俺はシノンを連れて、アルゲードの猥雑な街並みを進み続け、先程見つけた喫茶店の中へと入り込んだ。何だか怪しげな街並みと打って変わって喫茶店の中は随分と御洒落で、雰囲気の良いところだったので、シノンに世界の事を話すにはちょうどいいと思った。
NPCの案内を受けて空いてる席に座り込み、適当な飲み物……コーヒーを二つ頼んだ後に、シノンの方へ目を向けると、辺りを興味深そうに見回しているシノンの姿があった。
「これが……現実の世界じゃないなんて……」
本当にそう思う。このアインクラッドの中は所詮ゲームの中のはずなのに、ダメージを受けてHPがゼロになったら死ぬし、飲み物や食べ物を口にすれば味を感じるし、何より広がっている風景もまるで現実世界のような質感や立体感がある。
ここはゲームの中の世界なんですなんて言われても、外部からやって来た人は認識しにくいに違いない。それくらいに、この世界は現実感で溢れている。いや、もう一つの現実だ、この世界は。
「さてとシノン。これからこの世界について話そうと思うんだけど、いいかな」
シノンは俺に顔を向けて、頷いた。
「えぇ。話して頂戴」
俺はシノンに、この世界の仕組みの事、アインクラッドの状況の事を全て話した。途中、シノンは何度も驚いたり、目を丸くしたり、眉を寄せたりしたが、とりあえず話を全部聞いてくれた。話が終わった後すぐに、シノンは不安そうに言った。
「《ソードアート・オンライン》……どこかで聞いたような気がする。そして、あくまでゲームであるから、好きな時に入れて好きな時に出れるようになっているはずだったけど、管理者に現実への鍵をかけられて出られなくなってしまったわけね。終わらせたかったら、誰でもいいからクリアしろと……」
「そう。この世界から脱出するにはこのゲームをクリアする……この城の天辺である100層に辿り着く事なんだ。そしてこの城の攻略は今現在は50層まで完了している。次は51層のボスを倒して52層に進むんだ」
「それで、この世界でHPがゼロになったら、現実でも死亡する……」
「そうだよ。だから君には一つだけ約束してほしい。――俺と一緒にいてくれ。もし俺と行動が共にできない場合は、街から勝手に出たりしないでくれ。頼むよ」
シノンは軽く溜息を吐いた後に、頷いた。
「わかったわ。流石にフィールドに飛び出して命を落とすのはごめんだから、あんたに従っておくわ」
「ありがとう。随分無茶ぶりをしたと思うけれど、飲み込んでくれたみたいでよかったよ」
とりあえず、シノンの事はあまり心配がなくなったようだ。そう思った時に、シノンがまた目を半開きにして俺の事を睨むように見つめてきた。
「ところでキリト。あんたの後ろ姿を見てた時に、あんたの背中がもぞもぞと動いてたんだけど、あんたの背中どうなってるのよ」
その時に、俺はようやく背中の温もりが何だったのかを思い出した。そうだ、世界の事を話したはいいけれど、頼もしい仲間の事はまだ話していなかった。シノンが見たら吃驚仰天するだろうけれど、この世界で生きていく以上は逃れられない。
「それは俺の仲間だ。リラン、もう出てきていいぞ」
直後、俺の背中から鳥が羽ばたくような音が聞こえてきたと同時にコートがふわりと浮かび上がった。かと思えば、俺とシノンの間にあるテーブルにちょこんと白い竜が姿を現し、シノンは大きな声を上げて驚いた。
「わぁっ!? な、なにこれ!?」
やはり、SAOプレイヤーじゃない人の反応だと苦笑いした後に、俺は言った。
「こいつが俺の相棒、リランだ。この世界、ゲームの世界ならではの仲間だよ」
シノンは両手をテーブルにつけて、俺と自分の目の前にいる小竜をまじまじと見つめる。
「こ、これがあんたの仲間? これって、なに? ドラゴン?」
《《ソードドラゴン》というらしいぞ》
リランの《声》が頭の中に響いたと同時に、シノンはまた悲鳴を上げて周囲を見回した。……とりあえずリランに話しかけられた人はこんな反応をするようだ。まぁ、最初は俺もその一人だったわけだけど。
「ちょっと、何よ今の声。頭の中に直接……」
「それがリランの《声》だよ。リランは
シノンは「そうなの!?」と言って俺を見て、すぐにリランへ視線を戻した。
「は、初めましてリラン。私は、シノン……」
《ずっとキリトの背中で聞いていたから、わかるぞ。随分と大変な目に遭ったようだな》
シノンは目を丸くする。
「あんた、私の言葉がわかるの?」
リランは手で耳の付近を掻いた。
《わかるとも。我はこの世界にいる全ての者の言葉がわかる。こんな見た目をしているが、言葉が通じないなどという事はないぞ》
シノンはきょとんとして、まじまじとリランを見つめた。
「……この世界ってよく出来てるわね。こんなのさえも、人の言葉を理解して、話が出来てしまうんだから」
いや、そうじゃない。リランは……特別すぎるんだ。普通のNPCですら、俺達とまともな会話をするのは難しいのに、リランはまるでプレイヤーのように人の言葉を理解して、自分で考えて答えを出しているかのように、滑らかに喋る。そして他の《ビーストテイマー》も、こんなテイムモンスターを連れている事はないと、エギルが言っていた。
リランはよく出来過ぎている。せめて、他の《ビーストテイマー》に出会う事が出来れば、何かわかるかもしれないが、エギルにも俺にも《ビーストテイマー》の知り合いはいないから、その辺りはどうしようもない。でも知らずにはいられないから、いずれは何とかしないと。
「まぁとにかくリランはいい奴だし、戦闘面でも強い力を持ってる。俺達を助けてくれる頼もしいドラゴンだから、友達にでも――」
言いかけたその時、シノンは両手をリランの頬や身体に伸ばし、さわさわと触り始めた。そしてその目、手つきは、まるで愛玩動物を愛でるかのように穏やかなものだった。
「これが……ゲームの中のモンスター? 信じられないわ。こんなにふかふかで……可愛いのに」
思わず驚いた。今までリランは他のプレイヤーに触られる事を嫌って、触ろうとしてくるプレイヤーとかからは逃げる傾向にあったのに、シノンからは逃げようとしない。それどころか、尻尾をテーブルに垂らし、翼を閉じている。どうやら、落ち着いているらしい。
「リランが逃げ出さないなんて……」
思わず、撫でられているリランに話しかける。
「リラン、お前大丈夫なのか。あんなに人に触られるのを嫌がっていたのに……」
《大丈夫だ。それにキリト、この者の事は信じていい。それくらいに、この者は穏やかだ》
「そんな事までわかるのかよお前」
シノンが再び目を半開きにして俺とリランを交互に見つめる。
「なに? 私に言えないような事を脳内会話?」
「いやいやそんなんじゃないよ。ただ、こいつは俺以外のプレイヤーに触られる事をあまり好んでない奴なんだけど、シノンに触られて平気そうにしてるのが不思議に思えてさ」
「へぇぇ……リラン、私に触れて平気なの?」
リランが俺とシノンに《声》を送る。
《平気だとも。お前は手付きが良い。ここではないところにいた時には、動物を飼っていたりしたのではないか》
シノンはリランから手を離した。徐々に、その表情が曇る。
「駄目、思い出せない。やっぱり、思い出せないわ」
《それは我も同じだ、シノン》
シノンはきょとんとして、リランと目を合わせた。そういえば、リランも同じ記憶喪失であると、シノンに告げていなかった。
「リランも、こうして俺と旅をしているけれど、実は俺と旅する前にも何かあったらしいんだ。けれど、それを思い出せないでいる。シノンと同じ、記憶喪失なんだ」
シノンは意外そうにリランを見つめた。
「あんたも私と同じ、記憶喪失なのね。というかゲームの中ならよくある話か」
《我はキリトとの旅を、記憶を取り戻す旅にしている。キリトと旅を続けて、この城を昇り続けていれば、いつしか真実に辿り着く。そう読んでいるのだ》
「なるほど……あんたにはそんな事情があったのね」
「そういう事。といっても、この城を昇るのは俺達だけで十分。シノンは街にいるだけで結構だよ」
シノンが軽く溜息を吐く。
「そんなに釘を刺さなくてもわかるわよ。流石に自分の命を軽々しく投げ打つつもりはないから安心して頂戴」
流石に、シノンみたいな戦闘慣れしていない人にフィールド、ましてや迷宮区やボス戦に出てもらうのは危険すぎる。そんな事になったらモンスターに襲われて、一発アウトがオチだ。窮屈だろうけれど、シノンには街にいてもらわないと。
そう考えていたその時に、リランが振り向いて《声》をかけてきた。
《キリト。せっかくだからお前、家を持ったらどうだ。毎回宿屋に泊るよりも、ずっと有意義な生活が出来るようになるはずだ》
「なんだよ藪から棒に」
《お前はシノンの面倒を見ると言っていた。シノンは見ての通り、あらぬやり方でこの世界へ迷い込んでしまったようなもの……この世界の
そういえば、シノンのステータスをあまり教えてもらっていなかった。レベルはどれくらいなのか、コルはどれほど持っているのか、ひとまず確認しなければ。
「シノン、いきなりですまないが、ステータスウインドウを開いてくれないか」
「え、何よ急に」
「一応君のレベルや所持物を確認しておきたいんだ。なんやかんや行って君もこの世界の住人の一人になったわけだからさ。頼むよ」
シノンは軽く喉を鳴らした後に右手を動かし、ステータスウインドウを開いて見せた。席を立ち、シノンの背後に回って、俺はウインドウの中に表示されている数値に着目した。名前のところにはシノンが言っていた通り《Shinon》とあり、レベルのところには《Lv:55》、武器は《短剣》、コルには1000とあった。
《Lv:55》という点を除いては、所謂SAO始めたての状態、完全な初期状態だ。ちなみにシノンは何らかの理由で短剣を装備してSAOプレイヤーになったらしく、防具も短剣の性能を生かしやすい軽装備だった。
「レベルは55か……随分と高めだけど、俺達よりは低いな。それに所持金も1000となると……宿屋に泊り続けるのも難しいな」
《そうであろう。だから家を買った方がいいだろう》
俺はシノンから少し離れて、自分のステータスウインドウを開いた。
《Lv:75》に片手剣使い、所持金2500000コル。レベルアップを狙って雑魚を倒したり、クエストをこなしていたせいか、いつの間にか所持金がとんでもない事になっている。これくらいあれば、安い家を買ってもお釣りがくるな。
「うん……家は買えるな。この層の安い家でいいかな」
《この層のか? ここは猥雑で居心地が悪くないのか》
「昔通ってた電気街によく似てるんだよ。ここまで来るのは確かに大変ではあったけれど、居心地が悪いわけじゃない。それに来る途中で空き家を沢山見て来たから、そのうちの一軒をもらう事にしよう」
《……我はもっと穏やかなところが良い》
思わず首を傾げる。
「穏やかなところだって?」
《そうだ。こんな物々しいところに住んだら気がおかしくなりそうだし、お前自身にも悪影響が出そうだ》
「じゃあどこがいいんだよ……」
言おうとしたその時に、俺はふとこの城の22層の事を思い出した。
このアインクラッドの22層は、アインクラッドで最も穏やかな場所であると言われている。その由来は、フィールドモンスターがどこにもいない事だ。
あの層だけは次の層へ続く階段である迷宮区を除いてフィールドモンスターが存在していない、穏やかで暖かい、針葉樹と湖が美しい階層だ。しかも22層には人がほとんどおらず、攻略を急ぐ者達も大して気にせずに先に進んでしまったから、住んでいるプレイヤーも少ないから何かあっても騒ぎになる事もないし、ちょっかいをかけてくるような連中もいない。
リランの言う穏やかなところとは、まさに22層の事だろう。あそこならば、フィールドモンスターがいないから羽を伸ばせるし、戦闘が出来ないシノンも出歩く事が出来る。幾つものメリットが見つかるから、住むなら22層がいい。
それに、前に攻略に訪れた時にログハウスが売られているのを目にした事がある。湖が見渡せて、辺りは針葉樹林付きのドデカい庭みたいなものだからリランも元の姿のままゆっくりできるし、フィールドモンスターがいないので危険もない。
あの家を買えば、いいかもしれない。
「それなら22層はどうだ」
《22層?》
「そうさ。あそこならフィールドモンスターがいないからゆっくりできるし穏やかだ。そして、シノンが出歩いても大丈夫。ここみたいに物々しくないし物騒でもないぞ」
「そんなところがあるの、キリト」
自信満々に頷いて見せる。
「あるよ。だから、住むなら22層がいいと思うんだけど……シノンとリランはどう思う?」
シノンが軽く手を組む。
「私は賛成よ。フィールドモンスターが出ないなら、私でもフィールドを出歩けるっていう意味だしね」
《我も賛成だ。お前達とだけ過ごせるところが欲しいぞ》
「そういう事だったのか。よし、そうと決まったら早速22層に出かけよう。下見とログハウスの値段の確認だ」
そう言って席を立った直後、俺はがやがやというくぐもった音が耳に響いてきている事に気付いた。外の方で、一騒ぎ起きているようだ。この音にはシノンとリランも気付いているらしく、窓の外の方に釘付けになっている。
「何の騒ぎかしら」
《年末年始の祭り……ではないようだな。まるで事件か何かが起きたような感じだ》
確かに今は12月25日、もうすぐ年末年始のイベントが始まる頃合いだが、そんな感じの騒ぎ方じゃない。リランの言う通り、事件か事故が起きた時のようなざわつき方だ。明らかに、この店の外で何かが起きている。
「何だろう……」
思わず呟いた直後、華やかな喫茶店と、物々しい街中がつながるドアが勢いよく開かれて、人が一人、店の中に入り込んできた。その入り込んできた人の姿を見て、周りにいるプレイヤー達は硬直したようになり、俺もまた、似たような反応をしてしまった。
入り込んできたのは、栗色の長いストレートヘアで、美しく整った顔立ち、大きな明るい茶色の瞳で、すらりとした身体を白と赤を基調とした騎士風の戦闘服で包み込み、腰に白銀の細剣を携えた女性だった。
そう、このアインクラッドの攻略に励んでいるならば知らぬ者はいない、アインクラッド中最強のギルドである血盟騎士団の副団長を務める攻略の鬼。
その名を、俺は思わず呟いた。
「閃光のアスナ……!」