銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第22話:政界情勢は複雑怪奇 宇宙暦794年7月上旬~8月初旬 憲兵司令部~フェザーン市

 七月上旬、ハイネセンポリス第二国防病院から退院した俺は、その足ですぐに憲兵司令部へと向かった。そして、副官のユリエ・ハラボフ宇宙軍大尉を呼び出して取り次ぎを依頼する。

 

 数日ぶりに会うハラボフ大尉は、ひと目でそれと分かる応対用の微笑みを浮かべていた。癖のないまっすぐな赤毛は、肩に掛かるか掛からないかの長さに切り揃えられている。顔の輪郭はきれいな卵型。乳白色の肌はつやつやしていて健康的。目はぱっちりとしていて可愛らしい。鼻筋はすっきりと通っている。クールな雰囲気の美人だが、笑顔も悪くないような気がする。

 

「司令官閣下よりお話は伺っております。こちらへどうぞ」

 

 耳触りの良い声からは何のわだかまりも感じられない。これならちゃんと話せるかもしれないと思った。

 

「ハラボフ大尉、先日は……」

「こちらへどうぞ」

 

 謝罪の言葉は柔らかい壁に阻まれた。ハラボフ大尉はくるりと振り向いて早足で歩き出す。俺は後ろからついていく。

 

 苦手な相手と言葉をかわさずに歩くには、憲兵司令部の廊下はあまりにも長すぎた。どんどん後ろ向きな考えが頭の中に浮かんでくる。細くてしなやかなハラボフ大尉の後ろ姿が拒絶の意を示しているように見える。一ミリの無駄もない足取りからは、俺と歩く時間を少しでも縮めたいという意思を感じ取ってしまう。

 

 来客用待合室の中に入ってソファーに腰掛けた。テーブルの上には、マフィンが二個乗った皿、砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーが入ったカップが置かれていた。

 

「もうすぐ会議が終わりますので、一〇分ほどお待ちください。コーヒーのおかわりを希望される場合は、フェーリン軍曹が承ります」

「ありがとう。ところでお見舞いに来てくれた時の……」

「こちらからはお話することはありません」

 

 ハラボフ大尉は俺の言葉を遮ると、早足で部屋を出て行った。謝罪は受け付けないということだろうか? 気分が沈んでいく。

 

 糖分を補給するためにコーヒーを飲んだ。ちょうどいい甘さ加減だ。しかし、まだ糖分が足りない。ハラボフ大尉から渡されたボタンを押す。

 

 一分も経たないうちに長身のおっとりした美人が入ってきた。副官付のアルネ・フェーリン軍曹だ。フィン・マックール補給科から付いてきた彼女は、ハラボフ大尉よりもドーソン司令官の信頼が厚く、曹長昇進と幹部候補生養成所への入所が内定している。

 

「フェーリン軍曹、久しぶり。元気だったか?」

「まあまあです」

 

 彼女は「元気か?」と聞かれると、いつも「まあまあ」としか答えない。本当の答えは言葉ではなく表情に現れる。

 

「そうか、最近は仕事が大変なんだな」

「ええ」

「ハラボフ大尉とうまくいってないのか?」

「そんなところです」

「正直に言ってほしい。彼女はどうだ?」

「頑張ってはいらっしゃいますが……。空回りしてますね」

「空回り?」

「ハラボフ大尉は着任の挨拶で、『フィリップス少佐を尊敬している。少しでも近づけるよう頑張りたい』っておっしゃってたんです」

「俺を尊敬?」

「そりゃあ、副官の仕事をする人なら、誰だってあなたを尊敬します。ドーソン提督の両腕と言われる方ですから」

「そうか……」

 

 軽くため息をつき、マフィンを口に放り込んだ。ハラボフ大尉が俺を高く評価しているというベッカー少佐の洞察は正しかった。

 

「あの方はご覧のとおり、雰囲気があなたと良く似てらっしゃるでしょう? ですから、私達も期待したんですよ。しかし、あの方にはあなたのような緩さが無かった。張り切りすぎて失敗したんです」

「なんともやりきれないな」

 

 まるで俺がハラボフ大尉を追い詰めたようなものではないか。みんなが彼女と俺を重ねてしまった。そして、彼女も俺を意識しすぎた。そんな時に「雑な仕事したせいで苦労させてすまない」などと言われたら、傷つくのも当然だ。

 

「ハラボフ大尉を更迭するって話も出ています」

「だめだ、それはだめだ!」

 

 思わず大声をあげてしまった。ここで更迭されたら立ち直れなくなるではないか。

 

「しかし、これでは仕事にならないですよ」

「ハラボフ大尉はどういう人だと思う? 俺との比較じゃなく、一人の人間としての評価を言ってほしい」

「いい人だと思います」

「彼女は真面目だと思うか?」

「心配になるくらい真面目ですね」

「彼女に生意気なところはあるか?」

「まったくありません。むしろこんなに素直で大丈夫なのかと感じます」

「仕事はできるか?」

「あなたと良く似ています。口下手で頭の回転も遅いですが、丁寧な仕事をなさいます」

 

 フェーリン軍曹がハラボフ大尉に下した評価は、クールでプライドの高いエリートという俺の評価と正反対だった。

 

「それなら問題はない。ドーソン提督に必要なのは、切れる副官ではなくて忠実な副官だ。要するにハラボフ大尉のような副官だよ。長い目で見てやってくれないか」

「わかりました」

「これは彼女には言わないでくれ。言ったら傷つくから」

 

 俺の言葉にフェーリン軍曹が頷いたところで、ハラボフ大尉がやってきた。

 

「会議が終わりました。司令官室までお越しください」

「わかった。ありがとう」

 

 ソファーから立ち上がって、ハラボフ大尉の後についていった。さっきと違って後ろ姿が弱々しく見える。これは彼女ではなく俺の問題であろう。

 

 五か月ぶりの憲兵司令官室は実に良く整頓されていた。物の配置も良く考えられている。ハラボフ大尉は良く頑張っていたのだ。

 

「貴官が退院してくるのをずっと待っていたのだぞ」

 

 ドーソン司令官が俺のもとに駆け寄ってきた。デスクの横に貼ってあるカレンダーの日付にはバツ印が付けられ、今日の日付だけ二重丸で囲まれて、「退院」の文字が記されている。胸の奥から暖かいものが込み上げてくる。

 

「お待たせして申し訳ありませんでした」

 

 背筋を伸ばして敬礼をした。ドーソン司令官は目を細めて微笑む。

 

「怪我は完全に治ったか?」

「はい。後遺症も残らずに済みそうです」

「そうか、それは良かった」

「実はお話が……」

 

 ドーソン司令官の機嫌が良くなったところを見計らい、ハラボフ大尉のことを話した。フェーリン軍曹に話したのとほぼ同じ内容だ。

 

「――というわけで、もう少し長い目で見ていただけませんでしょうか?」

「うーむ……」

 

 ドーソン司令官は口ひげを触りながら唸る。

 

「閣下に長い目で見ていただいたおかげで、今日の小官があります。同様の御配慮を彼女にも頂ければ幸いです」

「貴官がそれほどに言うのなら考えておこう」

「ありがとうございます」

 

 上体を直角に折り曲げて感謝した。ハラボフ大尉のためならば、どれほど頭を下げようとも下げ過ぎということはない。

 

「頭を上げろ。そんなに下げなくても、貴官の気持ちは十分伝わった」

 

 ドーソン司令官は困ったように言った。俺はゆっくりと頭を上げる。

 

「本題に入ろうか。まずは我が国と帝国の憲兵隊の合同捜査の結果を伝える」

「もう結果が出たのですか? 思ったより早いですね」

「捜査は打ち切りになった。最高評議会の決定だ。被拘束者は全員無条件で釈放。麻薬密輸への関与が明らかな者に対する処分も行われない」

「いったいどういうことですか!?」

 

 上官の前ということも忘れて声を荒げた。

 

「まずはこれを読め」

 

 俺はドーソン司令官から渡された捜査資料に目を通した。そこにはこれまでの捜査で明らかになったサイオキシンマフィアの内部情報が記されていた。

 

 今から四〇年ほど前。同盟軍の高級幕僚Aがサイオキシンを戦利品として入手したのがすべての始まりだった。サイオキシンが儲かる商品だと見抜いたAは、帝国の麻薬組織と組んでイゼルローン回廊経由の密輸ルートを開拓した。そして、同僚や部下を取り込み、麻薬取締作戦の指揮官となって対立組織を公然と潰し、ほんの数年で麻薬王にのし上がった。

 

 軍務でもAの手腕は遺憾なく発揮された。数々の偉功を立てて累進し、七三〇年マフィア世代が引退した後は同盟軍を背負って立つ存在となり、首都防衛軍司令官、特殊作戦総軍司令官、国防委員会情報部長などを歴任した。彼の配下も軍部の要職を占めた。サイオキシンマフィアは表と裏で権力を握ったのだ。

 

 正義感から、あるいは野心からマフィアを摘発しようとする者は少なくなかった。だが、マフィア独特の組織構造が捜査を難しいものとした。そして、表と裏の両方から妨害の手が伸びてくる。捜査関係者の暗殺も一度や二度ではない。マフィアは一度も摘発されることなく巨利を貪った。

 

 Aが宇宙軍大将の階級で退役すると、帝国側資料で「グロース・ママ」と呼ばれる兵站部門のエリートが最高指導者に就任した。兵站部隊に顔の利くグロース・ママは、軍の兵站組織を麻薬流通に使うことを思いつき、時間を掛けて中央兵站総軍を取り込んでいった。その結果、組織はさらなる発展を遂げたのである。

 

「しかし、A提督とドワイヤン少将がマフィアのボスだったなんて、想像もつきませんでした」

 

 Aは七六七年六月危機(ジューン・クライシス)、ケリム暴動など数々の国難を救った功績、共和制に対する絶対的な忠誠心、元帥号を辞退するなどの清廉な人格から「共和国の盾」と敬愛された名将。グロース・ママこと中央兵站総軍参謀長デジレ・ドワイヤン少将は人の良さそうなおばさん。彼らがマフィアのボスだなんて想像もできなかった。

 

「貴官の目でも悪党に見えるような人物なら、ボスにはなれなかっただろうな」

 

 ドーソン司令官は嫌みたっぷりに突っ込む。悪気があるわけではない。単に他人の間違いを指摘するのが好きなだけだ。そして、指摘自体はいつも正しい。

 

「確かに小官を騙せないようではボスなんて無理です」

「しかし、さすがの悪党もこの私は欺けなかった。遭遇戦さえなければこの手で取り調べてやれたのだかな」

「残念です。まさか、絶対安全圏に敵の一個艦隊が出現するなんて思いもよりませんでした」

「帝国軍のミュッケンベルガーはリスクを避ける男だ。それがなんであんな博打を打ったのか。こちらの情報が漏れていたのかもしれん」

「主戦場の混乱、常識はずれの奇襲、通信の遅れ、予想外の遭遇戦。流れはすべてドワイヤンに味方していました。何とも運の強い奴です。ロペスのおかしな指揮も帝国軍にわざと捕まるためだったのでしょう」

 

 俺は軽くため息をついた。中央兵站総軍副司令官のロペス少将もドワイヤンの一味だった。

 

「せめて、総司令部からの連絡がもう少し早ければ、どうにかなったのだがな。二日前から敵の移動を察知していたのに、『通信波で所在が敵に知られる危険があった』などと言って、警告すら出さなかったそうではないか。どうしようもない怠慢だ。ロボス提督は部下に甘過ぎる。だからこんなことになるのだ」

 

 苦々しげにドーソン司令官が吐き捨てる。

 

「通信システムのトラブルのせいで、連絡が遅れたとばかり思っていました。本当はただの手抜きだったんですね」

 

 奥歯をぐっと噛み締めた。総司令部の手抜きがあの戦いを引き起こし、多くの部下が死に、俺も死にかけた。寛容な気持ちには到底なれない。

 

「セレブレッゼもセレブレッゼだ。三〇年以上の付き合いなのに何を見ていたのだろうな。親友が麻薬の売人に成り下がったのに気づかないとは。節穴もいいところだ」

「セレブレッゼ司令官はマフィアとは関係なかったんですか?」

「無関係だ。中央兵站総軍の将官のうち、マフィアの関係者はドワイヤン、ロペス、メレミャーニン、ハリーリーの四名だけだ」

「戦闘中に行方不明になった四人だけですか」

「佐官級や尉官級の者のうち、マフィアのメンバーだと判明した者もすべて四=二基地の戦闘で行方不明になった。その他の者は無関係だ」

「さすがにこれはがっくりきますね。何のために四=二基地にいたのか……」

 

 心の底から落胆した。あれだけ苦労したのにマフィアを一人も捕らえられなかった。残ったのは犠牲者だけ。何ともやるせない結末だ。

 

「これが続きだ。捜査が中断されるまでのいきさつが記されている」

 

 ドーソン司令官から捜査資料とはファイルを手渡された。そこに記されていた事実はさらに落ち込むものだった。

 

 憲兵隊の捜査が進むにつれて、サイオキシンマフィアの恐るべき全貌が明らかになってきた。その勢力は同盟軍全体に及び、現役将官だけでも五〇名以上が参加している。なんと全将官の一パーセント近くがマフィアなのだ。地上軍水上部隊総監ホルバイン大将、国防委員会経理部長フー中将のような軍首脳まで含まれていた。

 

 政界にもマフィアの手は伸びていた。前代ボスのA退役大将は軍服を脱いだ後もフェザーン駐在高等弁務官、最高評議会議長補佐官、中央情報局長官などの要職を歴任し、現在は保守政界のフィクサーに収まっている。最高幹部のジャーディス退役中将は上院予算委員長、カロキ退役少将はライガール星系首相となり、政界で重きをなす。その他にも国会議員や地方首長となった元幹部は少なくない。莫大な資金が政界に流れている形跡もあった。

 

 ドーソン司令官から報告を受けたカルボ国防委員長は震え上がった。これが明るみに出れば、与党の有力政治家を軒並み失脚させた六八六年のニューマン事件、現職の最高評議会議長を議員辞職に追い込んだ七五〇年のラインマイヤー事件に匹敵する巨大スキャンダルだ。革命を求める空気が醸成されつつある時に連立政権が倒れたらどうなることか。

 

 ドーソン司令官とそのバックにいるトリューニヒト前NPC政審会長は、政界ルートの捜査を求めた。しかし、カルボ国防委員長は事の重大さを鑑みて最高評議会の判断を仰いだ。非公開閣議の結果、捜査は完全に打ち切り、容疑者は全員無条件釈放、捜査資料はすべて八〇年間の公開禁止と決まった。

 

 これでマフィアを公然と処分する道は絶たれた。最高評議会がA退役大将とジャーディス議員を通してマフィアと交渉した結果、幹部は無罪放免と引き換えに軍を退き、活動拠点となった部隊は改編の名目で人員を総入れ替えされ、組織は解体されたのであった。

 

「幹部達は公的には予備役編入の扱いになるんですか?」

「そうだな」

「退職金も年金も全額出るんですか?」

「もちろんだ」

「希望すれば、国防委員会の人事部から再就職の斡旋も受けられるんですよね?」

「勧奨退職者だからな」

 

 ドーソン司令官が答えるたびに希望が打ち砕かれていく。

 

「彼らが失ったものは軍でのキャリアだけですか? 既に退役した幹部は何も失っていないんですか?」

「そういうことになる」

「納得できないですよ」

 

 唇をぐっと噛み締める。彼らは軍隊を麻薬漬けにした。組織を守るために暗殺までやった。麻薬取引を続けられなくなったくらいで罪を償えるものか。

 

「痛手ではない」

 

 ドーソン司令官の口ひげがこれまで見たこともないほどに逆立っている。

 

「どういうことですか?」

「本来ならば、麻薬取引で得た金は無条件で没収される。だが、麻薬取引自体が無かったことになれば、出所を追及されることもない。脱税捜査も一切無しだ。存在しないはずの麻薬取引に行き着かれては困るからな」

「そ、それって……」

「サイオキシンマフィアの金は表に出せる金になった。組織が解体されたとしても痛くも痒くもない。きれいになった金を合法的な事業に投資すれば、安全に儲けられるのだからな」

「…………」

 

 もはや言葉が出なかった。最悪という言葉すら生ぬるいほどに悪い。政府がマネーロンダリングに協力したようなものではないか。

 

「トリューニヒト先生は、きれいになった金の一部をNPCと進歩党に献金するという条件で取引したのだろうと推測なさっていた。もはや、それを裏付けることもできんが」

「十分にありえるとは思います」

 

 最高評議会が一方的にマフィアに譲歩するとも思いにくい。ある程度の見返りを提示されたと推測するのが自然だろう。

 

「過ぎたことはいい。考えるべきはこれからのことだ」

 

 ドーソン司令官は言葉を切り、大きく息を吐いた。それはまるで息とともに怒りを吐き出そうとしているかのようだ。

 

「貴官には今回の件の事件の幕引きをしてもらう。フェザーンに飛んでもらいたい」

 

 最高評議会の次は中立国フェザーン。ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ミューゼルといった戦記の英雄が全く登場しない戦いは、途方も無い規模にまで膨らんだ。

 

 それにしても、政治とは本当にとんでもない世界だ。政治抗争では常勝というイメージのトリューニヒト先生が犯罪者に負けるのだから。フレデリカ・グリーンヒル・ヤン、ダスティ・アッテンボローと言った超一流の軍人がバーラト自治政府で失敗したのも無理は無いと思えてくる。有能だから成功するとか、理念が正しいから支持されるとか、そういう次元ではない。できれば無縁でいたいと思った。

 

 

 

 同盟領のあるサジタリウス腕と帝国領のあるオリオン腕の間には、「サルガッソー・スペース」と呼ばれる広大な危険宙域が広がっている。イゼルローン回廊とフェザーン回廊という二つの細長い安全宙域のみが二大国を結ぶ航路だ。前の世界では、ローエングラム朝が人類世界を統一した後に銀河連邦時代の航路が再発見されているが、現時点ではこの二回廊を除く航路は存在しない。

 

 フェザーン回廊を統治するフェザーン自治領は、公式には銀河帝国の自治領という扱いだ。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『獅子戦争記』などの戦記には、フェザーン以外の自治領が登場しないが、実は帝国領にある有人惑星の四割が自治領である。戦記では明記されていないものの、地球も自治領の一つだ。自治といえば聞こえは良い。だが、その実質は人種隔離政策の美名にすぎなかった。

 

 帝国の国民を身分別に分類すると、特権を持つ貴族階級、財産権など一定の権利を認められた平民階級、一切の権利を持たない奴隷階級の三つに分けられる。各身分の中でもそれぞれに違いがあった。貴族階級を例にあげると、爵位と所領を持つ上流貴族と貴族身分だけを持つ下級貴族では大きな違いがある。そして、平民階級には、優等人種と劣等人種の違いがあった。

 

 多様な価値観の存在を嫌う帝国初代皇帝ルドルフは、社会全体を均質化する大義名分として、西暦時代に滅び去った優生思想を引っ張りだした。

 

 ゲルマン人種こそが至上の血統だと、ルドルフは主張した。そして、ゲルマン系の特徴を持つコーカソイドを優等人種に位置づけた。優等人種はゲルマン系の姓名、公務員や軍人になる権利などを与えられた。貴族の称号も優等人種のみに授与された。ゲルマン系の優越性を示すために、北欧神話の神々を崇拝する「大神教」という宗教をでっち上げて国教とした。

 

 モンゴロイド、ネグロイド、ゲルマン系の特徴を持たないコーカソイドなどは、劣等人種と呼ばれた。彼らは優等人種との結婚及び性交渉、優等人種居住地域への移住、帝国政府への仕官、帝国軍への勤務などを制限された。そして、自治領と名付けられた不毛の惑星へと押し込められた。乏しい資源、過酷な自然環境、高い人口密度、貧弱なインフラ、低い出生率が一般的な自治領である。こんな惑星で自活できるわけもない。多くの自治領民が、皇帝領や貴族領への出稼ぎ労働で得たわずかな給金で食いつないだ。財産権と生命権が保証されている分だけ奴隷よりましといった程度の境遇だ。

 

 もちろん、こんな境遇に自治領民が甘んじるはずもない。ルドルフ、ジギスムント一世の時代に反乱した共和主義者のほとんどが自治領民だった。その後も自治領民はしばしば反乱した。ダゴン星域会戦からマクシミリアン・ヨーゼフ帝が即位するまでの混乱期には、自治領民の四割が帝国領内に侵入してきた同盟軍の誘いに乗って亡命したと言われる。

 

 こう言った事情から、軍人や政治家中心の戦記物には、ゲルマン系以外の帝国人が登場しないのである。常識中の常識なのでいちいち書いていないものの、ゴールデンバウム朝が滅んだ後に旧同盟領で生まれた者の中には、帝国にゲルマン系以外の人種がいなかったと思い込む者もいた。

 

 徹底的な冷遇を受けた自治領の中で、フェザーン自治領だけは例外だった。帝国政府や帝国軍に勤務できないことを除けば、領民は優等人種とほぼ対等の権利を持つ。フェザーン自治領主は公爵と同等の宮廷序列、準閣僚級の「帝国通商代表」という肩書きを与えられる。この特別待遇はフェザーンの持つ経済力によるものだった。

 

 宇宙暦七世紀半ば、地球自治領主府の御用商人として財を成したロマン・アクショネンコは、帝国政府に莫大な献金を行って「名誉優等人種」の資格を獲得し、レオポルド・ラープというドイツ名を名乗った。そして、資金と才覚さえあれば平民でも貴族と勝負できる金融業に乗り出し、大成功を収めた。

 

 当時の皇帝コルネリアス一世は、大親征の失敗で傾いた国家財政の再建に取り組んでいた。当初は貴族出身の財務官僚や特権企業家に起用したものの、思うような成果が出ない。そこで平民出身の金融業者八名を顧問に迎えた。その中の一人に帝国屈指の金融業者となったラープがいた。

 

 コルネリアス一世の諮問に対し、ラープはフェザーン回廊を中立貿易宙域にして自由惑星同盟と交易するという案を出した。一〇〇億を超える人口を有する同盟は魅力的な市場だ。フェザーン回廊に兵を置く必要も無くなる。経済活性化と国防費軽減を両立できるというわけだ。

 

 二年に及ぶ協議の結果、帝国政府はラープの案を採用した。フェザーン自治領主の肩書きを与えられたラープが同盟政府との交渉にあたり、フェザーン自治領と同盟の間に通商協定を締結した。

 

 ラープは自治領の経営にも取り組んだ。あらゆる規制を取り払い、所得税や法人税を銀河最低の基準に設定し、自由な経済活動を保証した。また、「フェザーンを自治領民の受け皿にして亡命を防ごう」と帝国政府に持ちかけて、数億人の自治領民を移住させた。

 

 二大国を結ぶ唯一の交易路。自由主義的な経済政策。豊富な労働力。誰の目から見てもフェザーンは魅力的だった。全宇宙から企業、資本、移民が殺到し、不毛なフェザーン第二惑星はあっという間に全銀河の経済の中心地にのし上がったのである。

 

 現在のフェザーンは帝国の自治領という名目だが、入朝や貢納の義務を免除されており、事実上の独立国として振舞っている。同盟が有利になったら帝国を助け、帝国が有利になったら同盟を助け、半世紀にわたって「帝国四八、同盟四〇、フェザーン一二」の勢力比を維持しつつ、二大国の間で経済的利益を独占してきた。現在の銀河でフェザーンとは、豊かさ、チャンス、自由、功利主義の代名詞だ。

 

 ここまでが俺の手元にある銀河史シリーズ三八巻の『フェザーン史』に記された公式の歴史。前の世界ではその裏側も多少明らかになった。

 

 ラープの資金は地球教団から出ていた。ラープを支えた側近や秘書はみんな地球教団から派遣された人材だった。フェザーン設立計画は地球教団教化局が立案した。つまり地球教団がフェザーンの真の設立者だったのだ。歴代のフェザーン自治領主もみんな地球教団の影響下にあった。勢力均衡政策も帝国と同盟を共倒れさせようとする地球教団の意向だったそうだ。

 

 もっとも、フェザーンと地球教団が完全に一枚岩だったわけでもない。四代自治領主ワレンコフは勢力均衡政策を放棄しようとして暗殺された。フェザーンが地球教の宣教に協力している様子もなかった。反ラインハルト闘争でもフェザーン残党と地球教団の連携は少なかった。

 

 表の歴史、裏の歴史を頭の中で整理し終えた時、宇宙船のハッチが開いた。全宇宙で唯一の軌道エレベーターに乗り移り、憲兵隊が用意した偽名の旅券で入国手続きを終えた後、地上へと降下する。

 

「やあ、直接会うのは久しぶりだな」

 

 フェザーン駐在武官ナイジェル・ベイ宇宙軍中佐が出迎えてくれた。地味なポロシャツに地味なスラックス。いかにも「休日のお父さん」といった感じだ。

 

「お久しぶりです」

 

 恥ずかしさで声が震えた。

 

 上半身はオレンジの半袖パーカー、下半身はふくらはぎの真ん中辺りまでの長さのパンツを履いている。足にはサンダルと靴の中間のような履物。頭にはもこっとした帽子。髪はプラチナブロンドに染められている。目には青いカラーコンタクト。いくら変装といっても、さすがにふわふわしすぎている。まるで軟弱な学生ではないか。

 

 変装としては成功している。これは極秘の任務だ。普段の自分と印象がかけ離れているに越したことはない。それでも嫌なものは嫌だ。

 

「なかなか似合ってるぞ」

 

 俺の気持ちも知らず、ベイ中佐は呑気に笑う。

 

「ありがとうございます」

 

 曖昧な笑顔を作りつつ、この変装を用意したハラボフ大尉を呪った。

 

 俺とベイ中佐は、リニアに乗ってフェザーン市へと向かった。中央駅で降りてフェザーン中心街に出る。平日の昼間というのにとんでもない人通りだ。ハイネセンポリスの中心街も人が多くて苦手だが、この街はそれよりひどい。

 

「ナイジェルおじさん! ナイジェルおじさん!」

 

 人の海の中でベイ中佐の姿を探し求める。俺はベイ中佐の従兄弟の息子「イアン・ホールデン」という設定でフェザーンに入国した。だからナイジェルおじさんと呼ぶ。

 

「イアンか! 私はここだ!」

 

 ベイ中佐の声が左後方から聞こえた。人の激流を必死でかきわける。戦斧を持ってくれば良かったとか物騒なことを考えながら、なんとかベイ中佐のもとに辿り着いた。

 

「どうもすいません」

 

 息を切らせながら謝った。ベイ中佐は苦笑する。

 

「別に構わんよ。慣れてないうちはみんな流される。私は初日で三度流された」

「俺も三度目です。自分だけではないと知って安心しました」

「いや、さすがに到着から二時間で三度も流されたりはしなかったが……」

 

 聞かなかったことにした。

 

「それにしても凄い人通りですね……。見ているだけで疲れそうです」

「この街は宇宙で一番賑やかな街だからなあ」

「人が多すぎるのも困りますよ」

「しかし、人混みに紛れられるのはいいぞ。誰も他人のことなんか見ちゃいない。私みたいな格好はハイネセンポリスの中心街だと野暮すぎるが、ここではそんなに気にならん」

「なるほど、それはいいですね」

 

 心の底から同意した。確かにこの人混みなら他人の格好なんてどうでも良くなりそうだ。この格好があまり人に見られずに済むのは有難い。

 

 それにしても、この街の人も俺に負けず劣らず変な服装をしている。とんでもない色彩の服、遠い過去からタイムスリップしてきたような服、デザインが奇抜すぎて服としての機能を果たせなさそうな服、未来に知己を求めた方が良さそうな服など、本当に変な服装ばかりだった。

 

「自分が何をするのも自由。他人が何をするのも自由。それがフェザーンの自由なのさ。まあ、私はこういうのは好かんがね。暖かみってもんがない。そう思わんか?」

 

 ベイ中佐は非独創的な感想を述べた。

 

「まあ、そうですね」

 

 俺も非独創的な答えを返す。娘に説教して反発されたことをまだ引きずっているんですかとか、そんなことは口が裂けても言わない。

 

 人混みを抜けてようやくバス停の前にたどり着いた。それから間もなくバスが近づいてきた。時刻表を見るとピッタリの時間だ。バスが時間通りに到着するなんてことがあるのか。時間に正確と言われるハイネセンポリスの市バスだって、三分前後のずれがあるのに。

 

「ナイジェルおじさん、凄いですね」

「何が?」

「だって、時刻表通りにバスが来るんですよ」

「フェザーンではそれが当たり前だぞ」

「バスが時刻表通りに到着するなんて、ネットのジョークネタだと思っていました」

「フェザーンのネットでは、時刻表通りに到着しない同盟のバスがジョークネタ扱いだよ」

「なるほど、フェザーンが凄いんじゃなくて、同盟がおかしいという見方もあるんですね」

「外国は何から何まで常識が違う。明日は気を付けるんだぞ」

「はい」

 

 国が違えば常識も違う。当たり前だが、だからこそ忘れてはならないことだ。明日は帝国の使者との面会。常識の違いを肝に銘じなければならない。そう思いながらバスに乗り込んだ。




銀河帝国にはなぜドイツ系しか登場しないのか? 非ドイツ系の帝国人はどこにいるのか? 無理やりこじつけてみました。原作者の田中芳樹先生は何も設定していないそうですが。

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