銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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最新話改訂分です。説明不足が目立ったため、後半を加筆修正しました。


第118話:壊し屋ラインハルト 803年12月1日~804年3月中旬 第一辺境総軍司令部

「体制に対する民衆の信頼を得るには、二つのものがあればよい。公平な裁判と公平な税制度。ただそれだけだ」

 

 一二月一日、救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラムはテレビ演説を行い、司法改革と税制改革に取り組む意思を示した。

 

「なんてことだ……」

 

 部下の半数が驚きの声をあげ、残り半数が絶句した。チュン・ウー・チェン副参謀長ですら、パンがのどを通らないといった様子だ。

 

「民衆と握手した次の日に、民衆弾圧を宣言するとは……」

 

 彼らは「公平な裁判と公平な税制度」を民衆への宣戦布告だと受け止めた。弱肉強食の国における「公平」は、強者優遇と弱者抑圧を意味する。ラインハルトがいずれ民衆弾圧に転じることは予想できた。勤王家がいつまでも甘い顔をするはずはない。しかし、暴動終結宣言の翌日に方針を転換するとは思わなかった。

 

 ファルストロング伯爵は高貴な顔に満面の笑みを浮かべた。ラインハルトが民衆弾圧に転じるまでの期間を「半年から一年」と見積もっていたので、予想を外したことになる。それなのに嬉しそうだ。

 

「このタイミングで仕掛けるとはな。恐ろしい男じゃ」

「ローエングラムは政治の要諦をわきまえておる」

「統治の天才とはあの男のことであるな」

「ノイエ・シュタウフェン公に匹敵する名宰相になるであろうよ」

「一〇年もしないうちに、帝国は隆盛に向かうであろう」

 

 八三歳の元国務尚書が五六歳年下の帝国摂政を手放しで褒めちぎった。「政治家の力量と動きの速さは比例する」というのが彼の持論である。

 

「そうなったら困るんですけどね」

 

 俺は曖昧な笑顔を浮かべた。ラインハルトが民衆弾圧に転じるとは思えなかったが、あえて議論する気もなかった。この世界で知り得る情報だけで判断するならば、ラインハルトが「苛烈な弾圧者になる」と推測するのは正しい。

 

 一二月二日、救国軍事会議常任委員会は、逆進課税廃止と累進課税導入を決定した。所得税、資産税、相続税に累進課税を適用するという。

 

「馬鹿な! ありえない!」

 

 部下の半数が驚きの声をあげ、残り半数が絶句した。チュン・ウー・チェン副参謀長ですら、潰れたパンを手にしたまま立ちつくしている。

 

「逆進課税を廃止するとは……、同盟が議会制度を廃止するようなもんだぞ……」

 

 帝国出身の情報部長ハンス・ベッカー少将が呆然として呟いた。奴隷解放論が「真の強者を見出す手段」として語られる国において、逆進課税は神聖不可侵の制度である。緩和するだけでも「不当な弱者優遇だ」と非難される。急進改革派ですら廃止論を口にすることはない。そんな制度が何の前触れもなしに廃止されたのだ。

 

「前例がないわけではないが……」

 

 歴史に詳しい参謀長マルコム・ワイドボーン大将が、ため息まじりに言った。逆進課税を廃止した皇帝が一人だけいる。その結果は惨憺たるものだった。

 

「滅びるんじゃないの……」

 

 人事部長イレーシュ・マーリア少将は腕を組み、懸念するような目をテレビに向けた。逆進課税なき帝国は存続できないだろうし、存続できたとしても帝国を名乗る別国家になるだろう。いずれにしても帝国はおしまいだ。

 

 家に帰った後、当然のように超高速通信を入れた俺は後悔した。スクリーンの向こう側にいたのは皮肉屋の老貴族ではなかった。人間の形をした怒気であった。

 

「奴は発狂したのか!? サイオキシンでもやったのか!?」

「ローエングラムは政治を分かっておらん!」

「無知無能とはあの男のことじゃ!」

「痴愚帝に匹敵する低能じゃ!」

「三年もしないうちに、帝国は滅亡するぞ!」

 

 ファルストロング伯爵はラインハルトにあらん限りの罵倒を浴びせた。長い付き合いだが、彼がここまで怒るのを見たことはない。

 

「いいか、逆進課税とは――」

 

 ひとしきり怒った後、ファルストロング伯爵は逆進課税の意義を語り始めた。帝国は逆進課税なくして存立し得ない。所得や資産が多い者の負担を軽くするのは「努力への報酬」、所得や資産が少ない者の負担を重くするのは「怠惰への懲罰」である。ルドルフ大帝が掲げた「弱肉強食、適者生存、優勝劣敗」「努力は必ず報われる」という原則とも合致する。これほど公平な税制はない。

 

「…………」

 

 俺は何も言わずに話を聞いた。頭の鈍い小物でも、相手が肯定や共感を求めていないことは理解できる。

 

 ファルストロング伯爵は妄信者でもないし頑固者でもない。逆進課税の緩和がきっかけで保守派の支持を失った人だ。限界を理解できる程度の見識はある。緩和できる程度の柔軟さもある。そんな人でも制度そのものを心情的に否定できない。

 

 一二月三日、救国軍事会議常任委員会は、貴族の法的特権をすべて廃止した。貴族は特別裁判所によって裁かれる権利、拷問を受けない権利(一般犯罪で逮捕された時のみ)、身体刑を受けない権利、恥辱刑を受けない権利、労働刑を受けない権利、名誉ある方法で処刑される権利、決闘の権利、仇討ちの権利を失った。

 

 一二月五日、救国軍事会議常任委員会は、間接税の減税に踏み切った。帝国税制は間接税から直接税に大きくシフトした。

 

 帝国はすさまじい勢いで変わっていった。人頭税の廃止、利子や配当や賃料収入に対する税率引き上げ、国税総局の権限強化、納税手続きの簡略化、帝国腐敗防止委員会の創設、身分による法的差別の禁止、刑法と民法の改正、政府機関や公務員による人権侵害を防ぐ法律の制定、一般犯罪者に対する拷問の禁止、身体刑と恥辱刑の廃止、残虐な処刑法の廃止、決闘と仇討ちの禁止、裁判の独立性確保などが年末までに決定された。

 

 ラインハルトは改革の内容を全臣民に知らしめた。救国軍事会議と中央官庁の記者会見を定例化し、帝国全土に向けて放送した。反体制系を含めたすべてのマスコミに詳細な資料を配った。

 

 救国軍事会議は、「全銀河が帝国領である」という建前を愚直なまでに守り、同盟市民も改革の内容を伝えるべき臣民とみなした。定例記者会見にサジタリウス方言(同盟公用語の帝国側呼称)の字幕を付け、同盟国内に向けて放送した。公開資料を同盟マスコミのフェザーン支局に送り付けた。

 

 同盟の世論は「うまくいくはずがない」と「どうでもいい」に二分された。改革と名がつくものに期待するほど無邪気ではない。自由主義や人道主義に幻想を持つほどピュアでもない。解放区改革やレベロ改革を目の当たりにした経験がそうさせた。

 

 帝国専門家は否定的な見解を示した。一〇〇人中一〇〇人が「失敗する」と太鼓判を押す。帝国に詳しいがゆえに、ラインハルトの無謀さが理解できる。

 

 一月三日、帝国は新税制を施行した。累進課税導入と間接税減税により、低所得層の負担は半分以下になった。高所得層の負担は数倍に膨れ上がった。

 

 新税制の最大の被害者は諸侯である。所領からの税収や公営企業の収益も所得に含まれた。先祖から受け継いだ株式や債券や不動産や美術品は、資産税の課税対象だ。超高額所得者であり超資産家である彼らにとって、累進課税は凶器以外の何物でもない。

 

 故クラウス・フォン・リヒテンラーデの支持者はさらに酷い目に遭った。免税特許状によって免れた税金は滞納扱いとなり、追徴金を上乗せして請求された。当主が処刑されたり隠居させられたりした家には、最高税率九五パーセントの相続税がのしかかる。

 

 巨額の請求書を突き付けられた諸侯は、領民に負担を転嫁しようと試みた。彼らには税率決定権と交易独占権がある。故クラウスが貴族への課税を実施した時、地方税の増税と生活必需品の値上げによって損失を補填した。貴族課税を口実にして増税や値上げを実施して、納めた税金の何倍もの収入を得た者も少なくなかった。今回も同じ方法を使えばいい。

 

 一月四日、救国軍事会議常任委員会は、「地方税を増税した者や生活必需品を値上げした者に追徴金を課す」との通達を出した。

 

 領民を搾取できなくなった諸侯には三つの選択肢が残された。一つは借金、一つは物納、一つは支払い拒否である。巨額の税金を現物で納めたら、資産がなくなってしまう。支払いを拒否したら処罰されかねない。借金が一番ましな選択であろう。政府系金融機関ならいくらでも金を貸してくれる。

 

 四日一三時、救国軍事会議常任委員会は、特定の社会的身分を対象とする金融サービスを禁止した。領主向けの無利子融資を専門とする特別金融公庫、政府系金融機関による貴族向け低利融資などが廃止された。

 

 資金調達ルートを絶たれた諸侯は、税金を払って無一文になるか、支払いを拒否するかの二択を迫られた。どちらを選んでも破滅の道である。

 

「諸侯が黙っておるまい。内乱が起きるぞ」

 

 ファルストロング伯爵は深刻な表情でそう言った。

 

「そんな力が残っているのでしょうか?」

「力があるかどうかは関係ない。戦わねば諸侯は滅びる。万に一つしか勝ち目がなくても、戦わずに破産するよりはましだ」

「兵が集まらなければ戦えませんよ。平民が諸侯に味方するとは考えにくいです」

「恐怖を煽ればいい。弱者を優遇する連中についていけるのか? 慣れ親しんだ習慣を踏みにじる連中についていけるのか? 人間は簡単には変われない。変わることへの恐怖の前では、多少の実利など意味を持たぬ」

「おっしゃるとおりです」

 

 俺には頷く以外の選択がなかった。ファルストロング伯爵の意見は正しい。帝国領で戦った経験がそう教えてくれる。

 

 前の世界の記憶は「違う」と言い張った。リップシュタット戦役とその後のクーデターで、力のある諸侯はことごとく粛清された。生き残った諸侯は手をこまねいているうちに特権を奪われた。当時の状況と帝国の現状は酷似している。同じ展開をたどるのであれば、ファルストロング伯爵の予想は外れるだろう。

 

 しかし、知識と経験が前の世界の記憶を否定する。既得権益を死守しようとする諸侯と戦った。古い価値観に固執する平民と出会った。五〇〇年かけて浸透した価値観が、五年で変わるとは思えない。間違いなく反乱が起きる。それ以外の答えは出せない。

 

 幕僚たちに意見を聞くと、全員が「内乱が起きる」と答えた。チュン・ウー・チェン副参謀長、ラオ作戦部長、イレーシュ人事部長らは、ラグナロック戦役を開戦から終戦まで戦い抜いた。ワイドボーン参謀長、アブダラ副参謀長、ウノ後方部長らもラグナロックに参加した。ベッカー情報部長は帝国で生まれ育った。彼らの知識と経験は本物だ。

 

 帝国専門家も「内乱発生」で一致していた。ラシュワン・テルヌーゼン星立大学教授、コーマック前国務事務総長、カンパタ前ケリム星系首相、メイウェザー自由と権利センター所長といったLDSO系残党は信用に値しない。オザキ・ハイネセン記念大学平和研究センター所長、アータシ中央自治大学教授らアカデミシャンは、LDSO残党の共犯者である。だが、クライトロプ元ミズガルズ特務機関長、チー元駐フェザーン副高等弁務官ら実務経験者は信用できる。

 

 一月五日午前八時、ラインハルトは各地の救国軍に税金取り立てを命じた。力ずくで諸侯から税金を取ろうというのだ。内乱は秒読み段階に入ったかに思われた。

 

 二一時、アイランズ国防委員長は、イゼルローン総軍総司令官ヤン・ウェンリー元帥を司令官とする統合任務部隊「ヘルメット」の編成命令を発令した。帝国有事に備えるための部隊である。イゼルローン総軍、第一辺境総軍、第七艦隊、第一〇艦隊、第二地上軍、第五地上軍が、ヘルメットに加わることとなった。

 

 治安出動命令を受けた第四艦隊と第六艦隊が、イゼルローン回廊の帝国側出口を塞いだ。国境を完全に封鎖したのである。

 

「どうなるんだ……」

 

 俺はマフィンを口に放り込み、砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを喉に流し込む。腹が痛くてたまらない。心臓が前後左右に飛び跳ねる。

 

「少なくとも兵が死ぬことはありません」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はのほほんとした顔で応じる。胸ポケットから頭をのぞかせるサンドイッチが頼もしい。

 

「治安出動だからね。介入する意思はない。混乱の波及を防ぐための出動だ」

「気楽にいきましょう。おととしよりずっと楽ですよ」

「そうだね」

 

 俺はにっこりと笑い、潰れたサンドイッチを受け取って食べた。ちょうどいい潰れ具合だ。腹痛が少し和らぎ、心臓が少し大人しくなる。

 

「事態が急に動くことはないはずだ。一休みしよう」

 

 最低限の人数を司令部に残し、残りの者を帰宅させた。俺自身は仮眠室に入って休憩をとる。この先は長丁場だ。体力を蓄えておかなければならない。

 

 一月六日午前五時、俺はベッドから飛び上がった。真っ暗な仮眠室に緊急速報の恐ろしげな音が鳴り響く。通信スクリーンに首席副官ユリエ・ハラボフ大佐が現れる。

 

「国防委員会より緊急連絡です。帝国政府は駐フェザーン同盟高等弁務官事務所に対し、救国軍が行動を開始すると通知しました」

「なんだって!」

 

 俺はもう一度飛び上がり、ベッドから無様に転げ落ちた。当面は武力行使をちらつかせつつ、諸侯に税金支払いを迫るものと思っていた。いきなり兵を動かすとは予想もしなかった。

 

 ハラボフ大佐が迎えに来たので、一緒にオフィスへと向かった。ピンク色のキックボードに乗って早朝の廊下を駆ける。右側を並走するハラボフ大佐も、キックボードの恥ずかしいデザインも気にならない。

 

 オフィスには幕僚たちが集まっていた。帰宅した者もじきにやってくる。チーム・フィリップスは臨戦態勢に入った。

 

 メインスクリーンに異様な光景が映った。帝国宇宙軍陸戦隊の軽装甲服を着用した集団が、巨大な城館を包囲している。歩兵戦闘車や自走砲の姿も見られる。「臨時国税徴収官」と書かれた同盟公用語のテロップが重ねられた。

 

「これより交渉を開始する!」

 

 帝国語の掛け声とともに、臨時国税徴収官が突入した。反乱する暇もごまかす暇も与えない。武力を用いた「交渉」は大成功を収めた。

 

 近衛兵総監オーベルシュタイン上級大将は帝国債権管理公社総裁を兼務し、国が諸侯に貸し付けた金の回収に乗り出した。装甲服を着た「債権管理公社職員」が、債務者を経済的にも精神的にも追い込み、財産を剥ぎ取る。公社が有する債権は相続放棄の対象外なので、自殺しても逃れることはできない。血も涙もない取り立ては、「オーベルシュタインの切り取り」と称された。

 

 財政破綻の危機に陥った諸侯に対し、救国軍事会議は領地返上を命じた。「領主としての義務に耐えうる財力がない」という理由である。財力を奪った張本人がこんなことを言い出すのだから、マッチポンプとしか言いようがない。

 

 身勝手極まる命令であったが、大多数の諸侯は唯々諾々と従った。抵抗しても勝ち目はない。領地を返上すれば、政府が債務を肩代わりしてくれる。どちらを選ぶかは自明の理であった。

 

 理より誇りを選ぶ者もわずかながらいた。その代償は死であった。討伐軍が城館に攻め寄せた。私兵は給与支払い能力がない主君を見捨てた。傭兵を雇う金などない。一族や譜代家臣ですら逃げ出した。ごくわずかな忠臣だけが残った。こうなることがわからなかったわけではない。それでも諸侯としての誇りを捨てられなかった。

 

「私は帝国貴族だ。醜い生より美しい死を選ぶ」

 

 シュトレーリッツ公爵は降伏勧告を拒絶すると、高楼に昇って火を放ち、ヴァイオリンを弾き始めた。ルドルフがこよなく愛したワーグナーのタンホイザーである。妻子や家臣も手にした楽器を奏でた。炎が高楼を包んでも、旋律は乱れない。ルドルフの最古の同志ジョン・プレスコットの末裔にして、ブラウンシュヴァイク家に匹敵する名家はその歴史に幕を閉じた。

 

「貴様らには何も渡さぬ! 我が首も陰陽鍋もな!」

 

 ディーマー子爵が敵兵に向かって高笑いした瞬間、地面が炸裂した。稀代の名鍋「陰陽鍋」と敵兵数百人を道連れに自爆したのである。

 

「拙者がサムライの死に方を見せてやろう。後世の手本とせよ」

 

 ギスト男爵はサムライの作法で死ぬと宣言した。フジヤマが描かれた敷物をベランダに敷き、その上に正座する。身にまとっているのはゲイシャ装束だ。末期の食事としてスシとテンプラを食する。肌脱ぎになって短刀を腹に突き立て、十文字に切り裂く。後ろに立った従者が「カイシャクイタス!」と叫び、主君の首に刀を振り下ろす。古の作法に則った見事なハラキリであった。

 

「我らは弱さゆえに滅びるのではない! そのことを証明しようではないか!」

 

「暴風ウォルフ」の異名をとるリブニッツ侯爵は、一族郎党二八騎とともに打って出た。二メートル近い大斧が敵をなぎ倒す。愛馬「アルプスの白」が敵を踏みにじる。甲冑と馬鎧が銃撃を跳ね返す。兵士数百人を殺し、塹壕を突破し、連隊長や大隊長を斬り、軍旗を奪う。激戦の中で部下が討ち死にし、愛馬が倒れた。満身創痍の暴風ウォルフは自刎して果てた。

 

「せめて一太刀浴びせよう。そうしなければ、ご先祖に申し訳が立たぬ」

 

 ローベンシュタイン子爵は一族や家臣を降伏させた後、一人で敵を迎え撃った。狭い廊下に陣取り、ゼッフル粒子をばらまき、秘蔵の名剣数十本を床に突き刺す。突っ込んでくる敵兵を装甲服ごと切り裂く。剣が折れたら新しい剣を抜いて戦い、最後の剣が折れるまで戦って死んだ。

 

「家祖アルベルト卿が大帝陛下より賜りし領地、むざむざと明け渡したりはせぬ!」

 

 モンハウプト伯爵は一族郎党数百人を率いて城館に籠城した。討伐軍の攻勢を三度にわたって退けたものの、数の力に押し切られた。伯爵は銃撃を浴びて倒れたが、「わしは伯爵だ! 皇帝陛下の御前以外では膝をつかぬぞ!」と叫んで立ち上がり、空を見上げて敬礼する「宮城遥拝」の姿勢で息絶えた。

 

 彼らの悲愴な死とともに、諸侯の時代が幕を閉じた。領地を返上した者は帝都に移り住み、屋敷と年金を与えられた。爵位は完全な名誉称号に成り下がった。

 

「ゴールデンバウム王朝は終わった。自ら幹を切り倒したのだ。木が立っていられるはずもない」

 

 ファルストロング伯爵の嘆きは、開明派を除く帝国人すべてに共通するものであったろう。諸侯は領地を治めるだけでなく、軍部や官界でも重きをなしてきた。貴族、軍部、官僚の三位一体体制は、実質的には諸侯の一極体制であった。帝国は最大の支柱を失ったのである。

 

 諸侯の没落は同盟市民にも大きな衝撃を与えた。ジギスムント痴愚帝が国庫を破綻させても、アウグスト流血帝が虐殺の限りを尽くしても、ヘルベルト大公が大敗を喫しても、国民数十億人がサジタリウス腕に逃げても、アッシュビーが宇宙艦隊を壊滅させても、同盟軍が帝都を攻略しても、諸侯は生き残った。帝国が滅亡しても、諸侯は生き残ると思われた。そんな連中がほんの数か月で失墜したのだ。驚かずにはいられない。

 

「帝国の終焉をこの目で見ることになるとは。何が起こるかわかりません」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は、珍しくため息をついた。ポケットからはみ出したパンの耳もどこか弱々しい。

 

「ローエングラム公だからね。何でもありだ」

 

 俺はお手上げといった感じで肩をすくめた。

 

「彼は天才的な壊し屋です。帝国を数か月で壊してしまいました」

「壊れたのは古い帝国だ。これから新しい帝国が生まれる」

「無理でしょう。再建不能ですよ」

「ローエングラム公は貴族財産三三〇兆マルクを手に入れた。やりたいことは何でもできる。天才の閃きがすべて現実になる。再建できないわけがない」

「貴族財産は遊休資金ではありません。地方行政を運営するための金であり、公務員や私兵に給与を支払うための金であり、金融市場に投資するための金です。ローエングラム公は三三〇兆マルクを地方と金融市場から引っこ抜いた。途方もない混乱が起きますよ」

 

 帝国に詳しい者から見れば、ラインハルトの諸侯潰しは狂気の沙汰であった。地方政府と公営企業と大口投資家を一挙に潰したのだ。諸侯が不当な既得権益を貪っていたことは事実だが、地方行政と金融市場を担ってきたことも事実である。簡単に潰していい存在ではない。

 

「彼ならうまく抑えるさ」

「どうやって抑えるのです?」

「彼は天才だ。俺たちが想像もしない方法で……」

 

 俺は小声で答えた。実のところ、「前の世界のラインハルトはうまくやった」以外の根拠はなかった。ラインハルト以外の人間が同じことをやったら、俺も「狂っている。絶対失敗する」と答えただろう。

 

「戦争の天才が統治の天才であるとは限りません」

 

 マルコム・ワイドボーン参謀長がはねつけるような口調で言った。他人の間違いを指摘する時、彼は必要以上にきつくなる。

 

「ローエングラム公はジョリオ・フランクールの同類です。戦争と政治の区別がついていない。敵を倒すことが政治だと勘違いしている。抵抗勢力を排除すればうまくいく。既得権益を破壊すればうまくいく。腐った人間を粛清すればうまくいく。その程度の認識しかないんですよ」

「そうは思わないけど……」

 

 俺の弱々しい言葉は賛同の声にかき消された。柔軟なチュン・ウー・チェン副参謀長も、帝国出身のベッカー情報部長も、常識人のイレーシュ人事部長も、リベラルなメッサースミス作戦副部長も、帝国嫌いのバウン作戦副部長も、その他の者もワイドボーン参謀長を支持した。

 

 プロは可能性があるかどうかではなく、高いかどうかで判断する。ラインハルトの改革が成功する可能性は限りなく低い。夢見がちなLDSO残党、理論先行のアカデミシャン、シビアな軍出身者、帝国を肌で知っている情報機関出身者が「改革は失敗する」と口を揃えた。

 

「平和将官会議議長シドニー・シトレ、元予備役総隊司令官ドワイト・グリーンヒル、ハイネセン記念大学経済研究所教授アレックス・キャゼルヌ、ハイネセン記念大学平和研究センター准教授ジャン=ロベール・ラップ……」

 

 俺は改革批判者の中に見慣れた名前を見出した。ヤン・ウェンリーに評価された人々ですら、ラインハルトが失敗すると判断したのだ。

 

 イゼルローン総軍内部の情報提供者によると、ヤン元帥もシトレ元帥らと同じ見解を抱いているらしい。もっとも、それが本心かどうかは不明である。ヤン元帥は親しいごく少数の人間以外には本音を明かさないからだ。情報提供者はイゼルローン総軍上層部の一員だが、ヤン元帥の側近ではなかった。

 

「彼は無視してもいい」

 

 俺はヤン元帥の名前の横にバツ印を付けた。彼の政治的識見は、平凡な良心的知識人の域を一歩も出ない。ラインハルトの改革を評価する可能性は低いし、評価したとしても他人事のように評論するだけだろう。

 

 人々は帝国の混乱が同盟国内に波及することを恐れた。同盟と帝国は国交を結んでいないが、金融と貿易によって深く結びついている。帝国の混乱は同盟経済に悪影響を及ぼす。難民が国境宙域に押し寄せることも考えられる。

 

 帝国崩壊が半ば確定した未来として語られる現状において、帝国脅威論は絵空事のように思われた。存続すら怪しい国の軍事力など恐れるに足りない。おととしに攻めてきた帝国軍は弱かった。今の帝国軍はさらに弱体化しているはずだ。イゼルローンに攻め寄せたところで、難なく撃退できる。それ以前に出兵する余力があるかどうかすら怪しい。

 

 本土防衛計画の中止を求める声が急速に高まった。帝国軍が同盟本土に侵攻する可能性は限りなく低い。崩壊しつつある帝国相手の軍拡競争が必要だとは思えない。反戦派は計画の即時打ち切りと軍縮を求めた。主戦派は計画の必要性に疑問を呈し、星間テロや宇宙海賊などの差し迫った脅威にリソースを集中するべきだと主張した。

 

 三月上旬、国防委員会は本土防衛計画の研究を打ち切った。内外からの批判に押し切られたのである。

 

「自分がやるしかないか」

 

 俺は独自に本土防衛計画の研究を進めていた。対案として示すつもりだった案が、唯一の案になる。自分の作った計画が来るべき戦いを左右するのだ。気合いを入れなければいけない。

 

 決意を新たにした時、幕僚が面会を求めてきた。ワイドボーン参謀長、チュン・ウー・チェン副参謀長、アブダラ副参謀長、ラオ作戦部長、ベッカー情報部長、ウノ後方部長、イレーシュ人事部長、ファドリン計画部長、マー通信部長の九名である。

 

「主要メンバーが勢揃いか。ちょうど良かった。今から本土防衛計画の研究を……」

「私たちもそのことで話に来たんだよ」

 

 イレーシュ人事部長が機先を制するように言った。敬語を使わないのは、プライベートの話ということだ。

 

「本土防衛計画の研究、中止してほしいのよね」

「理由を聞かせていただけますか?」

「若い子が嫌がってんのよ。こんなことに時間を使いたくないって」

「でも、大事な研究です」

「君個人の研究でしょ。公務としてやる研究じゃない」

「書類上は公務として扱っていますし、残業代も割り増ししています」

 

 俺は最大限に配慮していることを強調した。自分が個人的にやっている研究なので、勤務外の時間を使うしかない。幕僚には本当に申し訳ないと思う。だからこそ、最大限に気を遣った。

 

「そういう問題じゃないの。若い子はその研究に意義を感じていない。公務なら意義なんて感じなくていい。でも、君の個人的な研究だからね。意義がなきゃ付き合えないよ」

「帝国は必ず攻めてきます。その時のために計画を立てておかないと」

「イゼルローンを突破できる戦力なんてないでしょ」

「敵がイゼルローンから来るとは限りませんよ」

「じゃあ、どこから来るの? フェザーンなんて言わないよね?」

「…………」

 

 俺は言葉に詰まった。「フェザーンから来る」と口にしたら、ここにいる九名は「そんな妄想に若い子を付き合わせるのか!」と怒るだろう。

 

 真面目に考えたら、フェザーン侵攻は狂気の沙汰である。銀河は三つの国に分かれているが、経済的にはほぼ一体化している。フェザーンが武力制圧されたら、国際金融と国際貿易の中心地が混乱し、国境を越えた金や物や人の流れが止まる。攻めた側も巨大な経済的損失を被るのだ。自治領主府や財閥から財産を接収したら、経済的混乱がますますひとくなり、接収した額以上の損失が生じる。

 

 フェザーンが帝国軍を招き入れたとしても、同盟との交流が遮断されるし、大軍の存在そのものが混乱を引き起こす。どのみち、経済的混乱は避けられない。フェザーンと帝国の双方が狂っていなければ実施できない策だ。

 

 戦記を読むと「フェザーンに侵攻しないのはおかしい」と思えるが、実際は侵攻する方がおかしいのだ。フェザーン侵攻計画は何度も作成された。同盟軍や帝国軍がフェザーン突入の構えを見せたこともあった。だが、それらはフェザーンに譲歩を迫るためのブラフに過ぎず、本気で侵攻する者はいなかった。だからこそ、人々はフェザーン侵攻の可能性を無視できた。

 

 フェザーン侵攻の可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近い。予算と人材と時間は有限である。小数点以下の確率に注ぎ込めるリソースなど、どこにもなかった。

 

「答えられないよね」

「はい」

「ぶっちゃけ、上司の家の草むしりと同じなのよ。意義も根拠もないって点ではね」

「草むしりですか……」

 

 俺は打ちひしがれたような気持ちになった。他の人間が意義を感じていないことはわかっていたが、草むしり並みとは思わなかった。

 

「うちはめちゃくちゃ忙しいでしょ? 残業や休日出勤は当たり前。帰宅後の呼び出しもある。で、少ない空き時間をどうでもいい研究にとられるわけよ。休みたくても休めない。勉強したくても勉強できない。若い子はみんなストレスためてるのよ」

「それはわかっています。申し訳ないと思います」

「申し訳ないと思ってるなら、休ませてあげて」

「研究をやめるわけにはいきません。埋め合わせはします。残業代を増やします。昇給や賞与にも色を付けます。次の異動は希望通りの配置になるようにします」

「無理。そういう問題じゃないから」

「どうにかなりませんか?」

「ならないよ。君をパワハラで訴える動きもあるし」

「パワハラになるんですか!?」

 

 俺は目を丸くした。パワハラ撲滅に尽力してきた自分が、パワハラで訴えられるとは思わなかったからだ。

 

「草むしりと同じだからね。ガイドラインが改訂されたら、パワハラじゃなくなるけど。君は改訂反対派だったよね?」

 

 イレーシュ人事部長は諭すような口調で言った。透き通るような青い瞳には強い決意がこもっている。真心からの諫言であった。

 

「……わかりました。本土防衛計画の研究は中止します」

 

 俺は肩を落とした。恩師にここまで言われてはどうしようもない。

 

「よかった」

 

 イレーシュ人事部長がほっとしたように微笑んだ。

 

「ご配慮いただき感謝いたします」

 

 ワイドボーン参謀長が一同を代表して感謝を口にする。

 

「丸く収まったことですし、腹ごしらえといきましょう」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が潰れたパンをポケットから取り出し、この場にいる者全員に配る。空気が一気に柔らかくなった。

 

「焦ることはないよ。君は次期統合作戦本部長の最有力候補なんだから」

 

 イレーシュ人事部長が俺の肩をぽんぽんと叩く。

 

「フィリップス提督の評価はこの半年で急上昇しましたからな」

 

 ベッカー情報部長が自分のことのように目を細める。

 

「大したことはしてないんだけどなあ」

「他の上級大将は、大したことではないことすらできませんから」

「まあね」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。この半年間は辺境問題への対応に忙殺されてきた。現地政府との友好関係を築き、住民の反中央感情をなだめ、部下の非行を取り締まり、右翼の策動を阻止し、独立運動や反基地運動の拡大を防いだ。

 

「おかげでマフィンの量が倍増した」

 

 そう言ったのはウノ後方部長であった。

 

「心の声を横取りするなよ」

「たまにはいいじゃないですか」

「構わないけどな」

 

 憮然とした表情を作りつつも、満更ではなかった。新参のウノ後方部長もすっかりチーム・フィリップスのカラーに馴染んだ。それがとても嬉しい。

 

 第一辺境総軍司令官職は二期目に突入した。八〇六年二月に任期満了となるが、その前に交代する可能性が高い。

 

 統合作戦本部長ビュコック元帥は、早くて今年末、遅くとも来年春には引退するとみられる。トリューニヒト議長にとって、名声はあるが政治力も人脈もない老元帥は理想の本部長であった。辞表を提出するたびに突き返された。だが、市民の間から「ビュコック元帥がかわいそう」との声が出ており、これ以上引き留めるのは難しい。

 

 大きなトラブルを起こさなければ、俺がビュコック元帥の後任になるだろう。国防事務総長ベネット元帥、宇宙軍幕僚総監アル=サレム上級大将、地上軍幕僚総監カンディール上級大将らは、ラグナロック以降は見るべき功績がなく、過去の人になりつつある。中央総軍司令官ギーチン上級大将は、俺の対抗馬として立てられた人物だが、失敗を重ねて予備役送りとなった。辺境総軍司令官四名は精彩に欠ける。

 

 最大のライバルは、やはりイゼルローン総軍総司令官ヤン・ウェンリー元帥だ。功績も名声も俺を上回る。市民は「ヤン・ウェンリー抜きの対帝国戦などあり得ない」と思っている。同盟世論が帝国への介入に傾いたら、彼が総司令官となり、大勝利を収めるだろう。俺の優位を覆す可能性を持つ唯一の人物であった。

 

 それでも、最終的には俺が勝つだろう。ラグナロック戦役以降、同盟市民は帝国への出兵を嫌がるようになった。捕虜回収という大義名分のある復員支援軍ですら、激しい反対意見に晒された。トリューニヒト政権は世論に逆らえない。軍部には「帝国に出兵しても、ヤンに武勲をプレゼントするだけだ」という声もあり、出兵を望む者はいなかった。国内問題に比重を置いている間は、ヤン元帥の出番はないはずだ。

 

 上院選挙は二週間後に迫っている。経済問題が最大の焦点であったが。ここに来て帝国問題が注目を集めた。

 

 帝国経済の混乱が同盟に波及しつつある。原料価格が急上昇し、物価高に拍車をかけた。帝国向けの輸出は大きく落ち込んだ。帝国領内に進出したフェザーン企業の業績が軒並み悪化し、フェザーン株に投資した投資家は大きな損失を被った。このような現状に対し、どのように対処するかが議論の的となっている。

 

 俺に言わせれば的外れな議論であった。混乱の悪影響ではなく、ラインハルトの下で生まれ変わった帝国を恐れるべきだ。

 

 しかし、公人としてそのような発言をすることは許されない。「なぜ成功するのか」を他人が納得するように説明できないからだ。「ローエングラム公は天才だ」というだけで納得するのは、物語の世界の住人だけである。

 

 トリューニヒト政権は本土防衛計画を引っ込めて、市民の関心が強いテロ対策と海賊対策を前面に押し出した。大型艦艇や重装備の調達を打ち切り、小型艦艇や軽装備の調達を進める。対テロ訓練と対海賊訓練の時間を増やし、対帝国戦訓練の時間を減らす。対帝国部隊を治安維持部隊に改編する。正規艦隊と常備地上軍の地方移転、イゼルローン総軍の縮小なども検討しているという。

 

「まいったな」

 

 対テロと対海賊への全力投入を命じられた俺は頭を抱えた。ラインハルトとの戦いに備えた訓練ができなくなる。大型艦艇や重装備が入手しづらくなる。戦力を整備することすらおぼつかない。

 

 それでも、諦めようとは思わなかった。小物には小物なりの戦い方がある。本土防衛を研究する口実、対帝国戦の訓練時間を増やす口実、大型艦艇や重装備を調達する口実を考えよう。失望する時間などない。悩んでいる時間などない。ラインハルトは一秒ごとに強くなっている。全力で走らなければ、背中を見ることすらできないのだ。


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