銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第79話:民主政治再建会議 801年10月31日 首都防衛軍司令部~オリンピア市街~カフェ「ライト・アンド・エアリー」~バーナーズタウン~サラパルータ駅~ボーナム総合防災公園

 たった三行の文章が首都防衛軍司令部に大きな衝撃を与えた。司令官を拘束せよとの命令が出たのだ。幕僚やオペレーターたちは呆然となり、一言も発することができない。

 

「フィリップス提督! 説明してください!」

 

 首都防衛軍副司令官フェリー・カウマンス地上軍少将が、早口でまくしたてる。悪意があるわけではない。胆力に欠けているのだ。

 

「その命令はでたらめだ」

 

 俺は腰に両手を当てて肘を張り、七センチほど背が高いカウマンス少将を睨む。決して弱気を見せられない場面だ。心臓はトランポリンのように飛び跳ね、背中を流れる冷や汗は滝のようであったが、それでも強気の姿勢を押し通す。

 

「本物の命令ですぞ! 統合作戦本部長の電子認証が付いているのです!」

 

 カウマンス副司令官が電子認証を指差した。どう見ても本物にしか見えない。

 

「偽造ですね」

 

 首都防衛軍参謀長代理チュン・ウー・チェン宇宙軍准将は、落ち着いているというよりのんびりした口調で言い切る。

 

「電子認証を偽造できるとでも言うのか!?」

「人間が作ったものです。他の人間が作れても、不思議ではありません」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理は悠然と受け流す。常識的に考えれば、統合作戦本部長の電子認証を偽造するなど不可能だろう。しかし、こうも余裕たっぷりに言われると、可能だと思えてくる。

 

「四年前、同盟軍は軍務尚書や統帥本部総長の命令を偽造し、イゼルローンの帝国軍を混乱させました。どの国においても、電子認証の技術に大きな違いはありません。統帥本部総長の命令を偽造できるならば、統合作戦本部長の命令だって偽造できます」

「ならば、誰が偽造したというのだ」

「わかりません。帝国軍かもしれませんし、テロリストかもしれません。同盟軍の一部が反乱を起こした可能性もあります。いずれにせよ、首都防衛軍の敵なのは確かでしょう」

「どうすれば良いのかね?」

 

 カウマンス副司令官はすがるような目でチュン・ウー・チェン参謀長代理を見る。

 

「フィリップス提督の下で一致団結することです。ヴァイルハイム大将の過ちを繰り返してはいけません」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理はイゼルローンの敗将を例にあげ、遠回しに「拘束命令なんか信じたら大恥をかくぞ」とほのめかす。半ば脅迫であったが、のんびりした口調と緊張感のない表情のおかげで、善意の助言に聞こえる。

 

「五年前を思い出します」

 

 首都防衛軍副参謀長サフィル・アブダラ地上軍准将が俺を見た。

 

「エル・ファシル星系政府は偽情報を鵜呑みにして自滅した。疑心暗鬼は大軍よりずっと怖い」

 

 俺は期待された通りの言葉を吐く。アブダラ副参謀長に「五年前」と言われたら、それはエル・ファシル七月危機のことだ。

 

 後方部長イレーシュ・マーリア宇宙軍大佐、情報部長ハンス・ベッカー宇宙軍大佐、作戦副部長エドモンド・メッサ―スミス宇宙軍中佐が、左右と後方からカウマンス副司令官を囲む。長身の三名はただ立っているだけで無言の圧力になる。

 

 正面からは俺がカウマンス副司令官を鋭く睨む。チュン・ウー・チェン参謀長代理ほど口は回らないし、イレーシュ後方部長らほど迫力はないが、司令官として揺るがぬ姿勢を見せつける。

 

 チーム・フィリップスの連携プレイが空気を変えていく。指示はしていないし、事前の打ち合わせもない。共に死線を越えた戦友同士だ。何も言わずとも、成すべきことはわかっていた。

 

「かしこまりました。拘束命令は偽命令と判断いたします」

 

 カウマンス副司令官は安堵したような息を吐いた。幕僚やオペレーターたちの動揺も収まる。彼らが求めていたのは正解だった。俺たちは証拠を示せかったが、言葉と態度によって正当性を示したのだ。

 

「よろしく頼む」

 

 俺は頷くと、カウマンス副司令官にいくつかの指示を与えた。指揮統制システムは俺を指揮権者と認識していないので、間接的に指揮を取る。

 

 だが、二分も経たないうちに、カウマンス副司令官も指揮統制システムを使えなくなった。新たな指揮権者に指定されたのは、最先任の少将である北部軍司令官ミーニ少将である。

 

「ミーニ少将はトリューニヒト議長の支持者だ。きっと味方に付いてくれる」

 

 有線電話に手を伸ばす。首都防衛軍は専用の有線電話回線を持っている。一六〇〇年前に時代遅れとなった通信手段だが、サイバー攻撃や妨害電波の影響を受けないのが強みだ。

 

 しかし、ミーニ少将は電話に出ない。受話器から着信拒否を知らせる機械音声が流れる。首都防衛軍の警戒網とネットワーク通信網が使えなくなった。ぶれやすい人が最悪のタイミングで最悪の方向にぶれた。

 

 俺は受話器を置いて通信オペレーターを見る。サイバー攻撃が始まった直後から、主要な政府機関と軍機関に警報を送り続けたが、一度も反応がなかった。

 

 メインコンピューターが乗っ取られるのは時間の問題だ。熱核攻撃に耐えられる地下司令室も、一個師団と戦える全方位迎撃システムも、制御できなければ役に立たない。

 

「サウスオリンピア基地を放棄する」

 

 それ以外の選択はなかった。司令部に立てこもっても捕虜になるだけだ。逃げる途中で捕まるかもしれないが、立てこもるよりは希望がある。

 

「総員退避せよ!」

 

 サウスオリンピア基地の首都防衛軍司令部、輸送部隊、通信部隊、教育部隊、作戦情報部隊、憲兵隊、音楽隊など九〇〇〇人が退避行動を開始した。基地を放棄する際のマニュアルは確立されている。固まっていれば逃げにくいので、数人から数十人の小集団に分かれて行動するのだ。

 

「これより非常階段に突入する!」

 

 俺は非常階段を全力で駆け上がる。幕僚やオペレーターがその後を追う。エレベーターには逃げ道がない。緊急時には非常階段を使うのが鉄則だ。

 

 あっという間に一階にたどり着いた。遅れた者は一人もいない。体力作りを重視した成果がこんな時に現れた。

 

「バラバラに出ろ!」

 

 号令と同時に部下が散らばった。全員が一つの出口に殺到したら避難しにくいので、複数の出口から同時に出る。

 

 俺は副官代理ハラボフ少佐だけを連れて隊員食堂に入った。その片隅にはひげ印のじゃがいもの段ボール箱が積み上げられている。

 

「これです」

 

 丸っこい文字で「訳あり品」と張り紙された箱を、ハラボフ少佐が開ける。中には地上軍下士官の制服が二着入っていた。一つは俺の着替え、もう一つはハラボフ少佐の着替えだ。下着、軍靴、財布、時計、偽造身分証などもある。

 

 三〇秒で着替えると、ハラボフ少佐に瞬間染髪スプレーと瞬間整髪スプレーをかけてもらう。ゆるくウェーブした赤毛がストレートの金髪に変わる。俺もハラボフ少佐の髪にスプレーをかけ、彼女の赤毛を金髪に変えた。

 

 変装を済ませて二人で食堂の窓から飛び出した時、遠くからプロペラ音が聞こえた。一〇機前後のヘリコプターが飛んでくる。地上軍のヘリコプター部隊が使うウッドペッカーだ。

 

「ウッドペッカーが飛んでるなんて報告は聞いてないぞ!」

 

 俺は走りながらハラボフ少佐に質問する。指揮統制システムを失ったのは一〇分前のことだ。

 

「監視がなくなったと同時に飛び立ったと思われます!」

 

 ハラボフ少佐は呼吸も足並みも乱さずに答える。

 

「ジェスタの第一飛行連隊か!? それとも、ナシミエントの第三〇七飛行連隊か!?」

「ヘリは離陸に多少の時間を要します! 最も近い第一飛行連隊でしょう!」

「もっともだ!」

 

 俺とハラボフ少佐は基地構内を飛ぶように駆け抜けた。体に翼が生えたみたいだった。以前に同じような感覚を味わった気がするが思い出せない。

 

 基地周辺の封鎖線は虫食い状態だった。外に出ようとする側の方が圧倒的に多く、先頭集団は封鎖が始まる前に基地を出ていた。俺とハラボフ少佐は混雑に紛れて市街地へと飛び出す。

 

 オリンピア市内に軍隊が姿を現しつつあった。武装した兵士が歩道を駆け抜け、装甲車両が車道を進む。市民は呆然とした顔でその様子を見つめる。

 

 軍隊はこちらに見向きもしない。まっしぐらに目標を目指しているのだろう。その隙に俺とハラボフ少佐はバスターミナルに駆け込む。そして、コインロッカーに隠してあった服を取り出し、隣接するスーパーマーケットのトイレで着替える。バスターミナルは警戒されにくい建物で、数日間借りられるコインロッカーがあるので、変装道具を隠すのにはちょうどいい。

 

 思ったより敵兵は少なかった。第一歩兵師団第三旅団と第一師団第一砲兵連隊の部隊章しか見かけない。参加しているのは第一歩兵師団の一部に留まるようだ。

 

「脱出できるんじゃないか」

 

 俺とハラボフ少佐はオリンピア脱出を試みた。しかし、市外に通じる道路は封鎖済みだった。宇宙港、鉄道駅、リニア駅には兵士が配備されている。敵は少ない兵士を運用する術を知っていたのだ。

 

 

 

 オリンピア市パレストラ区のカフェ「ライト・アンド・エアリー」は満席だった。通行止めが解除されるまでの間、コーヒーとスイーツを楽しもうという人が集まっている。

 

「お兄ちゃん」

 

 俺をそう呼ぶのはアルマ・フィリップスではない。ユリエ・ハラボフ少佐である。

 

「どうした」

「あげる」

 

 ハラボフ少佐はドーナツを差し出す。

 

「ありがとう」

 

 俺がドーナツを受け取って食べると、ハラボフ少佐は白い歯を見せてにっと笑う。普段は決して見せない表情だ。

 

 彼女は偽造身分証のキャラクター「メイ・ブラックストン 二三歳」になりきっている。服装はピンク色のゆるいニットにグレーのパンツ、髪の毛は茶色い巻き髪、肌は赤ん坊のようにつやつやだ。このふわふわした女性は何者なのか? 冷徹でプライドの高い副官はどこにいったのか?

 

 俺の偽造身分証は「アーリー・ブラックストン 二四歳」で、メイの兄という設定だ。細身の長袖Tシャツにカーディガンを羽織り、首の周りにはウールのマフラーを巻き、髪は茶色の直毛、顔には童顔ぶりを際立たせるメイクが施してある。日なたぼっこが似合いそうな感じで、メイの兄と言われたら万人が納得するだろう。

 

 はっきり言って、こんなふわふわした変装はしたくなかった。かなり若く見えるとはいえ、俺は三三歳、ハラボフ少佐は三〇歳である。ふわふわしていい歳ではないはずだ。

 

 しかし、ハラボフ少佐は、「だからこそ、意表を突けるのです」と主張する。確かに「勇者の中の勇者」が、ふわふわした若者に化けるとは誰も思わない。もっともなので反論できなかった。

 

 オリンピア市は驚くほど静かだ。兵士が乱暴をはたらくこともなく、市民がパニックを起こすこともなく、時計の針だけが淡々と進む。テレビやラジオはCMを流し続ける。携帯端末は完全に規制されていた。

 

 現時点では、兵士が街頭で配っているビラが唯一の情報源であった。しかし、その内容は交通規制や通信規制に関する通知で、「ご迷惑をおかけします」「ご協力をお願いします」といった腰の低い文言が並ぶ。目前の事態に関する説明はない。発行者の「民主政治再建会議」の正体は兵士ですら知らなかった。

 

「番組が始まったぞ!」

 

 誰かが叫んだ。店にいる者すべてがテレビに視線を向けた。画面に現れたのは意外過ぎる人物だった。

 

「市民の皆さん、私は同盟軍最高司令官ウラディミール・ボロディンです」

 

 綺麗に撫でつけられたアイボリー色の髪、美しく整った口髭、洗練された軍服の着こなし、上品だが嫌味のない物腰。宇宙軍士官の理想を一身に体現したスマートな風貌。統合作戦本部長ウラディミール・ボロディン宇宙軍大将である。

 

「本日一〇時〇〇分、市民の代表たる資格を失った最高評議会及び同盟議会に代わり、民主政治再建会議が自由惑星同盟の全権を掌握しました」

 

 ボロディン大将は穏やかに宣言する。ラグナロックの英雄がクーデターを起こしたことに、誰もが驚いていた。

 

 俺は内心で舌打ちした。ボロディン大将は大丈夫だろうと思い込んでいた。グリーンヒル大将やルグランジュ大将に気を取られていた自分が情けなくなる。

 

「最初にはっきりさせておきたいのは、これは軍事クーデターではないということです。我々は市民として抵抗権を行使しました。

 

 同盟憲章第二一条第三項には、『すべての同盟市民は、民主制及び憲章秩序を破壊しようとする者に抵抗する権利がある』と記されています。最高評議会評議員及び一部の同盟議会議員が、民主制を破壊しようと企てていました。我々は非暴力的手段による解決を目指しましたが、失敗に終わったため、やむなく直接行動に踏み切った次第です。

 

 民主政治は危機的な状況です。政治家は選挙に勝つために、市民同士の対立を煽ります。利権集団は政治家と結託してルールを曲げています。暴力集団は政治家の手先となって体制批判を封じます。民主主義の名のもとに、非民主的集団が政治を動かすようになりました。

 

 非民主的集団は全体主義体制の建設をもくろんでいます。戦時体制の名のもとに、市民の自由を制限しようとしています。ゆりかごから墓場までケアする福祉を作ると言って、市民の経済的自立を奪おうとしています。完全雇用を実現すると言って、計画経済をやろうとしています。帝国の脅威を強調し、市民を弾圧するための軍隊を集めています。

 

 辺境正常化作戦は非民主的集団の性格を現しています。軍事力を誇示するために出兵し、市民を傷つけました。軍事力を誇示する目的の出兵は以前にもありましたが、帝国軍が相手でした。市民の居住地を攻撃して力を示すなど前代未聞です。

 

 彼らの望みは戦争を続けることであって、帝国に勝利することではありません。権力を握るために戦時体制を必要としているのです。彼らがラグナロック戦役に反対したのも、戦時体制を維持するためでした。

 

 同盟に戦時体制を継続する体力はありません。宇宙艦隊は平時でも莫大な維持費がかかります。大規模な宇宙艦隊を維持し続けるならば、財政破綻は避けられないでしょう。

 

 非民主的集団はフェザーンからの借金に頼ろうとしています。金を借りた者は貸した者に依存させられます。今年に入ってから、同盟はフェザーンから莫大な金を借りました。その代償として、対フェザーン交渉で譲歩を続けています。彼らは権力欲しさに自立を捨てました。

 

 トマス・ジェファーソンは、『自分が使う金を子孫に返させるようなやり方は、未来に対する詐欺だ』と述べました。同盟市民が自立した存在として生きるには、自らの手で自らを救わなければなりません。

 

 帝国との恒久講和、大規模な軍縮、財政再建、民力休養のみが、唯一の現実的手段です。これは同盟市民が等しく望むところでもあります。

 

 この国に生きる一三二億人は一枚の白いページを持っています。それはアーレ・ハイネセンと流刑囚四〇万人が、アルタイル第七惑星を脱出した時に始まった物語の続きです。自らの手で自由と抵抗の物語を書き足しましょう。子供に次の白いページを渡し、『好きなことを書きなさい』と伝えようではありませんか。

 

 アメリカ独立宣言は言います。

 

『いかなる政府といえども権利に反する時は、人民は政府を改造または廃止して、新しい政府を作る権利を持つ』

『権力乱用と権利侵害が長期にわたって継続し、人民を絶対的な専制支配の下に置く意図が明らかな時には、そのような政府を捨てて、安全を保障してくれる新しい政府を作ることは、人民の義務であり権利である』

 

 善政を敷く者が選ばれ、悪政を敷く者が追放される。それが正しい民主政治です。同盟を市民の手に取り戻しましょう。政権支持率のために市民や兵士が殺される世界を終わらせましょう。ご協力をお願いいたします」

 

 声明文を読み上げると、ボロディン大将は深々と頭を下げる。格調高いスピーチと紳士的な風貌がぴったり合っていた。

 

 俺の中に残ったのは敗北感だった。ネグロポンティ国防委員長やドーソン大将を一〇〇人集めたとしても、勝てる気がしない。能力ではなくて風格の問題だ。真の大物はただ存在するだけで小物を畏怖させる。

 

「ドーナツをくれ」

 

 甘みで打ち消すしかないと思い、ハラボフ少佐からドーナツを三個もらって食べた。味はあまり感じなかったが、少し気持ちが落ち着く。

 

「なんだありゃ!?」

 

 窓際の席の客が驚きの声をあげると、他の客も窓際に集まった。俺もハラボフ少佐に誘われて窓際に行き、みんなと同じように上を見上げた。

 

「…………」

 

 とんでもない数のシャトルが空を埋め尽くす。おそらくは明後日のパレードに備えていた第五機動軍だろう。宇宙防衛管制司令部は制圧されたらしい。そうでなければ、アルテミスの首飾りが第五機動軍の進入を阻むはずだ。

 

 五〇万の大軍がクーデター側に味方した。これに匹敵する地上戦力は、ジェファーソン川流域では第一機動軍、北大陸全体では三〇〇〇キロ離れた第九機動軍のみだ。情勢は一気にクーデター軍に傾いたのである。

 

 

 

 俺がオリンピアで足踏みしている間、クーデターは着々と進んでいった。

 

 同盟全土に戒厳令が施行された。民主政治再建会議が全権を掌握するが、同盟憲章と同盟法は存続するという。ボロディン大将は「再建会議は暫定政権だ」と述べ、「一年以内に民主的な選挙を実施する」「新議会が発足したら再建会議は解散する」と約束した。

 

 夜間外出禁止令が発令され、夜二二時から翌日五時までの外出が禁止となった。社会の混乱を避けるため、勤務中の公務員・基幹産業従事者・物流業従事者・医療従事者は適用対象外となる。

 

 最高評議会と同盟議会の権限は停止された。同盟最高裁判所は引き続き職務を継続する。ボロディン大将は各委員会の事務総長を委員長代行に指名し、行政運営を任せた。事務総長は各委員会の筆頭官僚で、帝国の省次官に匹敵する立場だ。

 

 評議員一五名のうち、一三名は閣議の席で拘束され、一名は外遊先で拘束された。トリューニヒト議長だけが脱出に成功した。上院議長、下院議長、大衆党政審会長、統一正義党代表らも拘束された。拘束を免れた与党幹部に対しては拘束命令が出ている。

 

 民主政治再建会議は軍幹部の身柄も押さえた。宇宙艦隊司令長官ビュコック大将、地上軍総監ベネット大将、統合作戦本部次長ドーソン大将、宇宙艦隊総参謀長クブルスリー大将、バーラト方面艦隊司令官アル=サレム大将など、オリンピアにいた者はほぼ全員捕まったのである。オリンピアを離れていた宇宙艦隊副司令長官ルグランジュ大将、予備役総隊司令官グリーンヒル大将らは、出頭要請を受けた。ただし、トリューニヒト派軍人や過激派軍人に対しては、拘束命令が出た。

 

 市民生活には影響は出ていない。電車やバスは通常運行、商店は営業を続けている。役所も中央官庁以外は普段通りだ。道路で検問を行う兵士、重要施設を警備する兵士の姿が、クーデター中だと気づかせてくれる。首都圏では端末回線の通信規制、宇宙船・航空機・リニアの運航停止が実施されているが、明日には解除される見通しだ。

 

 また、五人以上の政治集会の禁止、メディアに対する規制、同盟政府が帝国やフェザーンと締結した条約の継承なども布告された。

 

 民主政治主義再建会議は会合を開き、野党政治家、高級官僚、財界幹部、労働組合指導者、マスコミ幹部、知識人を召集した。クーデターの趣旨について説明し、政権運営への協力を求めたという。

 

 一四時に民主政治再建会議の構成が発表された。議長は同盟軍最高司令官ウラディミール・ボロディン宇宙軍大将、副議長は統合作戦本部長代行マービン・ブロンズ地上軍大将、事務局長は統合作戦本部次席副官クリストフ・フォン・ファイフェル宇宙軍准将が務める。その他、宇宙軍将官四名、地上軍将官五名、宇宙軍技術将官一名がメンバーに名を連ねた。

 

 ファイフェル准将は前の世界の戦記にも登場する。ビュコック大将の副官で、過激な発言をするたびに上官からたしなめられる役回りだった。この世界でも四年前まではビュコック大将の副官を務めたが、上官が一度引退した時に、ボロディン大将の幕僚となった。ビュコック大将とボロディン大将は親友同士なので、移籍もスムーズにできるのだ。そんな人物がクーデター派の知恵袋ともいうべき事務局長になった。

 

 個人的には知人が二人参加していたことがショックだった。第四機動集団司令官レヴィ・ストークス宇宙軍中将には、旧第一一艦隊で世話になった。イゼルローン方面艦隊司令官フランシスコ・メリダ宇宙軍中将は、六年前に第一一艦隊副参謀長を務めた人で、剛直な性格ゆえにドーソン大将から嫌われた。知っている人と敵対するのはいい気分ではない。

 

 一五時三〇分、オリンピア市の通行規制がようやく解除された。一二〇万人が住む都市を完全封鎖し続けるなど不可能だ。もっとも、検問は継続された。電車の運行は再開されたが、短時間で長距離を移動できるリニアは止まっている。

 

 俺とハラボフ少佐はバスに乗ってオリンピアを出た。近隣住民が乗る短距離の一般路線バスである。バスなら一般路線、電車なら各駅電車の鈍行が最も警戒されにくい。

 

 バーナーズタウン二丁目でバスを降り、表通りから少し外れた場所にある駐車場に入った。クリーム色のミニバンが停めてある。

 

「これだ」

 

 俺は持っていたキーを回し、ハラボフ少佐と一緒に乗り込む。偽造身分証を使って一か月契約で借りたレンタカーを、偽造身分証で契約した駐車場に停めておいた。首都防衛軍クーデター対策チームは、この方法で逃走用の車を多数確保した。

 

 警戒線を通り抜けるのは予想以上に容易だった。真面目なのは第五機動軍だけで、首都管区隊や第一機動軍は明らかにやる気がない。連呼を何度も続けて行動に移らない部隊、わざと遅く行動する部隊、誰が通っても素通りさせる部隊も見かけた。

 

 車と電車を乗り継いで、ハイネセンポリス都心部から二〇キロの距離にあるサラパルータ市に到着した。ハイネセンポリスに西側から入る二つのルートの中間点だ。

 

 サラパルータ中央駅の伝言板は、書き込みで埋まっている。脇にある二枚のホワイトボードは臨時の伝言板だろう。通信規制は現在も継続中だ。普段はほとんど使われない手書きの伝言板も、災害などで通信規制がかけられた時は重宝される。

 

「チュン・ウー・チェン参謀長代理、ラオ作戦部長、マー通信部長か」

 

 俺は三つの暗号文を見付けた。クーデター対策チームはどの方向に逃げても、一度はサラパルータ中央駅に立ち寄り、駅の伝言板で連絡を取り合うと決めていた。

 

 打ち合わせ場所に選ばれたのは、駅の構内にあるオムライス専門店「キッチン・フラッフィー」である。ふわふわオムライスで有名な店だ。

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理は冴えない窓際社員、ラオ作戦部長は営業成績の悪いセールスマン、マー通信部長は野暮ったい女性会社員に見えた。三人とも地味な顔なので、仕事帰りの会社員のような変装が良く似合う。

 

 一方、俺とハラボフ少佐は赤いボーダー柄のパーカーである。ハラボフ少佐が言うには、兄妹は同じ柄の服を着ないといけないらしい。髪の色や偽造身分証を変えたのに、兄妹という設定は同じだった。

 

「デザートは何にしよう?」

「ミルフィーユかな」

「シフォンも捨てがたいけど」

「トルテはやめておこう」

 

 会社員風の三人とフリーター風の二人がオムライスを食べながら、スイーツについて話す。本当は宇宙軍中将、宇宙軍准将、宇宙軍大佐、宇宙軍技術大佐、宇宙軍少佐が、どの作戦案を使用するかを選んでいるのだ。

 

 どうでもいいことだが、チュン・ウー・チェン参謀長代理が米を食べるところを初めて見た。パン以外の主食は食べないと思っていたので意外に感じる。

 

 打ち合わせを終えてキッチン・フラッフィーを出た。チュン・ウー・チェン参謀長代理らと別れてハラボフ少佐と二人きりになる。逃げている者が五人も固まって歩くのはまずい。

 

「今日のデザートはミルフィーユ。いちごは少なめ」

 

 ハラボフ少佐が伝言板に丸っこい文字で暗号文を記す。後から来る者に作戦と集合場所を伝えるためだ。

 

 一九時一〇分、ハイネセンポリス西北部と接するボーナム市に入った。同盟の建国期に築かれた古都だが、地場産業はないし、交通の要所でもない。歴史の長さ以外には特徴がない都市だ。伝統的に右翼勢力が強く、「褐色のハイネセン」と呼ばれる右翼的地域の一部となっている。

 

 日が落ちた街並みを路線バスの窓から眺めた。兵士が配備されているのは、東の首都ハイネセンポリスとの境界、北の大都市コルヒオ市との境界、西の要衝ブール=ブランシュ空港に通じる道のみだ。歩道を歩く人々も、車道を走る地上車も、営業中の商店も緊迫した様子はない。車窓の外にはクーデターとは無縁の日常があった。

 

「懐かしいな」

 

 俺は独り言を口にする。自分の知っているボーナムはのどかな街ではなかった。それなのに懐かしいと思う。

 

 前の世界では、ハイネセンポリス西北部、ボーナム市、フォルッサ市、ピナマコール市の一帯に巨大なスラムがあった。あまりに殺人が多かったので、一度に五人以上殺されないと話題にならない。路上では麻薬や武器が堂々と売買される。そんな街だったので、反帝国勢力の拠点が乱立していた。

 

 あのスラムがいつ形成されたのかは知らない。俺が軍隊を脱走したのはバーラトの和約が結ばれる少し前だが、その頃からスラムだった。帝国軍が攻めてくる前から荒れていたのだろう。

 

 人生をやり直した俺が平和なボーナムに足を踏み入れた。隣には妹と似た顔の副官がいる。運命に導かれたとしか思えない。

 

「お兄ちゃん、降りるよ」

 

 ハラボフ少佐の声が俺を現実に引き戻す。次の停留所はボーナム総合防災公園前。最終目的地である。

 

 バスを降りた俺たちを九名の男女が出迎えた。チュン・ウー・チェン参謀長代理、アブダラ副参謀長、ラオ作戦部長、ベッカー情報部長、イレーシュ後方部長、オズデミル人事部長、マー通信部長、メッサースミス作戦副部長、ウェイ憲兵隊長である。みんな大きなスポーツバッグを持ち、ジャージやパーカーを着ていた。社会人のスポーツサークルのような格好だが、民主主義を守る最後の部隊だ。

 

「無事で良かった」

 

 俺は表情を緩めた。首都防衛軍クーデター対策チームが、一人も欠けることなく集まった。それ以上に嬉しいことはない。

 

「あなたが無事な方がうれしいよ」

 

 イレーシュ後方部長が両手で俺の右手を握る。美しい栗毛は極端に短くなった。神々しい美貌、一八一・六センチの身長、ミサイルのように張り出した胸を、変装でごまかすのは難しい。そのため、髪を切ってウィッグを取り換えながら逃げた。

 

「感謝してもしきれません」

 

 それが俺の本音であった。一二年前に知り合って以来、彼女はずっと俺を助けてくれた。今回は自慢の髪を切ることまでした。どれほど感謝しても足りないと思う。

 

 全員で防災公園の管理棟に入り、受付のベルを鳴らす。初老の警備員がふらついた足取りでやってくる。

 

「ああ、プリンセス通りベースボールクラブさんね」

 

 警備員は俺が差し出した会議室利用許可書を見ると、さっさと奥に引っ込んだ。

 

「あの人、酒の臭いがしませんでしたか?」

 

 メッサースミス作戦副部長が俺の耳に顔を近づけてささやく。

 

「そうだな」

「仕事中に酒を飲むなんて、いい加減にもほどがあります。それに今は国難の真っ最中でしょう」

「民主主義はああいう人のためにあるんだ」

 

 それだけ言うと、俺は薄暗い廊下を歩いて行く。六年前、ヨブ・トリューニヒト議長は場末のバーで、「凡人のための政治が必要だ」と語った。それは弱くて愚かで怠惰な人間のための政治だ。人間が強くて賢くて勤勉ならば、政治の力がなくても生きていける。

 

 俺たちは会議室の前を通り過ぎ、「防災司令室」と書かれた扉の鍵を開けた。その中は広間になっており、端末や通信機が据え付けられたデスク二二〇席、巨大なマルチスクリーン一台、サブスクリーン六〇台が並んでいる。

 

「これが欲しかった」

 

 俺は指揮端末の電源スイッチを入れ、防災指揮管制システムを起動させる。音声パスワード入力を求める画面が現れた。

 

「パスワードAの入力をお願いします」

「今日のおやつは、フィラデルフィア・ベーグルのマフィン」

「パスワード一致。解除しました。パスワードBの入力をお願いします」

「明日のおやつは、パティスリー・マルシェのフランボワジェ」

「パスワード一致。解除しました。パスワードCの入力をお願いします」

「コーヒーには角砂糖五個とクリーム三杯を入れてくれ」

「パスワード一致。解除しました」

 

 ボーナム総合防災センターの防災指揮管制システムは、俺を指揮権者として認識した。

 

「やったぞ!」

 

 俺は部下と一緒に歓声をあげた。この瞬間、首都防衛軍クーデター対策チームは武器を手に入れたのだ。

 

 総合防災センターは防災活動の中枢である。指揮通信機能を持つ司令室、物資集積所や宿営地として使える広場、ヘリコプター離着陸施設、食糧や水や燃料などが備蓄されている倉庫、本部要員の臨時宿舎などを備える。支援機能は軍事基地に勝るとも劣らない。

 

 防災指揮管制システムは防災通信ネットワークの中心にいる。有線通信、無線通信、衛星通信、移動通信を組み合わせた複合的な通信網で、あらゆる災害に耐えうる強靭性を持つ。

 

 すべての自治体は独自の防災計画と防災体制を有する。防災計画が発動すると、首長をトップとする災害対策本部が設けられ、公共施設・教育施設・公園・病院は防災活動の基地となり、行政機関や民間組織が動員される。複数の自治体を統括するのが総合防災センター、情報伝達を担うのが防災通信ネットワークだ。

 

「防災体制は軍事に応用できる。その要が総合防災センターなんだ」

 

 対クーデター作戦を作った時、俺は防災体制に目をつけた。正しい情報を集め、人員を必要な場所に投入し、物資を絶えず補給する点では、軍事作戦と防災活動は良く似ている。部隊運用のノウハウを応用できるのだ。名将アッテンボロー少将は、バイレの災害派遣で鮮やかな手腕を見せた。俺は彼ほど有能ではないが、災害派遣を指揮した功績で勲章をもらったことがある。

 

 また、防災拠点は軍事施設や警察施設と違って警戒されにくい。強力な支援機能を持つ総合防災センターも、平時は休眠状態にある。運営者の首都圏広域連合防災局は、戦闘員も工作員も持っていない。まともな軍人なら注目しないだろう。

 

 首都圏の総合防災センター四か所と、それ以外の総合防災センター八か所を予備司令部として選んだ。メンバーが視察の名目で各地を巡り、司令室に入って命令とパスワードを仕込み、どこに逃げても戦えるように準備した。

 

「さっそく情報を集約しよう」

 

 俺は表情を引き締めた。クーデターとの戦いは時間との勝負だ。敵が軍隊と官僚機構を掌握する前に、事を起こさなければならない。

 

 報道規制のおかげで首都圏の状況すら掴めなかった。民主政治再建会議による発表、目と耳で確認した情報から推測すると、第四機動集団、第五機動軍、第一機動軍、特殊作戦総軍配下の第一地上特殊作戦群が再建会議陣営だ。ただし、第一機動軍は積極的な部隊が少ない。首都防衛軍の首都管区隊は検問に協力していたが、無理やり動員された印象だ。ハイネセン宇宙軍は降伏した可能性が高い。第一機動集団、第一陸戦遠征軍の動向は不明だ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 首都圏の外は未知の世界だった。ハイネセン北部軍が裏切ったこと、イゼルローン方面艦隊がクーデターを支持したことだけが分かっている。その他の部隊の動向はまったくわからなかった。

 

 要人たちの態度もわからなかった。進歩党のレベロ代表やホワン幹事長、NPCのウィンザー下院院内総務、反戦市民連合のアブジュ下院議員といった野党政治家の動きは、ほとんど報じられていない。ルグランジュ大将やグリーンヒル大将が、出頭要請にどんな返事をしたのかも不明だ。

 

 惑星ハイネセンにいない復員支援軍司令官ヤン大将らについては、手がかりすらない。前の世界のクーデターでは、救国軍事会議が強硬路線だった。だが、民主政治再建会議は明らかに和平路線で、復員支援軍の後方を塞いだメリダ中将は気骨の人だ。ヤン大将がどう対処するのかは想像できない。戦記にはそんな局面はなかった。

 

 逃走した与党幹部や軍幹部の多くは、逮捕されるか自分から出頭した。国家非常事態委員会(SEC)メンバーの中で拘束されていないのは、俺、フェーブロム少将、チャン警視監、ナディーム警視長の四名だけだ。

 

 今のところ、トリューニヒト派部隊がクーデターに介入する気配はない。フェーブロム少将の第九機動軍は沈黙している。パリー中将は二個地上特殊作戦群を掌握していたのに、あっさり出頭してしまった。ハイネセン北部軍は司令官が驚くほど簡単に屈服した。

 

「圧倒的不利だな」

 

 他に現状を形容する言葉が見当たらなかった。

 

「まだ情勢は流動的です。逆転する余地はいくらでもありますよ」

 

 のんびりした顔のチュン・ウー・チェン参謀長代理にそう言われると、余裕がありそうに思えてくる。声と表情はとても大事だ。でも、胸元のパン粉ぐらいは払ってほしい。


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