◇◇◇
「うーむ、やはりここは、現実世界のショッピングモールに似ていていい雰囲気だな」
今、俺は第20層の街中に来ていた。周りにはシノン、ユイ、イリス、リーファ、リズベット、シリカもおり、シリカの肩に至っては、ピナが鎮座して周囲を興味深そうに眺めている。
そして俺達の周囲には無数の人々が、騒がしかったり、忙しなかったり、落ち着いていたりしながら行き交いしている。
「まさかSAOで、ショッピングモールみたいなところに来れるなんても思ってもみませんでした」
ご機嫌な様子でシリカが言う。
何故このような事になっているのかというと、まず、73層まで一気に駆け上がり続けた俺に、シノンとリーファとユイがある時ノーリランウィーク、即ち休暇を取れと言い出して、攻略の中止を宣言。
これまで戦いを続けて、リランの暴走を食い止めたりして、皆には過度な心配を駆け続けていた俺は、また3人を過度に心配させるわけにもいかず、やむなくノーリランウィークを呑み込み、休暇を取る事にしたのだ。
ノーリランウィークが始まってから、俺はしばらくの間は22層の家で、家族でゆっくりしていたいと思って、シノンとユイにそう話していたのだが、ある日イリスが突然メールを寄越してきて、「せっかくの休みを休むためだけに使うなんてもったいないぞ。20層の街でショッピングを楽しもうではないか」と提案してきた。
「どうだいキリト君。20層のショッピング街は、心が躍るだろう」
確かに俺は、シノンとユイが買い物に出ている間は休んでいたりしたため、第20層の街の、ショッピング街に赴いた事はほとんどなかった。そこで、何度か通っているシノンの、現実世界のショッピングモールによく似ているという話を聞いてみると、興味が湧いてきた。
ショッピングモールはどこかダンジョンのような雰囲気があって、現実世界でも行くのが嫌じゃなかった場所であったというのもあったかもしれない。結果、俺はイリスの要求を承諾して、シノンとユイを連れて、第20層の街に赴いたのだった。
第20層の街はそもそも、城塞都市のような風貌で、街全体が一つの城の中に納まっている――それこそ、現実世界にある東京のショッピングモールのような、そんな感じの街並みだった。
攻略当初はあまり街並みなどに興味を持たなかったため、気にしないで進み続けていたが、いざ世界の楽しみ方、感じ方を理解してから訪れてみたところ、中世のヨーロッパの雰囲気で令和のショッピングモールを再現したような街並みであった事に気が付き、ここまで再現する事が可能だったのかと、心が躍った。が、それはすぐさま驚きに変わった。
第20層の、ショッピング街の広場に来てみたところ、メールであったとおり、イリスを発見する事が出来たのだが、イリスの近くにはリズベットとシリカの姿もあったのだ。
イリスにしか連絡した覚えがないのに、何でリズとシリカがいるんだと尋ねてみたところ、「せっかく買い物に行くんだから、大勢で楽しんだ方がいいと考えてメールした」と、俺の隣にいるシノンが答えた。
2人もシノンに呼ばれてここに来たと言っていたが、大勢で買い物できるという点が嬉しかったのか、2人とも目をキラキラと輝かせていた。
しかし意外だったのが、アスナとユウキの姿がなかった事だ。大勢でショッピングをする、しかも大半が女の子と聞けば、真っ先にアスナとユウキがくっ付いてきそうなのに、その2人の姿はどこを探しても見つからない。
何故あの2人がいないのだと、シノンに尋ねてみたところ、「何だか2人で休んでいたい」という返事が返ってきて、誘えなかったと答えが返ってきた。
アスナとユウキも戦いっぱなしだったし、アスナに至っては近くにリランがいる状態だから、リランとの時間を有意義に過ごすために、自宅で休む事にしたのだろう。
それで、結局6人で買い物をする事になったのだ。
「アスナとユウキがいないのが、ちょっと残念ね。あの子ら、買い物とか大好きそうなのに」
「アスナはリランと一緒だから、その時間を有意義に過ごしたいんだよ。リランとずっと話していられる週間だしな」
リズベットはどこか納得したような、していないような顔をして、周囲の方に目を向け始めた。やはりこういう場所には、親友のアスナと一緒に来たかったというのが、リズベットの本当の想いなんだろう。
「まぁ……あんたと来れた……れでいいんだけど」
リズベットが小言を漏らしたような気がして、俺は再度リズベットに声をかける。
「え、何か言ったか」
リズベットはいきなり吃驚したような顔になって、俺に向き直り、その首を大きく横に振った。
「べ、別に何もないわよ。ほら、あんたは力あるんだから、あたし達が買い物したら、荷物持ちをやりなさい!」
「えぇーっ。せっかく来たのに、俺が荷物持ちをやるのかよ!」
「当然よ! あんたが一番筋力ある奴なんだから」
確かに、この中で最も筋力の高いものは俺一人だけ。だからリズベットの主張もわからないわけではないのだけれど、せっかくの休暇なのに、荷物持ちをやれだなんて、なんだか納得できない。
そんなふうに考えて、言い返そうとした次の瞬間に、イリスが苦笑いする。
「こらこら、キリト君を乱暴に使うんじゃないよリズ。キリト君は昨日まで戦い続けて、一月の間に10体以上のボスを倒してしまったんだから」
「い、1ヶ月の間に10体ボスを倒した!?」
リズベットに続いて、シリカも驚いた顔になる。
「えぇっ! 何だか先月、階層攻略が妙に早く進んだなって思ったけれど、それってキリトさんのおかげだったんですか!?」
あぁ、と俺は答える。俺は先月、リランと力を合わせて戦う事をもっと強く考えるようになって、ボス戦に積極的参加し、力を振るった。
その時にわかったのだが、俺の人竜一体ゲージはリランの言っていた通り、最大まで溜めても二本目に突入するようになっていて、二本目を最大まで溜めて人竜一体をすると、リランが以前暴走してしまった時の形態、身体に剣が生えた姿へと変わって、戦闘を繰り広げるようになった。しかも、あの時とは違って、リランはちゃんと意識を持っているため、俺と心を通わせて戦う事が出来た。
そしてその形態になった時のリランの力はこれまでとは比較にならないほど大きなものとなり、どんなボスの攻撃にも耐え、瞬く間に高火力の攻撃を叩き込めるようになっていた。
が、その反面、2本目まで溜めてから放つ人竜一体は、1本目を最大にして解き放つ人竜一体よりも効果時間が短くて、ざっと20秒くらいでリランが元の姿に戻ってしまったが、それでもそこら辺のフィールドモンスターを巨大化させて、強化しただけみたいなボスモンスター達を蹴散らすには20秒は十分すぎた。
強化された人竜一体を放てば、クォーターポイントにいるボスみたいに恐ろしく強いものでもない限りは、瞬く間に弱らせる事が出来る事が出来た。
60層の獣人王のようにボスは60層以降全く現れず、来るボスはそこら辺のモンスターを巨大化させて強化したようなものだったため、次々と千切っては投げ、千切っては投げる事が出来、今の73層まで一気に駆け上がれてしまったわけだ。
まぁそもそも、アスナもユウキもリーファも、ディアベルもクラインもエギルも、必死になって戦ってくれた上に、実力も60層で戦った時よりも大きくなり、ディアベルやアスナに至ってはその指揮力も更に上達し、攻略組を導いてボスに挑んだ。
この2人に指示された者達はこれまでにないくらいに計算し尽くされた陣形や戦術を組み、どんなボスにも臆する事なく、殺される事なく、戦ってくれて、1人もかける事無く73層まで上がって来れたのだ。だから、73層まで来れたのは俺とリランだけではなく、皆が力を合わせたからだと言える。
「いやいや、ここまで上がって来れたのは、皆が力を合わせて戦ったからだよ。皆はやたら俺とリランの力のおかげとか言うけど、本当は皆のおかげなんだ。どんなボスも、俺とリランの力だけで突破するのは難しい」
俺の隣にリーファが並ぶ。
「でもやっぱり、皆はおにいちゃんに支えられてると思うよ。皆言うもん、おにいちゃんと一緒に戦うと元気になる、どんなボスも怖くなくなって、落ち着いて戦えるって。やっぱりおにいちゃんは、皆の希望なんだよ」
「そんな事ないって。皆が無自覚なだけなんだよ。多分これはリランも同じ事を言うよ」
その時俺はリズベットがまた小言を漏らしている事に気付いて、その方に顔を向けた。
「キリトもこんなに頑張って戦ってるのに、あたしは……」
「リズ、どうした」
また何でもないなんて言いかえしてくると思ったその時、リズは俺の目の前に躍り出て道を塞いだ。
「キリト、やっぱりあたしも戦うわ」
「え、なんだよ、藪から棒に」
「あたしも、武器を作りながらあんた達と戦うって事よ。あたしも最前線に――」
「あ、いたいた、イリス先生、シノのん、リズ――――――!!!」
突如後ろの方から声が聞こえてきて、リズベットは言葉を止め、俺達は一斉に振り返った。そこにあったのは、家で休暇の真っ最中だったはずのアスナとユウキの姿だったが、すぐさま、俺達は目を見開く事になった。
アスナの両手に、体勢的にはお姫様抱っこの形で、人が抱えられていたのだ。一方いつもはアスナの肩に止まっているリランは、ユウキの肩に止まっている。
「アスナじゃない」
シノンが答えると、アスナはユウキとリランを連れて、そのままこちらに走り込んできた。そして、俺達の注目は一斉にアスナに抱えられている人に向けられる。
「それ……子供じゃないか!」
アスナに抱えられているのは、白いパーカーの下に同じく白いTシャツを着て、白い半ズボンを履いた、文字通り白一色の服装の、肩に届くほど長い銀色の髪の毛をした少年だった。少年といっても俺達くらいではなく、ユイくらいに身体が小さい、10歳前後の子に見える。
「どうしたのよその子」
アスナがどこかぎこちない様子で答える。
「61層の空をリランと一緒に飛んでいたら、声が聞こえてきて、そこに行ってみたらこの子が倒れてたのよ。今までずっと一緒だったけれど、一向に目を覚ましてくれなくて……回線が切断しちゃってるのかなぁ」
俺とシノンは目を丸くした。今、アスナの言った事は、ユイを見つけた時のシチュエーションによく似ている。もしかして、この子も同じパターンだったりするのだろうか。アスナに声をかけようとした次の瞬間、イリスが先に声を出した。
「ゆ、ユピ坊……!?」
俺達の目線は一気にイリスへと集まった。イリスの顔には、これまで見た事が無いような、非常に驚きに満ちた表情が浮かべられている。
「イリスさん?」
「どうしたんですか、イリス先生」
俺とシノンに答えず、イリスはアスナに近付き、抱えられている子供に目を向ける。
「ユピ坊、やっぱりユピ坊じゃないか!」
「えっと、そのユピ坊っていうのは……?」
アスナの問いかけにイリスは答えないばかりか、逆に問い返す。
「アスナ、この子をどこで見つけたんだ?」
「え、えっと、61層のフィールドです……イリス先生はこの子を知ってるんですか」
「知ってるも何も……とにかく、この子を街の宿屋に運び込もう。いつまでもこうしておくわけにはいかないだろう」
イリスはきょとんとしてしまっている俺達の方に顔を向けて、見回した。
「皆すまない、私とアスナはショッピングから外れる。これから宿屋に向かうからな」
俺は咄嗟に軽く挙手をした。
「待ってください。俺も行きます」
続けてシノンとユイもイリスに声をかける。
「私も行きます」
「私も一緒に行きたいです」
「そうか、リズとシリカはどうするね」
リズベットは腰に手を当てた。
「あたしも付いていこうと思います。なんだか、アスナにとってただならない事みたいだし」
シリカも頷いた。
「あたしも行きます。何だか気になりますし、心配ですから」
「わかった。それじゃあ全員、目的地を変更だ」
そう言ってイリスはアスナから子供を受け取って、そのまま宿屋の方へと歩き出し、俺達はその後を追って、街中を歩いた。
◇◇◇
俺達は20層の街中にある、そこそこいい宿屋の一室を借りて、そこのベッドに、アスナの連れて来た男の子を寝かせた。
男の子はアスナからイリスに抱かれ直しても全く目を覚まさず、寝かされても意識を取り戻さなかった。本当に、出会ったばかりの時のユイのようだった。
そんな男の子を最初に見つけた張本人であるアスナは、その頭をゆっくり優しく撫でている。
「目を覚ましませんね、この男の子」
椅子に座るシリカが呟くと、アスナが隣に並んでいるイリスに声をかける。
「イリス先生、さっき貴方はこの男の子の名前を呼んだような気がしましたが」
「あぁ。呼んだね」
壁に
「確か、ユピ坊って呼んでましたよね。この子の名前ってユピ坊っていうんですか」
イリスは首を横に振り、俺とシノンとユイに顔を向けてきた。
「キリト君、シノン。以前話した、MHCPとMHHPの話を覚えているね」
「憶えてますが……」
途端にアスナ、シリカ、リズベット、ユウキ、リランが首を傾げる。
「MHCP? MHHP? 一体何の話ですか、イリス先生」
「キリトさん、それって何の事ですか」
「何かの略称?」
「えむえいちしーぴー、えむだぶるえいちぴー?」
MHCP、及びMHHPについて知っているのは、開発者であるイリス、そしてイリスから話を聞いた俺とシノンだけだ。その他のプレイヤー達は一切それらの情報を知らず、この4人もまた、MHCPとMHHPの存在を知らない。次の瞬間、シノンが何かに気付いたような顔をして、イリスに声をかける。
「って事はまさか、この子が!?」
「そのとおりだよシノン。流石、勘の良い子だ」
物事に納得したような顔をするイリスに、俺もまた、シノンが気付いた事が分かったような気がした。
唐突にイリスが、MHCPとMHHPの話を引き合いに出したという事は、答えは一つしかない。
「まさか、イリスさん、この子は……!」
「ふむ、キリト君も気付いたようだね。恐らく、その通りだ」
置いてけぼりにされている5人の中で、リランが《声》を上げる。
《何がどうしたのだ。一体何に気付いたのだ》
イリスは5人に構わず、寝ている男の子の額に手を乗せて、俺とシノンに言った。
「……改めて紹介しよう、キリト君、シノン。この子は、私が開発した《メンタルヘルスヒーリングプログラム》の二号機であり、あの茅場晶彦も絶賛した、コンピュータとネットの世界で生まれ出でた生命体、『ユピテル』だ」
その言葉に、俺達は目を見開いたまま声を出せなくなった。
MHHP、イリスがプレイヤーの心をケアするために制作したがいいが、コンピュータとネットの世界の情報を取り入れて進化し、生命体とも言えるほどの者となったという、世紀の大発明と言っても過言ではないプログラム。
それが俺達の目の前で、アスナに撫でられながら寝ている男の子だという事をすぐに信じる事は出来なかったし、飲み込めなかった。
「ほ、本当なんですか。この子が、MHHPのユピテル……!?」
「そうだよ。間違いない」
それまでシノンの膝に座っていたユイが、首を傾げながら、イリスに声をかけた。
「イリスさん、貴方は何故、MHCPの事を知っているのですか。その事は、ごく一部のプレイヤー……もしくはアーガスのスタッフくらいしか知らないようなものですよ」
イリスはユイの方に顔を向けて、髪の毛を軽く掻いた。その顔はどこか残念そうなものだった。
「そうか、君は私の事を知らないのか。まぁ、MHCP達とはダイブして話をしたりしなかったもんなぁ。知らなくて当然……かっ」
「あの、えっとイリス先生。私達もよくわからないのですが……」
「あぁそうだ。アスナ達にも一切話をしてなかったもんね。出来る限りわかりやすく説明するから、出来る限り理解しておくれ」
そう言って、イリスは自分の経緯とMHCP、MHHPの事を、部屋に居る全員に話し始めた。最初は何度か驚きの声を上げていた4人だったが、イリスが話しを進めていく毎に落ち着きを持ち、ついにはイリスが何を言っても、何も返さず、ただ黙って話を聞くだけになった。そんな状態が続いて、イリスがとうとう説明を終えると、ユウキが口を動かした。
「えっとつまり、ユイちゃんはイリスさんが作った、プレイヤーの心をケアするプログラムで、キリトとシノンの義理の娘。それで、アスナが拾った男の子はユイちゃん達を生み出す前に生み出した、ユイちゃん達よりも高度なプログラム……って事?」
「要約してくれてありがとう。そういう事だ。随分と驚かなくなったね」
いつの間にか座っていたリズベットが、目を半開きにする。
「もう何が来ても驚かなくなりましたよ。最初の、イリスさんがアーガスの元スタッフっていうインパクトを受けてから」
「それは結構」
イリスが言うと、アスナがユピテルに顔を近付けた。
「この子が、コンピュータの中で生まれた生命体に近しいもの……そんなものが存在してるなんて」
シリカが肩に乗っているピナを撫でながら言う。
「確かにあたしのピナもプログラムだとは思えないくらいに、というか、生命体そのものって言っても不思議じゃないくらいのものですけれど……この子はピナよりも、ユイちゃんよりも高度な物なんですよね」
イリスが立ち上がり、シリカに近付いてピナを見つめる。
「あぁそうさ。私はあくまでMHCP、MHHPの開発をしただけで、テイムモンスターのルーチンだとか思考パターンだとかを作ったわけじゃないけれど、シリカのピナみたいな《使い魔》には、かなり高度なAIが使われているよ。それで、このユピテルは、さらに上位の物」
ユイがシノンの膝に座りつつ、イリスの方へと目を向ける。
「貴方が私達の開発者だったなんて、少し信じられないくらいです」
イリスはユイに向き直る。
「そうだね。私も君達を作りはしたものの、ダイブして色々教えるんじゃなくて、コンピュータを操作して、君達にいろいろ組み込んだだけだったからね。私の事は知らなくて当然だ」
リーファが気難しそうな顔をして、イリスとユイを交互に見つめた。
「という事は、ユイちゃんの本当のママは、シノンさんじゃなくてイリスさんって事なんですか?」
「事実上はそうだけど、ユイにとってのママは間違いなくシノンであり、私ではない。私は単にユイ達を作り出しただけであって、可愛がったりしたわけじゃないからね。愛情を持って接しているシノンこそが、ユイの真のママさ」
試しにシノンに顔を向けてみると、シノンは軽く下を向いて、顔を赤く染めていた。面と向かって愛情を持って接していると言われたのが恥ずかしかったんだろう。――その様子がどこか愛らしく感じる。
「それでイリスさん。ユピテルは大丈夫なんですか。ユピテルは封印されていて、外に出てくると拙いって話じゃなかったですっけ」
イリスは俺の方に顔を向けて、少し険しい表情を浮かべた。
「キリト君、気が付かないかい。ユピテルの封印が破られたって事は……」
その言葉で、俺はハッとする。ユピテルは、イリスによって、厳重なパスワードの元封印されているはずだった。しかしユピテルがこうして出てきてしまっている、即ち封印が解けてしまっているという事は……。
「まさか、《
イリスはゆっくりと頷いた。
「ユピテル封印のパスワードはアーガスの中でも私しか知らない、50桁英数字記号が複雑に混ぜ込まれたものだ。スパコンでブルートフォースアタックをやったところで1年以上はかかるはず。――超高度なハッキングやクラッキングを除けば」
イリスの口から飛び出した言葉に、ユウキが目を点にする。
「50桁……気が遠くなる……」
50桁ものパスワードと聞いて、俺も気が遠くなりそうだったが、イリスの敷いたセキュリティはそれくらいに大きくて強固なものである事がわかった。
しかし、そのセキュリティの元封印されていたはずの存在がこうして出てきてしまっているという事は、スパコンのブルートフォースアタックで1年以上かかるセキュリティを何者かが破り、ユピテルを外に出したという事になる。
そんな事が出来るのは、アーガススタッフの中で、唯一パスワードを知っているイリスと、全国の警察のパソコンの全てを破壊してしまうほどの技術力を持つ《壊り逃げ男》のみだ。
「や、《壊り逃げ男》!? 《壊り逃げ男》ってあの!?」
俺の言葉に反応したリーファに、一同のほぼ全員が注目し、その内の一人であるリズベットが首を傾げる。
「《壊り逃げ男》? 何よ、《壊り逃げ男》って」
そうか、ここにいるのはネットゲームに興味はあったけれどネットの事はあまり興味を持っていなかった人たちだ。俺達がいきなり《壊り逃げ男》の事を言い出してもわからない。――すかさず、俺は集まっている皆に説明を加えた。
今回登場した用語の補足
ブルートフォースアタック
総当たり攻撃を意味するIT用語。イリスの作り出したパスワードならば記号や数字を含んだaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaから記号や数字を含んだzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzまで打ちまくり続けて正解のパスワードを探す、所謂ゴリ押し手段。
8桁の大小英数字および記号を含むパスワードを解くのにスパコンの処理能力でも83.5日ほどかかるため、イリスのパスワードを破るには3年以上かかる。イリスの仕掛けたパスワードを目の当たりにしたレクト社員発狂待ったなし。