【完結】大人のための艦隊これくしょん    作:モルトキ

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この戦争を導く国家戦略がぶれている。山口は懸念した。深海棲艦から海を取り戻すための戦いなのか、大日本帝国の勢力圏を広げるための戦いなのか。大局的視点を欠く軍や政府の上層部は、戦争の指針を統一することができない。
道標なき戦争は、人間と艦娘、両方に悲劇をもたらす。

その一方で、国家意志を実現するための手段として使われる提督・艦娘たちは悩んでいた。交流が深まるにつれ、互いのあるべき姿が見えなくなっていく。人間と艦娘の関係に、摩耶は新たな一歩を刻もうとしていた。


第十一話 ニューギニアの悲劇

 

 

 

 山口の懸念が現実のものとなったのは、渋谷との会話から、わずか二日後のことだった。

 ニューギニア島は、東半分がオーストラリアの委任統治領、西半分がオランダの領土となっていた。油田地帯を有するのは、島の西端、すなわちオランダの支配下にある。本来ならば、深海棲艦という共通の敵を持つ者同士、協調しなければならない側面だ。ところが陸軍の前衛部隊は、あろうことか西部地域に取り残されていたオランダ兵と戦闘を始めてしまった。彼らは海を閉ざされたことで本国からの補給も断たれた。脆弱な海軍力では海に出ることもできない。二年もの間、飢えとマラリアに蝕まれ、尽きていく食糧と弾薬に恐怖した。木の根を齧り、錆びた小銃に縋る彼らは、パニックに陥ってしまった。なにせ、疫病と病原虫の蔓延るジャングルを越えて、大量の日本軍が現れたからだ。オランダ兵は、深海棲艦が何者なのかも分かっていなかった。日本の新兵器と考える者も多かったらしい。始まりは、たった一発の銃声だった。どちらが発砲したのかも分からない。なし崩しに戦闘が始まった。しかし、厳密には戦闘ですらなかった。一方的な虐殺である。なにしろ相手は弱り果て、まともな武器もない。それに兵力も違いすぎた。油田の街、ソロンは一夜にして血の海に染まった。この戦いで、実に一〇〇〇人近いオランダ兵が命を落とした。後の調査で分かったことだが、師団司令部は、オランダ兵との接触を予想しておきながら、前線部隊に一人としてオランダ語の通訳を配置していなかった。それどころか、本国から通訳を呼び寄せる手続きすら行っていなかった。明らかに陸軍の怠慢だ。この失態を師団司令部は隠蔽しようとしたが、ソロン侵攻作戦には、海からの応援部隊として艦娘も参加していた。陸の兵士を鉄拳で黙らせても、艦娘の口を塞ぐことはできない。海上輸送網をつたい、このニュースは、『ニューギニアの悲劇』として、すぐ本国の知るところとなった。陸軍参謀本部は、今上陛下から直々に叱責を受けた。

 この事件から、陸軍上層部の考えが透けて見えた。彼らは戦争を私物化しようとしている。深海棲艦と戦うためではなく、あくまで大日本帝国の領土を広げるため、彼らは前線に過剰な兵力を投入したのだ。戦略的価値の薄いガ島にすら、一個師団を配置している。そのせいで補給がより困難になっているにも関わらず。さらに彼らを調子づかせることが起こった。初めての、陸軍籍の艦娘が顕現したのである。その娘の技術を用い、勝手に揚陸艦による人員移動や補給計画を立てようとする始末だった。

 しかしながら、海軍もまた、ドングリの背比べだった。ニューギニアの悲劇で前線での発言力が弱くなった陸軍を押しのけるように、ソロンの街に新たな泊地を建設することを決定したのだ。

 石油を得たなら、つぎは鉄とボーキサイトだ。海軍の矛先は、オランダ領モルッカ諸島だけではなく、オーストラリアまで及ぼうとしていた。結局、陸も海も、我先に戦果を争っているだけだ。

 渋谷に辞令が下ったのは、事件の一カ月後だった。

 とりあえず陸軍の侵攻作戦により、北ニューギニアの海岸にそって、島の西端までの道が拓けてきた。ソロンには着々と泊地が完成しつつある。深海棲艦との開戦から二年、ようやく帝国は近代戦争の血液たる石油を手に入れようとしていた。渋谷の任務は、本国からトラック泊地に輸送されてきた食糧、医療品、武器弾薬を前線に届けるための、輸送船舶の護衛だった。渋谷直卒の第三駆逐隊、そして陽炎率いる第二駆逐隊、摩耶率いる第七駆逐隊が、その任務に投入されることとなった。これはかつてない大規模な海上護衛だ。もちろん補給物資を守る目的もあるが、それ以上に、今回は本国から石油関連の技術者をソロンまで送り届けるという使命があった。石油は専門の施設と技術が無ければ精製できない。海外から技術者を雇うことが不可能な状況にあっては、国家の生死を左右するほど重要な作戦だ。これまで海上護衛に力を入れず、貴重な物資を海の肥やしにしてきた軍令部は、ようやく重い腰をあげた。

 ポートモレスビーを出港するまで、あと一週間。渋谷は毎日を慌ただしく過ごした。これから多くの駆逐艦たちが海上護衛に割かれることになる。そうなれば、彼女たちの提督である自分も、同じ土地に長く留まることはできない。さらに戦死するリスクも高まる。忙しさのなか、水戸涼子中尉を思う。彼女は第二二飛行隊の第一小隊を率いる隊長として、しばらく山口中将と飛龍のもと、ポートモレスビー勤務が続く。

 彼女の想いを受け入れるなら、男として責任を果たさねばならない。もう自分の命は、自分だけのものではなくなる。死さえ自由は許されないのだ。

「提督、聞いてるのー?」

 幼い少女の声が、渋谷を白昼夢から叩き起こす。清霜が大きな瞳でこちらを見ていた。執務室には、第三駆逐隊のメンバーが集結している。輸送任務にあたり、誰を旗艦にするか話し合っていたのだ。

「ねえねえ、トラックには武蔵さんがいるんでしょ? 楽しみだなー。いつかあたしも、武蔵さんみたいな戦艦になりたい!」

「清霜さん、会議中ですよ。少し静かになさい」

 夕雲型の長女、夕雲がやんわりとたしなめる。護衛作戦の司令官として艦娘に乗艦するのは、渋谷ひとりだけだった。よって渋谷の乗る艦が事実上の旗艦となるのだが、第三駆のメンバーとは、まだ付き合いが浅い。部下の性格をしっかり把握しておかなければ、艦隊行動に支障をきたす。いつもの散歩に加え、皆がそろったところを観察してみると、やはり長女である夕雲が旗艦に相応しいように思えた。しかし彼女は少し困った顔で首を振る。

「わたしでは、艦隊旗艦は務まりません。夕雲型の妹たちなら気心の知れた仲ですが、白露さんや陽炎さん、摩耶さんを差し置いて先頭に立つ自信はありません」

「早霜姉さんなんか、旗艦に向いてると思うなあ」

「わたしですか。わたしは長波姉さんが相応しいと思いますが」

 突然、清霜に話題を振られる早霜。しっとりと落ち着いた声で反論する。

「だってさ、早霜姉さんには誰も逆らえないと思うよ。だって怖いもん。人殺し多聞丸と、芥川龍之介の幽霊なら、あたしは幽霊のほうが怖いね。だって話通じないじゃん」

「それはどういう意味ですか?」

 余計に低くなる早霜の声。清霜はそそくさと夕雲の後ろに隠れる。

「たしかに長波さんなら、旗艦として一番頼りになると思います」

 事態を収拾するべく、夕雲が助け舟を出す。

「七駆のじゃじゃ馬は有名ですし、第二駆の時雨さん、夕立さんもああ見えて曲者です。陽炎さんや摩耶さんに指揮官として張り合えるのは、夕雲型では長波姉さんくらいだと思います」

 早霜が言った。なるほど、夕雲のリーダーシップが夕雲型の姉妹に限定されたものであるとすれば、長波を推すのは自然なことだった。

「なあ、提督。皆そう言ってるけど、ほんとにあたしでいいのか?」

 長波が尋ねる。今回の作戦の重要性は、参加する全員が知っている。だからこそ長波は、実戦経験の豊富な渋谷の意見を待っていた。彼女自身は高い練度を誇り、過酷な輸送任務を幾度もこなしてきた。しかし、本格的な艦隊戦を未経験であることが、七駆のメンバーに対するコンプレックスとなっていた。

「きみにお願いしたい」

 渋谷はきっぱりと言った。長波の疑念を吹き飛ばし、旗艦としての実力を存分に発揮させてやりたかった。

「きみは十分に艦隊の長となるべき能力がある。力を合わせれば必ず成功する」

「分かった。万事、この長波サマに任せておけ! よろしく頼むよ、提督」

 新たな旗艦と握手を交わす。メンバーは微笑みながら旗艦就任の儀を見守っていた。

 これで少しは三駆と打ち解けることができただろうか。

 会議を解散し、ふたたび部屋は静かになった。思えば、ポートモレスビーに来てからというもの、第七駆の皆とは顔を合わせる機会が減ってしまった。交流会の仕事や護衛作戦の机上演習、さらに第三駆が新しく部下についたことで多忙を極めた。そのため、どうしても疎遠になってしまう艦娘もいた。

 摩耶の声を聞けないのは寂しいな。そう思っていた矢先、扉がノックされる。

「提督、いらっしゃいますか?」

 陽炎の声だ。渋谷は入室を許可した。彼女が扉を開けると、元七駆の面々が列をなして執務室に押し入ってきた。曙、霞もいる。最後に陽炎が静かに扉を閉める。彼女たちは半円に並び、あっという間に渋谷を取り囲む。銃殺寸前の罪人のような状態だ。皆の顔は一様に厳しく強張っている。ただ、摩耶の姿だけ無いことが気になった。

「これは、何のつもりだ?」

 ただごとではない気配を察し、渋谷は尋ねる。よもやクーデターではないか、と丸腰の少女相手に怯えた。

「提督と話したいことがあるそうです」

 不知火が言った。戦艦並の眼光が渋谷を射抜く。尋問の間違いではないのか、という言葉を何とか飲み込んだ。

「提督、わたしたちは、あなたを尊敬しています。上司としても人間としても。だからこそ割り切れない部分もあるのです。どうあがいても、艦である前にわたしたちはヒトですから。大事な作戦を前に、心の靄が掛かったままでは、いざというとき戦えません。ゆえに、この場でハッキリさせておきたいと考えました」

 不知火が口上を述べる。

「単刀直入に聞くわ」火ぶたを切ったのは曙だった。「あんたが灯台で密会していた、あの女は誰?」

 渋谷は腹の底が冷えるのを感じた。なぜ彼女たちが涼子のことを知っているのか。

「見てしまったんですよ、提督」

 疑問を口にする前に、漣が言った。

「あのとき、わたしたちも休暇を貰って街で遊んでたのよ。そしたら提督が知らない女の人と一緒に歩いていたから、申し訳ないなーと思いつつも後をつけさせてもらったわけ」

 陽炎が説明する。思わず渋谷は頭を抱えた。

「全部見たんだから。言い訳はできないわよ」

 棘のある声で霞がトドメをさす。その隣で潮が頬を赤らめていた。

「提督には、提督の私生活があるのは分かっています。わたしたちの知らないところで、提督には色々あるのだと思います。だけど―――」

 一瞬だけ、言うか言うまいか迷う不知火。しかし彼女は毅然と前を向いた。

「わたしたちには提督しかいません。そのことを知ってほしくて、無礼を働きました」

 まっすぐな瞳で不知火は言った。

「わかった。答えよう」

 渋谷は全てを白状した。涼子に命を救われたこと、実は両想いだったこと。告白の返事を迫られていることも。艦娘たちは真剣に耳を傾けていた。この男に再び命を託すことができるのか、ひとりひとりが本気で見極めようとしていた。

「なんか癪にさわるほど正直だわね」

 曙が言った。

「それで、どうするんです? 水戸中尉とは正式に恋人同士になるんですか?」

「これ以上は、俺自身の問題だ。心配しなくても、任務に私情をはさんだりしない。きみたちにはいつも通り接するし、信頼に値する上官であるよう、これまで以上に努力する」

 不知火の問いに対し、渋谷は答えた。さすがの不知火も口を閉ざす。これで疑念は解消されたはずだった。しかし、まだ何か言いたそうな雰囲気は残っていた。他の艦娘たちも煮え切らない表情をしている。

「俺の行動が、きみたちの連携に支障をきたしているのだろうか? だとしたら、その理由を教えて欲しい」

「そんなわけないじゃない!」霞が吼える。「あんたの惚気話なんて、あたしはこれっぽっちも興味ないわよ。でも、あんたを―――」

 言葉の途中で、不知火が厳しい表情で首を振った。霞は不満げに喉を鳴らして黙りこむ。どうやら彼女たちは、何か別の目的があって尋問に来たらしい。自分に関わることなら、相手が誰だろうとハッキリ物申す霞だ。その彼女が言葉を濁すことがあるとすれば、それは仲間のためのおせっかいだろう。もしかして、と渋谷は思った。

「ところで、摩耶はどうした? 最近、姿が見えないが」

「摩耶さんなら、明石さんと工廠にこもっています。対空火器を大幅に強化したので、その性能をコントロールする意志の力が追いつかなくなっています。明石さんの指導のもと、リハビリに励んでいるようです」

 不知火が言った。見えないところで彼女は努力を重ねていた。しかし、なぜ火器管制が不調であることを相談してくれなかったのだろう。

「提督の気持ちも分かったことだし、宿舎に戻りましょう。お騒がせして申し訳ありませんでした」

 陽炎が先陣をきって、メンバーを室外に導く。

 これで問題が解決したとは到底思えない雰囲気だった。渋谷の勘が働いたとおり、この件の中核には、やはり摩耶が関わっているようだ。わだかまりを残したまま艦隊を出すわけにはいかない。渋谷は執務室を飛び出し、工廠に急いだ。途中でつかまえた整備員に話を聞くと、摩耶の艦体はドックに入っているらしい。入渠用のドックには、まるで針鼠のごとく大量の対空火器をまとった摩耶の姿があった。艦首の近くには、ひとりの艦娘がクリップボードを片手に艦を見つめている。彼女こそ、艦体の修理や強化、新しい技術である近代化改修まで、メカニックの一切を取り仕切る『工作艦』明石だった。その価値は大和や大鳳といった軍の主戦力にも匹敵するとされる。箱入り娘のごとくポートモレスビーの厳重な警備に守られ、日々作業に邁進していた。

「すまない、摩耶を見なかったか?」

「あら渋谷少佐。少しお待ちくださいね。このデータを取り終わったら今日の調整は終了ですから」

 そう答えつつ、明石は艦橋の火器から目を逸らさない。

「では、調整始めます!」

 明石が叫んだ。すると、あらぬ方向から「応!」と摩耶の声が聞こえてくる。てっきり艦橋の指揮所にいるものと思っていた。摩耶は、あろうことかドックから一〇〇メートルほども離れた地点に立っている。顕体が艦から五〇メートルも離れたら、火器は使用不能に陥る。それが一〇〇となればタービンが停止するほどだ。そんな距離で、摩耶はもっとも複雑な操作が必要となる対空火器を動かそうとしている。

「敵機第一陣接近、数二〇。左四五度!」

 明石が架空の敵機を報告する。すると、左舷の高角砲や機銃が、一斉かつ正確に動き、敵機の位置を捉える。それはまるで集団行動のように統制の取れた動きだった。明石は間髪入れず、つぎつぎと敵の来襲を宣言。そのたび摩耶は、左右前後の火器を最善のバランスで振り分け、敵に相対していく。ここまで激しい訓練は見たことがなかった。人間が乗る艦では物理的に不可能な速度だ。明石の指示が飛ぶたび、摩耶は歯をくいしばる。大粒の汗が頬を伝い、身体は小刻みに震えはじめていた。瞳孔は限界まで収縮し、彼女の心身が摩耗していく様を克明に伝える。人間である渋谷には想像もつかない苦痛だろう。

 調整、もとい地獄のしごきは、三〇分も続いた。明石が終了を宣告した瞬間、摩耶の身体は崩れ落ち、地面に膝と手をついて息を荒げた。明石とともに彼女のもとに駆け寄る。摩耶は顔を上げもせず、「結果は?」とだけ尋ねる。

「完璧です。よくぞここまで。これは艦娘史上、初の快挙ですよ!」

 感極まった声で明石が言った。摩耶は枯れた息だけで笑う。

「つきあってくれて、ありがとな」

「いいえ、こちらこそ。艦体の遠隔操作という、新しい研究分野が開けました。摩耶さん、どうか自信を持って任務を遂行してくださいね」

 しみじみと明石は言った。そして渋谷の方に顔を近づけて耳打ちする。

「改装直後の艦娘には、心身ともに大きな負担が掛かります。それなのに、摩耶さんは弱音ひとつ吐かず頑張ってきました。たくさん労ってあげてください」

明石は言った。「あとは、よろしくお願いします」と小声で渋谷に伝え、データを読み返しながらドックを後にする。

「お疲れ様」

 渋谷は言った。そのとたん、ぎょっとしたように摩耶が顔を上げた。どうやら調整に集中しすぎて、渋谷がいることに気づかなかったようだ。

「なんでおまえがいるんだよ!」

 地面にへたりこんだまま、息も絶え絶えに摩耶は言った。渋谷はそっと手を伸ばす。摩耶は無言でその手を掴み、ようやく立ち上がった。

「不知火に聞いたんだ。それより、見事だった。あれだけの対空火器を、たったひとりで制御しきるとは。それも、一〇〇メートルも距離を開けて。感嘆の声しか出てこない」

 手放しの称賛をうけ、摩耶は恥ずかしそうに顔を背ける。「あいつ余計なことを」と呟いた。

「その姿も素敵だ」

 ただ本心を口にする渋谷。大規模な改装をすると、顕体も姿を変えることがあると明石に聞いていた。摩耶もその例にもれず、衣装は緑を基調としたものになり、デザインはよりシャープな印象となっていた。頭の電探らしき艤装も、高い性能を思わせる。

ストレートな称賛を受け、汗だくの顔にますます朱が差した。すぐ渋谷の手を振り払い、自分の足で立つ摩耶。

「しかし、どうして艦体と距離を取っていたんだ?」

 渋谷が尋ねる。少し息を整えたのち、摩耶はしぶしぶ口を開いた。

「ソロモン海でレ級と戦ったとき、あたしら艦橋から吹っ飛ばされかけただろ? もし、あたしが海に落ちてたら、艦はおまえもろとも沈んでいた。だから、たとえ艦から離れても戦い続けられるよう、自分をどうにかしたいと思ったんだ。それに、これからは空が主戦場になる。対空火器にこだわる理由は、そんなとこだな」

 摩耶は笑う。だが、見慣れたはずの戦友の笑顔が、今はどこか寂しげに見えた。

「これで、あたしは防空巡洋艦を名乗れるかな」

「もちろんだ。よく頑張った。これからも、その力で皆を守ってくれ」

「分かってるよ。海から空を守るのが、あたしの役目だ。空を汚す有象無象を、きれいに掃除するのが仕事だ」

 そう言って、摩耶は踵を返す。宿舎のほうに歩きだそうとする彼女を渋谷は呼びとめる。ここに足を運んだ本当の目的を、まだ果たせていない。

「摩耶、話しておきたいことがあるんだ」

「あの女のことだろ?」

 背中を向けたまま、摩耶は言った。

「あたしも見てたんだよ。あいつだって、あたしに気づいてた」

「そうか。だが、彼女とどんな関係になろうと、おまえたちを疎かにすることは断じてない。今は戦時だ。戦時である以上、俺は軍人であり、軍人は自分の部下のことを一番に考える。それは変わらない」

「だろうな」

 摩耶は歩き始める。

「おまえのことは信じてるよ。だけど、あいつは違う。自分の行動がもたらす影響を分かったうえで、提督にちょっかいをかけた。あいつは悪意だ。だったら、あたしも容赦しない」

 独り言のように摩耶は呟く。彼女は突然、渋谷のもとに駆け寄った。

「いいか、これは宣戦布告だ。あたしから、おまえの心の中にいる、あの女へ」

 目を閉じ、背伸びをする彼女。次の瞬間、摩耶の顔が目の前にあった。長い睫毛、大きな瞳。

 ふわり、と唇に温かさが触れる。

 摩耶はよろめくように、一歩、二歩と後ずさっていく。

「ああもう、自分でも何してんのか分かんねえ。頭ンなかぐちゃぐちゃだよ。でも、おまえら人間の好き勝手にはさせないからな」

 艦娘も、そこに入れろよ。

 摩耶は走りだす。ふらつきながら、躓きながら、それでもまっすぐ駆けていく。渋谷は、黙って彼女を見送った。彼の頭も、摩耶以上に混乱していた。上司と部下、人間と艦娘。立場、種の違い。境界線は一度のキスで失われ、全てが混沌に溶けていく。

 摩耶は何者なるや。

 この世界に艦娘が顕現した瞬間から、すでに分かっていたはずの答え。だが今の渋谷は、自信をもってその解答を口にできない。艦でありヒトである。そんなありきたりの答えで自分を誤魔化していたことに気づく。そうでなければ、ヒトとして自然なことをされて、ここまで混乱するはずがない。疑問を持つはずがない。心の底では、彼女をヒトだと認めていなかったのだ。

 ヒトでない者に、ヒトとしての好意を向けられる。

 その違和感が解消されない限り、摩耶が何者であるか、渋谷に分かるはずがなかった。

 

 

 そして渋谷の艦隊は、出港のときを迎える。

 涼子とは、港に赴く直前に一度だけ顔を合わせた。

「また逢える日まで、生きてください」

 告白の催促など一切せず、たった一言、涼子は餞の言葉を送る。渋谷の両手を包み込む指は震えていた。

「必ず。あなたもお元気で」

 渋谷は固く誓った。彼女が涙をこぼしてしまう前に、静かに背を向け、夜明け前の鎮守府を出ていく。

 港には、ポートモレスビーを発つ艦隊が集結していた。そこには第二、第三、第七駆逐隊の他にも、幾田中佐麾下の第一一駆逐隊の姿もあった。出発は一〇時の予定だ。自分が一番のりだろうと思ったら、そこにはすでに人影があった。

「早いのね、渋谷くん」

 白みゆく空を眺めながら、幾田が呟く。左肩から右わきにかけて、参謀飾緒が下がっていた。彼女は山口中将の推薦により、軍令部の作戦一課に参謀として転属することが決まっていた。

「栄転おめでとう」

「この時期に後方に回されるのは、果たしてめでたいことかどうか。実質的には前線の意見を上層部に注入するための尖兵にすぎない。それに一課所属といっても、仕事内容は、お粗末な海上輸送作戦の立て直し、つまり尻ぬぐいよ」

 幾田は自嘲的に笑う。かつて軍令部では、作戦一一課が輸送作戦を立てていた。ところが、そこに所属する参謀はたったひとりしかいなかった。あらゆる戦線への補給計画、航路などを毎日深夜まで考案していた。このような組織が、まともな輸送網を構築できるはずもない。幾田は補給線の立て直しも前線から期待されていた。

「ところで、あなたソロモン海で行方不明になっていたんですって? よく生きて戻ってきたわね」

 鋭い眼光が渋谷を射抜く。サンゴ海海戦のち、彼女は変わった。悲しみや寂しさが抜け落ちていた。しかし、それは時の流れが癒してくれたわけではなく、何か別の大きな感情によって押し潰されてしまったかのようだ。濁った双眸には、誰にも正体を見せない決意が深く、深く穿たれていた。

「きみの教え子に救われたんだ。あのとき彼女が拾ってくれなかったら、俺は死んでいた」

「そう。でも不自然よね。戦いが終わってから、かなり時間が経っていたというのに、あなたは涼子に救われるまで海に浮かび続けていた。とっくに溺れ死んでいるはずでしょうにね」

 清らかな声が、細身のナイフのように、少しずつ核心部に切り込んでいく。渋谷は脳髄の底が冷えていくのを感じる。

「涼子に拾われる前に、すでに誰かに拾われていなかったの?」

「どこまで知っている?」

 優雅に微笑む女性を最大限に警戒しつつ、渋谷は尋ねた。いったいどこから情報が洩れたのか。深海棲艦に鹵獲された際の詳細は、艦娘はおろか涼子にすら話していない。

「全部。だって、わたしも彼に会ったから」

 あっさりと幾田は答える。全身から力が抜けていくのを渋谷は感じた。これで合点がいった。白峰が意図していた本来の客とは、幾田のことだったのだ。

「あなたも上に報告していないのでしょう。あらぬ疑いをかけられても困るから。それはわたしも同じ。信頼できるあなたにしか話さない」

 鮮やかな流れで共犯関係に持ち込む。

「わたしは敵艦に囲まれ、降伏せざるをえない状況だった。このことを知っているのは、あなたと叢雲だけね」

「それで、あいつは何と言っていた?」

「たぶん、あなたに話したことと同じだと思う。わたしを捨てて敵に寝返ったこと、敵についてのわずかな情報。そして謎めいた予言。他に何かあったかしら」

「俺が聞いたのも、そんなところだ」

 渋谷は言った。すると幾田はにやりと笑った。

「じゃあ、唯一違うところは、わたしは勧誘を受けたってことくらいかしら」

 勧誘。異様な不気味さを放つ言葉だった。

「白峰に誘われたのか? 深海の側につけ、と」

「ええ。このまま人類と一緒にあがくか、それとも深海棲艦とともに正しい未来を示すか。彼はそう言ったわ」

「それで、きみの答えは?」

「イエス、なら、わたしはこの場にいない」

 幾田は意志の滲む声で言った。

「わたしを殺して利用するなら勝手だけど、わたし自身の意志で深海側に与することはありえない。きちんと彼に伝えたわ」

 あくまで冷静に幾田は言った。しかし当時の彼女が、婚約者を前にして、どれほどの葛藤に苛まれたか想像に難くない。白峰との謁見は相当に荒れたはずだ。

「あなたに話したことで、わたしが人類の味方であることは分かるでしょう」

「そうだな。もしきみが深海のスパイなら、俺に話す必要なんて皆無だ」

 渋谷は言った。とりあえず彼女が信頼に足ることは理解できた。では、そろそろ話題を次に進めてもいいはずだ。

「わざわざ話したということは、何か目的があるのだろう?」

「察しが良くて助かるわ」幾田は少し目を伏せ、ゆっくりと言葉を選ぶ。「彼が敵に寝返ったことで、戦闘ではかなりの不利が予想される。しかし、わたしたちは資源地帯を抑え、太平洋の航路から、ほぼ深海の艦隊を駆逐した。謎だらけの敵を前にして、やっと希望が見えてきたというところかしら。でも、この先、相手が何を仕掛けてくるのか分からない。いつ戦局が引っくり返されるかもしれない。進むべき道を誤れば、艦娘も人類も、深海の前に屈するでしょう。だから、わたしは軍と政府の中枢に入り、できる限り正しい方向に国を導く。熊少佐と福井少佐にも協力してもらうつもりよ。だから、前線にいるあなたは、あなたの正義を貫いて」

 見たんでしょう、深海棲艦の本拠地を。幾田は続ける。

「ああ。禍々しい島影だ」

「あれが深海棲化の根源なの。そこを破壊すれば、深海棲艦は全ての機能を停止する。前線で艦娘を率いるあなたにこそ、やってもらいたい」

「待ってくれ。白峰は、あの島を『異常の始まり』と呼んでいた。深海棲艦だけではなく、艦娘も滅ぼすことにならないか?」

「だからといって、このまま大東亜共栄圏なんて暴虐な帝国主義思想に取りつかれたまま戦線が拡大すればどうなるか、あなたなら分かるでしょう。それは艦娘にとっても最悪の悲劇よ」

 幾田の反論に、返す言葉もなかった。

「確かに難しい問題だわ。でも、わたしたちの究極の目的が、深海棲艦から海を取り戻すことだと忘れないで。そのために、お互いの正義を信じましょう。あなたは、きっと艦娘の将たる素質がある。彼女たちと自分の心に従いなさい」

「俺たちは軍人だ。きみの発言は叛逆とも取られかねない」

 言わずにはいられなかった。底の見えない目をした彼女が、なにか恐ろしく危険なことに首を突っ込むのではないかという疑念が生まれた。

「だから、わたしを信じて見逃してと言っているのよ。大丈夫、わたしは正しい道を行く。なにせ、あの白峰が欲しいと言った人間なのよ。間違うはずないわ」

 昔のように、いたずらっぽく笑う幾田。彼女は長い黒髪を翻し、第一一駆のもとに歩いていく。

「さようなら、渋谷少佐。また逢えるといいわね」

 透明な声音のまま、彼女は去っていった。

 

 

 生まれたての曙光に抱かれて、艦首にひとりの少女が佇んでいる。柔らかなオレンジに染まり、金の糸のように煌めく髪が、潮風にあわせて優しく踊る。艦橋から艦首まで、まっすぐ伸びる光の絨毯を、幾田はゆっくりと歩いていく。そして秘書艦である少女の隣に並んだ。

「話は終わったの?」

 ぶっきらぼうに叢雲が尋ねた。

「ええ。わたしは帝国の味方だとね。軍人の模範解答でしょう?」

 しだいに輝きを増す太陽にも射抜けぬ瞳で、幾田は水平線を見つめていた。ふざけた答えに、叢雲は渋い顔をする。

「それでいいの? あんた、自分の婚約者に言っていたじゃない。わたしは深海側につくって」

「いいの。馬鹿な男どもには、そう思わせておけば」

「ひどい二枚舌外交だわ」

 叢雲は苦笑する。それにつられて、幾田も少し口元を緩めた。

「あなたも見たでしょう。ニューギニアの悲劇。しょせん、人間なんてそんなものなのよ。深海棲艦と人間のどちらが罪深いかと言ったら、やはり人間のほうじゃないかしら。罪人を騙すことに後ろめたさは感じないわ」

 嘲るように幾田は言った。ニューギニア侵攻の際、叢雲は海岸沿いにソロンを目指して陸軍に随伴していた。そのとき彼女は見てしまったのだ。機銃に薙ぎ払われ、血袋と化して死んでいったオランダ兵たちを。たけり狂う殺意、断末魔の叫び。優しさや慈悲といった人間性が摩耗していき、ついには獣と化す戦場の現実。生々しい陸の虐殺は彼女の精神を蝕み、いっとき航行能力に支障をきたすほどだった。その間、ずっと幾田が叢雲に寄り添い、彼女を励まし続けた。幾田は異常なほど落ち着いていた。

「あんた、やっぱり脳が深海棲艦に近いんじゃないの? 婚約者についていったほうがよかったんじゃない?」

 少し寂しそうな叢雲の言葉に、幾田は静かに首を振る。

「わたしが従うのは、大日本帝国でも婚約者率いる深海の軍隊でもない。わたしは、わたしの正義にのみ従う。もしかしたら、艦娘たちにも背を向けることになる。それでも、あなたはついてきてくれる?」

 幾田が尋ねる。すぐに叢雲は「馬鹿ね」と一蹴した。

「何度も言わせないで。わたしは、あんたの艦よ。北だろうが南だろうが海の底だろうが、あんたが行くところについていくだけ」

 例え陸で死ぬことになっても後悔はない。口には出さず、わずかに頬を赤らめる。

「覚悟を決めたのね。あんた、良い顔になったわ」

 気の強そうな吊り目を少し細めて叢雲は言った。

「そうね。わたしを捨てた男に未練はない。だから、これはもういらない」

 そう言って、幾田は左手薬指から銀のリングを抜きとる。大きく振りかぶり、深海に叩き返そうとした。しかし叢雲が「ちょっと待って」と制止する。

「捨てるくらいなら、わたしに頂戴」

 叢雲は、あっと口を押さえる。その姿は思春期の少女そのものだった。朝日にまぎれても隠しきれない顔の赤さ。やがて観念したように双眸を見開き、とげとげしい声で畳みかける。

「いい? わたしは、あんたの唯一無二のパートナーなの! だったら、それなりのモノを渡しても罰は当たらないでしょ! どうせ一人じゃ何もできないんだから、わたしへの感謝の印として、それを寄こしなさい!」

 威嚇するように頭の艤装を逆立てる。

「こんなのでよければ、どうぞ」

 あっけにとられ、幾田は素直に指輪を渡した。叢雲はそっぽを向きながらも、両手で大切そうに包み込む。

「先に戻っているわ。一一駆の子とも連絡を取るから、無線をつかえるようにしておいてね」

 そう言って、幾田はひとり艦首から去って行った。

 ぶんぶんと頭を左右に振って、あたりを見渡す。夜明けの港には誰もいない。そっと持ちあげたリングの端に、ちょうど太陽が重なってダイヤモンドのように光り輝く。叢雲は、そっと自らの左手薬指にリングを入れた。少し大きかったが、ちゃんと指に収まった。

「結婚、カッコカリ。なんて」

 口を突いて出た言葉。胸の底から恥ずかしさや愛おしさ、むずがゆさが綯い交ぜになってこみあげてくる。湯気が出そうなほど全身を真っ赤に染め、叢雲はひとり甲板を走っていった。

 


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