銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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糖分注意


第110話:認識を改めるべきだろうか 802年11月6日~11月8日 イゼルローン要塞

 意識を取り戻した時、俺はベッドの上にいた。頭が重い。体がだるい。喉が痛む。熱っぽいのに寒気を覚える。筋肉痛が酷い。これは死に至る病だ。直感がそう告げた。

 

 目を開けて周囲を軽く見回すと、見慣れた顔が視界に入った。パエッタ大将ら第一辺境総軍幹部が右側、シェーンコップ大将らイゼルローン総軍幹部が左側に並んでいる。アッテンボロー大将やポプラン少将の顔もあった。臨終を見届けに来たのだろうか。

 

 やり直してから一四年、休むことなく走り続けた。死線を何度も乗り越えた。ヴァンフリートでは重体になるまで殴られた。エル・ファシルでは至近距離から撃たれた。ヴァルハラでは乗艦が撃沈され、瀕死の重傷を負った。ボーナム防災公園では丸腰で一個師団と対峙した。それでも死ななかった。自分は死なないだろうと、なんとなく思っていた。だが、死は唐突にやってくるのだ。

 

「風邪です」

 

 軍医の答えはあっさりしたものだった。

 

「風邪ですか……?」

 

 俺は何度もまばたきをした。気休めではないかと思った。

 

「ええ、ただの風邪です。検査しましたが、感染症の可能性はありません」

「本当のことをおっしゃってください。覚悟はできています」

「事実を申し上げているんですがね」

 

 軍医は苦笑いを浮かべ、同意を求めるように周囲を見回した。そして、何かに気づいたような表情になった。

 

「医師としての名誉にかけて申しましょう。これは風邪です。原因は過労でしょう。二日も休んだらきれいさっぱり治ります」

「わかりました」

 

 俺は丁寧に頭を下げた。心の底から納得したわけではないが、プロが名誉をかけた言葉を否定するほどの度胸はなかった。

 

 看護師の助けを借りて上半身を起こすと、俺は大まかな指示を出した。パエッタ大将に指揮権を委ねる。戦闘はやむを得ないが、可能な限り損害を抑える。アッテンボロー大将に掴みかかった妹に対しては、処分が決まるまで謹慎を命じる。

 

「納得いきません」

 

 アッテンボロー大将が早速異議を唱えた。自分とアルマ・フィリップス中将の揉め事は個人的な喧嘩に過ぎず、処分に及ばないというのだ。

 

 イゼルローン総軍はパワハラに対しては異常なまでに厳しいが、喧嘩に対しては異常なまでに甘いことで知られる。アッテンボロー大将もその例外ではなかった。個人主義者は、「喧嘩は当事者同士で片付けるべきであり、公権力が介入すべきでない」と考える。

 

「ちょっと胸ぐらを掴んだだけでしょう。その程度で処分したらきりがありません」

 

 ポプラン少将はやや憮然とした表情で言った。アッテンボロー大将が口喧嘩を好むのに対し、彼は殴り合いを好んだ。勤務中は控えているが、プライベートでは数日に一度の割合で殴り合いを演じている。喧嘩に取り締まりに反対するのは、ある意味当然だろう。

 

「喧嘩は喧嘩だ」

 

 二人の英雄が反対しても、俺の意思は変わらなかった。秩序主義者は「パワハラも喧嘩も暴力であり、公権力が介入すべきだ」と考える。オフィシャルな場で目上の人物に掴みかかった。それだけで処分に値した。妹だからこそ甘くできないという理由もある。

 

 議論が始まるかに思われたが、アッテンボロー大将らはあっさり引き下がった。病人相手では闘志がわかないのだろう。

 

 部下たちが退出した後、俺は上半身を布団の中に潜り込ませた。病気で寝込むのは何年ぶりだろうか。やり直した後は一度も寝込んでいない。軽い風邪すらひかなかった。病気になった時の感覚を忘れてしまっていた。

 

 気がつくと部屋に光が差し込んでいた。いつの間にか眠っていたらしい。一晩眠ったせいか、少し具合が良くなったように感じる。

 

「おはよっす」

 

 その声は右手方向から聞こえてきた。光り輝く人影が窓際に立っていた。あまりの神々しさに息を呑んだが、よく見ると妹の友人アマラ・ムルティ少将だった。

 

「看病に来たっす。シュガーの代わりっす」

「君に看病なんてできるのか?」

 

 俺は疑いの眼差しを向けた。この女性に戦闘以外のことができるとは思えない。

 

「私、看護師なんで」

「衛生専科学校に半年通っただけだろう」

「見ればわかるっすよ」

 

 ムルティ少将は自分の平たい胸を指さした。略綬の上に徽章が並んでいる。空挺徽章、レンジャー徽章、格闘徽章、射撃徽章、体力徽章の中に一つだけ場違いな徽章があった。

 

「看護徽章だ。本当に看護師だったんだな」

「勘違いされてるけど、本職は看護師なんすよ」

 

 聞かれてもいないのに、ムルティ少将は看護師へのこだわりを語り出した。従軍看護師の母は、自分と妹と弟を女手一つで育ててくれた。母のようになりたくて看護師を目指した。いろいろあって歩兵学校に転校し、狙撃兵になったが、通信教育で看護師の資格を取った。他人がなんと言おうと、自分は看護師である。

 

「大船に乗ったつもりで任せてくださいっす」

 

 ムルティ少将は勝ち誇ったような顔になり、ポケットからたばこを取り出した。

 

「ちょっと待て。病室は禁煙だぞ」

「これ、無煙タバコっす。看護師の必需品っすよ。知らないんすか?」

「知らないな」

 

 俺は看護師の息子だが、無煙タバコが必需品だなんて話は聞いたことがない。しかし、面倒くさいのでそれ以上は突っ込まなかった。

 

「してほしいことあったら、何でも言ってほしいっす」

「じゃあ、そこのスイッチを押してくれ」

「オッケーっす」

 

 ムルティ少将に音声入力端末のスイッチを入れてもらうと、俺は司令部に連絡を入れた。通信画面に現れたのは次席副官ディッケル大尉だった。

 

「おはようございます。お加減はいかがですか?」

「少し楽になった。ハラボフ大佐を呼んでくれ」

「ハラボフ大佐は風邪で休んでおります」

 

 ディッケル大尉の表情に少し影がさした。

 

「風邪を移してしまったんだな。悪いことをした」

 

 俺は心の中で頭を下げた。額をくっつけた時に風邪が移ったのだろう。自分一人が病気になるのは仕方ない。しかし、部下まで巻き込んだのは不甲斐ない限りである。

 

「お気になさらないでください。ハラボフ大佐ならそうおっしゃるはずです」

「彼女ならそう言うだろうね」

「ご用件は何でしょうか? 私が代わりに承ります」

 

 ディッケル大尉は口調を事務的なものに切り替えた。意識してハラボフ大佐と似せていることはひと目でわかった。

 

「ありがとう。物を持ってきてほしい。いきなり倒れたからな。何もないんだ」

「かしこまりました。何をお持ちすればよろしいでしょうか?」

「まずは仕事道具を……」

「だめっす」

 

 ムルティ少将が端末の前に立ち、遮るように両手を広げた。

 

「せっかく時間ができたんだ。たまっている仕事を片付けたい」

「過労で倒れたの、忘れたんすか? ちゃんと休むっす」

「頼む。仕事をしないと落ち着かないんだよ」

「看護師として認められないっす」

 

 短い押し問答の末、先に折れたのは俺だった。

 

「仕事道具はいらない。身の回り品だけを持ってきてくれ。まずは――」

 

 俺が持ってくるべき品を伝え、ディッケル大尉がメモを取る。彼なら一度聞いたことを忘れたりはしないだろう。それでもメモを取ろうとするのは、ハラボフ大佐の影響である。努力家のディッケル大尉にとって、同じタイプの首席副官は良き見本なのだ。

 

「確かに承りました。当番兵に持参させます」

 

 ディッケル大尉の返答は完璧だった。ハラボフ大佐なら自分で持ってくるだろう。しかし、本来は当番兵の仕事である。

 

 数分もたたないうちに、紙袋を抱えた少女がやってきた。専属当番兵のオム・セリン上等兵である。身長が高いこと以外に欠点はないが、控えめな性格と何でもやりたがる首席副官のおかげで、出番が少ない。

 

「!?」

 

 オム上等兵は大きな目を見開き、俺とムルティ少将の顔を見比べた後、硬直してしまった。ムルティ少将が「お待ちしておりました」と挨拶し、よそ行きの顔で微笑みかけると、硬直ぶりはいっそう酷くなった。

 

「そこに置いといてくれ」

 

 俺は苦笑いしながらテーブルを指さした。

 

「かしこまりました!」

 

 オム上等兵はテーブルに駆け寄って紙袋を置くと、逃げるように出ていった。身近に接しているにもかかわらず、俺を神聖視する者は少なくない。彼女もその一人だった。崇拝する人物が地上軍のレジェンドと一緒にいるのだ。恐れ多いと感じるのは無理も無いであろう。

 

 看病するとは言ったが、自称看護師はそれらしい仕事をまったくしなかった。ベッドの左側で無煙タバコを吸いながら漫画を読み、時折話しかけてくる。

 

 俺はファルストロング伯爵の一四年ぶりの新刊『君臨すれども統治せず』を開いた。帝国の元国務尚書が書いたフリードリヒ四世の伝記だが、評判は最悪といっていい。著者の二代後の国務尚書である先代リヒテンラーデ公爵は、「先帝に対する誹謗中傷だ」と非難した。帝国研究の第一人者として知られる亡命知識人ラシュワン氏は、「論ずるに足りない」と切り捨てた。名のある学者や評論家は、この本を批判するか無視した。数少ない好意的な評価は、注目を集めたいだけの俗流知識人によるものだった。あまりに評判が悪いため、かえって注目を浴びた本である。

 

「眠い……」

 

 強烈な眠気が襲いかかってきた。決して難しい本ではない。前書きにおいて、著者は「私には馬鹿な友がいる。どうしようもない馬鹿だが悪い奴ではない。それゆえ、馬鹿でも理解できる本を書いた」と述べている。文体は平明で読みやすく、八二歳の亡命貴族が書いた本とは思えない。そんな本でも病人の頭には重すぎた。

 

 夕暮れ時のような部屋にいた。素肌にエプロンをまとったダーシャが料理を作り、俺はせっせと盛り付けた。ダーシャがエプロンを脱いで座った。俺はダーシャの口に食べ物を運び、ダーシャは俺の口に食べ物を運ぶ。食べ物がなくなり、俺とダーシャはベッドに寝転んだ。激しく体を重ね合った。俺はダーシャと同じ湯船に入った。一緒に湯船を出て、俺がダーシャの体を洗い、ダーシャが俺の体を洗った。キッチンに行って料理を始めた。

 

 俺とダーシャは飽きることなく料理を作り、飽きることなく食べ、飽きることなく体を重ね、飽きることなく風呂に入り、力尽きて眠り込んだ。目が覚めても同じことを続けた。順番は必ずしも一定ではない。ある時は風呂に入らずに料理を始めた。ある時は体を重ねたまま眠った。ある時は浴室の中で体を重ねた。

 

「いつもと同じじゃないか」

 

 苦笑いとともに俺は自分の行動を振り返った。ダーシャと二人きりになると、いつもこんな感じだった。服を脱いだり着たりする時間すら惜しんだ。俺もダーシャも忙しくて、やるべき仕事が山ほどあった。だから、二人きりの時は羽目を外した。

 

 楽しかったよね、と彼女は笑い、背後から抱きついてきた。

 

「ああ、凄く楽しかった」

 

 俺は高鳴る胸を押さえつつ答えた。肌と肌が密着する。柔らかいものが背中に押し付けられる。彼女の体温が背中越しに伝わってくる。とても懐かしい温もりだ。

 

 でもさ、もっと楽しみたかったよね、と語る彼女の声はとても寂しげである。

 

「まあな」

 

 ただ頷くだけで十分だった。俺と彼女の気持ちはまったく同じなのだから。

 

 ずっとここにいてもいいんだよ、と彼女はささやいた。華奢な体が俺の背中にもたれかかる。細い腕が俺の体を一層強く抱きしめる。

 

「できればそうしたいね」

 

 俺は精一杯の笑顔を作った。背中が彼女の体を受け止めた。彼女の鼓動が背中越しに伝わってくる。彼女と一緒にいたい。彼女を一人にしたくない。痛切にそう思った。

 

「でも、みんなが待ってるんだ。帰らないとな」

 

 そう答えた瞬間、体が自由になった。背後にいた人物は俺に抱きつくことをやめ、真正面に立った。

 

 エリヤならきっとそう答えると思ってた、と彼女は丸顔に満面の笑顔を浮かべた。

 

「帰る前に一つ聞いていいか?」

 

 うん、いいよと彼女が答えたので、言葉に甘えさせてもらった。

 

「これからどうすればいい?」

 

 答えはわかってるでしょ? と彼女は笑ったままで問い返す。質問に質問で答えるのはルール違反だ。しかし、今回に限っては許される。

 

「最後のひと押しが欲しくてね」

 

 俺は顔を真っ赤にした。こんなこと、彼女以外の人間には頼めなかった。立派なところも恥ずかしいところも知り尽くした相手でなければ、できないことがあるのだ。

 

 彼女は何も言わずに抱きついてきた。両手を俺の首の後ろに回し、自分の方に引き寄せた。柔らかい唇を俺の唇に重ねた。細い腕で俺の体を力いっぱい抱きしめた。大きな胸を俺の胸に押し付けた。引き締まった腹を俺の腹にくっつけた。しなやかな腰を俺の腰にくっつけた。

 

 俺はただ彼女を受け止めた。肌に彼女の温もりが染み込んだ。胸に彼女の鼓動が響いた。口の中に彼女の吐息が広がった。

 

 やがて彼女は唇を離し、腕を離し、体を離した。そして、再び俺の真正面に立ち、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。吹っ切れた」

 

 俺は彼女に礼を言うと後ろを向いた。そして、地面を踏みしめるように歩き出す。振り返ろうとは思わない。彼女はいつも前にいる。進み続けたらきっと会えるだろう。

 

 進んだ先にあったのは白い部屋だった。壁も天井も白く、調度品も白で統一されていた。その中央に鎮座するベッドが俺の居場所である。

 

 俺は上半身を起こし、周囲を見回した。窓の外はすっかり暗くなっている。ムルティ少将は顔を上げて「起きたっすか」と言うと、漫画に視線を戻した。世界は何も変わっていない。それなのにとても晴れやかな気分だった。

 

 

 

 エリヤ・フィリップスが倒れたという事実は、驚きをもって受け止められた。付き合いが薄い人間は、俺を「マッチョの中のマッチョ」だと思い込んでいる。付き合いが深い人間は、俺を「元気だけが取り柄の馬鹿」だと思い込んでいる。チュン・ウー・チェン副参謀長ですら空腹で倒れたと勘違いし、潰れたパンを握らせた。病気で倒れるとは誰も考えなかったのである。

 

 休んでいる間、仕事が滞ることはなかった。パエッタ大将は精力的に総司令官代行としての仕事をこなした。重要でない事項については、イゼルローン総軍副司令官オイラー大将に決裁させた。他の者もいつもどおりに仕事をこなした。

 

 倒れてから二日後、俺は仕事に復帰した。倒れる前より元気になったような錯覚すら覚える。休養に勝る薬はないということを思い知らされた。

 

 アッテンボロー大将やポプラン少将による突き上げはいくらか弱まった。理由はわからないが、ある程度は察することができる。艦隊戦が避けられない情勢となり、部下をなだめるための上官批判を続ける理由がなくなった。彼らの個人的な趣味もあるだろう。強敵と戦うことに生きがいを感じる人種は、病み上がりの相手と喧嘩しても面白くないはずだ。

 

「アッテンボローは、フィリップス提督が倒れても構わないと思っていた。だから、執拗に叩き続けたのだ」

 

 そう主張する部下もいたが、さすがに考えすぎだと思う。俺が倒れたことは、アッテンボロー大将にとっても予想外だったのではないか。

 

 六年前に上官のヤン・ウェンリー提督を突き上げた時、俺は相手が倒れるなんて思わなかった。根拠などまったくない。過去の記憶をたどれば、前の世界で読んだ戦記の内容を思い出し、ヤン提督がストレスに苦しんだ事実に行き着いたはずだ。しかし、考える余裕はなかった。考えればわかることも、考えなければわからない。

 

 ジャスパー大将やデッシュ大将らは、批判の手を緩めようとしなかった。彼女らのグループはヤン元帥個人への忠誠心で動いている。敬愛する上官の敵ならば、強くても弱くても関係ない。見舞いに来たジャスパー大将が「因果応報ですね」と言ったように、意趣返しの意味もあるだろう。六年前、俺の突き上げを受けるヤン提督の側にいたのは彼女らだった。

 

 いずれにせよ、倒れる前よりやりやすくなったことは間違いなかった。アッテンボロー大将とポプラン少将がおとなしくなるだけで、こんなにも快適になるのだ。

 

「帝国軍が出撃しました!」

 

 アナウンスと共に警報が鳴り響いた。軍艦が次々と宇宙港を飛び立ち、イゼルローン要塞の前に集まり、艦列を形成する。ガイエスブルク要塞の再接近以降、三度目の戦闘が始まった。

 

 モスグリーン色の同盟艦と黒灰色の帝国艦が入り乱れて戦った。戦艦と巡航艦は主砲を止め、副砲とミサイルを撃ち放つ。駆逐艦の半数は中距離レーザー砲で援護射撃を行い、半数はレールガンを乱射しながら突進する。母艦から飛び立った単座式戦闘艇は、敵艦に肉薄攻撃を仕掛けたり、敵の戦闘艇と格闘戦を繰り広げたりした。

 

 目の前の敵は旧体制の悪弊が凝縮された軍隊だった。ある者は抜け駆けして集団行動を乱した。ある者は突出しすぎて窮地に陥った。ある者は味方の苦戦を尻目に傍観を決め込んだ。ルッツ艦隊だけが整然と戦っている。

 

 キルヒアイス元帥は抜け駆けした部隊を引っ張り戻し、窮地に陥った部隊を救い、傍観を決め込んだ部隊を急かした。隊列維持は各部隊の指揮官がやるべき仕事である。しかし、キルヒアイス派の指揮官は統率力を欠いている。レンネンカンプ上級大将を除くメルカッツ派の指揮官も、統率力不足だった。そのため、総司令官が分艦隊の隊列に気を配るという馬鹿げた事態が生じた。

 

 同盟軍の状態はお世辞にも良いとは言えなかった。ベテランが少ないため、円滑に動けない。内部対立が味方同士の連携を妨げる。

 

 前線司令官パエッタ大将は重厚な防御線を敷き、巧妙に兵を動かし、偶発的なトラブルを迅速に片付け、敵が放った奇兵を退けた。その素早さと正確さは精密機械を思わせる。ミスター・パーフェクトの異名に恥じない用兵である。

 

「ここまでやるとは思わなかった。嬉しい誤算だ」

 

 俺はスクリーンを食い入る様に眺めた。どのような状況であれ、パエッタ大将がキルヒアイス元帥に対抗できるとは予想できなかった。

 

 前の世界では、ジェフリー・パエッタは天才ヤンの意見を聞かなかった愚将、ジークフリード・キルヒアイスは不敗の名将であった。戦記を読んだ者なら、この二人が互角に戦えるとは思わないだろう。戦記を読んでいない者なら、パエッタの名前すら知らないはずだ。

 

 戦闘が終了すると、俺はパエッタ大将を昼食に誘った。キルヒアイス元帥と実際に戦った感想を聞いてみたかったのだ。

 

「キルヒアイス元帥はどうだ? 手強いか?」

「言われるほど弱くはありませんな」

 

 パエッタ大将は眉を軽くひそめ、睨むような視線を右前方に向けた。

 

「キルヒアイスほど無能な男は見たことがないね。士官学校を出ていない。幕僚勤務もやっていない。金髪のガキのお付きしか経験していないのに、いきなり提督になったんだ。なぜかわかるか?」

 

 オイラー大将が取り巻き相手にキルヒアイス無能論を語っている。

 

「金髪の孺子の愛人だからですよね!」

 

 エレオノール・ポプラン少佐がおどけたように右手を上げた。

 

「そのとおりさ。キルヒアイスは尻穴を差し出して提督になった」

「格下にしか勝てない男ですからね。強敵に勝った経験なんてないでしょ。キャボット提督を討ち取ったのはまぐれだし」

「金髪のガキが楽に武勲を稼げる仕事を回すのさ。無能だから当然失敗するんだがね。で、俺たちが元帥閣下専属男娼の尻拭いをさせられる。尻穴提督の尻拭いさ」

「ひどい話ですね、本当に」

「ローエングラム元帥府はホモとのろまの巣窟だ。ミュラーのようなうすのろじゃなきゃあ耐えられんね」

 

 オイラー大将が皮肉たっぷりに言うと、取り巻きたちは大きな笑い声をあげた。

 

「注意してきます」

 

 ワイドボーン参謀長が我慢できないといった感じで立ち上がり、オイラー大将のテーブルに向かった。

 

「勝つ自信はあるか?」

 

 俺はパエッタ大将の顔に視線を戻し、質問を続けた。

 

「回廊の中なら負けることはないでしょう。能力の問題ではなく地形の問題です」

 

 パエッタ大将が周囲を見回すと、幕僚たちが頷いた。キルヒアイス元帥は回廊では弱いというのは、彼個人の意見ではない。チーム・フィリップスの幕僚全員が共有する意見だった。

 

 第一辺境総軍は発足直後から、ジークフリード・フォン・キルヒアイスの研究を続けてきた。今回の戦いにもその研究成果は反映されている。

 

 長所を見つけることが得意なチュン・ウー・チェン副参謀長によると、キルヒアイス元帥の勝ちパターンは二つあるという。一つは機動力を生かして側面や後背に回り込み、一気に突入する。もう一つは陽動によって敵を誘い出し、側面や後背に回り込み、一気に突入する。それ以外の勝利パターンはないらしい。極端な先制速攻型なのだ。

 

 欠点を抉ることが得意なワイドボーン参謀長は、キルヒアイス元帥の欠点を探した。先制速攻型の提督は正面決戦が苦手だと言われる。反撃される前に敵を倒してしまうため、守りを固めた敵への対応に慣れていない。キルヒアイス元帥にもこの法則が当てはまる。ビブリスでは包囲軍を攻めあぐねた。ヴァルハラでは第八艦隊相手に苦戦した。正面決戦に持ち込んでしまえば、キルヒアイス元帥は恐ろしくないという。

 

 イゼルローン回廊は攻め込んだ者に正面決戦を強要する宙域である。敵の側面や背後に回り込もうとすると、危険宙域にぶつかってしまう。正面から突破しようとすると、狭い戦場正面に密集した敵軍と直面することになる。敵と正面から対峙し、時間をかけて攻略する以外の戦い方ができない地勢なのだ。

 

「回廊の中で戦う限りにおいては、キルヒアイスは強敵ではない」

 

 これがチーム・フィリップスの出した結論だった。トリューニヒト政権は帝国領に攻め込むつもりなどない。つまり、トリューニヒト政権が続いている間は、同盟軍がキルヒアイス元帥に負ける可能性はないということになる。

 

 幕僚が何を言おうと、俺はキルヒアイス元帥を恐れた。彼の圧倒的な強さの前では、地形や弱兵などハンデにならないと思っていた。だから、作成者のワイドボーン参謀長が「慎重すぎて望ましくない」との所見を述べた持久戦法を採用したのだ。

 

 現実は俺の予測を裏切った。パエッタ大将はキルヒアイス元帥と三度戦ったが、劣勢に陥ったことは一度もなかった。

 

「慎重すぎたのかな」

 

 俺は少し後悔した。帝国軍と戦っても良かったのではないか。持久戦法を採用する必要はなかったのではないか。ガイエスブルク要塞を攻略できるとは思わない。だが、局地戦を延々と繰り広げ、兵の闘争心を満足させるという選択はできた。個人レベルの武勲を喧伝し、英雄を作り上げれば、政府や市民も満足しただろう。

 

「軽率よりはましです」

「そう思うことにしようか」

「キルヒアイス相手なら慎重に戦ったほうがいいですな。あの無能の集まりを、曲がりなりにも軍隊として機能させている。その一点において、平凡ならざる将帥と見るべきでしょう」

 

 パエッタ大将は念を押すように言った。この言葉が俺だけでなく、この場にいる者全員に向けられていることは明白である。

 

「今後は戦術面以外にも注意を払う必要がありますね」

 

 ラオ作戦部長が考え込むように腕を組んだ。戻ってきたワイドボーン参謀長らも表情を改めた。

 

「戦術レベルに限定すれば、どのような条件だろうが負ける気はしない。彼の戦術は単調だ。回り込んで突撃以外のパターンを持たない。戦術なら私に一日の長がある。陽動に気をつければ、恐ろしい相手ではない。だが、それはキルヒアイス個人に限った話なのだ」

「個人でない場合が問題ということですか」

「私はそう考えている。統率こそがキルヒアイスの本領なのだろう。戦術レベルの指揮を配下に任せ、全体指揮に専念する。そうすれば、戦術の単調さは問題にならん。彼自身の突撃力を生かす余地も広がる。突撃屋は正統派と組んだ時に真価を発揮するものだ」

「認識を改めなければいけませんね」

「ミュッケンベルガーには及ばんが、それに近い力はある。キルヒアイスは若干二六歳の若者だ。軍歴の半分は副官勤務で、部隊指揮の経験は少ない。用兵を体系的に学んだこともない。それなのにこれだけの力があるのだ。経験を積めば、さらに成長するだろう。侮れない相手だぞ」

 

 パエッタ大将は睨むような目で列席者の顔を見回した。「キルヒアイスを甘く見るな」と釘を刺すかのようだ。

 

 俺に言わせれば、パエッタ大将もキルヒアイス元帥を甘く見ている。この世界のミュッケンベルガー元帥は、大敗しないが大勝もしないことから、「一流だが超一流ではない」と評された提督である。前の世界で不敗を誇り、ヤン・ウェンリーに「ラインハルトの分身」と言わしめた男とは比較にならない。

 

 どうすれば、キルヒアイス元帥の恐ろしさが伝わるのだろうか? 前の世界の彼は、カストロプ家の反乱を平定し、同盟軍補給部隊を殲滅し、第七艦隊を降伏させ、第一三艦隊を追い詰め、アムリッツァ会戦で機雷原を突破し、帝国辺境の貴族連合軍を平定し、キフォイザー会戦でリッテンハイム公を大破し、ガイエスブルク攻防戦で貴族連合艦隊にとどめを刺した。この世界の同盟軍は、リッテンハイム公やリンダーホーフ侯を蹴散らしただけにすぎない。根本的に格が違うのだ。

 

「あれ!?」

 

 何が違うのかを考えたところで違和感を覚えた。戦績を羅列すると、前の世界のキルヒアイス提督が全然強そうに見えないのだ。カストロプ家は名家だが一領主である。第七艦隊は占領地に兵力を分散させ、物資不足や民衆暴動で疲れ切った状態で戦った。第一三艦隊は連戦の疲れがあり、兵力はキルヒアイス軍の四分の一に過ぎなかった。アムリッツァの同盟軍は機雷原に兵を置いていなかった。リッテンハイム軍は数が多いだけで、編成の統一性すら保たれておらず、軍隊とは言えない代物だった。補給部隊や貴族連合軍は考えるまでもない。

 

 前の世界のキルヒアイスは、強敵と戦っていないのではないか? ヤン・ウェンリーと戦った時だって、連戦の疲れがある相手に対し、四倍の兵力で攻撃を仕掛けた。負ける方がおかしい状況である。

 

「おかしいでしょう」

 

 その声にぎょっとした俺は顔を上げた。いつの間にかキルヒアイス元帥の話は終わり、部下たちは野球中継に見入っている。

 

 放映されているのはギャラクシーシリーズの二回戦だ。レベロ政権時代にイゼルローン要塞の通信機能が飛躍的に強化された。そのため、妨害電波が飛び交う前線でも、要塞の中にいれば本国の番組を見ることができる。

 

「なんでサブールなんですか。ブルスニツィンだって左です。十分抑えられるでしょうに」

 

 ラオ作戦部長が不平を鳴らしている。ハイネセン・ファイヤーズが四点差でリードしているにもかかわらず、左のワンポイントリリーフを投入してきた。それが納得できないようだ。

 

「当然だろう。ジャンソンには一発がある。ホームランが出たら二点差だぞ」

 

 パエッタ大将が険しい顔で反論した。彼は第一辺境総軍きってのプロベースボール通である。

 

「二点取られたって構わんでしょう。相手はピジョンズです。ファイヤーズのリリーフ陣なら逃げ切れます」

「君はわかっとらんな。ここで打たれたら、ピジョンズが勢いに乗るかもしれん。野球は戦争と同じだ。何が起きるかわからん。確実にジャンソンを仕留めるべきだ」

「そんなもんですかね」

「ファイヤーズがなぜ絶対王者なのかわかるか? 選手層が厚いからではない。格下相手の取りこぼしがないからだ」

 

 この一言を聞いた瞬間、キルヒアイスの真の武器がわかった。確実性である。格上が格下に必ず勝つとは限らない。戦史に残る天才でも思わぬ敗戦を経験している。格下を確実に仕留める提督は貴重な存在だ。ラインハルトが強敵と戦い、キルヒアイスが弱敵と戦えば、絶対に負けない。

 

 食事時間が終わったので、試合を最後まで見ることはできなかった。夜のニュースでファイヤーズが勝ったことを知った。


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