銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第70話:それでも前を向こう 799年5月7日~8月末 ヴァルハラ星系~病院船~惑星ハイネセン

 俺はベッドの上で意識を取り戻した。戦死しなかったし捕虜になることもなかった。主治医のリウ軍医少佐が言うには、部下が旗艦から助けだしてくれたのだそうだ。残された部隊は救援が来るまで持ちこたえた。部下の頑張りに助けられた形だ。

 

 怪我の程度は全治四か月、退院までは二か月かかる。手足はしばらく動かせないので、着替えや排泄は看護師の助けを借りる。内臓が回復するまでは流動食で栄養を補給する。

 

 第二次ヴァルハラ会戦が終わったことも知らされた。旗艦が撃沈されてから二〇分後、救援が到着してから二分後に、同盟と帝国の一時停戦が成立した。ホーランド支隊が敗れた時点で同盟軍の勝ちはなくなった。一方、帝国軍は予備戦力や物資を使い果たしており、同盟軍を追撃する余力などない。双方が戦闘継続を無意味だと判断したそうだ。これによってミズガルズ方面の戦闘も終わった。

 

 何ともすっきりしない結末だ。同盟軍は作戦目的を達成できなかったので、帝国軍が勝ったことになるのだろう。

 

「部下はどうなりました?」

「これをごらんください」

 

 リウ軍医少佐は数枚の紙を渡してくれた。安否確認リストをプリントアウトしたもので、前方展開部隊の司令部メンバーと主要部隊長の名前が載っていた。

 

「ありがとうございます」

「礼ならコレット少佐におっしゃってください。『フィリップス提督が気にするでしょうから』と言って用意してくださったのです」

「なるほど、俺は良い部下を持ちました」

 

 俺はリストに視線を移した。無傷の者は一〇人に一人もいない。重傷者が一番多く、意識が回復していない者や死亡した者も目立った。

 

 最後のページには前方展開部隊の状況がまとめられていた。第二次ヴァルハラ会戦が始まった時点で六九一隻を数えた艦艇は、三五二隻まで減った。挟撃作戦のために臨時配属された部隊も大損害を受けた。すべての部隊がエネルギーと弾薬をほぼ使いきっていた。数字を見るだけでどれほど奮戦したかが伺える。

 

 リストを作ったコレット少佐は右手首を骨折していた。利き手が使えないのに頑張ってくれたのだ。

 

「本当に良い部下を持ちました」

 

 リストを押しいただくように持ちかえて頭を下げた。体中にしびれるような痛みが走る。

 

「いたっ!」

「姿勢を変えてはいけません」

 

 リウ軍医少佐が慌てて俺の姿勢を元に戻す。

 

「しばらくは絶対安静にしてください。良いですね?」

「わかりました」

 

 こうして入院生活が始まった。音声入力端末が視界に入ったので、「電源オン」と言うと画面が明るくなる。

 

「これはいいな。退屈しなくて済む」

 

 俺はネットに接続すると、軍の安否確認サイトを見た。部下の安否はコレット少佐のリストで確認できた。今度は友人や知人の安否を確認するのだ。

 

「ダーシャ・ブレツェリ 第一一艦隊/ホーランド機動集団/副参謀長」

 

 真っ先にダーシャを調べた。ほんわかした丸顔が画面に現れ、所属、現在位置、現在の状態などが判明した。

 

「思った通りだ」

 

 ダーシャのページを閉じ、妹の名前で検索した。少年のようにも少女のようにも見える童顔が現れた。

 

「…………」

 

 何も言わずに俺は息を吐いた。胸の傷が痛まないように用心深く空気を吐き出した。

 

「次行こうか」

 

 妹の次は「アンドリュー・フォーク」を調べた。その次は「マルコム・ワイドボーン」、次の次は「カスパー・リンツ」、次の次の次は「フィリップ・ルグランジュ」……。友人、元上官、元同僚、元部下の名前を片っ端から音声入力する。

 

「終わった……」

 

 最後の一人を調べ終わった。悲しみはまったく感じない。ただただ疲労感だけが残る。壁のデジタル時計は五月七日の午前五時を示していた。

 

 神経が高ぶって眠れないので、電子新聞やニュースサイトを見た。情報を摂取することで心の空洞を埋めた。

 

 第二次ヴァルハラ会戦のニュースを見ると、どれもラインハルトを褒め称えている。絶体絶命の窮地から逆転勝利という劇的な展開、旗艦を二度乗り換えた不屈ぶりが高く評価された。ある新聞はヤン大将の「戦いが完全に計算通りに進むことは無い。計算違いが起きた時に修正できるかどうかが分かれ目だ。ローエングラム大元帥は恐ろしい修正力を持っている」とのコメントを載せた。天才は天才を知るというべきであろう。なお、身を挺してラインハルトを守ったビッテンフェルト提督は「鉄壁ビッテン」の異名を得た。

 

 同盟軍では唯一優勢を保ったヤン大将が高く評価された。ホーランド支隊もヤン大将に救われたのだから、どれほど高く評価してもし過ぎることはない。

 

 ホーランド中将は戦史でも稀に見る逆転負けを喫したことで、評価を落とした。生き残ったが再起不能の重傷と伝えられる。

 

 相対的に俺の評価は上がった。曲がりなりにも最後まで秩序を保ったこと、第四〇四戦闘部隊司令官バイエルライン少将を戦死させたこと、そして何よりも主要指揮官の中で唯一の生存者だったことが評価されたそうだ。ロシア遠征におけるネイ元帥の撤退戦と俺の戦いを重ねあわせる人もいる。「勇者の中の勇者」という異名が完全に定着した。

 

 停戦から四時間後、ボナール政権が総辞職した。評議会不信任案の審議が始まる九時間前の辞任劇だった。

 

 評議会が総辞職した理由は党内事情だそうだ。第二次ヴァルハラ会戦の敗北が決定的になったことで、与党議員の過半数が即時講和に傾いた。評議会不信任案が採決に持ち込まれた場合、与党が勝利による講和派と即時講和派に分裂し、野党が漁夫の利を得るだろう。ボナール政権にとって、ラグナロック作戦は政権を維持するための戦いだった。戦闘継続にこだわって与党が分裂しては本末転倒だ。休戦と総辞職以外の道はなかった。

 

「結局は党利党略か」

 

 俺はうんざりした。ボナール政権は連立与党体制の維持が国のためになると考えた。ロボス派は自分たちが主導権を握るのが軍のためになると考えた。アルバネーゼ一派はフェザーンの天秤を壊すのが銀河のためになると考えた。政治とはゴミを素手で拾うような仕事だ。自分が権力を握るのがみんなのためだと本気で信じる者だけが、政治の困難さに耐えられる。信念に支えられた党利党略ほど厄介なものはない。

 

 ボナール政権総辞職の翌日、同盟議会で最高評議会議長指名選挙が行われ、進歩党左派のジョアン・レベロ前財政委員長が新議長に選ばれた。遠征を推進した国民平和会議(NPC)、進歩党右派、ガーディアン・ソサエティも新政権への支持を表明し、統一正義党を除く全政党が与党となった。

 

 レベロ新政権の閣僚一一名のうち、三名が進歩党、二名がNPC、一名が反戦市民連合、一名が無所属議員、四名が民間人だ。党派バランスは完全に無視し、ラグナロック反戦運動の功労者はほとんど入閣させず、良識派の実務家だけを選んだ。各委員会の副委員長や委員も実務型の人物が起用された。党派や人気取りにこだわらない姿勢は、有権者から好感をもって迎えられた。

 

 レベロ議長の盟友ホワン前人的資源委員長は最高評議会書記となった。最高評議会書記局は議長官房にあたる部局で、各委員会や議会との調整を担当する。交渉上手のホワン議員にはうってつけの仕事だ。

 

 トリューニヒト派は即時講和派なのに、新政権では重用されていない。口利きと票集めに熱心な性質、積極財政と軍拡という主要政策、戦争を賛美する姿勢が忌避を買った。

 

 経費節減の一環として、レベロ議長は最高評議会直属の諮問機関を一四個から八個に減らし、諮問委員を入れ替えた。この改革によって、諮問委員として影響力を振るってきた官界・学界・財界の長老が一掃された。二〇年にわたって諮問委員を務めた「歴代議長の指南役」オリベイラ博士、ラグナロック作戦を仕組んだアルバネーゼ宇宙軍退役大将といった超大物も最高評議会ビルを去った。

 

 レベロ新議長は就任演説でハイネセン主義への回帰を訴えた。目標として「財政再建」「軍縮」「対外貿易の促進」「恒久平和の実現」の四つをあげ、緊急に遂行すべき課題として「帝国との講和」「インフレ抑制」「遠征軍の撤収」「移民の労働力化」の四つをあげた。

 

 四つの緊急課題の中で最も優先度が高いのは講和である。フェザーンが「講和できないのならせめて停戦しよう」と提案したので、一時停戦して講和交渉を続けた。現状は合意からほど遠い。

 

 同盟市民は帝国から奪った土地と財産を少しでも多く確保したかった。そうしないと、費やしたコストを回収できないからだ。

 

 帝国貴族は奪われた領土と財産を取り戻そうとした。ある鉱山主は占領中に採掘された資源の補償を求めた。ある企業家は同盟軍が占領地の軍需工場を使って生産した兵器の補償を求めた。妥協するには支払った代償があまりに大きすぎた。

 

 解放区から同盟本国に移住した五六〇〇万人、同盟軍とともに退避した親同盟派住民七三〇〇万人の存在が、講和交渉をややこしくした。帝国は「民は皇帝陛下の私有物だ」と返還を求め、同盟は「彼らは我が国の市民だ」と突っぱねる。国家理念に関わる問題なのでどちらも譲れない。

 

 軍部の要人は撤収が完了するまで現職に留まる。ただ、遠征軍総司令官ロボス元帥は「病気」を理由に辞職した。遠征推進派グループ「冬バラ会」のメンバーは、「越権行為」「虚偽報告」などの理由で罷免された。

 

 入院中のホーランド中将は冬バラ会のメンバーだったために解任され、生存者中最上位の俺が後任となった。ホーランド機動集団は旧名の第一一艦隊D分艦隊に戻った。

 

「戦記の愛読者だったら喜ぶんだろうな」

 

 俺は二度と読むことのできない書物を思い浮かべた。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』『ヤン・ウェンリー提督の生涯』『革命戦争の回想―伊達と酔狂』などで批判された人物は、ほとんど表舞台から消えた。そして、好意的に書かれた人物が活躍している。

 

 不意に眠気が襲ってきた。一度に情報を詰め込んだせいで脳が限界に達したらしい。端末のスイッチを切って目をつぶる。あっという間に眠りの中へ引きずり込まれた。

 

 

 

 五月一三日、ラグナロック作戦における人的損害の概算が発表された。死者・行方不明者は宇宙軍が一七〇〇万人、地上軍が二〇〇〇万人、民間人が九〇〇万人、合計で四六〇〇万人だった。この数字に現地人は含まれていない。「すべての戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれた戦いは、三〇〇〇万人が死んだコルネリアス一世の大親征を超える惨禍となった。

 

 損害の三割は開戦から撤退戦開始までの一年二か月間、四割は撤退戦開始から終結までの一七日間、三割は第二次ヴァルハラ会戦開始から停戦までの六日間で生じたという。

 

「無断撤退を決めた時に講和すれば、三二〇〇万人が助かったのか」

 

 軽く目を閉じると、戦死した部下や友人の顔が次々と浮かんだ。ボナール政権や総司令部が面子にこだわったせいで、彼らは死んだ。

 

「あの連中が……」

 

 指導者の無能を批判しかけて止めた。

 

「いや、人のことは言えないな」

 

 俺は左側を向いた。前方展開部隊の戦死者リストが壁一面にびっしり貼ってある。看護師に頼んで貼ってもらった。

 

 彼らの死がすべて自分の責任だとは思わないが、無罪を主張するつもりもない。あの判断は正しかったのか? もっとできることがあったのではないか? 降伏勧告を受け入れるべきだったのではないか? 正しい指揮をすれば何人が助かったのか? 答えの出ない計算を延々と繰り返す。

 

 五月一六日、リウ軍医少佐の反対を押し切って軍務に復帰した。無為に過ごすことに耐えられなかったからだ。

 

 幸いなことに処理すべき文書と作るべき文書が山ほどあった。軍隊が動くたびに大量の文書が動く。命令は文書として下に与えられ、報告は文書として上に伝えられ、行動は文書として記録される。軍隊を人体に例えるならば、兵士が筋肉、物資が血液、司令部が脳髄、情報通信系統が神経、文書が神経信号だ。大きな戦いの後は文書量が数倍に増える。

 

 勤務時間中は副官コレット少佐が病室に常駐した。頼んだことは迅速かつ正確に遂行してくれるので、文字通り手足のような部下だ。着替えや排泄や入浴も手伝うと言ってくれたが、さすがに断った。

 

 仕事をしていない時は車椅子に乗って散歩した。広大な病院船の中には遊歩道や人工林があり、気分転換にはちょうどいい。勤務中の休憩時間はコレット少佐、勤務時間外は看護師に車椅子を押してもらった。

 

 見舞い客との面会も気分転換になった。直接会いに来てくれる人もいたし、通信を入れてくる人もいた。

 

 予定表をびっしり埋めることで、心の空洞を埋める日々が続いた。一日一日がすさまじい速度で過ぎ、あっという間に五月が終わった。

 

 部下や友人は「大丈夫そうで安心した」「思ったより早く立ち直ってくれた」と喜んだ。「薄情じゃないか」と咎める人すらいた。誰もが立ち直ったと感じるほどに俺は活発だった。しかし、D分艦隊衛生部長リンドヴァル軍医中佐の見解は違った。

 

「フィリップス提督、悲しみから逃げるのは良くありませんよ」

「逃げているように見えるか?」

「見えます」

「君が言うなら間違いないな」

 

 俺はあっさり同意した。自覚はないし納得もしていない。だが、リンドヴァル衛生部長は医療分野における幕僚であり、精神医療の専門家でもある。俺の自己診断よりずっと信頼できる。

 

 治療が必要だというので、リンドヴァル衛生部長に依頼したところ、代わりにキャレル軍医少佐という人物を紹介された。グリーフケア(死別の悲しみから立ち直るための支援)に造詣の深い人物なのだそうだ。

 

 キャレル軍医少佐は三〇代の男性で、同盟軍医療学校ではなく一般大学医学部の出身だった。軍医部門は技術部門と並んで一般大学出身者が特に多い分野である。

 

「親しい人との死別は世界をがらりと変えてしまいます。残された者はその人がいない世界で生きることを強いられる。それはとても大きな痛みを伴います。軍人は死別の痛みを経験する機会が特に多い職業です。私は軍人が喪失後の世界に順応するための手伝いをいたします」

「順応とは忘れることですか?」

「違います。あなたは家族や友人を忘れることができますか?」

「できません」

 

 考えるまでもなく俺は即答した。彼らとの関わりの中で自分という人間は作られてきた。命あるかぎり忘れるなんて不可能だ。

 

「決して戻ってこない人を待ち続け、決して忘れられない人を忘れようとしたら無理が生じます。喪失を受け入れ、故人との思い出を大事にしつつ、新しい世界と折り合いをつけていく。これが私の言う順応です」

「わかりました」

「こちらがパンフレットです。死別を経験した人が順応に至るまでの過程、どのような治療を行うかが書かれています。お読みになった上でよく考えて……」

「治療をお願いします」

 

 俺はキャレル軍医少佐が話し終える前に返事をした。いつまでも逃げていられないのはわかっていた。切り替えるきっかけがほしかった。

 

「よろしいのですか?」

「ええ、すぐ始めた方が順応も早いでしょう」

「勢いで決めてはいけませんよ」

「答えは二つに一つでしょう。片方を選ぶだけなら迷うのは時間の無駄です」

 

 かつてクリスチアン中佐から言われた言葉を俺は使った。

 

「なるほど。フィリップス提督は剛毅果断と聞いておりましたが、想像以上でした」

「しつこく念を押さなければいけない事情があるのですか?」

「治療が始まってから、人目を気にしてやめてしまう方が多いのです。精神医療に対する偏見は強いですから」

 

 キャレル軍医少佐はとても残念そうな顔をする。

 

「よくわかります。精神科医やカウンセラーを利用するよう兵士に呼びかけてきましたが、思うような結果は出ていません。メンタルの問題で人を頼るのは恥と思われてますから」

「根本にあるのは自助努力に対する本能的な信仰です。『自分の面倒は自分でみるのがまともな人間だ』『他人を頼るのは悪いことだ』という観念が染み付いている」

「ルドルフの悪影響は大きいですね。同盟市民も元をたどれば帝国の流刑囚ですし」

 

 俺は解放区での経験を思い出した。帝国人の強烈な自助努力信仰にはうんざりさせられた。

 

「彼一人のせいなのでしょうか? むしろ、人々の自助努力信仰こそが、ルドルフを皇帝に押し上げたと私は考えています」

 

 一瞬、キャレル軍医少佐とトリューニヒト議長が重なって見えた。

 

「同じことを言ってた人がいました」

「そうでしょう。私は独創的なことを言ってるわけではない。他人任せがルドルフを生んだなんて嘘っぱちです。我が国でも自助努力信仰はしみついています。ハイネセンの言う『自由・自主・自律・自尊』だって……」

 

 ここまで言ったところでキャレル軍医少佐は口をつぐんだ。一線を越えかけていることに気付いたのだろう。ハイネセン批判はこの国ではタブーだ。

 

「言葉が過ぎました。今の話は忘れてください」

「承知しました」

「ところで身上書には信仰は『特になし』と記されていますね。現在も同じですか?」

「はい、現在も無信仰です」

 

 妙なことを聞くんだなと思いつつ答える。

 

「あなたのカウンセリングは心理士が行いますが、希望があれば従軍聖職者のカウンセリングも同時に受けられます。すべての信仰に対応できるわけではありませんが」

 

 そう言うと、キャレル軍医少佐は一冊のパンフレットを差し出した。表紙に映っているのは、白いコートをまとった十字教の司祭、オレンジ色の長衣を着た楽土教の導師、粗末な麻のシャツを着た美徳教の神官、青いキノコ帽子を被ったテイタム教の教師だ。みんな同盟軍内部での活動を認められた宗教の聖職者である。

 

「宗教ですか……」

 

 俺は少し尻込みした。宗教の世話になるのは世間体が良くない。西暦二一世紀から二二世紀にかけての九〇年戦争がきっかけで、宗教のイメージは暴落した。神を真面目に信じていると言えば、二人に一人は「心が弱い」「騙されている」と答えるだろう。戦記の登場人物も宗教には非好意的だった。人類の九八パーセントが何らかの信仰を持っていた時代とは違う。

 

 宗教の有難みは誰よりも知っているつもりだ。前の人生では十字教や地球教の世話になった。無関係な人間を「同胞」と呼んで飯を食わせてくれるのは、信仰者ぐらいのものだ。それでも、世間に白い目で見られるのは恐い。

 

「やはり宗教は印象が悪いですか?」

「いえ、悪いというわけでは……」

 

 俺は慌てて否定した。軍隊には宗教的なものに共感する人が結構いる。宗教好きと思われるのはまずいが、理解がないと思われるのもまずい。

 

「宗教に救いを求めると、心の弱い人間だと言われます。しかし、弱いのが悪いことなのでしょうか?」

「そうは思いません」

「まともな人間なら神なんかに頼らずに、自分の力で自分を救うべきだと言われます。しかし、自分の力で自分を救えないのは悪いことなのでしょうか?」

「そうは思いません」

「宗教を信じると理性が無くなると言われます。しかし、宗教を信じて失われる理性とは、いったい何なのでしょうか?」

 

 キャレル軍医少佐はわずかに身を乗り出す。

 

「俺にはわからないです」

「こんな仕事をしていると、弱さこそが人間の本質のように思えてきます。神を信じるのも、弱い人間が弱いままで生きていく手段の一つではないか。数年前からそう考えるようになりました」

「それは何となくわかります」

 

 俺はトリューニヒト議長を念頭に浮かべながら答えた。人間の弱さに肯定的なところ、自助努力信仰に否定的なところ、宗教に好意的なところがキャレル軍医少佐と似ている。一方、戦記の英雄は人間の強さを信じ、自分のことは自分でやるべきだと言い、宗教に否定的だった。

 

 対極にいる両者のうち、格好良いのは英雄だが、俺が共感できるのは議長や軍医だ。前の世界で同盟が滅亡した直後、飢えをしのぐために地球教に入信した。教会に来た人の中には、俺と同じように食事目当てに来た人もいたし、仲間が欲しくて来た人、悩み事を相談しに来た人もいた。みんな弱かったから神に救いを求めた。「騙されている」と指摘するだけで何もしてくれない”理性ある人”よりは、騙す代わりに救ってくれる神の方が良い。弱い人間には頼るものが必要だ。

 

「人間が本質的に弱いのならば、何かに頼って生きるのが自然な姿ではないでしょうか? 救いを求めるのは恥じるべきことではありません。あなたにはサポートを受ける権利がある。心置きなく権利を行使すべきです」

「わかりました。よろしくお願いします」

 

 俺の中にあった迷いは消えた。パンフレットを受け取ってページをめくり、ダーシャ一家が信仰する楽土教救世派を選んだ。

 

 五月五日に止まった時間が再び動き出した。一人では向き合うには大きすぎる悲しみも、精神科医、心理士、従軍聖職者のサポートがあればどうにかなる。ハイネセンに戻るまでの一か月は喪失を受け入れる作業に費やされた。

 

 

 

 七月一〇日、第一一艦隊の撤収が完了した。一万光年の長旅を終えて帰ってきた将兵を待っていたのは、罵声とブーイングの嵐だった。

 

「どの面下げて帰ってきた!」

「税金泥棒!」

「負け犬め! 恥を知れ!」

「家族を返せ!」

 

 四方八方から罵声を飛んでくる。戦没者遺族は家族の死に怒り、反戦派は遠征軍の非行に怒り、主戦派は遠征軍の不甲斐なさに怒り、それ以外の人は税金の無駄遣いに怒った。

 

 俺が姿を現しても罵声は止まなかった。群衆が俺を嫌ってるわけではない。絶大な人気を誇るビュコック大将ですら、二日前に帰還した時には罵声を浴びた。反軍感情が個人的人気ではどうにもならないほどに高まっているのだ。

 

「市民に迷惑をかけたのだから、何を言われても仕方ない」

「俺たちだって苦労したんだ。温かく迎えてくれてもいいじゃないか」

 

 相反する感情が心の中に渦巻く。批判されるのもきついが、歓迎されたらそれはそれできつい。自責も自己正当化も中途半端なのが凡人である。

 

「貴様らあ! 兵隊さんに失礼だろうがあ!」

 

 凄まじく大きな声が鳴り響いた。声のした方向には、青地にPKCの文字と五稜星が描かれた憂国騎士団の団旗がたなびいている。

 

 旗の下には普通の服を着た一般団員数千人の他に、戦闘服を着用し白マスクをかぶった者が数十人いた。行動部隊が反軍行動潰しに出てきたのだ。

 

 憂国騎士団行動部隊、主戦派の過激分子、反戦派の過激分子が三つ巴の乱闘を繰り広げた。宇宙港の警備兵は民間人同士の争いには介入できない。しばらくしたら保安警察の機動隊が現れて、主戦派と反戦派だけを捕まえる。帰還兵が到着した宇宙港ではこんな光景が頻繁に見られた。

 

 レベロ政権は健闘している。徹底的な緊縮政策でインフレの進行を食い止め、予備役二五〇〇万人の撤収と復員を二か月で完了した。

 

 講和交渉は合意の兆しが見えた。レベロ議長が「同盟は解放区・接収財産を無条件で返還し、帝国は無条件で賠償請求権を放棄する」という案を出し、帝国側のラインハルトが賛同した。

 

 ラインハルトの所領ローエングラム伯爵領は、最も大きな損害を被った土地の一つだった。損害額は一〇〇〇億ディナールを超え、住民の三割が同盟本国に移民させられた。帝国政府から「復興の見込みはないから替わりの領地を与えよう」と提案されたほどだ。そんな土地の領主が賠償請求権を放棄すると言ったのである。

 

 帝国人はラインハルトの度量に度肝を抜かれ、賠償にこだわるのは狭量だとの空気が生まれた。こうなると体面を気にする貴族は黙っていられない。請求権を放棄することで度量を示そうとする者が続出した。

 

 もっとも、停戦期限の九月五日までに合意できるかどうかは微妙だ。同盟国内でも帝国国内でもレベロ案への反対意見は根強い。合意が成立しなければ、戦闘が再開される恐れもある。

 

 同盟軍は予備役の動員を解除したが、正規軍は臨戦態勢を保っている。比較的損害の少ない第九艦隊、第一二艦隊、第一三艦隊がアムリッツァ星系に留まり、ハイネセンから第二艦隊が援軍として派遣された。第二地上軍、第五地上軍、第七地上軍が後方支援にあたる。こんな状況なので軍部人事は動いていない。

 

 社会が騒然とする中、俺はリハビリをして身体機能の回復に励んだ。トレーニングを再開できる状態まで持っていくのが当面の目標である。

 

 メンタルの治療も続けた。まだ感情は安定していない。「もうあの人はいない」と悲しみ、「どうして俺を置いていなくなったのか」と怒り、「彼らのいない世界でどうやって生きていけばいいのか」と不安になり、「自分だけが生き残ってしまった」と罪悪感を覚える。キャレル軍医少佐はこれも必要なプロセスだと言った。

 

 それでも、進歩はいくつかある。これまで死んだ人の話題を避けてきたが、最近になってようやく話せるようになった。

 

「明るい色の物を身につける気がしなくて」

 

 ドールトン大佐は濃緑色のサマーニットにグレーのパンツという地味な出で立ちだ。彼女が艦長を務めたヴァイマールは、乗員の半数とともに吹き飛んだ。

 

「だから服装が地味になったのか」

「ええ」

「話してくれてありがとう」

 

 俺は礼を言った。病院船に乗っている間、職場が無くなったドールトン大佐は頻繁に見舞いに来てくれた。その時は彼女がいつものように彼氏の話をするだけで、死んだ人の話題には触れられなかった。お互いに整理がついてきたのだろう。

 

 生き残った部下の存在は大きな救いになった。立場を同じくする者がいるおかげで、自分が一人ではないと思える。

 

 遺族とも話した。直接面会した人もいれば、テレビ電話で会話を交わした人もいる。メールをやりとりした人もいた。

 

「私も軍人の妻です。覚悟はしていたつもりでした。しかし、いざ直面してみると駄目ですね。覚悟したぐらいではどうにもなりませんでした」

 

 第三六機動部隊司令官ポターニン少将(一階級特進)の妻がため息をついた。ただでさえ小さい体がさらに小さく見えた。

 

「気持ちは良くわかります。覚悟していても、ご主人がいなくなったことは変わりません」

「狭かった家がとても広く感じます。人間一人のスペースは思ったよりずっと大きいんですね」

「俺にとっても大きいですよ。ご主人より別働隊を上手に指揮できる人はいませんから」

「フィリップス提督にそう言っていただけて、主人も喜んでいると思います」

 

 何度も何度もポターニン夫人は頭を下げた。俺もつられるように頭を下げ続けた。提督になってから、ずっと副司令官を務めた故人への感謝を込めて頭を下げた。

 

「軍隊に入る前の娘は手の付けられない不良でした。フィリップス提督に感化されて更生したのです。メールでもフィリップス提督の話しかしないほどですから」

 

 副官付ミシェル・カイエ曹長(一階級特進)の父親は、意外なことを言った。

 

「彼女は根っからの仕事好きでした。家族と仕事の話はできないから、俺の話をしたんだと思います」

「そう言われても私にはぴんと来ないのです。家にいた頃は本当に酷かったので」

「根っから真面目だったんですよ。正直、彼女が高校を退学処分になったことは、俺にとっては世界の七不思議の一つでして」

「ご配慮いただきありがとうございます」

 

 カイエ曹長の父親はますます恐縮した。ひたすら謙虚なところが娘とそっくりだった。

 

「礼を言うのはこちらです。カイエ曹長は若いながらも人格者でした。俺の知る限り、彼女を嫌う人は一人もいなかった。よほどご両親の教育がよろしかったのだと思います」

 

 俺はただ本音だけを言った。持ちあげなくてもカイエ曹長は完璧だったからだ。父親と話してみて、あの人格のルーツがわかった気がした。

 

 すべての遺族と和やかに話せたわけではない。中には拒絶的な反応を示す人もいた。

 

「気持ちの整理がまだついていません。申し訳ありませんが、今はお断りします」

 

 当番兵だったマーキス兵長(一階級特進)の両親は対話を拒否した。俺は詫びを言って通信を切った。

 

「母ちゃんが死んだのに、なんであんただけ生き残ったんだ!? おかしいだろ!?」

 

 最先任下士官カヤラル少尉(一階級特進)の次男は、俺に詰め寄ってきた。

 

「申し訳ありません」

「あんたがしくじらなければ、母ちゃんは死ななかったんだ! わかってんのか!?」

「わかっているつもりです」

「もともと母ちゃんはヒューベリオンの乗員だった。あのヤン提督の旗艦だよ。つまり、あんたが母ちゃんを呼び寄せたせいで死んだんだ」

 

 彼の両目は涙で濡れている。

 

「返す言葉もありません」

「あんたにとっちゃ、何万人もいる部下の一人かもしれんけどな。俺にとっちゃあ、一人しかいない母ちゃんだった。わかるか?」

「はい」

 

 俺はひたすら聞き続けた。自分の指揮でカヤラル少尉が死んだこと、目の前の男性が一人しかいない母を失ったことを忘れないために。死んだ人間に対して生きている人間ができることはただ一つ、忘れないことだけだ。

 

 八月末の深夜、妹のアルマがやってきた。可愛らしい童顔もゆるくウェーブした亜麻色の髪も平たい胸も、いつもとまったく変わらない。

 

「生きてたのか」

 

 俺は目を丸くした。

 

「死ぬわけないじゃん。一度も死んだことないんだし」

 

 良くわからない理屈だが妙に説得力がある。

 

「それもそうか」

「行方不明だからって死んだと思われちゃ困るよ」

「ごめんな」

「死んだとしても幽霊になって会いに行くけどね」

「おいおい、洒落になんないぞ。時間が時間だし」

「しょうがないじゃん。北半球の宇宙港に降りたんだから。赤道超えて直行したらこの時間だよ」

「理屈は合ってる」

 

 それから俺は妹と話した。話したいことはいっぱいあった。嬉しいことも悲しいことも楽しいことも全部話した。

 

「そろそろ、帰るね」

 

 日が昇る前に妹は帰ると言った。

 

「朝日浴びたら消えるとか、そんな理由じゃないよな」

「そんなわけないじゃん。会合があるのよ。北半球時間で一九時から」

「一日で二回も赤道超えるのか。大変だな」

 

 笑って妹を見送ると、急に頭がぼーっとしてきた。夢うつつの中でベッドに入ってシーツをかぶった。

 

 目が覚めた時、ちょうどダーシャがやってきた。ほんわかした丸顔もつやつやした黒髪も馬鹿でかい胸も、いつもとまったく変わらない。

 

「おお、ダーシャか。おはよう」

 

 ダーシャはにっこり笑っておはようと言った。

 

「こないだ、お義父さんにもらったスメタナうまかったよ」

 

 ダーシャは当然でしょと笑う。

 

「君の料理はお義父さん仕込みだからな」

 

 ダーシャはとても誇らしげにまあねと言った。

 

「お義父さんの料理もいいけど、俺の舌に一番合うのは君の料理だ」

 

 勉強したからねとダーシャははにかんだ。

 

「本当に感謝してるよ」

 

 ダーシャは好きでやったんだからと言った。

 

「君は努力が好きだよな」

 

 ダーシャはうんと頷いた。

 

「俺も好きだよ。汗かくの楽しいよな。それに……」

 

 俺はダーシャの目をしっかり見る。

 

「努力していると君と同じ目線で世界を見ることができる」

 

 それから俺はダーシャと話した。話したいことはいっぱいあった。嬉しいことも悲しいことも楽しいことも全部話した。

 

 長い時間が過ぎた頃、ダーシャはそろそろ行くねと言った。

 

「そうか」

 

 また来るねと言ってダーシャは出て行った。

 

「いつでも待ってるぞ。君の席は開けておくから」

 

 ダーシャは振り向かなかった。彼女はいつも前しか見ていない。振り向くのに一秒を使うぐらいなら、一秒早く再訪問することを考える。

 

 急に部屋が明るくなった。時計は午前五時三〇分を指している。いつもの起床時間だ。地上にいる時の俺はいつも同じ時間に起きる。

 

「俺も前を向こう」

 

 涙が頬をつたった。この時、俺はダーシャがいなくなったことを完全に受け入れた。


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