ソフィーが立ち上がり、王の前に進み出る。緑柱石の瞳には不安をただよわせ、その表情はやや青ざめていた。それはミラなどエレン以外の直接ティグルを助けられない戦姫たちの想いでもあった。
「陛下、恐れながらオステローデからブリューヌへ向かうには相当の距離がございます。もちろん陛下には何かお考えあってのことと存じますが、その深慮のご一端だけでもお聞かせ願えないでしょうか?」
「オステローデの周囲にわが国を脅かすような深刻な脅威はない。それで充分ではないか。ヴァレンテイナよ。そなたはどう思う?」
「わたしも陛下と同じ想いにございます。」
「陛下のご温情まことに感謝いたします。」
ティグルは、老王ヴィクトールに礼を述べるが、感謝の念に堪えないとは言えなかった。膝をついているヴァレンテイナに一瞥しつつも、赤い髪の青年貴族の胸中には不安がよぎる。
(なぜミラやソフィーでなく、彼女なんだ?)
マスハスやオージェの顔が浮かぶ。ミラやソフィーの名を聞いた場合との落差が容易に想像できる。ヴァレンテイナの名前を聞いたことがないだけではない、しかもブリューヌから遠いオステローデからだという。ティグルには老王が何を考えているのか全く理解できなかった。
「それでは、失礼させていただきます。」
ティグルは大広間を後にした。白銀の髪の戦姫、つやのない金髪の副官、ツインテールの侍女があとに続く。戦姫たちも足早に出ていき、老王は何もなかったかのように大広間から歩き去った。
しばらくすると大広間は何もなかったように貴族たちの談笑の場にもどった。
ティグルは廊下で戦姫たちに別れを告げる。ミラの耳にティグルの口から
「ここでお別れになるけどまた会おう。」
という言葉が発せられ、手が差し出される。
「そうね。いい土産話を期待しているわ。」
青い髪の戦姫は、赤い髪の青年貴族の手を握り返した。
「クレイシュ様、ザクスタンがブリューヌに攻め込みました。」
「ほう?」
金銀、宝石で飾った彼の豪奢な天幕のなかで、精悍な若者があぐらをかいた赤ひげの壮年の男にひざまずいて報告をしている。
「西方から五万、南方から海を渡って二万が攻め込んだようです。」
「はっはっは。まさかとは思ったが小うるさい白鷲どもに先を越されるとはな。」
赤ひげの男はムオジネルの王弟クレイシュ=シャーヒーン=バラミールという。十年前そのザクスタンの艦隊千隻をたった二百隻で沈め、数々の戦功をムオジネルにもたらしてきた。オルメア会戦では引き返すことになったが、それはティグルとそれを援助したミラの善戦もあったものの、決定的にしたのはレパティウムの海戦でムオジネル艦隊が敗れたことだった。その赤ひげの王弟は、天幕の中で笑い声を響かせる。
「いかがいたしましょうか?先んじたとはいえザクスタンがそう簡単にブリューヌを滅ぼせるとは思えませんが。」
「ふむ。そもそも滅ぼす気があるかな。やつらの目的が何なのかだ。私の計算では、倍の兵力が必要だ。ほしいだけ領土を削り取って引き上げるかもしれんぞ。」
赤ひげの王弟はすこし考えてからつけ加える。
「それともそんな数で征服が可能になる手があるのか。そうなると、いつブリューヌを攻めるべきか考えものだな。」
赤ひげの王弟はいくつかのシュミレーションを脳内で行うと、若い有能な側近に話しかける。
「ダーマードよ。」
「はっ。」
「ティグルヴルムド=ヴォルンは生きていたのだろう?やつはどう動くと考える?」
「彼は間違いなくブリューヌに戻ってくると考えます。」
「ほう、その根拠は?」
クレイシュ眼をらんらんとかがやかせる。
(この英傑にして、ティグルヴルムド=ヴォルンは意識せざるを得ないらしい。)
ダーマードはかすかな嫉妬を覚えたが、なにくわぬ顔で、赤ひげの上官に、アニエスからオルメア会戦の戦績について述べ、
「これを考えるに、やつは、我が軍が北上する可能性があっても自領にもどって様子をみるべきでした。わずか二千足らずで、命がけで無駄、無謀な戦いをわが軍に挑んだのです。それから...」
アスヴァールでのティグルの行動をクレイシュに説明した。
「こういったことから、やつは民を見捨てられない、と考えればすべて行動に説明がつきます。無類の善人というわけではないにしても...。」
「ふむ。それでは、民を人質にすれば降伏するかな。」
「それはしません。それは閣下もアニエスの戦いでご存じのはずです。」
「基本的には善人だが、そのことばかりにとらわれないということか。」
「そういうことです。たとえ単騎でも戻ってくるでしょう。」
「そうか。じゃあとりあえずザクスタンに使者を送ろう。」
クレイシュは愉快そうに指示を出す。
「われらと手をくんでブリューヌを切り分けようとな。それまでは様子見だ。」
「?では、兵を動かさないのですか?」
「全く動かさないのも考えものだな。二万ほどをジスタートのオルミュッツに向かわせるとするか。」
「陽動ですか?」
クレイシュはダーマードに笑みをうかべてみせる。
「わかったか。だが、本気(笑)で行くぞ。ブリューヌを攻める陽動だと思わせない。ジスタートを攻めるために探りを入れていると思わせる。わっはっは。」
(リュドミラ=ルリエよ。こんどこそ封じ込めてやる。ティグルヴルムド=ヴォルンを助けたくても助けさせない。オルメアの意表返しだw)
「オルミュッツと軽く戦った後にアニエスに二部隊ほど偵察を送り込む。ダーマード、その意味がわかるか?」
クレイシュは楽しそうだ。ふんふんと鼻歌交じりに若い部下に問いかける。
ダーマードは少し考えて、上官が何を考えているか、あるいは成果があげられる方法は何か考えてそれを口に出してみる。
「二つの部隊のうち一つはオルミュッツを攻めるための地形を調べ、もう一つの部隊はブリューヌへ抜ける間道を調べる、ということでしょうか?」
クレイシュは、よくできた、という表情を若い部下に見せる。
「その通りだ。ぎりぎりまでオルミュッツを攻めるという姿勢に徹する。ブリューヌは、アニエスをジスタートにくれてやって盾代わりにするつもりだったのだろうがそれならそれでやりようがある。」
赤ひげ王弟の頭脳はフル回転し、想定する未来図を実現するための次の数手がその脳裏にえがかれていた。
さて、オルミュッツ公国のミラの執務室である。
(ふう。これで今日の政務は終りだわ。)
「戦姫様」
「何?」(えw何かあったのかしら...もう休みたいのに...)
「フォドニー城砦からの報告です。ムオジネル軍約五千がモラーヴ河付近に現れたそうです。」
(!!容易ならざる事態ね。)
ミラは報告にきた兵をねぎらう。
「お疲れさま。今日は休んでいきなさい。」
青い髪の戦姫は執務机の上にある鈴をならし、文官を呼んだ。
「リュドミラ様、どのようなご用で?」
ミラは偵察兵のほうを見て
「彼が休む部屋を用意して。それから国境地帯が描かれている地図をもってきて。」
「はっ。」
(どうする気かしらね。本気で攻めてくるのか?ただの様子見か?あれほどの男がいつまでも成果なしに様子見ばかりしているとは思えないけど...)
「お求めの地図でございます。」
「ありがとう。」
地図を執務机の上に広げる。
(フォドニーを守る兵は二千足らず、相手は五千...北と西に山が連なっていて、普通であれば五倍の兵でも落とすのは困難。けれど相手が相手だから油断ならないわね。)
「軍議を開きます。部隊長を呼んで。」
「はつ。」
半刻後、ミラは状況を部下たちに説明すると
「私は、二千を率いてフォドニーへ向かうわ。あなたたちもいつでも出撃できるよう準備しておきなさい。」と告げた。
公主であり戦姫であるミラがフォドニーに赴けば士気はあがり、有利になる部分はある。しかし何が起こるかわからないのが戦場だ。歴史上勝利した指揮官が死亡した戦いもある。最近ではレパティウムの海戦で負けたムオジネルのみならず勝ったはずのブリューヌの総指揮官が死亡している。だからこそ部下たちはミラの身を案じていっせいに難色を示した。
「戦姫様、このような戦になにもご自身で出陣なさらずとも...。」
「ここは、我々に武勲をたてる機会をお与えいただけないでしょうか。戦姫様は、公宮にて勝利の報告をお待ちになってください。」
しかし、部下たちの言葉に青い髪の戦姫は首を横に振って応える。
「あなたたちの忠誠と勇気はありがたく思うけど、まだムオジネルと戦うと決まったわけじゃないわ。だから行くのよ。現地へ行って見極めるためにね。」
「それからポリーシャのソフィーにこの状況を伝えて。それから...。」
ミラはいくつか影響が見込まれる近隣の貴族の名前をあげて使者を送ること、街道沿いの都市に伝令を走らせるよう文官たちに指示する。食糧、燃料、兵を駐屯、宿泊させる場所の手配だった。
報告があった翌朝、ミラは二千の兵を率いて出撃する。行軍中ミラは考える。
(フォドニーを攻めるにも標高が高く寒い。ムオジネル兵は寒さが苦手なはずだからやはり陽動かしら...。)
四日後、フォドニー城砦が築かれた山のふもとに達する。
「ついたわ。皆を休憩させて。」
山のふもとのジスタートとオルミュッツの軍旗をみて、フォドニーの守将レザノフは、部隊長に百ほど率いさせて山をくだらせる。
「まさか戦姫様自らがおいでになられるとは...。」
フォドニーの部隊長たちは、ミラの前に膝をつき頭を垂れる。
ミラはうなずいて、
「待っていたわ。それでは城砦まで登るわよ。」
半刻ほどで城砦に達すると守将レザノフが出迎えに現れる。
「戦姫様、よくおいでくださいました。」
「あなたも、兵たちも元気そうで安心したわ。で、ムオジネル軍の動きは?」
青い髪の戦姫は部下たちの無事を確認できたうれしさを一瞬の笑顔で示すものの、事態の深刻さに気持ちを切り替えて真剣な表情になってたずねる。
「いまのところ、ムオジネル軍は、モラーヴ河の近くにとどまっています。数名ほど河を渡った者がいましたが、すぐにもどっていきました。」
「こちらからは何かしたの?」
「一度だけ兵を向かわせ、事情をききました。行軍の訓練との返事でした。」
ミラはレザノフとともに城砦の南側の城壁の上に出る。冷たい風で彼女の青い髪とリボンがそよぐ。眼下の平地に5ベルスタ離れたモラーヴ河の流れが一望できる。
春の日差しで河の水面がきらきらと輝いている。その対岸にはムオジネル軍五千がアリのように終結し、黒々と見える。緋色地の中央には牡牛の角をつけた金色の兜が描かれた軍旗がいくつもひるがえっている。
「ここから見えるのはあれだけですが、それがすべてとは思えませぬ。」
レザノフが話しながら、はく息が白く見える。ミラもムオジネル軍をにらみながらうなづき、
「そうね。」
とつぶやく。
(このままにらみあうのか?むこうから仕掛けてくるのか?)
「レザノフ、いま偵察は出している?」
「はい。」
「どのくらいで戻る?」
「あと一刻ほどかと。」
「ちょうどいいわね、相手は一刻や二刻では仕掛けてこない。軍議を招集するわ。いくつか想定できる事態を考えておくように伝えて。」
「はっ。」
青い髪の戦姫と白髪と白髭を生やした守将は城内へ入っていった。
ミラは現地の状況を確かめるためにフォドニーを訪れる。ミラには、ムオジネルの意図がわからない以上予断を許さぬ状態に感じられた。オルミュッツ軍とムオジネル軍のにらみ合いは新たなる大戦の序曲を奏でていた。