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セントラル・カセドラルの八十層、雲の上に位置する庭園の中で、彼女は庭園の中央にある樹に体重を預けて寄り掛かり、目を
外からの風は流れてこない。雲上庭園という名を持っているのがここではあるが、窓や吹き抜けがあったりするわけではないのだ。しかし円形の庭園の上部に並べられたステンドグラスからは僅かながらも
樹は彼女――アリス・シンセシス・サーティに与えられた剣の本来の姿だった。元々それは、セントラル・カセドラルが建設される以前のこの場所に生えていた一本の
《神器》と言われる最高の力を持つ剣を持ち、軽いながらも最高の防御力を誇る鎧を纏う《整合騎士》として、人界を侵攻しようと企む闇の勢力を抹殺せよ――その命令を全うするのが、天界より召喚されたアリスの使命だった。
だが、今はその使命よりも先にやらなければならない事があったため、彼女はこの場所に居た。昨日アリスが捕え、セントラル・カセドラルまで運んできた四人の
その事自体はアリスの予想の範囲内だった。彼の者達を捕えた時、感じられた気配は
なのでアリスは、弟子であるエルドリエに地下牢から出てすぐの
どちらも最高司祭から与えられた神器を持っていたはずであり、そう簡単にやられるわけがなかったが、あり得ない事に、やられた。彼らを倒した脱獄者――今となっては
「アレらをこれ以上進ませるな。猊下の
一度目を開き、もう一度目を瞑って、背中の樹を感じると、暖かさが鎧を通じて流れ込んできた。同時に喜びの感情も流れてくる。樹は陽を浴びれている事に喜んでいた。その気持ちを胸の内で受け止めると、そこがとても暖かくなった。できる事ならば、この樹を戦わせてやりたくないところであるが、そういうわけにはいかない。
ここで彼女が戦わなければ、人界を守る神である最高司祭アドミニストレータ猊下に危険が及ぶ。猊下の危機は人界の危機と同じなのだ。彼女が戦わずにいる事は、人界を守るために天界から召喚された意味が無に帰してしまう。思い直した彼女は目を開いて樹から離れた。
それから間もなくして、音が届けられてきた。樹から見て南にある入口の方からだ。そこは下の階から雲上庭園に来る場合に必ず通る事になる入口なので、何が来たのかは見ないでもわかった。
足音がする。頻度がばらばらなので、複数人。
「もう少しだけ待っていただけますか。せっかくのいい天気なので、この子に陽の光をたっぷりと浴びさせてあげたいのです」
足音は止まなかった。こちらに向かって三人歩いてくる。どうやらこちらの主張を受け入れるつもりはないようだ。最初から彼の者達への信頼などなかったので、期待はしていなかったが。
アリスは振り向き、闖入者達を目の中に入れた。少年が二人、少女が一人。少年の方は剣を、少女は弓を持っている。それらはアリスが彼の者達を拘束した際に引き取って、三階の武具庫に入れたはずのものだった。どうやら彼の者達は各々の武器を取り返してから、ここへ昇って来たらしい。
「とうとう、こんなところにまで登ってきてしまったわけですか。お前達が万が一地下牢から逃げ出すような事があっても、薔薇園で待機させておいたエルドリエ一人で対処できると判断していました。しかしお前達は彼を打ち破り、あまつさえ神器を携えたデュソルバート殿とファナティオ殿を斬り伏せて、この雲上庭園の土を踏むに至った」
彼らのやった事を正確に報告するように言い、アリスは闖入者達をもう一度睨んだ。三人は立ち止まり、こちらをじっと見ている。
その時アリスは、黒髪の少年の近くに小さな竜が飛んでいる事に気が付いた。連れてきた時にあんな竜はいただろうか。思い出してみたところ、その姿は確認できなかった。どこかに隠れていたのだろうか。
いや、そんな事はどうでもよい。アリスは続けた。
「一体何故です。何がお前達にそのような力を与えているというのです。一体何故、お前達は人界の平穏を揺るがす挙に及んでいるというのです。お前達が整合騎士一人を傷付けるたびに、闇の勢力に対する備えが大きく失われていっているのが、どうして理解できないのですか」
もう一度事実を言ってやったその時だ。闖入者達は一斉にアリス目掛けて走り出した。やはり話を聞くつもりなど最初からなかったようだ。
彼の者達の目標は恐らく、整合騎士の殲滅と最高司祭アドミニストレータ猊下の殺害だ。エルドリエ、デュソルバート、ファナティオに続いてアリスを斬り伏せた後に、この塔の最上階に居られるアドミニストレータ猊下を殺すのだろう。そんな事はさせるものか。
この人界を守れるのはアドミニストレータ猊下と、自分達整合騎士、公理教会だけ。人界の希望を潰されてたまるものか。
「やはり剣で
アリスはすぐ
さぁ、出番ですよ。共に戦う時が来たのです――胸の内でそう語り掛けた次の瞬間、辺りを満たす金木犀の甘く爽やかな香りが一瞬で消え失せ、やがて樹そのものが黄金の光になって散った。その次の瞬間、飛び散っていた黄金の光はアリスの右手に集まり、やがて一本の長剣を形作った。
その重みを感じながらアリスは迫りくる闖入者達を睨みつけた。闖入者達はあろう事か、抜刀もせずにこちらに走ってきている。姿だけ見れば戦うつもりがないように見えない事もないが、表情は明確な闘志を宿していた。こちらに不意打ちをするつもりか。
「はっ」
アリスは一瞬だけ金木犀の剣に意識を向け、振るった。直後、その刀身が無数の黄金の光に分解され、突風となって闖入者達を襲った。手応えがあった。黒髪の少年及び
そのまま弓を抜いて矢を放ってくるかと思ったが、少女はこちらに視線を向けているだけで、何もしてこなかった。何のつもりなのか。
「私を
少年達は相変わらずこちらを見ているだけだ。闘志はあるものの、敵意が感じられない。どういう腹積もりでいるのか、まるで理解が及ばない。それが彼女を苛立たせた。悟られないようにしながら、闖入者達に伝える。
「今のは警告の意味を含めて加減しました。しかし次は天命を全て吹き飛ばします。持てる力を出し尽くしてかかってきなさい。これまで倒されてきた騎士達のためにも」
三人の闖入者のうち、黒髪の少年が大きな声で答えてきた。
「
キリトと名乗った少年は剣を抜いた。紫がかった黒色の剣だ。質感は黒塗りの金属に見えるが、感じられる気配は金木犀の剣のそれに似ていなくもない。あれも恐らく樹などが
つまりそれはこの神器と同じ誕生経緯を辿っているという事になるが、威力は神器に遠く及ばないだろう。神器を作れるのは聖なる力を持つ最高司祭アドミニストレータ猊下のみ。その真似事をしたところで、彼女が作り出す神器に及ぶものを作り出す事などできやしないのだ。
「いいでしょう。お前達の邪心がどれだけのものなのか、その剣筋で試す事にします」
もう一度剣を振るうと、散らばっていた黄金の光が柄に集まり、再び刀身となった。
「いざ尋常に、参るッ!!」
地面を蹴り上げて、アリスは向かってくるキリトへと走った。すぐさまキリトが黒き剣を振りかぶる。合わせるようにして、アリスは切り上げを放った。両者の剣の刀身が吸い込まれるように激突し、かぁんという鋭い音が庭園に
もし黒き剣が金木犀の剣に匹敵する力を持つ神器であったならば、更に強い衝撃が襲ってきただろう。場合によっては衝撃にあまり腕が痺れてしまって剣を握りなおせなかったかもしれない。
そうならなかったという事は、キリトの持っている黒き剣は恐るるに足りない代物であるという事だ。この剣士、大した事はない。十分にやれる相手だ。
アドミニストレータ猊下のところに行くなど、笑止千万。
「えぇいッ!!」
剣に力を込めて、アリスはキリトをそのまま押し込もうとした。しかし彼はわざと力を抜く事によって右後方に下がり、アリスとの鍔迫り合いの状況をいち早く離脱してみせた。押し込もうとして力を込め過ぎたせいで、アリスは前のめりになる形でふらつく。
すかさずキリトは左下方向から剣を振るってきたが、刀身はアリスの黄金の鎧の右側面に当たった。またしてもがぁんという金属音が鳴り響いたが、刀身に当たったにしては鈍い方に入る音だった。
その理由は単純だった。キリトの剣は刃ではなく、
何のつもりだ。それで私を倒せるとでも思っているのか。舐めるのも大概にしろ。それらの感情を載せて、アリスはキリトへと仕返しの上段斬りを仕掛ける。だが、その一撃が炸裂したのはキリトではなく、キリトがほんの数秒前まで居た空間の地面だった。
アリスに攻撃を空振らせたキリトは後方に飛び退いてから突進、斬り払いを仕掛けてくる。アリスは咄嗟に体勢を立て直して剣を縦に構え、キリトの剣を受け止めた。またしても金属同士がぶつかるような鋭い音が耳に飛び込んできて、赤い火花が辺りを照らす。またしても鍔迫り合い状態に持ち込まれる。
まるでこちらの動きが読まれているかのようだ。キリトは全体的に隙があるように見えているけれども、わざと隙があるように見せているのかもしれない。そうする事でこちらの隙を作り出そうとしている。
しかし、こちらが隙を見せたところで、渾身の一撃を打ち込んでくるわけでもない。こちらは彼の者達を斬るつもりでいるのに、あちらはこちらを斬るつもりがないようにも見える。攻撃をしてきてもそれは片刃の剣でいうところの峰打ちをやってくるだけだ。何のつもりでいるのか、まるで読めなかった。
これが闇の勢力につるむ者達のやり方なのか?
「はあッ!」
またしてもキリトは斬りかかってきた。先程同様に剣の樋の部分を打ち付けて来て、アリスの纏う鎧の横腹を叩いた。今度は力が上がっており、鎧を通じて身体の内側にまで衝撃が伝わってきた。遅れて鈍い少々の痛みが横腹を這い廻る。
「うぐッ……」
攻撃を入れられた。だが、傷は付けられなかった。ただ筋肉に痛みが走った程度だ。今の部位を刃で斬れば、こちらに十分な痛手を負わせる事ができただろうに、キリトはそれをしなかった。どうしてなのか、わからない。
いや、そもそもこの者達は本当に闇の勢力――ダークテリトリーと接点のある者達であるのだろうか。元老院では殺人とダークテリトリーの勢力の連れ込みの罪を犯した者達だと言われていたが、前者は正しいけれども、後者は正しくないのではないだろうか。
ダークテリトリーにつるんでいるのだから、近くにいるだけでわかるくらいの邪心を持っていると思っていたのに、それらしきものさえも感じられてこない。
そう言えば彼らにやられたとされるエルドリエ、デュソルバート、ファナティオの三人は、倒されているけれども死んではいないという話だった。もし彼らがダークテリトリーの尖兵であるならば、確実に三人の命を奪っていたはずだ。しかし三人は彼らに命を奪われたのではなく、ただ退けられただけ。
この者達は一体なんだ? 私達整合騎士を殺すつもりがないというのか?
ならば、どうしてこの塔を昇っているというのだ? この者達はどこを、何を目指して進んでいる?
次から次へと疑問が湧いて出てくる。頭の中が疑問でいっぱいになってしまいそうだった。そんな事になっていたせいなのか、キリトとの攻防に押されて、壁際にまで追い詰められていた。その状況を確認した時、アリスは自身の中に焦りを生まれさせた。
それはキリトにやられてしまうかもしれないという事への焦りではなかった。アリスが恐れたのは、このまま攻防戦を続けられて、頭の中にこの者達に対する疑問を生み出し続けるような事になる事だ。
頭の中は既に疑問で溢れそうになっているが、これが続けば、そのうち元老院からの命令への疑問まで出てきてしまいそうだった。そうなってはならない。元老院を、公理教会を疑う事などあってはならないのだ。
私は整合騎士、アリス・シンセシス・サーティ。最高司祭アドミニストレータ猊下、公理教会、そして人界のために戦う騎士。そのために天界より召喚された戦士。
「このぉッ!!」
頭の中を空白にしようと、アリスは剣に意識を向けて振るった。黄金の刀身が無数の光の花へと姿を変え、キリトを斬り刻むために飛んでいく。その様子は蜂の群れが獲物を狩るために飛翔する様に見えない事もない。
そうだ。この金木犀の剣が光となった姿は、清らかなる金木犀の花であり、その樹に共生する勇ましき蜂でもあるのだ。
黄金の花よ、蜂達よ、この理解の及ばない不気味な者達を薙ぎ払え――アリスの声無き命令を受けた花はキリトへ向かう。
しかし、それもキリトは回避して見せた。十字の刃でもある花達に追跡させるが、なかなか捕えられない。それでも花達に追撃を続けさせていたが、ある時キリトは一度前転回避をすると、そのまま勢いを載せてこちらに駆け寄ってきた。
「ッ!」
アリスは飛んでいった黄金の光の花達に戻ってくるよう意識を向けた。その通りに花達がアリスの右手の剣に戻ってきて、刀身を再形成する。ずしりと右手に重みが戻って来たのと時を合わせて、突進してくるキリトにもう一度上段から斬りかかった――。
「そこッ!」
その一瞬だった。急にかぁんという鋭い音が響いたかと思うと、アリスの振りかぶっていた剣が後方に引っ張られた。見えない手に掴まれて引き寄せられたかのようだった。
「えっ……!?」
アリスは思わず驚いた。しかしすぐに何が起きたのかを確認する。キリトの仲間である白水色の髪の少女が弓を構え、矢を放った後の姿勢をしていた。彼女がアリスの剣に向けて矢を放ち、体勢を崩させたらしい。
向かってくるキリトに意識を取られ過ぎていて、戦っているのがキリト一人だけだと思い込んでしまっていた。
「今だッ!」
直後、驚くアリスにキリトが組みかかってきた。右手を左手で抑えられ、更に左腕がキリトの右腕に絡められ、身動きが取れなくなった。いよいよどういうつもりなのか見えなくなる。
「ユージオ!!」
「エンハンス・アーマメント!!」
キリトともう一人の少年が叫んだその時だった。亜麻色の少年がその手に握る青薔薇の剣を地面へ突き刺すと、一瞬にして辺りが白色に凍り付いた。
冷気は氷を作り、氷でできた薔薇の
「――ッ!」
アリスがもう一度驚いたその時には、既に足元に到達していた。冷気はそこから一気にアリスの身体を駆け上がり、やがてほぼ全身を包み込み、アリスをキリト共々氷塊の中へと閉じ込めた。
身体はキリトに拘束されているので元からだが、顔も包み込まれたせいで呼吸ができなくなる。だが、幸いな事に頭の中はまだ動かす事ができた。同時に右手が氷塊の外に出ている事に気が付く。あの亜麻色髪の剣士は詰めが甘かったようだ。アリスは右手と共に氷塊に包まれずに済んでいる金木犀の剣に意識を向けた。
氷の向こうから鋭い音が聞こえた。何度も何度も氷を削るような音が届いてくる。それは徐々に大きさを増していった。氷が斬り刻まれているのだ。当然だ。金木犀の剣の刀身を花の刃に変えて、この氷を削っているのだから。
間もなくして、氷塊はとても薄くなり、身動きだけで砕ける程度になった。力を込めて右手を振るうと、ばりぃんと音を立てて氷塊は砕け散り、アリスの身体は自由を取り戻した。解放された鼻と口で空気を吸い込み、
「お前達は剣技での勝負を望んでいたのではないのですか。まぁ、中々の
アリスは告げたが、亜麻色の髪の少年は怯む様子なくこちらを見ていた。やはりというべきなのか、その瞳に戦意はあれど殺意は感じられない。彼の横方向にいる弓使いの少女の方もそうだ。こちらを殺そうという意思が感じられてこないのだ。この者達は何のつもりなのか、やはり読めない。
だが、
「エンハンス・アーマメントッ!!」
直後、すぐ後ろから声がして、アリスは引き寄せられるように振り向いた。突き飛ばされていたキリトが立ち上がり、黒色の剣に闇の
武装完全支配術。そんなものまでも使える状態だったのか。驚きを呑み込み、アリスは金木犀の剣の柄に刀身を戻させる。いや、刀身へ戻させるだけの時間はなかった。このまま迎え撃つしかない。アリスは無数の花の刃を刀身状に集結させた状態で、キリトの闇の奔流を纏った黒き剣へ撃ち付けた。
ぐおおおおおおっというすさまじい轟音が鳴り響き、辺りに嵐が吹き荒れる。その中心はアリスとキリトだ。アリスの金木犀の剣の光と、キリトの黒き剣の闇がぶつかり合い、周囲に破壊をまき散らしていた。こいつはこれで決着をつけるつもりだ。相手に勝ちを譲るわけにはいかない。
こいつを倒さなければ、他の整合騎士達が、人界が、最高司祭アドミニストレータ猊下が――。
「えっ……!?」
更に剣に意識を向けて力を込めたその時だった。
急に左方向に身体が引っ張られ始めた。
キリトの仕業かとも思ったが、彼の者は目の前におり、彼女と鍔迫り合いをしている真っ最中だった。そもそも彼女から見て左方向には壁以外の何もなかったはずで、左からされる可能性はなかったはずだった。
不意にこちらを引っ張る壁を見ると――そこには空が広がっていた。壁に大きな穴が空いてしまっている。アリスとキリトの剣から巻き起こる破壊の旋風が、いつの間にか壁を破壊して外への出入口を作ってしまっていたのだった。
アリスは信じられなかった。アドミニストレータ猊下がお作りになられた、この塔の壁は《
最後まで胸中に思う事はアリスにはできなかった。壁に空いた巨大な穴へ向かう猛烈な風が吹き始めた。外へ空気が吸い込まれているのだ。強力過ぎる空気の流れはアリスの足を
身体が宙を舞った次の瞬間には、アリスは塔の外へと投げ出されていた。
「あっ……!!」
「うぉあッ……!!」
眼下に広がる人界の光景に思わず声を上げた時、重なる声があった。キリトだ。鍔迫り合いをしていた彼もまた、同じように空中に投げ出されてしまったらしい。一瞬だけ確認する事ができたが、彼もまた驚き切ったような顔をしていた。まさか自分達が外へ投げ出されるなどと考えてもいなかったのだろう。
それはアリスも同じ気持ちだった。こんな事になるなんて誰が予想できたか。アドミニストレータ猊下ならばできたかもしれないが、少なくともアリスにはできなかった。しかしそれでも、彼女は身体が落ち始める直前まで思考を巡らせた。
この高さから落ちれば命はないだろう。セントラル・カセドラルの近くの地面に落ちて、それで終わりだ。その未来しか見えてこない。
不意に、脳裏に飛竜の
こんな時、あの子居てくれれば、助けてくれた事だろう。あの子の背に乗ってこの空を悠然と舞い、無事にセントラル・カセドラルに戻れた事だろう。だが生憎あの子は飛竜の発着場で羽を休めている頃だ。ここで叫んでも届きはしない。
願いはどこにも届かない。私はここで落ちて死ぬのみ。
よりによって、目の前にいる大罪人と一緒に――。
《キリト、アリスッ!!》
目を閉じた次の瞬間に、アリスはかっと開いた。声が聞こえた。耳ではなく、頭の中そのものに響くような声。そんな事ができるのは、神か、アドミニストレータ猊下だけのはずだ。今のは神の声だったのだろうか。やはり我々は神の御加護に――。
と思った直後、アリスは背中から何かにぶつかって止まった。地面に落ちたのではない。空中に浮いている何かに背中から当たって、そのまま載ったようだった。
軽い痛みを背中に感じながら、アリスは起き上がろうとしたが、すぐにまた寝転がらされた。彼女を載せる何かが上下に動いており、規則正しく下から突き上げてきていた。
その感覚は雨縁に跨っている時のそれに似ていない事もない。まさか本当に雨縁が助けに来てくれたのだろうか。ここは雨縁の背中の上か。期待を込めてもう一度起き上がったその時、アリスは驚いた。
そこは大きな獣の背中の上であって、雨縁の背中ではなかった。獣は白金色の剛毛に包み込まれているようで、肩から生やした羽毛の巨大な翼を羽ばたかせて空中に留まっていた。翼がある事と大きい事は飛竜の身体的特徴とは一致しているが、そこくらいしか同じようなところがない、未確認生物だった。
「リランすまない! 助かった!」
またしてもキリトの声が聞こえてきた。前方を確認したところ、すぐ目の前にキリトが背中を向けてしっかり座っていた。いや、この
《まさかアレで壁に穴が空いてしまうとはな。流石に我も焦ったぞ》
アリスはぎょっとした。また頭の中に《声》が飛んできた。初老の女性の声色だ。何かが
「あぁ。だけど、お前のおかげで何とかなった。俺達が外に放り出されてからすぐに飛んできてくれたんだろう?」
《左様だ。だが、その時既に穴が塞がりつつあった。自己修復機能なんてものまであるとは、本当にどうかしておるわ》
またしても《声》が頭に届いてくる。やはりこの巨大獣が発しているものらしい。それとキリトが会話しているように見えるという事は、この巨大獣はキリトのものだという事なのだろうか。
「お前、これは一体どういう事ですか」
アリスに気が付いたのだろう、キリトが軽く振り向いてくる。
「しっかり掴まっててくれ。間違っても振り落とされたりするなよ」
答えになっていない。アリスは若干の怒りを募らせて抗議する。
「お前は私を助けたのかと聞いているのです! 何故私を助けるような事をしたのですか。何のつもりなんですか一体!」
「それは――」
《おい、待て!》
キリトの答えを巨大獣の《声》が遮った。獣は相変わらず羽ばたき続ける事で空中に留まっているが、その視線を上空へと向けているようだった。
「どうした、リラン」
《……整合騎士アリスよ》
呼びかけられてアリスは目を見開いた。驚いた気持ちのまま――答えてしまった。
「な、何ですか……」
《お前達公理教会とやらは、なんてモノを作ったというのだ》
「は……?」
初老女性の《声》にアリスはきょとんとさせられた。なんてモノを作った? 何の話だろうか。間もなくして、キリトも巨大獣と同じところに視線を向けて、何も言わなくなった。絶句しているのだ。何か信じられないものでも見たかのような反応である。
「あ、あれは何だ……?」
か細いキリトの声を聞き、アリスは眉を八の字にする。よく見たところ、キリトは上空を指差していた。半信半疑になりながら、アリスはキリトが指し示す上空を見た。
そこで見えた《モノ》にアリスはこれ以上ないくらい目を見開いた。それは異様極まりない存在だった。
人間よりも大きな、白い
それだけでも十分に異様なのだが、逆さまになった場合の大きな四角錐の最上部の形状が、その異様さを更に大きなものへと変えていた。
人間の上半身だ。謎の装置が付いている大きな四角錐の最上部から、あろう事か人間の上半身が生えていた。それは兜の無い白い鎧らしきものを身に纏い、左腕が見受けられないうえに右腕が大砲のような形状になっている。見えている頭部に髪はなく、肌は陶器のように白い。どの点を見ても異様以外の判断を下す事ができない存在が、確かに上空を飛んでいた。
「あれは……何……?」
アリスは目を見開いたまま、そう言うしかなかった。あんなものは見た事がない。どうしてあんなものがセントラル・カセドラルのすぐ傍を飛んでいるというのだろうか。
いやそもそも、あれは人間なのだろうか? だが、だとすれば下半身はどうなっている?
どうして左腕がない? 右腕の大砲みたいなものはなんだ?
またしてもアリスの頭の中は疑問で溢れ返りそうになっていた。しかし状況は彼女に余裕を与えてくれなかった。飛行人間の右手と頭部がこちらに向けられていたのだ。彼の者の右手にある大砲らしきものから真っ直ぐ細く赤い光が伸び、巨大獣に当たっている。まるで狙いを定めているかのようだ。
「ディス・チャージ」
とても冷たい声が飛行人間から聞こえてきたその直後、右手の大砲に青白い光が
《掴まれ!》
《声》がした次の瞬間、巨大獣は翼を一際強く羽ばたかせて左へ飛んだ。ぐおんと身体が左に引っ張られたが、剛毛を掴んでいたおかげで振り落とされるような事はなかった。それから一秒程度で、巨大獣が元居た空間を青白い光線が貫いていった。
標的に回避された光線は真っ直ぐ空気を切り裂きながら飛んでいき――やがてセントラル・カセドラルを囲む央都セントリアの一角の教会付近に着弾。
教会を、周囲の民家を呑み込んで吹き飛ばす大爆発を引き起こした。瞬く間に火の手が、黒煙が上がる。周囲の人々は悲鳴を上げて逃げ惑っている事だろう。
「な……」
アリスは目を強く見開いて、守るべき人界とそこに生きる人々が、セントラル・カセドラルからの砲撃で焼き崩される光景を見ていた。