『彩水』
白瀬彩水は幼い頃から、何でも無いような、ありふれた兄のその一言が好きだった。
転んで痛かったとき、友達と喧嘩して悲しかったとき、兄と一緒に遊んでいるとき。
置いて行かれそうになったときも、兄はいつの間にか立ち止まっては、彩水の歩調に合わせて歩いてくれていた。
歳は一つしか離れていなかったが、不思議なことに喧嘩らしいことは一度も無く、過ごして来た。
ねだれば、お菓子を少ないお小遣いで買ってくれたし、勉強も見てくれた。
近所や学校でも、特に仲が良い兄妹として知られていて、彩水としても自慢の兄だった。
物心付いた時から、兄とはいつも一緒だった。彩水が泣きだせば駆けつけてくれたし、それが当たり前のことだと、当の彩水も心の何処かで思っていた。
けれど、兄が小学校の高学年くらいになった頃から、一緒にいる機会も段々と減っていった。彼がサッカー部に入ったからだ。
そこから2年間、兄はサッカーへ打ち込み続け、弱小だったチームも強くなっていた。
彩水は試合には欠かさず応援に行き、それでも彼の背中を追い続けた。
その頃からだろうか、彩水の心には今までにない変化があった。
それは“痛み”だった。兄がいつも傍にいるのが当たり前だった時には感じることの無かった痛み。
いや、それは以前に一度だけ感じたものだった。確か、兄が失恋したという話を母経由で聞いた時だっただろうか。母は小悪魔のようにニヤニヤと笑い、兄は顔を羞恥で真っ赤に染めながら打ちひしがれていたのを覚えている。その時に感じたものと、どこか似ていた。
しかし彩水は、それでも意図的に考えないようにしていた。
――――――自分がいつの間にか抱いていた、兄――白瀬拓海への想いを。
拓海がサッカーを始めたことで、彩水は彼と一緒に過ごすことは自然と減っていった。いつの間にか自分を置いて歩き始めた兄に、彩水は寂しさと焦りを覚えるようになった。
どうにかして彼の気を引けないかと思索しているうちに、彩水は中学生へと上がる。
きっかけは、そんな頃だった。
夏休みのある日、彩水は自宅マンションのリビングで、クラスの男友達から借りたアニメのDVDを見ていた。元々はその友達が「面白い」と言って一方的に貸し付けられ、友達付き合いの一環で仕方なく――といったところだ。
欠伸を噛み殺しつつアニメを見ていると、スポーツバッグを提げた拓海が帰宅してリビングを通り掛かった。
『彩水、それ何?』
『教えてあげない』
『そっか』
その時は、自分に構ってくれなかった腹いせにつれない態度を取ってみたが、拓海の反応は薄かった。
しかしその1週間後、彼は凄い勢いで件のアニメに付いてあれこれと聞いて来たものだから、流石の彩水も反応に困ってしまった。話を聞いているうち、同じ部のアニメ好きから彩水の見ていたアニメの内容を聞き出して、こっそりとDVDか何かで見ていたのだろうということは、簡単に想像出来た。
最初はそのことに戸惑いこそしたが、兄と一緒に過ごせる時間がまた増えるかもしれないと考えると、彩水は積極的に今まで見て来たアニメや漫画を勧めるようになった。
ただ、拓海の声が聞きたかった。笑顔が見たかった。振り向いてほしかった。そんな気持ちで、彩水はアニメや漫画、ライトノベルに手を出すようになった。それらが好きだったかどうかで言えば、はっきり言って好きではなかったが嫌悪するものというわけでも無かった。
ただ、兄とまた並んで歩きたい――――。彩水にとっては、そのための道具に過ぎなかった。
やがて兄妹が高校生になった頃、あのブラウザゲームが口コミで爆発的に流行るようになっていた。
旧日本海軍の船が擬人化されたゲーム……という認識しか彩水は持っていなかったが、クラスの男子たちの間でもよく話題になっていたのは覚えている。18歳以上でないとゲームが出来ないらしかったが、それだけ聞くと如何わしいモノにも思える。実際、彩水はそんなものだと捉えて、さほど興味を持っていなかった。
そんな時期に、拓海もそのゲームにはまっていることを、彩水は程なくして知ることになる。
拓海が彩水に語るのは、パソコンの画面に表示されている「榛名」という少女であり、彼はその子に夢中になっていた。その時点で、彩水にとっては実在しない筈の女の子に拓海を奪われたような気持ちになっていたのに、両親の前ではそれをおくびにも出さなかった。
彩水は、そんな拓海の態度にも苛立ちを覚えたし、画面の向こうの少女にも内心嫉妬していた。
どうして振り向いてくれないの。
どうして気付いてくれないの。
どうしてそんな顔で笑っていられるの。
私はこんなにお兄ちゃんが好きなのに。
「榛名」のことを語る兄の姿を見てから、彩水は気付かないふりをしていた気持ちに気付くようになっていた。同時にそれが、抱いてはいけない感情だということにも。
たった15年ほどしか生きていない少女は、その恋心に酷く悩まされた。
倫理的にもこの国の法律的にも、実の兄妹が結ばれることは有り得ない。それでもその道を選ぶのなら、他の全てを捨てる覚悟が必要かもしれない。
知り合いが来るかもしれない図書館は避けて、彩水はネットで目に付く記事を探しては悩み続けた。
余りにも重すぎる悩みを一人で抱え込もうとするが、それも限界を迎えようとしていた。
虚構の少女によって気付かされたとは言え、10年以上積み重ねて来たその想いは、彩水には簡単に諦めることなど出来なかった。
そんな彩水の心の葛藤に、両親も何となく気付いていたのだろう。
両親は拓海の誕生日の直前、彼が部活に行っている時を見計らって彩水に本当のことを告げることにした。
拓海と彩水は血が一切繋がっていないこと。彼が養子であること。
彩水に真実を告げる時の両親の顔は、悲痛なものだった。ずっと言うべきか迷っていたらしく、養子になった経緯までは話してもらえなかったことから、何か大事があったのは察せられた。
勿論、彩水にとっては衝撃的な事実だったが、何処かで納得出来ることもあった。
時々近所のおばさんから、彩水と拓海が似ていないと言われたこと、年が近い割に喧嘩は少なかったこと。――――拓海を好きになってしまったことにも関係はあるのだろう。
拓海がその事を知っているのかと聞いたら、両親は口を揃えて「知らない」と言っていた。
何でも、彼が養子になったのは物心が付く前のことだったらしい。
拓海が養子であることを話すかどうかは、ある時期からずっと悩んでいたが、機会を逸していたと言う二人を、彩水は責めることなど出来なかった。
或いはもっと早く知っていれば、こんなに悩むことは無かったのかもしれない。けれど、泣きそうな顔になっている二人を前にしていると、そんな思いも何処かへと消え去っていた。
しかし事実を知っても尚彩水は、両親に対して拓海への気持ちを話すことは無かった。
そんな事があった後、彩水はまるで何事も無かったかのような顔で義兄と過ごし、彼の誕生日を迎えた。
その日は珍しく授業が早く終わり全ての部活が休みになっていたため、彩水は久しぶりに拓海と二人で下校した。まだ夕方前で両親は仕事が終わっておらず、帰宅してからも暫くは彩水と拓海の二人きりだった。
拓海からは誕生日のプレゼントはあるのかと聞かれたが、彩水は曖昧に笑って誤魔化していた。結論から言えば、
事前に準備を完了した彩水は、拓海を待たせている彼の自室へと赴いた。
部屋に入った彩水を見た瞬間の拓海の顔は、驚きと困惑で固まっていた。それは無理も無い事だろう。長い時間を共に過ごしてきた妹が、恥ずかしさで火照った顔で、しかも下着姿で現れればそんな顔にもなる。
声が出せない拓海はただ、近寄ってくる彩水を呆然と見つめていた。起きている事態に頭が追い付かないのが傍目にも分かるほど、拓海は動揺している様子だった。
しかし彩水は、拓海のそんな様子を気にしないふりをしながら彼の手を取り、ベッドへ座らせた。抵抗は無く、拓海はすんなりと彩水の誘導に従ってしまう。
『――――私ね、好きなの。お兄ちゃんが』
その言葉を口にした時の段々と凍り付いていく拓海の表情を、彩水ははっきりと覚えている。彼の表情を見て彩水は、兄妹の間に血縁が無い事を知らないのだと確信した。
けれど、その事実を伝えることはしなかった。舞い上がっていたのもあるのだろう。彩水はその事伝えなくても、きっと大丈夫だという根拠の無い自信を胸に抱いていた。
そうして彩水は拓海を押し倒して、心の赴くままに彼を求めたのだった。
その日から、彩水と拓海の関係は変わってしまった。
彩水が望んでいた恋人になることは無く、拓海は彼女を突き放すようになった。
拓海は家にいる間は彩水を避けて自室にこもりがちになり、件のゲームと勉強に逃げるように打ち込むようになっていた。
話し掛けようとしてもあからさまに無視されるようになり、言葉を交わすのは精々が朝と夜の挨拶だけになった。
彩水の行いがどれだけ拓海にダメージを負わせたかは、明白だった。彼は、彩水と血の繋がりが無い事を知らず、実の妹として接している。そんな相手を一時とはいえ受け入れてしまったことに、拓海は苦しんでいる様子だった。
両親は彩水と拓海の間に何があったかは終ぞ知ることは無かったが、それでも二人の関係が悪化していることだけは感じていたようだった。しかし原因を聞きだそうにも拓海は口を開かず、彩水は「プレゼントを受け取ってもらえなかった」と言うことしか出来なかった。両親に打ち明けるだけの、余裕も勇気も持ち合わせてなどいなかった。
結局彩水と拓海の関係は修復されることは無く、ただ悪戯に時間だけが過ぎ去っていった。
彩水は何とか拓海と仲直りをしようとするが出来る筈も無く、そんな妹を前にした拓海が敵意と罪悪感で一杯になっていることが、余計に彼女の心を傷つけた。
もしあの時、先に血の繋がりが無い事を告げていたら。自分の逸る気持ちを抑えて、この恋心を伝えていたら。
初めからそんな風に伝えて拓海からの返事を待っていたら、彼は自分の気持ちに応えてくれたのだろうか。
ただ無為に過ぎていく日常の中で、彩水はそんなことを夢想するようになっていた。
けれども、自分がしたことへの後悔は無い。ただ待っていたら、拓海はどこか遠くへ行ってしまうのではないか。そんな気がしていたからだ。
彩水のそんな想いとは裏腹に、その日は訪れた。
彩水が高校3年生へと進級し拓海は大学へと進学した後も、二人の関係に修復の兆しは見えなかった。
拓海は自宅を出て大学近くのアパートへと引っ越してしまい、彩水は受験生となったこともあってお互いが会う機会自体が、ほぼ皆無となっていた。
そんな状況になって、彩水の気持ちは諦めるどころか寧ろ募っていく一方だった。
それでも、拓海と会うことが無くなったわけではない。彩水は数少ない拓海と会える時間を利用して、もう一度気持ちを伝えようという決心をしていた。
今度は、周りに誰がいても構わない。純粋に、その想いをぶつけようとしていた。
しかし、そんな想いは叶うことは無かった。
同じ年――――彩水が高校3年生に進級し、拓海が大学生になったばかりの、2015年5月5日。
アメリカ合衆国ウェーク島を謎の津波が襲い、島に多大な被害がもたらされた。
滑走路や建物のいくつかが破壊され、現地に滞在していた人々にも死者・行方不明者が発生していた。
行方不明者の中には日本人の名前もあり、情報はアメリカを通してすぐさま日本に伝えられた。
謎の津波の被害はウェーク島だけに発生したこと、南鳥島を始めとする近隣の島々では津波が観測されなかったこと、日本人行方不明者が二人となっていること――――。
その行方不明者の名前は鳴川光樹と、その友人で大学の同級生である白瀬拓海だった。
1ヶ月に渡る捜索が行われたが結局見つからず、二人は死亡した可能性が高いと、それぞれの家族に伝えられた。
拓海が死亡した可能性が高いと言われた彩水のショックは、相当なものだった。
何とかその事実に向き合おうとしている両親に対し、彩水の方は現実が受け入れることが出来なかった。
学校にも行かず引きこもりがちになり、食事もまともに採らなくなってしまっていた。
クラスの担任や友達が心配して様子を見に来てくれたがそれに応じる気力も無く、一言も話さないままだった。
そんな状態のまま更に1ヶ月が過ぎて、現実に耐え切れなくなった彩水は両親が出掛けている合間を見計らって、行動に出た。
いつもなら心身共に疲弊した彩水を心配して、父か母のどちらかが必ず家にいて彼女の面倒を見ていたが、その日は仕事上外せない急用で家を出ていた。夕飯時には帰って来ると両親は約束してくれたが、彩水はそんな二人の帰りを待つことは無かった。
ふらりと自室を出た彩水は、覚束ない足取りで台所に向かい果物ナイフを手に取った。
『もう、嫌』
誰もいない台所で一人呟くと彩水は何の迷いも無く、果物ナイフを自分の首の動脈に突き立てた。最後の力を振り絞ってナイフを引き抜くと、そこから血が濁流のように溢れ出す。
彩水は薄れていく意識の中でただ拓海のことを思い浮かべながら、台所の床へ崩れ落ちた。
白瀬彩水は、死んだ。
「――――――――」
目覚めは最悪だった。
鳴川彩水にとって、前世の自分の夢を見ることはそう珍しいことでは無い。かといって頻繁に見るわけでも無い。
しかしその夢の終わりはいつも、自分が自分の首を刺して死ぬというものだ。おまけにナイフを刺した時の感覚から、死ぬ時の血が抜けていくような感覚までしっかり再現されているものだから、気分が悪いどころの話では無い。
「こういう時に限って、
彩水が支配下に置いている千年竜王キングギドラからは、時折彼女が寝ている間に視覚情報の共有が起こる。
情報は千年竜王から彩水への一方通行で、意図していないものだ。
一日分の情報が丸々と彩水の頭の中に入って来るため、共有が起こった日の朝は決まって酷い車酔いをしたかのような感覚で目が覚める。おまけに共有は不定期で予測が付かないが、それでも二日三日分の情報が丸々と送られないだけ、まだましというものだろう。あまり多くの情報を貰っても、脳が焼き切れてしまうだけだ。
彩水が出来ることと言えば、情報が欲しい場所の付近に千年竜王を忍ばせておくくらいのことだ。そうでもしなければ、何のために悪酔いをしたような気持ち悪い感覚を味会わなければならない。
「ま、その甲斐はあったのかな」
夢の所為で気持ち悪さはいつもの倍だが、それに見合う成果はあった。
八重山列島近海に潜ませていた千年竜王の眼から、拓海が所属している艦娘隊の戦いの様子が伝わって来た。
父である鳴川光樹も前世での義兄だった拓海も、何とか作戦を成功させることは出来たようだ。拓海の乗っている艦に危険があれば助けようとも考えていたが、その心配は無用だったらしい。
拓海が危機に陥ると、警告を飛ばしてくるように千年竜王には教え込んでいるから、それが無かった時点で大丈夫だろうとは考えていた。それがこうして映像の形で現れ、安全を確認出来ただけでも僥倖だ。
尤も千年竜王はいつも拓海がいる場所の近くに忍ばせているので、どのみち彼に関しては安全が保障されたようなものだが。
それでも、幾つか気になる部分はあった。
「あのヲ級は生き残ってるし…………。あのヘンな艦娘…………」
千年竜王を通して見た艦娘には、彩水も見覚えがあった。その艦娘が横須賀にいた頃、何度か顔を合わせたことがある。
「峯風ちゃん…………。何で
彩水の記憶が正しければ、峯風という艦娘は他の姉妹艦と共に宿毛湾で
そう聞いていた筈なのだが、千年竜王が視ていたのは紛れも無く
彩水は艦娘隊の内情に詳しいわけでは無いが、それでも峯風を始めとした第1世代の艦娘は、事件を境に運用されなくなっていると聞いている。
何らかの事情があるのだろうが、彩水には推測のしようが無い。
ただ、拓海たちを苦しめたヲ級の艦隊を一人で撃破した峯風の姿は、明らかに異常だった。
石垣島周辺での艦娘隊の動きから、それに絡んでいるのが誰かは予想が付いた。
「お父さん、何なの? それ……」
かつての知り合いに生気というものはまるで無く、機械仕掛けの人形のように佇んでいた。動きはなまじ人間と遜色ないだけに、それが余計に見る者への嫌悪感を与える。
「――――まぁ、私には関係の無いことなんだけど」
そう呟いて思考を打ち切ると、彩水はベッドから起き上がって寝巻を脱いで手早く着替える。
父親が軍人ということもあって家は広く、それは彩水の部屋も例外では無かった。前世のマンションのリビング並の広さはあるだろうか。一人娘に与える部屋にしては広すぎるが、その分物の置き場所には困らない。
勉強机と本棚だけでなく、自分専用のドレッサーを置くことも出来る。
壁掛け時計を見ると、針はまだ朝の5時を指している。母はまだ寝室で寝ている時間だ。
彩水は母を起こさないように気を配りながら身支度を整えると、音も立てずに家の玄関を出た。
「――――もう、帰って来ないかもしれないね」
10年以上過ごした家を見上げ、彩水は思わず感傷に浸ってしまう。
「ごめんね。それから、今までありがとう。お父さん、お母さん」
家に向かって頭を下げると背を向け、彩水は目的地へと向かうべく歩き出した。
彩水は旅装姿で荷物を詰め込んだドラムバックを肩から提げ、右手には禍々しい色を帯びた石を持っている。
それきり彩水は、自分の家を振り返ることは一度も無かった。
目的地へと向かう彩水の目は、見る者が見ればまるでこれから死にに行くように思えただろう。それ程までに、彼女の目には暗い色が宿っていた。
「もう、何処にも行かないでね。お兄ちゃん」
シン・ゴジラ、面白かった。今月中には3回目行きたいです。
本編に付いて書くのは……ここでは無粋かもしれないですね。気が向いたら活動報告を書くと思います。