キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 フェイタルバレット編、今度こそ最終回。


26:異へ誘う手

 

 

          □□□

 

 

「あー、駄目ッ。頭のこんがらがりが全然治らない!」

 

「ぼくも同じ気持ち。久しぶりだよ、ここまで和人の話がわからなかったのは」

 

 

 《ダイシー・カフェ》から出て、共に歩く木綿季(ゆうき)海夢(かいむ)がかなり大きな声を出して言っていた。それで店の中に居た時に難しい話を聞かされた事への文句を垂れてもいる。そんな事を言いたくなるような話を聞かされていたのだから、当然だった。

 

 和人が彼女達にした話の内容とは、今、和人がやっているアルバイトと、それに使われている機械のメカニズムの話だった。数週間前、総務省にいる菊岡(きくおか)誠二郎(せいじろう)から和人に向けて一つの依頼が運び込まれてきた。内容は《ラース》というベンチャー企業が開発中の、新しいフルダイブVRマシンのテストプレイをして欲しいというものだ。

 

 菊岡が依頼してきているという事は十分に怪しむに(あたい)する要素であったが、新しいフルダイブVRマシンのテストができるというのは、和人にとって、とても魅力的に感じられるものだった。相談したリランから「一応乗ってみたらどうだ。ただ、危なそうならばすぐに降りろ」と言われた後、和人はその《ラース》のある六本木に向かい、そのフルダイブVRマシンとやらを目撃する事になった。

 

 それは、かつて詩乃と木綿季が使っていたメディキュボイド並みの巨大な装置だった。いや、正確にはメディキュボイドよりも巨大だったかもしれない。先程いたアンドリューの店である《ダイシー・カフェ》の店の部分が丸々埋まってしまうくらいの大きさだったからだ。こんな大規模な装置が、一般普及する次世代のフルダイブVRマシンであるはずなどない。何か違うものだ。和人の抱いた疑問は、すぐさま当たった。

 

 装置の名前は《ソウル・トランスレーター》。何でも、脳細胞を支える骨格である微小管構造の中には、《フラクトライト》と呼ばれる――少なくともラースの者達はそう呼んでいる――光が走っており、それは《人間の魂》と言えるものであるという。この人間の魂そのものと言えるフラクトライトの五感情報を保存、処理する部分にアクセスし、見せたい物や聞かせたい音の情報を与えるものが、この《ソウル・トランステーター》であるというのが、ラースの者達からの提言であった。

 

 その後、フラクトライトを格納する脳細胞の仕組みはどうなっているのだとか、これはどうやって存在しているのかとか、VRとはどういうものなのかという話も事細かに聞かされた。和人はなるべく理解しようと努めたが、結局ほとんど理解には及ばなかった。あまりにも複雑すぎる話だったのだ。

 

 しかし記憶する事はできていたので、試しにリランに話してみたところ、やはりと言うべきか流石と言うべきか、彼女はほとんど理解できたと返してきた。そこで和人はリランに「この話をわかりやすくしてくれ」と頼んだが、彼女からの説明はわかりやすくなっているようでなっていないようなもので、結局理解に及ぶ事はなかった。

 

 それもまた記憶する事ができたので、ここにいる恋人と友人に話してみたが、やはり理解者は一人として現れる事はなく、文句をぶつけられるだけだった。

 

 

「ははは、そうだろうな。さっきの説明、実はリランが俺がラースの連中から聞いた話を噛み砕いてくれって頼んだものだったんだけど、何も変わらなかったな」

 

「って事は、リランはさっきの和人の話を理解できていたって事なのね」

 

 

 詩乃の問いかけに和人は(うなづ)く。リランはそこら辺の企業で開発されているようなAIを軽く鼻で笑う事ができるくらいにまで高度な自我と意志を持つに至っているAIであり、人間のような心と意志を持ちながら、AIを内包する機械が得意とするような高度計算や分析ができる。なので、ラースの者達がしていた理解しがたい説明も一発で理解できたというわけだ。

 

 (むし)ろ彼女の場合は、話が難しければ難しいほど理解しやすいという謎の構図ができているようで、人が簡単に理解できる話に直面すると、逆に理解するのに時間がかかるという奇妙な特徴がある。

 

 そういった特徴を持っている事から、AIではなく、《電脳生命体(エヴォルティ・アニマ)》という名前で呼ばれる存在にカテゴライズをするべきだというのを、産みの親であるイリス/芹澤(せりざわ)愛莉(あいり)から言われていた。

 

 本人達もそれを自覚しており、リラン、ユピテル、ユイ、ストレア、プレミア、ティア、リエーブル、ヴァンは自分達を《電脳生命体》であると言っている。その事は和人達も受け入れており、リラン達の事はAIではなく《電脳生命体》であると認めるようにしていた。

 

 特に、《ダイシー・カフェ》で一緒に話を聞いていたが、帰り道が違うという事でこの場にいない明日奈(あすな)は、ユピテルを自身のたった一人の可愛い息子と言っていて、尚且つ「ユピテルはレクトで作られているAIとかじゃなく、《電脳生命体》っていう、ちゃんとした生命を持った子だよ」とまで言っているくらいだ。

 

 それは和人も同じであり、リラン達の事は《電脳生命体》という新たな生命体だと思うようにして、ぞんざいに扱う事など決してしないようにしていたが――ラースの者達からのフラクトライトの話を聞かされた事により、一つの疑問を抱くようになった。

 

 

「あぁ、そうなんだよ。リランはこれをすぐに理解できたわけなんだが……」

 

「わけなんだが?」

 

 

 海夢に問われた和人は、胸の内の疑問をついに言葉にした。

 

 

「もしかしてリラン達《MHHP(エムダブルエイチピー)》、《MHCP(エムエイチシーピー)》は、フラクトライトを素材にして産み出されたんじゃないかと……」

 

 

 その場の三人から「えぇっ」という声が上がる。和人は弁明するように返した。

 

 

「いやいや、俺の勝手な予想だし、そんな事ないとは思うよ。けれど、フラクトライトの存在に茅場(かやば)晶彦(あきひこ)や愛莉先生がいち早く気付いてて、それを何とかして取り出したとか、コピーする事に成功してて、それを(もと)にリランやユピテルを作ったんじゃないかって、何かそんな気がしてきて……」

 

 

 茅場晶彦と芹澤愛莉。どちらも常軌(じょうき)(いっ)した技術力を持っている二人であり、だからこそリランとユピテル、その妹達や弟達を作り出す事に成功していた。そしてこの二人の力を主軸とした技術があったからこそ、今現在、自分達が利用しているVR技術が存在しているようなものだ。

 

 そんな二人ならば、フラクトライトの存在に誰よりも早く気が付き、応用できないかどうかを見定め、そして応用できる方法を見つけ出し、それを用いてリランとユピテルという《電脳生命体》の初号機二人を作り出していたという話があったとしても、不思議ではない。和人には少なくともそう思えていた。

 

 

「あのさ、和人」

 

 

 そんな和人に声を掛けてきたのが木綿季だった。そこまで強くはないが、何かを恐れているような表情が顔に浮かんでいる。

 

 

「それ、リランに言わない方が良いと思う」

 

「……やっぱり?」

 

「うん。リランにとっては茅場晶彦がおとうさんで、愛莉先生が産みのおかあさんなんでしょ」

 

 

 その通りだ。本来の名前をマーテルというリランは、《SAO》を世に送り出した企業である《アーガス》で、そこの開発統括者であった茅場晶彦を父親、愛莉を産みの母親として産まれ、そして外部協力者である神代(こうじろ)凛子(りんこ)を育ての母親として(はぐく)まれた。

 

 それは弟のユピテルも同じ――凛子に育てられたという点は唯一違う――であるが、マーテル/リランは特に晶彦の事を強く愛しており、《SAO》をデスゲームに変えて多くの死者を出しても、その《SAO》のラストボスとして立ち塞がってきても、晶彦へ、娘として父親に抱く愛情を持ち続けている。

 

 その事を確認してきたであろう木綿季に、和人はまた頷く。

 

 

「あぁ、そうだな」

 

「その二人が誰かのフラクトライトっていうか、魂に手を出して、それを改造してリランやユピテルを作ったんじゃないかなんて言ったら、リラン、すごく怒ると思う」

 

 

 木綿季の言った話をリランにした時にするであろう反応は、既に想像できていた。もしリランにこの話をした時には、きっと――。

 

 

「うん。俺の頭に噛み付いて、そのまま噛み砕きそうだ」

 

「そうでしょ。だから言わない方が良いと思うよ」

 

「っていうか、和人も本気でそんな事は思ってないんでしょう」

 

 

 木綿季に続けての詩乃の言葉に、またまた和人は深く頷いた。リランとユピテル。彼女らは純粋に晶彦と愛莉によって産み出された存在であり、愛莉によれば「人の心や精神を癒してくれますように」という願いと祈りを込められて産まれたという話だ。誰かのフラクトライトが素材になっているなんていう事はないだろう。

 

 もしそういう事があったのだとすれば、愛莉がもっと早く話しているはずだ。しかし、彼女からそういう話を聞いた事は一切なかったし、そもそもフラクトライトを一番早く見つけたのは、晶彦も愛莉も関係していないラースの者達だし、フラクトライト自体が発見されたのも《SAO》が世に出回ったずっと後の話である。

 

 リランとユピテルが、ユイとストレアとヴァンが、プレミアとティアがフラクトライトを改造する事で作られたという話は、成り立たないのだ。それにそもそも、人間からフラクトライトを採取して改造を(ほどこ)し、AIを作り出す技術なんてものも、ラースから聞かされていないし、多分持っていないだろう。

 

 自分で思っておいて、その荒唐無稽(こうとうむけい)さに改めて気が付かされ、和人は恥ずかしさにも似た妙な気持ちを胸の中に感じていた。

 

 

「そうだよ。リランとユピテルは純正だと思っているよ」

 

「それならいいんだけど……なんか和人、妙にリランの事を引き合いに出してない?」

 

 

 海夢の問いかけは図星だった。そうだ。フラクトライトの事、ラースでのアルバイトの事をリランに話した時に、彼女から聞かされた話は、和人の中に強く引っかかっていた。《ソウル・トランスレーター》と、それが接続されているであろうサーバーが作り出す仮想世界の事。

 

 和人は三人に話す。

 

 

「あぁ、リランが言っていたんだよ。フラクトライトそのものに情報を届けられる《ソウル・トランスレーター》と、その使用に耐えうるサーバーとマシンがあれば、きっと現実世界と何も変わらない感覚を味わえる世界が構築できて……リラン達と俺達が本当に同じものを見て、聞いて、感じられる、互いをこれまで以上に理解し合える世界が出来上がるんだろうって」

 

 

 三人はきょとんとしたような顔で和人を見た。

 

 リランは確かに自分達と同じ世界を生きて、同じ時間を過ごしている。だが、リラン達にできて自分達にできない事、体感できない事というのは存外多く、時にリランやユピテル、ユイやストレア、プレミアやティアの見ているもの、体感しているものは自分達と異なっているとわかる事があった。いや、時にどころではなく、結構な頻度でだ。

 

 どうしてそうなっているのか。それは自分達人間の使っているフルダイブマシンが原因だ。彼女達《電脳生命体》は、VR世界にこれ以上ないくらいに適応している存在であるため、VR世界を本質的なところまでしっかりと体感する事ができるようになっているが、自分達人間は、フルダイブマシンのスペックの不足によって、VR世界の全てを真に感じ取る事ができない。これによって、《電脳生命体》が感じられるモノ、楽しめるモノは、人間が感じる事、楽しむ事はできないようになっている。

 

 実のところ、リラン達《電脳生命体》は、その事をずっと気にしていた。《電脳生命体》だけが感じ取れ、楽しむ事ができる体験が存在している事と、その体験を自分達の理解者である人間達に味わってもらえない事を。一見些細な問題のように思えるかもしれないが、リラン達にとっては大きな問題となっていたのだ。

 

 それを解決させてくれるのは、フルダイブマシンの発展(アップグレード)だが、すぐさま叶う願いではないし、それにフルダイブマシンは脳に信号を送るものなので、結局感じ取れるモノは限定的になってしまう。

 

 しかし《ソウル・トランスレーター》ならば、フラクトライトそのものに情報を送るうえ、アミュスフィアとは比較にならないスペックであるため、《電脳生命体》の体感する感覚を体験する事もできるようになるだろう。

 

 《電脳生命体》しか感じられなかったモノ、楽しめなかったモノが自分達人間でも感じられ、楽しむ事ができるようになるのだ。だからこそリランは、《ソウル・トランスレーター》にある種の光明を見出しているようだった。

 

 

「《ソウル・トランスレーター》が一般化すれば、私達はリラン達が感じているもの全てを感じられるようになって、リラン達をもっとよく理解できるようになる、か……」

 

 

 詩乃が独り言のように言ったところに、和人は答える。

 

 

「流石に《ソウル・トランスレーター》を一般化させるのは無理だろうけれど、《ソウル・トランスレーター》を使ってダイブする世界っていうのが作られたなら、そこは《電脳生命体》と人間が本当に同等になる世界なんだろうな。リランはそれが見てみたいんだと思うよ」

 

 

 その直後、海夢が何かに気付いたような反応を示した。

 

 

「あれ? 和人はその世界を見ているんじゃないの。《ソウル・トランスレーター》を使ってダイブする世界に、ダイブするアルバイトをしてるんでしょ?」

 

「あぁ、そうなんだけど……実は《ソウル・トランスレーター》を使ってダイブしている間の記憶は全部消されてるんだ」

 

 

 三人からまたしても驚きの声が上がってしまった。

 

 和人もそのアルバイトをした際にぞっとしたものだが、《ソウル・トランスレーター》を使って向かうVR世界で体験した事の記憶は、機密情報保持という名目により、ログアウト時に封印されるようになっている。消去されるのではなく、あくまで思い出せないようにするだけ。魂やら記憶やらを書き換えてしまうわけではない。

 

 その事を説明すると、三人は少しだけ安心した様子を見せてくれた。すぐさま詩乃が和人に言う。

 

 

「びっくりしたわ。和人がまた記憶をいじられたんじゃないかって思っちゃった……」

 

「そんな事はないから安心してくれ。ただ正直思うんだ。《ソウル・トランスレーター》と、そこから発展していくVR機器で行ける世界こそが、リラン達《電脳生命体》が本当に生きられる世界だっていう事と……《電脳生命体》を知る俺達が、そこを提供してやるべきなんだって」

 

 

 和人は立ち止まって三人を見つめた。三人も同じように立ち止まり、和人へと振り向く。三人と色々話をしている事に夢中になっていたためか、いつの間にか小さな公園の前に差し掛かっていた。夜に差し掛かっている時刻のためか、人影は一切なかった。そこで和人はもう一度口を開く。

 

 

「だからさ、俺、進路を決めたんだ。リラン達と、ユイ達と俺達が本当に一緒に暮らす事ができる世界を作るために、アメリカ――」

 

 

 言いかけたその時だった。

 

 

 突然和人の身体が背後に力強く引き寄せられた。あまりの力強さに頭が揺さぶられたようになり、意識がぐらつく。身体が動かせない。がしりと強い力で拘束されているようだ。よく見れば首元に黒い腕のようなものが伸びてきて、締め付けてきているのがわかった。

 

 

「がっ……」

 

「和人ッ!?」

 

 

 詩乃の叫びが聞こえた。目を向ければ、これ以上ないくらいに強い焦りと驚きの表情を顔に浮かべた彼女の姿が見えた。海夢と木綿季も同じような顔をしてこちらを見ている。いや、正確には和人の後ろにいるであろう何かを見ているのだろう。

 

 和人はもう一度首元を抑え付けているものを見ようとする。それは黒い腕だった。黒いコートらしき衣服で覆われて、黒い手袋を着用した腕が、確かに自分の首を抑え付けていたのだった。

 

 

「な、んだ」

 

 

 和人が言葉を出しかけたその次の瞬間、身体の拘束が不意に解かれた。それから一秒も立たないうちに黒い腕と手は和人の胸元と腰を抑え付け――和人の身体を地面目掛けて叩き付けた。受け身を取る暇など勿論ないまま、和人の全身はコンクリートへ打ち付けられる。

 

 

「がはッ」

 

 

 微かに出せた声の直後に全身を衝撃が駆け回った。肺から空気が無理矢理押し出されて、息ができなくなる。痛みはそれからすぐにやってきて、身体の全ての感覚を押し潰そうとした。何も感じる事ができない。目の前の光景はモノクロに変色しかかり、ぐらぐらと不規則に揺れている。

 

 今、何が起きたのか。

 

 何が自分を襲ったのか。

 

 何一つ掴む事ができない。

 

 

「和人――きゃあぁ、あ゛ッ」

 

 

 その直後、和人の麻痺しかけの聴覚を内包する耳に、悲鳴が届いた。それから間を置かずどすんという重い音がしたかと思うと、コンクリートの地面に衝撃が伝わってきた。悲鳴の正体は――最悪な事に、詩乃だった。

 

 

「し……の……?」

 

 

 全身に隙間なく(おもり)が付いているかのように動かせない身体の、上半分と首だけを何とか動かして、和人は声の発生源を確認しようとした。ぐらぐら揺れ、かすみがかった視界の中、詩乃が仰向けに倒れていた。すぐ近くには黒い人影がいて、詩乃を地面へ叩き付けるための技を放った後の姿勢をしていた。

 

 詩乃もやられていた。

 

 

「し、のッ」

 

 

 本来の役割を放棄した肺を動かし、声を出したが、本当に絞ったようなそれしか出なかった。恐らく彼女の耳に届いてはいないだろう。

 

 

「このぉぉぉッ!!」

 

 

 直後、激昂した海夢の声がして、黒い人影に掴み、殴り掛かったのが見えた。小さいながらも力が強いのが海夢だ。彼ならばきっと――という期待は即座に打ち砕かれた。黒い人影は掴みかかってきた海夢の胸元を逆に掴み返したかと思えば、ぐんと引き寄せたうえでその腰元に手をかけ、そのまま投げた。海夢の身体は宙でぐるんと一回転し、勢いよく地面に衝突した。どぉんという音と衝撃がして、

 

 

「かはッ」

 

 

 という鈍い悲鳴が海夢から漏れ、彼は動かなくなってしまった。これで全員やられてしまったのだろうか。

 

 

「誰か、誰か助けてッ!!」

 

 

 またしても悲鳴に近しい声がしたが、続いてきたのは衝撃音ではなく足音だった。木綿季だ。木綿季が助けを呼びに走り出した。(まず)い、このままでは木綿季も狙われてしまう。それに木綿季はまだ病み上がりだから、尚更格好(かっこう)餌食(えじき)であろう。

 

 しかしどういう事なのか、黒い人影は木綿季を追いかけなかった。助けを求めて走り去る木綿季の背を少しの時間眺め――和人の許へとやってきた。しゃがみ込んだ際に見えた顔は――頭部が黒いフードに、目元がどす黒いゴーグルに、口許が黒いマスクで覆われていた。何もかもが徹底的に隠され、把握できないようになっている。

 

 

「きさ、ま……」

 

 

 声を絞り出してみても、返答はなかった。和人の事を覗き込むように見ているだけだ。どんなに目を凝らしても、目つきも顔立ちも、輪郭(りんかく)も見えてこない。

 

 お前は何者だ?

 

 どうして俺達を襲った?

 

 どうして詩乃に手を出した?

 

 痺れている頭の中に浮かび上がる疑問をぶつけようとするが、喉が動いてくれない。喉だけではない。頭を除く全身が麻痺してしまっていた。骨折こそしていないのが救いだったかもしれないが、動けない事に変わりはないので、救いではなかった。

 

 

「あう、ぐ…………」

 

 

 直後、黒ずくめが動きを見せた。苦痛で(うめ)くしかできなくなっている詩乃のところへ向かっていくと、彼女の上半身を軽く抱き上げ、そのままずるずると引きずり、和人のすぐ隣にまで持ってきて寝かせた。何のつもりなのかわからないが、詩乃を間近で見れるようにはなった。

 

 しかし状況は最悪だった。彼女は息が絶え絶えになっている。自分同様に身体を強く地面に打ち付けられたせいであろうが、もしかしたら自分よりも強い衝撃に襲われたのかもしれない。

 

 

「し、のぉッ……」

 

 

 正常な時の動きが戻らない喉を動かして呼びかけると、詩乃はひどくゆっくりと首を動かし、顔を向けてきた。苦痛で(ゆが)み、蒼褪(あおざ)めた顔で、ほとんど開いていない目で、和人の姿を見ようとしていた。

 

 

「か、ず……とぉッ…………」

 

 

 呼びかけに応じ、詩乃は手を伸ばしてきた。全身の力を振り絞って、助けを求めてきているのがわかる。

 

 君の事は俺が助ける。前からずっと約束してきた事だ。君を守って、君と一緒に生きて行く事が、俺の使命だから――今になって思い出し、和人は身体中に僅かに残っている力を振り絞って、詩乃へ手を伸ばした。

 

 その指先が彼女の指先と触れようとしたその時だった。黒ずくめが、急に懐に両手を突っ込んだかと思うと、すぐさま引き抜き、伸ばされている二人の腕に近付け、突き立ててきた。和人は咄嗟(とっさ)にその手に持たされている物の姿を確認する。

 

 のっぺりとしたプラスチックの円筒(えんとう)から、玩具(おもちゃ)のようなグリップが突き出ている代物。しかし玩具には見えないそれを、黒ずくめは両手に一つずつ持ち、その先端を二人の腕に当てていた。円筒部分に白い付箋(ふせん)シールのようなものが貼られていて、そこに文字が書かれているのが見える。

 

 

 《サクシニルコリン》。

 

 

 そう書かれていたのを確認してすぐに、和人は驚愕(きょうがく)した。その名前は、明らかに何らかの薬の名前だ。そんなものを内包している、あの道具は、きっと簡易注射器だろう。

 

 そして急にこんな事を仕掛けてくる奴が、良い薬を持っていて、それを自分達に使おうとするわけがない。

 

 あれはきっと、毒薬だ。それを自分と、詩乃に注ぎ込もうとしている。

 

 

「や゛め゛ッ――」

 

 

 せめて詩乃だけは見逃してくれ――その願いはどこにも届かなかった。炭酸飲料の入ったペットボトルを開けた時にするような音がしたのと同時に、鋭い痛みが、彼女へ伸ばした腕を襲った。何か得体のしれないものが、流れ込んでくるような感覚が腕に生じ、身体へと向かってくるのがわかった。間もなくして、どこまでも黒い闇が視界に生じてきているのが見えた。

 

 

 駄目だ、来るな。

 

 駄目だ、やめろ。

 

 詩乃のところに行くな。

 

 

「し…………の…………」

 

 

 最後の抵抗と言わんばかりに、和人は呼びかける。詩乃は依然として和人に助けを求めている顔をしていたが、やがて、ぷつりと糸が切れたように目を閉じて、動かなくなった。

 

 動きの一切を止めてしまった愛する人の姿を目にしたのと同時に、和人の意識もまた、どす黒い闇へ呑み込まれた。

 

 

 

 

     《キリト・イン・ビーストテイマー フェイタルバレット 終わり》

 


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