銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第104話:エリヤ・フィリップスのイゼルローン日記 上 802年9月28日~10月上旬 第一辺境総軍旗艦ゲティスバーグ~イゼルローン要塞

 サルガッソー・スペースに点在する狭い安全地帯を繋げ、航路として整備したものを「回廊」と称する。同盟領と帝国領を結ぶ回廊は、イゼルローン回廊とフェザーン回廊の二本であった。

 

 ティアマト星系の惑星ラハムを出発した第二艦隊は、小刻みなワープを繰り返し、安全地帯を飛び石のように伝っていく。八年前、俺はイゼルローン攻略部隊の一員としてこの道を通った。五年前、俺は帝国領遠征軍の一員としてこの道を通った。平時にこの道を通るのは初めてだ。

 

 数時間後、スクリーンにイゼルローン要塞が映った。恒星アルテナの光が鏡面装甲に反射し、銀色の輝きを放つ。

 

 イゼルローン要塞は銀河最大の要塞である。出力九億二四〇〇万メガワットの要塞主砲「トゥールハンマー」は、一撃で軍艦数千隻を吹き飛ばすことができる。外壁に据え付けられた砲塔群の火力も相当なものだ。鏡面処理を施された超硬度鋼と結晶繊維とスーパーセラミックの複合装甲が、直径六〇キロの巨体を覆っている。

 

「わくわくするな」

 

 俺はスクリーンを眺めた。これが聖地イゼルローンだ。英雄たちが幾多の戦いを重ねた場所に降り立つのだ。

 

 九月二八日八時三〇分、第二艦隊旗艦ゲティスバーグは、ウォリス・ウォーリック宇宙港に到着した。要塞の外壁が開き、ゲティスバーグを迎え入れる。イゼルローンでは、衛星軌道上に軍艦を係留する必要はない。軍艦に乗ったまま入港できる。

 

 タラップを降りた俺を出迎えたのは、要塞軍集団司令官シェーンコップ大将と要塞艦隊司令官アッテンボロー大将だった。警備兵の数が少ないのは、大げさな儀礼を好まないイゼルローン気質の反映であろう。

 

「よくぞお越しくださいました」

 

 シェーンコップ大将は柔らかい笑みを浮かべ、うやうやしく敬礼した。仕草の一つ一つに美しさが感じられる。きれいにセットされた髪と折り目正しい着こなしが、端整な容貌を引き立てた。その気になれば、「慇懃無礼」から「無礼」の二文字を取り去ることもできる。

 

「お待ちしておりました」

 

 アッテンボロー大将の挨拶は丁寧だったが、顔は笑っていない。儀礼的な挨拶だとアピールするかのように見えた。

 

「ありがとう」

 

 俺は笑顔で礼を述べ、足を一歩踏み出した。そこで動きが止まった。どちらと先に握手をすればいいのか迷ったのだ。

 

 要塞軍集団司令官と要塞艦隊司令官は完全な同格である。帝国軍がイゼルローン要塞を所有していた頃も、同格の司令官二人が共同で要塞を守っていた。同盟軍がイゼルローン要塞を手中に収めると、「命令系統の混乱を防ぐ」との理由で、一人の司令官が守備隊と駐留艦隊を指揮する体制に変更された。しかし、イゼルローンの司令官が再建会議に加担したため、一人に委任するのは危険だとの声が強まり、指揮権が二分されることとなった。

 

 将校名簿の記載順位に従うならば、シェーンコップ大将が先任者として扱われる。アッテンボロー大将は格式にこだわらない人なので、後回しになっても気にしないだろう。だが、部下が気にするかもしれない。帝国統治時代のイゼルローン要塞では、要塞守備隊隊員も駐留艦隊隊員も、自分たちの司令官が格上だと信じていた。

 

 俺が悩んでいると、アッテンボロー大将が一歩下がり、シェーンコップ大将が一歩踏み出した。要塞艦隊司令官が要塞軍集団司令官の優越を認めたことになる。

 

 軽く頭を下げて感謝の念を示した後、俺は右手を差し出した。最初に握手したシェーンコップ大将の手はごつごつしていた。次に握手したアッテンボロー大将の手は大きくて柔らかかった。

 

 宇宙港を出た後は軍事施設の視察を行った。宇宙港三〇か所に収容できる艦艇は二万隻、基地五四か所に収容できる兵士は三〇〇万人にのぼる。イゼルローンは全域が軍用地なので、数百隻を直接収容できる巨大港や数万人を収容できる巨大基地が立ち並んでいた。

 

 最初にリン・パオ宇宙軍基地を訪ねた。イゼルローン要塞の軍港には、過去の名提督の名前が与えられている。ダゴンの英雄の名前を与えられた基地は、イゼルローン最大の軍港で、要塞艦隊司令部の所在地だった。

 

「大きいなあ」

 

 俺は背伸びしながら港内を見回した。広い港内に数えきれないほどの軍艦が停泊している。地の果てまで軍艦が連なっているかのような光景だ。

 

「グリーンヒル提督、何隻いるんだ?」

「一〇〇〇隻です」

 

 要塞艦隊情報部長グリーンヒル准将が笑顔で答える。長きにわたってヤン元帥の副官や参謀を務めた彼女は、同盟軍が再編された時に要塞艦隊に転じた。

 

「そんなにいるのか! 凄いなあ!」

 

 俺はハラボフ大佐から借りた双眼鏡を持ち、脚立に乗って遠くを見た。軍艦が果てしなく連なっていた。宇宙での一〇〇〇隻は豆粒だが、地上での一〇〇〇隻はとてつもなく大きい。

 

 直接収容式の軍港は、係留式の軍港よりも一隻あたりのスペースが大きくなる。同盟軍は係留式を採用しているが、一〇〇〇隻が停泊できる規模の軍港は少ない。リン・パオ宇宙港は規格外の軍港だった。

 

 二番目の訪問先はミッキー・コフリン陸戦隊基地である。イゼルローン要塞の陸戦隊基地には、過去の陸戦隊の勇士の名前が与えられている。要塞軍集団司令部や要塞砲兵司令部などがあるコフリン基地は、要塞防衛の中枢を担う。

 

「ここが中央司令室か……」

 

 俺は感動に震えていた。要塞軍集団司令部の中央司令室は、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』の愛読者にとっては、聖地の中の聖地なのだ。

 

 心の中で「あれがヤン提督のデスク……」と呟いた。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』によると、ヤン・ウェンリーは司令官席のデスクであぐらをかき、左隣の席に副官フレデリカ・グリーンヒルが座り、右隣の席に参謀長エリック・ムライが座り、後ろの席に要塞防御司令官ワルター・フォン・シェーンコップが陣取ったという。

 

「司令官席に座っていいか?」

「構わんぞ」

 

 案内役のカスパー・リンツ中将の許可を得ると、俺は司令官席に腰を下ろした。デスクの上であぐらをかきたいという衝動を懸命に抑える。

 

 他の席にも座らせてもらった。フレデリカの席で副官気分に浸り、ムライの席で参謀長の気持ちに思いを馳せ、シェーンコップの席で大物のような気分になった。リンツや幕僚は微妙な表情でこちらを見た。

 

 要塞砲兵司令部の主砲指揮所で、トゥールハンマーの射撃演習を見学することになった。演習と視察がたまたま重なったのだ。

 

「…………」

 

 俺は何も言わずにスクリーンを眺めた。要塞から放たれた雷が漆黒の宇宙空間を切り裂く。演習だとわかっていても圧倒されてしまう。

 

 イゼルローン要塞空戦隊司令部を訪ねた。トランプのエース四人のうち、面会できたのはコーネフ少将一人だけだった。ヒューズ少将とシェイクリ少将は周辺宙域で飛行訓練中、ポプラン少将は「どこに行ったかわからない」のだそうだ。

 

 コーネフ少将が言うには、「ポプランは地に足が着いてない奴なので」とのことだった。意味がよくわからない。他意はないと言いたかったのだろうと思うことにした。

 

 要塞艦隊九五万人と要塞軍集団八〇万人を支えるのは、イゼルローン要塞の強力な支援能力である。軍病院三一六施設の病床数の合計は二〇万床、ミサイル工廠が一時間に生産するレーザー核融合ミサイルは七五〇〇発、低温倉庫に貯蔵できる穀物は七〇〇万トンにのぼる。ビーム砲用エネルギーパック、ウラン二三八弾などを生産する設備も備えていた。

 

 ジェームズ宇宙軍病院は八〇〇〇床の病床を有し、一日の外来患者は三万人を超える。イゼルローン最大の軍病院であり、同盟軍最大の軍病院でもあった。

 

「でっかいな」

 

 我ながら独創性に欠ける感想だと思うが、でかいとしか言いようがなかった。八年前に入院したハイネセンポリス第二国防病院は八〇〇床で、軍病院としては大きな部類に入る。それでも、この病院の一〇分の一に過ぎない。

 

 シルベリオ・アゴスティーニ宇宙軍基地は、民間宇宙港としても使われている。軍港の半数はこのような共用港だった。民間人三一四万人が住むイゼルローンは、辺境星系並みのGDPを誇る。貨物船や客船が入港できる港が必要なのだ。

 

 モーガン・スキナー宇宙軍補給基地は、広大な空きフロアに食糧や衣服を詰め込み、警備兵詰め所と防犯システムをくっつけただけの代物だった。要塞内部は九〇〇〇以上のフロアに分かれており、使い切れないほどのスペースがある。その気になれば、基地などいくらでも増やせる。

 

 視察を終えると、俺は臨時官舎に移動した。キッチンとバスルームとトイレの他に、五つの部屋がある。内装はやたら豪華だ。帝国統治時代は、出張してきた高官が泊まる部屋だったらしい。

 

 第一辺境総軍司令部スタッフ三〇〇〇名と第二艦隊隊員一二四万四〇〇〇名も、割り当てられた宿舎に入った。これほどの大人数が移動したにもかかわらず、混乱はほとんど生じなかった。広大なイゼルローンは、一〇〇万人を超える臨時滞在者ですら余裕で受け入れてしまう。

 

 最近読んだ『セバスティアン・フォン・リューデリッツ伝』によると、当初は五万隻を収容できる要塞を作る予定だった。予算不足に陥り、計画を大幅に縮小し、収容艦艇数を二万隻に減らしたそうだ。多くのフロアが工事半ばで放棄された。そのため、建設計画を立案したリューデリッツ伯爵ですら、正確なフロア数を把握できなかったらしい。

 

 二日目は民間人居住区の視察を行った。イゼルローン要塞には民間人三一四万人が住んでいる。民間人との関係構築は必要不可欠だ。

 

 自治体としてのイゼルローン要塞は、「イゼルローン軍政区」と呼ばれる。要塞自体が一つの巨大基地なので、軍が直接統治することになった。行政権と立法権はイゼルローン軍政府、司法権はイゼルローン軍事裁判所に属する。軍政府と軍事裁判所は別系統の組織だ。

 

 イゼルローン総軍総司令官が軍政府主席、要塞軍集団司令官と要塞艦隊司令官が軍政府副主席を兼ねた。総軍総司令部はティアマトに置かれているため、二人の副主席が軍政府を取り仕切った。

 

 主席と副主席の下に、主席官房、管理局、住民代表会議が置かれた。主席官房は総軍総司令部と一体化しており、組織としての実態を備えていない。管理局は文民で構成される事務機関である。住民代表会議は民間人で構成される諮問機関で、議決権は持っていない。

 

 イゼルローンの行政を実質的に動かしているのは、管理局だと言われる。優秀な軍政家と優秀な行政官はイコールではない。一般行政と軍事行政は根本的に違う。俺がシュテンダールを統治した時は、人道支援を重視する方針を示し、行政のプロである政策調整部員に具体的な政策を任せた。民間人を統治するには、専門知識のある行政官が必要なのだ。

 

 イゼルローン要塞管理局の庁舎はひどく古びた建物だった。伸び放題の樹木が周囲を取り巻いている。コンクリート造りの庁舎は、長方形の石に窓と扉をくっつけたようなデザインで、外壁には汚れやひび割れが目立つ。

 

「素晴らしいです」

 

 作戦副部長メッサースミス准将が目を輝かせる。クリーン志向の人の目には、ぼろい庁舎は好ましく見える。

 

「清廉気取りもここまでくると見苦しいですな」

 

 情報部長ベッカー少将が非好意的な視線を庁舎に向ける。実利志向の人の目には、ぼろい庁舎はあざとく見える。

 

 俺は幕僚五名と護衛兵八名を連れて庁舎に入った。どう見ても未成年の女性なのに、「基地対策課長 アーノルド・スールズカリッター」という名札を付けた職員が案内してくれた。

 

 屋内は意外ときれいだった。掃除が行き届いているのだろう。建物の老朽化はひどいが、荒廃した印象は受けない。職員のほとんどは私服姿だ。

 

「ここは本当に役所なんですか?」

 

 ディッケル大尉が小声で言った。彼の視線の先には、移民推進部生活支援課の窓口がある。薄汚れた服を着ている無精ひげの男性、スキンヘッドで唇にピアスをつけた女性、派手なシャツを着た遊び人風の男性が応対していた。

 

「役所だろ。生活支援課って書いてるし」

「フェザーンのベンチャーにしか見えないですよ」

「服装規則がないんだろうね」

「役所として成り立つんですか?」

「成り立ってるみたいだよ。リベラル系の自治体には、服装自由のところが多いんだ。ヌーディストの全裸勤務を認めた自治体だってある」

「僕には理解できないです」

 

 ディッケル大尉は理解できないというより、理解したくないようだった。苦学して士官学校に入った人なので、秩序へのこだわりが強い。

 

「こういう役所もあるということを覚えといてくれ」

 

 俺は話を打ち切った。事実を伝えることはできる。自分の意見を伝えることはできる。受け入れるかどうかは彼自身が決めることだ。

 

 応接室に足を踏み入れると、少し引いてしまった。ソファーの黒い表皮がはがれかけている。木製のテーブルはきれいに磨かれているが、くすんだ塗装や細かな傷は隠しようもない。観葉植物や絵画といったインテリアは見当たらない。ちり一つ落ちていない床と埃っぽさのない空気が、殺風景さを引き立てる。

 

 貧相な部屋の中心で炎が燃え盛っていた。その炎は細身の中年女性の形をしていた。炎の名前はマリーズ・ジレという。

 

 要塞管理局長マリーズ・ジレは、自由と理性を何よりも愛し、不正と不合理と無駄を何よりも憎んでいる。惑星ケイローン知事として剛腕を振るい、利権構造を一掃した。議会と対立して失職した後は、エル・ファシル政府顧問やLDSO行政改革本部長を歴任し、リストラの大ナタを振るった。レベロ政権では民間人でありながら経済開発委員長を務め、戦争利権集団「鉛の六角形」の解体を進めた。トリューニヒト支持者とは相容れない経歴の持ち主である。

 

 俺の器量を一とすれば、ジレ局長の器量は一万を超えるだろう。偉大な人物の言葉には強い力がある。何気ない一言に見えても、トゥールハンマーの一撃よりも痛烈で、アスピドケロン海溝よりも深い。

 

「本日はありがとうございました」

 

 俺は一五分の予定だった会談を八分で切り上げた。型通りの握手をかわし、早足で応接室から出て行った。「勇者の中の勇者」でも逃げたくなることはある。

 

 広報課の部屋に赴き、施政に関する説明を受けた。広報課員が懇切丁寧に説明してくれた。渡された資料は要点を的確に押さえている。

 

「――以上です」

「ありがとう。わかりやすかった」

「管理局は説明責任を徹底しております。正しい情報がなければ、正しい理解は得られません。十分に説明を尽くし、市民の理解を得ることは何よりも重要なのです」

 

 広報課員は誇らしげに胸を張った。仕事への誇りが感じられる。彼女のような人が管理局を支えているのだろう。

 

 行政情報センターで統計資料、予算書、計画書、刊行物、広報資料などをコピーした。データを知ることは組織を知ることと同義なのだ。

 

「すごいな。こんな情報まで開示してるのか」

 

 俺は目を丸くした。普通の自治体なら不名誉な情報は隠そうとするだろう。それなのにイゼルローン管理局は堂々と公開する。

 

「局長は『ミス・コンプライアンス』ですからね。他人が自分の過ちを知らないことを恐れる人です」

 

 受付の職員の瞳はきらきらと光っていた。ジレ局長の下で働けることが嬉しくてたまらないといった感じである。

 

 俺は微妙な気分になった。トリューニヒト政権は、情報公開に逆行する動きを進めている。過ちを隠すことが当たり前になりつつある。味方が不公正で、敵が公正を守ろうとしているのだ。

 

 思い悩みながら歩いていると、前方からアロハシャツを着た男性が近づいてきた。天然パーマの茶髪と太い眉が特徴的だ。

 

「よう、久しぶり」

 

 グレアム・エバード・ノエルベーカー氏が、気さくに笑いかけてきた。四年前にカルシュタット星系LDSOの代表を務めた人である。

 

「お久しぶりです」

 

 俺は笑顔を浮かべたものの、あまり嬉しくはなかった。カルシュタットではノエルベーカー氏としばしば対立した。嫌いではないが、気まずい気持ちになる。

 

「こんなところで再会するとはなあ。人生、何があるかわからんもんだ」

「まったくです」

「立ち話もなんだから、外に出ないか。そろそろ昼飯の時間だ。飯を食いながら話そう」

 

 ノエルベーカー氏はわだかまりを持っていないようだ。小物とは器が違う。

 

「そうですね」

 

 俺はノエルベーカ―氏の誘いに乗り、昼食を共にすることになった。管理局には職員食堂がないので、庁舎を出てうどん屋「諸国民の春」に入った。

 

 諸国民の春はかなり広い店だった。俺は一番奥のテーブルを選んだ。ノエルベーカー氏は俺の向かい側、ハラボフ大佐はノエルベーカー氏の左隣、ディッケル大尉は俺の右隣に座る。その他の幕僚と護衛兵は、近くの席に座った。

 

「今の名刺だ」

 

 ノエルベーカー氏が渡してくれた名刺には、「イゼルローン要塞管理局 政策企画部 政策企画課 課長補佐 グレアム・エバード・ノエルベーカー」と記されていた。

 

「課長補佐ですか……」

 

 俺は言葉を失った。イゼルローン軍政区は特別市と同等なので、ノエルベーカー氏の地位は市役所の課長補佐に相当する。あの基地対策課長より格下なのだ。悲しくなるほどの凋落ぶりだった。

 

「暗い顔をするなよ。これでもやりがいのある仕事なんだぞ」

 

 ノエルベーカー氏は今の仕事がいかに充実しているかを語る。心の底から仕事を楽しんでいるように見えた。

 

「管理局は素晴らしい職場だ。上司も同僚も部下も超一流の人材がそろっている。ヤン提督とアッテンボロー提督はやりたいようにやらせてくれる。戦争に巻き込まれる心配もない。最高の環境だよ」

「良い職場を見つけたんですね」

「カルシュタットもいい職場だったがね。時間が足りなかった」

「えっ……?」

 

 俺の頭の中で疑問符が飛び回った。この人は何を言っているのかと思った。時間が足りなかったのは確かだ。しかし、彼の施政はそれ以前の問題だった。

 

「カルシュタット経済の悪化は短期的なものだった。政策が軌道に乗れば、君が懸念していた問題は解決できたはずだ。生みの苦しみを乗り切る前に、戦局が悪化してしまった。本当に残念だ」

 

 ノエルベーカー氏の主張は、学問的には常識的かつ穏当なものであった。経済学者や行政学者の間では、「LDSOの改革は正しかった。五年あれば成功した」という意見が主流を占める。

 

「…………」

「軍を責めようとは思わん。LDSOには『軍に足を引っ張られた』と恨む者が多いがね。そういうのは好かん。君たちはベストを尽くした。感謝することはあっても、恨むことはない」

「……ありがとうございます」

「今度こそ自由の天地を作ってみせる」

「頑張ってください」

 

 俺はにっこり微笑んだ。言いたいことは山ほどあったが、腹の中に収めた。じっくり話し合う時間はない。皮肉を叩きつけるのは俺の流儀ではない。笑って別れるのがベターだ。

 

「信じてくれとは言わない。見ていてほしい。私がイゼルローンでやっていることを見れば、きっとわかるはずだ」

 

 ノエルベーカー氏は静かに言い切った。口元には優しくて暖かな笑みが浮かんでいた。瞳の中には理性に基づく確信が宿っていた。

 

 難しい話が終わった後は雑談に終始した。ノエルベーカー氏との会話は楽しかった。食べっぷりの良さにも好感を持てる。仕事さえ絡まなければ良い人なのだ。

 

「イゼルローンに来るまでにはいろいろあってなあ」

 

 ノエルベーカー氏の経歴は紆余曲折を繰り返した。ラグナロック戦役の末期、独断で親同盟派住民と元自治領民を脱出させたために解任された。レベロ政権が発足すると、最高評議会書記局に復職し、ホワン書記の秘書官補を務めた。トリューニヒト政権下では、書記局の抵抗勢力の一員となり、反改革政策に抵抗した。クーデターが起きた時は、ソーンダイク派の一員としてスタジアムに立てこもった。粛清人事で書記局から解雇され、イゼルローンに来たそうだ。

 

 スールズカリッター氏について聞いてみると、本物の基地対策課長で、以前は旧人的資源委員会の事務総局人事課長だったそうだ。とんでもないトップエリートである。前の世界の英雄スーン・スールズカリッターとの関係はわからなかった。

 

 昼食を終えてノエルベーカー氏と別れた俺たちは、公共施設を巡った。民間人居住区は一五の行政区に分かれる。各区には、学校、公園、図書館、体育館、病院、保育園、コミュニティセンターなど、健康で文化的な生活に必要な施設が揃っている。

 

 どの施設でも管理局を訪ねた時と同じ印象を受けた。職員は親切で礼儀正しい。建物は古びているが清潔に保たれている。都合の悪い情報でも隠すことはない。手続きは簡潔で分かりやすい。利用者のストレスを最小限に抑える工夫がなされていた。

 

「理想の役所だな」

 

 俺が心の底から感嘆した。公僕とは、イゼルローン管理局員のためにある言葉だろう。普通の公務員は組織のために働くが、管理局員は市民のために働く。

 

「人件費も安いですしね」

 

 メッサースミス作戦副部長が満足そうに笑う。

 

「基本給が全国平均の七割だからなあ。いい仕事をしてるのに」

「非常勤職員率も高いですよ」

「ワークシェアを徹底してるんだね。だから、少ない人件費で済んでるんだ」

「職員数は少ないのに、一人あたりの労働時間は全国平均よりはるかに短いです。残業がないことも人件費の抑制につながっています」

「そして、有給消化率はぶっちぎりに高い。有給が残っていたら、強制的に休まされる。ヤン元帥が絶賛しそうだ」

 

 管理局のやり方は俺とは違うが、それでも称賛せずにはいられなかった。管理局員ほど安い給料で働く公務員はいない。管理局員ほど休んでいる公務員はいない。それなのに素晴らしい成果をあげている。高い志と優秀なマネジメントの賜物だ。

 

 翌日から幕僚たちは資料の分析に取り掛かった。戦略研究科や経理研究科の出身者は、社会科学を学んでいる。政策を作るほどの知識はないが、政策を理解する程度の知識はある。

 

 イゼルローン軍政区の施政は、典型的なハイネセン主義政策であった。公務員人件費を抑制し、予算の節約に努め、健全財政を実現した。多くの公共サービスを外部に委託することで、経費削減とサービス向上を図った。説明責任と情報公開の徹底により、市民の信頼を獲得した。不正や汚職の温床を徹底的に叩き潰した。税率を低く設定し、規制をなくし、経済を活性化させた。差別に厳しい姿勢を打ち出し、移民保護政策を進めたため、各地から帝国人移民が移住してきた。

 

「やはり、ハイネセン主義は正しかったんです」

 

 メッサースミス作戦副部長が頬を紅潮させる。若い幕僚数名が同意を示した。

 

「完全な間違いじゃないといった方が適切じゃないか?」

 

 ベッカー情報部長が皮肉っぽい目で若手幕僚たちを見た。帝国のエリートだった彼の中には、ハイネセン主義への幻想は存在しない。

 

「要するに正しいってことでしょう」

「間違いじゃないと正しいはイコールじゃないぞ」

「何が違うんです?」

「一〇〇パーセント間違いじゃないってだけさ」

 

 部下たちの会話を聞きながら、俺はレポートをめくっていた。イゼルローンの社会構造に関する分析だ。

 

 イゼルローン軍政区は裕福な自治体であった。人口の三五パーセントを軍人、四三パーセントを軍人家族、二二パーセントをその他の民間人が占める。その他の民間人とは、管理局職員、基地従業員、軍と契約した企業の従業員などである。軍人は前線手当のおかげで内地勤務者より収入が多い。一〇代の少年兵ですら、三万ディナールの年収を受け取っている。軍人とその家族は手厚い福利厚生を受けており、可処分所得が多くなる。軍が住民の所得と雇用を保証しているのだ。

 

 充実したインフラがイゼルローン住民の生活を支えた。要塞内に張り巡らされた自動車道と鉄道は、住民の交通路となった。巨大な水素動力炉は、住民に安価なエネルギーと水を提供した。内部完結型の給排水システムは、水素動力炉が作り出した水を循環させた。これらのインフラは軍事用途に用いられるため、軍が維持費を負担する。

 

「イゼルローンは恵まれている」

 

 管理局のハイネセン主義政策が成功した理由が、俺にも理解できた。仕事を失うと同時に在住資格も失うため、イゼルローンには失業問題や貧困問題が存在しない。軍用インフラを利用できるので、インフラ維持費を負担する必要がない。効率化に専念することが許された環境なのだ。

 

 過去にハイネセン主義改革が成功した星系は、いずれもポテンシャルの高い星系だった。人間に例えれば、大柄な肥満児だった。贅肉を落とし、過保護と過干渉をやめ、自立心を持たせれば、健康体に生まれ変わる。

 

 もっとも、ポテンシャルが高いだけでは成功しない。贅肉を落とすにもコツがいる。ダイエットのやり方が間違っていたら失敗する。正しいダイエットをしても、肥満児が途中で投げ出したら失敗する。正しい方法を選び、なおかつやる気を持続させなければならない。政治においては、適切な改革手段を選択し、改革に対する支持を維持し続けることだ。

 

「この人たちも使いようなんだな」

 

 俺は管理局の幹部職員名簿に目を通した。課長級以上の職員全員の略歴が詳細に記されていた。幹部の四割が元LDSO職員で、残りの六割も改革派である。悪い言い方をすると、「同盟と帝国をぼろぼろにした人物リスト」であった。

 

 彼らは多くの問題を起こしたが、決して無能ではない。リストラした人数、減らした支出額、摘発した不正の件数などを基準にすれば、文句なしに優秀だろう。

 

 ただし、優秀な人材を集めただけでは成功しない。正しい方針を与え、提案を取捨選択し、適切な支援を与え、人材同士の対立を調停することが必要である。

 

「アッテンボロー提督は本当に有能だ」

 

 レポートによると、軍政府副主席決裁の九割は、アッテンボロー大将が出したものだった。シェーンコップ大将は行政に興味がないようだ。

 

 どんな立場にいても、アッテンボロー大将は変わらない。不正を正すために戦い、束縛を打破するために戦い、多数派のエゴを抑制するために戦い、少数者の権利を擁護するために戦う。反骨精神と情熱にあふれた彼は、改革者に必要な資質を備えていた。

 

 前の世界では、要塞事務監アレックス・キャゼルヌが、イゼルローンの行政を取り仕切った。戦記によると、彼が病気で寝込んだ時は、事務が停滞したそうだ。軍官僚は一般行政の専門家ではないので、政策には疎いが、組織を動かす方法を知っている。効率的に組織を運営するリーダーだったと思われる。

 

 二つの世界のイゼルローンを比較すると、先進性においてはアッテンボロー体制が勝り、効率性においてはキャゼルヌ体制が勝る。アッテンボローの本質は政治家、キャゼルヌの本質は官僚であった。前の世界のバーラト自治区では、アッテンボローは議員として国政を担い、キャゼルヌは軍事官僚として政府を支えた。

 

「住みたいとは思わないな」

 

 俺は誰にも聞こえないように呟いた。イゼルローンの施政が素晴らしいことは認める。だが、あまりにリベラルすぎる。もう少し保守的でないと落ち着けない。

 

 後ろのテーブルでは、幕僚数名が「こういう街に住みたい」と語り合っていた。イゼルローンのリベラルさを心地良く感じる人もいるのだ。すべての街が俺好みの街になったら、彼らは落ち着けないと感じるだろう。

 

 ヤン・ファミリーを残したいという気持ちが一層強くなった。ヤン元帥の更迭は避けられない。それでも、何らかの形で残したいものだ。チーム・フィリップスだけが残ったら、リベラリストやひねくれ者の居場所がなくなる。

 

 残業を終えて家に戻り、司令官日記の執筆に取り掛かった。今回の題名は「エリヤ・フィリップスのイゼルローン日記 二日目」という。読者はイゼルローンの実態を知りたがっている。期待に応えるのがエリヤ・フィリップスのスタイルだ。

 

 昨日掲載したイゼルローン日記一日目のコメント欄には、「フィリップス提督とアッテンボロー提督のツーショット、素敵です!」「シェーンコップ兄貴、マジかっこいい!」「ポプラン様がいなかったのは残念」「イゼルローンに引っ越したい!」といったコメントが並んでいた。市民は英雄が大好きなのだ。

 

 更新を終えた俺は仕事用のメールボックスを開いた。数通のメールが来ていたが、期待したものはなかった。

 

 三日前、国防委員会に一通の作戦案を送った。回廊の帝国側出口と要塞の間に機雷原を作り、密航を防ぐという内容だ。もっとも、密航を防ぐというのは名目に過ぎない。本当の目的は、機動要塞の侵攻を防ぐことにあった。ワープポイントに機雷をばらまいておけば、相手は回廊に進入できなくなるはずだ。

 

 ラインハルト政権が報道規制を緩和すると、門閥派が抑えていた平民のナショナリズムが吹き上がり、「固有の領土イゼルローンを取り返せ」と叫ぶ声が全土に広がった。キルヒアイス元帥とラング元帥が強硬論を抑えているものの、収まる気配はない。

 

 大規模な出兵が行われる可能性は低いと思われる。ルドルフ原理主義勢力「銀河帝国正統政府」の脅威、三二代ブラウンシュヴァイク公爵を襲名したフレーゲル男爵のテロ活動、キルヒアイス元帥とロイエンタール上級大将の対立など、不安定要素が多い。ただし、ガス抜きとして、小規模な出兵を行う可能性はあった。

 

 出兵が行われるとしたら、機動要塞を使うんじゃないかと俺は考えた。ガイエスブルク要塞に一個艦隊を乗せれば、ちょっとした遠征軍になる。要塞という兵器は、回廊の地形と相性が良い。大軍を動かさなくても、「反乱軍の心胆を寒からしめた」といえる程度の戦果は挙げられる。

 

 機動要塞を使うという予測には、客観的な根拠は一つもない。ワイドボーン参謀長やチュン・ウー・チェン副参謀長に意見を聞いたら、合理的な反論が返ってきて、「帝国は機動要塞など使わない」という結論になるだろう。

 

 勘違いしないでほしいが、俺はポルフィリオ・ルイス元准将の予言を信じているわけではない。あんなものを信じるのはオカルティストだけだ。

 

 ルイス元准将はいくつかの予言を当てたおかげで、異才として注目された。ヤン・ウェンリーの才能を最初に見抜いた教官で、無理やり戦略研究科に転籍させたことは、慧眼ぶりを示すものとされる。第五次イゼルローン攻防戦やヴァンフリート戦役に関する予言も的中させた。だが、ラグナロックの時の「同盟軍は焦土作戦を食らって壊滅する」という予言や、クーデターの時の「グリーンヒルとルグランジュがクーデターを起こす」という予言を外したため、笑い者になった。

 

 根拠のないことを言っても、まともな人間は信用しない。予言など外れれば馬鹿にされるし、まぐれ当たりすれば変な人間が寄ってくる。どちらにしても信用を失う。ルイス元准将はクーデターに加担した挙句、懲役一五年を宣告された。だから、機動要塞が来るなどとは口にできない。

 

 回廊に要塞がやってくると、想像するだけで眠れなくなる。万に一つの可能性だとしても、小物の安眠を妨げるには十分だ。

 

 機動要塞対策は俺がぐっすり眠るための作戦だった。前の世界の記憶がなければ、こんな作戦は必要なかっただろう。

 

「客観的に見れば、こっちの方が脅威だよな」

 

 俺は別のメールを開いた。正統政府の工作員がイゼルローンに進入し、スタウ・タッツィーの妻子を狙っているという情報だった。

 

 ラグナロック戦役が終わり、休戦協定が結ばれた後も、水面下の戦いは終わらなかった。ブラウンシュヴァイク公爵は処刑部隊を同盟領に送り込み、戦犯を暗殺させた。復讐は高貴な血の欲するところだ。帝国の権威を踏みにじった者には制裁を与えなければならない。貴族への批判を逸らすという目的もある。

 

 処刑部隊が最も執拗に狙ったのは、開戦工作の関係者、LDSO幹部、ヴィンターシェンケ事件の関係者、ブラケナウ事件の関係者であった。これらの人々は帝国貴族の誇りを深く傷つけた。

 

 ヴィンターシェンケ事件とブラケナウ事件は、発覚当初は死者数千人と言われたが、最終的に数百万人が死亡したことが判明した。帝国の支配階級は領民を家畜と思っている。家畜を殺す権利は主人にのみ帰する。家畜数百万頭を勝手に殺した者を許すわけにはいかない。

 

 多くの戦犯を血祭りにあげた処刑部隊は、ブラウンシュヴァイク公爵が死ぬと分裂した。半数はラインハルトの命令に従って祖国に戻った。納得できない者は同盟に残り、正統政府のオフレッサー総司令官に忠誠を誓った。

 

 ヴィンターシェンケ・グループのトップであるスタウ・タッツィーは三回結婚し、九人の子供を作った。処刑部隊は二人の元妻と八人の子供を殺した。生き残った元妻一人と子供一人は、各地の自治体で住民登録を拒否された。アッテンボロー大将の計らいにより、親子はイゼルローンに住処を得た。

 

「タッツィーの妻子なんて守りたくないけど」

 

 そう言いかけたところで、俺は横に首を振った。ヴィンターシェンケ事件は本当にひどい事件だった。裁判記録を少し読んだら吐き気がして、三日間食欲が湧かなかった。凄惨な場面を見慣れた妹ですら、裁判記録を三ページ読んだだけで吐いてしまったほどだ。あまりに酷いので、家族に罪はないという基本的な事実すら忘れてしまう。

 

「家族に罪はない。軍にはすべての市民を守る義務がある。アッテンボロー提督は正しい」

 

 俺は自分に言い聞かせるように言った。感情に流されてはならない。タッツィーは前の世界で俺を虐待し、この世界ではヴィンターシェンケの住民一〇〇〇万人を虐待した。でも、その妻子には守られる権利がある。

 

「アッテンボロー大将と同じことが俺にできるかな」

 

 俺は腕組みをして考え込んだ。スタウ・タッツィー、アリオ・プセント、ベン・マキャン……。ヴィンターシェンケの汚物一一名の顔と名前を思い浮かべる。彼らの家族を受け入れることができるだろうか?

 

 おそらくできないだろうと思った。嫌悪感を抑えることはできる。家族の罪を負うべきではないと言える。俺一人だったら受け入れる。だが、他の者が嫌がったらどうするのか?

 

 ボロディン提督の言葉を借りるならば、俺は他人が何を求めているのかを理解し、求められた役割を演じようとする人間だ。つまり、他人が嫌がることはできない。道理に合わなくても、他人の感情を優先する。それゆえに、パトリオット・シンドロームやトリューニヒト議長の強権化に対しては、何もできなかった。

 

「だからこそ、ああいう人間は必要だ」

 

 俺はダスティ・アッテンボローの価値を改めて理解した。他人に迎合しない人間でなければできないことはある。

 

「そして、ああいう人間を収めておける器も必要だ」

 

 ヤン・ウェンリーのような大器でなければ、アッテンボローを収めることはできないのである。大人物でなければ、大人物を受け入れることはできない。彼は単なる戦争の天才ではなく、偉大なるカリスマだ。

 

 器を壊す企みに手を貸したことで、器の本当の価値に気づいた。皮肉なことだと思う。どうにかしたいがどうにもできない。

 

 週末になったら、スイーツを食べに行こう。イゼルローンにはタルトの人気店がある。糖分をたっぷりとらなければ、この状況は乗り切れない。


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