それは、ギルドホームでの出来事だった。
昼のミーティングとは名ばかりの、昼休みのような間延びした時間に、ケイタは立ち上がり、こう宣言した。
「そろそろ中層で狩るのを止めないか?」
ケイタの言葉に、ギルドのメンバーは一瞬言葉を詰まらせたが、彼のレベルが示す45という数字が、その沈黙を和らげる。
テツオはニヤリと笑い、ケイタの背中を軽く叩くと、自らの剣を天へと掲げた。
「それは上に行くってことで良いんだよな?」
「あぁ。だがもちろん、最前線に行こうってわけじゃない。今後、主要な狩場を40層前後に上げようと思ってるんだ」
20層から30層をフラフラと狩場にしていた私達にとって、最前線が55層となろうが、40層とは一種の高い壁であった。
安全を重視した狩りには限度があり、レベル上げ、コル稼ぎ、共に停滞していたのも事実だ。
ただ、それには必ずリスクが伴う。
「遊び半分で上の層へ行こうだなんて思っちゃいない。…だから、みんなにもそれなりの覚悟をしてほしいんだ」
身振り手振りに話すケイタの目は真剣そのもの。
攻略組への憧れや尊敬で言っているわけじゃない。
この先のことを見据えるのであらば、戦力は少なからず高い方が身の為だと、彼は続ける。
「…こればかりは俺1人の権限では決められない。だから多数決を取ろうと思う。…満場一致の場合のみ、上の層へ進出する。いいか?」
鼓動が一つ、二つと私の胸を強く打った。
不安の渦が次第に大きくなっていき、まるで私の心を飲み込んでいくよう。
思わず胸の前で握った両の手は、血が通っているとは思えない程に冷たかった。
あぁ、血は通ってないんだよね。
私たちの身体は仮想空間で作り上げられた虚像なんだから…。
ふと、彼の顔が頭に浮かぶ。
私たちは虚像。
それなのに、どうしてあなたの手はあんなに暖かいの?
「サチ」
「…っ!…な、なに?」
「いや、後はサチだけなんだけど…」
ケイタが困ったように私を見つめていた。
ボーッとしていた私は周りを見渡す。
賛成の意を表明している全員の挙手に、私は顔を歪める。
「…わ、私は…」
✳︎
飛び回る剣戟音とモンスターの叫び声。
迷宮に蔓延した霧が周囲の視界を悪くする。
獰猛にこちらを睨む人型のリザードの口からは粗い息が吐き出されていた。
HPが少なくなっている証拠だ。
最期の悪足掻きとばかりに、モンスターは波打ったギザキザの短剣を大きく振り被る。
「シャーーーっ!!」
「っ!…きゃっ!」
ガンっ!
と、私が恐怖のあまりに盾を前に向けると、モンスターの振り下ろした短剣と偶々打つかった。
「サチ!スイッチ!」
ケイタの掛け声と同時に、テツオとササマルが前に飛び出しモンスターに斬りかかると、頭から真っ二つに斬られたモンスターがエフェクトとなり消えていく。
「ふぅ…。やっと死んだか」
「疲れたー!やっぱ堅いなぁ」
「あぁ、それにアルゴリズムも少し違う」
テツオとダッカーが一息つきながら武器を仕舞うと、ササマルがステータスを確認しながら会話に加わった。
「だけどexpもコルも桁違いだよ。やっぱり、こっちの方が効率は良さそうだな」
薄暗い迷宮はジメジメとした不快な湿気を私の肌に感じさせる。
ケイタ、テツオ、ササマル、ダッカーのやり取りを遠巻きに見ながら、私は先ほど倒したモンスターが振り上げた短剣の剣先を思い出していた。
制御されたシステムは、憎悪や嫌悪を表すこと無く私に斬りかかってくる。
背中を襲う冷たい悪寒は、今も尚残っていた。
鳥肌が止まらない。
震えるほどに心が凍えている。
「……っ」
両の手で身体を強く抱き締めるも、暖かさを感じることはなかった。
忘れてしまいそうになる。
彼の体温を。
優しさを。
「サチ?…おい、サチ。大丈夫か?」
「っ!…だ、大丈夫だよ…」
「そうか。よし、この先にセーフティゾーンがあるからそこで休憩しよう」
ケイタの号令に皆んなが続いた。
セーフティゾーンへと向かって歩き行く彼らの背中に私は黙って付いていく。
モノクロになる世界で、抱えきれない不安は今にも破裂してしまいそう。
「……っ!…?」
ゾクっと。
身体の芯から震えあがるような感覚。
……誰かに、見られてた?
振り返り、周りを見渡してみるも、そこには長く続く道以外に何も無い。
「……」
「おーい!サチー!置いてくぞー!」
「っ、あ、うん…」
…何かの気のせい?
モンスターだとしたらエンカウントした時点で襲ってくるし、低レベルとはいえ私の索敵スキルには何も引っかからなかった。
私は勘違いだと割り切って、その場を後にする。
少し早足なのは底知れない怖さを感じたからか。
少なくとも
この時の私に、”赤眼の狂気”が近づいているとは分かるはずもなかった。
刻一刻と
血に飢えたエストックが
私の胸を貫く時が近づいている。
赤眼に刺されてサチは死ぬ。