キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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02:巣食う畏怖 ―化身態との戦い―

 

 

 

 

           □□□

 

 

「子供達が居なくなった……これもカラントと魔獣、《EGO(イージーオー)化身態(けしんたい)》によるものと考えるべきでしょうか」

 

「どうだろうね。子供達の事はメディナ達が調べてくれるって話だけど、大丈夫かなぁ」

 

 

 アリスは再びユージオに掴まり、冬追(フユオイ)の背に乗って走っていた。目指しているのは、ルーリッドの村から見て北にある、果ての山脈。その内部にある洞窟だった。

 

 ルーリッドの村でセルカ達から聞いた話。子供達が行方不明になっているという事件と、北帝国内にて魔獣と怪物が次々と見つかっているという事象。

 

 このうちの前者を聞いた時、アリスは真っ先にベルクーリ閣下からの調査依頼を思い出した。「私領地民達が忽然(こつぜん)と姿を消す異変が相次いで起きている」というものだ。

 

 この私領地民達というのが一般的な村民や町民の事なのか、それとも兵士や近衛兵を含んだものなのかというのが、聞いた当時はわかっていなかったが、今回でわかってしまった気がした。

 

 忽然と姿を消しているのは子供達だ。

 

 大人が行方不明になったというだけでも十分に大変な事だというのに、将来の村や町を中心とした人界を作っていく事になる子供達が優先的にいなくなっているなど、非常に危機的な状況であるとしか言いようがない。

 

 子供達が完全にいなくなるような事があれば、そうなった村や町は近いうちに滅びの末路を迎えてしまうからだ。だから、何としてでも子供達を元居たところ――我が子を失って嘆き悲しむ親のところへ返してやらねばならない。

 

 その役目を担ってくれたのはメディナとグラジオと冒険者達だった。彼女達が周辺の村や町へ向かって子供達の痕跡を探り、あわよくば子供達を発見して連れ戻す運びになった。

 

 残ったキリト達とアリス達は北帝国の各地に出没している魔獣と《EGO化身態》、それらを湧き出させ、呼び寄せているカラントの討伐に向かう事となったのだった。

 

 そして今、アリスはユージオと冬追と共に、怪物が入っていくのを見たとされる、果ての山脈の内部洞窟へ入り込んだのだった。

 

 洞窟の中に入って早々感じた事と言えば、寒さだった。空気がとてもひんやりしており、猛暑の夏が来ようとも、その冷たさを閉じ込めたままになっていそうに感じられる。

 

 ユージオの話によれば、ルーリッドの村で氷が必要になった時には、ここで自然生成される氷を取りに来るのだといい、同時にユージオが携えている《青薔薇の剣》もここで見つけられたものなのだという。

 

 なるほど、それほどのものがあるならば、この洞窟は寒くて当然なのか。あの絶対零度の剣を育んだ環境であるというのであれば、納得だった。

 

 そしてここは、《フロストコア》なるものを埋め込まれた結果、冷気を自在に操れるユージオと、同じく冷気の力を持つ冬追にとっては相性の良い場所であろう。ここに怪物――《EGO化身態》が本当に潜んでいたとしても、この場所そのものの冷気が彼らに味方し、討伐を容易なものにしてくれるかもしれない。

 

 氷が年中採れるようなところだ、脅威となる者がやってこないと踏んで、《EGO化身態》はここへ入り込んだのだろう。だが、ユージオと冬追という、冷気の満ちる環境では最大限の力を発揮する者がやってきてしまった。

 

 《EGO化身態》にとっては最悪の展開だが、同情している余地などない。

 

 相手は《EGO化身態》。元々人間ではあるものの、今は人界とそこに暮らす人々の命を脅かす怪物。狩るしかない存在だ。その運の悪さを、思う存分こちらで利用させてもらおう。

 

 そんな事を考えていると、冬追の足が止まった。周囲を見回してみたところ、そこは広い空間となっていた。天井や壁のあちこちから、青水色の結晶のようなものが飛び出ている。

 

 あれらがここで自然生成されるという氷なのだろうか。いや、相変わらず空間そのものが冷えているように感じるので、そうなのだろう。

 

 時に村に恵みをもたらす氷に包まれているに等しい洞窟の、どこかに《EGO化身態》はいる。――という状況であるというのに、アリスはとある事を思い出してしまった。

 

 自分が今の自分になってしまった原因。この洞窟の最奥部にある出口から出て、ダークテリトリーにほんの少しだけ踏み入ってしまったがために、村へやってきたデュソルバート殿に連行され、セントラル・カセドラルへ、あの《悪霊》のところへ(さら)われた。それがユージオの話から聞かされた、事の経緯だった。

 

 それはつまり、あの時ここに来るような事がなければ、今でも自分はアリス・ツーベルクとして暮らせていたという事だ。

 

 セルカの事は勿論、両親の事もしっかりわかり、そして何よりユージオと仲睦まじく過ごせていたに違いない。深く考えなくてもそうであるとわかった気がして、胸と口の中に苦い味が広がった。

 

 自分が連れ去られてしまった時、セルカも両親も悲しみ、苦しんだだろうが、直前まで共にいたユージオは、きっとそれ以上に苦しい思いをしたであろう。

 

 アリス・ツーベルクがどうしてここに来たのかはわからないが、恐らくはユージオを巻き込んで自主的にやってきたのだろう。そんな事を思い立ったりしなければ、ユージオと家族を数年に渡って苦しめる事もなかったであろうに。

 

 

「……ユージオ」

 

 

 彼と共に冬追から降りたアリスは、ふと声をかけた。当事者である彼は振り向く。

 

 

「何、アリス?」

 

 

 アリスは今考えていた事を、彼に話した。当然と言うべきか、彼の表情はどこか悲しそうなものとなった。

 

 

「……そう、だね。確かにあの時アリスがここに来なかったなら、きっと今でも普通に暮らしていたとは思うよ。もしくは神聖術の天才として目をつけてもらえて、央都で修道女とかになっていたんじゃないかな」

 

 

 あるかもしれなかった未来の形が、空っぽにされてしまった頭の中に薄っすらと浮かび上がってくる。整合騎士ではなく、修道女になっていた自分の姿。全てをしっかり覚えていて、何も細工されていない自分自身。

 

 それこそがきっと、ユージオの隣にいるべきアリスの姿であっただろう。しかしここにいる自分はそうではない。何もかもを裏切って、あの《悪霊》の操り人形になっていた。

 

 

「そうなればよかったのにと思わないのですか。あの時、この洞窟を越えるような事をしなければ、今頃私はあなたを覚えている私で居て、あなたに必要のない苦痛を与えてしまうような事だってなかった」

 

「……アリスは、そう思っているの。あんな事しなきゃよかった、今みたいにならなきゃよかったって」

 

 

 その時の事は覚えていないが、話を聞く限りではそう思う。

 

 

「はい……そう思ってしまっています」

 

 

 率直に答えると、ユージオの顔に少しだけ笑みが浮かんだ。

 

 

「僕はそうは思わないよ。だって、あの時アリスがここに来て、ダークテリトリーに踏み込んだりしなかったなら、あの暗黒騎士は命を落としていた。それに、君が整合騎士になって僕達と一緒に戦ってくれなかったら、きっと今でも《あいつ》は生きていて、《あいつ》の身勝手で残酷な支配は続いたままになっていたと思うんだ。《あいつ》が支配を続けていたなら、きっとセントラル・カセドラルにいる人達や、央都にいる人達から、機械人間にされていったと思う」

 

 

 ユージオはしかとアリスの瞳を見つめ、もう一度笑みかけた。

 

 

「そういったいくつもの災いを退(しりぞ)けられたのも、人界の人々にある程度の自由を与えられたのも、あの時のアリスの勇気のおかげなんだ。だから、そんなふうに自分を責めたりしないで」

 

 

 アリスは目を丸くしてユージオを見つめ返していた。

 

 彼は現状を呪ったり、後悔したりしているわけではない。(むし)ろ今の自分を認めてさえくれている。

 

 彼がこういう人だからこそ、自分は彼の事をごく僅かにだけ覚えていたりしたのだろうか。

 

 だとすれば――もっと彼と触れ合う事ができれば、彼の事だけでも完全に思い出せるのではないだろうか。アリス・ツーベルクが抱いていたユージオへの想いを、思い出せるのではないだろうか。

 

 いや、思い出したい。彼の事を、思い出したい。いつの間にか、アリスの胸の中には強い願いが宿っていた。

 

 ひと呼吸置いてから、アリスはもう一度ユージオに言う。

 

 

「……あの、ユージオ」

 

「うん?」

 

「あなたにお願いが――」

 

 

 言いかけたその時だった。急に獣の咆吼のような音がして、アリスはユージオと共に驚いた。

 

 冬追だ。あの悪霊の手で作り出された人造龍であり、共に戦ってくれている仲間が、天井の方を向いて身構え、吼えていた。

 

 

「どうしたんですか、冬追」

 

「アリス、上を見て!」

 

 

 ユージオからの言葉に従い、アリスは上を向いた。そこでもう一度驚かされる。

 

 冷気の満ちる洞窟の天井に、黒い何かが貼り付いていた。

 

 ――蜘蛛(クモ)だ。その言葉から想像されるそれよりも遥かに巨大なモノが、そこにいた。

 

 目を細めて確認してみると、その身体は、前足後ろ足と言った一部が黒い装甲らしきものに包まれているのがわかった。それは《EGO化身態》の特徴である。

 

 どうやらあいつが、ここに逃げ込んだ《EGO化身態》らしい。ユージオとの事と自分の記憶の事ばかり考えていたせいで、うっかり忘れてしまっていた。アリスは腰に携えている鞘から《金木犀(きんもくせい)の剣》を抜き払った。

 

 

「あれは……! 《EGO化身態》が入り込んでいたという話は本当だったのですね」

 

「ここは大切な場所なんだ! 出て行け!」

 

 

 早速ユージオが《フロストコア》の力を使って氷の短剣を製造し、投擲(とうてき)する。

 

 最高司祭様の力ほどではないが、ユージオの力も便利なモノだ。今のように氷の短剣から始まり、《青薔薇の剣》くらいの長剣、ソルティリーナやベルクーリ閣下が使っている物のような両手剣、即席の盾も作り出せる。

 

 その力を使った最初の一手は、無事に大蜘蛛のところへ飛んでいったものの、到達と同時に弾かれて落ちてしまった。大蜘蛛が(まと)う《EGO化身態》特有の黒い装甲が立派にその役割を果たしたのだ。

 

 これまでは装飾か何か程度にしか思っていなかったが、《EGO化身態》に生じている黒い装甲は、ちゃんと装甲であったらしい。

 

 直後、大蜘蛛が跳躍して降りてきた。そこで目を見開く事になる。

 

 大蜘蛛だと思われていたそいつは、ただの大きな蜘蛛ではなかった。普通ならば頭部のあるそこからは、人間のそれに酷似した上半身が生えている。そしてその人間の頭部に蜘蛛のそれがあるという、異質極まりない姿をしていた。

 

 言葉で表すならば人間蜘蛛だ。咄嗟(とっさ)にあの《悪霊》が作り出した最悪の兵器、機械人間の姿が頭に(よぎ)り、強い不快感が胸に生じた。何故こいつはあの機械人間に似た姿をしているというのだ。

 

 恐らく偶然この姿になったのであろうが、それにしたって狙ったようである。機械人間の姿は、真似したくなるほど理に適っているものとでもいうのだろうか。

 

 

「うえっ、なんて気持ち悪い姿をしてるんだろう」

 

 

 ユージオの感想にアリスは深く同意していた。

 

 巨大な蜘蛛であるというだけでもかなり気持ちが悪いというのに、人間の身体的要素が大きく混ざっているせいで気持ちの悪さに拍車がかかってしまっている。

 

 そう言えば以前最高司祭様と、その補佐を務めるカーディナル様から教えてもらった事があるが、《EGO化身態》になってしまうのは何も人間だけではなく、動植物や虫なども極々稀になるのだという。

 

 だから、強い利己を持った人間――主に腐敗した根性の貴族達――だけに気を付ければいいという話ではないとの事だ。この人間蜘蛛も、もしかしたら元々はそこら辺で穏便に暮らしていた小さな蜘蛛なのではないだろうか。

 

 と思っていたところ、人間蜘蛛が「きっしゃああああああ」という甲高くて不快な声で吼えた。どこから出ている音なのかさっぱり見当が付かないが、こちらに対して明確な敵意を持ち、排除するつもりでいるのは確かのようだ。

 

 こいつはもしかしたら本当に蜘蛛だったのではないかという説だが、訂正しよう。

 

 そんな事はない。本来頭のあるところから人間の上半身が生えているような姿をしているのだから、やはり元々は人間だ。

 

 恐らくは、人界のあちこちに蔓延(はびこ)っている、傲慢で堕落の限りを尽くした貴族の成れ果てであろう。

 

 それもまたアリスの推測にすぎなかったが、仮にこの人間蜘蛛が本当にどこかの貴族が変異した姿であるというのであれば、反面教師にするに良すぎる例だ。

 

 自分自身の地位に溺れ、慢心し、傲慢に振舞い続ければ、いずれこのような醜くて恐ろしい怪物になってしまい、自分が誰だったのかもわからなくなる――そう記した教本を学院などに配布して、子供達に教えていくべきではないか。何だかそんな気がしてきてしまった。

 

 

「見ているだけでも気分が悪くなります。さっさと駆除するに限りますね!」

 

 

 アリスは抜刀済みの金木犀の剣を片手に突撃した。威嚇から反撃へと体勢を移行させた人間蜘蛛が、装甲で覆われた右前足で斬り払いを仕掛けてくる。

 

 よく見ると人間蜘蛛の足先は槍の穂先のような鋭い青い爪となっており、それ自体が武器のようだった。なるほど、そういった武装をしているのか。アリスはそんな事を思いながら、放たれてきた一閃を左方向へ回り込む事で回避し、蜘蛛の腹部に該当する部位を縦に切り裂く。

 

 確かな手応えが返ってきた。人間蜘蛛の腹部は以外にも装甲に守られておらず、比較的柔らかかった。金木犀の剣の刀身が切り抜けると、傷口からどす黒い血が噴き出た。

 

 全く血らしくない色をしている。泥や墨を溶かした水でも流れているのか。

 

 ……そう言えば以前キリトとシノン、ユージオから、修剣学院にいたアンティノス家の三等爵士嫡男(さんとうしゃくしちゃくなん)――これもまた周りの貴族達同様腐敗した根性の持ち主だったらしい――が《EGO化身態》に変異する直前、その身体から出る血がどす黒い色になっていたという話を聞いた。

 

 倒す事ばかり考えていて、その特徴や特性についてあまり深く観察してこなかったが、《EGO化身態》にはどす黒い血がその身に流れているという特徴があるらしい。

 

 無論、血がどす黒い生物など他にいない。どこまでも怪物的だ。

 

 人間蜘蛛は悲鳴のような声を上げている。今ので大分(だいぶ)良い一撃を入れられたようだ。この人間蜘蛛、見た目の割にはそこまで強い《EGO化身態》ではないのかもしれない。キリトやシノン、リランがいない状態での《EGO化身態》戦は、果たして勝てるものなのかと不安視していたが、杞憂であったようだ。

 

 

「せえいッ!!」

 

 

 剣の構えを変えて、アリスはもう一度人間蜘蛛の腹部を斬り裂いた。今度は横に一閃。やはりすぱっと斬り抜ける事ができるくらいに、肉質が柔らかい。

 

 装甲だけじゃなく、その他の部位まで鋼鉄のように硬かったらどうするべきかと思っていたが、そんな余計な事は考えなくてよかった。そして恐らくは、天命もあまり多くないだろう、この《EGO化身態》は。

 

 短期決戦でいけそうだ。アリスはユージオと冬追に振り返る。

 

 

「ユージオ、冬追! 装甲のない個所を狙って攻撃してください! こいつはそこまで強い《EGO化身態》ではありません!」

 

 

 彼らの「わかった!」と「がうっ!」という返事を受け、アリスは再度人間蜘蛛に狙いを付け直す。

 

 人間蜘蛛は、名前の由来である人間の上半身を動かして、アリスに掴みかかろうとしていた。蜘蛛らしく獲物を掴んで拘束しようとしているのだろう。

 

 お前は人間なのか、それとも蜘蛛なのか。どっちなのかはっきりさせなさい。そんな事を思いながら、アリスは後方に跳び退く。

 

 アリスを捕まえようとしていた人間蜘蛛の腕は、空振りで終わった。あんな速さで捕まえられると思っていたのだろうか。だとすれば随分と舐められたものだ。

 

 その慢心がお前を殺すのだ――という事を教えてやらねばなるまい。と思ってアリスが再度斬りかかろうとしたその時だった。

 

 人間蜘蛛が突然頭を上げたかと思うと、こちらに向けてきた。はっきり言わなくても気色悪くてたまらない巨大な蜘蛛の顔の、血のように赤いその四つの目が光る。この薄暗い洞窟を照らすには十分すぎるくらいの光だった。

 

 光は禍々しい赤色だったが、すぐさま突然青に変わり、更に黄色に変わり、緑、紫と瞬く間に変わって赤色に戻る。それが数秒のうちにかなりの回数繰り返された。

 

 頭の中を揺さぶられているような気分になってきて、アリスは思わず腕で目を覆った。あらゆる感覚が狂いそうになり、とても直視していられなかった。

 

 

「なに……!?」

 

 

 後方に障害物がなかったのを思い出しつつ、アリスはもう一度跳び退いた。ひとまずは人間蜘蛛から距離を取らねばならない事を身体が瞬時に判断したようだった。

 

 今の自分は人間蜘蛛にとって隙だらけの状態だ。早く目を向け直さないと。そう思った時には、既に人間蜘蛛の放つ怪しい光が収まっていた。瞼を閉じたままそれを感じ取ったアリスは目を開き、人間蜘蛛に視線を向けた。

 

 そこに人間蜘蛛の姿はなかった。がらんと開けた洞窟が広がっているだけで、あの気色悪い事この上ない《EGO化身態》の姿はどこにもなくなっていた。

 

 

「いない……どこへ行った……!?」

 

 

 できる限りの注意を向けて、周りを見回す。やはりどこを見ても、あの人間蜘蛛の姿が確認できない。それどころか、ユージオと冬追までもいなくなっている。いつの間にか、アリスはがらんどうの空間に一人きりにされていた。

 

 

「ユージオ、冬追……!?」

 

 

 あの一瞬で何が起きた?

 

 あの短時間のうちに、二人はどこへ消えてしまった?

 

 そして《EGO化身態》もどこへ消えた?

 

 そんな事を考えていたその時に、足元に何かがぶつかったような感覚が起きた。驚きながら目を向けると、そこには蜘蛛がいた。

 

 あの人間蜘蛛と同じ黒い装甲を身体の複数個所に纏っていて、黒い体色をしているが、しかし人間蜘蛛とは違って頭のあるところから人間の上半身が生えていたりはせず、普通に蜘蛛の頭がある。

 

 人間の頭より一回り程大きな身体をした蜘蛛が、アリスの足元を這っていた。

 

 

「!?」

 

 

 こいつ、いつの間に。いや、そもそもこいつはなんだ。あの人間蜘蛛と同じような体色をしているから、所謂(いわゆる)子蜘蛛だとでもいうのだろうか。

 

 そんな馬鹿な。《EGO化身態》に繁殖能力があるなんて報告は聞いた事がない――。

 

 

「あうッ」

 

 

 思考を巡らせている途中で、アリスは仰向けに倒れてしまった。背中に突然重いものが落ちてきて引っ掛かったように、後方に引っ張られた。一匹の子蜘蛛が纏わりついて体重をかけてきたのだと、見なくてもわかった。

 

 勢いよく倒れてしまったがために、背中を中心に強い衝撃と鈍い痛みが走り、息が苦しくなった。

 

 そのせいで咄嗟に動けなかったのが不運だった。いつの間にか集まってきた子蜘蛛達に、左腕と両足を掴まれてしまっていた。

 

 振り払おうにも子蜘蛛達は異様なまでに重く、動かせない。力を入れてみても全然動かせる気配がなかった。

 

 段々と手と足が痺れてきた。圧迫されているせいだ。

 

 

「この、このぉ……!」

 

 

 それでもアリスは動こうとした。まだ自由を保てている右手で《金木犀の剣》を持ち、振り回して子蜘蛛達を斬り付けようとするが、上手く刀身を当てる事ができない。子蜘蛛達があまりにも近い位置にいるのが原因だった。

 

 こうなれば、奥の手を使うしかない。《金木犀の剣》の刀身を無数の刃へ変換して、こいつらを一気に細切れにしてやる。そう胸の中で唱え、そのための呪文を口にした。

 

 

「エンハンス・アーマメント――」

 

 

 その時だった。アリスから見て右方向にいた子蜘蛛が、アリスと同じように口を開けた。顔が半分に裂けるほど大きな、肉食動物のように鋭い歯が生え揃っている口を目いっぱい開いて、アリスの右腕に喰らい付いた。

 

 子蜘蛛の牙はアリスの腕を覆う鎧を容易に破壊し、骨の辺りにまで突き刺さった。激痛が走り、右手から《金木犀の剣》が滑落する。

 

 

「い゛ッ」

 

 

 直後、アリスの右腕を子蜘蛛は頬張り、そのまま噛み潰した。

 

 

 右手の全ての肉が、骨が一瞬のうちに噛み砕かれて、感覚が消失したかと思えば、全てが吹き飛ぶような激痛が全身へと流れ込んできた。

 

 

「い゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ」

 

 

 これまで出した事がないような絶叫をアリスは出していた。かつて右手のあったところからは鮮血が噴き出て、天命が流れ出していくのがわかる。痛みが全身を支配し、攻撃に転じる事など一切できなくなった。

 

 その間に、子蜘蛛達は次の動きを見せた。

 

 アリスがもう動けない事を理解したのか、あるいは理解したうえで得意気になったのか、アリスの両足に喰らい付いた。

 

 右足の足首から先が、左足の膝から先が、右手の時同様に喰われ、噛み潰される。肉が食い千切られ、骨が砕かれる嫌な音が耳を襲い、そしてまた全てを塗り潰す激痛が身体を満たす。

 

 

「い゛だあ゛、い゛や゛あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ」

 

 

 どんどん身体がなくなっていく。これまで経験した事がない叫びと声が喉から絶え間なく出て、恐怖が胸の中を満たし、今にも破裂しそうになっていた。

 

 その胸にまで、子蜘蛛は喰らい付いてきた。アリスの着ている黄金の鎧を噛み砕きながら引き剥がし、服を噛み千切り、わざわざ素肌を(あらわ)にさせたうえで、噛み付いてきた。血が(ほとばし)り、顔元にまで飛んで来る。

 

 当然、身体が破壊されていく激痛が襲い来る。最早痛みのあまり、声を出す事も呼吸する事も困難になっていた。

 

 

「あ゛、あ゛あ゛、ああ゛」

 

 

 目の前がよく見えなくなってきた。意識が(かす)れていく。

 

 こんな形で終わってしまうのか。何も思い出せないまま、自分自身を取り戻せないまま、終わってしまうのか。

 

 

「い゛や゛あ゛」

 

 

 こんな事で終わりたくない。

 

 お願い、助けて。

 

 

「助けて」

 

 

 助けて――。

 

 

 

「助けて、ユージオッッ」

 

 

 

 咄嗟に脳裏に浮かんだその人の名前を叫んだ時だった。

 

 ほんの一瞬のうちに景色が変わった。かと思えば、息が上手くできない事に気が付かされる。何かに唇を完全に(ふさ)がれているかのようだった。

 

 そして、すぐどころではないくらい目の前に、今しがた脳裏に浮かんだ人――ユージオの顔があった。

 

 

「……?」

 

 

 アリスは茫然としたまま動けなかった。唇に温もりを感じる。

 

 ユージオの唇が、アリスの唇に重なっているのが原因だった。息ができない原因もそれだった。

 

 二秒ほど経った頃に、ユージオの方から顔と唇を離していったが――彼はアリスから顔を離すなり「ぷはぁ」と大きく息を吐いた。顔が少し赤くなっているのは、呼吸を我慢していたせいだろう。

 

 

「アリス、僕の事、わかる……?」

 

 

 ユージオの問いかけにアリスは頷いた。だが、頭が現状に追い付いていなかった。ふと両手両足を見てみると、ちゃんとあった。先程子蜘蛛に噛まれて穴を開けられていた胸元も無事だ。先程の光景と何もかもが違う。

 

 

「私……一体、何、が……」

 

「良かった……急にあいつから距離を取ったかと思ったら、後ろ向きに倒れて暴れ出して、そしたら今度はすごい声で悲鳴を上げ始めて……」

 

 

 ユージオに抱えられた姿勢のまま、アリスは足元の先を見た。

 

 少し離れたところで、人間と蜘蛛が混ざったような姿の怪物が黒い炎に包まれて燃えていた。先程まで戦っていた人間蜘蛛だ。動く気配がないので、死んでいるのは間違いなかった。

 

 

「あいつ、幻覚を見せる能力を持ってたんだね……危ないところだったよ」

 

「幻覚……」

 

 

 その言葉で、ようやくアリスの頭は現状に追い付いた。先程まで襲ってきていた子蜘蛛は、あの人間蜘蛛が見せた幻覚であり、悪夢だった。

 

 その悪夢を、ユージオが振り払ってくれたのだ。

 

 

「ユージオ」

 

「え?」

 

「私はあいつの見せる幻覚の中で、あなたに助けを求めたと思います……あなたはそれに応じてくれたという事、ですか」

 

 

 ユージオは一瞬きょとんとしたような顔になった。

 

 

「あぁ、うん。すごい声で僕に助けを求めてた。だから――」

 

 

 そこまで言ったところで、ユージオはその顔を一気に紅潮させた。すぐさま、アリスから視線を逸らす。

 

 

「って、うわっ! ぼ、僕、勢いに任せてなんて事を……!? え、ええっと……」

 

 

 ユージオが慌てている理由。自分を《EGO化身態》の悪夢から助け出すために、口付けをした事だろう。普通の女子だったならば、ここで身体を熱くさせて、ユージオをさぞかし咎めた事だろう。

 

 だが、今のアリスにはそのような気持ちはなかった。胸の中を満たしているのは、ユージオへの感謝の想いだけだった。その事を伝えられる隙を、アリスは見つけた。

 

 

「ユージオ」

 

 

 ユージオはびっくりしたように顔を向け直してきた。しかと瞳同士が交差しているのを認め、アリスは告げた。顔に、今浮かべられる精一杯の笑みを浮かべて。

 

 

「助けてくれて、本当にありがとう」

 

 

 ユージオはもう一度きょとんとした。笑みを返してくれるかと思いきや、顔を逸らしてしまった。まだ自身の行いを恥じているのだろう。

 

 

「そ、その……助けられて、よかったよ……」

 

 

 というのが、彼からの返事だった。

 

 そこでアリスは、《EGO化身態》と交戦する直前の会話を思い出した。今すべき事ではないかもしれないが、今を逃してしまったら、きっと言える機会は来なくなる。

 

 そんな気がしてならないアリスは、もう一度ユージオに声掛けした。

 

 

「ユージオ、さっきの話の続きですが……」

 

「え?」

 

 

 向けられてきた彼の顔に、アリスは尋ねた。

 

 

「どこか……私達二人だけになれそうな場所を、知らないでしょうか」

 




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