銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第124話:主戦派崩壊 804年11月10日 メープルヒル~オリベイラオヤシキ~ハイネセン第二国防病院~宿舎

 車はメープルヒルに差し掛かった。ハイネセンポリス有数の高級住宅街である。古臭いが上品な家が並んでいる。町名の由来となった楓が鮮やかに色づき、街並みに彩りを添える。平日の朝七時だというのに、人通りが少ない。

 

「アルフレッド・ローザス元帥記念館」と描かれた看板が、視界を通り過ぎた。故アルフレッド・ローザス元帥の旧宅は、オリベイラ邸と同じメープルヒル一七番地にある。

 

「皮肉だな。いや、お似合いか」

 

 誰にも聞き取れない小声で、俺は呟いた。ローザス元帥は「アッシュビー病」を蔓延させた張本人だ。行き過ぎたアッシュビーの神格化は、同盟軍の用兵を硬直化させ、帝国軍に立ち直る時間を与えた。

 

 英雄が英雄として生きられる時間は短い。神話は終わり、長くて退屈な後日談が始まる。清く正しい英雄は汚くて愚かな人間に成り下がる。

 

 残された物語をどう読むかは、読者に委ねられる。汚くて愚かな人間の物語など面白くない。清く正しい英雄の物語だけが繰り返し読まれる。前の世界でもそうだった。獅子の泉の七元帥も、ヤン・ファミリーの勇士たちも多くの愚行を犯した。それでも、英雄は英雄なのだ。彼らの愚行を目の当たりにしてもなお、仰ぎ見ずにはいられないのだ。

 

 上品な家並みが途切れ、奇妙な邸宅が現れた。やたらと屋根が多い。塀にも門にも屋根がある。敷地内に植えられた樹木の隙間から、馬鹿でかい屋根がいくつも突き出している。

 

「オリベイラ先生のオヤシキです」

 

 運転手は前方を向いたまま説明した。余計な説明だった。「メープルヒル一七番地のオヤシキ」といえば、それはオリベイラ邸以外の何ものでもない。

 

「フィリップス提督」

 

 コレット少将がこちらを向いた。透き通った声が俺の耳を撫でた。金糸のようなプラチナブロンドが揺れた。大きな瞳が俺の顔を捉えた。強烈な目力が俺の目を射抜いた。ぽってりした唇が柔らかく綻んだ。白くなめらかな肌が日光を浴びて輝いた。それは一個の芸術作品であった。

 

「どうした?」

 

 彼女の方がよほど神話的だと思いつつ、俺は返事をした。

 

「オリベイラ先生がおられます」

「どこだ?」

「門の前です」

 

 コレット少将が指さす先に山があった。いや、山ではない。山のようにでかい人間だ。パトロールの憲兵より頭一つ高い。憲兵を三人束ねれば、これぐらい太くなるのであろうか。ボタンのない長衣に太い布帯を締めた服装は、サムライドラマの登場人物が着るオキモノである。

 

「秘書だろ」

 

 俺は間髪入れずに答えた。体格も服装もオリベイラ博士と酷似している。だが、別人だと断言できる。彼は大物の中の大物だ。俺ごときを自ら出迎えるはずがない。

 

「オリベイラ先生にしか見えませんが」

「常識的に考えろ。オリベイラ先生は最高評議会議長より偉いんだ。トリューニヒト議長が来たって出迎えたりはしない」

「秘書にしては貫禄がありすぎます」

 

 コレット少将はなおも食い下がる。願望がそうさせるのだろう。だが、当人が副官にしては貫禄がありすぎるため、説得力に欠けた。

 

「そりゃそうだ。オリベイラ先生の秘書なんだ。そこらの国会議員よりずっと大物だよ」

「お言葉ですが、その理屈はおかしくありませんか?」

「そうかな」

「大物の秘書が大物。そうであれば、私は最高評議会議長より偉いはず。フィリップス提督の元副官ですから」

「ちょっと待て。君の方がおかしいぞ」

「フィリップス提督は天高く輝く恒星、私はどぶ川を漂う小石。恒星の光に照らされても、小石は小石。惑星にはなれません」

「…………」

 

 あれこれ話していると、オリベイラ邸に到着した。警護車両から降りた憲兵たちが周囲の安全を確認する。指揮官のイグレシアス中佐がこちらに向けて親指を立てた。

 

 コレット少将と一緒に下車した俺は、人の形をした山に歩み寄った。顔がはっきり見えた。髪の毛の薄い老人である。福々しい顔に幅広の眼鏡をかけ、見るからに善良そうだ。

 

「あ、あなたは……」

 

 俺の足がぴたりと止まった。動かしたくても動かせない。全身から冷や汗が流れ出す。これはどういうことか。現実なのか。夢を見ているのではないか。

 

「やあ、待っていたよ」

 

 老人が気さくに笑いかけてきた。身長は俺より頭一つ高い。肩幅は広く、胸板は厚く、腹回りは太く、縦にも横にも厚みがある。巨漢というにふさわしい体格だが、ふっくらしているせいか、威圧感は感じられない。

 

「何を驚いている? 私のオキモノ姿がそんなに珍しいか?」

 

 そこに立っていたのは、前中央自治大学長エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラ博士であった。

 

「いえ……。先生直々のお出迎えとは思わなかったもので……」

 

 俺はひきつった笑みを浮かべた。光栄に思うどころではない。畏れ多くて正気を保つことすら難しい。

 

「格下が格上を出迎えただけのこと。何の不思議もない」

「ご冗談を……」

「君は総軍司令官、私はただの年寄り。どちらが格上なのか? 考えるまでもない。小学生だって理解できる」

 

 肩書きだけを比べるならば、オリベイラ博士が言うとおりである。彼は三年前から同盟奨学財団の理事長を務めている。このポストは国立大学学長経験者の持ち回りで、閑職と言っていい。

 

「恐れ入ります」

 

 俺は声を震わせながら答えた。完全に呑まれていた。エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラにとって、肩書きなんてものは飾りでしかない。その事実を骨身にしみて思い知らされた。

 

「それにしても小さいなあ」

 

 オリベイラ博士は右手を俺の頭上にかざす。

 

「マティアスが言ったとおりだ。本当に小さい」

「先生が大きすぎるんです。俺より二〇センチも高いじゃないですか」

 

 小物特有の追従笑いを浮かべた俺は、身長差を勝手に三センチ縮めた。

 

「もっと小さく見えるぞ。存在自体が小さいんだな」

「先生と比べれば、誰だって小さいでしょう」

 

 小物呼ばわりされたところで、俺は何とも思わない。安心感すら覚える。変に持ち上げられるよりはずっといい。

 

 右隣で何かがぶちりと切れるような音がした。コレット少将の怒りが頂点に達したようだ。何の問題もない。彼女は激しい気性の持ち主だが、それを完全にコントロールできる。怒りを微笑みに包む程度のことは簡単にやってのける。

 

「こちらのお嬢さんは元副官だそうだが、君の方が副官に見える。いや、従卒か」

 

 オリベイラ博士の評価は的を得ていた。俺は平凡な童顔で、筋肉はあるが背は低く、軽はずみで落ち着きがない。コレット少将は魅惑的な美貌を持ち、背は高く体つきは力強く、堂々としていて威厳がある。先入観なしで見れば、一〇〇人中一〇〇人が俺を従卒扱いするだろう。

 

「まあ、比べるのが酷かもしれん。お嬢さんは並の人間ではない。見ればわかる。天性の風格が備わっている。英雄の器というべきじゃな」

「さすがはオリベイラ先生、お目が高いです」

 

 俺は満面の笑顔を浮かべた。自分が褒められるより、部下が褒められる方がずっと嬉しい。

 

「フィリップス提督のご指導のおかげです」

 

 コレット少将はにっこり笑った。内心では激しい怒りが渦巻いているはずだ。自分はどう言われても構わないが、「尊敬するフィリップス提督」への侮辱は絶対に許さない。

 

「わかっているとも。類は友を呼ぶという。お嬢さんほどの人物から忠誠を勝ち取る。凡人にできることではない。フィリップス君こそ英雄の中の英雄だ」

「おっしゃるとおりです!」

 

 彼女の機嫌はたちまちのうちに急上昇した。自分が褒められるより、「尊敬するフィリップス提督」が褒められる方がずっと嬉しい。

 

「案内しよう。ついてきなさい」

 

 オリベイラ博士は大物らしい悠然とした足取りで歩き出した。

 

「かしこまりました」

 

 俺は返事をすると一歩下がった。並んで歩く度胸などない。後からついていくのが分相応というものだ。

 

「どうして下がるのだね? 隣に来なさい」

「先生の側を歩くのは畏れ多いのです」

「水臭いことを言うなよ! 友人じゃないか!」

 

 オリベイラ博士が笑いながら、俺の右肩に手を置いた。一目で作り笑いとわかる笑顔である。聞いた瞬間に嘘だとわかる棒読み口調である。実にしらじらしい。しらじらしすぎて恐怖を覚える。

 

「か、かしこまりました!」

「結構!」

 

 悠然と構えるオリベイラ博士、戦々恐々とする俺が並んで歩いた。得意顔のコレット少将が一歩下がってついてくる。イグレシアス中佐率いる憲兵一一名が、俺たちをガードした。

 

 前の世界の戦記では、エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラは、小物だった。まず、名前が無駄に長い。上から目線で偉そうに説教する。得意顔で語った戦争賛美論は、ヤン・ウェンリーに論破された。自信満々に提案したヤン・ウェンリー暗殺計画は、無様な失敗に終わった。ジョアン・レベロから失敗を詰られると、「自分は提案しただけ」と答えた。いいところなど一つもなかった。

 

 この程度の人物ですら、直に会ってみると圧倒されてしまうのだ。彼が大きいというより、俺が小さすぎるのかもしれない。

 

 

 

 オリベイラ博士は俺を「ハラキリの間」という部屋に通した。床に敷かれた網状の敷物も、格子状の紙窓も、壁にはめ込まれた白い長方形の引き戸も、サムライドラマでお馴染みのものだ。

 

「私は君をハラキリの間に招いた。ハラキリをするつもりでもてなす。そういう覚悟であると思ってほしい」

 

 そう言うと、オリベイラ博士は見たこともない方法で茶をいれた。釜から陶器に湯を注ぐ。茶粉を湯が入っていない方の陶器に入れる。陶器の中の湯を茶粉入りの陶器に移し替える。泡立て器のようなものを使って、湯と粉末を練り上げるように混ぜる。十分に泡立ったら、泡立て器を上げ、大きな泡を丹念に切り刻む。

 

「ショーグンティー。歴代ショーグンが愛した茶。ゆえにショーグンティー」

「これがショーグンティーですか……?」

 

 差し出された茶は、どう見てもグリーンミルクティーであった。クリーミーな泡が浮いている。表面はなめらかな光沢を帯びており、見るからに甘そうだ。

 

「作法通りにいれた茶はこうなる。ショーグンティーは本来こういうものなのだ」

「知りませんでした」

「茶葉はウジ産のものを使った。シューグンティーは数あれど、ショーグンが口にしたのはウジ産のみ。本物のショーグンティーを味わってもらいたい」

「頂戴いたします」

 

 手を伸ばした瞬間、俺は重大な事実に気づいた。受け取り方がわからない。サムライドラマではどうやって受け取っていただろうか。

 

「好きなようにしなさい。君はサドウの徒ではないのだから」

「かしこまりました」

 

 俺はパラス人らしくカップを両手で受け取った。手が小刻みに震えた。サムライ・アシガル・ニンジャの三兵戦術を創始したラクーン・イエヤスも、ミト・コーモンに世直しを命じたドッグ・ツナヨシも、自ら悪人を成敗したアンフェタード・ヨシムネも飲んだ茶である。歴史の重みが喉を滑り落ちる。

 

「…………」

 

 強い視線を感じた。オリベイラ博士がこちらを注視しているのだ。生きた心地がしない。

 

「どうだね?」

「……わかりません」

 

 一瞬迷ったものの、俺は正直に答えた。見栄を張ってもしょうがない。わからないものをわかるといったところで、恥をかくだけだ。

 

「正直に言いたまえ。しょせんは素人の茶だ。口に合わぬこともあろう」

「本当です。緊張しておりまして。味わうどころではありませんでした」

「ふむ。勇者の中の勇者でも緊張することがあるのだな」

 

 オリベイラ博士は二杯目の茶をいれた。

 

「緊張をほぐすには茶が一番だ。飲みたまえ」

「よろしいのですか?」

「味わえとは言わんよ。喉を潤すつもりで飲みなさい」

「では、いただきます」

 

 俺は二杯目の茶を飲んだ。泡が舌に乗ってころころと転がる。芳醇な味わいが広がった。

 

「どうだね? 今度は味を感じたのではないか?」

「感じました」

「うまいだろう?」

「はい」

「ジャパンのものは銀河一うまい。酒は例外だがね。アグスタ産のブランデーに勝る酒はない」

 

 オリベイラ博士は大笑いした。アグスタは彼の故郷である。もっとも、この世界では「ブルース・アッシュビーの故郷」、前の世界では「アレクサンドル・ビュコックの故郷」といった方が通りがいい。

 

「だが、酒では政治はできん。古代ジャパン人は『サドウはゴセイドウ』と言った。茶の道は政治の道なのだ。君は茶の味を知った。政治の味を知ったのだね」

「政治の味ですか……?」

「その通りだ」

「申し訳ありません。自分には理解できないようです」

「君は本当に正直だね」

「俺は小物です。背伸びしたって足元を見られるだけです」

「小物は『自分は小物だ』などと言わんよ。小さい奴ほど自分を大きく見せたがるもんだ」

「大物の考えることは同じなんですね」

「ほう、私と同じことを言った者がいるのか。名前を聞かせてくれんかね」

「シェーンコップ提督です」

 

 俺がその名を口にした瞬間、オリベイラ博士の表情が変わった。どす黒い悪意が福々しい顔を塗り潰した。一瞬で温和な表情に戻ったが、小物を怯えさせるには十分であった。

 

「なんだ、小物ではないか」

「ご存知なのですか?」

「会ったことはないがね。会うまでもない。評判を聞けばわかる」

 

 声色も表情も穏やかであったが、内容は完全な決めつけだ。

 

「類は友を呼ぶ。大物の周りには大物、小物の周りには小物が集まるものだ。シェーンコップ君はヤン君の腰巾着。その時点で小物だとわかる」

「小物の取り巻きは小物。そういうことでしょうか?」

「ヤン君はどうしようもない小物だよ。ちょっと意見しただけで逆切れした。見下されたと勘違いしたのだろうね」

「気難しい方ですから」

 

 愛想笑いを絶やさぬ俺だが、内心では呆れていた。でたらめにもほどがある。ちょっと意見しただけで逆切れしたのも、見下されたと勘違いしたのも、オリベイラ博士ではないか。

 

「あれは気難しいなんてもんじゃない。ただの――」

 

 延々とヤン元帥を詰るオリベイラ博士には、大物感のかけらもない。二年前のことをまだ根に持っているのだろう。この世界でも、オリベイラ博士はヤン元帥に言い負かされた。

 

「リーダーの条件とは何か。それは愛国心だ。人は愛するもののために命を賭ける。国家のために命を賭ける人物こそ、リーダーにふさわしい」

「おっしゃる通りです」

 

 俺は大きく頷いた。まったくもって正論である。愛国心のないリーダーは信用できない。オリベイラ博士のような人物はリーダー失格だ。

 

「ヤン君には愛国心がない。国家のために命を賭ける男ではない。リーダーとして不適格だ」

「俺もそう思います」

 

 俺は大きく頷いた。まったくもって正論である。リーダーは国家を何よりも優先する人物であってほしい。ヤン元帥は理念を何よりも優先する。オリベイラ博士は利益と保身を第一に考える。このような人物は、どんなに有能であってもリーダーになるべきではない。

 

「君は愛国者の中の愛国者。リーダーになるべき人材だよ」

「ありがとうございます」

 

 俺は無邪気そうな笑顔で応じた。まったくもって的外れである。愛国心がなければ、リーダーは務まらない。しかし、愛国心があるだけの凡人にも、リーダーは務まらない。オリベイラ博士はそれをわかった上でおだてたのだろう。

 

「おだてたわけではないがね」

 

 オリベイラ博士は俺の心中を見透かすように言った。

 

「君はおだてに乗るような男ではない。お世辞を言われるよりは悪口を言われたい。媚びを売られるよりは喧嘩を売られたい。そんな男をおだてたりはせんよ」

「調査済みなのですね」

「調べてわかることはすべて調べた。君だってそうだろう?」

「はい」

 

 否定する理由もないので、俺はあっさり認めた。オリベイラ博士と付き合うと決めた後、徹底的に調査した。本人に知られたら怒られそうなことまで調べた。

 

「君は大物の中の大物だよ。敬愛するヤン君と敵対する。嫌いな私と握手する。そんな真似ができるんだ。小物であろうはずがない」

 

 オリベイラ博士は何気ない顔で、「敬愛するヤン君」「嫌いな私」と言った。すべてお見通しだったのだ。

 

「いえ、俺は……」

「構わんよ。この世界では日常茶飯事だ。嫌われることも、自分を嫌う者と握手することも。君は私を味方にする価値があると考えた。ならば、文句はない」

「恐縮です」

「人は見たいものを見ようとするが、君は見えるものを見る。幻想を持たない。好き嫌いに流されない。願望を交えない。理念に囚われない。強者を恐れない。弱者を見下さない。ただ、事実のみを見て判断する。だから、私は君を評価する」

 

 オリベイラ博士は人好きにする笑みを浮かべた。

 

「…………」

「どう答えていいかわからん。そういう顔だな?」

「……困っております」

「君はツン=デレなのだな」

「なんですか、それは?」

「古代ジャパン語の慣用句だよ。素直になれないことを意味するのだそうだ」

「なるほど……」

 

 言葉の意味は分かったものの、的外れだと思った。俺ほど素直な人間は滅多にいないからだ。だが、あえて反論することもない。誰にでも間違いはある。

 

「朝のニュースは見たかね?」

 

 オリベイラ博士は微笑んだまま話題を変えた。

 

「見ました」

「近いうちに講和交渉が始まるが、どうするつもりだね?」

「講和ですか……?」

 

 俺は首を傾げた。なぜ「講和」なんて言葉が出てくるのか。地球再生計画以外には目立ったニュースはなかったはずだ。

 

「朝のニュースは見ただろう?」

「ええ。地球教とフェザーンが地球を再生するそうですね」

「だから講和なんだ」

「どういうことでしょう?」

「地球再生計画には途方もないコストがかかる。ここまで言えばわかるな?」

 

 あからさまに呆れつつも、オリベイラ博士は説明してくれた。

 

「ああ、なるほど。そういうことでしたか」

 

 ここまで言われれば、頭の悪い俺でも理解できる。地球再生計画を実現するには、全銀河の富を結集しなければならない。その障害となるのが戦争だ。地球教とフェザーンは、講和の仲介を申し出るだろう。同盟も帝国もフェザーンに借りがあるので、この提案を拒否できない。

 

「改めて聞こう。君はどうするつもりだね?」

「高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処することになろうかと思います」

「講和も選択肢に入れる。そう受け取っていいのかね?」

 

 オリベイラ博士は静かだか重々しい声で問いかける。

 

「軍人の仕事は国防です。そして、戦争のみが国を守る手段とは限りません」

 

 俺はきっぱり言い切った。主戦派だが戦争好きではない。帝国と戦ってきたが憎しみはない。反戦派と対立してきたが嫌悪はない。頭は良くないが、「講和は絶対不可能」という支離滅裂な主張を信じるほど愚かではない。講和も選択肢のうちにある。

 

「戦争は国際的及び国内的な矛盾を解消するための、最も賢明な手段だよ」

 

 オリベイラ博士はありきたりの戦争擁護論を口にした。

 

「人は堕落しやすい生き物だ。平和になれば向上心を失う。自由になれば自制心を失う。戦争による緊張感のみが、人に向上心と自制心を与え、進歩をもたらすのだ」

「…………」

 

 俺は反応に困った。これが最高学府の学長まで務めた人物の言葉なのか。素人目にも雑な論理である。突っ込もうと思えば、いくらでも突っ込める。突っ込みどころが多すぎて、「わざとやってるんじゃないか」とすら思えてくる。

 

「どうした? 反論はないのかね?」

「……試されても困ります」

 

 これが俺の弾き出した答えだった。

 

「本当に冷静だね、君は」

「突っ込み待ちにしか見えなかったので」

「二〇人中一九人は喜んで突っ込んでくるよ。自分が賢いと思っている奴は、論理の穴に突っ込もうとする。自分が正しいと思っている奴は、倫理的欠陥を突こうとする。人間の本質は見過ごせないものにこそ現れる」

「俺の本質は見えましたか?」

「ああ。君は信じられたいのだろう? だから『試すな』と言った。違うかね?」

 

 オリベイラ博士は俺の本心を正確に言い当てた。

 

「正解です」

「まったく酷い話だよ。君ほど謀の多い男はいない。息を吐くように嘘をつく。瞬きするように演技をする。敵も味方も他人も自分自身も区別なく欺く。そんな男が何よりも信頼に飢えている。本当に酷い。酷すぎて笑えてくる」

「自分でも酷いと思っていますよ」

 

 相当酷いことを言われたにも関わらず、俺の頬は緩んでいた。オリベイラ博士の表情が妙に優しかったからだ。

 

「私も君に賛成だ。戦争のみが国を守る手段とは限らない。あらゆる選択肢を検討すべきだ」

「戦いたくても戦えません。フェザーンが嫌な顔をします」

「フェザーンも一枚岩ではない。ルビンスキーと一〇大財閥は地球再生計画に乗った。だが、他の者が乗るとは限らん。ルビンスキーを蹴落としたい奴も、一〇大財閥に儲けさせたくない奴も大勢いる」

「体制そのものが倒れるかもしれませんね。民主化運動が激しくなっています。戒厳令はほとんど意味を成していません」

「地球教の派閥争いは一層激しくなる。進歩的解釈に基づいて再生するか。伝統的解釈に基づいて再生するか。宗教家にとっては死活問題だ」

「伝統派が騒ぐでしょうね。シャルル二四世もド=ヴィリエ大主教は進歩派ですから」

「我が国も帝国も割れる。地球再生計画に乗るか。講和を支持するか。親地球と反地球が新たな対立軸になる。ダゴン以降最大の大変動が始まるのだ」

「ダゴン以降最大……」

 

 俺はその言葉を噛みしめるように呟いた。大げさな表現ではない。同盟と帝国が講和に向けて動き出す。フェザーンの天秤はその役目を終える。銀河の均衡は崩壊する。講和が実現しなかったとしても、元通りにはならない。

 

「君が対処するのだ。フィリップス統合作戦本部長、期待しているぞ」

「全力を尽くします」

「うむ」

 

 オリベイラ博士は大物らしく鷹揚に頷いた。

 

「茶が本当にうまくなるのは三杯目からだ。飲むかね?」

「はい」

「好きなだけおかわりしなさい。お菓子もあるよ」

「お言葉に甘えさせていただきます」

 

 俺は茶をがぶがぶ飲み、菓子をぱくぱく食べた。遠慮してはいけない。年寄りは若者の大食いを喜ぶものだ。

 

「よく食べるねえ」

 

 オリベイラ博士はにこにこしながら俺を見た。息子や孫を見るような目ではない。何か別のものを見る目だ。

 

「どうかなさったのですか?」

「……いや、何でもない」

「…………?」

 

 こうして会見は終わった。直に会うのは初めてなのに、他人という気がしない。すっかり術中にはまってしまったようだ。

 

 

 

 車に乗り込んで携帯端末を開くと、大量のメールが届いていた。同志や部下からの問い合わせである。

 

「地球再生計画のニュースをご覧になりましたか? 帝国との講和交渉が近日中に始まります。どう対応なさるつもりでしょうか?」

 

 概ねこのような内容だった。彼らも地球再生計画のニュースを見て、「これは講和だぞ」と感づいた。コレット少将に質問したところ、やはりわかっていた。彼らが鋭いというより、俺が鈍すぎるのだろう。

 

 第二の訪問先はハイネセンポリス第二国防病院である。地下の秘密入口から入り、非常階段を上がり、人払いされた廊下を歩く。誰にも見られぬまま、病室にたどり着いた。

 

「時間通りだな」

 

 ベッドに半身を起こしたマティアス・フォン・ファルストロング伯爵が、にやりと笑った。

 

「軍人ですので」

 

 俺は微笑みながら敬礼をした。

 

「どうだった?」

「とんでもない人でした」

 

 苦笑いしつつ、俺はオリベイラ博士との会話内容を語った。そのためにやってきたのだ。

 

「さすがはエンリケだ。よく人を見ている」

 

 ファルストロング伯爵は満足そうにうなずいた。

 

「わしは人を見る目がない。だから、エンリケに見せた。わしには見えないエリヤ・フィリップスを見るために」

「オリベイラ先生のお話もお聞きになったのですか?」

「ああ。通信をもらったぞ。卿が帰った直後にな」

「呆れておられなければ良いのですが。小物ぶりを晒してしまったので」

「卿が言ったことと変わらんよ。エンリケが卿を認めた。これで安心して死ねるというものだ」

「そういう冗談はやめてください」

 

 俺は眉をしかめながら苦言を呈した。こんなことは冗談でも聞きたくない。ファルストロング伯爵が倒れたと聞いた時、本当に慌てたのだ。

 

「冗談ではないがな。まあ、やめろというならそうしよう。マフィンを粗末にするのも、コーヒーで床を汚すのも、女性の胸をクッションにするのも本意ではない」

「素直ではないですね」

「権力者を長いことやっていたのでな。職業的習慣というやつじゃよ」

 

 ファルストロング伯爵はことさらに皮肉めいた笑いを作った。照れているのだろう。本当に素直ではない。彼こそツン=デレと呼ぶべきではなかろうか。

 

「安心しました。意地を張れるうちは大丈夫です」

「茶を馳走するまでは死なぬよ。ウジ産ごときで満足されてはかなわぬ。ショーグンティーはガニメデ産こそ至高なのだ」

「楽しみにしております」

 

 ファルストロング伯爵の軽口に対し、俺は軽口を叩き返した。無意味な言葉の応酬が心を癒す。オリベイラ博士との会見で疲れた神経がほぐれていく。

 

「お時間です」

 

 携帯端末からコレット少将の声が響いた。楽しいひと時はあっという間に終わった。

 

「伯爵閣下、これにて失礼いたします」

「卿にくれてやる。持っていけ」

 

 ファルストロング伯爵は懐から小さな記録媒体を取り出した。

 

「これは?」

「亡霊と守銭奴どもの関係じゃよ」

「…………」

 

 俺は記録媒体をまじまじと眺めた。前の世界でローエングラム朝時代を生きた人間は、地球教とフェザーンの関係を知っている。だから、「地球教とフェザーンの関係」と言われたところで、驚きはしない。

 

「なんだ、驚かないのか」

「伯爵閣下のおっしゃることですから」

「つまらん奴だ。妹を見習え」

「アルマにも渡したのですか?」

「当然じゃろう。情報というのは共有せねば役に立たん」

 

 ファルストロング伯爵と妹の関係は、今も続いている。俺がシャンプールに赴任したため、直接会った回数は妹の方がずっと多い。

 

「ご配慮いただきありがとうございます」

「二〇年前の情報だ。参考程度に留めておけ」

「かしこまりました。資料として活用させていただきます」

 

 俺は深々と頭を下げた。情報の価値は鮮度に比例する。二〇年前のものなど無価値に等しい。それでも嬉しかった。

 

 ファルストロング伯爵の病室を後にして、誰にも知られないように病院を出た。訪問記録は一切残らない。俺とファルストロング伯爵は、表向きには無関係ということになっている。偉くなったせいで、見舞いに行くだけでも気を遣う。

 

 一三時三〇分、地球教銀河教会とフェザーン自治領主府は同盟政府に対し、「帝国との講和を仲介する」と申し出た。帝国政府に対しても同様の申し出がなされた。

 

 その二時間後、銀河帝国救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラム公爵が記者会見を行った。総大主教特使と帝国枢密顧問官を兼ねるデグスビイ大主教、フェザーン自治領のケッセルリンク駐オーディン高等弁務官が同席している。

 

「興味深い提案である。即答はできかねるが、前向きに検討したい」

 

 ラインハルトの口から飛び出した言葉は、全銀河を震撼させた。帝国政府が講和に前向きな姿勢を示したのだ。マンフレート亡命帝以来、一世紀ぶりのことであった。

 

 ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長は、深刻なジレンマに直面した。仲介を受けなければ、積極財政を継続できない。仲介を受ければ、主戦派の離反を招く。どちらを選んでも破滅する。

 

 右翼のトリューニヒト離れは既に始まっている。彼らはトリューニヒト議長を機械的に称える集団ではない。「三年間で出兵回数ゼロ」という現実に直面すれば、さすがに目が覚める。軍拡と反帝国パフォーマンスでごまかせる期間は、とっくに過ぎた。憂国騎士団が右翼のトリューニヒト批判を潰そうとしたが、団員を激減させるだけに終わった。講和問題はそれをさらに加速させるだろう。

 

 軍需産業は真っ二つに割れた。賛否を分けたのは地球特需との関係だ。賛成派企業はトリューニヒト政権やフェザーンと親しく、利権にありつける。反対派企業はトリューニヒト政権やフェザーンと疎遠で、プロジェクトから排除される可能性が高い。

 

 宗教右派は分裂状態に陥った。ある教団は全面支持を打ち出した。ある教団は激烈な批判を行った。ある教団は静観の構えをとった。教義も背景もバラバラな彼らを結びつけていたのは、世俗的な反戦派への敵意であった。宗教勢力主導の講和なら拒否する理由はない。だが、どの教団にも自分なりの主張と利害がある。地球教と噛み合わない教団は少なくなかった。拝金主義の総本山たるフェザーンへの抵抗感はぬぐいきれない。こうしたことから、足並みが乱れた。

 

 ルドルフ主義者は徹底反対でまとまった。フリードリヒ大帝、オットー鉄血公、リヒャルト絢爛公、アドルフ先覚帝、モーリッツ純粋公、ルドルフ大帝、アーレ長征公と受け継がれてきた強者の思想は、一切の妥協を許さない。腐敗した帝国も、弱者に媚びる地球教も、拝金主義に囚われたフェザーンも許容できない存在なのだ。

 

 反リベラルや反反戦派はトリューニヒト批判に転じた。帝国などどうでもいい。「講和」という単語の反戦臭が、彼らを怒らせた。

 

 保守派は前向きな者も後ろ向きな者もいるが、いずれも慎重な姿勢である。彼らが夢見てきた「帝国を完膚なきまでに打ち破り、有利な講和を押し付ける」というシナリオは、決して実現しないだろう。正規軍を撃滅し、帝都を陥落させた。それでも帝国は屈しなかった。戦争を続けても得るものはない。さっさと講和するのが賢明というものだ。しかし、崩壊寸前の救国軍事会議政権は交渉相手として適当なのだろうか。地球教やフェザーンへの不信感もある。これらの要因が彼らを慎重にさせた。

 

「歴史が変わった……」

 

 俺は宿舎の一室で呆然としていた。主戦派がほんの数時間で消滅した。たった一つの提案が、二大勢力の一角を葬り去ったのだ。

 

 主戦派崩壊の影響は俺自身にも及んだ。フィリップス派は「無条件で受諾すべき」論者、「条件次第で受諾すべき」論者、「徹底的に拒否すべき」論者に三分された。ラインハルトと戦うどころではない。派閥の崩壊を食い止めるだけで手いっぱいだ。

 

 反戦派はその歴史的役割を終えた。どの勢力も一様に講和支持を打ち出した。そのため、他の部分での齟齬が余計に目立つ。世俗主義者はフェザーンに好意を寄せる一方、地球教を邪魔だと感じた。道徳主義者は地球教に好意を寄せる一方、フェザーンを邪魔だと感じた。むろん、講和できるなら他のことには構わない者もいる。「反戦派」は消滅し、世俗主義者、道徳主義者、功利主義者のみが残った。

 

「ああ! そういうことだったのか!」

 

 俺は勢い良く立ち上がった。勢いが付きすぎたせいか、バランスを崩してひっくり返る。いつもなら柔らかいものにぶつかるところだが、コレット少将は入浴中、ハラボフ大佐は長期休暇中、イレーシュ少将とドールトン少将は数千光年の彼方である。そのまま床に倒れ込んだ。

 

 天井を眺めたまま、俺は頭を回転させた。前の世界とこの世界が一つに繋がった。今起きていることこそ、戦記に記された「地球教による銀河支配の陰謀」ではなかろうか。

 

 地球教の狙いは「平和的手段による銀河統一」だと思われる。同盟と帝国の戦争を長引かせる。両国が疲弊の極致に達したところで、フェザーンとともに講和の仲介を申し出る。筋金入りの強硬派以外は耳を傾けるはずだ。銀河は親地球と反地球に二分される。そんな中、地球再生計画が始動するのだ。

 

「人類が一丸となり、母なる星を復活させよう」

 

 地球教は全銀河にそう呼びかける。人々は雪崩を打つように地球教を支持するはずだ。地球教の言葉には夢がある。反地球の言葉には否定しかない。どちらを選ぶかは自明の理だ。夢には見向きもしない者も、地球再生計画が生む巨大マネーには魅力を覚える。

 

 すべてが終わった時。地球教は戦争終結と地球再生の立役者になる。全人類を指導するにふさわしい実績だ。圧倒的な支持のもと、地球教は新銀河秩序の中心を占めるであろう。

 

「考えすぎか」

 

 俺は苦笑いしながら立ち上がった。妄想もいいところだ。地球教がそこまで状況をコントロールできるとは思えない。オリベイラ博士と話したように、地球教やフェザーンも盤石ではない。彼らが嵐に吹き飛ばされる可能性も十分にあるのだ。

 

 どこまでが陰謀でどこまでが偶然かはわからないし、わかる必要もない。この状況をいかに活用するかだけを考えればいい。

 

 俺の考えはほぼ固まっている。地球教と手を組み、講和の主導権をいち早く握る。戦争を続けられないのであれば、終戦後の世界を作る側に回った方がいい。新秩序の中で、軍の権益を確保する道を探るのだ。

 

 現時点において、地球教は最も手頃な同盟相手である。思想的にも政策的にも共通点が多く、意に沿わぬことを押し付けられる心配がない。元市民軍は地球教に一目置いているので、手を組んだ方がまとめやすくなる。付き合いが長いので気心が知れている。漫画やアニメやゲームに厳しすぎるところには、少々辟易するが、我慢できないほどではない。こういうものは甘すぎるより厳しすぎる方がましだ。

 

 懸念すべき点があるとすれば、地球教と麻薬組織カメラートの関係であろう。直接的な証拠はないが、間接的な証拠は山ほどあり、「限りなく黒に近い灰色」といったところだ。それでも、意思は変わらない。むしろ、カメラートを叩くチャンスだと判断した。

 

 教団全体がカメラートと結託している可能性は低い。というか、不可能である。進歩派と伝統派の双方と組むよりは、大衆党とAACFの双方と組む方がはるかに容易だろう。そして、両派とも複数の派閥に分かれている。進歩派の最も穏健なグループと最も急進的なグループの差は、大衆党とAACFの差よりずっと大きい。伝統派も似たようなものだ。カメラートと結託する派閥に喧嘩を売れば、そこと対立する派閥の支援が期待できる。

 

 俺が地球教に利用される可能性はあるが、仕方がないと思っている。お互いに利用し合うのが、政治というものだ。利用されるのが嫌なら、最初から政治などやるべきではない。

 

 右手の人差し指が送信ボタンを押した。主だった同志と部下にメールが送られる。俺の決意を伝える。どんな反応が返ってくるだろうか。一人一人の顔を思い浮かべながら考える。満場一致とはいかないだろう。

 

 リーダーは支持者に逆らえない。これは永久不変の原理である。手足になる者がいなければ動けない。耳目になる者がいなければ情報が入らない。支持者を持たぬリーダーは、手も足も耳も目もない人のようなものだ。だからこそ、リーダーは支持者を恐れ敬う。逆に言えば、支持者でない人間は怖くない。

 

 リーダーには決断という権利が与えられている。誰が支持者であるかを決めることができる。俺には支持者を選ぶ権利がある。


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