【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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 深海棲艦の海洋分断により、本土、中部太平洋、南部太平洋の戦力は分断された。補給が途絶えた今、動けるときに動かなければ生存の道は閉ざされる。しかし、艦娘を持てる海軍と、持たざる陸軍の間で、早くも不穏な亀裂が生じ始めていた。


第十三話 大洋を分かつ

 戦争は、あくまで自らの目的を相手に強制させるための手段である。よって、宣戦布告なき戦いは、もはや戦争とは呼ばない。ゆえに深海棲艦が出現して三年、人類の主権国家は、まったく未知の戦いを強いられてきた。有史以来、このような戦いは経験がなかった目的はおろか、敵の狙いすら分からない。中身のない、不気味で虚ろな戦いだ。太平洋海域において唯一、深海棲艦と渡り合える海軍力を擁する大日本帝国ですら、この戦いに正式な名前を付けあぐねていた。

 ところが一九四四年三月。

 深海棲艦は人間の言葉を使った。そして、その言葉をもって人間に語りかけてきた。自らの目的を示した。それを人類に強制させようとする、確固たる意志を。この瞬間、正体不明だった戦いは、人類馴染みの『戦争』へと姿を変えた。深海棲艦による宣戦布告は、同じ日、同じ時に全人類へと通達された。艦娘という力を得て、太平洋の覇者を気どっていた海軍でさえ一瞬で恐慌に陥った。ここぞとばかりに出没する深海棲艦の大部隊は、まるで木綿糸を斧で切断するかのごとく、過剰とも思える戦力をもって海上輸送網を引き裂いた。一切の食糧、弾薬、医療品とともに情報をも断たれた前線だったが、本国の混乱は火を見るより明らかだった。

 本土を守る艦娘も一定数存在している。しかし、彼女たちの戦力だけでは中部太平洋、南太平洋の敵を突破できないだろう。本土からの応援は期待できない。前線の兵たちは、はやくも絶望に侵されつつあった。補給が無い以上、このまま座して待っていても干上がるのは時間の問題だ。ニューギニア島はともかく、泥とジャングルと病原虫に囲まれたソロモン諸島の島々では、一時でも補給が途切れたら軍は死に絶える。さらに武器弾薬が尽きれば海に出ることもできない。ポートモレスビーの連合艦隊司令部では、高級将校たちが青ざめた顔を歪ませながら今後の指針を模索していた。山本長官の不在が、混沌に拍車をかけていた。レ級艦載機による急降下爆撃は、連合艦隊の心臓部を射抜いた。宇垣参謀長は死に、重傷を負った山本は本国に送還された。彼の後釜として古賀峯一大将が前線に着任する予定だったが、このタイミングで輸送網の破壊である。前線は頭を失くしたまま、手足だけが右往左往している状態だった。

 指揮系統の不明確は部隊の致命傷である。早急に、臨時の司令長官を決める必要があった。幸いにして、適格者を選び出すのに時間はかからなかった。

 休憩という名目で騒がしい大和の艦橋を抜けだし、その男は深夜の波止場を歩いていた。その傍らに、ひとりの娘が肩を並べている。父親を気遣う娘のように、そっと彼を目で追っている。歳を経てなお精悍な男の横顔に、おぼろげな南半球の月を重ねていた。

「大変なことになったね」

 正規空母の魂である、飛龍の顕体は言った。

「大変なのは、この戦いが始まってからずっとだろう」

 男は焦る様子もなく答える。

 山口多聞中将。彼こそが山本長官の後をつぎ、臨時の第一艦隊司令長官となった男だ。最終的に前線の行く末を決めるのは彼だった。南方戦線に孤立する幾万もの将兵の命運は、彼の双肩にかかっていた。

「我々にとって現状は最悪に近いが、長い目で見れば、これは人類にとって良い傾向なのかもしれん」

 重責を自覚してなお、曇りなき瞳で飛龍に語りかける。

「どういう意味?」

「これまで一方的に攻撃してくるだけだった深海棲艦が、初めて人類に交渉を持ちかけた。奴等は人間と同じ土俵にまで降りてきたのだ。それだけで気持ちが軽くならないか?」

 山口の思わぬ発言に、飛龍は目を丸くした。多聞丸に見えているものは、他の人間たちとは違う。改めて飛龍は、自らの提督を尊敬の面持ちで仰ぎ見る。

「深海棲艦も弱ってるってこと?」

「そうだな。奴等の戦力が圧倒的に人間を上回っているのであれば、宣戦布告などせず一方的に反乱分子を叩き潰せばよいだけだ。交渉を持ちかけたということは、奴等が自力で目的を果たすことのできない証明でもある。ならば我々に勝機もあるだろう」

 山口は言った。実際のところ、深海棲艦の武力は圧倒的だ。それでもなお目的を果たせないのだとしたら。世界平和か、と山口は呟く。人類の業の深さを垣間見た気がした。

「いいと思うよ、その考え方。わたしも緊張が解けてきた」

 飛龍は笑顔をつくった。そんな彼女を、山口は優しく見守る。ガ島攻略作戦で仲間の正規空母を三人も喪った彼女は、まだ心の傷が癒えていないはずだ。繊細な少女の魂ならば、戦いを放棄してもおかしくはない。しかし飛龍は、まだ自分を提督と慕ってくれる。命じれば迷いなく海に出るだろう。ならばせめて、人生の先達として、彼女を正しい方向に導かなくてはならない。

「あいつらの世界平和なんて、絶対ろくなもんじゃないよ。艦娘の意味とか、国の行く末とかも、今はどうでもいい。わたしは戦う。信じるのは提督だけ。多聞丸だけだよ」

 穏やかに、しかし凛として飛龍は言った。彼女の決意に応えるように、山口は頷く。もう後には引けなくなった。彼の心のなかで、飛龍の存在は、そろそろ部下という記号的枠組みに収まりきらなくなっていた。

 かつて、この港で会話した若い少佐を思い出す。きっと彼は、自分よりもよほど早くから、この問題に苦悩していたのだろう。軍ではなく、艦娘にとって正しい道を探そうとしている。軍人の使命感と、ひとりの人間的な感情の板挟み。ふと苦笑が洩れた。

「戻ろうか。参謀たちが発狂する前に」

 山口は言った。深夜でも喧騒と光に満ちた大和の艦橋が、ふたりを呼び戻す。そこでは、深海棲艦とは異なる魑魅魍魎との戦いが待ち構えていた。会議室からは、けたたましい叫び声が聞こえる。山口にとって聞き馴染みのない咆哮も混じっていた。本来なら、陸の上で戦うべき人間たちが、ゆうゆうと海軍の中枢にあがりこんでいる。

「飛龍、頼みがある」

 扉を開く直前、山口は言った。

「もしも十二時間以内に決着がつかなければ、明石と通信をとってほしい。そして今から伝える内容を実行するよう、伝えてくれ」

 飛龍に肩をよせ、囁くように命令をくだす山口。内容が進むごとに瞳は大きく見開かれ、彼女の眉間には苦しみが深く刻まれる。

「事態は一刻を争う。のんきに陸と海が対立している場合ではない」

 山口は言った。ただ飛龍は頷く。艦娘にすぎない自分が、提督である多聞丸の心情を推し量るなど、おこがましいのかもしれない。しかしながら、いつもと変わらなく見える彼の顔には、少しだけ影が差していた。部下に不安が伝播しないよう、つとめて冷静にふるまっているのかもしれない。ふと飛龍は微かな胸の痛みを覚える。

悲しみによく似た怒り。

まだその感情の正体を彼女は知らない。

 

 陸と海に別れ、双方の参謀たちが顔を突き合わせる会議室。両者がテーブルを挟んでいるのは幸いだった。ひとまず殴り合いは避けることができる。それほどまでに議場は怒号と激情で煮えくりかえっていた。

 本国との連絡が完全に途絶え、参謀本部も軍令部も前線に命令を下達することができなくなった。あやふやになった指揮系統は、ただでさえ統一感を欠いていた陸と海の連携を完膚無きまでに破壊してしまった。まず陸軍は、まだ石油の余力のあるうちに、ニューギニア西端から大スンダ列島を順次おさえ、マレー侵攻を最終目標とすべきと叫んでいる。すなわち、もともとアメリカ相手に考案されていた大東亜共栄圏の確立である。山口率いる海軍は、真っ向から陸軍案に反対した。深海棲艦が初めて攻勢に出た以上、下手に動くべきではない。補給も断たれた今、必要なのは戦力の集中と安定化である。

「では、ポートモレスビーに陸、海の戦力を統一して、その次あなたは何を為そうとしておいでか」

 陸の作戦参謀である辻政信中佐が、ねめつけるような視線で尋ねる。陸の軍人たちの視線は、皆不信感に満ちていた。戦線を拡大するにしろ縮小するにしろ、物資や人間の輸送には艦娘が必要となる。必然的に海軍が作戦の主導権を握ることになるからだ。

 山口はすぐには答えなかった。沈黙する数秒間で、この先の展開を読み、そのうえで司令長官として何をすべきか結論を出す。冷静な計算の上にたった、ゆるぎない決心。例えいかなる犠牲が予測されようと、自らの決心がぶれることは許されない。

「オーストラリアに渡る」

 一息に山口は言った。理性も感情もマヒしたように、誰もかれもがポカンと口を開いていた。付随する一瞬の静寂。山口が言わんとしていることの意味が分からなかった。いちはやく意識を取り戻したのは辻参謀だった。

「正気ですか、山口提督?」

 その言葉を皮きりに、焼き栗が弾け飛ぶように異議と罵倒の声が陸軍席から吹き上がる。

「オーストラリアは、英連邦の一国。そこに渡ることの意味を、あなたは理解しているのですか」

 辻が陸の総意を代弁する。

「むろん、理解している」

 山口は悠々と答える。

 大日本帝国は、かつてオーストラリアを敵国の一角と見なしていた。アメリカと並ぶ仇敵であるイギリスにつらなる国家であることも理由の一つだが、その安定陸塊から産出される鉄鉱石、ボーキサイトは魅力的すぎる資源だった。そのオーストラリアに救いを求めようとするのが山口の案だった。

 テーブルを拳で殴りつけ、感極まったように辻が立ち上がる。

「恐れ多くも大元帥陛下の御意向の届かぬところで、無断で敵にくだろうなど、帝国海軍は皇軍の誇りを見失ったのですか?」

 甲高い声で辻が吼える。

「オーストラリアは敵ではない。現時点で、かの国を敵と認める判断を本国から預かっていない」

 冷静に山口は言った。陸軍にとっては、深海棲艦と戦う前の戦争戦略こそが、大元帥陛下の裁可を得た正統な作戦根拠だと思っているらしい。

「山口提督」

 眼鏡の奥に、ぎらりと脅すような光を潜ませ辻は言った。

「警告します。あなたが為そうとしていることは、帝国の意志に反する」

 そして陸軍の伝家の宝刀とでも言うべきカードを切った。

「統帥権干犯、と見なされてもやむなし」

 予想通りの結末だった。山口は心のなかで深い溜息をついた。この戦争に対する根本的な認識が、海と陸でずれている。その致命的な不統一は、危機的状況にあるはずの前線にも露呈していた。

「今日はもう遅い。戦争解釈については、また後日ということで」

 山口を筆頭に、海の参謀たちはさっさと席を立つ。皆、うんざりという顔をしていた。この後に及んで傷つくプライドなど持ち合せていない。逃げるのか、というヤジもあっさり聞き流すことができた。

 飛龍に伝えた時限まで、あと十一時間。

 山口の脳裏から、統帥権干犯などという高尚なこけおどしは跡かたもなく吹き飛んでいた。今守るべきは前線の兵たち、資源、そして艦娘だ。彼の思い描く作戦は、飛龍の行動を待たずして次の段階に進んでいた。

 

 

 五月二十日。一二一五。

 ソロン泊地、鎮守府。明石からの電報が渋谷のもとに届いた。艦娘専用の通信網を使用した、極秘連絡。受信したのは秘書艦の摩耶だった。

「これをどう思う?」

 渋谷が尋ねる。摩耶は難しい顔をして考え込んでいた。

「命令である以上、従うしかないだろ。だが、今は戦時中でも、とびきりの非常時だ。しっかり自分の頭で考えたほうがいいな」

 これから何が起ころうとしているのか。摩耶はもう一度、命令文を反芻する。

 

【二十二日、〇〇〇〇までに、タンカーに重油を満載し、鎮守府海軍は全艦娘とともに出港せよ。追って命令を下達する】

 

 

 この命令文の緒元は飛龍だ。つまり現艦隊司令長官、山口多聞の命令ということになる。

「行き先も明確にされていない。緊急事態の連絡である可能性が高い」

「だけど、深海棲艦が攻めてきたわけじゃないんだろ? なのに、なんでこんな味方をたぶらかすような、中途半端な命令を出すんだ」

 もっともな疑問を摩耶がぶつける。

 それについては、渋谷に思い当たる節があった。

 陸軍の動きが、きな臭いのである。

おそらくポートモレスビーでは、今後の進退をめぐって激しい論争がなされているだろう。飛行場姫破壊の後、わざわざ戦略的価値の低いガ島に第二師団という巨大な兵力を置くほど、陸軍は占領地の支配にたいして貪欲だ。補給線が断たれた以上、早急に部隊を移動させなければならないが、そうなれば戦線の縮小は確実となる。すなわち、せっかく手に入れたニューブリテン島からソロモン諸島、そしてニューギニアも放棄しなければならない。この世界で唯一海を渡る力をもつ海軍に、陸軍がつっかかるのは目に見えていた。

 陸と海の対立は、ここソロン泊地にも、暗い影を落としつつある。港を守護する陸軍部隊が、演習の名目で内陸へと消えた。ソロン鎮守府の責任者として、陸軍第三〇師団の司令部に渋谷が問い合わせても、返答は梨のつぶてだった。

「我々の与り知らぬところで、陸軍が勝手に動いている。おそらく山口長官は、奴等の動きを読んで、先手を打つ命令をくだしたのだろう」

 渋谷の予想は、たぶん正しいと摩耶は思った。レ級がソロンを襲撃した際、艦娘の艦砲射撃が陸軍もろとも敵を吹き飛ばしたことで、不仲は決定的となった。今ソロンでは、同じ帝国の御旗を掲げる陸と海が、不信感と恨みに蝕まれ、対立を余儀なくされている。

「もし陸軍が、ソロンに攻め込んできたら、あたしらどうなるんだ?」

 摩耶は冗談めかして言った。しかし渋谷の表情は真剣そのものだった。

「最悪の事態を想定しなければならない」

 渋谷は命令を反芻する。要するに、ありったけの油と艦娘を連れて、ソロンを脱出しろということだ。それだけ事態は逼迫している。本国からの命令がない以上、前線では指揮系統が混乱する。陸と海が、それぞれの思惑と利害感情で動いた結果、日本人同士で銃口を向け合うことも容易に考えられる。

「命令を実行するにしても、下手に動くと陸軍を刺激しかねない。摩耶、提督室に第七駆と第三駆のメンバーを集めてくれ」

 渋谷の言葉により、鎮守府の艦娘たちに召集がかけられる。騒がしい声が廊下から押し寄せてくる。第七駆逐隊である潮、曙、漣、朧、霞、不知火が提督室に走りこみ、いち早く列をつくる。ついで、第三駆逐隊の長波、夕雲、早霜、清霜が到着する。

「第七駆逐隊、総員六名、集合終わり」

 七駆を代表して、不知火が敬礼する。

「第三駆逐隊、総員四名、集合終わり!」

 長波が勇ましい声を張り上げ、敬礼する。皆、状況は分かっているらしく一様に神妙な顔つきをしていた。全員を見渡し、渋谷が口を開く。

「すでに命令は伝わっていると思う。突然のことで皆混乱しているだろうが、これから出す指示を各自守り、作戦を進めてほしい」

 渋谷は、練り上げた作戦の全容を艦娘たちに伝える。

「まず、極秘裏にソロン鎮守府の軍人たちに、本日夜の脱出を告げる。彼らに脱出の準備を並行させるとともに、俺が泊地全体に対して、駆逐隊の演習の実施を布告する。これは二十一日の昼だ。当然ながら、演習など行わない。重油を運びこむための口実にすぎない。演習に出るとなれば、そのタイミングを見越して陸軍が攻めてくる可能性が高い。やつらも艦娘を海に逃がしたくはないだろうからな。そこで、余った船舶を駆逐艦に偽装して湾内に並べておく。敵が油断している隙に、夜の時点で、さっさと湾内から脱出する。かなりの強行軍だが、ソロン皆の力を合わせて乗り切りたい」

 艦娘は口ぐちに了解の意を示した。まず、不知火指揮のもと、本日の昼に泊地脱出の準備、夜にタンカーの偽装を行う。同時に、長波が隊を率いて、ソロン湾二カ所の砲台を無力化する。あれを陸軍に奪取されたら、作戦遂行が絶望的になってしまうからだ。そして渋谷と摩耶は、ソロンの石油施設から重油をありったけ持ってくる算段だった。給油が終われば、深夜に脱出を試みるつもりだ。

 それぞれの任務を抱え、慌ただしく娘たちは提督室を去った。

「さて、我々も行くか」

 腰をあげる渋谷に、摩耶が寄り添う。

 

 ソロンの製油施設は、海軍が熱心に建造を推し進めたこともあり、海軍軍人と懇意にしている者が多かった。さらにレ級襲撃の際、ソロン防衛の立役者となった渋谷、そして彼らを守りながら前線まで送り届けた摩耶たち艦娘は、とくに技術者と親しかった。懐かしい油の匂いのする施設。摩耶が、いちはやく目的の人物を見つけた。

「演習用の重油ですね?」

 施設長を任されている老人が、ふたりの訪問者に確認する。本国では軍の資源調達部の顧問を務めた石油の専門家だ。還暦を迎えながらも国のために働きたい一心で、命がけで前線までやってきた気骨ある男だった。

「はい。ありったけお願いしたいのです」

 渋谷は言った。彼が提示した原油の量は、駆逐艦十隻どころか、一個艦隊を丸一週間運用できるほどの量である。素人目にも、これが演習以外の用途に使われることは明らかだった。

 しかし老人は、何も言わず部下に精製の終わった重油の運び出しを指示した。

「油がいくらあっても、船が無ければ意味がない。祖国の敵に対抗できるのは、あなたがた海軍の軍人さんと艦娘さんだけです。どうか、我々の想いを汲んでください」

 決意を秘めた目で老人は言った。彼もおそらく、陸と海の不仲を察しているのだ。そのうえで海に味方すると宣言してくれた。軍人として恥ずかしい限りだった。命がけで前線にまで来てくれた民間人を、軍の内輪もめに巻き込んでしまうなど。

「できれば、あなた方にも―――」

 渋谷の言葉を拒否するように、老人は首を振った。

「わたしたちがここにいなければ、いざというとき油が無くなってしまうでしょう。技術者は、技術者としての使命を果たします」

 毅然として老人は言った。渋谷は、ひとりの軍人として頭が上がらぬ思いだった。民間人の協力なくして戦争は成り立たない。国を守るという誇りを笠に着て、国民に対し傲慢になることの愚かさを改めて感じた。

「これから私が喋ることは、あなたがたの胸の内に留めておいてください」

 渋谷は声を落して続ける。

「我々とは意見を異にする連中が、ここに押し寄せてくるやもしれません。その際は、一切抵抗しないでください。軍人ではないあなたがたが、命をかける必要はありません」

 老人は微笑みで渋谷に応えた。

「ありがとうございます」

 渋谷は深く頭を下げる。摩耶も彼にならい、尊敬の念をこめて老人に感謝した。

 重油はすぐにタンクに積まれ、ソロンの港まで引かれた線路によって運搬されていった。港まで戻った渋谷は、まず艦娘の艦体、余った油はタンカーへと素早い給油を命じた。三隻のタンカーが重油を満載したところで、施設からの輸送が止まった。

「これだけ集まればポートモレスビーまで余裕をもって航海できる。タンカーの油は、そっくり他の艦娘に分け与えることも可能だ」

「脱出がうまくいけば、の話だろ?」

 摩耶が釘をさす。彼女の言う通りだった。明日の夜、偽装作戦の成否がソロン鎮守府の運命を決する。

「あたしが、しんがりをやるよ」

 摩耶は言った。いざとなればタンカーや駆逐艦の盾にならねばならない危険な役目だった。しかし摩耶は、艦体の規模からして、一番沈みにくいのは自分だから、と譲らなかった。

「提督は、長波か不知火にでも乗艦してくれ」

 笑って摩耶は言った。ならば指揮官として摩耶に乗ろうとした渋谷は、動きを先に封じられた。彼女の笑顔に、渋谷は逆らうことができなかった。ソロンでの一件以来、彼女は、より女性らしくなっていた。尖っていた性格の角が取れて柔和になり、それでいて意志の強さは失うことなく、目上の提督にも意見を譲らない。

 誰かに似てきている。渋谷は思った。ポートモレスビーで飛行隊を率いる、あの女性搭乗員のことが脳裏に浮かんだ。

 

 〇一二〇。

 深夜の強行軍が、静かに始まった。ソロン鎮守府に勤務していた二四〇名からの軍人たちが駆逐艦に乗艦していく。人間の輸送は清霜が引き受け、できる限りの糧食や水を夕雲に積み込んだ。まず不知火の先導により、三隻のタンカーが湾外へと抜けた。続いて長波が単縦陣をとり、慎重に残りの駆逐艦を引き連れていく。

「摩耶、泊地の様子はどうだ?」

 不知火の艦橋から、渋谷が問う。艦列のしんがり、自身の艦尾に立つ摩耶が猛禽のごとき視力でソロン泊地全体を監視していた。

『目立った動きはなさそうだが……』

 そう言いかけた瞬間、坂の上の石油施設から一斉に明かりが消えた。

『やっぱりきやがった』

 摩耶が呟く。あれが合図だ。おそらく敵は陸軍第三〇師団だろう。先遣隊と思われる兵たちが、アリのように列をなして街を駆け降りてくる。

『あいつら、まだ艦娘が港にいると思っていやがる。鎮守府を制圧しにかかってる』

 摩耶が逐一報告を入れる。陸軍の連中は、艦娘が港から出ない間に、その顕体を捕らえようとしているらしい。彼らの魂胆は渋谷の読み通りだった。もぬけの殻の鎮守府に、次々と陸軍が押し寄せていく。

 港の偽装が功を奏したようだ。タンカーを泊地に対して縦にならべたうえ、木の角材などを使って機銃や高射砲を偽装した。夜の闇にまぎれては、タンカーが本物の駆逐艦に見えてしまう。艦影を見慣れていない陸軍なら、なおさらである。不知火率いる偽装隊の手柄だった。

 摩耶が無事港を抜けたところで、渋谷はタンカーを中心に輪形陣を命じた。深海棲艦に見つからないよう、できるだけ陸地の近くを移動する。ニューギニア島の北端にそって東へ向かう予定だった。

 二日後の、二十二日。ラエ付近にさしかかったところで、新たな命令が艦娘通信によって届いた。

 

【艦隊を二分せよ。一分隊は、ガ島リンガ泊地に停泊中と思われる、第一六駆逐隊「初風」「雪風」「天津風」「時津風」の四隻を救出し、ポートモレスビーに帰投せよ。二分隊は、タンカーを護衛しつつ早急にポートモレスビーに帰投せよ。なおリンガ泊地に脱出希望者がいれば、できる限り彼らの意志を汲むこと】

 

 漠然とした命令。司令部の焦りが見てとれる。発信元は明石だった。艦隊の編成はこちらに任せるということらしかった。ここにきて、ようやく渋谷は、山口長官の意図を垣間見た。そして自分たちに命じられた行動は、またしても艦娘の心に深い傷を残すであろうことを予見した。

「あらゆる海軍戦力を、ポートモレスビーに集結させようとしている……」

 夜の海を見渡しながら、渋谷は呟く。集中した戦力をどこに向けるのか、まだ自分には分からない。しかし、ソロモン海の泊地から艦娘を奪うということは、島に残された人間は見捨てられたも同然だった。ガ島には、いまだ陸軍第二師団が駐留している。彼らを全員脱出させることは不可能。海軍の意向に従えぬ者は、補給の途絶えた孤島に置き去りにする。

 山口がくだした非情な決断。理性では納得できる。いち早く行動を起こさねば、陸も海もなく干上がってしまう。しかし、人間としての感情が、渋谷の心に苦悩と痛みを産み落とし続ける。

 この苦しみに、同じく人間の心を持つ艦娘をも巻き込んでしまう。

「提督、ご命令を」

 不知火が言った。躊躇ったところで意味などない。ともに死線をくぐってきた仲間として、不知火は渋谷と苦しみを分かち合おうとしている。

「一六駆救出には、わたしたち七駆をお使いください。あなたと一番長く戦ってきたわたしたちを信じてください」

 瞳に宿る強い光。彼女たちは、おそるべき速度で成長している。良い部下に恵まれたと、渋谷は心から思う。

 不知火の艦橋から、それぞれの艦に命令を下達する。第三駆逐隊はタンカーを護衛しつつポートモレスビーへ。指揮は長波に託した。リンガへ向かうは、摩耶を加えた第七駆逐隊。渋谷の采配に異を唱える者はいなかった。

 

 長波隊と別れて、四日後。

 渋谷は、ほとんど眠ることができなかった。一度、ポートモレスビーとリンガ間の輸送ルートは途絶している。いつ敵が現れるか分からない。艦娘たちは、完全無灯火航行のうえ、渋谷の乗る不知火を中心に輪形陣を汲んでいた。

 夜の闇にまぎれてリンガ泊地まで二〇海里の位置まで接近する。艦娘通信によって、大まかな状況は分かっていた。取り残された第一六駆逐隊は、やはり陸軍の手によって顕体が拘束され、海に出ることが叶わなくなっている。

『仮に脱出できたとしても、ポートモレスビーまで燃料がもたないわ』

 天津風が悲痛な声で現状を伝える。ニューギニア島どころか、ソロモン海を抜けることもできないほど燃料が逼迫しているらしかった。

「わかった。リンガの沖合まで艦を出してくれ。そうすれば油を分けることができる。我々が援護する。決行は明日の夜に。出来る限りの戦力をまとめて、泊地から脱出してくれ」

 渋谷は告げる。当然ながら、陸軍一万人からなる第二師団は補給の途絶えた島に置き去りになる。それを理解できない天津風ではない。しかし、一切の異論をはさまず、了解の意だけを渋谷に伝えた。

 そして決行の日。

 四隻の艦影が、脱出を希望する海軍軍人たちを連れて沖合に走り出した。陸からは、容赦なく迫撃砲が放たれる。この海で艦娘を喪うことの意味を、彼らも知っているのだ。摩耶たちは援護射撃を加える。救うべき人間と火砲を交える。艦娘の特殊鋼で包まれた摩耶の艦体は、陸からの機銃掃射を簡単に弾き返した。

 艦娘全員が、ただひたすらに任務を遂行した。あの曙ですら、痛みと悲鳴で満たされた感情を制御し、文句はおろか舌打ちひとつ零さず淡々と一六駆逐隊に燃料を補給する。

 凄まじい怒号と怨嗟の声は、艦娘の脳裏に棘のごとく突き刺さった。

 ポートモレスビーに入港するまでの五日間、彼女たちの心を癒したのは、摩耶のピアノだった。彼女の曲の好みが変わったのだろうか、ゆったりとした温かな旋律。わずかな悲しみを織り交ぜ過去への憧憬を語る、シューマンのトロイメライ。

 こんなとき、言葉は無力だ。渋谷は思った。

 一六駆の四隻と救出できた山口派の軍人たちをともない、第七駆は懐かしのポートモレスビーへ帰投した。陸軍との対立は、これで決定的となるだろう。太平洋を分断した深海棲艦は、陸と海の連携さえ断ち切ってしまった。

 


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