級の超弩級戦艦が部隊を率いている。過去最大の深海棲艦大艦隊が、まるで鋼鉄の壁をつくるように、単縦陣にてスリガオ海峡を封鎖していた。

 進めば破滅、戻るも破滅。

 予想を遥かに超える敵。閉じ込められた第二遊撃部隊は、為すすべもなく死の海峡を進んでいく。

 


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