銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第122話:不都合な真実 804年5月下旬~7月24日 惑星シャンプール

 二〇三九年一二月三一日、電子化時代は終わりを告げた。北方連合国家と三大陸合州国の局地的な紛争が、全面核戦争に発展したのである。核ミサイルが地表を焼き尽くした。核爆発の副産物として生じた電磁パルスが地表に降り注いだ。電子媒体と磁気媒体は記憶喪失に陥った。膨大な知識と富が消え失せた。それは数十億人の死に勝るとも劣らない損失であった。

 

 紙だけが人類の手元に残された。そのほとんどは核の炎で焼かれた。焼け残ったものの多くは、核の冬を乗り切るために燃やされた。わずかな生き残りが文明の記憶を語り継ぎ、人類復興の戦いを助けた。

 

 人類にとって紙は友であり恩人なのだ。優秀な記憶媒体とは言い難い。堅牢さにおいては比類ないが、収納性や軽便性に問題がある。それでも人類は紙を信じ続ける。

 

「受肉が完了いたしました」

 

 澄み切った機械音声が作業終了を告げた。「受肉」という言葉を使うのは、十字教製品特有の仕様である。各宗教が聖具として販売するプリンターは、安くて使いやすい。

 

「ありがとうございます」

 

 俺は感謝の敬礼を捧げた。十字教徒ではないので、片膝をついて聖人の名を讃えたりはしない。楽土教徒ではないので、両手を合わせてお辞儀をすることもない。美徳教徒ではないので、両手を広げて聖句を唱えることもない。地球教徒ではないので、握りこぶしを掲げて大地神の名を叫ぶこともない。常識人として最低限の敬意を示すのみだ。

 

 プリンターが印刷してくださった名簿は、紙そのものの尊さを差し引いても価値がある。エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラ博士と付き合いのある人々の名簿なのだ。俺はこの名簿を『Oファイル』という題名のファイルにまとめた。

 

「この名簿は挨拶代わりだ。登録者に会いたいと思ったら、私に連絡しなさい。私が相手にそのことを伝えよう。会えるかどうかは相手次第だ。理由や目的は一切問わない。話し合いの中身には一切関知しない。見返りは一切求めない。遠慮はいらない。感謝は必要ない」

 

 名簿に添付されたメールには、そう記されていた。「自分はメッセンジャーであり、責任を負う気はない」という態度が透けて見える。

 

「気に入らないな」

 

 そう呟いたものの、内面から湧き上がる喜びを抑えられない。喉から手が出るほど欲しいものが手に入ったのだ。

 

 俺はオリベイラ博士にメールを送り、マスコミ幹部や広告代理店幹部との仲介を依頼した。意のままに動いてくれる記者は数えきれない。新聞社のデスク、キー局のプロデューサー、雑誌の編集長も抱き込んでいる。彼らは都合のいい報道を流すことができるが、都合の悪い報道を潰すことはできない。報道機関に圧力をかけるには、経営サイドとのパイプが必要だ

 

 通信画面越しに会った第四権力の長たちは、権力者というより役人に見えた。こちらの言いたいことを一瞬で理解できる。言葉は簡潔だが要点を押さえている。人当たりが良く、話しているだけで良い気分にさせられる。エリート学という学問があるなら、彼らは生きた見本例になるに違いない。だが、凄みというものに欠ける。

 

「なんだ、普通の人間じゃないか」

 

 そう呟く俺の内心は安心と失望が半々であった。相手が怪物でなかったことに安心したが、怪物であってほしいという願いは裏切られた。

 

 今の気持ちをわかってくれる人は一人しかいない。帰宅して入浴し、余所行きの服に着替えてから超高速通信のスイッチを入れた。一分もたたないうちに、高貴な老人が画面に現れる。

 

「なんだ、また質問か」

「愚痴を聞いていただきたいのです」

「政治の愚痴かね」

「ええ。閣下ほど政治にお詳しい方はおりませんので」

 

 これはお世辞でも何でもなかった。ファルストロング伯爵には、生の政治に関わった経験という得難いものがある。

 

「良かろう。愚民を導いてやるのは、貴族の義務であるからな」

「ありがとうございます」

「感謝には及ばぬ」

 

 ファルストロング伯爵は嘲るように笑うと、俺の愚痴に耳を傾けた。

 

「ふむ。権力者が小物ではありがたみがない。自分ごときでは及びのつかない大物でなくば困る。卿はそう言いたいのだな」

「その通りです」

「小物らしい言い草だ」

「寄らば大樹の陰と言うじゃないですか」

「卿は大きくなりすぎた。どんな大樹も卿にとっては小さすぎる」

「いえ、彼らが小さいんです。穴埋めで出世した連中じゃないですか」

「大物とは誰のことだね?」

「ミスター・イソベ、ミセス・パパナイ、ミスター・ブロック、ミス・エリュアール、ミスター・ヨルダンのような人です」

 

 俺は数年前までマスコミに君臨していた人々の名をあげた。「リパブリック・ポストのゴッドファーザー」パブロヴィッチ・イソベ、「フロリス街(国営放送本社所在地)の最高評議会議長」チンタラー・パパナイ、「ミスター視聴率」アルヴィン・ブロック、「広告界の女帝」オリヴィア・エリュアール、「空気製造者」ユーリ・ヨルダンらは、真の大物と呼ぶに値する存在だった。

 

「卿に叩き落とされた連中ではないか」

「彼らを追放したのはトリューニヒト議長です」

「エリヤ・フィリップスは再建会議を倒した。イソベ、パパナイ、ブロック、エリュアール、ヨルダンを同時に相手取り、完全勝利を収めた」

「俺一人の勝利ではありません。民主主義の勝利です」

「違う」

 

 ファルストロング伯爵は俺の瞳を正面から見据えた。逃げを許さないと言わんばかりである。

 

「エリヤ・フィリップスの勝利だ」

 

 三年前、ボーナム防災公園で同じ言葉を聞いた。発言したのはマティアス・フォン・ファルストロングではなく、ジョアン・レベロであった。あの時は理解できなかった。今なら理解できる。

 

「あの時はそれでも良かった。民主主義は救われた。エリヤ・フィリップスは英雄になった。めでたしめでたし。エリヤ・フィリップスの勝利は、おとぎ話として完結するはずであった」

「俺もそれを望んでいました」

「だが、物語は完結しなかった。おとぎ話の英雄は現実に飛び出した。怪物を葬った剣を振るい、さらなる高みを目指した」

「そんな大層なものではありません」

 

 俺は肩をすくめた。大きな望みがあるわけではない。自分がやるしかないと思っているだけだ。

 

「自分ならうまくやれるはず。そう信じているのであろう?」

「現状においてはそうですね」

「権力欲などよりずっと立派な野心じゃよ」

「他にできる人がいれば、俺ごときが出しゃばる必要はないんです」

 

 これは建前でも何でもなく、完全な本音であった。トリューニヒト議長が優柔不断でなければ、理想を託すこともできた。レベロ議員が軍縮論者でなければ、手を取り合うこともできた。ヤン元帥が自由至上主義者でなければ、すべてを任せることもできた。誰もできなかったから、小物が代役を務めざるを得ない。

 

「焦ることもなかろうに。卿はまだ若い。時間をかけて足場を固めればいい」

「それでは遅すぎます。猶予は残されていないのです」

「誰と戦おうというのだ? 帝国は自滅しつつある。エル・ファシル革命政府はしつこいがそれだけだ。分離主義勢力には同盟を割る力などない。あえて勝負に出る必要はないのだぞ」

「善は急げと言います。一日でも早く粛軍を実施し、腐敗を一掃しなければなりません」

 

 俺は表向きの名目である粛軍を口にした。本当の目的を明かしたところで、頭がおかしくなったと思われるだけだ。

 

「まあ、年寄りが口を差し挟むことでもないな。じゃが……」

 

 ファルストロング伯爵は興味なさそうに言い、話題を変えた。

 

「政治の話ができる知り合いは他におらんのか?」

「素人なら大勢います。プロはトリューニヒト議長と閣下だけです」

 

 我ながら未練がましいと思うが、父親のように慕った人を他人扱いすることはできない。

 

「馴染みの官僚や学者はおるじゃろう?」

「知り合いならいるんですけどね。知り合いってだけです」

「帝国軍のエリートは軍服を着た官僚だ。軍務省や統帥本部にいれば、文民と一緒に働く機会は多い。同盟軍も似たようなものではないのか?」

「同じです。国防委員会、統合作戦本部、宇宙艦隊総司令部あたりにいれば、官僚や学者と付き合う機会は山ほどあります。他省庁からの出向者がいます。嘱託として雇われた民間人研究者もいます。でも、俺はそういう部署で働いたことがないんです」

 

 出世街道を駆け上がった俺だが、本当のエリートコースを歩いたわけではない。最初は単なる事務職、その次は不人気兵科の憲兵だった。花形の艦隊畑に転じたものの、軍政や軍令の中枢とは無縁のまま過ごした。

 

 司令官が出会う文民はあくまで外部の人間だ。役人は交渉相手もしくは一時的な協力者、学者は外部有識者に過ぎない。濃密な関係は望めないのである。

 

「民間人ブレーンはわしだけなのじゃな」

「政策調整部や広報部には民間人職員がいます。その一部はブレーンとして活用できる人材です。ただ、愚痴を聞いてくれるほど親しい人はいません」

「そこが卿の最大の弱点というわけか」

 

 ファルストロング伯爵は考え込むように顎を撫でる。

 

「素晴らしい贈り物をいただきました。存分に活用させていただきます」

 

 俺はOファイルをスクリーンの前にかざした。

 

「礼ならエンリケに言うべきではないかね」

「オリベイラ博士にこれを送らせたのはあなたでしょう?」

「気づいていたか」

「あの人は小心者です。自分を嫌う相手にわざわざ声をかけたりしません。誰かの口添えがあったと考えるのが自然です」

「いらぬお節介だったか?」

 

 答えはわかり切っているのに、ファルストロング伯爵はあえて質問した。高貴な顔に悪戯に成功した悪ガキのような笑みが浮かんでいる。

 

「喜んで受け取らせていただきます」

「迷惑料だと思え」

「御冗談を。迷惑をかけているのはこちらです」

「わしは嫌われ者なのでな。付き合ってくれるのは、卿やエンリケのような物好きだけさ」

「物好きなのは伯爵閣下でしょう。俺なんかに付き合ってくださるのですから」

 

 これは社交辞令でも何でもなく、純粋な本音であった。一国の最高行政官だった人が個人的な相談に乗ってくれる。身に余る幸運だと思う。

 

「わしには家族も家臣もおらぬ。今さら亡命貴族のサロンに足を運ぼうとも思わぬ。一人で生きて一人で死ぬつもりであった。自分の所業を思えば、やむを得ないことだ。だが、退屈せずに済むのならば、それに越したことはない」

「だったらウィンウィンですね」

 

 俺は歯を見せて笑い、右手の親指を立てた。迷惑料などいらない。感謝などいらない。貸し借りを清算する必要はないのだ。ひねくれた老貴族との関係は永久に続く。続いてもらわないと困る。

 

「わしは今年で八四歳じゃ。順当にいけば、卿より四八年早く死ぬ。元気なうちに遺産を譲っておきたいのさ」

 

 ファルストロング伯爵は当たり前の事実を口にした。老人は若者より早く死ぬ。彼は俺より早く死ぬ。

 

「寂しいことをおっしゃらないでください」

 

 俺は演技者としてあるまじきミスを犯した。笑顔を作ることができなかった。

 

「悪い奴ほど長生きするという。リヒテンラーデは去年死んだ。ならば、次はわしの番であろう」

「医学上の平均寿命は九四歳。まだ一〇年もあります」

「帝国貴族の平均寿命は八三歳。わしはいつ死んでもおかしくない」

「あなたは同盟人です。だから、寿命も同盟人と同じです」

「亡命者は亡命時期によって平均寿命が変わる。亡命が早いほど老化が遅くなる。中年以降に亡命した者の寿命は、帝国人とほぼ等しい」

 

 ファルストロング伯爵は誰でも知っている常識を述べた。理由は不明だが、帝国人は同盟人より老化が早い。何も知らない同盟人がファルストロング伯爵と対面したら、九〇歳を超えた高齢者だと勘違いするだろう。有り余る富を持つ貴族も老化には勝てない。クラウス・フォン・リヒテンラーデは八三歳、リヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼンは七六歳で生涯を終えた。

 

「キング・マーキュリーは五〇歳で亡命しましたが、一八六歳まで生きました。あなただって長生きできます」

「超人と普通の人間を比べるな」

「あなたは冷酷非情のファルストロングじゃないですか。悪い奴ほど長生きするのなら、簡単には死にませんよ。一〇〇歳、いや一二〇歳まで生きます」

 

 俺は必死で食い下がった。自分でも詭弁とわかっていたが、それでも言わずにはいられない。

 

「中途半端に善行を積んでしまったのでな。図書館員の仕事を楽にしてやった。あれがなければ、一五〇歳まで生きられたのじゃが」

 

 ファルストロング伯爵の冗談は少々毒が強すぎた。一三日戦争以前の文献を含む古書二〇〇〇万冊を焼き捨てた「帝国図書館焚書事件」は、彼の悪名を不動のものとした事件である。

 

「三〇〇万人を収容所送りにした件があるじゃないですか」

「ああ、そういうこともあったな。わしにしては珍しい善行であった」

 

 知識人三〇〇万人を粛清した「正しい歴史観事件」は、帝国図書館焚書事件とともに彼の最大の悪行として名高い。

 

「そんなことを言われても……。今さらあなたを嫌いになったりはしませんよ」

「この二つだけは掛け値なしに善行だと思っているぞ。わしの本を読んだじゃろう?」

「ええ……」

 

 俺はファルストロング伯爵の著書をすべて読破した。帝国時代の過ちを率直に認める姿勢は、他の亡命者が書いた本と一線を画する。だが、帝国図書館焚書事件と正しい歴史観事件については、正当性を頑なに主張し続けた。

 

「悪党と付き合ったら、卿の名に傷がつくぞ」

「構いません」

「卿は頂点を目指しているのであろう。少しの傷が命取りになりかねん」

「頂点を取るにはあなたの力が必要です」

「卿は大きくなった。今さらわしの力など必要あるまい」

「そんなことはありません。教えていただきたいことがたくさんあります」

「ならば、別の者から教えてもらえ。わしが知っていることは、誰でも知っている」

 

 ファルストロング伯爵は子供を突き放す親のように言った。

 

「誰でも知っているのならば、あなたに教えていただきたいと思います」

「わしでなければならない理由などない」

「あなたでないと駄目なんです」

「わがままを言うな」

「マティアス・フォン・ファルストロングと同じことができる人は、たくさんいます。ですが、マティアス・フォン・ファルストロングは一人しかいません」

 

 俺はファルストロング伯爵を真正面から見据えた。首を縦に振るまで退かない。視線でそう語りかける。

 

「永久でないからといって、今すぐ別れる必要もないでしょう。その日がいつ来るかはわかりません。一年後かもしれませんし、五年後かもしれません。わかりませんが、最後までお付き合いさせてください」

「後悔するぞ」

「失うことには慣れています。軍人ですから」

「馬鹿者が……」

 

 ファルストロング伯爵はこれ見よがしにため息をついた。心底呆れたと言いたげである。

 

「ありがとうございます」

「死ぬまで付き合ってやる。だが、ブレーン探しを怠ることは許さんぞ。わしは万能ではないのだからな」

「心得ております」

 

 俺にとってブレーン探しは急務であった。安全保障は軍事力のみで成し得るものではない。前の世界のヤン・ウェンリーは百戦百勝したが、同盟を守れなかった。政治、経済、社会、法律などあらゆる分野の専門家を結集し、国家全体を視野に入れた戦略を立てる必要がある。

 

「古人は『君主の頭脳の程度は、その側近を見ればわかる』と言った。『人を見る目がある無能』なるものは存在せぬ。無知な者は専門知識をちりばめた詭弁を鵜呑みにする。実情を知らぬ者は、点数稼ぎで得た見せかけの実績に惑わされる。使える人材と役立たずを見分ける方法は一つしかない。卿自身の能力を高めることだ」

「力の限り努力いたします」

「ローエングラムを反面教師とせよ。あの男は優秀な軍人だが、軍隊以外の世界を知らなかった。知ろうともしなかった。だから、ブラッケやシルヴァーベルヒにたぶらかされたのだ」

 

 ファルストロング伯爵は、ラインハルトがブレーンに振り回されていると決めつけた。比類ない武勲の持ち主とはいえ、最終学歴は幼年学校卒に過ぎず、高等教育を受けていない。無知無学ゆえに詭弁家や空論家の言葉を鵜呑みにした。そう考えることで、自分を納得させていた。

 

「肝に銘じます」

 

 俺は二つ返事で頷いた。ラインハルトがブレーンに振り回されるとは思えない。それでも、真心からの忠告は有難いものだ。

 

「卿はハイネセンに来るのは一一月だったな」

「はい」

「最初に会った時の約束を覚えているか?」

「覚えております」

「うまい茶を飲ませてやる。ガニメデ自治領のショーグンティー。銀河にショーグンティーは数あれど、ガニメデ産の右に出るものはない」

「楽しみにしております」

「わしも楽しみじゃよ」

 

 ファルストロング伯爵は目を細めて微笑んだ。とても優しくて暖かい目だった。

 

「最後まで退屈せずに済みそうだ」

「永遠に退屈させませんよ」

 

 俺はできもしないことを言った。「最後」を「永遠」と言い換えたところで、永遠の命が約束されるわけでもない。こんなものは言葉遊びだ。馬鹿馬鹿しいが、終わりを認めるよりずっといい。

「そいつは有難い」

 

 大物は小物の逃げを許した。いつもの憎まれ口はなかった。こちらの気持ちを汲んでくれたのであろう。

 

 通信が終わり、スクリーンが真っ黒になった。形容しがたい寒々しさが心を怯ませた。ファルストロング伯爵との関係は永遠ではない。当たり前の事実がなぜこんなに恐ろしいのか。

 

 俺はファルストロング伯爵に嘘をついた。「失うことには慣れています。軍人ですから」という言葉は出まかせだ。ダーシャ・ブレツェリがいなくなった時も、レヴィ・ストークスが自決した時も、イーストン・ムーアがテロに倒れた時も、ルチエ・ハッセルが憎しみとともに死んだ時も、マルキス・トラビが自分の代わりに死んだ時も、ジュリエット・ヴィゴを射殺した時も、マルグレート・ゲーベルが殺された時も、ジュディス・ヒルが「故郷に帰りたい」と泣きながら死んだ時も、冷静ではいられなかった。

 

「ジュリエット・ヴィゴ? マルグレート・ゲーベル? ジュディス・ヒル? 誰だっけ?」

 

 知らない名前が飛び出したことに驚き、俺の脳内のサーチエンジンが起動した。ジュディス・ヒルの名前は聞いたことがある。二年前に知り合った老人が、俺が兵隊だった頃の友人だと言っていた。

 

 他の二人は何者だったか。前の世界の知り合いであることは間違いない。この世界で知り合った人間のことは覚えている。

 

「思い出せないな……」

 

 やり直した頃はそれなりに鮮明だった前の世界の記憶も、今は輪郭すら怪しくなりつつある。軍人として過ごした一六年間は勉強の連続であった。俺の頭脳の容量は大きくない。新しいことを覚えれば、古い記憶は消えていく。戦記関連の記憶は繰り返し引っ張り出してきたので、薄くなっても消えてはいない。使う機会もないプライベートの記憶が犠牲になる。

 

「まあいいや」

 

 俺は立体テレビのスイッチを入れた。非生産的な検索を打ち切ったが、生産的なことができる精神状態でもない。テレビでも見ていれば、気がまぎれるだろう。

 

「同盟はおしまいだ!」

 

 色付き眼鏡をかけた初老の男性が、大声とともに飛び出してきた。ジャーナリストのマレマ氏である。

 

「実質成長率! 失業率! 財政収支! 債務残高! 物価上昇率! 賃金上昇率! 全部、最悪だ! 同盟は崩壊間近なんだよ! 私がそう言ってるんじゃない! 数字がそう言ってるんだ!」

 

 マレマ氏は真っ赤に染まったグラフを指さしながら叫んだ。

 

「なんでトリューニヒト政権なんて支持するの!? 考えてないでしょ!? 政治は他人事じゃないんだ! 自分の事なんだよ! ちゃんと考えようよ!」

「考えて支持してるんだけどね」

 

 俺はマレマ氏に反論するように呟いた。ハイネセン主義者に任せたら焼け野原になる。精彩を欠いたトリューニヒト議長でも、元気なハイネセン主義者より百倍ましだ。そう確信している。

 

 そもそも、ハイネセン主義のモデルがおかしいのだ。公共投資の乗数をマイナス、公務員や公共事業従事者を失業者として計算している。公務員と公共事業を増やせば、経済が活性化しても成長率が低下し、失業率が上昇する。公務員と公共事業を減らせば、失業者を大量に出しても成長率が上昇し、失業率が低下する。こんなモデルに基づいた分析など、何の役にも立たない。

 

 チャンネルを変えると、真っ赤に染まったグラフとスーツ姿の若い男性が現れた。さっきの番組と比べると、ソフトな雰囲気を感じる。

 

「財政収支の対GDP比は前年比マイナス二一・六パーセント、経済成長率は前年比マイナス六・二パーセント、失業率は二六・七パーセント。この数字は何を意味するのでしょうか?」

 

 司会者は生真面目そうな表情で問いかける。

 

「帝国も大変だなあ」

 

 俺はため息まじりに同情した。敵国とはいえ、他国の窮状を手放しで喜べるほど憎んでいるわけではない。

 

「ハイネセン経済学の権威、バーナード・トリム教授に解説していただきましょう」

 

 司会者が俳優のように端整な風貌を持つ初老の男性に発言を促した。

 

「一つ一つ見ていきましょう。まずは……」

 

 トリム教授は立て板に水を流すような語り口で解説する。易しい表現とたとえ話を駆使して、難しいことをわかりやすくかみ砕く。温和な笑顔は目に優しい。柔らかい声が耳に心地良い。言葉の一つ一つが脳細胞に染み入っていく。本当に頭のいい人とは、彼のような人だ。

 

「なるほどなるほど。確かに同盟経済は……。ちょっと待て!」

 

 俺は半ば納得しかけていたが、不意に正気を取り戻した。何か何までおかしい。画面に表示されたグラフは、すべてハイネセン主義に基づいたものではないか。前提からして間違っている。

 

「こいつはトリム教授じゃねえか!」

 

 ぼんやり話を聞いていたので、この男があのトリム教授だということを忘れていた。ラインハルト・フォン・ローエングラムですら、自由惑星同盟に与えた損害という点では、彼に一歩を譲る。

 

 ハイネセン記念大学大学院経済研究科のバーナード・トリム教授は、ハイネセン経済学者の最高峰とされる。「実践できない理論は無意味」という信念を持ち、ハイネセン経済学を現実に生かすことに力を入れた。政策提言を行うだけでなく、自ら実務に携わった。

 

 トリム教授が関わった政府や企業はあまりに多いので、一つ一つ説明することはできない。国民平和会議(NPC)・進歩党連立政権の経済顧問会議議員、エル・ファシルのアマビスカ政権の経済戦略顧問、解放区民主化支援機構(LDSO)の経済改革本部長、レベロ政権の中央銀行総裁……。これらの肩書きから察してもらいたい。彼の理論は、ハイネセン主義の定義においては完全な成功を収めた。公務員と財政赤字を減らしたが、失業者を量産した。

 

 民主政治再建会議のクーデターが失敗に終わった後、トリム教授はクーデター協力者として懲戒免職になった。実のところ、協力者どころでは済まない疑惑がある。再建会議は表看板に過ぎず、「一〇愚人」と称する集団がクーデターを指導していた。彼が一〇愚人の一人だった可能性は極めて高い。

 

 憲兵隊幹部の一人は、「状況証拠のみで裁いていいなら、トリムを死刑台送りにできる」とオフレコで語った。しかし、決定的な証拠がない。ボロディン元大将が自決し、ブロンズ元大将が黙秘を貫いた。物証はブロンズ元大将の手で抹消された。トリム教授と一〇愚人を繋ぐ糸は消えた。

 

 半年もしないうちにトリム教授は復職した。現在は反戦・反独裁市民戦線(AACF)のブレーンとなり、経済政策を立案している。

 

「同盟経済を立て直す方法は一つしかありません。財政再建です」

 

 画面の中では、トリム教授が淀みなく語り続けている。

 

「付加価値税を現在の三倍に引き上げます。受益者負担の原則に則り、社会保障の受益者たる低所得層への課税を強化します。所得税は不公平な累進課税を廃止し、公平なフラット・タックス(一律税率)を導入します。国家公務員は多すぎる上に給料をもらいすぎているので、半数を解雇し、残り半数は給与を最低三割カットします。社会保障を給付型から自立支援型に転換し、社会的弱者の自立と支出削減を進めます。常備兵力を七割削減し、民間へのアウトソージングを進め、同盟軍をスリム化します。過剰な軍人向けの福祉を適正な基準に引き下げます」

「思い切った改革ですね」

「これは応急手当てに過ぎません。財政破綻を水際で食い止めた後、本当の改革を始めます。一切容赦せず、一切妥協せず、一切躊躇せず、一切手加減せず、徹底的にやります」

「徹底的にやる。これが最も困難です」

「答えは簡単にわかるんです。真面目に考えたらすぐわかる。みんな知っている。わかっていてもできない。だから、安易なバラマキに逃げてしまう」

「財政再建は財政赤字との戦いであると同時に、弱さとの戦いでもあるのですね」

「その通りです。僕はバラマキ論者や手加減論者を愚かだとは思いません。一人一人は真面目で善良です。だけど弱い。トリューニヒト議長は悪の権化みたいに言われてますけどね。実際は朗らかで優しい人なんですよ。でも優しすぎる」

「そうなのですか?」

 

 司会者は信じられないといった顔をする。

 

「そうなんだよ」

 

 俺は生まれて初めてトリム教授を支持した。

 

「僕は今でもレベロ先生を尊敬しています。あの人は本当に頭がいい。普通の人は正解を捜すんです。僕もそうです。でも、レベロ先生は違います。最初から正解しか見えていない。間違えたくても間違えられないんです。でも、挫けてしまった。刺客に襲われたのがまずかったのでしょう。だから、しょうもないアジテーターの口車に……」

「…………!」

 

 俺はブラスターをしたり顔の学者に向かって投げつけた。自分を悪く言うのは許そう。しょうもないアジテーターなのは事実だ。しかし、レベロ議員を臆病者呼ばわりすることは許さない。あの決断がどれほど勇気のいるものだったか。再建会議のど真ん中にいたくせに、そんなこともわからないのか。

 

「無知な者は専門知識をちりばめた詭弁を鵜呑みにする」

「実情を知らぬ者は、点数稼ぎで得た見せかけの実績に惑わされる」

 

 ファルストロング伯爵の言葉が頭の中を駆け巡る。トリム教授こそ専門知識を散りばめた詭弁、点数稼ぎで得た見せかけの実績の生きた見本だ。

 

 俺よりずっと頭が良くて教養のある人たちが、口を揃えてトリム教授を絶賛していた。シトレ元帥は彼のアドバイスに耳を傾けた。キャゼルヌ教授は彼の引きによって、ハイネセン記念大学に職を得た。アッテンボロー大将は彼の弟子をイゼルローンに招き、経済政策を委ねた。ハイネセン主義を信奉する者にとって、その理想を体現するトリム教授は眩しく見えるのだろう。

 

 人を見抜くことは本当に難しい。有能な人が有能ゆえに惑わされることもある。実情を知っている俺ですら、一瞬「正しいかも」と思ってしまった。あるいはトリム教授こそが本当に正しく、俺が間違っているのかもしれない。

 

 いずれにせよ、俺には走り続ける以外の道などなかった。勤務時間中は、対テロ戦や海賊討伐の指揮をとり、下から上がってくる書類を決裁し、国防委員会や統合作戦本部と折衝し、トラブル処理に駆け回り、訪問者を出迎え、外の会議に出席する。自由な時間は、肉体を鍛え、高級軍人として必要な知識を学び、私的な研究会を主宰し、華やかなパーティーに出席し、こじんまりした飲み会を開き、部下や知人の相談に乗り、同志とともに謀略を練り、総軍公式サイトを更新する。そんな日常にブレーン探しと軍事以外の勉強が加わった。

 

「寝る暇もない!」

 

 俺のスケジュールは、過密を通り越して殺人的な水準に達した。他人に任せられる仕事は可能な限り任せた。司令官としての仕事を副司令官や参事官と分かち合った。自分に集中した権限を部下に委譲し、多くのことを現場で処理できるようにさせた。それでも自分にしか処理できない仕事は山ほどある。私的な社交や話し合いは誰にも任せられない。

 

 今や自然睡眠は宝石のように貴重なものとなった。タンクベッドで体の疲れを癒し、車や飛行機の座席で自然睡眠をとり、限界が近くなったら仮眠室に駆け込む。一日の平均睡眠時間は二時間を割り込んだ。足りない分は糖分に頼った。マフィンの量が倍に増えた。

 

 七月二四日、同盟軍広報誌『ガーディアン』八月号が発売された。美男美女特集と称するだけあって、選りすぐりの美男美女が表紙を飾っている。左から一番目がアッシュ・ブロンドのセクシー美女、二番目が栗毛で雪のように白い肌の乙女、三番目が黒髪で小麦色の肌の女神、四番目が黒髪のクールなイケメン、五番目が気品と優雅さにあふれる茶髪の貴公子、六番目が見るからに軍人らしい短髪のナイスガイだ。

 

 クールなイケメンは姓をヤン、名をウェンリーという。引き締まった顔は三七歳と思えないほどに若々しい。小柄ではないが長身でもなく、美丈夫というには身長が足りない。だが、軍服をまとった肉体はひとかけらの弛みもなく、機械的なまでに正しい姿勢を保つ。オールバックにした長めの黒髪が、モスグリーンのベレーとよく似合う。その姿は生まれながらの英雄、軍人の中の軍人というにふさわしい。

 

「写真詐欺ですね」

 

 参謀長マルコム・ワイドボーン大将は決めつけるように言い放った。ヤン嫌いとしての意見ではなく、士官学校同期としての意見である。

 

「元は悪くないから」

 

 俺の言葉は社交辞令ではなく本音だった。普段のヤン元帥は表情に締まりがなく、ぼさぼさの髪を伸ばしっぱなしにして、背を丸めながら歩く。これではイケメンが台無しだ。

 

 ヤン・ウェンリーに対して辛辣な『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』ですら、その容姿を「見る人によってはハンサムに見えなくもない」と評した。表情を引き締め、髪をセットし、背筋をまっすぐに伸ばせば、「見る人によってはハンサム」が文句なしのイケメンに生まれ変わる。軍人がメディアに出る時は、国防委員会所属のスタイリストが身だしなみを整えてくれる。だから、一般人はヤン元帥をクールなイケメンだと思っている。

 

 ヤン元帥の左隣で光り輝く女神は、アマラ・ムルティ地上軍少将だ。彼女以外にヤン・ウェンリーと並び得る者はなく、ヤン・ウェンリー以外に彼女と並び得る者はいない。

 

「はあ……」

 

 俺は感嘆のため息をついた。頭が残念でも、しゃがみ方が下品でも、ヘビースモーカーでも、語尾が「っす」でも、私服が変なデザインのジャージでも、美しいものは美しい。

 

 貴公子はワルター・フォン・シェーンコップ宇宙軍上級大将、ナイスガイはダニエレ・パガーノ地上軍大佐、乙女はユスラ・メルワーリー宇宙軍大将であった。美男美女特集を組むならこの三名は外せないだろう。

 

 しかし、俺にとっては枝葉末節でしかない。大事なのはただ一人、メルワーリー大将の左隣にいる美女である。

 

 シェリル・コレット少将は右手を腰に当て、左足を前に出し、背筋をまっすぐ伸ばしている。軍服の着こなしも、髪の結び方も、ベレー帽のかぶり方も模範的で、服装規則の見本としてそのまま使えるだろう。目つきは鋭く、口元は引き締まり、戦場にいるかのような面構えだ。何もかもが軍人らしい。それなのにやたらと色っぽい。大きな瞳と厚ぼったい唇、はちきれんそうな肢体がフェロモンを放つ。下手なヌード画像よりよほどエロティックだ。

 

「…………」

 

 俺の胸は熱いものに満たされた。彼女は無事に表紙を飾った。アーサー・リンチの長女という素性が暴かれることはなかった。事情を知る人間からの横槍もなかった。逃亡者の娘がエル・ファシルの英雄と同じ表紙に収まった。シェリル・コレットは本当の意味で救われた。

 

 エル・ファシルの逃亡者エリヤ・フィリップスは、最後まで救われなかった。前の世界では宗教が飢えを救ってくれたが、逃亡者としての罪が救われることはなかった。この世界では罪そのものが存在しない。だから、自分が逃亡者とその家族を救いたかった。救済なき絶望を味わうのは自分だけでいい。

 

 表紙を飾ったことで、シェリル・コレットが歩む道はさらに険しくなるだろう。良からぬ輩に目をつけられるかもしれない。旧知の妬みを買うかもしれない。それでもいい。俺は最後まで彼女とともに歩こう。

 

 ふと、自分の思考に違和感を覚えた。なぜ、「最後まで」などと思ったのか。俺も彼女も若い。終わりを視野に入れる年齢ではないはずだ。ラインハルトが攻めてきた時、戦死する可能性はあるだろう。しかし、戦死を前提に将来を考えることはない。戦場での生死は運に左右される。死んでも仕方がないと思うが、人生設計は生き残ることを前提にする。それが軍人というものだ。

 

 もう一度、コレット少将の画像を見た。彼女の色気は生命の輝きだ。強烈な生命力が人をひきつける。死ぬところが想像できない。死んでも生き返るのではないか。

 

 ジュリエット・ヴィゴはコレット少将と正反対の女性であった。日光を浴びても暗がりにいるように見えた。不健康と退廃こそが彼女の本質であり、魅力であったのだと思う。サイオキシンをキメ過ぎて錯乱したらしく、でかい包丁を振り回しながら突っ込んできたので、仕方なく射殺した。いや、射殺なんて大層なものではない。驚き慌てて銃を撃ちまくったらたまたま当たった。死ぬとは思わなかったので、死体にすがりついて「ごめん! ごめん!」と泣き叫んだ。

 

「…………」

 

 何かがおかしい。なぜ、ジュリエット・ヴィゴの記憶がよみがえったのか? 彼女を殺したのは前の世界の宇宙暦八〇二年、実時間にして六二年前のことだった。それなのに昨日の事のように感じる。

 

 俺はトイレに行って鏡の前に立った。ごくありふれた童顔も、白髪一つないふさふさの赤毛も、つやつやした肌も一六年前とまったく変わらない。激務の疲れは隠しようもないが、それでもなお若さに溢れている。

 

「つまり、決戦の時は近いってことか」

 

 鏡の中にいる若々しいというより幼い顔を見れば、そう考えるより他にない。本能がラインハルトを脅威として認識した。若さが有り余っていても死にかねない。だからこそ、最後を意識し始めたのではないか。

 

 この推測が正しいならば、時間との勝負になる。ラインハルトとの差は絶望的なまでに大きい。ブレーントラスト一つをとっても、向こうは政府を組織できるレベルの質と量を備えている。形成途上の俺とは比較にならない。数か月で追いつけるのだろうか。同盟軍を掌握すれば、戦力面では優位に立つ。持てる戦力をすべて動かせるわけではない。統合作戦本部長の上には、最高評議会議長と国防委員長がいる。全権を掌握したラインハルトは戦力を好きなように動かせる。

 

 ラインハルトは、前の世界で同盟を攻める前に成し遂げたことをほぼやり終えた。自由と平等はもはや揺るぎない。同盟人の間にも肯定的評価がわずかながら芽生えてきた。

 

 俺の周囲には多様な人材が結集しつつある。綺羅星のようなオリベイラ人脈の中から、ハイネセン主義者ではない人物を選んだ。トリューニヒト政権で幅を利かせる俗流知識人でもなく、「右でも左でもなく中立」と称する反共和制主義者やレイシストでもない。フェザーン帰りが多くなるのは必然的な成り行きであった。

 

 決戦の時は近い。帝国は引き絞られた弓のようにその時を待ち構える。同盟は弦が切れた弓のように緩み切っているが、頑張って締め直そうではないか。


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