銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第6話:努力の時 宇宙暦788年12月下旬~790年2月 第七方面軍司令部

 幹部候補生養成所受験を決めた俺は、さっそく第七方面軍管区司令部に推薦を依頼した。年明けに返事が来ればいいと思っていたのに、二日後に承諾の返事が来た。

 

 推薦人は第七方面軍司令官ヤンディ・ワドハニ宇宙軍中将、第七方面軍陸戦隊司令官イーストン・ムーア宇宙軍少将、第七方面軍人事部長マリス・コバルス宇宙軍大佐の三人。陸戦隊司令官はアスターテの敗将と同姓同名で顔も同じだったが、雲の上の人であることに変わりはない。

 

 第七方面軍司令部はサポートチームまで組んでくれた。士官学校を卒業したエリートが学力指導チーム、地上軍や陸戦隊の猛者が体育指導チームを組み、俺の指導にあたってくれる。

 

 学力指導チームのリーダーを務めるのは、第七方面軍後方部員イレーシュ・マーリア宇宙軍大尉という人物だった。年齢は二〇代半ば。艶やかな栗色の長髪。陶器のように白い肌。透き通るように青い瞳。彫刻のような目鼻立ち。手足はスラリとして腰は細く胸は大きい。性別と髪の色は違うが、ラインハルト・フォン・ローエングラムのような美貌の持ち主だ。一八〇センチを超える身長を除けば、完璧と言っていい。こんな美人が自分の家庭教師になってくれるなんて、夢のようだった。

 

「はじめまして、学力指導を担当するイレーシュ・マーリア宇宙軍大尉です」

「エリヤ・フィリップス宇宙軍兵長です。よろしくお願いします、マーリア大尉」

 

 俺が挨拶した途端、マーリア大尉の目が一瞬だけ鋭くなった。首筋に氷の刃を突きつけられたような感触がした。

 

「ウエスタン系の中でもマジャール系は特別なんですよ。イースタン系と同じように、姓を先に名乗るんです」

「失礼しました」

「いえ、いいんですよ。事前に言わなかった私の責任です」

 

 マーリア大尉、いやイレーシュ大尉の目が再び柔らかくなった。美人だけど怖い人だと言うのが初対面での印象だった。

 

 数学はイレーシュ大尉、国語は第七方面軍人事部付ラン・ホー宇宙軍少尉、社会科学系科目は第七方面軍作戦部員レスリー・ブラッドジョー宇宙軍中尉、自然科学系科目は第七方面軍通信部員マー・シャオイェン技術大尉が担当する。テルヌーゼン工科大学卒のマー技術大尉以外は、みんな士官学校を卒業したエリートであったが、前の世界で有名だった人は一人もいない。

 

 体力指導チームのリーダーになったのは、シャンプール地上軍教育隊の体育教官ラタナチャイ・バラット地上軍軍曹だった。肌は浅黒く、目はぎょろりと大きい。まるで獰猛な闘犬のようだ。胸にはパラシュートをあしらったバッジ、すなわち空挺徽章が燦然と輝いている

 

「クリスチアン少佐から、『フィリップス兵長は根性がある。ビシビシしごいてやってくれ』と言われておる。貴官の根性に期待しているぞ」

「軍曹はクリスチアン少佐とお知り合いなんですか?」

「うむ。小官は三年前まであの方の部下だったのだ。軍隊に入って一二年になるが、あんなに素晴らしい上官はいなかった」

 

 懐かしそうに目を細めるバラット軍曹。あのクリスチアン少佐と親しいということは、つまりあの種の人ではないか。少し嫌な予感がした。

 

「尊敬する上官に立派な若者の指導を託される。これほど名誉なことは無い。必ず貴官の肉体を逞しくしてみせる! 一緒に頑張ろうじゃないか!」

 

 バラット軍曹は目を輝かせて俺の両手を強く握る。燃え盛るような熱さに少し引いてしまった。

 

 その他、宇宙軍陸戦隊のバティスト・デュシェール宇宙軍軍曹、地上軍歩兵隊のリュドミール・トカチェンコ地上軍伍長も俺の体力指導にあたる。

 

 二つの指導チームのメンバーと顔を合わせた日の夜、俺はトニオ・ルシエンデス地上軍曹長と久々に携帯端末で話した。

 

「話がうまく進みすぎて怖いんですよね」

「ワドハニ中将も必死なのさ」

「司令官がですか?」

「エル・ファシルは第七方面軍の管轄下だ。それが陥落して、司令官のリンチ少将も逃げ出した。リンチ少将にエル・ファシル脱出を許可したという疑惑もある。このままでは失脚は必至だ。だから、少しでも点数稼いでおきたいんだろう。部下が難関試験に合格すれば、上官の手柄になるからな。それが知名度抜群の英雄とくれば、手柄が一層際立つってもんだ」

 

 ルシエンデス曹長はワドハニ中将の打算を教えてくれた。そういえば、リンチ少将は「第七方面軍に救援を求めに行く」という口実で逃げ出したのだった。

 

「責任逃れに利用されてるみたいで気分悪いですね」

「君も司令官を利用すればいいんだ。世の中持ちつ持たれつだぜ」

「おっしゃる通りです」

 

 ルシエンデス曹長の言う通りだ。俺は手段を選べる立場じゃない。使えるものは何でも使うつもりでないと駄目なのだ。

 

 その翌日、イレーシュ大尉に呼ばれて、国語・数学・社会科学・自然科学のテストを受けさせられた。

 

「これはどういうことかな?」

 

 イレーシュ大尉は一八〇センチを越える長身から俺を見下ろした。切れ長の目から放たれる冷気は、凍死しそうなほどに強烈だ。

 

「じ、自分にしては良くできた方だと思います……」

 

 やっとのことで声を絞り出した。三大難関校レベルの問題なんて、俺の頭で理解できるはずもないから、シャープペンを転がして答えを選んだ。思ったよりも当たってたのだが、彼女は俺の答えが気に入らなかったらしく、目つきがさらに鋭くなる。

 

「フィリップス兵長。君は高校卒業してたよね?」

「はい」

 

 今から六二年前に卒業した。

 

「徴兵されてからは、戦艦の補給員だったんだよね?」

「はい」

 

 今から六〇年前までは、エル・ファシル星系警備隊旗艦「グメイヤ」の補給員をやっていた。

 

「書類書いてたよね? 計算もしてたよね?」

「はい」

 

 今から六〇年前の仕事なんて良く覚えていないが、書類も書いてたし、計算もしてたと思う。

 

「本当だよね?」

「はい」

「どうして、こんなに間違ってるのかな? 九割間違いだよ」

「卒業からだいぶ経ってますから」

 

 六二年も経てば、大抵のことは忘れるものだ。

 

「私は君よりずっと早く卒業している。中学を出たのは一〇年前、士官学校を出たのは六年前だ」

 

 イレーシュ大尉の声色は落ち着いてはいるものの、威圧感はたっぷりだ。

 

「君さあ、本当に幹部候補生になろうと思ってるの? 冗談じゃないよね?」

「はい」

 

 本気に決まってる。幹部候補生になれなかったら、リンチの恐怖が待ち受けているのだから。

 

「でも、この学力だと高校入試だって落ちるよ」

「はい」

「勉強する気ある?」

「はい」

「地獄見るよ。覚悟してね」

「はい」

 

 思うところはいろいろある。しかし、有無を言わせぬ迫力に圧倒されてしまって、「はい」以外の返事ができなかった。

 

「ちょっと待ってて」

 

 何かを決意したらしいイレーシュ大尉は、俺に渡した問題集と参考書を全部取り上げると、カバンに入れて部屋を出た。そしてどこかへと走って行く。

 

 一〇分後、イレーシュ大尉が部屋に駆け込んできて、抱え持った一〇冊ほどの本を俺の胸元に勢い良く投げ出した。

 

「これ、中学に入学して間もない子向けの問題集と参考書。国語・数学・社会科学・自然科学の全科目。これが今の君のレベルです」

「はい」

「わからないことがあったら聞いてください。何を聞いても私は怒りません。こんなこともわからないのかと怒るほど、私は君の学力に期待していません。他の先生達も同じでしょう」

「はい」

 

 イレーシュ大尉は俺の頭を両手でガチっと挟むと、腰を落として同じ目線になる。そして、俺の目をまっすぐに見つめながらにっこり笑う。

 

「三か月で仕上げてね」

「はい」

 

 涙目で答えた。いや、答えさせられた。

 

 それから三時間後、俺は体育館で体力測定を受けた。腕立て・腹筋・持久走・懸垂・走り幅跳び・遠投の六科目だ。

 

「貴官は本気で取り組んだのか?」

 

 バラット軍曹は測定結果を見ると、渋い顔になった。士官学校の入学試験でも体力試験は重視され、最低基準に満たない者は門前払いを受ける。士官学校卒のイレーシュ大尉は、中学の女子ベースボール部でエースピッチャーを務めたアスリートだった。そんな体力の持ち主が集まるだけあって、体力試験のレベルもかなり高い。

 

「どの科目も最低基準を満たしていない。級外だ。最低でも五級、基準は四級、できれば三級はほしい」

 

 同盟軍の体力検定のランクには、特級・準特級から六級までの八段階がある。級が高いほど能力が高いとみなされ、下士官・兵卒は一定以上の等級を持っていなければ、昇進できない決まりだ。昨日読んだ体力検定基準表によると、六級は軍人に要求される最低限の体力、五級はその一つ上である。なお、士官学校受験生の中には、入試の時点で一級や二級に達している者もいるそうだ。

 

「取り敢えず六級を目標にしよう。明日から一日二時間のトレーニング。メニューは新兵体力錬成プログラム級外コースを使用。三か月を目処に仕上げていく」

「二時間ですか……」

 

 一日二時間のトレーニングと聞いて、気が遠くなった。俺はチビで痩せてて運動神経も鈍い。小学から高校までベースボール部に在籍したのにほとんど上達せず、腕相撲では女性にも勝てず、競走でも人より前を走れた覚えはなかった。体を動かしてもまったく面白くなかったのだ。

 

「無理だ、俺なんかが努力したところで……」

 

 そんな声が頭の中で響く。

 

「二時間なんてあっという間だぞ! 小官が運動の楽しさを教えてやろう!」

 

 キラキラとバラット軍曹の目が輝く。

 

「はい、頑張ります!」

 

 反射的に返事してしまった。人生をやり直してみて、自分はこういう人に滅法弱いということがわかった。

 

 押しの強いリーダー二人に押される形で、人生八〇年目の受験勉強が始まったのである。

 

 

 

 一月の定例異動で、俺はワドハニ中将の将校当番兵に移った。将校当番兵とは、士官のお茶くみや荷物持ちなどを担当する召使いのようなもので、帝国軍では従卒と呼ばれる。かのユリアン・ミンツがヤン・ウェンリーの将校当番兵をしながら、他の軍人から各種戦技を学んだことからも分かるように、上官のさじ加減ひとつで仕事が多くも少なくもなる。空き時間が比較的多い勤務に就けて、勉強時間を確保させるというのが、ワドハニ中将の意向だった。

 

 勤務時間中の空き時間は控室で勉強する。夕方一七時に勤務時間が終わった後は、将校当番兵は荷物持ちとして官舎の入り口まで付き添う決まりになっているが、俺は司令部庁舎の入り口で見送るだけで良い。

 

 見送りを終えたら、司令部ビルの中にある下士官・兵卒用の食堂で夕食をとる。推薦人のムーア少将が手配してくれた陸戦隊員用の強化メニューだ。小麦蛋白ではない天然肉のカツレツを二日に一回食べられるのは嬉しいけれども、屈強な男女が揃っている陸戦隊員の食事にしては、量が少ないような気もする。しかし、これは体作りのための食事だ。あまり多すぎると良くないのかもしれないと自分を納得させながら、食事を平らげる。

 

 食事の後は、トレーニングルームでバラット軍曹らの指導を受けながらトレーニングをする。八時にトレーニングを終えてシャワーを浴びてからは、エアバイクに乗って兵舎に戻る。

 

 これまでの俺は、兵卒であるにもかかわらず、様々な事情から個室を使ってきた。年が明けて正式な配属先が決まったら、兵卒用の四人部屋に移ることになっていたのだが、「個室じゃないと勉強できない」と言い張って、引き続き個室を使うことを認められた。もちろん、これは共同生活を避けるための口実だ。英雄として特別扱いされてきた上に鈍臭い俺が四人部屋なんかに入ったら、古参兵がどう思うかわかったものではない。

 

 自室に入った後は、二三時の消灯までひたすら勉強だ。イレーシュ大尉ら学力指導チームへの質問は、携帯端末の通話やメールを通して行い、予定が調整できれば直接指導も受けられる。

 

 イレーシュ大尉から渡された問題集と参考書は、中学レベルでは一番簡単なものだったが、さっぱり内容がわからなくて、かつての自分が高校まで進学したのが信じられなくなってくる。六五年前に中学を出た時の俺は、想像を絶するほど賢かったらしい。

 

「入学した後に忘れてしまうような勉強って意味があるんでしょうか?」

 

 そんな弱音を吐いた俺に、イレーシュ大尉は国語を勉強する意義を語った。

 

「士官の一番の仕事って書類作りなの。自分の意図を正確に伝達できるような命令書を作る。目前の状況を上司が正しく理解できるような報告書を作る。自分のもとに送られてきた命令書や報告書を正しく理解する。そういったことの基礎が国語なのよ」

 

 士官学校を卒業したばかりのラン少尉は、俺とどっこいどっこいの童顔を紅潮させて、いかに数学が大事なのかを語った。

 

「物資や予算の管理、砲撃管制、航法計算、部隊位置の調整など、士官の担当するありとあらゆる仕事に数字が関わってくるんです。計算機が発達した現在でも、人間の脳みそに勝る計算機はどこにもありません。数学的な思考法は、作戦立案や情報分析といった参謀業務の基礎にもなります。あのヤン・ウェンリー少佐も卒業席次はそこそこだけど、数学はトップクラスでした。だから、数学はとてもとても大事なんです」

 

 ヤン・ウェンリーと士官学校の同期で、そこそこ親しかったというブラッドジョー中尉は、社会科学の必要性を語った。

 

「軍隊社会は建前と規則の社会でな。そういったものに対する基礎的な理解度の指標になるのが、歴史、政治・法律、地理、倫理教養といった社会科学科目の学力だ。士官学校の校長は、『軍人はまず偉大な常識人であるべきだ』と言っていた。常識を破るにも、まずは破るべき常識を理解しなきゃいかんのだ」

 

 士官学校時代のヤンが常識人だったかどうかを聞いてみると、「あんなに常識のある奴はいなかったんと違うか」という答えが返ってきて、社会科学科目の重要性を改めて認識させられた。

 

 一般大学から予備士官養成課程を経て士官となったマー技術大尉は、自然科学の重要さというより、メカニックの重要さをまくし立てた。

 

「西暦五〇〇年だか一〇〇〇年だかの時代はともかく、今はハイテク兵器の時代なんだよ。戦艦のビーム砲、エネルギー中和磁場、指揮通信システム、航法システム、エンジンなど、全部先端技術の塊なの。地上軍だって全部ハイテクだよ。つまり、士官の仕事はメカの運用ってこと。だから、自然科学は何よりも大事!」

 

 教師陣の説明によって勉強の意義を理解し、彼らの期待を裏切って失望させることへの恐れ、試験に落ちてただの兵卒に戻ることへの恐怖も手伝って、ようやくやる気に火がついた。

 

 最初のうちは学力指導チームに側についてもらい、言われたとおりに問題を解いた。解き方の流れを覚えて、「自分がなぜ解けなかったか」「どうすれば解けたか」を考えるように言われた。

 

 やがて問題の解き方を自分で考えられるようになり、日ごとに解ける問題が増え、解けなかった問題も解答を見ると、「なぜそうなるのか」という筋道が見えるようになってくる。

 

 これまでの俺がイメージしてきた勉強とは、何となく授業を受け、何となく問題を解いて、何となく頭に残るものだった。しかし、今はいろいろ考えながら勉強している。そうすると、頭に残る知識が信じられないほどに多くなるのだ。

 

「それが目的意識の力よ。勉強はある程度を超えると才能だけど、士官学校に合格する水準はそれよりもはるかに低いの。難問奇問だらけのテストで一〇〇点を取る勉強じゃなくて、高レベルだけどオーソドックスなテストで全科目平均九五点を取る勉強だからね。それなら才能はあまり関係ないの。強烈な目的意識、努力を持続する能力、適切な指導さえあれば、才能がなくても士官学校には入れる。もちろん、ハイネセン記念大学や国立自治中央大学にもね。まあ、入った後は才能で差がつくけど」

 

 イレーシュ大尉は、そのように解説してくれた。

 

 日に日に自分が進歩しているという手応えを感じ、勉強時間はあっという間に終わり、気が付くと消灯時間がやってくる。そうして日にちが過ぎていった。人生八〇年にして、ようやく勉強の楽しさを知った。

 

 トレーニングも勉強に劣らず楽しい。体力測定の翌日、バラット軍曹は俺の遠投のフォームをチェックし、何度も何度も修正した。それから遠投をすると、距離がぐんと伸びた。

 

「どういうことですか、これは?」

 

 目を丸くした俺に、バラット軍曹は満面の笑みで答える。

 

「体は正直だ! 正しく使ってやれば必ず応えてくれる! 鍛えればもっと遠くに投げられる! 正しいフォームで鍛えて、しっかり休ませてやる! それだけで面白いように伸びる! トレーニングは楽しいぞ!」

 

 それから、体力指導チームによって体の動かし方を叩き込まれた。ペースや負荷はバラット軍曹が調整し、「これぐらいの負荷が一番伸びる」「この負荷では疲れてしまって伸びない」などと、感覚的に理解できるように教えてくれる。

 

 これまでの俺にとって、運動とは何となく体を動かすものだった。それが正しい体の使い方、正しいペース、正しい負荷を理解して運動するようになると、目に見えて体が動くようになる。細かった腕が太くなり、起伏のなかった腹筋が割れてくると、新しい世界が開けたような気分になってくる。

 

「体や頭を使うってこんなに楽しかったんですね。知りませんでした」

 

 しみじみと語ると、イレーシュ大尉は俺の頭にぽんと右手を置いた。

 

「君はもっともっと伸びるよ。まだ始まったばかりだから。まだまだ楽しくなっていくよ」

 

 イレーシュ大尉が言ったとおり、俺の実力はどんどん伸びていった。心配症のラン少尉などは、成長が早すぎて頭打ちになるのを危惧したが、伸び悩む気配はまったくなかった。

 

 国語、数学、社会科学、自然科学のいずれも満遍なく点を取れている。答えが無い問題ならともかく、答えのある問題なら努力次第でどうにでもなるようだ。シャンプールの予備校で現役受験生とともに受けた模擬試験では、士官学校に合格する可能性は六五パーセント。合格圏ギリギリといったところだった。

 

 体力もだいぶ向上した。体力検定の級位は六科目中最低の級に準じる。持久力二科目と瞬発力二科目は全部三級相当まで伸びた。しかし、体が小さいせいか、筋力二科目のうち一つは四級相当、もう一つは五級相当までしか伸びず、総合的には五級相当だった。四級が軍人の平均だから、平均よりはやや劣る。

 

「あと二年あったら、三級まで伸ばせたのになあ」

 

 試験の一週間前、バラット軍曹は残念そうにそう言った。

 

 満を持して試験に臨んだつもりだったのに、試験前日には緊張のあまり腹痛を起こし、当日には筆記用具を忘れて試験会場のある基地内の売店で購入するというアクシデントがあった。何というか、情けないくらいに本番に弱い。

 

 試験場に入って一つしか無い席を見た時、緊張が頂点に達した。今年の幹部適性試験を受けるのは俺一人だったのだ。

 

 試験が始まって問題用紙を開き、見慣れた問題が目に入ると、緊張が嘘のように解けた。シャープペンがすらすらと解答を紡ぎ出していく。

 

 小論文の課題は『軍隊におけるギャンブルについて』だった。天啓を感じた俺は、全財産を奪い去ったバンクラプトシーへの恨みを込めながら激しいギャンブル批判を展開し、未だかつて無いほどのパフォーマンスを発揮した。

 

 面接試験では、緊張しすぎて模擬面接の内容をど忘れするという悲運に見舞われたけれども、いざ本番になると言葉がスラスラ出てきた。英雄をやってた頃に、人前でたくさん綺麗事を喋った経験が生きたのかもしれない。

 

 体力試験では、なんと四級相当の数字が出た。練習しても四級に届かなかった二つの科目が、本番でいきなり届いたのだ。俺的には快挙だったのに、試験官は大して驚きもせず、数字を記録するだけだった。下士官から幹部候補生に推薦されるような者は、みんな三級や四級程度は持っているし、地上軍や陸戦隊の出身ならば二級以上も珍しくない。俺が四級でも有り難みは全くないのだ。

 

 試験が終わると、急に不安が襲ってきた。出来が良かったと思えた科目も間違いばかりだったように感じ、小論文では私情に流されすぎたと反省し、面接では調子に乗って変なことを言ってしまったような気がした。

 

 帰り道には不合格だった後の人生を想像した。残り一年を兵舎で共同生活し、その後は路頭に迷う。ほんの二か月ほど英雄と持ち上げられたことなんて、今後の人生の役には大して立たない。いったい自分はどうなってしまうのかと恐ろしくなる。

 

 シャンプール基地に戻った後は、バラット軍曹とともにひたすらランニングに励み、食堂で米と肉をモリモリ食べた。大した意味は無いけれども、体を動かしている間は不安から逃れられた。

 

 試験から二週間が過ぎた頃、イレーシュ大尉から呼び出しがあった。試験結果がわかったのだと聞き、心臓がバクバク鳴り、腹も痛くなってきた。逃げ出したい気分だけど、そうしたところで試験結果は変わらない。

 

 ゆっくりと第七方面軍管区司令部の廊下を歩いた。部屋に向かう途中で二回トイレに入り、わざと遠回りをして、運命の時が来るのを遅らせようとした。それでも逃れることはできず、イレーシュ大尉がいる部屋の前に着く。

 

「入れ」

 

 扉をノックすると鋭い声が返ってきた。もう引き返せない。俺は覚悟を決めてドアを開けた。

 

 

 

 部屋に入ると、イレーシュ大尉がデスクに座っていた。胸を抱えるように腕を組み、面白くなさそうな表情で俺を見ている。知らない人には、腹を立ててるように見えるかもしれない。

 

「エリヤ・フィリップス宇宙軍兵長」

「はい」

「第八幹部候補生養成所より、試験結果の通知が届いた」

 

 イレーシュ大尉は判決を言い渡そうとする裁判官のようだ。俺は奥歯をぐっと噛みしめる。

 

「合格」

 

 ごうかく、合格……!? 本当に合格したのか?

 

 俺があの試験を突破できたのか? 

 

 全然現実感がない。一年間ずっとこの知らせを聞くために勉強したはずだったのに、驚くほどにあっけなく感じる。

 

「聞こえなかったのかな? もう一度言うよ、合格」

「はい」

「つまらないね。もっと喜んでよ」

 

 心底からつまらなさそうにイレーシュ大尉は言った。でも、この人が面白そうにしているのを見たことは一度も無いから、いつもと変わらない気もする。

 

「いや、現実なのかなあと思いまして」

 

 軽く頭をかきながら笑った。あまりに非現実的なことが起きると、驚きを通り越して、現実を受け入れるのを本能が拒否してしまうらしい。

 

「現実なんだよ、それが」

「そうなんですか」

「そうなんだよ。士官学校の合格基準ギリギリだったけどさ。それでも凄いよね。ほんの一年でここまで来たんだからさ。準備期間が二年あったら、上位で合格できたかもしれないね。三〇〇番以内だったら戦略研究科も狙えたんじゃない?」

 

 どういうわけか、イレーシュ大尉の口調に毒がこもっている。

 

「冗談はやめてくださいよ。戦略研究科といったら、エリートの中のエリートでしょう」

「本気で言ってるんだよ」

 

 イレーシュ大尉の目がぎらりと光る。ただでさえ鋭い目つきが鋭くなる。まずい雰囲気だ。

 

「私は今から真面目な話をします。真面目な話なので真面目に聞いてください」

「はい」

「今だから言いますが、君と最初に会った時は絶対落ちると思っていました。学力がないのはともかく、それを全然悔しがってなかったでしょ? 『ああ、この子は向上心ないんだな、何かの間違いでたまたま英雄になっちゃっただけなんだな』と思っていました。悪い子じゃないんだろうけど、勉強には期待できないなって」

 

 それはとても正しい評価だった。俺は何かの間違いでたまたま英雄になっただけの小物だ。残り二年の兵役期間を過ごすこと、そしてハイネセンで路頭に迷いたくないという理由だけで、幹部候補生になろうとした情けない奴だ。

 

「君ね、これまでの人生で頭や体をちゃんと使ったこと一度もなかったでしょ?」

「はい」

「ちゃんと使えばこれぐらいのことができるんだよ。君はやればできる子です」

「そんなことは……」

「褒めてるんじゃないよ。やればできるなんて何の自慢にもなりません。やらなきゃできないんでしょ? これまでの自分を振り返りなさい」

 

 イレーシュ大尉はぴしゃりとはねつける。

 

「もっと早くやっていれば、君は現役で士官学校に入って上位で卒業できてたかもしれません。国立中央自治大学を出て官僚になってたかもね。ハイネセン記念大学を出て一流企業に就職するのもありかな」

「さすがにそれはないですよ」

 

 俺は即座に否定した。そんな能力があったら、もっとマシな人生が待っていたはずだ。六一年前に徴兵担当者の「就職に有利だから」と言う口車に乗って、前線勤務を志願することも無かった。同盟が存続している間はエリートでいられただろうし、同盟滅亡からラインハルト帝が亡くなるまでの混乱期さえ乗り切れば、帝国の役所か企業に就職できただろう。

 

「実際に君は一年で士官学校に合格できる学力を身につけたでしょ? 中学を出るまでにちゃんと勉強してたら、もっと多くの選択肢が広がっていたはずだよ」

「それは大尉達の指導のおかげです。俺、本当に勉強嫌いでしたから」

 

 必死で自分を否定する。妙に見えるかもしれないが、自分が上にいると居心地が悪く感じてしまい、引き下げたくなってくるのだ。

 

「勉強は指導できても、性格までは指導できないよ。前に言ったよね? 『強烈な目的意識、努力を持続する能力、適切な指導さえあれば、才能がなくても士官学校には入れる』って。でも、これは一種の言葉の綾でね。確かに頭がいいという意味での才能は必要ないんだけど、精神的な意味での才能は必要なんだよ。『何が何でも士官学校に入りたい』なんて目的意識を持ち続けられる人は滅多にいないし、努力を続けられる人も滅多にいないから。それは一種の才能だね」

「才能ですか?」

 

 全然ピンとこない。

 

「うん、才能。名将や大政治家や名社長みたいなものになれるような力はないけど、エリートとしてそこそこいい仕事には就ける。一人の人間が幸せに過ごすには十分だよ」

「なるほど。幸せに過ごすにも才能がいりますね」

 

 俺は今日初めて笑った。安定した就職、穏やかな家庭、豊かな老後といったものが誰にでも得られるわけでないことは、現実での経験で思い知らされた。

 

「わかったでしょう? 君には持続力がある。愛嬌もあるから、指導してくれる人も次から次へと出てくると思う。必要なのは目標だけ。士官をゴールじゃなくてスタート地点と思って、これからも頑張ってください。以上、マーリア先生からの最後の授業でした」

 

 イレーシュ大尉の顔に、宗教画の聖母のような微笑みが浮かんだだ。

 

「最後の授業……」

「最初の二か月ぐらいはね、いつまで続くのかと思ってましたよ。四か月ぐらいから信じられるようになって、半年過ぎる頃には絶対に合格してほしいと思うようになったね。信じてもない神様に祈っちゃったよ」

「…………」

 

 しんみりした気持ちでイレーシュ大尉の言葉を聞く。

 

 何て答えればいいんだろうか? 何を言っても嘘っぽく聞こえそうな気がする。中身の無い綺麗事なら出てくるのに、こんな時に限って何を言えばいいのかわからない。

 

「そして、ようやく合格してくれた。私は嬉しくて嬉しくてたまらないのです。今すぐ踊り出したい気分です。それなのに君は全然嬉しそうじゃありません。私一人が喜んでたらバカみたいでしょう? がっかりですよ」

 

 イレーシュ大尉は、ふうー、と息を吐いて肩を落とす。

 

「しかし、たまにはバカになってみるのもいいかもしれません」

 

 そう言って、彼女は立ち上がった。そして、ゆっくりと俺に近づいてくる。鋭い目がいつにもまして危険な輝きを放つ。

 

「そ、そうですか」

 

 俺は後退りした。しかし、彼女はすかさず距離を詰めてくる。本能が「逃げろ」とささやいているのに、足がまったく動かない。

 

 距離がゼロになったと同時に、彼女は俺の両手をギュッと握り、端麗な顔をくしゃっと崩して笑う。いつもの整いすぎた笑顔とはぜんぜん違う心からの笑顔。

 

「エリヤくん、合格おめでとー!!」

 

 イレーシュ大尉は握った俺の両手をブンブン上下に振って、子供のようにはしゃいだ。

 

 この人、めちゃくちゃ可愛いじゃないか。一八〇センチを超える長身とスポーツで鍛え上げた腕力に振り回されながら、そんなことを思う。そして、どう答えればいいかがわかった。

 

 こんな時には言葉なんていらない。ただ笑えばいいのだ。

 

「あー、わらったわらったー!! かわいー!!」

 

 イレーシュ大尉のテンションがさらに上がる。つられて俺もどんどん嬉しくなり、試験に受かったという実感がようやく湧いてきた。喜びとは他人と分かち合って初めて生まれるものなのだ。やっぱり努力して良かった。

 

「大尉、まだですか?」

 

 ドンドンとドアを叩く音とともに、先日昇進したばかりのラン・ホー中尉の声がした。その他の人の声も聞こえる。

 

「いい加減待ちくたびれましたよ」

「エリヤ君を独り占めにするのもほどほどにしてくださいね」

 

 イレーシュ大尉はしまった、という顔になってぺろっと舌を出した。

 

「あー、ごめん! みんな入ってきていいよ!」

 

 ドアが開き、部屋の中にどっと人が雪崩れ込んでくる。俺はもみくちゃにされた。

 

「おう、良くやったな!」

 

 バラット軍曹は俺の背中を何度も強く叩いた。

 

「まさか本当に合格しちゃうなんて思わなかったよー!」

 

 人のよいおばさんといった風情の給食員ジンゲリス上等兵が俺の手を握る。

 

「次は提督目指そうぜ!」

 

 ブラッドジョー中尉はドサクサに紛れて無茶を言う。

 

「もちろん卒所後は陸戦隊を希望するよな! 陸戦隊名物カツレツが君を待っているぞ!」

 

 馬鹿でかい声はムーア少将だ。

 

「馬鹿言わんでください。フィリップス兵長には、地上軍に来てもらいますよ」

 

 ムーア少将に反論するのは、司令部警備主任のグリエルミ地上軍中佐だ。

 

 マー技術大尉、デュシェール軍曹ら教師陣、俺の努力ぶりを見ていてくれた司令部の人達も口々にお祝いの言葉を述べ、狭い部屋がたくさんの笑顔で満たされた。

 

 何も言おうとは思わなかった。ただ笑っていた。笑ってるだけで楽しかった。これが夢か現実かなんてどうでもいい。周りを取り巻くたくさんの笑顔。それが俺にとっての真実だった。


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