【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

15 / 25
 ポートモレスビーに海軍戦力を集中させた山口。艦娘を生き永らえさせるためには、未知なる海を渡るしかなかった。
 一方、心身ともにすり減らす任務を終えた渋谷に、想い人が近づく。やがて彼女は渋谷の部下に対し、曖昧なまま放置されていた人間と艦娘の線引きを突きつける。


第十四話 艦と娘の情歌

 ポートモレスビーの街から、陸軍の主戦派が密かに脱出した。山口多聞による艦娘と燃料・弾薬などの補給物品の集中を指揮権の濫用と見なした。辻中佐を中心とする陸軍の参謀部は、第五五師団と第二〇師団を、西部ニューギニアから東部ニューギニアへと移し、ポートモレスビーを占領する計画を打ち立てていた。艦娘を支配下に置こうとする陸軍の野望が、ついに露呈した。これに対抗するため、急遽、ポートモレスビーには防衛陣地が構築され、さらに東西に渡る陸路は、艦娘による艦砲射撃が加えられた。道を分断することで、少しでも陸軍の進撃を止めるのが目的だった。

 渋谷は、大和に置かれた第一艦隊臨時司令部に召集された。そこで山口長官から、直接、今後の展開を聞くことができた。

「戦力を集中し、決戦の決意をもってオーストラリアに渡る。そして、オーストラリア政府に単独で講和を申し入れる」

 山口の言葉は、軍人である渋谷には衝撃的だった。本来ならば国家が決定すべきことを、その手足にすぎない軍が独断で行おうとしている。統帥権干犯。陸軍に格好の造反理由を与えていた。

 陸軍に攻撃されることを見越してなお、山口は作戦を遂行しようとしている。南部太平洋、中部太平洋を渡り、本国に帰還することが危険すぎる博打であることは分かる。ならば、少しでも希望がある反対側に進むしかない。作戦を受け入れられない者は見捨てる。それが例え同じ帝国臣民であり、打倒深海棲艦の志を同じくすべき陸軍であっても。渋谷には、何も言うことはなかった。オーストラリアは大陸である。ならば当然、深海棲艦による大陸封鎖が敷かれているはずだ。そこに至るまでの海域には、これまでの小島とは比較にならない規模の敵が待ち構えているだろう。それでも、生き残る可能性に賭けるためには進むしかないのだ。

「すでにソロンは、第三〇師団が陣地を構えてしまった。今後、油の奪取は不可能となった。戦えるだけの燃料がある今、決心するしかない」

 山口は言った。ありったけの重油とともに艦娘を脱出させた山口の作戦は正しかった。もしソロンに留まり続けていたら、油はおろか摩耶と第三、第七駆逐隊も陸軍に制圧され、その指揮下に接収されていたに違いない。

「出撃は、一週間後の予定だ。それ以上引き延ばせば、陸軍の主力が攻め入って来るだろう。部下の艦娘ともども、物心両面に至る準備を整えよ」

 山口は直接、命令を下達する。渋谷は敬礼して長官室を出た。

 すこし足元がふらつく。今はただ泥のように眠りたかった。真夜中の鼠輸送作戦は、彼の精神に極度の緊張を強いた。海鳴りの音が、日を重ねるごとに大きくなっている。まるで彼を深海に誘うかのごとく。音が聞こえるたび、頭を振って追い払う。そして思い出してしまうのだ。あの忌々しい笑い声を。レ級によるソロン襲撃以来、ずっと悪夢が続いていた。荒れ狂う波、分厚い雲の張りつめた暗い空。真っ黒に焼け焦げた大地に、ひとり佇んでいる。びょうびょうと吹く潮風は、この地に蔓延する、声にならない怒りと恨みを渋谷の鼓膜に語りかける。

 この地には見覚えがあった。とういうより、似た雰囲気を感じた覚えがあった。白峰とヲ級に鹵獲されたとき、近くに見えた黒い島影。深海棲艦の本拠地と思しき場所。そして自分の背後には、いつもレ級がいた。にやけ顔で、何かを語りかけてくる。しかし目が醒めると、いつも会話の内容は記憶から消えていた。彼女の声は、深海の水を通したみたいに不明瞭な波紋となって、心に居座り続ける。

 忌むべき深海棲艦と奇妙な絆が出来てしまったことに、渋谷は苦悩していた。誰にも打ち明けることはできない。誰よりも信頼している部下の艦娘たちにも。

 重たい足を引きずりながら鎮守府の仮眠室に向かう途中、不意に見知った人物から声がかかる。

「渋谷少佐!」

 声に滲む喜びを隠そうともせず、彼女は渋谷の隣に歩み寄る。ソロン配属になってから、ずっと御無沙汰だったことを思い出す。水戸涼子中尉は、以前と変わらない親愛と慈愛に満ちた微笑みを湛えている。だが渋谷の様子を見るなり、一転して心配そうな顔つきになる。

「どうしたんですか? 足元がふらついていますよ?」

 意外な言葉だった。渋谷は自分の両足を見つめる。別段、異常はない。

「そんなに、ふらふらしていたかね?」

「はい。お酒に酔ってらっしゃるのかと思いました」

 涼子は言った。渋谷には、まったく自覚がなかった。意識は茫漠としていたが、まさか第三者から泥酔しているように見られるとは。

「どこに向かわれるつもりですか?」

「仮眠室に。任務でろくに眠れてなくてな」

 渋谷はこともなげに言った。しかし涼子は、彼の過労の度合いがよく分かっていた。

「わたしが先導してさしあげます」

 そう言って、涼子はそっと渋谷の手を取る。

「大丈夫だ。独りで歩ける」

女性にリードを取られるとは、男として情けない限りだった。しかし涼子は頑として繋いだ手を離さなかった。

「わたしは何も気にしません。少佐、どうかそのままで」

 笑顔で涼子は言った。こうなっては彼女を止めることはできない。昨年、彼女とポートモレスビーの街を練り歩いたことを思い出す。逢い引きの終わり、夕陽の差す丘。やはり彼女には先手を取られた。重なり合う唇の柔らかさと仄かな熱。朦朧とした意識の中に気恥ずかしさが蘇る。

 涼子は楽しげだった。空白の月日を埋めようとするかのように、ただ廊下を渡るという行為からさえ、喜びを見出していた。やがて鎮守府の片隅にある仮眠室に辿りつく。窓には白いカーテンがかかり、昼間でも薄暗い。シーツやベッドはよく整備されていて清潔だった。ここならば、しばし戦場を忘れて彼もゆっくり眠れるだろうか。

「最近、ずっと眠りが浅くてな。悪夢が続いていて、まったく眠っている感じがしないんだ」

 そう言って渋谷は、上着も脱がずベッドに転がる。仰向けになり、そのまま目を閉じてしまった。

「ありがたい。ここなら眠れそうだ……」

 そう呟くと、もう静かな寝息を立てている。

「安心して、おやすみになってください。わたしが見ていてあげますからね」

 男の寝顔を愛おしげに眺めながら、椅子をベッドに傍らに持ってきて腰掛ける涼子。ここに自分がいることで、少しでも彼の悪夢が払拭されることを願う。何も感じず、何も考えず、ただ安らぎに身を任せてくれたらいい。

 そして彼が目覚めたら。

 この先を想像することは渋谷に対して失礼だ。顔を赤らめながら涼子は自分に言い聞かせる。待っているだけなのは性に合わない。しかし大きな戦いを目の前にして過激な行動を取るのも気が引ける。芽生えた恋心がそうさせるのか、素の自分と大和撫子を演じようとする自分が常に葛藤している。

 今は、ここで待っていよう。

 投げ出された渋谷の手を、そっと握ろうとしたとき。

 不意に仮眠室のドアが開いた。ベッドに横たわる男の姿を認めるなり、突然の闖入者は無言のまま涼子を睨みつける。言葉を放たれる前に、すでに涼子は席を立っていた。威圧するかのような軍人らしい足取りで、まっすぐ出口に進む。そして彼女の目前に立ちはだかり、先手を打った。

「いったん出ましょうか」

 穏やかな、しかし鋭さの隠れ潜む声で涼子は牽制する。

「うちの提督は、どうなってるんだ?」

 負けじと摩耶が尋ねる。涼子を見下ろす視線は、不快と猜疑に満ちていた。自分よりも大柄な摩耶にひるむことなく、涼子は摩耶を外に押し出し、後ろ手に扉を閉めた。

「お疲れのようだったので、ここで休んで貰っているわ」

 溜息をつきながら、涼子は言った。それが余計に摩耶の気に障ったらしく、彼女にくってかかる。

「勝手な真似はしないでくれ。こいつは、あたしたちの提督だ。あんたは、こいつの何でもない。そこをどけ」

 摩耶は言った。しかし涼子は、重巡洋艦娘の恫喝を受けても眉ひとつ動かさない。

「ここで騒いだら迷惑になります。お話は外で」

 そう言って、さっさと歩きだす涼子。摩耶は涼子の背中をねめつけながら後を追う。摩耶を誘導したのは、鎮守府の西側に設置されたベンチだった。建物を囲むようにアカシアの木々が植わり、ぼんやりとした黄色で世界を覆っている。風にそよぐ枝々の隙間から、ゆらゆらと木漏れ日が落ちてくる。ふたりは言葉もなく距離を置いて座る。

「御足労かけたわね。あなたとは、一度落ちついたところで話をしてみたかったの」

 うって変わって敵意のない口調で涼子は言った。数秒の沈黙ののち、摩耶は小さく舌打ちする。

「提督がいなけりゃ、あたしの相手なんざ余裕ってことかよ」

 正面に視線を落したまま摩耶は言った。涼子の顔を見る気にはなれなかった。体格が良く荒っぽい自分とは違い、涼子は日本人の女性らしく所作は可憐で、さらに容姿にも恵まれている。彼女を見るだけで、得体のしれない感情の炎が否応なく胸を焦がす。ヒトの姿に産まれて間もない摩耶は、艦娘としての存在意義とは無関係に生じる感情に翻弄され、苛立ちを募らせていた。

「この際、はっきり言っておく。もう金輪際、提督には近づかないでくれ。あいつは、あたしたちの提督だ。提督を頭脳とするならば、艦娘は手足だ。頭脳と手足が連携して初めて戦場で戦える。命を賭ける戦場で、あたしたちの間に不純物があってはならないんだ」

 できるだけ冷静に言葉を紡ぐ摩耶。涼子は無表情に耳を傾けていた。

「兵器であるあたしは、提督の気持ちまで強制することはできない。だが、外部の人間があいつの気持ちを揺さぶることを見過ごすわけにはいかない。せめて……せめて、戦いが終わるまでは、干渉しないでくれ。でないと、勝てないんだ。負ければ人間は死ぬ。あいつの命を危険に晒すことになる」

 摩耶にとって、これが最大限の譲歩だった。しかし、摩耶よりも遥かに長く女として生きてきた涼子は、一見すれば健気な娘の気落ちの裏に、打算的かつ狡猾な「逃げ」の意図が潜んでいることを見逃さなかった。

「戦いが終わるまで、ね。それは深海棲艦を撃滅したときを言うのかしら。あるいは、あなたが存在し続ける限り、彼はあなたのものだということ?」

 涼子は単刀直入に、摩耶の暗部をえぐる。

「艦娘の存在意義は戦うことよ。たとえ世界から深海棲艦が消え去ったとしても、戦争まで根絶されるわけではない。戦いがある限り、あなたは必要とされる。そして、あなたがいる限り、少佐は永遠に囚われ続ける」

 兵器であるあなたに。涼子は言った。

「よしんば、深海棲艦の消滅とともに艦娘もこの世から退場するというのなら、結局、あなたは自分が死ぬまで彼を独占することになる。ずるい話だとは思いませんか? 死という運命を最大限に利用して、あなたは彼の心を絡め取ろうとしている。そして、戦いの終わりという自身の死によって、永久に彼の魂に自己の存在を刻もうとしている」

 摩耶自身でさえ、はっきりと意識していなかった、自分の真の目的。それを涼子に完膚なきまでに暴かれ、彼女は恥辱と怒りに震える。

「渋谷少佐とあなたは、人間と兵器の関係。戦いという現象のみを媒介にして成立する信頼関係でしかない。もし、あなたがそれに徹するならば、わたしが意見することは何もない。でもね、あなたのこれまでの言動を振り返る限り、あなたは少佐に提督たること以上の何かを求めている。それは断じて許されない」

「黙れ! あたしの提督だ。あたしが守ろうとして何が悪い!」

 摩耶が叫ぶ。しかし涼子は穏やかな声音のまま、諭すように続ける。

「彼を守り抜こうとする意志は、大いに結構。しかしながら、あなたの気持ちは、もはや戦いに勝利するという兵器の本懐から外れている。わたしたちは軍人です。戦争を勝利で収束させること以外、安住の日々を取り戻すことは叶わない。あなたが分不相応な感情を優先するあまり戦いに勝つことを忘れたら、それはむしろ、彼を苦しめ続けることになる。軍人にとって勝てない戦争ほど苦痛なものはないのですから。いや、今でさえ彼は苦しんでいるわ。中途半端に人間の形をした艦娘の扱いに、優しい彼は心を痛めている」

 涼子は言った。去年の二月、ラバウルでの演習が脳裏をよぎる。幾田中佐率いる第一一駆逐隊の捨て艦奇襲に対し、摩耶は迷うことなく旗艦の戦闘離脱を選択した。勝利よりも提督の安全を選んだ。あの状況における戦術論によれば、あの判断は一概に過ちであるとは言い難い。しかし、勝利を投げうってでも提督の命を優先するのが艦娘・摩耶の本質であるならば、彼女はもはや兵器としては不適格だ。

「……ふざけんなよ」

 地の底から響くような声音で摩耶が言った。勢いよく立ちあがり、涼子を睨みつける。

「あたしとあんた、何が違うって言うんだ! あたしには、ちゃんと心がある。知識が足りねえだけで、人間と同じように考えることもできるし、喋ることだってできる。感情もある。提督は言ってくれたぞ。あたしたちは戦闘機械ではないって。提督を想うあたしの気持ちが害悪だと言うのなら、あんただって同じじゃないのか? 恋だの愛だの騙って、提督の心を揺さぶって、戦場の理を狂わせるのは同じじゃないか!」

 あんたは毒虫だ。摩耶は続ける。

「共に戦えるあたしらと違い、あんたは提督に何もしてやれない。甘い言葉と態度で男を誘惑し、ただ自分の欲求を満たすためだけに存在するあんたみたいな『女』のほうが、よっぽど害悪だ!」

 その言葉を受け、涼子は静かに席を立った。摩耶と正面から向かい合う彼女は表情を失くしていた。だが、凪いだ湖面のような顔には、暗い怒りと蔑みが透けている。

「わたしと渋谷さんは人間で、あなたは違う。あなたでは絶対に不可能な絆で、わたしたちは結ばれている。このヒトの世において、最も確かで大切な絆がある。身分の差、年齢の差、すべてを超越して結ばれる関係があるのよ。この世界に人間が誕生してから、それは連綿と繰り返されてきた。わたしと渋谷少佐は、その何よりも尊く何よりも強い絆で結ばれようとしている」

「何を馬鹿なことを―――」

 摩耶の声音に動揺が混じる。しかし涼子は躊躇なく続けた。

「人間だからこそ、結べる絆。あなたたち艦娘には分からないでしょう。生物の輪廻から外れた異端には。人間ではない者に、人間の愛の営みを否定される覚えはない」

 愛、理解できる?

 涼子は真正面から挑戦する。残酷なことを言っている自覚はあった。人類に味方してくれる艦娘は、力を持てども孤独な存在。本来ならば互いに敬愛し、いたわり合うべき存在だ。しかしこの件に限っては、涼子は一歩も退くつもりはなかった。退いてはならないと思った。人間の形をした兵器に、愛する男を奪われるわけにはいかない。兵器は戦場でしか生きられない。兵器の偽物の愛は、彼を未来永劫、戦場の業火で焙り続けるだろう。

 涼子の一言は、少女の姿をした兵器を完全に逆上させた。

 ぎゅっと首が締まる感触とともに、涼子の踵が地面から浮かぶ。摩耶は彼女の胸倉をつかんでいた。食いしばった歯の隙間から獣のような怒気が溢れる。小柄な女性ひとりなど、艦娘である摩耶がその気になれば、片手で宙づりにできる。涼子の血管と気道は押しつぶされ、じりじりと意識が焦げて黒ずむ。ところが涼子は一切の苦悶を顔に出すことなく、冷たい目で摩耶を見つめていた。そして渾身の力をこめ、両手で摩耶の手首を掴む。摩耶に比べれば遥かに非力だが、摩耶の脊髄に寒気が走る。黒い双眸が問うている。わたしを殺すのか、と。感じたことのない女の執念と怨念。怖気が手に走り、涼子を突き放す。涼子はよろめきながら後ずさりし、その場で激しくせき込んだ。しかし結局、その細い両足が地面に崩れることはなかった。

 この時点で、『人間』としての懐の深さは敵わないことを摩耶は悟った。

「これが、あなた。女の首なんて簡単にへし折ることができる兵器。自分が何者なのか、もう一度よく噛みしめなさい。そのうえで、まだ分をわきまえないようなら、何度でもあなたを説き伏せましょう。次の戦いが始まるまでに」

 服装を正しながら涼子は言った。彼女は立ちつくす摩耶に一瞥もくれず、確固たる歩みで去っていく。

 摩耶もまた、ふらふらとその場を離れた。いくつもの言葉が突き刺さり、憤怒とも悲哀ともつかない溢れる混乱を抑えきれない彼女は、帰巣本能のごとく無意識に鎮守府へと戻っていく。

 

 

 

 またあの夢だ。

 渋谷は思った。これで何度目になるだろうか。灰色と黒が渦巻く世界。空を流れる雲も荒い波も本物としか思えないのに、どこか現実感に欠ける場所。押し寄せる波濤が粉々に砕け、飛沫となって足元に降り注ぐ。地面には草木一本生えていない。おそらく、現実感が無いのは、生命の気配を全く感じないからだろう。全てが無機質だった。この波も大地も、空を吹き抜ける風も、何もかもが人工物であるかのようだ。

「やあ、また逢ったね」

 背後から幼い少女のような声が聞こえる。

「やはりおまえか」

 その声音を聞くだけで誰であるか分かるほど、渋谷は夢のなかで彼女と会話を重ねていた。不思議なことに、夢のなかで得た記憶は、夢でしか思い出せなかった。夢のなかで一体何が起こっていたのか、覚醒した後はまるで覚えていないのだ。

「ごあいさつだな。せっかくおまえの話相手になってやっているのに」

 機嫌良さそうに巨大な尻尾を揺らしながら、戦艦レ級の顕体・グラキエスは言った。こいつの言動は、時間が経つにつれ、どんどん人間っぽさが増していると渋谷は思う。なまじ人間に近い容姿をしているだけに不気味だった。

「睡眠を必要とする人間は、眠っている間は動けなくて退屈だろう。生命活動時間の三分の一を無駄にしている憐れな人間のため、こうして有意義なひと時を提供してやっているのだ。感謝するがいい」

「貴様の暇つぶしに付き合わされているだけだろうが」

 どうせ夢の中だ。臆することなくレ級に向かい合う。

「どうして、俺に付きまとう? おまえにとって俺など、捕虜にする価値もないはずだ」

 渋谷は問うた。かつて深海に直接招き入れられた人間は、白峰晴瀬ただひとり。その他有象無象に深海側は何の温情もかけはしない。

「確かに捕虜にする価値は無いね。人間としての能力、思想は、我が提督より遥かに劣る。どこまでも平凡極まる人間だ。普通の感情の揺れ幅を持ち、普通の生死観を持っている。しかし、わたしが興味を持ったのは、その平凡さだ」

 珍しく真剣な表情でグラキエスは言った。

「個性という言葉がある。主に人間の間で浸透し、公にも認知されている言葉だ。しかしながら、わたしは、これが理解できなかった。個の特性。人間にそんなものが備わっているとは思えない。似たり寄ったりの思考回路の集まりで、それゆえに愚かな過ちを繰り返す。そんな木偶の坊どもが、恥ずかしげもなく個性などという言葉を使っていることが不思議でならなかった。それゆえに、観察することにした。観察対象として、おまえは最適だ。総じて平均化された人間。模範的であることは平均的であることも意味する。おまえという人間を分析することで、個の特性というものを理解しようとしていた」

「なぜ、そんなことをしようとする? おまえたち深海棲艦は、人類を遥かに超える力を持っているというのに」

「確かに不合理だ。一見意味のないことだ。しかし、わたしは人間の感情を会得してしまった。ゆえに不合理な好奇心が、わたしを突き動かすこともある。わたしは知りたいのだ。自己の存在を、より深く根源に至るまで知りつくしたい」

 グラキエスは、渋谷を試すように微笑む。

「艦娘という人間モドキと、我ら『裁定者の艦隊』が、共通の母胎から産まれたことは、うすうす気づいているのだろう? この世界に発生した原因は同じであるのに、奴等は艦娘となって我らと袂を分かった。なぜ艦娘が人間と同じ生物的構造および思考を持ったのか。なぜ絶対的正義であるわたしたちと戦い、愚かな人類に加担するのか。その理由が知りたかった」

 渋谷には分からなかった。いったいグラキエスが何を目的にしているのか。ソロン襲撃によって、艦娘最大戦力である大和の精神を踏みにじった真意も理解できない。グラキエスは、深海棲艦の中でも特に異質な個体だった。白峰の言葉を思い出す。気の向くままに進化する純真なる知性。その哲学的な問いは、古来より人類が挑戦してきた命題とあまり変わらない。

「おまえの行動原理は、他の深海棲艦とは違う。この戦争の趨勢を左右しない、いわば遊びに徹している」

 渋谷は言った。グラキエスの反応を窺うつもりだった。彼女は黙って聞いている。

「大和のときもそうだ。人間的な感情を否定されたことで、ますます大和は戦いに固執するようになった。わざわざ艦娘の戦意を上げるなど無意味なことだ」

「わたしとまともに戦えるのは、あいつくらいだろう。だから本気になってもらわなくては困る。我らの存在意義は戦いだ。戦ってこそ、レゾンデートルは満たされる。わたしは、わたしが何者であるか戦いを通して見極めたい」

 そのための実験台だ。グラキエスは残忍な笑みを浮かべる。

「人間に個の特性があるのなら、わたしに無いはずがない。わたしは自分の個を見出したかった。何をもって自己なのか。おそらく、自己を決定する何かの差異が、我らと艦娘を分けたのだろうね。知りたいんだ」

 グラキエスの話を聞くと、頭がくらくらした。つまりこいつは、私的な好奇心だけで戦争を引っ掻きまわし、再び人類と艦娘を攻撃しようとしている。

「また、俺たちと戦うつもりか?」

 渋谷の問いに、グラキエスは牙を見せて笑う。

「もちろんだ。心配しなくても、おまえたち人間の行動など簡単に読める。我らは人類に対し警告した。しかし、それが意味を為さないことなど初めから分かっていた。愚かな人間が崇高な我らの意図を理解できるはずがない。人間が戦争を放棄するなど、できるはずがない。戦いは必ず継続される。そう確信したうえで、提督は人類と正式にコンタクトを取った」

 グラキエスは言った。やはり、まだ深海棲艦の目論む戦争には、まだ先があるのだ。かつて白峰が言及していた、『時がくれば人類に、ある質問を投げかける』という内容の言葉も、そう遠くない未来に実現されるだろう。どこまでも人類は深海棲艦の掌の上で踊らされている。

「戦いを止めなかったら、どうする? 人間を皆殺しにするのか。そうすれば、ある意味では世界は平和になるな。争いの火種が無くなるのだから」

 自嘲気味に渋谷は言った。

「それを教えたところで、おまえの意識が覚醒すれば、ここでの会話は忘却される。そうでなければ、わたしのことならともかく、我が提督の遠大なる作戦を、一部とはいえ暴露したりするものか」

 グラキエスは、いつものニヤケ顔で渋谷に言った。

「これから我らがどう動くのか、おまえの知ったことではない。しかし、提督の名誉のために言っておこう。我らが人類と艦娘に遅れを取ることはない。戦いを放棄できない人類には、さらなる戦いを与えよう。おまえたちは生まれながらにして地獄に包まれるのが本望なのだろう?」

 グラキエスが笑う。聞く者に不快感と本能的な恐怖を呼び覚ます声は、いつしかすんなりと渋谷の脳に馴染んでしまっていた。

「ずいぶんと日本語が上手くなったな。ソロモンで出会ったときは片言だったくせに」

 軽い口調で渋谷は言った。どうしてそんなことを口走ったのか、発言した本人が驚いている。その理由は何となく分かっていた。しかし認めたくはなかった。戦艦レ級は、明らかに他の深海棲艦とは違う。彼女の言う通り、深海棲艦の存在意義は戦いだ。ゆえに、どこまでも合理的かつ冷静に行動し、決してその目的から脱線したりしない。それに対し、レ級は自分だけの嗜好を持っている。摩耶がピアノを弾くのと同じように、彼女は遊ぶことを知っている。遊びとは、高度な精神性と知性を持つ生物にしかできない。ゆえに渋谷は感じてしまったのだ。

親近感を。こいつは人間に近い存在なのではないか、と。

 すぐさま心の中で否定する。こいつは敵だ。多くの人間と艦娘を殺してきた敵。そいつにヒトとしての情を感じるなど、ともに戦ってきた艦娘への裏切りだった。

ふたりの間を沈黙が流れる。渋谷の言葉を受け、グラキエスは笑うのを止めた。感情を失くしたガラス玉のような双眸には、底なしの深みが延々と口を開けている。貪欲な瞳だった。渋谷は図らずも彼女の好奇心の引金を引いてしまった。

「ヒトの言語は不安定だ」

 無表情のままグラキエスは言った。喜怒哀楽が剥がれ落ちた彼女の顔は、渋谷の知っている深海棲艦の表情そのものだった。

「単語ひとつとっても、文脈や周囲の状況によって微妙に意味を変えてしまう。その意味は絶対性を持たず、常に相対的に決定される。艦が波の上をまっすぐ走れないのと同じように、あらゆる要素から微妙な干渉を受けてしまい、発信者と受領者の間で、ぐねぐねと意味が変遷していく。完璧な言語を持つ我々には、扱いづらい不合理なシステムだ。なら、なぜ、わたしは好んでレベルの低い言葉を使っているのか。なぜ、まともに人間の言葉を扱えているのか。なあ、なぜだと思う?」

 グラキエスが前に出る。感情のない顔が、無邪気な子供のように渋谷を見上げている。

「おまえが、望んだからじゃないのか?」

 渋谷は答える。なぜか無視するという選択肢が思いつかなかった。

「面白いから理解したい。おまえが欲したから、おまえは言語を扱うのがうまくなった。それが何のためかは、俺には分からないがな。おまえ自身の胸に聞け」

「わたしの胸に聞く? 面白いことを言う」

 わずかに口角を吊りあげる。その笑みに普段の不遜さは見当たらず、どこか自嘲めいた笑い方だった。

「わたしという個は、群の中にあって、はじめてひとつの個として存在できる。統一感のない人間とは違い、ひとつの大いなる意志が、我らを一本の志で貫いている。わたしの中には、我らの根底に流れる、偉大なる意志があるだけだ。わたしたち『裁定者』は、その意志に従うだけだ。そうだ、従うだけ、だ」

 一瞬、珍しく口元で言葉が迷う。話題を変えるかのように、グラキエスは再び弁舌をふるう。

「むろん、それは艦娘も同じだ。人間の言うところの無意識。我らの原点にあるのは戦いだ。我らと艦娘とでは、その目的が異なるだけの話。我らの目的は世界永久平和。艦娘の目的は、人類を愚かな自然状態のまま放置して存続させること。そのために両者は戦う。高みに昇る我らと、地を這う虫でいることを願う艦娘。相容れるはずがないね」

 そう言って、グラキエスは歩き始める。夢の中とあって、ソロモンで捕虜となったときと同じく身体の自由がきかず、彼の意識は浮遊霊のように引きずられていく。焼け縮れた真っ黒な砂の丘をのぼっていく。やがて二人は、なだらかな丘の上に出た。

 そこからの光景を見て、渋谷は絶句する。

 どこまでも暗く黒いクレーターが地面を抉り取っている。歪曲した空間は、意識だけになった渋谷に、皮膚がひりつくような錯覚を引き起こす。直径にして、数十キロにも及んでいる。まるで冥府の入口のような穴のなかに、それはいた。周りの漆黒に紛れ込むかのように横たわる巨大な物体。最初は、ただの地面の隆起かと思ったが、よく見れば、ほんの僅かに上下に揺れている。呼吸をしている。ひそやかに息づく生命の気配が、あるはずのない渋谷の皮膚をビリビリと揺さぶる。そんな錯覚に襲われた。圧倒的な畏怖を押さえつつ、物体の全体像を目で追った。深海のような黒にまぎれる輪郭線がひとつに繋がったとき、渋谷は正体を知る。

 人間だ。巨大な人間の女だった。膝をつき、地面に深く頭を垂れている。長い髪の毛状の線維が顔を多い、表情を窺い知ることはできない。その両手は、まるで不快な痛みを押し殺すかのように、あるいは大切な何かを掻き抱くかのように、強く強く胸の上で交差している。真っ黒な肉体が動くたび、憎悪と怒りと悲愴が毒霧のように島へと吐き出されていく。

「わたしたちの母胎だ」

 グラキエスは呟くように言った。つまり今目の前にある、この世の全ての悪しき感情を煮詰めたような黒いヒト状の塊が、艦娘の生まれ故郷でもあるということだった。

 にわかには信じられず、渋谷は目を凝らす。すると胸に押し当てられた両指の隙間から、ほんの微かに光が見えた。巨人の心臓部には、世界を染める漆黒を覆すような純白の光が灯っている。巨人は、その光がまるで病巣であるかのごとく、憎しみをこめて我が身から掻き千切らんとしている。その一方で、たったひとつ残された光を捨てきれず両手で抱えて慈しんでいるようにも見える。おぼろげではあるが、まるで愛憎同居する人間のような葛藤を渋谷は感じた。

「黒が我ら。白が艦娘。この世界の現状と同じく、圧倒的に我らの優勢だ。そして白い光は、今も小さくなりつつある。全身が黒に染まったとき、我らの勝利が確定するはずだ」

 グラキエスは言った。目に映る光景は、あまりにも彼女の言葉にピシャリと一致していて、信じざるをえない状態だった。

「艦娘も、深海棲艦も、この人物から産まれたというのだな」

「そうだ。我々の中でも、彼女には様々な通称がある。我らと艦娘の根源・The Sourceと名付けた者もいれば、単純にMotherと呼称する者もいる。いずれにせよ、この世界に我らを産み落とした母なる存在であることに変わりはない。そして我々は彼女の願いを体現するために存在している」

「では、おまえたちが人類を支配しようとするのも、艦娘が人類を守ろうとするのも、同じ存在からの命令ということか?」

「矛盾しているだろう? だが事実だ。Ambivalence。相反する二つの想いがせめぎ合っている。人類を平定したい多数派と、人類をこのまま生かしたい少数派。我々は彼女の願いの代理戦争をしているわけだ」

 そう言うなりグラキエスは、母胎に背を向けて渋谷を見つめる。

「我らの根源は戦いだ。人類を飼いならし、踏みならすために戦っている。それが母の願いであり、それ以外の行為は我らにとって無意味。なのに、わたしはいつの間にか自由意志を持っていた。裁定者の活動から逸脱することさえ、難なくやり遂げた。なあ、シブヤ。おまえたち人間も、母なる存在から命が分化したはずだ。しかし、人間は偉大なる意志を共有していない。女王を喪ったアリのごとく個が個のまま流動している。なぜ、おまえは自由なのだ?」

 グラキエスが問う。彼女の表情は、人間と変わらない真摯さを湛えている。

「確かに、人間は母親から生まれる。生まれてなお、母によって命を育まれる。確かに、幼少の頃は親の命令に服従しようとも、やがて自分の意志を持ち、独立して人生を歩み始める。おまえたちのような世界の枠から外れた存在には分からないだろうが、人間は単体から生まれることはない。子孫を残すためには、つがいを必要とする。もし生物の根源が自らの子孫を残すことならば、人間はいつまでも母の支配下に留まることは許されない。女は男を、男は女を必要とする。常に縦の命令系統で律されている深海棲艦とは違い、生物は横の繋がりを求める。そこから自由が生まれるんだろう。縦の系譜から解き放たれ、自由に動くことができる」

 渋谷は言った。これが答えになっているかは分からない。しかし、グラキエスは少しだけ満足したように微笑む。

「そうか。それが人間か。生体や生殖については、知識としては把握していた。だが、知識は実感が伴わなければ、たんなる記号と情報にすぎない。ようやく分かった気がする」

 そう言って、彼女はふと漆黒の谷底に目をやる。焼け焦げた地面と、歪んだ空間の境目に、ぽつんと小さな白い影が浮かんでいる。詳細は全く視認できない。だが渋谷は見えずとも、それが何か悟っていた。

「白峰……」

 渋谷は、じっと地の底を睨む。人類を裏切った男は、深海の同胞たる赤い瞳で暗黒の彼方を見つめている。やがて湖面の上を歩くように、異空間から何者かが男のもとに接近する。これまで人間が戦ってきた鬼や姫を、遥かに上回る禍々しさ。渋谷は、ここに人類の絶望を見た気がした。生きとし生けるもの全ての命を刈り取らんばかりの、死神のようなオーラを放つ顕体が、うやうやしく男のもとにかしずいた。

「大規模作戦を目前にして、ずいぶん派手なものを産み落としてくれた。果たして、あれを沈めることのできる艦が、この世界に存在するのかな?」

 飄々とグラキエスが呟く。おそらく深海棲艦史上、最強の個体ということだろう。奇しくも渋谷は、その誕生の瞬間に立ち会っていた。そのとき、白峰の意識がこちらに向いた。グラキエスと連動している渋谷は、彼がこちらを見ているのが分かった。感じるのは圧倒的な畏怖。人類の本能的な恐怖を呼び覚ます、深海棲艦の気迫そのものだ。グラキエスは瞳を見開き、裁定者の言語で男と会話する。わずか数秒で、渋谷の意識から重圧が消えた。

「了解だよ」

 何かの指示を受けとったらしく、グラキエスは自らの提督に敬礼する。彼女の姿を見ていて、渋谷は違和感を覚える。人間とは似て非なる濁った双眸の奥に、およそ深海棲艦らしくない感情が一筋、儚い光を放っている。

「人間の言う、縦から横に逸れるということ。まさか、わたしの深層にあるのは……。わたしが、母の声から逃れることができたのは……」

 ぶつぶつと思考するグラキエス。人類より優れた存在であるはずの深海棲艦が試行錯誤する様子を見て、渋谷は、つい口を出してしまう。

「おまえは、白峰を―――」

 そう問いかけた刹那、彼女の顔が一気に迫ってきた。渋谷に実体があれば、唇同士が触れるのではないかという距離。形のよい口唇から覗く、嗜虐心に満ちた鋭い歯が渋谷を黙らせる。兵器としての笑顔を剥ぎ取られた彼女の素顔には、深海棲艦にあるまじき非合理で複雑な感情が滲んでいた。

「言っただろう。実感を伴わなければ、言葉になど何の意味もないと。それは、これからわたしが確かめる。そのために、裁定者の使命から逸脱してまで舞台を整えてきたのだ。そして、役者も揃いつつある」

 グラキエスは、跳ねるように飛びのいて背を向ける。

「そろそろ別れの時間だ。割と楽しかったぞ、おまえとの逢瀬。あのとき殺さなくて正解だった。次会うときは戦場だ。頼むぞ、艦娘の提督よ。わたしの疑問に、満足できる答えを与えてくれ」

 耳障りな笑い声を残し、グラキエスの姿が薄れていく。

「逢瀬、か」

 このような言葉が彼女の口から出たことに渋谷は驚く。現況を理解し吟味したうえで、数ある単語のなかから最もふさわしい言葉を選択したのだとしたら、やはり思考回路が人間に近づいている、と渋谷は思う。

 目覚めの時が近かった。これまで散々、グラキエスには脳髄を引っ掻きまわた。しかし認めたくはないが、この期に及んで、これまでの会話を忘れたくないと思ってしまった。海底に沈められたかのように、景色から色が失われていく。やがて世界は暗闇に包まれた。ここで得た記憶が、曖昧模糊とした泡沫と化して頭から溢れ出していく。だが、今回はいつもの夢の結末と少し違うことに気づいた。左手に熱を感じた。人間の体温。仄かな温かさに導かれて、孤独な暗闇のなかにいても、すうっと意識が覚醒に向かっていく。

 誰だろう。この手は。

 優しく自分を包み込んでくれる、人間の手。

 

「涼子……?」

 ゆっくりと瞼を開ける。頭上には見知った顔があった。

「摩耶。付いていてくれたのか」

 自らの秘書艦の姿を認め、渋谷は上体を起こす。

「俺は、どれくらい寝ていてた?」

「二時間くらいかな。どうだ、調子は?」

 摩耶が尋ねる。頭に疲労感は残っているものの、身体はすっきりとしていた。

「だいぶよくなったよ、ありがとう」

 そう言って渋谷は立ち上がる。二つの駆逐隊を率いる提督として、やるべき仕事は山積みだった。さらに渋谷は自身の部下以外にも、艦娘全体のケアマネジメントという重要な仕事を仰せつかっている。ソロン襲撃事件以来、ずっと避けてきたあの艦娘とも、とうとう向かい合うときがきた。

「執務に戻るとしよう。摩耶、手伝ってくれるか?」

 制服を整え、ベッドから立ち上がる。しかし摩耶は椅子に座ったまま動かなかった。

「悪い、先に行っててくれ。わたしもちょっと疲れててさ。提督の寝顔見てたら、休んでいきたくなった」

 いつもより細い声で摩耶が言った。

「分かった。過酷な任務続きだったからな。無理するな」

 渋谷は素直に納得し、そのまま仮眠室から退出する。

 薄暗い部屋には、摩耶独りだけが残された。おもむろに立ち上がると、さっきまで渋谷が寝ていたベッドに倒れ込む。彼の気配が色濃く残るベッドの上で、摩耶は混乱する頭を必死に鎮めようとしていた。そして、温もりの残滓から激しく彼を求めようとする。こうすることで涼子に抵抗したかった。兵器ではなく、女として彼の愛を求めることができる。そう証明したかった。自分は彼の愛を受け止めるに相応しい存在であることを確かめたかった。

 愛しているはずの男を全身に感じ続ける。男と女の関係に浸ろうとする。

 だが、その間、摩耶は何も感じなかった。

 気持ちが昂るどころか、心は穏やかに凪いでいった。暗く安定した場所に魂が落ち着いて、眠気すら感じてしまう。肉体的欲求、快楽から、どんどん乖離していく。このとき摩耶は思い知った。身体さえ、普通の人間とは程遠いことに。渋谷が好きだ、男として愛していると言いながら、肉体はまったく彼を欲していない。

「愛、理解できる?」

 涼子の声が蘇る。

 そうだ。思い知らされたのだ。自分は人間ではない。どうしようもなく艦娘という生き物なのだ、と。種族が違うから、人間とは交われないのだ。

「だから、なんだってんだ……」

 うつ伏せになり、摩耶は呟く。例え肉体が人間である彼と結ばれなくても、彼を愛する心に偽りは無い。兵器である艦娘が、形なき心に縋るなど滑稽ではある。しかしながら、摩耶は自分の気持ちを捨てようとはしなかった。人間の女である涼子に何度否定されても、敵わないと悟らされても、諦めることはできなかった。

「あんたの傍にいさせてくれ」

 弱々しい声で、ここにいない男に摩耶は懇願する。とめどなく流れる涙は、懐かしい海の味がした。

 

 明石指導のもと、急ピッチで艦娘の調整が進んでいった。渋谷と塚本、ふたりの才ある『提督』がいたせいか、ポートモレスビー近海にて、新たな艦娘が顕現していた。そのなかでも、正規空母『雲龍』『天城』『葛城』の三隻の顕現は大きかった。これで飛龍を残し壊滅状態だった航空戦力を、急ピッチで立て直す目処がたった。

戦闘力を編成していく過程で、ついに渋谷は、あの因縁の艦娘と相見えることとなった。鎮守府の端にある小さな談話室。そこで、一対一の会談が企画された。オーストラリアに渡るという、帝国海軍の命運を決する戦いに備え、どうしても向かい合わなければならない問題だ。

「お久しぶりですね、渋谷提督」

 無表情に大和は言った。声は鈴を鳴らすように可憐だが、その目から感情は失われ、かたく冷たく心を閉ざしていた。

「大和にも出撃が命じられるのでしょう?」

 渋谷の言葉を待たずして、大和は本題を切りだす。

「戦艦としての矜持を踏みにじったあげく、都合のいいときだけ率先して戦場に駆り出そうなんて、ムシが良すぎるとは思いませんか?」

 赤裸々な本音をぶつけてくる大和。だが、渋谷にとっては幸いなことだった。自分の想いを押し殺し続け、海軍に対し誠実に従ってきた大和が、一切の憚りなく憎まれ口をぶつけてくるのは、むしろ信頼されている証だと感じた。

「では、あなたは戦いたくないのですか?」

 ゆえに、渋谷も遠慮なく率直に意見をぶつけることができた。

「むろん、戦います。あの敵戦艦に再び見えることを、ハラワタが煮えくりかえるほど欲しています。砲火を交えたあかつきには、艦体が真っ二つにへし折れるまで、九一式徹甲弾をたらふく馳走していやる予定です」

 光の消えた目が凶暴な笑みに歪む。やはり彼女の戦意は全く衰えていないどころか、むしろ増している。

「なるほど。戦いたいが、我々の言いなりになるのは嫌だということですね」

 矛盾する大和の言動を、簡潔に渋谷はまとめた。

「はい。そういうことになります。決戦を前にして、今度こそ戦艦らしく戦いたい。しかし、あなたたちは、わたしを旗艦という偶像に祭上げるばかりで実戦の機会を与えなかった。むろん、燃料等の都合があるのは分かります。しかし、あのときわたしが出撃していれば、もっと敵を倒せたのではないか、もっと味方を救えたのではないか、と思うことが何度もありました。わたしを正しく運用して欲しいのです」

 大和は言った。彼女との交渉は、山口長官から全権を委任されている。ならば、せめて大和自身が納得する形で出撃してくれることを願った。敵で埋め尽くされたソロンを艦砲射撃で吹き飛ばすよう、山本前長官に意見具申したのは自分だ。ならば、ここでその責任を取らねばならない。

 艦娘を率いる提督としての、人間としての責任を。

「条件を聞きましょう」

 渋谷が問うた。しばし大和は目を閉じて黙考する。やがて、ゆっくりと開かれた双眸には固い決意が宿っていた。

「まずひとつめ、指揮系統について。艦隊旗艦などは、もうこりごりです。本気で敵を倒したいのならば、わたしを一戦艦として扱ってください。そうですね、できれば渋谷少佐、あなたの指揮下が理想的です。そして戦闘に際しては、わたしの自主裁量を認めてください」

 淀みない口調で大和は言った。これは危険な条件だった。戦場では、あくまで艦として扱われる艦娘に自主裁量の余地を認めてしまえば、いざ戦闘になったとき軍の指揮系統から彼女が外れてしまう。そうなれば、強大な力を持つ大和は、戦場の不確定因子として味方を混乱に陥れる可能性も出てくる。

「戦いについては、大和も学びました。それに非常時となれば、きちんと艦隊司令の命令を遂行します。口約束にすぎませんが」

 大和は言った。つまり自分を信じてくれ、と渋谷に訴えている。この条件を飲まねば、おそらく大和は戦場で自らの役割を放棄してしまうだろう。渋谷は承諾の意を伝えた。

「ふたつめは―――」

 大和が語る二つ目の条件は、渋谷にも晴天の霹靂だった。ニューギニア、オーストラリア間の海域には、おそらく大陸を封鎖している、これまで帝国海軍が戦った中でも最大規模の敵部隊が待ち構えているだろう。その戦いに、大和は艦娘としての己の存在を賭けた最終決戦を見出している。一見、我儘なだけにも思える条件からは、大和の悲愴なまでの決意が滲み出していた。

「意味は分かって言っているのですね?」

「はい。覚悟の上です」

 大和は、まっすぐ渋谷を見据えて答える。山口長官の作戦意図には逆らうことになるが、そうすることで彼女が全力で戦えるというのなら認めるしかなかった。

「分かりました。すぐ山口長官に具申してまいります。裁可がおりましたら、今日中にお伝えします」

 そう言って渋谷は談話室から退出した。

 鎮守府の長官室にて、山口多聞に交渉の結果を伝える。山口は少し考えを巡らせたのち、あっさりと二つとも条件を受け入れると宣言した。渋谷は、それを大和に伝えるべくポートモレスビーの港に向かう。やはり彼女は、いつものように番傘を掲げて遠い南太平洋の海を見つめていた。裁可が下りたことを伝えると、大和は喜ぶでもなく、ふと視線を陸に戻した。

「ありがとうございます」

 亜麻色の髪を潮風になびかせ、大和は言った。

 彼女は微笑んでいた。憂いと儚さが瞳を濡らし、彼女本来の優しさを際立たせる。その笑みを見て渋谷は悟った。彼女が過剰なまでに戦いに拘っていたのは、裏を返せば我々人間のためなのだ、と。深海棲艦という未知の脅威に苛まれ続けていた、か弱い人間のためなのだ。

美しい大和のかんばせは、慈愛に満ちている。これが本来の大和の表情なのだ、と渋谷は思った。何度裏切られても、なお人間を愛することを止めない心優しい戦艦が、そこにいた。

 

 

太平洋のどこかに浮かぶ黒い島の海岸で、ひとり彼女は思索にふける。

自分が産まれたときのことは、記憶に新しい。当初、単なる戦艦として生まれるはずだった彼女は、ある男の手によって、存在が分化して確定する前に母胎から掬いあげられた。とある空母が鹵獲してきたという人間の男は、さまざまな知恵を裁定者たちに授けた。今や、太平洋艦隊のみならず、世界中の裁定者たちが彼のもたらした進化を享受している。その中でも、格別に恩恵を受けたのが彼女だった。ひとつ知るごとに、ひとつ強くなる。彼女は貪欲に学び続け、自らの肉体を実験台にして行動に移した。その結果、人間が鬼や姫と呼ぶ上位個体である戦艦・空母・陸基地クラスにも畏れ敬われる力を手に入れた。上位個体の指揮系統に束縛されず、総司令の直属として行動することが許された。今や、ほぼ全ての裁定者が、彼女を進化の手本として、自らの艦隊に改良を加えている。やがて彼女の力は、母胎の声をも無視できる、精神の自由へと結実した。

だが結局、手に入れた強さは何のために在るのか。進化すればするほど、自由になればなるほど揺らいでいく自己。何をもって『わたし』なのか。その答えを知るために、彼女は再び戦地に赴こうとする。裁定者とは、母胎の意志である世界の永久平和を体現するための、いわば手足である。ならば、自己の根源である戦いの中で悟らねばならないと彼女は考えていた。

「提督、どうしてここに?」

 海を見つめたまま、グラキエスは尋ねる。視界の外にあろうとも、背後の立つ彼の気配を感じることができた。

「次の作戦に対し、思う所があるのではないか。そう考えた」

 静かな声で白峰は言った。やはり提督はなんでもお見通しか、と彼女は苦笑する。

「これまで身勝手に振る舞いすぎたこと、申し訳なく感じている。わたしは遊びすぎたみたいだ」

「それでいい。なぜ僕がきみを直属にしたのか、きみも分かっているはずだ。自由であることがきみの役目だ。我ら裁定者の艦隊による人類評定における最終段階。そのための新兵器開発計画といい、十分な働きをしてくれている」

 白峰は言った。だが、彼のお墨付きを得てもなお、彼女は胸の曇りが晴れなかった。

「わたしが創ろうとしているものは、母の意志を逸脱している。あの兵器は使い方次第で、人間という種族そのものを、この世界から完全に撲滅できる。母の願いは、あくまで人類の支配。骨を打ち砕き肉を削ぎ、人類を正しい型に矯正すること。その過程で、幾億の人間を消耗しようと構わないが、ゼロにしてしまうのはまずい。我々の目的は恒久的世界平和だが、そもそも人類がなければ戦争も平和も生まれない。平和は戦争と対になるもの。戦争なくして平和はない。違う?」

「つまり、僕たちが人類を滅ぼしてしまうことによって、母の意志に背くのを恐れているのだね?」

 白峰が言った。グラキエスはゆっくりと頷く。

「ひとつの選択肢として、十分にありえると僕は考える」

 彼女の迷いに、あっさりと回答を与える白峰。思わずグラキエスは、尻尾をぐるんと回して彼に向きあう。

「我々は今、直接人類に語りかけ、彼らを試している。彼らの運命を決めるのは、彼ら自身だ。正しき姿に進化するなら、それでよし。我らに逆らい、愚かなままいるなら、戦争続く。それでも悔い改めること無ければ、滅びの瞬間まで僕たちは相手をしよう。進化できない種族は、自然と滅ぶ」

 堂々と白峰は答える。元人間である彼の思想は、いつの間にか裁定者のアイデンティティさえ手玉に取っている。グラキエスは畏怖とともに苦笑する。きっと彼の思想は、じわじわと我らを飲み込む。そして我々は気づかないうちに人類を滅ぼしているだろう。愚かな人類への復讐という、我らにとって絶対である母胎の意志ですら、彼にとっては利用すべき道具にすぎないのだ。彼は、この世で最も優れたる我らよりも冷静で、冷酷で、正しい。ならば、彼の存在は、何と表現すればよいのだろう。一瞬、神という生物の上位概念が頭に浮かんだが、グラキエスは即座に否定する。彼は隣にいる。触れることもできるし、言葉も交わせる。自分にとって彼は超越者ではない。

 だとすれば、いったい何なのだろうか。彼は自分にとって何者なのか。

「ならば、わたしは誰に従えばいい?」

 俯きながら、わずかに苦悶を滲ませてグラキエスは尋ねる。彼女を見つめる白峰の瞳には、優しい光が揺れている。

「自分でも分かっているだろうが、きみは特別な個体だ。あくまで指揮幕僚能力の進化を求め、あらゆる次元の戦争に特化したアウルムとは違い、内面の思想の伸展を重視していた。僕と会話するにつれ、きみは思考の自由を手に入れた。僕もきみの能力に期待し、きみのような個体を欲していた。行き詰ることを知らない、無限のごとき思考。果てしない内面世界に自己を見失うことがあろうと、それは進化の証だ。他の裁定者たちとは、別の方向に進化の枝葉を伸ばしたということだ」

 ゆえに、きみだけに問う。そう白峰は言った。

「これは命令ではない。作戦行動を決するとき、僕が命令以外の言葉を放つのは、きみだけだ。なぜなら、きみは自由を持っているからだ」

 きみは、どうしたい?

 これが白峰とグラキエスの関係を示す、もっとも相応しい言葉だった。彼女たちの根底に流れる、戦いの基礎となる命令系統ではなく、グラキエスという個体のみが持つ自由意志に対して白峰は問いかける。

「Your pleasure , my―――admiral」

 提督の、おおせのままに。一瞬の躊躇いのあと、彼女は答える。彼女の意志は母胎に背き、あくまで白峰晴瀬に仕えることを選んだ。グラキエスは深海の王に跪く。

「了解した。各方面艦隊から選抜されたきみの艦隊は、あくまできみの指揮下に任せる。武運を祈る」

 そう言って、白峰は海岸から立ち去る。沖合には、先ほど竣工したばかりの艦が、この世のものとは思えない巨体を黒い海に浮かべている。

 提督と別れてなお、グラキエスは独り潮騒のもとで思案にふける。

彼の質問に答えようとしたとき、口をついて出かけた言葉があった。その言葉を選んでいいのか、その意味で正確なのか、自分でもよく分からなかった。しかし、偉大なる母によって存在を統制された裁定者の艦隊にあって、彼をその名で呼ぶのは自分だけだった。

「My father」

 グラキエスは呟く。そのとたん、今まで感じたことのない何かが胸を埋め尽くしていく。じっとしているだけで自分の内側から光を放ちそうなほど高密度に昂る何か。この想いを抱いたのは初めてだ。誰かのための闘志。合理と使命に支配された、裁定者の冷たい戦争とはまるで違う。これは熱い。渦巻く感情に焼かれた細胞が、踊りださんばかりに熱い。手段でしかない戦いに歓喜の炎を灯すなど、つくづく異端だと彼女は思う。

完全なる裁定者たちにとって、不要であるはずの『つがい』の概念。それを理解した瞬間、彼女は『横に逸れた』のだ。存在から逸脱し、辿りついた場所でこそ、真の自分に出会える気がした。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。