銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第38話:エル・ファシルの英雄三たび 795年12月下旬~796年1月初旬 オリンピア市 ダーシャ・ブレツェリの官舎~国防委員会庁舎~壮行式会場

 英雄エリヤ・フィリップスの寿命は実に短かった。銀河帝国皇帝フリードリヒ四世とルートヴィヒ皇太子の死亡、新帝エルウィン=ヨーゼフ二世の即位、リオ・コロラド事件といった大事件が連続したせいだ。

 

 一二月一一日、銀河帝国政府は皇帝と皇太子がクロプシュトック侯爵に殺害され、皇太子の長子である四歳の皇孫エルウィン=ヨーゼフが即位したと発表。それと同時に「先帝の遺詔」として、ブラウンシュヴァイク公爵・リッテンハイム侯爵・カストロプ公爵・リンダーホーフ侯爵への元帥号授与、リヒテンラーデ侯爵の公爵昇格と宰相就任、ミューゼル男爵のローエングラム伯爵家継承などが実施された。

 

 エルウィン=ヨーゼフ帝が即位した経緯は不明だが、母親のウルスラ皇太子妃は即位の三日前に「事故死」しており、旧皇太子派に対する恩赦も行われていないことから、重臣の誰かに擁立された可能性が高い。

 

 先帝の葬儀委員会メンバーの中では、先帝が亡くなる寸前に抜擢された元帥リンダーホーフ侯爵が第五位、元帥ローエングラム伯爵が第一〇位に入っているのが注目される。彼らは先帝以来の重臣とともに国政に参与すると思われる。

 

 新政権の方向性は不明だが、対外融和に傾いたとの見方もある。副宰相・財務尚書カストロプ公爵が、穀物輸入量の上限を撤廃するようフェザーンに求めた。穀物は帝国がフェザーンを中継して同盟から輸入する物資の中で最大の比重を占める。その輸入上限撤廃は、同盟との穀物貿易を自由化するに等しく、同盟財界でも歓迎する声が大きい。対同盟デタントの第一弾と考えても不思議ではないだろう。

 

 伝聞でしか分からない帝国情勢より、国内で起きたリオ・コロラド事件の方が社会に与えた影響ははるかに大きい。

 

 一二月に入ってから、イゼルローン方面航路での海賊活動が再び活発化した。海賊発生率は第一三任務艦隊が派遣される前の八割まで戻った。護衛部隊の損害率はこれまで最多だった一〇月最終週の水準を上回る。

 

 収まっていた軍の輸送部隊への襲撃も再び始まり、多くの輸送船が海賊の手に落ちた。宇宙艦隊総司令部は輸送力不足を解決するために民間の貨物船を雇った。

 

「戦力の保全を第一に行動せよ」

 

 宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥は、このような訓令を出した。宇宙軍の戦力不足は深刻だ。運用責任者としては、現有戦力の保全を優先せざるを得ない。

 

 巡航艦二隻、砲艦四隻、駆逐艦九隻からなる第五六一三任務隊は、軍が雇った民間船を護衛するために編成された任務部隊の一つだった。ところが、海賊多発宙域に差し掛かった時、巡航艦「リオ・コロラド」を除く全ての艦が、ロボス元帥の訓令を口実に引き返してしまう。

 

 取り残された民間船一〇一隻はそのまま航行を続けた。彼らが結んだ契約では、護衛の有無に関わらず、補給物資を運ばなければならないからだ。

 

 そこに駆逐艦四隻とミサイル戦闘艇八隻からなる海賊船団が現れた。いずれも充実した近距離兵装を持つ。一方、巡航艦のリオ・コロラドは、遠距離戦や中距離戦に向いているが、近距離戦では対空砲と艦載機しか頼れない。

 

 勝負は目に見えていた。リオ・コロラドと三機の艦載機は全滅し、艦長クマル・ラーイー少佐以下一三三人の乗員が一人残らず殉職した。彼らの犠牲と引き換えに民間船は逃げ延びた。

 

 軍が見捨てた民間人が、一部軍人の自主的行動によって救われる。七年前のエル・ファシル脱出と全く同じ構図だ。しかし、エル・ファシルを見捨てたアーサー・リンチ少将の行動が独断だったのに対し、第五六一三任務隊の行動には司令長官の訓令という根拠がある。軍の責任を追及する声が高まった。

 

 ヨブ・トリューニヒト国防委員長の動きは素早かった。事件の翌日にリオ・コロラドの殉職者全員への二階級昇進と自由戦士勲章の授与を発表。英雄を作ってごまかそうとした。

 

 だが、批判が収まる気配はない。反戦市民連合が議会で政府の責任を追及。リベラル派や反戦派のマスコミは、連日のように批判的な報道を繰り広げた。トリューニヒト委員長やロボス元帥に引責辞任を求める声も強い。

 

「リオ・コロラドには、一一二個の勲章じゃなくて、第五六一三任務隊の一五隻が必要だったんじゃないですかね」

 

 マスコミの取材に対し、国防研究所戦史研究部長ヤン・ウェンリー准将は、皮肉たっぷりに語った。民間人の保護が至上命題と考える彼らしい発言だ。殉職者の英雄化を皮肉ったせいでお蔵入りとなったが、第五六一三任務隊への批判だけなら報道されただろう。

 

 今や、第五六一三任務隊は、同盟市民一三〇億人の共通の敵となった。リベラル派や反戦派は、彼らの無責任ぶりを糾弾するとともに、民間人保護を後回しにする軍の体質を批判。主戦派は軍に対する批判を逸らすために、「第五六一三任務隊というならず者集団」を徹底的に叩いた。ネットでも隊員やその家族に対するバッシングが吹き荒れている。

 

 俺の周囲もほぼ第五六一三任務隊批判一色だ。

 

「何と情けない奴らだ。体を張って市民を守る。任務のために命を賭ける。同盟軍人とはそういうものではないか! 恥晒しめ!」

 

 軍人精神を重んじるエーベルト・クリスチアン中佐は、スクリーンが震えそうなほどに怒り狂った。

 

「軍の名誉を汚しおって! 死んで詫びろ!」

 

 第一一艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将は、軍高官とは思えないようなことを言った。

 

「これは許せんなあ」

 

 ナイジェル・ベイ大佐も不快感を示す。

 

「責任持てねえなら民間船なんか使わなきゃいいんだ。輸送科の予備役部隊をいくつか現役に戻ししゃあいいじゃねえか。財務委員会とシトレ元帥が認めねえんだろうけどよ」

 

 サルディス星系警備隊司令官に転任したばかりのマルコム・ワイドボーン准将は、こんな時もきっちりシトレ元帥批判を混ぜてくる。

 

 フィリップ・ルグランジュ少将なども怒っていた。なんだかんだ言って俺の周りには堅い人が多い。怒っていないのは、ダーシャを除けば、イレーシュ・マーリア中佐、ハンス・ベッカー少佐のような緩い人くらいだった。

 

 第五六一三任務隊の隊員の叩かれぶりを見ると、前の世界で受けた仕打ちを思い出す。まるで自分が叩かれたような気持ちになる。ストレスの溜まる日々が続いた。

 

「本当に嫌な世の中だよ」

 

 ダーシャの部屋に泊まった時、そんな愚痴を漏らした。俺の左隣にはダーシャ、向かい側にはイレーシュ中佐が座っている。最近はこの二人だけが心の潤いだ。

 

「エリヤはこういう空気に弱いもんね」

 

 ダーシャが「しょうがないなあ」と言いたげに俺を見る。

 

「こういう時はさ、たくさん食べるといいよ。お腹が膨れたらすっきりするって」

 

 イレーシュ中佐の真っ青な瞳には、俺を心配する気持ちが六割、一刻も早く食事を始めたいという気持ちが四割といったところだ。

 

 食卓の上には、俺とダーシャが共同作業で作った料理が並ぶ。香ばしい匂いのするパラス風エビのガーリックバター炒め「シュリンプ・スキャンピ」、ほくほくのフェザーン風ポテトサラダ「オリヴィエ・サラダ」、こってりしたマカロニ・アンド・チーズ、あつあつのフェザーン風ひき肉カツレツ「ゴヴャージエ・コトレートィ 」、鍋いっぱいのフェザーン風煮込みスープ「ヨタ」、海鮮たっぷりのパラス風ジャンバラヤ、そしてあつあつのアップルパイなど。

 

「はい」

 

 俺とダーシャは同時に頷いた。そして、全員で軍隊式の食前の挨拶をした後、一斉にフォークを躍らせる。俺とイレーシュ中佐は遠慮なく、ダーシャは控えめに料理を口に放り込む。

 

「このジャンバラヤ、癖になる味だね。エリヤくんが作ったの?」

「違いますよ。ダーシャです」

 

 俺が左を見ると、熱いココアにふうふうと息を吹きかけていたダーシャはニッと笑った。

 

「このカツレツは、なんか豪快というか大雑把というか」

「これ、エリヤが作ったんです」

 

 ダーシャが余計なことを言う。

 

「なるほど、ダーシャちゃんが作ったパラス風料理もあれば、エリヤくんが作ったフェザーン風料理もあるってことね」

「はい」

 

 俺とダーシャは同時に答えた。イレーシュ中佐の青い瞳が俺たちを見比べる。

 

「面白いことするねえ」

「ダーシャはパラス風料理も俺よりずっと上手ですから」

「私が上手なんじゃなくて、エリヤが下手なのよ。アップルパイとマカロニ・アンド・チーズしか作れないんだから」

 

 またまた余計なことをダーシャが言う。俺は軽く舌打ちした。

 

「どうしてその二つだけなの?」

「いもう……、いや姉妹が好きだったんですよ。腹を空かせた姉妹に作ってやってたんです」

「アップルパイとマカロニ・アンド・チーズが好物ねえ。食いしん坊というか、似た者兄妹というか」

「似てないですよ」

 

 自分でも分かるほどぶっきらぼうな声だった。妹を思い出すたびに腹が立つ。かつては結構仲のいい兄妹だったのに、俺が逃亡者になった途端に裏切った。理性では前の世界と今の世界が別の世界だと分かっているが、それでも嫌悪感を捨て切れない。

 

「そっか」

 

 イレーシュ中佐はこれ以上突っ込もうとしなかった。俺の気持ちを察してくれたのだろう。

 

「本当に似てないんですよ」

 

 表情で「これ以上聞くな」と念を押す。あとは左隣のダーシャが突っ込んでくるかどうかが気がかりだ。

 

「あつっ!」

 

 なんとダーシャは熱々のココアに口をつけていた。

 

「どうした? 冷まさずに飲むなんて、ダーシャらしくもないな」

「あ、いや、なんでもないよ」

 

 あからさまに動揺するダーシャ。話題を逸らす格好のチャンスだ。俺はここぞとばかりにからかう。そして、ダーシャが不機嫌になりかけたところで話題を変えた。

 

「そういえば、そのカップは友達からもらったんだよな」

「うん」

「いつ見てもいいカップだよなあ」

 

 俺はさらなる話題逸らしを試みた。ダーシャがいつもココアを飲むのに使うカップを褒める。審美眼を持ち合わせていない俺から見ても、結構センスが良いと思える代物だ。

 

「ダーシャちゃん、それってチャペルトンのブルームーンでしょ」

 

 イレーシュ中佐が俺の知らない単語を口にする。

 

「ええ」

「新品で買ったら三〇〇ディナールはするよ。いい友達持ったねえ」

「はい!」

 

 たちまちダーシャの顔に満面の笑みが浮かぶ。カップそのものよりも贈り主が彼女のお気に入りなのだ。

 

「これもその子が送ってくれたんです」

 

 俺はすかさず棚の上に積み重ねられた箱を指差す。イレーシュ中佐が目を丸くした。

 

「フィラデルフィア・ベーグルのマフィンじゃん。三箱もくれたの?」

「これは私じゃなくてエリヤに贈ったものですよ。彼女、エリヤの大ファンですから」

「一箱五〇ディナールもする高級菓子を一度に三箱。本当に気前がいいのね」

「それだけじゃないんですよ」

 

 それからダーシャは友達自慢を始めた。俺にとっては聞き慣れた話だが飽きることはない。愛情が言葉の端々から伝わってきて心が温かくなる。それに義侠心があって気前が良くて喧嘩が強い美人というのは痛快なキャラクターだ。

 

 イレーシュ中佐も俺と同じような感想を抱いたらしい。クールな顔にこれ以上ないほどの暖かい笑みが浮かぶ。

 

「なるほどねえ。その子はダーシャちゃんのヒーローなんだ」

「女性だからヒロインですけどね」

「ダーシャちゃんだってヒロインでしょ。一〇万人を向こうに回した三人の一人なんだから」

「他の二人がいなきゃ折れてました」

 

 ダーシャが遠い目をした。三年前のカプチェランカ基地の件は、忘れ得ない思い出として彼女の中に残っている。

 

 カプチェランカ基地に監察官補として赴任した彼女は、ある人物を擁護したことで基地全体から憎まれた。どのような嫌がらせを受けたのかまでは聞いていないが、強気な彼女が休職届けを出してハイネセンに戻ろうとまで思いつめたのだから、よほど酷かったのだろう。その時に味方してくれた人物が二人いた。一人はヴァンフリート四=二の戦いで亡くなった。もう一人が話題にのぼっている女性だ。

 

「俺なら二人いても折れてるな」

 

 マカロニ・アンド・チーズをもりもり食べながら、前の世界のことを思い出す。側にいたのが無節操な妹でなく、ダーシャとその友達のような義侠心の持ち主だったなら、折れずに済んだのだろうか?

 

 それにしても、最近は前の人生とリンクするような出来事が多い。地球教徒の少女との出会い、そしてリオ・コロラド事件。結局のところ、この人生も前の人生の続きでしかなかった。

 

 

 

 リオ・コロラド事件の結果、受動的な海賊対策の限界が明らかになり、積極的な対策を求める声が高まった。

 

 正規艦隊の戦力は動かせない。国境警備に二個分艦隊、航路警備に二個分艦隊を割いている。海賊討伐に戦力を割いたら即応戦力を確保できなくなるだろう。そこで安全地域の即応部隊や巡視隊の戦力をもって、海賊討伐任務部隊「エル・ファシル方面軍」を編成することになった。

 

 エル・ファシル方面軍は三つの部隊からなる。エル・ファシル星系警備管区を担当する制圧部隊の「エル・ファシル軍」三二万。パランティア星域管区全体を担当する遊撃部隊の「パランティア軍」二一万。そして方面軍司令官直轄部隊一三万。合計すると六六万。普通の方面軍よりは小規模だが、星域軍クラスの部隊を二つ抱えているため、方面軍と同等の扱いを受けるのだ。

 

 軍事行動に消極的な進歩党も討伐軍派遣を支持した。だが、自治体への補助金・住民対策費・基地建設費など二〇〇〇億ディナールの海賊対策予算案に対しては、「過大要求だ」「利権の温床になる」と反対意見が続出。可決される見通しは少ないとみられる。

 

 一二月二三日、国防委員会はエル・ファシル統合任務部隊の陣容を発表。国歌が流れる厳かな雰囲気の中、ヨブ・トリューニヒト国防委員長が幹部名簿を読み上げる。

 

「エル・ファシル方面軍司令官、ディエゴ・パストーレ宇宙軍中将」

 

 討伐作戦の総司令官の名前が発表された瞬間、会場に「おお」という声があがった。パストーレ中将は前の世界でアスターテの愚将と言われたが、この世界では名声が高い。対帝国戦ではなく、海賊や反体制組織との戦いで活躍した地方司令官だ。引退した第四艦隊司令官の後任として最有力視されていたが、海賊問題を重視するトリューニヒト委員長が人事を差し替えた。

 

「エル・ファシル軍司令官兼方面軍副司令官、エド・マクライアム宇宙軍少将」

 

 エド・マクライアム少将の精悍な顔が映し出された瞬間、会場の興奮はさらに高まった。勇猛な戦いぶりから「ファイティング・エド」と呼ばれる宇宙軍陸戦隊の勇将だ。エル・ファシル攻防戦において星都エル・ファシルを奪還する殊勲を立てており、作戦宙域の事情に明るい。

 

「パランティア軍司令官、サンドル・アラルコン宇宙軍少将」

 

 いかめしい顔のアラルコン少将は、別の意味で注目を引いた。指揮官としては一流で、対帝国戦でも対海賊戦でも抜群の実績を示した。だが、過激な思想、民間人・捕虜殺害疑惑などで物議を醸したトラブルメーカーでもある。トリューニヒト委員長とも仲が悪い。起用された理由は誰にもわからなかった。

 

「エル・ファシル軍副司令官、ヤン・ウェンリー宇宙軍准将」

 

 その名前は時間を停止させた。知名度はパストーレ中将やマクライアム准将に匹敵し、意外性はアラルコン少将に匹敵し、ドラマ性は他の三人を圧倒的に上回る。七年前の三〇〇万人脱出作戦を指揮した英雄がエル・ファシルに戻ってくる。これが驚かずにいられるだろうか。

 

 会場を歓声が覆い尽くした。英雄の名はかくも人々を熱狂させる。俺もみんなと一緒になって声をあげたかったが、今日は紹介される側にいる。全力でこらえた。

 

 パランティア軍副司令官にはラッソ地上軍准将という人物が就任した。過激派と対立する中間派の幹部で、アラルコン少将と牽制し合うことを期待されての人事であろう。

 

「第八一一独立任務戦隊司令、エリヤ・フィリップス宇宙軍代将」

 

 俺の名前が読み上げられた途端、歓声と拍手がいっそう大きくなった。どうして俺ごときの名前でそんなに騒ぐのか? 戸惑いつつも笑顔で応える。

 

 ヤン・ウェンリー准将と俺の他にも、「エル・ファシルの英雄」と呼ばれる者がいる。陸戦隊の兄貴分フョードル・パトリチェフ宇宙軍大佐、不死身の超人ルイジ・ヴェリッシモ宇宙軍大尉、美貌の天才狙撃手アマラ・ムルティ地上軍大尉、戦車の天敵と言われるランドン・フォーブズ地上軍中佐、豪勇無双のルイ・マシュンゴ地上軍准尉など、エル・ファシル攻防戦の英雄も海賊討伐に参加することが発表された。

 

 かつての英雄が再びエル・ファシルに結集する! その報は英雄を待ち望む感情を大いに揺さぶり、辺境の一星系はたちまちのうちに同盟全土の関心の的となった。それに伴って、エル・ファシル情勢に関する報道も激増した。

 

 惑星エル・ファシル攻防戦は、七九二年三月二日の帝国軍司令官カイザーリング中将の自決、星都エル・ファシル市解放をもって終結したとされる。だが、敗残兵二〇万は山岳地帯に逃れて抵抗を続けた。帝国軍の軍規では、自発的な降伏は敵前逃亡と同罪、不可抗力で捕虜になった場合も処罰を受ける。死ぬまで戦う以外の選択肢は無かったのだ。

 

 四か月の攻防戦、一年近く続いた敗残兵との戦いによって、惑星エル・ファシルの水道・発電所道路・宇宙港などのインフラは壊滅し、惑星経済を支えてきた小麦畑とチーク林も失われた。

 

 エル・ファシル星系政府は被害額を五〇〇〇億ディナール、復興予算を五年間で六二〇〇億ディナールと見積もり、同盟政府に五五〇〇億ディナールの財政支援を求めた。

 

 当時の財政委員長だったジョアン・レベロは、クーデターの危険を顧みずに国防予算削減を進めた人物だ。エル・ファシル星系政府に対しても遠慮しなかった。最終的に同盟政府が認めた支援額は二三〇〇億ディナール。しかも、緊縮財政を推進するという条件付きである。

 

 同盟政府の提案に対し、「内政干渉だ」と反発する者もいたが、大多数は「改革を進める好機」と捉えて受け入れた。

 

 エル・ファシル独立党、進歩党エル・ファシル星系支部など星系政府の改革派は、ハイネセンから招いた学者とともに改革に取り組んだ。公債発行額の抑制、公務員の人員削減、行政サービスの削減などによって、財政支出が大幅に減少した。公営事業の民営化、フェザーンよりも大胆な規制撤廃、大幅な減税などが功を奏し、ハイネセンやフェザーンから多くの企業が進出してきた。

 

 エル・ファシル星系政府のロムスキー教育長官は、「一〇年後にはいずれフェザーンを超える」と豪語する。辺境の理想郷というのが惑星エル・ファシルに対するイメージであろう。

 

 数字だけを見れば、エル・ファシルは最貧惑星に分類されてもおかしくはない。GDPや星民平均所得が占領前と比べて大きく低下、失業率は倍増している。それでも、学者やマスコミが「自由に勝る豊かさはない」「減少分は公務員や利権企業の不当利得。贅肉が落ちたのだ」と擁護したため、改革は成功したと信じられてきた。

 

 中央政府の主導権を握る国民平和会議(NPC)主流派、進歩党はいずれも改革志向だ。彼らはエル・ファシルを改革のモデルケースとして賞賛してきた。だが、最近になってトリューニヒト国防委員長らNPC右派と近いマスコミがエル・ファシル批判を始めた。

 

「見てください! これがエル・ファシルの現実です!」

 

 若い女性記者は、ずらりと並んだプレハブ作りの仮設住宅を指差す。これが州都の中心部から二キロしか離れていない場所なのだという。道端に積み重なったままの瓦礫、雑草に覆い尽くされた住宅地跡、停電や断水が高い頻度で起きることを示す自治体の配布物なども紹介された。

 

「エル・ファシルが豊かだなどと誰が言ったのでしょう? 私の目には彼らが豊かなようには見えません」

 

 中年の男性記者がいるのは、エル・ファシル市にある民営の職業紹介センターだ。貧相な格好の男女が検索用の端末の前に列をなす。出ている求人はほとんどが時給五ディナールか六ディナールで、しかも二か月から三か月の期限付き雇用。今のエル・ファシルにはこういう求人しか無いのだそうだ。

 

「効率化って要するに人を使わない、金を使わないってことでしょう。役所の人、役所から仕事をもらってた企業の人がみーんな路頭に迷うわけだ。地場産業は戦争で焼けてしまった。社会保障もない。時給五ディナールでも働かないといかん。企業にとっちゃあ天国ですよ。安い労働力が有り余ってるんですからなあ。これがエル・ファシルの繁栄の実態ですわ」

 

 エル・ファシル反改革派のイバルス・ダーボ星会議員がゲストとして登場し、エル・ファシルの経済構造について語る。

 

 右派系テレビ局の報道ドキュメンタリー番組が、「シリーズ エル・ファシルの今――楽園の現実」と題された大掛かりな特集を組んだ。アルコールや麻薬に溺れる失業者、人手不足で機能していない警察、「この惑星でまともに稼げる仕事は麻薬密売と売春だけ」と語る若者、過激派やカルト宗教の集会に詰めかける群衆などは衝撃的だった。

 

 NPC主流派、進歩党は一連の報道について「偏向報道だ」と批判し、エル・ファシルは自由で豊かだという従来の主張を繰り返す。辺境を見て回った経験、地球教徒の少女との出会いなどが無ければ、俺も偏向報道と思っていたに違いない。

 

 だが、世論は理性的に改革を説くNPC主流派や進歩党よりも、扇情的なネガティブキャンペーンを展開するNPC右派を支持した。

 

「政府はエル・ファシルを直接的に救済せよ」

「海賊対策予算として金を落とせばいい」

 

 そんな声が強まり、国防委員会の提出した海賊対策予算案は賛成多数で可決された。

 

 

 

 年が明けて七九六年になった。壮行式のためにエル・ファシル統合任務部隊司令部を訪れたトリューニヒト委員長は、俺の耳に顔を近づけてささやいた。

 

「汚いやり口だと思うかね?」

 

 何とも答えにくい問いだ。英雄の名前を使って注目を集め、ネガティブキャンペーンで予算を通す。ロボス元帥が五年前にやったことよりも汚い。しかし、トリューニヒト委員長は何の意味もなくこんな真似をする人じゃないのも知っている。

 

「微妙ですね」

「なるほど、賛同しかねるが反対もできないと言ったところか」

「おっしゃる通りです」

「プロパガンダなんて改革派もやってることさ。私の方が多少分かりやすいだけでね」

「それはわかりますが……」

 

 俺は言葉を濁す。エル・ファシルを持ち上げてきた連中も汚いといえば汚い。しかし、汚い相手に汚い手段で対抗するのも違うような気がする。サイオキシンマフィアを倒すための資金稼ぎにサイオキシンを売るようなものだ。

 

「エル・ファシルを人が住める場所にするためだ。ここはこらえてくれ」

 

 トリューニヒト委員長は軽く俺の背中を叩いてから、統合任務部隊首脳部が集まる一画へと足を運び、パストーレ中将、マクライアム少将らに声をかける。いかにも政治家といった感じだ。

 

 辺りを見回すと、ヤン准将は司令官らと少し離れた場所でつまらなさそうにしていた。ネグロポンティ下院議員、カプラン下院議員らトリューニヒト派の国防族議員に話しかけられても生返事でごまかす。彼の政治家嫌いは、今の世界でも変わりないようだ。

 

 司令官らとの会話を終えたトリューニヒト委員長は、ヤン准将のもとに歩み寄る。会場の注目が二人のもとに集まった。主戦派のホープと若き天才参謀がどのような会話を交わすのか? 誰もが注目せずにはいられない。

 

 俺は別の意味で注目した。ヤン准将の軍縮論をトリューニヒト委員長は不快に思っている。ヤン准将にしても、戦史研究部長の職から離れ、公務で戦史研究ができなくなるのは嫌だろう。衝突しないで欲しいと心の中で手を合わせる。

 

 先制したのはトリューニヒト委員長だった。人懐っこそうな笑みをたたえてヤン准将に話しかける。

 

「はじめまして、ヤン・ウェンリー君。エル・ファシルの英雄に会えて光栄だ」

「それはどうも」

「私は君の知略を高く評価している。海賊に勝つためには、どのような戦略をもって臨むつもりかね? 是非とも聞かせてもらいたい」

「六倍の兵力を揃え、兵站と通信を完全に整え、正確な情報を集め、司令部と前線の意思疎通を円滑にすれば、負けることはないでしょう」

 

 面白くも無さそうにヤン准将は答えた。奇計が得意なのに物量戦を理想とする。前の世界の戦記に記された戦略思想そのままだ。

 

 トリューニヒト委員長も物量戦が好きだ。軍拡を柱とする新国防方針、五個艦隊動員にこだわった第三次ティアマト会戦などがその典型だろう。大軍を動かせば動かすほど軍需物資の消費も大きくなり、彼を支持する軍需産業も儲かる。ヤン准将の戦略を歓迎するに違いない。

 

 俺は期待を込めてトリューニヒト委員長の顔を見る。だが、なぜか不快さを笑顔の中に押し込めるような表情をしていた。

 

「なかなかに興味深い意見だ。しかし、それだけの条件が整えば、どんな作戦を立てても負けないのではないかな?」

「そのような状況を作るのが戦略であると、小官は考えます。戦略は戦争を進めるための方針、作戦は方針を実現するための計画、戦術は計画を実施するための手段、その全てを支えるのが兵站です。方針が間違っていれば、いかに計画や手段が優れていても意味がありません」

「しかし、いつも物量を揃えられるとは限らない。少数で多数を撃つ。そんな戦略が必要な場面もあると思うのだがね」

 

 トリューニヒト委員長は意地になっているように見えた。人当たりのいい彼らしくもない。何が気に入らないのだろうか?

 

「少数をもって多数に勝つことを前提に戦略を立てる。その時点で負けたも同然でしょう」

 

 売り言葉に買い言葉といったふうにヤン准将が答えた。トリューニヒト委員長を取り巻くパストーレ中将、マクライアム少将らが、「生意気な若僧め」と言いたげに若き天才を見る。

 

 これはまずい。彼らが敵対したら、俺の立つ瀬がなくなるではないか。なんとしてもこの空気を収めなければと思い、慌てて二人のもとに駆け寄った。

 

「さすがはヤン提督、素晴らしい戦略です! 国防委員長閣下の軍拡路線とも合致していらっしゃいます!」

 

 俺はヤン准将とトリューニヒト委員長の両方を立てようとしたが、場をさらに白けさせただけだった。冷笑や嘲りの混じった視線が突き刺さる。そして、俺を見るヤン准将の目には、はっきりと不快の色が浮かんでいた。今の自分は単なる道化に過ぎなかった。

 

「ヤン君は私の考えをよく分かっているようだ。エル・ファシルの英雄の手腕に期待している」

 

 トリューニヒト委員長は、礼儀の範囲を一ミクロンも出ない言葉をヤン准将に与えた。そして、パストーレ中将とマクライアム少将を手招きする。

 

「ヤン君は見どころのある若者だ。良く面倒を見てやって欲しい」

「かしこまりました」

 

 二人はトリューニヒト委員長の頼みを快く了承した。人々の注目はヤン准将から離れ、俺も針のむしろからようやく解放された。

 

「フィリップス君、こっち来てくれる?」

 

 上品そうな声が一息ついた俺を絶望へと叩き落とす。小柄で華奢な体、病的なまでに白い肌、美しい黒髪、憂いを含んだ瞳、清楚な顔立ちを持つマリエット・ブーブリル上院議員。エル・ファシル義勇旅団の元副旅団長にして、エル・ファシル反改革派の巨魁であり、この世で最も荒々しい女性だ。

 

「は、はい!」

 

 俺は急いでブーブリル上院議員の元へと駆け寄った。

 

「フィリップス中佐とブーブリル議員が一緒にいるぞ!」

 

 会場が大いに盛り上がる。反改革派として批判されてきたブーブリル上院議員だが、知名度は圧倒的に高い。義勇旅団の元旅団長と元副旅団長が並んだ絵面にマスコミは大喜びし、先を争うように写真を撮り、上辺だけは親しげな会話を熱心にメモする。

 

 一瞬にして注目を集めてしまったブーブリル上院議員。政治家になってから、演技の才能にますます磨きがかかったらしい。

 

 その他にもトリューニヒト派の政治家が次から次へと寄ってくる。派閥ナンバーツーのネグロポンティ下院議員は、頼れそうだが自慢話がやたらと多い。予備役宇宙軍准将の階級を持つカプラン下院議員は、気さくだが余計な一言ばかり。元警察官僚のボネ下院議員は、頭は良さそうだがとげがある。派閥の金庫番を務めるアイランズ上院議員は、偉そうだが卑屈な感じもする。みんな普通の人だなあという印象だ。

 

「ところで娘さんはお元気ですか?」

 

 アイランズ上院議員と話していた時、ふと彼の娘のエリサを思い出した。エリサ・アイランズは憲兵隊で俺の部下だったが、会話したことはほとんどない。今は交友が途絶えてしまった。

 

「元気だ」

「それは良かったです」

 

 これ以上聞く気にはなれない。アイランズ上院議員の表情が「これ以上聞くな」と語っていたからだ。

 

 ヤン准将は会場の隅っこでパトリチェフ大佐と話していた。この世界では俺の方が早くヤン副司令官と知り合っているはずだ。それなのに距離がすっかり離れてしまってるのが悲しい。

 

 そこから少し離れたところにアラルコン少将が立っていた。悲しいぐらいに人が少ない。人望が薄いからではなく、エル・ファシル方面軍にトリューニヒト派が多いせいだ。過激派が多い会合なら俺が浮いているだろう。

 

 ヤン准将と反対側の隅っこに、ムルティ大尉が私服姿で立っていた。その周りにいる私服姿の女性四人も人目を引きそうな美人ばかりだ。しかし、ムルティ大尉と比較すると元帥と従卒ほどの差がある。ムルティ大尉と同じ第八強襲空挺連隊の隊員だろうか?

 

「あれ? 見覚えあるな」

 

 一人だけ抜群に背の高い女性。緩くウェーブした亜麻色の髪に高校生のような童顔。

 

「ああ、ワイドボーン准将の妹か」

 

 前に見た時は中学校か士官候補生だろうと思っていたが、どうやら現役軍人のようだ。俺はどういうわけか背が高い女性と縁ができやすい。ダーシャにしたって俺よりほんの少しだけ背が高いのだ。もしかしてワイドボーン妹とも縁ができるんじゃないか。

 

 兄一人でも俺の手には余る。妹まで知り合いになったらますます面倒くさそうだ。知り合いにならないことを祈りつつ携帯端末を開く。

 

 待ち受け画像はダーシャの顔写真。毎日のように新しい写真が送られてくるから、日替わりで違う画像を使うこともできる。ちなみに二年前まではムルティの写真を待ち受け画像にしていた。

 

 前の世界で起きなかった海賊討伐作戦。六八年前に人生を狂わせ、八年前に再起のきっかけを作り、四年前に茶番劇を演じさせられた運命の地エル・ファシル。ほどけたかに思われた因縁が再び繋がろうとしていた。


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