銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第2話:夢の始まりは戸惑いとともに 宇宙暦788年8月15日~16日 エル・ファシル市街~エル・ファシル星系政庁

 エアバイクが山道を抜けた頃には、すっかり日が高くなっていた。目の前には平原が広がり、小麦畑と住宅が点在している。何の個性もない郊外の風景なのに、とても美しいと思った。こんな気持ちで風景を見るなんて何十年ぶりだろうか。私は逃亡者ではない。そう思うだけで世界が光り輝いて見える。

 

 頭上で轟音が鳴り響いた。反射的に空を見上げると、軍用シャトルが列を成して飛び立っていくのが見える。思わず顔や腕を触り、目をこすった。確かに私はここにいる。あの中に自分がいないことを確認してホッとした。

 

 ここで重要な事に気づいた。私は「エル・ファシルの英雄」ヤン・ウェンリーがエル・ファシル市のどこにいるのかを知らない。

 

 エアバイクを停めると、頭の中から『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』の記憶を懸命に引っ張りだした。しかし、どちらにもエル・ファシルを脱出するまでヤンがどこにいたかなんて細かいことは、まったく書かれていない。いきなりつまずいてしまった。

 

 どうすればヤンに会えるか思案していると、中年の男が近づいてきた。凄い殺気を感じる。逃げようと思ってエンジンを掛けようとしたが、男が私に掴みかかる方が一瞬早かった。

 

「ありゃどういうことだぁぁぁ! 説明しろぉぉ!」

 

 男は空を指差す。その先には飛び立っていく軍用シャトルの列。どうせ彼らは逃げ切れない。ヤンに着いて行けば、ここに残った者はみんな無事に帰れる。

 

「大丈夫ですよ。大丈夫ですから……」

 

 確信を込めて答えたつもりが、声が震えてしまった。やはり私はこういう男が怖い。無意識のうちに恐怖を感じてしまってる。

 

「何が大丈夫だ! てめえのお仲間がみんな逃げてんだろがぁぁ!」

「いや、ですから……」

 

 男はますます逆上する。勘弁してくれと思った時に、数人の男女が走り寄って来た。暴力の予感に体が震える。

 

 軽く目をつぶり、帰国後に経験した迫害の数々を思い出す。人格を根底から否定する罵倒。そこにいるからという理由だけで振るわれた暴力。それに比べたら、恐ろしいことなど何も無いではないか。仮にエル・ファシルの英雄がいなかったとしても、帝国軍から逃げられなくて死んでも、逃げ出して、あの六〇年を生きるよりはずっとマシだ。

 

「確かに司令官は逃げました! しかし、僕は逃げていません! なぜなら、エル・ファシルから逃げても、『市民を守らずに逃げた』という批判からは一生逃げられないからです! ここに残って市民の皆さんと一緒に脱出する道を考える方がずっと安全に決まっている! 僕は安全を選んだんです!」

 

 やけくそになって六〇年の後悔を吐き出す。集団の中から趣味の良いジャケットを着た三〇歳前後の男性が進み出た。身長は高く、体は幅と厚みを備え、見るからに恰幅が良い。

 

「もしかして、君は自分の意志で残ったのか? 置いて行かれたわけではないのか?」

「はい! 逃亡者になりたくないから残りました! 皆さんと一緒に胸を張って帰るために残りました!」

 

 そう叫んだ瞬間、「おお!」と歓声をあがり、拍手が乱れ飛んだ。

 

「良く言った!」

「君は軍人の鑑だ!」

 

 予想もしなかった反応に、私は戸惑っていた。逃亡者と言われるのが嫌だと正直に言っただけなのに、どうしてこんなにはしゃいでいるのだろう? 居心地が悪い。

 

「握手させてもらってもいいかね」

 

 恰幅の良い男性が微笑みながら右手を差し出してきた。

 

「どうぞ……」

 

 訳のわからないまま私も右手を差し出し、握手をかわす。

 

「私達はこの街の住民代表でね。今から星系政庁に行くところなんだ。君も一緒に行かないか?」

「星系政庁?」

「そうだよ。君も非常事態対策本部に行くつもりだったんだろう?」

「え、ええ、そうです。何か役に立てないかと思って」

 

 非常事態対策本部というのが何なのかは良くわからないが、本部というからには、ヤン・ウェンリーの情報もあるに違いない。そう思って話を合わせた。

 

「あの若い中尉も苦労してるだろうからな。きっと力になれる」

「ヤン・ウェンリー……?」

「そう、そうだよ。あのイースタン系の中尉だ」

「ありがとうございます!」

 

 あのヤン・ウェンリーが夢の中のエル・ファシルにもいることを知り、喜びが沸き上がる。逃亡者にならずに帰れる! あんなみじめな思いはしなくて済むのだ!

 

「どうするかね?」

「行きます!」

「ありがとう、私はこういう者だ」

 

 恰幅の良い男性は手を離すとジャケットの懐を探り、名刺を差し出した。

 

「あなたと作る独立独歩のエル・ファシル

 

 エル・ファシル惑星議会議員

 エル・ファシル惑星議会福祉保健委員会 副委員長

 エル・ファシル惑星議会文化教育委員会 委員

 エル・ファシル独立党惑星議会議員団 副幹事長

 医学博士

 医療法人 ロムスキー総合病院 理事長

 

 フランチェシク・ロムスキー」

 

 私は目を丸くした。フランチェシク・ロムスキーといえば、自由惑星同盟末期のエル・ファシル星系共和国首相で、あのヤン・ウェンリーと同盟してエル・ファシル独立政府を作った有名人ではないか。そんな大物にいきなり声をかけられるなんて、まるで夢のようだ。まあ、夢なのだが。

 

「エル・ファシル星系警備隊所属、エリヤ・フィリップス宇宙軍一等兵です!」

 

 未来の革命指導者に失礼のないよう、精一杯胸を張って敬礼した。

 

「元気だね」

 

 ロムスキーは目を細め、周りの人達もクスクス笑う。恥ずかしさで顔が真っ赤になった。張り切りすぎて痛い奴と思われたかも知れないが、陰気よりはましだろうと自分をごまかし、視線を横にそらす。

 

「照れてる照れてる。かわいいなあ」

「エリヤくんていうんだー」

 

 そんな女性の声も聞こえてくる。人をからかうのはやめてもらいたい。本当は気持ち悪いと思っていることぐらい、頭の悪い私でも理解できる。夢だというのに身長は伸びていないし、髪の毛は赤毛のままだし、猫目も小さい鼻も変わっていないのだ。どこにかわいいなどと言われる要素があるのか? 少しうんざりした。

 

「ははは、人気者だね。行こうか」

 

 ロムスキー議員はのんきに笑うと歩き出した。彼の仲間と思しき数人がそれに続く。私もその後を追って、星系政庁に向かった。

 

 

 

 宇宙暦八〇〇年前後の同盟に生きた私にとって、ヤン・ウェンリーは偉人の中の偉人だ。エル・ファシルで民間人三〇〇万人を脱出させて名を挙げ、アスターテ星域会戦、第七次イゼルローン攻防戦、アムリッツァ星域会戦、ドーリア星域会戦、惑星ハイネセン攻略戦、第八次イゼルローン攻防戦、ライガール星域会戦、トリプラ星域会戦、タッシリ星域会戦、バーミリオン星域会戦、第一〇次イゼルローン攻防戦、回廊の戦いなどで帝国軍をことごとく打ち破り、無敗のままに世を去った。あの「銀河征服者」ラインハルト・フォン・ローエングラムですら、ヤンには勝てなかった。

 

 しかし、ヤン・ウェンリーの真の偉大さは、その武勲ではなく人間性にある。青空よりも清廉潔白で、宇宙のように広大な度量を持ち、野心をまったく持たず、ひたすら民主主義のために戦い続けた。無能で卑劣なヨブ・トリューニヒト、清廉だが狭量なジョアン・レベロなどといった無能な政治家に妨害されて本懐を遂げられなかったが、彼の志は部下に引き継がれて、バーラト自治区の成立に至った。バーラト自治区が失敗に終わっても、ヤン・ウェンリー主義は不朽の輝きを放っている。

 

 リアルタイムで彼を知らない世代には、「ヤン・ウェンリーの用兵ではなく、記録を残したユリアン・ミンツの筆が凄い」「ヤン・ウェンリーは無駄に戦乱を長引かせた戦闘狂。天命を知って平和と統一に貢献したオーブリー・コクラン元帥こそ、真の名将というべき」などと言う者もいる。彼らは義務教育も受けなかったに違いない。バーラト自治区では国父として、ローエングラム朝銀河帝国では開祖ラインハルト帝の好敵手として、その戦いを詳しく教えるからだ。コクランも名将だが平和な時代の軍政家であって、武勲も思想性もヤンとは比較にならない。

 

 星系政庁に入ってヤンと会ったら、どうすればいいのだろうか? 自分のような卑小な存在があんな偉人の前に立つことなど許されるのだろうか? ぐるぐると考えている間に、星系政庁前の広場に到着した。数万人の群衆が庁舎をエル・ファシル星系政庁を取り囲み、怒声を飛ばしている。

 

「良くも俺たちを騙してくれたな!」

「出発を引き伸ばしたのはこういうことか!」

「ヤン・ウェンリー出てこい!」

 

 群衆が暴徒になる三歩前といった感じだ。特殊警棒と強化プラスチックの盾を手にした機動隊が出動しているが、何の抑止力にもなっていない。

 

「参ったね。予想以上だ」

 

 ロムスキー議員はため息をつく。

 

「なぜ彼らはヤン中尉に怒っているんですか? 悪いのは逃げた人達だけでしょう? 中尉はみんなが逃げられるよう頑張ったじゃないですか」

 

 群衆の怒りがヤンに向いている理由が私には理解できない。ヤンだってリンチに見捨てられたのだから。

 

「脱出の準備はとっくにできていたのに、中尉がまだ早いと言って出発に反対した。その結果がこれだ。みんなを騙して司令官が逃亡するまで時間稼ぎした。そう受け取られても無理は無い」

「先生もそう思ってるんですか?」

「い、いや。そんなことは……。正直言うと、ちょっとだけ考えた……」

「そんなわけないでしょう!」

 

 大声を出した私のもとに群衆の視線が集中した時、急に大きなチャイム音が鳴り響き、庁舎の壁に据え付けられた巨大スクリーンから緊急放送が流れた。騒いでいた群衆は静まり返る。

 

「只今より、非常事態対策副本部長ヤン・ウェンリー宇宙軍中尉の緊急会見が始まります。手近なテレビ、端末をごらんください」

 

 スクリーンが明るくなり、ヤン・ウェンリーが映し出される。すべてを見抜いているかのような瞳。何者にも動じない落ち着いた表情。夢だから変なふうに変わっている可能性も考えたが、一週間前に見た記録映像の中とまったく同じで安心した。

 

「司令官の逃亡についてどうお考えですか?」

「軍は市民を見捨てたという声がありますが!?」

「脱出を延期なさったのは中尉の判断ですよね? 司令官の逃亡を助けたと疑われても仕方がないのでは!?」

 

 記者は厳しい質問を矢継ぎ早に浴びせる。だが、ヤンは答えようとせず、こほんと小さく咳払いをしてから穏やかな口調で語り始めた。

 

「明日の正午に脱出します。市民の皆さんは今から準備を始めてください」

 

 スクリーンの中も外も一気にざわめいた。記者の一人がすべてのエル・ファシル市民を代表するかのように質問を投げかける。

 

「明日ということですが、護衛無しの脱出になるのですか?」

「そうです」

「司令官の逃亡の翌日に脱出を決定された理由は?」

「最初からそのつもりでした」

「中尉は司令官が逃亡するのをご存知だったのですか!?」

「知りませんでしたが、予想はしていました」

 

 リンチの逃亡を予想していたというヤンの答えに、人々の血液は沸騰した。

 

「予想していただと!」

「やっぱり奴らのために時間稼ぎをしていたのか!」

 

 記者達から怒声を浴びせられても、ヤンはまったく動じない。

 

「心配いりません。司令官が帝国軍の注意を引きつけてくれます。レーダー透過装置など付けずに悠々と脱出できますよ」

 

 司令官を囮にするという大胆すぎる発言に、記者も群衆も一斉にどよめく。

 

「それは司令官を囮にされるということですか……?」

「そう受け取っていただいて結構です。私の任務は市民の皆さんを無事に脱出させること。必要な手はすべて打ちました。以上です」

 

 そう言うとヤンはさっさと退席した。騒いでいた市民はすっかり静まり返り、怒気は完全に消え失せている。呆気にとられた顔だけがそこにあった。

 

 記録映像を見た時は、当たり前のことを言っているように聞こえた。しかし、その場で見るとヤンの凄さがわかる。激怒する市民に対し、安全に逃げられるという見通しを述べて、不安を取り除いてみせた。朝食のメニューについて話すかのようなのんびりとした口調も安心感を与える。

 

 戦記の中のヤンは、不可能を可能にする用兵の魔術師と言われていた。しかし、目の前のヤンは言葉の魔術師と言うべき存在だった。背筋に戦慄が走る。言葉ひとつで世界を変えてしまう。英雄とはこういう存在なのか。

 

「顔色が悪いけど、どうしたんだね?」

 

 ロムスキー議員の声で我に返った。

 

「だ、大丈夫です」

「そうか。騒ぎが落ち着いたことだし、対策本部に行こうか」

「は、はい……」

 

 私はロムスキー議員とその仲間の後について庁舎へと向かう。庁舎へと続く道を歩いている間、とても憂鬱な思いに囚われた。その場の勢いで「役に立ちたい」と言ってしまったが、本当は脱出船団の隅っこにでも置いといてもらえたらそれで十分なのだ。あのヤン・ウェンリーに顔を合わせることになったら、どうすればいいのだろう? 頭の中を疑問符が乱舞した。

 

 

 

 恐ろしいことになっていた。私の知らないところでロムスキー議員と政庁の役人が話を進め、政庁庁舎のロビーで記者会見をさせられることになったのだ。

 

「田舎のエル・ファシルにも、記者やカメラマンは結構いるんだな」

 

 ロビーにずらりと並んだ報道陣を眺め、どうでもいいことを考える。そうやって気を逸らさないと、プレッシャーで死にそうになるのだ。

 

「それでは、只今より会見を始めます。こちらは星系警備隊のエリヤ・フィリップス一等兵。自分の意志でこのエル・ファシルに留まった勇敢な若者です」

 

 いかにも地方官庁の役人といった感じの司会者が私を紹介する。見るからに軟弱そうで格好悪い私を見たら、失望するのではないか? そんな心配をせずにはいられない。

 

「はじめまして。宇宙軍一等兵エリヤ・フィリップスです」

 

 ぺこりと頭を下げた後、記者との質疑応答が始まった。

 

「フィリップス一等兵は、なぜエル・ファシルに留まることを選んだのですか?」

「逃げたくなかったからです」

「逃げたくなかったというのはどういうことでしょうか?」

「僕達は軍人ですよね。市民を守るのが仕事なのに自分だけ助かろうと思って逃げたら、卑怯者って言われるでしょう? それが嫌なんです」

 

 スラスラと言葉が出てくる。さんざん卑怯者と言われた。辛かった。だから、二度と言われたくない。そんな思いが舌を滑らかにする。

 

「軍人のプライド、ということでしょうか?」

「違います。怖いんです。逃げてはいけないところで逃げたら、一生前を向いて歩けなくなる。人から責められ、自分で自分を責めて、自分はなんて酷い人間なんだと思いながら生きる。そんなの怖くてたまらないですよ」

「批判されるのが怖いということですね。しかし、このエル・ファシルを取り巻く帝国軍も怖い存在ではないでしょうか? 帝国軍に囚われたら、過酷な環境の中で強制労働をさせられ、三人に二人は祖国の土を再び踏むことも叶わずに死んでいく。それと比較しても、なお批判が怖いとお考えですか?」

 

 記者の問いは、ゼンラナウ矯正区で過ごしていた頃のことを思い出させた。周囲にいた人は、凍傷、過労、栄養失調、看守や他の捕虜の暴力などによって、次々と倒れていった。酷寒の矯正区では、死体を埋める場所も無ければ、火葬にする燃料も無いため、死者が出るたびにコロニーから一キロほどの場所にある谷まで運んで捨てたものだ。仲間の死体を捨てる時、心の底から憂鬱な気分になった。

 

 しかし、それでも私は断言する。矯正区より帰国後の方がずっと恐ろしかった。父が、母が、姉が、妹が、友人が、知人が、社会がすべて自分に牙を剥いてくる。かつての自分を守ってくれたものすべてに「卑怯者」と責め立てられる恐怖と比較すれば、恐ろしい物は何も無い。

 

「怖いと思います。逃げ出したら、家族や友人からも『あいつはエル・ファシルで市民を見捨てて逃げた卑怯者だ』と一生後ろ指をさされるでしょう。この世のどこにも行き場がなくなります。それに比べたら、帝国軍など全然怖くありません」

「リンチ司令官についてはどう思いますか?」

「こういう言い方をすれば語弊があるかもしれませんが、かわいそうだと思います。彼を受け入れる場所は、この世のどこにも無いでしょうから」

 

 自分でも意外だが、アーサー・リンチへの怒りは無い。それどころか、同じ苦しみを味わった仲間とすら思う。矯正区での彼は、罪の意識、他の捕虜からの非難に苦しんで酒に溺れた。新入りの捕虜から、妻が別の人物と再婚したことを聞かされてからは、シラフでいる時間がほとんど無くなり、廃人同然と化して、捕虜交換の半年ほど前に姿を消した。自殺か病死かは知らないが、死んだのは間違いないと思う。最期の瞬間まで自分の選択を後悔し続けたはずだ。あの六〇年を生きた私には理解できる。

 

「フィリップス一等兵は落ち着いてらっしゃいますね。不安は感じていないんですか?」

「市民を見捨てずに済んだ。胸を張って帰れる。そう思えば不安なんて全然ありません」

 

 自然と顔が綻んだ。やっと六〇年間の後悔を取り返したのに、不安などあるものか。

 

「脱出は明日の正午ですが成功すると思いますか?」

「はい。無事に帰れると信じています」

 

 はっきりと言い切ると、「おおっ!」と大きな声があがった。割れるような拍手が鳴り響き、たくさんのフラッシュが焚かれ、音と光の洪水に飲み込まれる。

 

「フィリップス一等兵の記者会見を終わります」

 

 司会者がそう告げて、ようやく私の会見は終わった。頭がくらくらしたが、何とか倒れずに退席することができた。

 

 記者会見終了後、控室で休んでいる私のもとにやってきた政庁の役人が驚くべきことを言った。

 

「ヤン中尉が君に臨時の将校当番兵を頼みたいと言っているが、お願いできるかな? 疲れているなら、別の者に頼むが」

「ヤ、ヤ、ヤン中尉が……!」

 

 私は絶句した。こんな卑小な存在が偉大なヤン・ウェンリーに名前を知られた。その事実だけで魂が消し飛んでしまう。

 

「疲れてるなら私から断っておくが」

「元気になりました! 元気です!」

 

 あんな偉大な存在に求められて、断ったりしたら、即座に天罰が下るに違いない。背筋をピシっと伸ばし、声を張り上げた。

 

「引き受けてくれるそうですよ、中尉」

 

 役人が後ろを向いて声をかけると、ドアがのろのろと開き、のっそりと人が入ってきた。

 

「ああ、どうも」

 

 初めて肉眼で見るヤン・ウェンリーは、映像の中の勇姿とは似ても似つかなかった。猫背気味の姿勢、よれよれの軍服、黒い髪の毛はぼさぼさで、大学の新入生と言われたら信じてしまいそうな童顔はぼんやりした表情を浮かべている。どこからどう見ても「冴えない奴」としか言いようがなかった。

 

 しかし、それだけで見くびってはならない。入門書の『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』には、ヤンの容姿が冴えないということもしっかり書かれている。本を読んでなければ、見かけで判断して侮っていただろう。刑務所で読書の習慣を身につけたことを心の底から感謝した。

 

「よろしく」

 

 ヤンは息をするのもめんどくさいといった風情で声を出す。素っ気ないにも程があるけれど、こんな偉い人に親しみを示されても困る。意識されてない方がこちらとしてもやりやすい。

 

「よろしくお願いします!」

 

 びしっと敬礼して返事をすると、ヤンは興味なさそうな顔で私を見て、視線を逸らした。これなら何とかやっていけるかもしれないと思い、ホッとする。

 

 一緒に部屋を出た。ヤンと並んで歩くなんて畏れ多い。数歩下がってついていく。連日の激務で疲れているのか、ヤンは私なんか眼中にないかのようにふらふらと歩く。連日の激務で疲れているのであろう。

 

 私の控室からヤンの部屋は遠いらしく、かなり長い距離を歩かされた。その間、ヤンは一言も言葉を発しない。すれ違う人に「見ていたよ」「頑張れよ」と声をかけられても、一切返事をしなかった。

 

 小心者の私は沈黙に弱い。いつもなら「嫌われてるんじゃないか」と心配するところだが、ヤン相手ならその心配はない。彼は社交辞令を嫌うと、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』に書かれていたからだ。それにヤンから話しかけられても、どう返していいかわからない。

 

 部屋に入ると、ヤンはそう言ってソファーに横になった。

 

「私はこれから寝る。荷物を整理しておいてくれ」

 

 そう言ってヤンは頭から毛布をかぶる。一分もしないうちに寝息が聞こえてきた。口を挟む隙も与えない早業だ。

 

「ひどいな、これ……」

 

 部屋を見回した私は、あまりの惨状に言葉を失った。弁当やインスタント食品の容器が無造作に床に捨てられて、書類はわざとぶちまけたかのように散らばり、下着や靴下も脱ぎっぱなし、机の上には本が塔のように積まれ、事務用端末の周りにはビニール袋や紙くずが積み重なっている。

 

 ヤンがまったく整理整頓をしないというのも、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』で読んだ。無二の忠臣ユリアン・ミンツがヤンの下で最初に取り組んだ仕事は、部屋の片付けだったという。しかし、知識としては知っていても、この散らかりようを見るとドン引きしてしまう。単に散らかってるというレベルではない。

 

 これを見れば、誰だってツッコミを入れずにはいられないだろう。ヤンがさっさと寝てしまったのは正解だった。名将は引き際をわきまえているというが、日常でも彼の引き際は絶妙だった。

 

 どこから手を付けていいかわからなかったが、出発は明日の正午である。迷っている時間など残されていない。まずは机の上を片付けることから始める。紙くずをゴミ袋に放り込んでいると、フライドチキンの食べかすが出てきた。

 

「うわっ……」

 

 強烈な腐臭に思わず顔をしかめる。さすがにこれはないと思った。この様子だと、部屋のあちこちに腐った食べかすがあるに違いない。

 

 普通に考えれば、ここまで部屋を汚くしたのに片付けを他人に押し付けて、自分だけさっさと寝てしまうなんて、最悪のダメ人間であろう。何も知らなければ、「なんて自分勝手な奴なんだ!」と腹を立てたはずだ。しかし、本を読んだおかげで納得できる。遠い未来を見通せるヤンには、部屋の片付けなどといった雑事など、取るに足らないことなのだ。そんなことで労力を使うぐらいなら、ゆっくり休んで本番に備えるのがヤン・ウェンリーの流儀である。

 

 この偉人を荷造りなどという些事に煩わされないようにする。それが今の私の果たすべき仕事だった。幸いというべきか、不幸にもというべきか、長い刑務暮らしのおかげで整理整頓には慣れている。

 

 なぜか棚の上にあるパンツ。なぜか弁当の容器の中に鎮座している携帯端末。そういったものを見るたびに心が挫けそうになった。自分は何をしているのかと思った時、ヤンの家事を取り仕切ったユリアン・ミンツが頭の中に浮かんだ。指導者としての彼は「八月党にゴリ押しされてる人」、著述家としての彼は「ヤンの思い出で印税を稼いでる人」ぐらいにしか思っていなかった。しかし、ようやく彼の真価を理解できたような気がする。

 

 ゴミと荷物を分別し、貨物として運ぶべき荷物を箱に詰め、手回り品をカバンに詰める。そんな作業をひとり進めていくうちに、頭がぼーっとして意識が薄れていった。

 

 

 

 体を揺すられる感触で目が覚めた。いつの間に寝てしまっていたのだろうか。ぼんやり考えていると、若い女性の声が聞こえた。

 

「起きてくださーい。もうすぐ出発ですよー」

 

 出発と聞いてびっくりした私は目を開けた。

 

「おはようございます、フィリップス一等兵」

 

 係員っぽい制服を着た女の子が微笑んでいた。私と同じくらいの年齢だろうか。髪の色は私と同じで、ゆるくウェーブがかかっている。ぱっちりした目の可愛らしい子だ。びっくりするぐらい細いけど、肌の色はつやつやしていて病的という感じは皆無。とても元気が良さそうに見える。

 

「あと二〇分で宇宙港に出発ですよ」

「あと二〇分だって!?」

 

 私が寝てる間に、政庁は引き払う準備を完了してしまったのか? 一番大変な作業だったはずなのにずっと寝てたなんて。役立たずもいいところではないか。

 

「どうしてもっと早く起こしてくれなかったんですか……?」

「一等兵は疲れているようだから出発直前まで寝かしておいてくれって、中尉がおっしゃったんですよ」

「ヤン中尉が……!?」

 

 上半身を起こす。今気づいたが、私はソファーで寝ていたようだ。毛布もかかってる。この部屋にはソファーは一つしかない。私はヤンと入れ替わりでソファーで寝ていたことになる。つまり、ソファーに寝かせてくれたのは……。

 

「行きますよ。これ、一等兵の荷物。着替えと洗面用具を用意しました」

 

 俺の思考を中断するように、女の子は右手に持ったかばんを突き出した。ピンク色のスポーティーなかばんは、中身がパンパンに詰まっている。とっさに脱走したから、何も持っていなかったということを今になって思い出す。

 

「ありがとう」

 

 精一杯の笑顔を作ってお礼を言うと、かばんを受け取った。女の子は休む暇も与えずに言葉を続ける。

 

「走れます? 時間がないんで」

「は、はい」

 

 私が頷くと、女の子は無言でにっこり笑った。そして、くるりと振り向くといきなり部屋の外に駆け出していく。私が付いてくると、何の疑問もなく思っているのだ。信頼には応えなければならない。私も全力で後を追った。

 

 誰もいない廊下を軽やかに駆けていく女の子。それを追いかける私。誰もいない廊下に二人の足音だけが響く。こんな勢いで走ったのは、何十年ぶりだろうか? 驚くほど体が軽い。走っても走っても息切れがしない。

 

「エレベーターは使えません! 階段使います!」

 

 女の子は飛ぶように階段を駆け下りた。私もつられて駆け下りる。彼女の身軽さに驚いたが、それについていける自分にも驚きを感じる。

 

 これが私の体なのか? いつの間にか顔が笑っているのに気づいた。ただ走ってるだけなのに凄く楽しい。最後に全力で走ったのは、何年前のことだろう? 気が付いた時には、走れなくなっていた。歩くのも不自由だった。それなのに、今は全力で走っている。まともに体が動くとは、こんなに素晴らしいことだったのか。さすが二〇歳の肉体だ。感動で涙が出そうになる。

 

 階段を降り切ると再び廊下に出た。女の子の走るペースが上がっていく。私もつられてペースを上げる。いつの間にか私は女の子に追いつき、並んで走っていた。若い体の潜在能力は、驚くべきものだった。

 

 私と女の子は一階に到達すると、あっという間にロビーを抜けて玄関を出る。入った時は長く感じた道も出る時は一瞬だ。

 

「あれです!」

 

 女の子が指さした先には、大きなバスが止まっている。

 

「ありがとう!」

 

 私は女の子と一緒に全速力でバスに駆け込んだ。

 

「もう、庁舎には誰もいません! 出発してください!」

 

 女の子が運転手に声をかけると同時に、バスは全速力で走り出した。よほど時間に余裕が無かったのだろう。ギリギリまで待っていてくれたことに感謝した。

 

 車窓の外のエル・ファシル星系政庁は、どんどん小さくなっていく。逃亡者にならなかった人生の初日を過ごした場所から離れるのはちょっと寂しい。

 

「どうしました? 寂しそうですけど」

 

 隣に座っていた女の子が心配そうに私を見る。

 

「そうだね。軍隊に入って最初に配属された星だから」

 

 笑顔で嘘をついた。

 

「私も寂しいですよ。今はハイネセンの学校に通ってますが、それでもエル・ファシルは故郷ですから」

 

 ふっと女の子の顔が寂しげになる。どうやら政庁の正規職員ではなく、帰省中に臨時職員をしていた学生だったらしい。

 

「俺もパラディオンに帰れなくなったら寂しいな」

 

 今度は真実を言った。現実では故郷パラディオンに帰れなかった。帰りたくて帰りたくてたまらなかったのに、逃亡者のレッテルがそれを許さなかった。無事に脱出できたら、休暇をとってパラディオンに帰りたい。そんな思いが急に湧き上がる。

 

「いつか、エル・ファシルに帰れるんでしょうか?」

「帰れるよ、きっと」

 

 あまりに寂しげな女の子がかわいそうになった私は、何の根拠もなく帰れると言った。

 

「ありがとうございます。信じます」

 

 満面の笑顔で女の子は返事をした。いい加減な返事をしたことに少し罪悪感を覚えたが、後ろ向きなことを言うのもおかしい。どうせ二度と会うこともない相手だ。「これでいいのだ」と自分に言い聞かせる。

 

 私達を乗せたバスは無人のエル・ファシル市街を爆走し、ほんの三〇分で宇宙港に到着した。

 

「お待ちしておりました。出航の準備は整っております」

 

 最後まで残っていた軍艦三隻の乗組員一同が敬礼して出迎えてくれた。私達は急いで軍艦に乗り込み、惑星エル・ファシルを後にしたのである。


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