銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第15話:表の戦い、裏の戦い 宇宙暦793年9月~794年2月

 今日の憲兵司令官クレメンス・ドーソン少将はどこかおかしい。いつもは一言一句も聞き漏らすまいと言った表情で報告を聞いているのに、今日はどこか上の空だ。聞いているのか聞いていないのかわからない。彼が落ち着きが無いのはいつものことだが、様子が明らかに違う。

 

 今日はそれほど重要な案件は無いはずだ。何を気にしているのか。怪訝に思っていると、ドーソン司令官が口を開いた。

 

「フィリップス大尉、これを見ろ」

 

 ドーソン司令官が俺に差し出したのは、数日前にトリューニヒト政審会長が「今度のパーティー会場だ」と言って手渡した封筒だ。ペーパーナイフで開封された跡があるが、ビニールテープで綺麗に封印し直されている。彼が一度開封した封筒の中身を人に見せる時は必ずこうするのだ。

 

「かしこまりました」

 

 よほど重要なパーティーなのか。そんなことを考えながら封筒を受け取り、テープをゆっくりと剥がし、中に入っているメモを取り出した。

 

「これは……」

 

 驚きで息が止まりそうになった。それは途方も無い内容だった。自由惑星同盟・銀河帝国両国の憲兵隊の合同捜査。目的は両軍内部に組織されたサイオキシン麻薬組織の摘発。いずれも俺の想像力をはるかに超えていた。

 

 合成麻薬サイオキシンは、人類の科学が作り出した最低最悪の成果である。摂取すると気分が高揚し、強い幸福感とともに疲れが吹き飛んでいくが、切れた途端に悪寒・吐き気・咳などの症状が絶望感とともに襲ってくる。常習者を襲う禁断症状は凄まじく、体がバラバラになるような激痛、強烈な被害妄想、現実よりも現実味のある幻覚に苦しめられる。免疫力が著しく低下して、常習者の七九パーセントは一〇年以内に死に至る。

 

 フェザーン麻薬取締局の報告によると、サイオキシン市場の規模は九兆五〇〇〇億ディナールと推定される。経済的に停滞している現在の銀河では、田舎の農薬工場程度の設備でも量産できるサイオキシンは最も利益を生む商品と言われ、犯罪組織に巨額の金を落とし、多くの人間を地獄に突き落とした。

 

 前の世界の俺は、サイオキシンの常習者だった。同盟が滅亡した宇宙暦八〇〇年頃に孤独と不安から麻薬に手を出すようになり、より強い効能のある薬を求めるうちに、サイオキシンに辿り着いた。

 

 薬が効いている間は、自分がこの世で最も幸せな存在のように思えた。摂取しながら売春婦とセックスすると、失神しそうになるほどの快感を味わうことができた。使用するにつれて禁断症状が酷くなり、数時間おきに摂取しなければならなくなった。

 

 サイオキシンを得るためには、犯罪を犯すことだって、人に媚びへつらうことだって、何とも思わなかった。理性も尊厳も投げ捨てて、サイオキシンに溺れたのだ。

 

 地球教団が信徒にサイオキシンを投与しているという噂を聞いて、「何でもするから、サイオキシンをくれ」と土下座して頼んで、主祭に叱られたこともあった。今になって思えば、地球教団が本当にサイオキシンを投与していたら、サイオキシン欲しさの入信希望者が殺到し、信徒の数は数十倍になっていただろう。当時のハイネセンの人心はそれほどに荒れていた。とにもかくにも、そんなデマを信じるほど、俺の中毒は酷かった。

 

 最終的に麻薬更生施設に収容されて、サイオキシン中毒を克服したものの、心身の活力が著しく失われ、三〇年も老けたようになった。

 

 エル・ファシルで逃げて不名誉除隊を受けた件については、自分の責任ではないと言い張ることもできる。しかし、サイオキシンは弁解のしようもない汚点だった。

 

「冷静沈着な貴官でも、さすがに平静ではいられないか」

 

 ドーソン司令官の声が俺を前の世界から今の世界へと引き戻す。

 

「はい……」

「無理もあるまい。市民の手本となるべき軍人が敵と結託して麻薬を密輸しているなど、まともな人間には想像もできるはずもないからな」

 

 俺が動揺している理由をドーソン司令官は勘違いしていた。もっとも、俺が二度目の人生を生きていること、一度目の人生でサイオキシン常習者だったことなど、誰にも知るよしも無いのだが。

 

「フィリップス大尉、どうした? 顔色が悪いぞ?」

 

 ドーソン司令官は今の世界の肩書きで俺を呼んだ。そうだ、今の俺は自由惑星同盟軍の大尉だ。過去の経歴には一点の曇りもない。サイオキシンと俺を繋ぐ糸は、この世界には存在しない。気を取り直さなければ。

 

「申し訳ありません。小官のような者には、衝撃が大きすぎたようです」

「ならば、これからもっと衝撃を受けることになる」

 

 自分では重々しいと信じる口調でドーソン司令官は言った。

 

「サイオキシンは帝国領内の工場で生産され、イゼルローン回廊とフェザーン回廊を通って、我が国に流れてくる。フェザーン回廊では、毎日のようにサイオキシンの運び屋が摘発されている。だが、イゼルローン回廊では一度も運び屋が摘発されなかった。国際交易路のフェザーン回廊と違って、人や物の往来が無いから当然と言えば当然だ。イゼルローンルートの密輸手段は謎と言われてきたが、帝国憲兵隊から提供された情報によって明らかになった」

「その手段が軍隊なのですか?」

「そうだ。帝国側の組織はサイオキシンを用意し、同盟側の組織と示し合わせて、息のかかった部隊を接触させ、戦うふりをして受け渡しをする。サイオキシンを積んだ軍艦や車両を鹵獲させることもあれば、サイオキシンが集積された陣地を占領させることもある。同盟側の組織は手に入れたサイオキシンを正規の軍事物資に偽装し、軍の兵站組織を使って後方の集積拠点へと運ぶ。集積拠点も軍の基地だ」

「とんでもないですね……」

 

 我ながら凡庸な感想だと思ったが、他にちょうどいい表現が見つからなかった。部隊を動かせる者、鹵獲品の管理権限を持つ者、兵站組織を動かせる者、膨大なサイオキシンを隠匿できる権力のある者など、大勢の高級軍人が関わらなければ成り立たないやり口だ。

 

「イゼルローンルートから入ってきたサイオキシンのほとんどは、軍隊の中で消費される。要するに奴らは軍隊を使って運んだ麻薬を軍隊の中で売りさばいているのだ」

「本当に酷い話です」

 

 怒りで拳を強く握り締めた。同盟軍のサイオキシン汚染は深刻だ。麻薬を取り締まるべき憲兵司令部の中にも、サイオキシンの常習者がいた。それに高級軍人が荷担しているなど、言語道断と言わざるを得ない。

 

 軍隊という組織には、ただでさえ麻薬が流行しやすい下地がある。軍人の感じるストレスと言われたら、多くの人は戦闘のストレスを思い浮かべるだろう。しかし、通常勤務のストレスの方がずっと大きい。軍隊特有の濃密な人間関係もストレスの元だ。それらを解消するために、多くの軍人が麻薬に手を出す。

 

 サイオキシン常習者の末路は悲惨だ。持っている金をすべてサイオキシンに注ぎ込み、財産が無くなったら借金や犯罪で購入費を調達し、周囲の人間に盛大な迷惑をかけ、体も心も破壊されて、やがて社会的にも肉体的にも精神的にも破滅する。

 

 前の世界の貧民街で出会った常習者を思い浮かべた。骸骨のように痩せ細った者、被害妄想に囚われた者、幻覚に苦しめられる者、薬の購入代金欲しさに犯罪に走る者などは、掃いて捨てるほどいた。収入を全てサイオキシンに費やして子供を餓死させた者、サイオキシンを使ったセックスに溺れて奇形児を生んだ者、禁断症状に苦しんで自ら命を絶った者、母親を殺して奪った金でサイオキシンを買った者もいた。俺も例の件がなければ、同じような末路を辿っていたに違いない。

 

 前の世界でのサイオキシン経験、そして今の世界での軍隊経験が教えてくれる。軍服を着た麻薬マフィアを許してはならないと。

 

「何が何でも検挙しましょう」

 

 俺は汚れた人間だ。正義漢ぶって怒る権利などないのかもしれない。しかし、かつて自分の経験した地獄を作り出そうとする連中を許す理由はなかった。

 

「昨日、サイオキシン中毒から更生した若者の体験談を読んだ。本当に悲惨だった。貴官の言うとおり、何が何でも検挙せねばならんな」

 

 ドーソン司令官の目に正義の炎が宿る。彼は狭量で白黒を付けたがるところがある。一般的には迷惑な性格だが、こんな時には心強く感じる。持ち前の知謀と行動力で、マフィアを徹底的に追い詰めてくれるに違いない。そう確信した。

 

 

 

 九月一二日、ドーソン司令官をリーダーとする秘密捜査チームが発足した。

 

 ジェラード・コリンズ地上軍中佐率いるA班、アドルフ・ミューエ宇宙軍中佐率いるB班、クォン・ミリ地上軍少佐率いるC班、ナタリア・ドレフスカヤ宇宙軍少佐率いるD班、リリー・レトガー宇宙軍大尉率いるD班の五グループが実働部隊となり、ダビド・イアシュヴィリ地上軍大佐率いる援護班が後方支援を担当する。ナイジェル・ベイ宇宙軍中佐は、駐在武官の肩書きでフェザーンに赴任し、帝国憲兵隊との連絡にあたる。信頼性最優先の人選だ。

 

 ドーソン司令官はもともと情報部門の出身で、隠密作戦の指揮はお手のものだ。粘着質で執念深い性質は、サイオキシンマフィアの隙を探るのに生かされた。上下のけじめにうるさい性質は、同盟麻薬取締局や同盟警察など協力機関の信頼を得るのに役立った。前の世界の戦記作家達が批判したドーソン司令官の欠点は、この任務では長所として作用した。

 

 副官の俺も忙しくなった。連絡班長に任命され、協力機関や秘密捜査チームの連絡調整を任された。軍上層部、マスコミなどに特別捜査チームの存在がばれないようにスケジュールを組むのは、とても骨の折れる仕事だ。

 

 捜査は極秘のうちに進められた。公然と動けないのがもどかしく感じる。もっと多くの人と予算を使って捜査できたらと思うこともあった。

 

 だが、サイオキシンマフィアだけに力を注げる状況でもない。共和制転覆を企む過激派将校の秘密結社「嘆きの会」が怪しげな動きを見せている。昨年のアルレスハイムの敗北がきっかけで、帝国軍情報総局が同盟軍内部に張り巡らせた大規模なスパイ網の存在が明らかになった。軍隊に浸透しつつある極右思想や反戦思想も脅威だ。

 

 様々な制約の中、秘密捜査チームはサイオキシンマフィアと戦った。末端の構成員はいくらでも出てくる。しかし、その先で糸が切れてしまい。なかなか中枢に辿りつけない。独特の組織構造が厚いベールとなっている。

 

 現在判明している情報によると、サイオキシンマフィアは無数のグループの集合体だった。帝国側組織との取引を担当するグループ、サイオキシンの輸送や保管を担当するグループ、密売を担当するグループなどに分かれ、第一層から第六層までの階層構造を形成している。各グループ間の横の繋がりは皆無に等しく、縦のつながりも極端に少ない。

 

 上からの指示は一階層上のグループを通して伝えられ、下層に指示する際も一階層下のグループにのみ伝える。他階層との連絡を担当する者は原則として顔を見せず、アルファベットと数字を組み合わせて作ったその場限りの偽名を名乗る。

 

 声紋分析のできない合成音声による口伝が主な連絡手段だ。文書を使う場合は、複製防止プロテクトが施され、暗号や隠語を使って部外者には判読できないようになった電子メールが使われる。

 

 構成員は自分のグループの情報しか持っておらず、グループリーダーも一階層上のグループから派遣された連絡係を通さなければ組織には接触できず、組織の全貌を知る者はほとんどいない。記録文書は一切取らず、組織内での金のやりとりは銀行口座を通さずに現金を使う。一部が摘発されても、全容がわからないような仕組みなのだ。

 

「奴らの組織作りは、情報機関がスパイ網を作る手口にそっくりだ。間違いなくプロが関わっている」

 

 情報活動に詳しいドーソン司令官はそう断言し、情報部門出身者に狙いを定めて捜査を進めていった。

 

「まずは状況証拠を固めるのだ」

 

 物証が得られない以上、丹念に状況証拠を固めていくしか無い。ドーソン司令官は、宇宙艦隊及び地上総軍の最近三年間の戦闘詳報を調査させた。サイオキシンの受け渡しをカモフラージュするために空の軍艦や車両を使うマフィアの手口から、捕獲した軍艦や車両が多いのに捕らえた敵兵が少ない部隊が怪しいと睨み、取引担当グループの割り出しにかかったのだ。

 

「中毒患者の周辺を調べろ。必ず密売人の痕跡が残っているはずだ。本人が売人という可能性もある」

 

 取引担当グループの割り出しと平行して、憲兵隊に摘発されたサイオキシン中毒患者の身辺調査も行い、売人の多い部隊を割り出した。

 

 捜査は順調に進んだ。パヴェル・ネドベド国防委員長は捜査に消極的だったものの、マルコ・ネグロポンティ政策担当国防副委員長、そしてその背後にいる与党第一党・国民平和会議(NPC)のヨブ・トリューニヒト政策審議会長が熱心だった。

 

 憲兵隊と警察は権限が重なる部分が多いため、何かと対立することが多いが、元警察官僚で軍部にも顔の利くトリューニヒト政審会長が間に立ってくれたおかげでうまくいった。帝国憲兵隊との提携交渉をまとめたのも、帝国政界に独自のパイプを持つ彼だ。

 

 サイオキシンマフィアと戦うトリューニヒト政審会長の姿は、前の世界の惰弱な姿、戦記に記された邪悪な姿とは、似ても似つかなかった。

 

 俺達が裏の世界でサイオキシンマフィアと戦っている間、表の世界では同盟軍と帝国軍の激戦が繰り広げられていた。

 

 エル・ファシルで大敗し、第五次イゼルローン攻防戦で敗北寸前まで追い込まれた帝国軍は、大きく威信を失墜させた。帝国軍与しやすしと見た共和主義者や不平貴族が各地で蜂起し、一説によると国土の三パーセントが一時的に反乱勢力の手に落ちたと言う。

 

 二月に反乱を鎮圧した後、帝国宰相ルートヴィヒ大公は、宇宙艦隊司令長官アルトゥール・フォン・ツァイス元帥に一大攻勢を命じた。今年の三月には五万隻の大艦隊がシャンダルーア星系へと殺到し、七月にはドラゴニア星系とパランティア星系にそれぞれ二万隻が侵攻したのだ。

 

 出兵がない時も小競り合いが毎日のように起きた。イゼルローン要塞から数百隻程度の小艦隊が出撃しては、国境宙域の同盟軍基地を襲撃した。両軍の地上軍及び宇宙軍陸戦隊は、イゼルローン回廊出口周辺の無人惑星を巡って地上戦を繰り広げた。

 

 一連の戦いを指揮したのは、宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス宇宙軍大将である。ライバルの宇宙艦隊司令長官シドニー・シトレ宇宙軍大将は、第五次イゼルローン攻防戦での善戦を高く評価されて宇宙軍元帥に昇進し、それからやや遅れて統合作戦本部長の地位を得た。そして、副司令長官のロボス大将がシトレ元帥の後任となったのだった。

 

 念願だった宇宙艦隊の指揮権を手に入れたロボス大将だったが、その前途は険しかった。昨年に国防予算が削減された結果、動員に費やせる予算が著しく減少し、一度に動かせる戦力が三個艦隊に限定されてしまったからだ。

 

 数で劣る戦いを強いられたロボス大将は、何度も敗北の危機に陥った。三月から四月にかけてのシャンダルーア戦役、七月から九月にかけてのドラゴニア=パランティア戦役における同盟軍の勝利は、すべて薄氷の上の勝利だった。特に三月二五日の第二次シャンダルーア星域会戦では、ウランフ少将の到着が二〇分遅れていたら、全軍が崩壊していたと言われる。

 

 一一月八日の第三次タンムーズ星域会戦において、ロボス大将率いる同盟軍三万九〇〇〇隻は、宇宙艦隊司令長官ツァイス元帥率いる帝国軍四万八〇〇〇隻を完膚なきまでに打ち破った。一年余りに及んだ帝国軍の大攻勢は失敗に終わり、同盟軍は国境地域における全般的な優勢を確保したのである。

 

 一二月の初めにハイネセンに帰還したロボス大将は、宇宙軍元帥に昇進し、名実ともに宇宙軍の頂点に上り詰めた。

 

 タンムーズ星域会戦の勝利に貢献した宇宙艦隊総参謀長ドワイト・グリーンヒル宇宙軍中将は、宇宙軍大将に昇進して統合作戦本部作戦担当次長を兼務した。同盟軍全体の最高指揮機関と宇宙軍の最高指揮機関のナンバーツーを同一人物が務めることになったのだ。

 

 宇宙艦隊でも大規模な昇格人事が行われた。七九〇年以前から正規艦隊司令官職にあった者は転出もしくは引退し、一連の戦いで活躍した者がその後任となった。

 

 宇宙艦隊副参謀長イアン・ホーウッドが第七艦隊司令官、第二独立機動分艦隊司令官ジェニファー・キャボットが第八艦隊司令官、第七艦隊副司令官ウランフが第九艦隊司令官、第三艦隊参謀長ジャミール・アル=サレムが第一〇艦隊司令官、第九艦隊副司令官ウラディミール・ボロディンが第一二艦隊司令官にそれぞれ起用された。

 

 シトレ派のウランフ中将とボロディン中将は、前の世界では『不屈の元帥アレクサンドル・ビュコック』『帝国領侵攻作戦――責任なき戦場』でお馴染みの名将だ。ヤン・ウェンリー及びアレクサンドル・ビュコックの二大名将と親しく、後々までその死を惜しまれた。

 

 ロボス派のホーウッド中将、キャボット中将、アル=サレム中将の三名は、ヤン・ウェンリーとの縁が薄かったのか、同盟側の戦記では名前を見かけない。どこかで登場していたのかもしれないが、俺の記憶にはなかった。その代わり、帝国側の戦記には登場する。ホーウッド中将はキルヒアイス大公、キャボット中将はラインハルト帝、アル=サレム中将はミッターマイヤー元帥に敗れた同盟軍の大物として、引き立て役を担っているのだ。

 

 既存の艦隊司令官のうち、第一艦隊司令官ネイサン・クブルスリー、第五艦隊司令官アレクサンドル・ビュコック、第一一艦隊司令官マッシモ・ファルツォーネはシトレ派に属する。そして、第二艦隊司令官ジェフリー・パエッタ、第三艦隊司令官シャルル・ルフェーブル、第四艦隊司令官ヨハネス・ヴィテルマンスはロボス派だった。二大元帥の派閥に属していない司令官は、中間派の第六艦隊司令官ジルベール・シャフランのみ。宇宙艦隊は二大元帥に二分されたのだ。

 

 軍中央機関の人事も一新された。六〇歳前後の長老が引退し、シトレ元帥やロボス元帥に連なる少壮の将官が登用された。

 

 地上軍陸上部隊総監ケネス・ペインが地上軍総監、第七艦隊司令官グスタフ・フェルディーンが技術科学本部長、国防委員会防衛部長サミー・オリセーが宇宙軍陸戦隊総監、第八艦隊司令官ゴットリープ・フォン・ファイフェルが首都防衛司令官、士官学校校長ヒューゴ・ワイドボーンが国防委員会事務局次長にそれぞれ起用された。

 

 地上総軍については、今の世界でも前の世界でも馴染みのない将官ばかりなので割愛するが、八個地上軍のうち、ロボス派は三個地上軍、シトレ派は三個地上軍、中間派は二個地上軍となった。

 

 シトレ元帥率いる統合作戦本部は、少数精鋭化と経費節減を柱とする国土防衛戦略「スペース・ネットワーク戦略」を打ち出し、同盟軍の再編を進める。ロボス元帥率いる宇宙艦隊総司令部は、対帝国戦争を指揮する。同盟軍は名実ともに二大元帥の時代に突入したのである。

 

 そんな大変動と関わりなくドーソン司令官は仕事に励み、朝は「嘆きの会」対策を練り、昼は帝国軍のスパイ対策に頭を悩ませ、夜はサイオキシンマフィア捜査に取り組むといったふうに、朝から晩まで仕事漬けだった。当然、その副官である俺も多忙を極め、いつの間にか七九三年は暮れていった。

 

 

 

 七九四年一月、憲兵司令官クレメンス・ドーソン宇宙軍少将は宇宙軍中将に昇進し、俺は宇宙軍少佐に昇進した。憲兵隊改革の功績、昨年八月のクーデター計画の阻止、そして昨年一二月に国防委員会首席監察官グリューネンヒューゲル中将、情報保全集団司令官カッパー少将らのクーデター計画を阻止したことが評価されたのだ。

 

 自由惑星同盟は、年明け早々大きな波乱に見舞われた。昨年冬から広がっていた金融不安が、同盟全体を巻き込む経済危機へと発展したのだ。ハイネセン証券取引所は史上第二位の下げ幅を記録し、大手金融機関が次々と破綻へと追い込まれ、低迷していた製造業や建設業を中心に倒産が相次いだ。

 

 政府の対応は遅れに遅れた。与党第一党・NPCの内部では、エステル・ヘーグリンド最高評議会議長とラウロ・オッタヴィアーニ元最高評議会議長の抗争が激化していた。オッタヴィアーニ元議長ら反ヘーグリンド派は、野党の環境党や楽土教民主連合と手を結び、金融機関の破綻を防ぐために策定された「金融安定化特別措置法」を廃案に追い込み、経済危機をさらに悪化させたのであった。

 

「あなた達にとっては、五〇年に一度と言われる経済危機も政争の道具なのですか!? 恥を知りなさい!」

 

 ヘーグリンド議長は敵対者を激しく批判したが、市民からの同情はまったく集まらなかった。三年前、当時のバイ・ジェンミン最高評議会議長と対立していた彼女は、野党の統一正義党と組んで辺境星域を席巻したポリスーン出血熱の緊急対策予算案を潰し、評議会を総辞職に追い込んだ。誰もが「いつものこと」とみなしたのである。

 

 宇宙暦七八七年、すなわち俺が人生をやり直す一年前から、NPCの実力者であるラウロ・オッタヴィアーニ、エステル・ヘーグリンド、エティエンヌ・ドゥネーヴ、バイ・ジェンミン、ビハーリー・ムカルジの五人を中心に、自由惑星同盟の政界は動いてきた。「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる彼らは、前の世界の戦記には全く登場しないが、今の世界ではヨブ・トリューニヒトよりはるかに大きな力を持つ。市民にとって、ビッグ・ファイブの抗争は「いつものこと」だった。

 

 議長派と反議長派の抗争は、サイオキシンマフィアの捜査にも影響を及ぼした。ネグロポンティ国防副委員長とトリューニヒト政審会長が属するドゥネーヴ派は、ヘーグリンド議長を支持している。一方、ネドベド国防委員長は、反ヘーグリンド派の中心にいるオッタヴィアーニ派のナンバーツーだ。

 

 委員長決裁によって、秘密捜査チームの経費は半分以下に減らされ、機密情報閲覧権限は「無制限」から「条件付き」に切り替えられた。ネドベド国防委員長にとってはささやかな嫌がらせに過ぎないのだろうが、俺達にとっては大打撃だ。

 

 捜査は大詰めを迎えていた。後方勤務本部次長と中央兵站総軍司令官を兼ねるセレブレッゼ宇宙軍中将、地上軍情報部長リナレス地上軍中将、第一五方面軍管区副司令官プラサード地上軍少将ら将官十数人の名前が捜査線上に浮上した時に、捜査が停滞を余儀なくされたのだ。

 

「何を考えてるんだ! マフィアに塩を送るつもりか!」

 

 秘密捜査チームのメンバーは怒り狂ったが、国防委員長の決定には逆らえない。裏で不満をぶちまける以上のことはできなかった。

 

「私が使える接待費も大幅に減らされたよ。自腹を切らないといけなくなった」

 

 最近、帝国憲兵隊との連絡係を務めるフェザーン駐在武官ナイジェル・ベイ宇宙軍中佐は、ある日の通信でそう漏らした。

 

 軍人が使う接待費と聞かされたら、ほとんどの人は反射的に「どうせろくなことに使わないんだろう?」と思うに違いない。地方警備部隊が便宜を図ってもらうために、統合作戦本部や宇宙艦隊総司令部の高級幕僚を接待しているのは、誰もが知る事実だ。

 

 だが、必要な接待費というのもある。表立って会えない相手と情報交換をする時などは、秘密の守れる高級店を使う必要が出てくる。銀河中からマスコミやスパイが集まってくるフェザーンにいるベイ中佐が、誰にも知られずに帝国憲兵隊と連絡を取るには、自腹を切ってでも高級飲食店を使わねばならないのだ。

 

「確か上の娘さんが今年から大学に通われてましたよね? 学費は大丈夫なんですか?」

「……まあ、大丈夫だ」

 

 ベイ中佐の表情は言葉を裏切っていた。子供の学費を払いつつ高級飲食店を利用したら、中佐の給与では足りないだろう。

 

「申し訳ありません。この埋め合わせは必ずします」

「別に構わんよ。これまで無駄に給料をもらってきたんだ。少しぐらいは国に還元しないと」

 

 ぎこちない笑いがベイ中佐の顔に浮かぶ。一見すると作り笑いのように見えるが、実際は心から笑っている。笑い方一つをとっても要領が悪い。そんなところに親近感を覚える。

 

 初めてベイ中佐と知り合った時、前の世界で「いたちのベイ」と呼ばれたトリューニヒト派の軍人を思い出して警戒したものだ。

 

 いたちのベイとは、『不屈の元帥アレクサンドル・ビュコック』や『フレデリカ・グリーンヒル・ヤン――愛と理想の半生』に少しだけ登場する悪役だ。基本的によほどの主要人物以外は覚えない俺でも、いたちのベイの陰険ぶりは印象に残っている。しかし、一緒に仕事をした結果、ナイジェル・ベイといたちのベイは姓が同じだけの別人と判断した。

 

 ベイ中佐は勤勉と実直だけが取り柄の人物だ。あまりに要領が悪すぎて、実戦でも後方勤務でも結果を出せず、不人気な憲兵隊に回されてきた。昇進も士官学校卒業者の中ではかなり遅く、今年で四四歳になるのに中佐に留まっている。前の世界の戦記に登場する軍人はみんな戦いに出るたびに武勲をあげて昇進するが、そんな軍人はほんの一握りだ。圧倒的多数は、ベイ中佐のように平凡で地味なのである。

 

 憲兵隊は二流の人材の吹き溜まりと言われる。モラルの無い者はドーソン司令官によって追放されたが、能力水準はさほど向上しておらず、「不真面目な凡人集団が真面目な凡人集団に変わっただけ」と揶揄する意見もある。しかし、俺やベイ中佐を見てもらえば、凡人も凡人なりに頑張っていることが分かってもらえるはずだ。

 

 凡人の力で非凡に勝ちたい。努力が知恵を凌駕すると証明したい。狡猾なマフィアと相対しているうちに、そんな思いが強くなっていった。

 

 二月上旬、帝国軍が五個艦隊の動員を開始したとの情報が入った。現在、帝国国内では、大規模な内乱は起きていない。また、イゼルローンの帝国軍が今年に入ってから、頻繁に越境攻撃を仕掛けていた。このことから、国防委員会は「帝国軍が同盟領内への侵攻を狙っている」と判断した。

 

「昨年の攻勢が失敗した後、帝国国内では、財政難を理由とする和平論が急速に力を増しました。財務尚書カストロプ公爵を中心とする財務官僚グループが、自由惑星同盟にサジタリウス腕の領有権・民主体制の完全維持・フェザーン自治領より広範な自治権などを認める代わりに、形式上の臣従を求める『サジタリウス自由邦』構想を提案したという噂も流れています。今回の出兵の背景には、和平論の高まりに対する強硬派の焦りがあると見られます」

 

 ニュースに登場した専門家のカスパロフ教授は、帝国軍が出兵した背景を和平論と絡めて推測する。

 

 別の専門家は、国軍改革反対の急先鋒として知られるミュッケンベルガー元帥が新たに宇宙艦隊司令長官に就任したことに注目し、軍内部の改革派と保守派の主導権争いが背景にあるのではないかと推測した。

 

 理由はどうあれ、五個艦隊もの大軍の侵攻は一大事である。ヴィテルマンス中将の第四艦隊、シャフラン中将の第六艦隊、ファルツォーネ中将の第一一艦隊、ボロディン中将の第一二艦隊の四個艦隊からなる迎撃軍が編成され、宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥を総司令官、宇宙艦隊総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将を総参謀長とした。

 

 マスコミは豪放なロボス元帥と謹厳なグリーンヒル大将のコンビを、一五四年前にダゴン星域会戦を勝利に導いたリン・パオ司令長官とユースフ・トパロウル総参謀長のコンビに例え、昨年に勝る戦果を期待した。気の早い者は「次はイゼルローン攻略だ」などとはしゃいでいる。

 

 一方、憲兵司令官クレメンス・ドーソン中将は、二〇代から三〇代の若手憲兵士官三八名を、今回の出兵に参加する部隊に憲兵隊長として派遣する方針を発表した。将来有望なエリートに前線勤務の経験を積ませる狙いがあるという。だが、それは表向きの理由でしかない。

 

 二月一〇日、ドーソン司令官は憲兵司令部の一室に、若手憲兵士官六人を集めた。みんな秘密捜査チームのメンバーであり、司令官の信頼厚い者達だ。

 

「本作戦は薄汚い麻薬商人どもを打倒する正義の戦いである! 我が軍の将来はこの一戦にかかっていると言っても過言ではない! 憲兵隊選りすぐりの貴官らであれば、成功疑いなしと信じている!」

 

 ドーソン司令官は激しい口調で檄を飛ばした。早口で高い声、ぴんと立った口ひげ、目一杯反らした胸がどこかちぐはぐな印象を与える。

 

「ジェラード・コリンズ中佐! 第五艦隊作戦支援部隊憲兵隊長を命ず! 同部隊司令官クセーニャ・ルージナ少将を監視せよ!」

「畏まりました!」

 

 名前を呼ばれたコリンズ中佐は、一歩前に進み出て恭しく返事した。

 

「アドルフ・ミューエ中佐! 第六艦隊C分艦隊憲兵隊長を命ず! 同分艦隊司令官クレール・ロシャンボー少将を監視せよ!」

「承知しました!」

 

 ドーソン司令官は次々と部下を呼び、サイオキシンマフィア幹部の監視命令を与える。若手憲兵士官の前線派遣は、怪しまれずに監視要員を送り込むためのカムフラージュなのだ。五人目のリリー・レトガー大尉が命令を受けた後、俺が呼ばれる番になった。

 

「エリヤ・フィリップス少佐! ヴァンフリート四=二基地憲兵隊長代理を命ず! 同基地司令官シンクレア・セレブレッゼ中将以下の全司令部員を監視せよ!」

「謹んでお受けいたします!」

 

 俺は本日付で俺は憲兵司令部副官の職を離れ、ヴァンフリート四=二基地に赴任することとなった。ヴァンフリート四=二基地憲兵隊長は、その部隊の規模から「大佐もしくは中佐」と指定されているポストなので、少佐の階級をもって代理を務めるのである。

 

「なお、総司令部が戦闘終結を宣言したと同時に、監視対象を拘束するものとする!」

 

 早口でドーソン司令官は締めくくった。全員が揃って敬礼した後、最後の打ち合わせが始まる。

 

 この部屋に集まった士官六名のうち、コリンズ中佐、ミューエ中佐、クォン少佐、ドレフスカヤ少佐、レトガー大尉の五名は捜査班長、俺は連絡班長である。予算不足で動きが取れなくなった秘密捜査チームは、中心メンバーを前線に送り込むことで状況打開を図ったのだ。

 

 俺が受けた司令部要員の全員監視という曖昧な命令には、面倒な事情がある。ヴァンフリート四=二基地に駐留する中央兵站総軍が、サイオキシンの流通に深く関わっていることは、これまでの捜査で判明していた。しかし、誰がマフィアの幹部なのかは特定できなかったため、全員を監視することに決まったのだ。

 

 与えられた任務の大きさに体中が震えた。腹がきゅっと締め付けられるように痛み出した。自分なんかに務まるのだろうか。どんどん不安が強くなってくる。プレッシャーで人間を潰せるのならば、今の俺は紙のように薄く潰れていたに違いない。




ルートヴィヒ皇太子は外伝一巻では帝国暦四七七年(宇宙暦七八六年)以前に亡くなったことになっていますが、それでは帝国暦四八七年の時点で五歳だった息子のエルウィン・ヨーゼフが生まれるより前に死んだことになります。そういうわけで外伝一巻の記述は無視します。

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