その日、武蔵野の媛巫女万里谷祐理は正史編纂委員会の依頼を受けて、青葉台にある公立図書館に来ていた。
公立図書館とは言っても、一般公開はされていない。関係者以外の入館・利用は一切認められておらず、近隣の住人さえも、ここがどういう用途の公共施設なのか認知していない。
しかし、それは当然である。ここに集められた書物はいずれも魔術・呪術について記された専門書―――魔導書や呪文書の類ばかりなのだから。
一般の人間では読み解くこともできない、危険な叡智の結晶。魔術・呪術に関する禁書、稀覯本を秘匿し、世間より隔絶するための施設なのである。
「青葉台の『書庫』……話に聞いてはいましたが、来るのは初めてです」
清潔で静謐な館内。そこかしこの書架に収められた万巻の書物を見回しながら、祐理は感慨深げに呟いた。
「はは、無理もありませんよ。用がなければ、来る必要のない施設ですしねー。私も仕事以外では、つい先頃先輩のお供で来た程度ですから。
じゃ、少し待っていていただけますか。問題のブツを持ってきますので」
と言い置いて、奥へと姿を消したのは、祐里をここに連れてきた正史編纂委員会のエージェント甘粕冬馬だった。見かけはくたびれた背広姿の青年だが、油断ならぬ曲者であるということを祐理はすでに理解していた。
―――図書館二階にある、広い閲覧室。
待たされることになった祐里は、好奇心に任せて書棚を見回してみた。
どれも一見、何の変哲も無いもない普通の書籍だが、にじみ出る怪しい気配を祐理の霊感は感じ取っていた。やはり、ただの書庫ではない。
目に入る本のタイトルは殆どが横文字で、日本語で書かれたものは三割にも満たない。これは外来の魔術の知識を制限するのが委員会の役割の一つでもあるからだ。この書庫の万巻の書は、彼らが数十年かけて行ってきた魔導書狩りの成果なのだ。
そうこうしている内に甘粕が戻ってきて、持ってきた本について霊視による鑑定を依頼してきた。
それは革で装丁された薄めの洋書で、題名は『Homo homini lupus』。本物ならば、魔術の伝導書にして狼男を次々増殖させる呪詛がこもった、呪いの魔導書であるそうだ。そんな薀蓄を愉しげに語る甘粕に文句をつけながら、祐理は古書と向き直った。
―――目を凝らし、心を澄ませる。
彼女の霊視は言う程、いつでも気ままに行使できるような力ではない。
心を空にし、神霊の導きに任せて、目と直感を働かせる。それで何が視えるか、何に気づくかはその時次第。役に立つ時もあれば、全く役に立たない時もある、正に当たるも八卦当たらぬも八卦であった。
……しかし、この書からは確かな叡智と歴史を感じ取れる。
鬱蒼とした森の奥に住まう魔女、彼女らを崇める数多の動物たち―――記された秘儀は奥深く、力強い。読み解く者を魔女の下僕へと近づけていく、並の魔術師では抗しきれない伝道の書。
「これは呪いの書ではありません……読む人間に十分な見識があれば、この本に秘められた力に毒されず、知識だけを獲得できるはずです」
この古書の本質を漠然と感じ取った祐理は、そう呟いた。
「読む者の姿形を変えるのは、呪詛ではなく試練―――資格のない者がひもとくのを防ぐための仕掛けなのだと思います」
「ははあ。つまり、こいつは本物だと……先輩の言うとおりでしたか。それにしても、一目で見抜くとは流石ですな」
「たまたま分かっただけです。次もこうだとは限りませんから、頼るのはやめて下さいね。先輩って、あの……!」
感心する甘粕に、祐理は念を押しつつ、聞き逃せない言葉に尋ねようとした瞬間、彼女を囲む空間が暗黒に包まれた。甘粕の姿も、古書も、書棚に収められた万巻の書も姿を消していた。祐理は唯一人、じめじめと湿った空気のこもる、どことも知れない闇の中に、いつの間にか立っていた。
「これは幻視?あの魔導書のせい?」
祐理は霊視が高じて。幻覚じみたビジョンをかいま見る時がある。
滅多にあることではないが、今回のような強大な呪力を秘めた物や存在に接触した直後など、たまに起こってしまう。だから、驚きはしても、動揺はしなかった。
幻視は続く。
まず、現れたのは巨大な狼だった。軽々と鉄鎖を引き千切る獰猛な狼だ。最終的に特殊な紐で束縛される。しかし、束縛されるままに任せず、復讐として偉丈夫の腕を食い千切った。一度解き放たれれば、天を駆け上がって太陽を呑み込み、月を呑み込む。全てを飲み込み、世界に終末を呼ぶ終わりの獣。
次に、現れたのは闇の奥底で蠢く鼠だった。それは徐々に大きくなっていき、規格外のサイズとなり最終的に人狼へと変わった。人狼は闇から出ていき、見つけた大蛇を踏みにじって殺戮する。そして、人狼は天に輝く太陽を素手で掴み取り、呑み込んだ。
最後に、巨狼と人狼はお互いに気づくと、互いに咬みつき合う。巨狼が全身から炎を生じさせたかと思えば、人狼はそれに雷霆を伴った嵐を呼び出す。そして、両者は何かに気づいたのか、弾かれように互いに距離をとり、祐理の方へと顔を向けた。
すると、どうだろう。巨狼も人狼も人間へと変貌を遂げた。青年と老人という差異はあったが、両者とも祐理がかつて出会ったことのある人物だった。
片や中肉中背、どこか陰のある怜悧な面差し―――そして馴染みのある黒髪黒瞳の青年。
つい先日会ったばかりの日ノ本初の王。自身も傅くべき相手、神無徹が表情を消し、絶対零度の視線で祐理を射抜く。
此方長身痩躯、秀でた額を持つ知的な面差し―――そしてエメラルド色の双眼の老人。
東欧と南欧に君臨する、古きカンピオーネ。老いたる魔王は輝く邪眼を祐理に向け、獰猛に微笑んだ。
「神無徹様に―――ヴォバン侯爵!?そんな、あなたがなぜ!?」
凄まじい重圧と最大級の恐怖が、祐理を襲う。悲鳴と共に、彼女は意識を失った。
「……視線が途切れた。気づかれたのに気づいて視るのをやめたのか?それはそれで構わないが、あの時近くに感じた気配は一体―――」
同刻、美雪と共に茶を飲んでいた徹は、突如感じた視線を敏感に感じ取っていた。それもただの視線ではない。自身の内を覗かれるような特殊な視線だった。まず、間違いなく霊視の類であると断定し、その糸を逆に辿って睨みつけてやったのだが……。
「義兄さん、どうしたの?」
先ほどまで和気藹々と話していたのに、突然黙り込んだ徹に疑問を覚えたのだろう。美雪が不思議そうに尋ねてくる。
「いや、すまない。ちょっと見られている気がしてな。恐らく霊視の類だと思うんだが、お前は感じなかったか?」
「えっ!?まさか万里谷祐理が!あの娘―――!!」
優れた巫女である美雪でさえも感じ取れなかったらしい。
だが、徹を霊視できる程の術士と考えた時、彼女の頭に真っ先に浮かんだのは、先日楔を打ち込んはずの少女だった。
「いや、違うだろう。そうならそうで、察知できるように仕組んであるからな。冬馬達もそんな無謀な真似はさせまいよ。だが、美雪が何も感じ取れなかったとすると、やはり私が目的の霊視なのか?」
流石にそれはないと徹はそれを即座に否定する。そこまで肝が太いとも、厚顔でもないだろうと思っていたし、何よりそれはないという確信があったからだ。
だが、それはそれで疑問が残る。徹を霊視した術者は何者なのかと。
「うーん、それはどうかな?霊視って、やろうと思ってできるものじゃないし。まあ、万里谷祐理程の術者ならできるかもしれないけど、それなら義兄さんには分かるんでしょう?」
「ああ、自分の意思で私を霊視しようとすれば確実にな」
あの名刺に見せかけた護符には、その為の術式も仕込んであるのだから。
「でも、並大抵の霊視術士が義兄さんを霊視するなんできないはずだし、人海戦術でやるにしてもあれは稀少な能力だから……。うーん、あ、そうだ。もしかしたら、別の物を視ようとした結果、義兄さんを視ることになったのかもしれない。迦具土にパールヴァティー、フェンリルにプロメテウスと義兄の簒奪した権能の神々縁の品か、類似性のあるものから」
「なるほど、それはありえるかもしれないな。私のかつての師も『プロメテウス秘笈』という神代の魔導書をかつて所有していたというからな。魔導書をはじめとした呪物を霊視した延長で、関連あるいは共通点・類似性のある私を幻視したわけか。可能性は低いが、絶対にありえないことではないな」
実際そのとおりであり、祐理は狼とフェンリルという共通点、そして徹のことを口に出した言霊から、徹を幻視してしまったのだ。
「うん、そうだと思う。滅多にないことではあるけどね」
「そうか、なるほどな……うん、待てよ」
美雪の推論を聞き、納得がいったとばかりに頷く徹だったが、とんでもない可能性に気づき顔を青褪めさせた。
「どうしたの、義兄さん?」
「あの護符は、あくまでも私を万里谷祐理が自身の意思で霊視しようとした時にそれを報せる代物だ。流石に偶然視てしまったものや、視えてしまったものまでは察知できない。ここまではいいか?」
「うんって……ああ、もうオチが見えたわ。つまり、義兄さんを視たのは万里谷祐理の可能性があるってことね。ううん、近場で義兄さんを霊視できる程の優れた霊視術士はあの娘ぐらいだから、十中八九そうね。
それで視られていることに気づいた義兄さんは何をしたのかな?」
美雪は笑ってはいるが、目が少しも笑っていない。徹は顔を引き攣らせた。
「いやー、あのな。本当にわざとじゃないんだ。ただ、霊視されてると感じたから、過分に反応しただけでさ」
「な・に・を・し・た・の?」
言い淀む徹に美雪は容赦しなかった。
こういうところはよく似てる、姉妹だなーと和みつつ、その時の亡き妻の対応を思い出し戦慄する。
「ムカついたんで、結構本気で睨みつけちゃいました」
誤魔化してもいいことがないのは経験から百も承知なので、徹は素直に白状する。
「―――バカー!義兄さんの馬鹿!先日のやり取りが台無しじゃない!」
「いや、でもまだあの娘だと決まったわけじゃないし」
「本当にそう思っているの?」
「ゴメンナサイ、欠片も思ってません」
あの時は咄嗟の事で過敏に反応してしまったが、改めて考えてみれば覚えのある気配だった。つまり、万里谷祐理である可能性は極めて高い。
「謝るのは私にじゃないでしょう!」
「はい、冬馬に連絡してすぐに確認をとります!」
直ぐ様、冬馬に電話する徹。
『先輩ですか?すいません、急ぎでなければ後にしてもらえますか。ちょっと、立て込んでまして』
応えたのは慌てたような冬馬の声だった。それだけで徹は確信した。あれは万里谷祐理だったのだと。
美雪も徹の諦観の表情と漏れ聞こえた冬馬の声で悟ったのだろう。絶対零度の視線が徹に突き刺さる。
「冬馬すまん。多分、いや間違いなくそれは私のせいだ。お前、万里谷祐理と一緒にいるだろう?」
『えっ!?どういうことですか、先輩?確かに祐里さんはここにいますけど、先輩何かしたんですか?まさか、先日会った時に何か仕込んだんですか?』
「いや、それがな―――」
その後、徹は美雪同様に霊視されたんで、大人気なく全力で睨みつけた旨を説明した。
『はあ、そういうことでしたか。不可抗力とはいえ、先輩勘弁して下さいよ。こっちは本気で焦ったんですからね』
「すまん。本当にすまん。今度酒でも奢るから勘弁してくれ」
『……飲食制限なし、全部先輩持ちで手を打ちましょう』
「わかった、それで頼む」
『本当に気をつけてくださいよ』
どうにか話をつけて、電話を切る。が、徹の苦難はこれからであった。
「……義兄さん、話はこれからだよ」
腕を組んだ美雪が、徹の前に立ち塞がっていたからだ。
「あのな美雪―――「正座」―――はっ?「正座!」はいっ!」
「大体、義兄さんは―――!」
その日の説教は三時間余り。今まで溜まっていたであろう鬱憤を晴らすかのように、美雪の説教は続いた。今回のことは勿論、全然関係ないことまで話は及んだが、徹はそれを大人しく聞いているほかなかった。
そんな有様だったので、あの時感じた覚えのある危険な気配については、徹はすっかり忘却することになるのだった。
幻視されたヴォバンの反応については原作を読んで下さい。