銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第七章:苦戦するエリヤ・フィリップス
第65話:最悪の中の最善を求めて 799年3月末~4月10日 アーデンシュタット星系シュテンダール


 アースガルズ予備軍の総攻撃と第三次ビブリス会戦の敗北は、楽観論に強烈な一撃を加えた。政府や軍が発信する情報はすべて同盟軍有利を伝えるものだった。それなのに地上では主要都市と主要基地が一斉攻撃を受け、宇宙では無敵の同盟艦隊が敗れた。いったいどういうことか? 同盟市民は強い不信感を抱いた。

 

 本国世論は急速に即時講和へと傾き始めた。勝利による講和を支持する者が五五パーセントから四六パーセントに減ったのに対し、即時講和を支持する者は四〇パーセントから四九パーセントまで増えている。

 

 政府と軍は損害の少なさを強調し、アースガルズ予備軍と第三次ビブリス会戦の影響を小さく見せようと躍起になった。

 

「我が軍はアースガルズ予備軍を数時間で撃退した。戦死者は四万人しか出ていない」

「ビブリスで同盟軍は四〇〇隻を失い、敵は五〇〇隻を失った。我が軍の勝利だ」

 

 これらの主張は一面的には正しかったが、アースガルズ予備軍が一撃離脱戦法をとったこと、ビブリスの帝国軍が補給支援を成功させたことを無視したため、説得力に欠けた。

 

 同盟軍への評価が揺らいだところに、アースガルズ予備軍司令官代理オーベルシュタイン中将が追い打ちをかけた。二日から三日に一度の割合で数十か所を攻撃し、反撃される前に退き、同盟軍警備部隊を翻弄する。人々は同盟軍が無力だと思うようになった。

 

 ラパートのエルウィン=ヨーゼフ帝は、すべての大逆犯に恩赦を与えた。解放区選挙で首長や議員となった者、反体制派として帝国に反乱した者、亡命者として同盟軍に協力した者までも、無条件で赦免されるという。ローエングラム元帥が降伏者を殺した高官一四名を「勅命をほしいままに曲げた」として公開処刑すると、数百万人が同盟からリヒテンラーデ派に走った。

 

 ブラウンシュヴァイク派もこの機に乗じて攻勢に出た。一日あたり数百人の同盟人と数千人の現地人を無差別テロで殺した。正規軍はベルンカステル・ラインに猛攻を仕掛けた。これらの作戦は少なからぬ損害と引き換えに、ブラウンシュヴァイク派健在を内外に知らしめたのである。

 

 同盟の旧帝国領統治は急速に崩壊していった。民主化政策や生活苦に対する不満、同盟軍の犯罪に対する怒りが暴動という形で噴き出した。鎮圧にあたるべき現地人警察官や親同盟派民兵は、武器を捨てて逃げてしまった。同盟軍は暴徒を抑えるだけの兵力を持っていない。多くの都市が暴徒の手に落ちた。反同盟派政権の惑星では、警察や政府軍傭兵が同盟軍と交戦している。

 

 後方拠点の混乱は、前線部隊に士気の低下や補給状況の悪化をもたらした。ビブリス方面の第三統合軍集団と第六統合軍集団は、四月に入ってから一度も攻撃を行っていない。レーンドルフ方面の第一統合軍集団は守勢を強いられている。レンテンベルク方面の第二統合軍集団、アルフヘイム方面の第四統合軍集団は攻勢を続けているが、めぼしい戦果はなかった。ガイエスブルク方面の第四統合軍集団、ニダヴェリール方面の第七統合軍集団は、補給難を理由に進軍を止めた。

 

 さすがの本国市民も自分たちが解放者だとは思えなくなった。反帝国意識の強い伝統的保守層、民主化指向の強い都市リベラル層の多くは、遠征支持から遠征反対に転じた。

 

 即時講和を求める声はとどまるところを知らない。反戦集会の会場には、反戦派の星旗、保守派の青旗、リベラル派の白旗、社会主義者の赤旗、分権主義者の緑旗が並んだ。若者は大学や高校を舞台に激しい運動を繰り広げる。レベロ前財政委員長は反戦集会に参加し、盟友のホワン前人的資源委員長とともに即時講和を訴えた。かつてパトリオット・シンドロームを煽ったクリップス元法秩序委員長が、反戦デモに加わった。ラグナロック反戦運動は超党派統一戦線へと発展したのである。

 

 勝利による講和派は戦争継続を求めるデモを行った。これまで中心にいた伝統的保守層や都市リベラル層の姿は少なく、保守的なブルーカラーが目立つ。彼らは最も兵士を輩出する層であり、最も増税やインフレの影響を被った層でもある。民主化や解放といった観念的な主張はなく、「我々は負担に耐えてきた。領土と賠償金をたっぷり取らなければ報われない」という即物的な主張を押し出す。

 

「財政破綻を防げ!」

「戦争の見返りをよこせ!」

 

 両派はあらゆる場所でぶつかり合った。議論の優劣を競い合い、デモの動員人数を競い合い、挙げ句の果てに腕力を競い合った。過熱化するデモを抑えるために軍隊が動員された。

 

 フェザーンでの講和交渉は難航している。選挙が行われた五六三星系の領有を主張する同盟に対し、帝国三派はニヴルヘイム及び中ミズガルズ・下ミズガルズ以外の占領地を返すよう求めた。三月中旬の時点では、帝国三派は下アースガルズと上ミズガルズの割譲もやむなしと考えていた。だが、戦況が有利になったために要求を上げてきたのだ。同盟領に移住した者を領主のもとに返すか否か、同盟が接収した貴族資産をどの程度賠償するかといった問題でも、帝国三派は強気の姿勢を崩さない。

 

 事態が悪化するにつれて、政府首脳や軍幹部の発言はますます現実離れしていった。総司令部参謀アンドリュー・フォーク少将は、「同盟軍の勝利は目前だ」と繰り返し、前線部隊の反感と本国市民の冷笑を一身に集める。コーネリア・ウィンザー国防委員長は、会見のたびに「解放区の治安は改善に向かっています」と述べた。

 

 もはや、政府と軍に対する信頼は失われた。特に嫌われてるのがアンドリューら冬バラ会だ。総司令部の実権を握り、外に対しては楽観論を唱え、内に対しては無理難題を押し付けてきた。勝利による講和派ですら、「冬バラ会を追放しなければ、有利な講和は結べない」と考える有様だ。

 

 四月八日、総司令部は遠征軍の全部隊に対し、「現在の作戦を続行せよ。作戦中止は認めない」との方針を伝えた。前線部隊が求める攻撃中止と撤退許可を全否定するものだった。

 

「えっ!?」

 

 俺は驚きのあまりコーヒーカップを落としてしまった。机の上の書類にコーヒーの染みが広がっていく。

 

 同盟軍は自壊しつつある。モラルの崩壊を食い止める戦いは、帝国軍との戦いより大きな比重を占めるようになった。指揮官は崩れていく砂山を固めるような努力を重ねる。だが、砂山に塗り込まれる砂よりも、指の隙間からこぼれ落ちる砂の方がずっと多い。最も成功した部隊であっても、いずれ訪れるであろう破局を先延ばしするのが限度だ。

 

 四月初めからアーデンシュタット星系に、ブラウンシュヴァイク派のヒルデスハイム艦隊が侵攻してきた。敵将ヒルデスハイム大将は伯爵号を持つ青年提督で、功名心が強く協調性に乏しいが、勇猛さは貴族軍人の中でも有数である。戦記に出れば噛ませ犬になりそうなのに、俺にとっては恐るべき強敵だった。

 

 敵の猛攻と味方の弱体化が俺の部隊を苦しめた。日に日に戦況は悪くなっており、暴動が起きてないのが唯一の救いだ。前進するどころか、アーデンシュタットから追い落とされかねない。

 

 すぐに部隊長会議を開いて対応を協議した。一〇分割されたテレビ画面に部隊長一〇名の顔が並ぶ。このうち七名が俺に直属する部隊長で、三名が臨時配属された地上軍の部隊長だ。

 

「うちの部隊は限界だ。作戦中止を求めるのが適切だと思う。君たちの意見を聞かせてほしい」

 

 俺がそう言うと、部隊長はみんな賛成を口にした。常識的な職業軍人なら誰だって作戦を継続できないのはわかっている。

 

 前方展開部隊の部隊長会議が終わって間もなく、ホーランド機動集団の部隊長会議が始まった。こちらはホログラム会議である。機動集団会議室にいるのは、司令官ウィレム・ホーランド中将、副司令官マリサ・オウミ准将、参謀長ジャン=ジャック・ジェリコー准将、副参謀長ダーシャ・ブレツェリ代将の四名のみ。俺を含むその他の参加者は立体画像として席に映る。

 

「この一週間で無断欠勤は四六・三パーセント、脱走は三二・一パーセントも上昇しました。補給率は四・二パーセント低下しています。戦闘任務から逃れるための自傷行為が後を絶ちません。この部隊は崩壊に刻一刻と近づいています。余力のあるうちに撤退すべきではないでしょうか」

 

 ダーシャは撤退論を唱える。いつもと違ってメガネを掛けており、すらりとした長身や大きな胸とあいまって切れ者らしい風格が漂う。

 

「撤退などありえん。敵の本拠は目と鼻の先にある。エリザベートとブラウンシュヴァイクを捕らえる好機だ」

 

 ホーランド中将は強気を崩さない。根拠も何もない発言だが、おとぎ話の英雄が現実に現れたかのような美丈夫が口にすると本当っぽく聞こえる。

 

「同盟軍は暴動に対処するだけで手一杯です。レーンドルフを攻める余裕なんてありません」

「敵もそう考えているはずだ。同盟軍には余裕がないから攻めてこないと。そこに付け入る隙がある。精鋭で油断した敵を奇襲すれば、破るのはたやすい」

「我が軍の機動力は低下しています。半年前ならともかく、今は成功の見込みが薄いです」

「練度不足は作戦で補えばいい。戦意不足は指揮官の努力不足だ。撤退する理由にはならん」

 

 二人の議論はどこまでも平行線だった。出席者の半数はホーランド中将の言うことなら何でも賛成で、残り半数はダーシャの意見を支持する。俺はもちろんダーシャに付いた。

 

 ホーランド中将は英雄願望を満たすために戦っている。常に戦場を求めており、戦う機会を奪われることを何よりも嫌う。それゆえに、第一一艦隊司令官になりそこねるとドーソン中将の悪口を言い、冬バラ会の一員になると悲観論者を批判した。前の世界で先任者のビュコック中将を批判したのも同じ理由だろう。撤退論など認められないのだ。

 

 この会議の結果が第一統合軍集団に与える影響は大きい。ホーランド機動集団は第一一艦隊の中で最大の兵力を持ち、第一一艦隊は第一統合軍集団の中で最大の兵力を持つ部隊だ。撤退論に傾いてもらわないと困る。

 

 俺は全力でダーシャを援護した。データを出して論理的に説いたり、兵士の困窮ぶりを語って情緒に訴えたりしても、ホーランド中将は耳を貸してくれない。

 

「フィリップス提督。君ほどの勇士が何を恐れている!? 英雄譚に試練はつきものだ! 苦しまずに英雄になった者は一人もいない! 今こそ我々の知恵と勇気が試される時なのだ!」

 

 ホーランド中将は自己陶酔のきわみにあった。

 

「司令官、あなたは……」

 

 あなたはまだ英雄譚を演じるつもりなのか? 俺はそう言いかけて止める。彼には論理は一切通用しない。ならば……。

 

「あなたは英雄をいかなるものとお考えですか?」

「素晴らしい力を持ち、素晴らしい敵と戦い、素晴らしい功績を立てた者だ」

「ミシェル・ネイは英雄でありましょうか?」

 

 俺は古代フランスの英雄譚に登場する勇者の名前を口にした。

 

「言うまでもなかろう」

「ネイは何ゆえに『勇者の中の勇者』と呼ばれたのでしょうか?」

「決して挫けぬ闘志と神をも恐れぬ胆力を持っていたからだ。大陸軍がロシアで敗れた時、ネイは一人で追撃を防いで不朽の存在となった」

 

 ホーランド中将は誇らしげに語る。勇者の中の勇者の伝説は、一七〇〇年以上にわたって語り継がれてきた。

 

「我が軍は危機に瀕しております。兵の気力は尽き果て、補給は滞り、後方では暴徒やテロリストが暴れまわっています。ミシェル・ネイがいなければ、生きて帰ることはできないでしょう」

 

 ここで俺は一旦言葉を切り、ホーランド中将を見つめる。

 

「司令官閣下、あなたこそがミシェル・ネイです」

 

 次の瞬間、ホーランド中将は雷に打たれたかのように立ち上がった。その青い瞳は神聖な確信に満ちていた。

 

「その言や良し!」

 

 ホーランド機動集団の方針は決した。その数時間後、第一一艦隊部隊長会議でホーランド中将が撤退論を熱弁し、第一一艦隊も撤退論支持に回る。九日には第一統合軍集団の方針も決まり、総司令部に作戦中止と撤退を申し入れることになった。

 

 四月一〇日、第一統合軍集団司令部からの呼び出しが入った。軍集団幹部会議に出席しろとの内容だ。一体何の用だろう? いぶかしく思いつつも副官コレット少佐に通信を繋がせる。

 

 立体映像で映しだされた会議室には二四個の席があった。軍集団司令官ウランフ大将、軍集団副司令官・第四地上軍司令官ベネット中将、第一一艦隊司令官ルグランジュ中将、第五艦隊司令官メネセス中将、軍集団参謀長チェン中将といったそうそうたる面々が席についている。ウランフ大将の直属でないのは俺だけだ。

 

「我々と総司令部の交渉は決裂した。あくまで作戦を継続しろと彼らは言っている。第一統合軍集団には現状の戦線を維持する能力はない。まして、攻勢に出るなど不可能だ。これ以上留まっていれば、退却する余力さえ残らないだろう」

 

 ウランフ大将の顔には怒りも失望も見られない。混じりけのない事実だけを伝えるといった感じだ。

 

「私は司令官として最後の責任を果たすつもりだ。第一統合軍集団はすべての解放区を放棄し、地上部隊と民間人を収容しつつ、シャンタウまで後退する」

 

 同盟軍最高の勇将が独断での即時撤退を口にした。第一統合軍集団の猛者たちも顔色を変える。ウランフ側近のメネセス中将とチェン中将だけが落ち着いていた。

 

「よろしいのですか? 死刑もありえますぞ」

 

 ルグランジュ中将が確認するように言う。

 

「覚悟はしているさ。私の命と引き換えに一〇〇〇万人が助かるなら安いものだ。そうは思わんか?」

 

 ウランフ大将が爽やかに笑うと、ルグランジュ中将もつられるように笑った。

 

「おっしゃる通りですな。では、私も軍法会議の被告席に座らせていただくとしましょう」

「感謝する」

「部下に犬死せよと命じるぐらいなら、自分が死刑になる方がよほどましです」

 

 ルグランジュ中将の人柄がこの一言に凝縮されていた。前の世界で同盟政府に反逆した提督は、この世界でも反逆の道を選んだ。

 

「私は副司令官だ。司令官を制止しなかった責任は問われねばなりますまい」

 

 ベネット中将は偏屈者らしいひねくれた表現で協力の意思を示す。

 

 メネセス中将、チェン中将らも次々と賛同し、二三名全員が抗命の協力者となった。驚くほどあっさりと第一統合軍集団の幹部は死刑を覚悟した。

 

 凡人の俺には非凡な人間の考えは理解できない。理解できないけど格好良いと感じる。第一統合軍集団幹部の三人に二人がシトレ派だ。残念ながら、俺は合理主義的でリベラルなシトレ派と相性が良くない。対テロ作戦や解放区選挙をめぐって対立したこともあった。それでも、彼らが見せたノブレス・オブリージュに感動せずにはいられない。真のエリートの姿がここにある。

 

「フィリップス少将」

 

 放心状態の俺にウランフ大将が声をかけた。

 

「はい」

「貴官に頼みたいことがある」

 

 ウランフ大将は事務的な表情で語りかける。

 

「どのようなご用件でしょう?」

「総司令部との交渉役を頼みたい。そのために貴官を呼んだ。この交渉が決裂したら、第一統合軍集団は後退を開始する」

「小官にそんな大役を任せてもよろしいのですか?」

「貴官は冬バラ会のフォーク少将と親しいそうだな」

「八年来の友人です」

「総司令部の実権を握るのは冬バラ会だ。あの連中は傲慢で話が通じない。だが、貴官の話なら聞くかもしれん」

「しかし、本当に小官でよろしいのですか?」

 

 俺は念を押した。自分がウランフ大将に嫌われてるのは知っている。どこまで信じて任せてくれるのかを確認しておきたい。

 

「ただ『構わない』と答えるだけでは、貴官は納得せんのだろうな」

 

 ウランフ大将の表情が事務的なものから、遠慮のないものに変わる。

 

「はっきり言うと、貴官の人格は信用できん。多数派の感情に迎合し、他者への干渉を好み、煽動的な手段を平気で使い、秩序と権威を信仰している。根っからの全体主義者だ」

 

 容赦無いとはまさにこのことだ。出席者の半数は真っ青になり、残り半数は我が意を得たりと言いたげな顔をする。

 

「何をおっしゃるか!?」

 

 ルグランジュ中将が血相を変えて叫んだが、ウランフ大将は意に介さない。

 

「だが、能力は信用する。貴官のような男が必要な場面もある」

「承知いたしました。身に余る大任ではありますが、力の限りを尽くしましょう」

 

 俺はウランフ大将の顔をまっすぐ見ながら答える。酷評の中に誠意と率直さが感じられた。それだけで十分だった。

 

 それからルグランジュ中将の方を向き、無言で頭を下げた。すると、彼の顔が穏やかなものになる。この人との間には言葉は必要ない。

 

 幹部会議は交渉方針を決定し、第一統合軍集団の委任状を俺に渡した。ウランフ大将が会議終了を宣言した瞬間、幹部全員がこちらを向いて一斉に敬礼をする。好悪を超えて信任すると態度で示してくれた。

 

 俺も敬礼を返す。第一統合軍集団一〇〇〇万人の命運を託された。期待を裏切りたくない。何としても成し遂げてみせると決意した。

 

 

 

 総司令部に通信を入れると、三分も経たないうちにアンドリューが現れた。肌には水気がまったくなく、顔からは肉というものが完全に失われ、目は病的なまでに落ち窪んでいる。テレビで見るよりもずっと病んでいるように見えた。

 

「久しぶりだな、エリヤ」

 

 アンドリューは弱々しい笑みを浮かべ、俺をファーストネームで呼んでくれた。

 

「アンドリューと話すのは一昨年の秋以来か」

「悪いがあまり時間は取れない。用件があるなら手短に頼む」

「総司令官閣下への上申はすべて君たち冬バラ会が取り次いでるんだったな」

「冬バラ会じゃない。総合戦略プロジェクトチームだ」

「すまなかった。総合戦略プロジェクトチームの君に頼みたいことがある。第一統合軍集団は撤退を望んでいる。受け入れられなかった場合は独断で撤退するつもりだ。この件について総司令官閣下の判断を仰ぎたい」

 

 俺が委任状と上申書を送信すると、アンドリューの顔から笑みが消える。

 

「それはできない」

「なぜだ?」

「撤退する理由がどこにある? 敵は追い詰められた。ブラウンシュヴァイク派は破れかぶれの攻勢に出た。アースガルズ予備軍は我が軍を恐れて逃げまわる。ビブリスでは連戦連勝だ。勝利は目前じゃないか」

 

 アンドリューは楽観論を展開する。記者会見で言ってることと寸分たがわぬ内容だ。

 

「本気でそう思ってるのか?」

「当たり前だろう」

「第一統合軍集団は戦える状態ではない。兵士は疲れきっている。補給は滞りがちだ。追いつめられたのは俺たちの側だ」

「戦争は相対的に強い方が勝つものだ。兵士が疲れてるというが、敗戦続きの敵兵はもっと疲れている。補給が滞っているというが、フェザーン頼みの敵よりはずっとましだ。練度や装備の優位は揺るぎない。それに加えて民主化と解放という大義名分がある。負ける要素なんて一つもないだろうが。ちょっと苦しいぐらいで悲観するな。現実を前向きに見据えてくれ」

 

 アンドリューは虫の良い話をとめどなく続ける。前の世界の無能参謀フォーク准将の姿が重なって見えた。

 

「もう一度聞くぞ。本気でそう思ってるのか?」

 

 俺はアンドリューの目をじっと見つめた。ほんの少しだけ彼の瞳が揺れる。嘘をついてる自覚はあるようだ。

 

「思っているさ」

「嘘だな」

「いいや、本心だ」

「俺は君という人間を良く知っている。君ほどまともな奴は滅多にいない。そして、総司令部にはあらゆる情報が集まってくる。まともな感性と正しい情報があれば、今の状況は嫌でも理解できるはずだ。それなのに君は現実離れしたことばかり口にする。本心とは思えない」

「…………」

 

 アンドリューの弁舌がピタリと止まる。

 

「君たち冬バラ会は傲慢で話が通じないと言われてる。しかし、俺はこう思うんだ。君たちはわざと話をずらしたんじゃないかと」

「違う、本当に……」

 

 アンドリューは言葉ではなく表情で、俺の推論が正解だと教えてくれた。冬バラ会は話が通じないのではなく、わざと通じないように振舞っている。

 

 彼らの狙いは対話を諦めさせることではないか。ウランフ大将がうんざりして諦めたように。作戦継続にこだわるならば、対話に手間をかけるより、話が通じないことにして総司令部だけで事を進める方が手っ取り早い。

 

「すべてを話せとは言わない。いや、何も言わなくてもいい。俺はこれまで君を信じてきたし、これからもずっと信じる。楽観論を押し通すのも理由があってのことだと思う。だから、何を言われても俺が怒ったり呆れたりすることはない」

 

 俺は自分なりのやり方で不退転の決意を示す。

 

「そうか。何があってもエリヤは引いてくれないんだな」

「第一統合軍集団の一〇〇〇万人、前方展開部隊の二〇万人が背中にいるからね」

「俺にも譲れないものはあるぞ」

「わかっている」

「わかってても帰る気はないんだろう?」

 

 アンドリューは弱々しい微笑みを見せる。

 

「総司令官と会えたら帰るさ」

「それはできないな」

「会うかどうかを決めるのは君じゃない。総司令官だ。すぐに取り次いでほしい」

「だめなものはだめだ」

「第一統合軍集団の進退がかかってるんだ。君の一存で却下できる案件じゃないぞ」

「構わない。俺の責任で却下する」

「覚悟は決めてるってことか」

 

 俺は親友を止められないと悟った。戦地にあって理由なくして伝達を行わなかった者は、一〇年以下の禁固刑に処される。アンドリューはキャリアをなげうつ覚悟だ。

 

「悪く思わないでくれ」

「言ったはずだ。何を言われても俺が怒ったり呆れたりすることはないと」

「いっそ怒ってくれたら良かった。そっちの方が気が楽だった」

 

 アンドリューは深くため息をついた。この時、前の世界の狂人参謀と目の前の真面目な男が同じ糸でつながった。

 

「他の提督に対して傲慢に振る舞う理由には、それも含まれていたんだな?」

 

 答えは返ってこなかった。答えがほしいとも思わなかった。

 

「最初に言った通り、許可を得られなくても第一統合軍集団はシャンタウへ向かう。いずれ、第一統合軍集団司令部からも総司令部に連絡が入るはずだ」

 

 俺の口から吐き出された最後通告の言葉を、アンドリューは何も言わずに聞いている。

 

「話ができて嬉しかった。生きて帰れたらまた会おう」

 

 最後の最後に俺はめいっぱい笑った。道を違えることになってしまったが、それでも友情が変わることはないと伝えるために笑った。

 

 その時、スクリーンの中で急に異変が起きた。アンドリューの目が焦点を失い、顔が何かに驚いているかのように強張り、体が震えだす。やがて、糸が切れた人形のようになって崩れ落ちた。

 

「何が起きたんだ! 返事してくれ!」

 

 俺は誰もいないスクリーンに向かって叫ぶ。副官コレット少佐、副官付カイエ軍曹、当番兵マーキス一等兵らが駆け寄ってくる。

 

「閣下、落ち着いてください!」

「誰もいないのか! 教えてくれ! 何が起きた!?」

 

 部下を無視して叫んでいると、スクリーンに新しい人影が現れた。白衣を着た壮年の男性だ。

 

「総司令部衛生部のダニエル・ヤマムラ軍医少佐です。フォーク少将は急病につき、医務室に搬送されました」

「小官はホーランド機動集団前方展開部隊司令官エリヤ・フィリップス少将だ。状況を説明してもらいたい」

「フォーク少将は転換性ヒステリーの発作を起こしました。視神経障害を起こしていますが、じきに回復します」

「ヒステリー?」

 

 ヒステリーという病名にひっかかりを感じる。一〇〇〇年以上前から使われていないはずだ。

 

「ストレスや葛藤が身体症状を引き起こします。今回は視神経が一時的に麻痺しました。一五分もすればまた見えるようになりますが、このままでは何度でも再発するでしょう」

「どうすれば再発を防げるんだ?」

「原因となっているストレスや葛藤を除去することです。フォーク少将の場合は、強い挫折感や敗北感が背景にあるものと思われます。彼の言うことを無条件で受け入れなければなりません。彼の願望を無条件で叶えなければなりません。すべてが彼の思い通りになるようにしてください」

 

 ヤマムラ軍医少佐はしたり顔で語る。

 

「それが治療なのか? 小官は精神保健担当官資格を持っているが、そのような対応が必要なケースがあるとは聞いたことが無い」

 

 俺の問いにヤマムラ軍医少佐は狼狽の色を見せたが、咳払いをして言葉を続けた。

 

「甘やかされて挫折を知らずに育った子供がかかる病気です。ですから、挫折感を与えずに満足感だけを与えることが再発を防止する手段になります」

「貴官はフォーク少将が甘やかされて挫折を知らずに育った子供だというのか?」

 

 俺は軽く目尻を吊り上げた。ここまでアンドリューを悪く言われては黙っていられない。

 

「い、いえ、そういう子供がかかる病気だと申し上げただけです」

「貴官にはフォーク少将は甘やかされて挫折を知らないように見えるか?」

「ですから、病気が同じなのであって、あの方がそうだとは一言も申しておりません」

「甘やかされて挫折を知らない子供の病気だと貴官は言った。ならば、そんな病気にかかったフォーク少将はそういう子供ということにならないか?」

「総参謀長閣下がお見えになりました! 小官はこれにて失礼いたします!」

 

 ヤマムラ軍医少佐はスクリーンからそそくさと姿を消し、紳士風の中年男性が現れた。総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将である。

 

 俺は救い主に会ったような気持ちになった。グリーンヒル大将といえば、同盟軍で最も物分かりが良い人物だ。シトレ派で唯一将官昇進祝賀式典に顔を出してくれた恩、優秀なメッサースミス少佐を推薦してくれた恩もある。期待がはちきれそうなほどに膨らむ。

 

「貴官には迷惑をかけた。本当に申し訳ない」

 

 グリーンヒル大将は謝罪から入った。超大物の謝罪に小物はすっかり恐縮してしまう。

 

「迷惑とは思っておりません」

「フォーク少将の容態については、軍医が説明したとおりだ。当面は休養することになる」

「あ、あのとおりなのでありますか?」

 

 俺は目を白黒させた。

 

「そうだ。本当に残念だが……」

 

 グリーンヒル大将は言いにくそうに目を伏せる。スクリーンの向こうから深い悲しみが伝わってくるようで、突っ込むのが罪悪にすら思えた。

 

「フォーク少将と小官が話していた内容についてはご存じですか?」

「通信記録は一通り見せてもらった」

「では、改めて申し上げます。第一統合軍集団は撤退を望んでいます。受け入れられなかった場合は独断で撤退するつもりです。総司令官閣下の裁可を頂けるよう、お願い申し上げます」

 

 俺は口上を述べ、委任状と上申書をもう一度送信する。

 

「総司令官閣下は昼寝中だ。第一統合軍集団の要望は起床後に伝えよう」

 

 グリーンヒル大将の返答は思いもよらないものだった。

 

「差し出がましいお願いではありますが、起こしていただくわけにはいきませんか? 総司令官閣下が連日の激務で疲れておいでなのは承知しています。ですが、第一統合軍集団は破滅の危機にひんしています。一分一秒でも惜しいのです」

「敵襲以外は起こすなとの厳命だ。第一統合軍集団の要望は起床後に伝える。それまで待ってもらいたい」

「この場合の敵襲とは、『総司令部が直接指揮を取らなければならない事態』と解釈すればよろしいのでしょうか?」

「その解釈で構わない」

「では、総司令官閣下が起床されるかお教えいただけないでしょうか」

「私にはわかりかねる」

「普段は何時間で起床されるのですか?」

「決まっていない。とにかく起床後に伝える」

「そこを何とかお願いできませんか」

 

 押し問答を続けるうちに違和感を覚えた。グリーンヒル大将は優秀な軍官僚ではあるが、官僚的な面は持ちあわせておらず、柔軟で人情味がある。それゆえに反骨精神の強いビュコック大将やヤン大将からも好かれた。官僚的対応に終始するような人物ではない。

 

 俺はようやく相手の意図に気づいた。グリーンヒル大将もアンドリューと同じだ。話が通じないふりをしている。

 

 彼の言うことはすべて口実だろう。高級指揮官にとって体力は最も大事なもので、休憩をとるのは仕事の一部だ。不要不急の来客を断る理由としては十分である。それに「敵襲がなければ起こせない」と付け加えることで、官僚的対応を正当化する余地が設けられた。起床時間を曖昧にするのは時間稼ぎだ。いつ起きるかわからない相手を待てるほど、前線の軍人は暇ではない。うまい口実を考えたものだと思う。

 

 しかし、アンドリューやグリーンヒル大将はなぜこんな真似をするのか? 総司令部だけで事を進めたいにしても、第一統合軍集団の件は追い返して済む話ではないのに。

 

「君たちの気持ちはわかる。だが、ルールはルールなのだ。必ず要望は伝えるし、期待を裏切らない回答ができるよう努力する。それまで早まったことはしないでほしい」

 

 グリーンヒル大将はなだめるようでもあり心を痛めているようでもあった。

 

「早まったことはしないでほしいと」

 

 俺は一番最後の言葉だけを繰り返す。声にならない声で「それが主題なのですか?」と問う。

 

「その通りだ。私は君たちを信じている」

「総参謀長閣下のおっしゃりたいことはわかりました。ウランフ大将に伝えておきます」

 

 俺はここで通信を終えた。総司令部側の本当の狙いが理解できたからだ。

 

 結局のところ、アンドリューもグリーンヒル大将も、第一統合軍集団に「早まったこと」をさせたくなかったのだろう。ロボス元帥がどのような裁可を下しても、第一統合軍集団の撤退は避けられない。裁可を先送りにすれば、第一統合軍集団が判断を先送りする可能性もある。無断撤退を回避しうる方法は他にはない。

 

 さらに言うと、「早まったこと」をされて一番困るのはロボス元帥だ。一〇〇〇万人を擁する第一統合軍集団が無断撤退した場合、人類史上最大の抗命事件を招いた責任を問われかねない。だからといって撤退を認めれば、講和条件が不利になり、政治的立場が危うくなる。

 

 具体的な指示があったのか、空気を読んで勝手に動いたのかはわからないが、二人がロボス元帥のために動いたのは確かだと思う。

 

 苦い思いばかりが残る交渉だった。甘みで苦味を打ち消そうにも、補給難のためにマフィンは一日二個しか食べられないし、コーヒーに入れる砂糖は半分に減らされた。

 

 ウランフ大将は俺の報告を事務的な表情で聞いた。通信記録を見ている間も、アンドリューやヤマムラ軍医少佐に対しては、何の感想も漏らさなかった。ただ、グリーンヒル大将を見た時は、少しだけ顔を曇らせて「また迷惑をかけてしまうな」と呟いた。

 

「ご苦労だった。次の命令が出るまで休憩するように」

 

 形式の範囲を一歩も出ない言葉をもらい、ウランフ大将との交信は終わった。俺に対する評価が変化したかどうかは窺い知れなかった。

 

 三〇分後、第一統合軍集団司令部から遠征軍総司令部及び九個軍集団司令部に向けて、一本の通信が送られた。

 

「第一統合軍集団は現時刻をもってレーンドルフ方面作戦を中止。シャンタウへと後退する」

 

 七九九年四月一〇日二〇時三四分、第一統合軍集団一〇二四万人は、撤退作戦「オリーブの枝」を開始した。帝国軍の追撃を防ぎ、同盟人民間人及び親同盟派住民五三〇〇万人を収容しつつ、シャンタウ星系を目指す。人類史上最大の撤退戦が幕を開けた。

 

 

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