キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

501 / 565
24:守られた命と未来

 

 

          □□□

 

 

「変わってない……」

 

「え?」

 

 

 何も着ていない姿で抱き締めてくれている彼の肩口に顔を埋めながら、同じく何も着ていない姿の詩乃は言う。

 

 

「何も変わらないの……何にも、変わってないの……」

 

 

 今、詩乃は彼に受け入れてもらっていた。あの決戦から二日しか経っていないので、彼には疲れが残っているはずだ。しかしそれでも、彼は詩乃の許へやってきて、詩乃の頼みを受け入れてくれていた。

 

 本当はそんな事頼んでいいような状態ではないのに、彼にそんな余裕なんてないのに――頭ではそうわかっているはずなのに、詩乃はそれを止める事はできなかった。結局彼に頼み込んでしまった。

 

 その頼みの末に一糸纏わぬ身体になった詩乃を、同じように一糸纏わぬ身体で受け入れているというのが、今ここで起きている事の全てだった。

 

 

「何も変わってないって、どういう事だ?」

 

 

 彼――和人の問いかけを受け、詩乃は和人を抱き締める手で拳を握った。

 

 一昨日の夜、詩乃はもう一人の自分自身を倒した。ヘカテーと名乗っていたそれは、十一歳頃の詩乃と同じ顔と声を持ち、同じ記憶さえも持っていた。まさしく詩乃の二重複体(ドッペルゲンガー)とも言うべき存在であるそれこそが、最近《GGO》で起こっていたVR殺人事件――通称《死銃》事件の首謀者の一人だった。

 

 ヘカテーは「私は裁かれるべき罪人」と繰り返し言っていた。詩乃から分裂したような経緯で誕生したと思われるヘカテーがそう言っているという事は、詩乃が心のどこかで同じ事を思っているという事を意味していた。

 

 私は裁かれるべき罪人なの?

 

 それともそうじゃないの?

 

 その時そう考えても答えに辿(たど)り着く事はなかった。だから詩乃はヘカテーを倒す事を決めた。答えを見つけ出す他にも、ヘカテーが全体未聞の殺人能力を持っているという事と、自分達が倒すべき敵であるハンニバルの指示で動いている事から、ヘカテーは何としてでも倒さなければならない存在だった。

 

 友人達の力を、仲間達の力を、そして今ここに居る和人/キリトの力も借りて、詩乃はヘカテーを倒した。もう一人の自分自身を消し去り、どの世界でも唯一無二の詩乃となった。そうなればきっと、自分が裁かれるべきなのかそうでないのかの答えが出ると思った。ヘカテーを倒せば答えが出て、この心に絡み付き続けている蜘蛛(クモ)の糸のような疑問から解放され、本当に友人達と、大好きな和人との幸せな日々を送れるようになる。

 

 さようなら、弱かった私――そう思えて一歩を踏み出せると思っていた。

 

 だが、現実は全然詩乃の望んだ方向に動いてくれなどしなかった。ヘカテーを確かに倒して、《死銃》事件を確かに終わらせて、VR世界に、現実世界に安寧を(もたら)す事ができたというのに、詩乃の胸の中、心には今だに蜘蛛の糸が絡み付いたままだった。

 

 自分は裁かれるべきなのか、そうじゃないのか。

 

 裁かれるべきじゃないというのは誰が決めてくれるのか。

 

 もし許されないのであれば、何をして、どんなふうに償えば良いのか。

 

 疑問の糸はもっと強く詩乃の心に絡み付き、食い込むくらいにまで締め付けてきそうになってきていた。その事を、詩乃は彼へ断片的に伝えた。

 

 

「……ヘカテーを倒せば、何か変わると思っていたの。『自分は裁かれるべき人間だ』って言い張っているあいつを倒せば、それを否定できると思った。私はそんなんじゃないって心から思えるって……そう思ってたの」

 

 

 和人の抱き締めてくれている手に力が入ったのがわかった。しかしそこに意識を向けるだけの余裕が詩乃にはなかった。ただ言葉を続けるしかない。

 

 

「でも、そんな事なかった……(むし)ろ余計にわからなくなった……ヘカテーの言っていた事の方が正しかったの? 私はヘカテーを倒すべきだったの? ヘカテーを否定するような事をして、本当に良かったの?」

 

「――詩乃!」

 

 

 呼び止めるような和人の声が聞こえた。その時に、詩乃は目の前が妙な形に歪んでいる事に気が付いた。涙がぼろぼろと出てきて止まらなくなっている。どこにも行く事のできない気持ちが、行くべきどこかを求めて暴れ出そうとしていた。

 

 

「……教えて……私は本当に正しかったの……? 私のした事は……私がやった事は、間違っていたの……? 私は幸せになっちゃいけないの……? 私は和人と、皆と一緒に幸せに暮らしていっちゃいけないの……?」

 

 

 胸の内から絶え間なく湧き続ける疑問を彼にぶつける。本当はこんな事をするべきではない。彼から答えを得られるはずもないし、彼を困らせるだけだ。そして仮に彼から答えが出たとしても、それを心のうちにまで届けられる事もない。ただただ、ここにいる大切な彼を戸惑わせるだけだ。わかっているはずなのに、詩乃はそれをやめる事ができなかった。

 

 

「……詩乃」

 

「……ッ」

 

 

 彼はもう一度呼びかけてきてくれていた。これ以上進むな、結論を急ぐんじゃない――言われなくても、そう言ってくれているのがわかった。しかしそれでも駄目だった。詩乃の胸の内にある疑問は、気持ちそのものと一体化して獣のような姿を取り、胸の内という(おり)を壊して外に出ようと暴れ出している。どうやら彼もそれがわかっているらしく、その獣を詩乃と一緒になって(しず)めようとしてくれているようだった。

 

 だが、それでも獣の力は強く、どすんどすんと檻に突進を繰り返している。これが本当に檻を壊してしまったら、どうにもならなくなるだろう。その時どうなるかなど全く予想がつかないが、恐ろしい程の苦痛が来る事だけは間違いない。そんな事に彼が巻き込まれてしまったらどうなるか。

 

 だからこそ詩乃は、彼に訴えかけた。

 

 

「ごめんなさい和人、お願い……忘れさせて……」

 

「え?」

 

 

 彼の肩口から顔を離し、見上げる。少しきょとんとしている表情の浮かぶ顔の、その目と自身の目を交差させて、詩乃は続けた。

 

 

「もう、自分でもわけがわからなくなりそうなの……考えないようにしても止められないの……全然止まってくれないの……だから、あなたが、止めてほしい……頼んでばっかりになってて、ごめんなさい……だけど……私、もう……」

 

 

 最早頼んだところで拒否されそうだ。それくらいにまで彼には迷惑をかけ続けている。今だってそうなのだから。もう彼だって我慢の限界が来ているはずなのだ。しかし、彼は詩乃の予想を裏切っていた。彼――和人は詩乃に頼まれるなり、その両手をゆっくりと優しく詩乃の背中に(まわ)した。(てのひら)が当たり、彼が持つ温もりが身体へ流れ込んでくるようになる。

 

 

「わかった。思い切りやるから、その間くらい、何も考えないでくれ」

 

 

 手つきと同じ優しげな声で彼は告げた。本当はありがとうと伝えたかったが、言おうとしても嗚咽(おえつ)になるだけになりそうだったので、詩乃は何も言わずに頷いた。

 

 胸の内で暴れる獣を鎮められる彼の力を、詩乃は信じ、身を任せた。

 

 

 

         □□□

 

 

「詩乃……」

 

 

 話しかけても彼女は答えなかった。耳をすませば、安らかな寝息が聞こえてきて、目を凝らせば、裸の背中がゆっくりと上下しているのが見えた。

 

 少し声を掛けられた程度どころか、揺する程度でも起きないくらいにまで、深く眠っているようだった。きっと夢を見る事もないだろう。そう、悪夢に(さいな)まれる事もなく、ぐっすりと眠ってくれている。何とかそこまで行かせる事はできたようだ。

 

 それを確認できた途端、深い溜息が出てきた。勿論それは身体の疲労から出るものだった。いや、もしかしたらその中には(あき)れも混ざっていたかもしれなかった。彼女自身への呆れではない。彼女を(いま)だに縛り付け、苦痛を与え続けている境遇と状況、現実の鎖への呆れだった。

 

 今日から数えて二日前、(すなわ)一昨日(おととい)。自分達は《GGO》で開催され、ハンニバルとその協力者達に支配される事によって強引に続けられた《スクワッド・ジャム》にて、もう一人の詩乃とも言える存在であるヘカテーを倒した。

 

 自分自身のやった事を罪だと言い張り、詩乃は裁かれるべき悪人だと繰り返した、詩乃と同じ顔、同じ声、同じ記憶を持っていた存在。それはある意味、詩乃の中に巣食う心的外傷後ストレス障害(PTSD)――銃に対するトラウマそのものが実体を持って現れてきたモノとも言えた。

 

 それを倒す事ができれば、もしかしたら詩乃の中に巣食っている宿痾(しゅくあ)を、そいつが作り出している鎖を(めっ)し、彼女を今度こそ苦痛から解放できるのではないかと、彼女を本当に幸福に生きさせる事ができるのではないかと、和人は胸の内で期待していた。

 

 結果、その期待通りにはいかなかった。ヘカテーを消しても、《死銃》事件を終わらせても、詩乃の心は全く救われていない。寧ろヘカテーというもう一人の自分を消し去った事により、詩乃の心は不安定化しているような傾向にあった。

 

 ヘカテーの言っていた事の方が正しかったのではないか。それを否定してしまって良かったのか。そんな気持ちが彼女の中で激しい渦を巻いているのが、先程からずっと見えて仕方がなかった。だからこそ、彼女はいつもより激しく自分を求めたのだろう。少しでもいいから、苦痛から逃れたかったのだ。

 

 その願いを叶える事はできただろう。しかし根本的な問題は解決していない。彼女は依然(いぜん)として苦痛の鎖に囚われてしまったままで、解放には(いた)っていない。朝、目を覚ました彼女がどんな思いをしているかも想像もつかないが、良くない形になっているのは確実だろう。

 

 

「……」

 

 

 不意にリランの顔が頭に浮かんだ。詩乃を強制でもいいからログインさせ、リランの許へ行かせ――(ある)いはリランを強制的でもいいからに詩乃の許へ行かせ――て《力》を使わせて鎮めるか。これまでそうしてきたように。

 

 

(駄目だ)

 

 

 和人は首を横に振って自分の考えを否定する。確かに一定の効果は見られるかもしれないが、それはあくまで応急処置の域を出ない。今の彼女に必要なのは根本的なところの治療であり、表面だけ治そうとしたところで何の意味もないのだ。

 

 それに、これまで詩乃はリランとユピテルによって再三《力》を使われ続けてきているため、ある種の耐性を獲得してしまっているという話もあった。最早(もはや)リラン達の力も使い物にならないと考えるべきだろう。

 

 

「どうすれば……」

 

 

 詩乃を起こさない程度の声で(ひと)()ちた、その時だった。今いるベッドのすぐ下に置いておいた(かばん)の中からバイブ音が聞こえた。スマートフォンが鳴っているらしい。

 

 和人は鞄を手に取り、スマートフォンを取り出す。着信を受けている事を知らせる画面がディスプレイに表示されていた。通話相手には《桐ヶ谷直葉》と書いてある。そこに若干びっくりして、和人は通話開始の操作を行い、スマートフォンを耳の近くに当てた。

 

 

《もしもし、おにいちゃん? こんな時間に掛けちゃって、ごめん》

 

 

 スピーカーから聞こえてきたのは妹の声だった。咄嗟(とっさ)に和人は詩乃の方を見る。深く眠っているとはいえ、あまり大きな音を立てればその眠りを(さまた)げる可能性も十分にある。声量を抑えて話すべきだ。和人はその通りにして直葉に応じる。

 

 

「スグ、そっちはどうなったんだ」

 

《それより、詩乃さんの事を先に教えて。詩乃さん、どうしてる……?》

 

 

 和人は――勿論行為の事は何も言わず――詩乃の状態についてありのまま話した。話が終わると、直葉の声が少しだけか細いものになった。

 

 

《そう、なんだ……詩乃さん、自分で自分を追い詰めてるみたいになって……》

 

「そうなんだ。ヘカテーを倒したのは逆効果だったみたいになってる。俺の方でもなんとかできないかって思って努力はしてるんだが……上手くいっているかどうかはわからない。それで、そっちはどうなんだ?」

 

 

 そう問いかけた直後、直葉は急に声量を上げてきた。

 

 

《それなら、やったよ、おにいちゃん! わかった事があったよ!》

 

「え?」

 

《詩乃さん、本当に何も悪くないよ!!》

 

 

 

 

 

 

         □□□

 

 

 

 朝、目を覚ますと、少し寒気がした。何も着ないで、裸のまま眠っていたのだから、当然だった。なんだか長い夢を見ていたような気がしないでもないが、内容が思い出せない。「夢を見ないで眠れているという事は、とても深く眠れているという、良い事だよ」という愛莉の言葉が不意に蘇った。つまり自分は良い眠り方をしていたという事なのだろう。

 

 起床して早々そんな事を考える頭で、詩乃はじっと同じベッドで寝ている和人を見ていた。何も着ていない裸のまま、寝息を立てている彼は、泥のように眠っているように見える。

 

 いや、自分がそうさせたのだ。自分自身の混乱に呑み込まれないように必死になって彼に頼み込んだところ、彼は本当に自分を混乱から助けてくれたのだから。どこまでも必死になって、助けてくれたのだから。その反動もあって、彼はこうして深く眠っているのだろう。

 

 そんな彼を見つめ続けた十数秒後、その(まぶた)が開かれた。彼がこちらと目を合わせて「おはよう」と言ってきたのに同じく「おはよう」と返したところで、詩乃はようやくベッドから起き上がり、服を着た。

 

 彼に助けてもらったおかげで、昨日の夜には暴れ出そうとする寸前だった気持ちと不安と疑問は眠ってくれているようで、詩乃を苦しめようとはしてこなかった。でも、いつ暴れ出すかわからないので、学校へ行く事も、授業を聞く事も難しいだろう。

 

 気持ちが不安定な時は素直に休むべきだ――愛莉に何度も言われている事を彼/和人に話したところ、「今日は学校を休もう。直葉と明日奈、里香もそうしてる」と言ってきた。

 

 「どうしてそこで直葉と明日奈と里香まで出てくるの、いやそもそもどうして彼女達の事情まで知っているの?」と気になったが、それだけにして、詩乃は学校の教師に連絡を入れて、一日授業を欠席すると伝え、今日一日学校を休む事を決めたのだった。その時には和人もそうしており、今日もずっと一緒に居てくれる事を約束してくれていた。

 

 そういった必要な連絡等を終えた後、二人で朝食づくりに取り掛かった。特に手のかかるようなメニューにせず、目玉焼きとトーストという簡素な取り合わせを二人で作り、二人で食べた。その後だった。和人が急に、

 

 

「アンドリューの店に行こう」

 

 

 と言い出したのは。アンドリュー/エギルは、現実でも《ダイシーカフェ》という名前の喫茶店を営んでいる。そこへ向かう事はこれまでも結構な回数あったものだが、学校を休んでいる今の状況でそこへ向かう理由が詩乃には思い付かなかった。「何のために行くの?」と、和人に尋ねたところ、「スグ達がそこに来るよう、昨日から言っているんだ」という、驚くべき回答が返ってきた。

 

 和人達(いわ)く、今日自分達と同じように学校を休んでいるという明日奈、直葉、里香が来ている。どうしてそんな事になっているのか、理解が追い付いていかなかった。だが、更に和人曰く「彼女達も君を心配していて、顔を見たがっている」という話が出てきた。

 

 確かに《GGO》でのヘカテーとの決戦の後、彼女達とは顔を合わせていなければ、話をしてもいないし、そもそも《GGO》にもログインしていなかった。心配されて当然だ。彼女達には悪い事をしてしまっていた。そう気付いた詩乃は、和人の提案に乗る事にした。

 

 朝食の後片付けを終えて、簡単な身支度をした後、詩乃は和人と共に外に出た。和人が来る時にいつも使っているバイクの後部座席に座り、ヘルメットを着用して、ハンドルを握った和人の胴体に手を廻したところ、バイクは走り出した。

 

 平日の通勤客が使っているであろう車の群れを抜け、コンクリートで固められた高層ビル群を駆け抜けていき、ノスタルジックな雰囲気の(ただよ)う下町へ入って、そんなに時間のたたないうちに、和人の運転するバイクは無事に《ダイシーカフェ》の前に到着した。

 

 二人でバイクから降り、ヘルメットを外してバイクのボックスに収納して、ドアを開けた。からんからんという小さな鐘の音が鳴り、コーヒーの香ばしくて良い匂いが流れ込んできた。

 

 

「あっ、シノのん!」

 

「詩乃さん、おにいちゃん!」

 

 

 間もなくして聞き覚えのある声が耳に飛んできた。目を向けてみれば、和人の言った通り、明日奈、直葉、里香の姿があった。制服ではなく、私服を着用しているのが、学校を休んでいる証拠だった。三人ともわざわざ学校を休んで、ここへやってきているのは、本当の話だった。三人は即座に詩乃の許へと駆け寄ってきて、明日奈が一番最初に声掛けをしてきた。

 

 

「シノのん、心配してたよ」

 

「明日奈……その、ごめん」

 

 

 明日奈に謝ったが、反応を返してきたのは里香の方だった。

 

 

「謝らないでよ。本当はここじゃなくて直接詩乃のところに会いに行けばよかったのに、ここに呼び出すような事になっちゃって、こっちこそごめん」

 

 

 里香は申し訳なさそうな表情をしていた。隣にいる直葉も同じようだったが、その時に詩乃はある事に気が付き、大いに驚かされた。

 

 友人達から見て後ろの方に、もう一人いる。それは(つや)のある黒い長髪をなびかせ、黒い衣服の上から医者のそれにも似た白いコートを着ている、背の高くて大きな胸の女性。愛莉だった。

 

 

「えっ、愛莉先生!?」

 

 

 詩乃が声を掛けた途端、愛莉はびっくりしたようにこちらを見てきた。

 

 

「詩乃! それに和人君も来たのかい」

 

「愛莉先生、どうしてここに? 仕事はどうしたんですか」

 

 

 和人の問いかけに愛莉が応じる。

 

 

「仕事は休んできたさ。昨日の夜中にユピテルから非常用回線で電話がかかってきて、出てみればそれは明日奈でさ。んでもって今日の午前中までにアンドリューさんの店に来てくれなんて頼んできて……非常用回線使うくらいだったから、ただ事じゃないって思ってね。慌ててここまで来たってところだったんだ」

 

 

 どうやら愛莉も自分達と同じような呼ばれ方だったようだ。そしてそれは自分達よりもかなり急であったらしく、彼女は満足に眠れていない状態でここへ来たのだろう。彼女の近くに置いてある、背の高いコップに注がれた真っ黒なアイスコーヒーがその事を物語っていた。事情を把握した詩乃は(こぼ)すように言う。

 

 

「そうだったんですか」

 

「そうだったんだよ。それで三人とも、私達をここに呼んだ理由って何だい。それも、詩乃に深く関係する事って」

 

 

 詩乃は思わず驚いて三人を見た。和人から聞いた話の中に、自分に関係している話があるというのはなかった。そんな詩乃をしっかり目の中に収めて、明日奈は言葉をかけてきた。

 

 

「あのねシノのん。わたしと直葉ちゃんと里香で昨日……市に行ってきたの」

 

「!!」

 

 

 詩乃は飛びそうなくらいに驚いてしまった。間もなく脳内に痺れが来たが、思考は高速で動いていた。今、明日奈が口にした名前は、自分が小学校を卒業するまで暮らしていた街の名前であり、母と祖父と祖母のいる場所だった。

 

 和人に、皆に紹介するのは嫌だった場所であり、家族以外の存在全てを忘れてしまいたい場所。教えた覚えもないのに、どうして彼女達はそこへ行く事ができたというのか。その疑問に答えたのは直葉だった。

 

 

「ユピテル君とリランが、詩乃さんが巻き込まれた事件の情報を探り当てて、場所がどこだったとか、何年だったかを教えてくれたんです。それであたしと明日奈さんと里香さんの三人でそこに行って、詩乃さんが事件に巻き込まれた銀行に行って……ある人の連絡先を教えてほしいって、お願いしてきたんです」

 

「ある人……? 連絡先……?」

 

 

 義妹――まだそうなってはいないけれども、気分的にはもうそうなっている――の視線の先にいたのは和人だった。詩乃が顔を向けたところで、直葉とバトンタッチするように和人が告げた。

 

 

「昨日、詩乃が寝た後にスグからその連絡があったんだ。そこでわかったんだよ。詩乃はまだ、会うべき人に会ってないし、聞くべき言葉を聞いていなかったんだって……」

 

 

 会うべき人。聞くべき言葉――何の予想も見当も付かない。会うべき人は誰の事を指していて、聞くべき言葉は何の事を指しているのか。頭の中が空転を続けているようだった。そんな詩乃の肩を、和人は支えるようにして手を当ててくれていた。

 

 間もなく、里香が店の奥へと歩いていき、一つのドアを開けた。《Private》と書かれている札の下がっているドアの奥から二つの人影が姿を見せてきた。

 

 それは男女だった。男性の方は愛莉よりも背が低く、眼鏡をかけていて、落ち着いた服装をしていて、優しい性格をしているのがわかる雰囲気の人だった。そして女性の方はセミロングの髪の毛で、化粧は薄目であり、男性と同様に落ち着いた服装をしている。どちらも三十歳くらいだろうか。

 

 何にしても寄り添い合っているような雰囲気があるので、夫婦である事には間違いなさそうだ。それを更に裏付ける小さな足音が続いてくる。てけてけ、とことこという擬音が合いそうな音を立てながら、二人の間から小学校に入る前くらいの歳の女の子がやってきたのだ。顔立ちが女性の方に似ているが、どことなく男性が持っている特徴も出ているようにも見える。この()はこの男女の間に産まれた子供で間違いないようだ。どこにでも居そうな三人家族である。

 

 

「この人達が、詩乃の会うべき人達なのかい」

 

 

 愛莉の問いかけは詩乃が今まさに思っていた事だった。明日奈、直葉、里香、和人の四人は、自分には会うべき人がいて、その人から聞くべき言葉があると言っていた。この人達がそうなのだとしても、首を傾げるしかない。詩乃の記憶の中にこの人達と思われるモノは存在していないからだ。

 

 こんな見た事もないような人達が、会うべき人とはどういう事なのか――そう思っていた矢先、女性の方が詩乃へ声を掛けてきた。

 

 

「あなたが……朝田、詩乃さんですか……?」

 

「え? えぇ、はい……」

 

 

 思わず咄嗟に、その問いかけに答えた。すると、男性も女性も驚いたような顔になって、やがてどちらも泣き笑いのような表情を浮かべた。まるで会いたい人に会えない日々が続いた後に、ようやく会えた瞬間を見ているような表情だった。

 

 その顔を見たその時、詩乃は頭の片隅で薄らと光るものがある事に気が付いた。この人達に対する記憶は何もないはずだが、なんだか引っ掛かるものがあって仕方がない。そんな気がしてならなかった。直後、男性が答えるように言う。

 

 

「初めまして、大澤(おおさわ)陽介(ようすけ)と申します。こっちは妻の大澤祥恵(さちえ)で、この子は瑞恵(みずえ)。瑞恵はついこの前四歳になったばっかりです」

 

 

 男性は陽介。女性は祥恵。娘は瑞恵。そう聞かされても、やはり記憶にこの人達の存在を確認する事はできなかった。完全に初対面。なのに、頭の片隅では光が薄ら(またた)き続けていた。

 

 陽介に続くように、祥恵が言葉を紡いでくる。

 

 

「私達夫婦が東京に越してきたのは、この子が産まれてからです。それまでは……市の……町の真王(しんおう)銀行(ぎんこう)で働いていました」

 

「あっ……」

 

 

 思わず声が漏れてしまった。祥恵の言った場所は、あの事件の現場となった銀行だ。五年前に詩乃が母親と共に訪れ、銀行強盗に襲われ、宿痾に取り憑かれる事になったあの場所。そういえばあの事件の時、銀行強盗は窓口にいた男性を撃ち、次にカウンターの奥にいた女性と男性のどちらかか、詩乃の母を撃とうとした。その時詩乃が飛び付き、拳銃を奪い取り、そして銀行強盗を撃ち殺したのだった。

 

 そこでようやく、記憶の中で光っているモノの正体が(あらわ)になった。そうだ、この二人はあの時狙われそうになっていた銀行員の二人だ。明日奈、直葉、里香、和人の四人、リランとユピテルの二人は、当時の事件の詳細な場所と銀行員の事を調べ、当時あの場に居合わせていた銀行員が今どこにいるかを聞き出し、まさにその人達であるこの二人を見つけ出してここまで連れてきた。そういう事なのだろう。

 

 そこまでわかったところで、祥恵が急に目尻に涙を(にじ)ませてきた。

 

 

「ごめんなさい、ごめんなさいね、詩乃さん……」

 

 

 詩乃は思わず言葉が出せなくなった。どうして謝るの。あなた達は何かしたの。疑問を抱く詩乃へ向け、陽介が続けた。よく見れば陽介も泣きそうな顔になっている。

 

 

「本当にごめんなさい、詩乃さん。僕達はもっと早くあなたにお会いしないといけなかったというのに、僕達はあの事件の事を一刻も早く忘れたいと思っていて……あなたの事をまるで気にかけないでいて……そのまま転勤が決まった事を良い事に東京へ逃げて……あなたがあの事でどれだけ苦しんでいたかなんて、少しでも想像すればわかった事だというのに……お礼すらも言わないで、逃げてしまっていて……」

 

 

 二人の目尻に溜まっていた涙がついに流れ出した。その様子を見て心配に思ったのか、瑞恵が二人をきょろきょろと見ていた。気付いた二人のうち、祥恵が瑞恵の頭を撫で、言葉を続けた。

 

 

「あの事件の日に、私のおなかに、この子がいました。だから詩乃さん、あなたは私と夫の命だけでなく、この子の命も救ってくださったんです。本当に……本当にありがとう……ありがとうっ……」

 

「命を、救った……?」

 

 

 詩乃の零した言葉に、陽介が頷いた。

 

 

「そうです……あなたに僕達は、瑞恵は救われたんです。何度でも言います。本当にありがとう、詩乃さん……あなたは僕達の命の恩人です」

 

 

 あなたは命の恩人です。

 

 陽介の言葉が詩乃の頭の中でリフレインしていた。自分は十一歳の時、拳銃を握って一人の命を奪った。それだけが事実であり、それは罪だと思ってきた。だが、この人達は――。

 

 

「しのおねえさん」

 

 

 その時、不意に足元から声がした。いつの間にか瑞恵が詩乃の足元にまで移動してきて、こちらを見上げていた。祥恵が編んだであろう三つ編みはつやつやと輝き、頬はふっくらとしていて、その大きな瞳には穢れの一切を持たない光が(たた)えられていた。

 

 そんな瑞恵は自身の服の上からかけているポシェットに手をやると、ごそごそと中から何かを取り出した。四つ折りになっている画用紙だ。それを不慣れな手つきで広げ、詩乃に差し出してくる。受け取って中を確認した。

 

 クレヨンで描いたと思わしき絵が描かれていた。中央に描かれているのは三つ編みの女の子。恐らく瑞恵自身だろう。その左側には眼鏡をした男性が、右側にはにこに事した笑顔の女性が描かれている。それぞれ陽介と祥恵で間違いない。その三人家族の描かれた絵の一番上に、覚えたばかりの平仮名で《しのおねえさんへ》と記されていた。

 

 詩乃がその絵を確認するなり、瑞恵は大きく息を吸い、たどたどしい声で一言一句はっきりと言った。

 

 

「しのおねえさん、ママとパパと、みずえを、たすけてくれて、ありがとう」

 

 

 視界が(ゆが)んだ。あらゆるものが虹色に光って、滲んで、ぼやけている。それが自分の流している涙が原因だと気付くのに時間がかかった。ぽろぽろと涙が出て止まらないうえ、次々と画用紙へと落ちていく。そんな詩乃を見つめた瑞恵は、更に詩乃へ近付き、その小さくて柔らかい手を伸ばし――しっかりと握り締め、にっこりと笑った。

 

 本当にありがとうと言ってくれている笑みだった。

 

 それを見た途端、(せき)を切ったように涙が出てきて、止まらなくなった。とても暖かくて心地の良い涙が、止まる事なく流れていた。

 

 

「詩乃」

 

 

 涙で前が見えなくなりそうなまま、詩乃は声のする方へ振り向いた。ややぼやけた風景の中に愛莉がいた。これまでずっと診てきてくれていた恩師が、歩み寄ってきている。その表情が泣きそうになっているものであるというのが、ぼやけていてもわかった。瑞恵もそれがわかったらしく、手を離す。

 

 

「……そうだったでしょう。あなたは罪を犯したんじゃない。何の罪もない人達を、今まさにここで生きている瑞恵ちゃんの未来を守ろうと戦ったのよ。あなたがいなかったら、祥恵さんも、陽介さんもこの場にいなかったし、瑞恵ちゃんが産まれてくる事もなかった」

 

 

 愛莉は詩乃のすぐ目の前までやってきた。ようやく顔がはっきり見えるようになる。愛莉は――泣いていた。

 

 

「あなたはずっとそうした事を罪だと思っていた。そうして自分をずっと責め続けていたわ。でもね、そうじゃないのよ。何度でも言うわ。あなたはこの人達の命を、未来を守ったのよ。この人達だけじゃない。あの事件の時に、あの銀行に居た全員が、あなたに救われた人達なのよ。だからね、詩乃……」

 

 

 愛莉はその両手をゆっくりと伸ばしてきて、詩乃の背に廻し、ふんわりと抱きすくめてきた。何度入ったかわからない、暖かくて心地良い胸の中に再び詩乃は包み込まれる。

 

 

「もういいのよ。もう自分を責めなくてもいいの。あなたには自分自身を(ゆる)す権利がある。今すぐそれを受け入れるのは難しくても……どうか、あなたに救われた人がいる事は、瑞恵ちゃんっていう一人の娘の未来を守れた事だけは、どうか、ちゃんと受け入れて」

 

 

 その言葉を聞いた途端、瑞恵の言葉、その両親の言葉が不意に蘇ってきて、詩乃の胸中に存在する泉へ一粒の(しずく)となって落ちた。暗く濁っていた胸の中の泉が、一気に()み渡っていく。長く濁っていた心の中が浄化されていき、苦しさがなくなっていった。あれだけの苦痛を齎していた鎖が弾け飛び、疑問と不安が一体化する事で誕生していた獣が、安らかな顔をして消えていった。

 

 私が罪を犯したという事実はあるのかもしれない。けれども、その手で守れた命もあった。繋ぐ事のできた未来もあったのだ。私はただ、罪を犯したのではなかった。血に塗れた手で――小さな命の、その未来を守る事ができていたのだ。

 

 それは何度も母に、医者に、そして愛莉に言われていた事であったが、今ようやく、その言葉が心へ入ってきてくれた。

 

 私は既に裁かれていて、そして赦されていた。

 

 何の罪も課せられていない。

 

 幸せになっていい権利は、ちゃんと与えられていたのだ。

 

 そうわかった途端、心と胸の中が一気に暖かくなり、その暖かさはどんどん上を目指して昇っていく。そして目元にまで来ると、大粒の涙になって出てきた。間もなくして激しい嗚咽(おえつ)が、大声が出そうになる。

 

 だが、それを抑えたものがあった。愛莉の抱き締める力と、震える声だった。

 

 

「……ごめんなさい、詩乃。わたしはあなたをずっと診てきた。あなたを自責から、苦しみから救ってあげなきゃと思って、いいえ、救ってあげたいと思って、ずっと治療をしてきたつもりだった。そのために色々してあげたつもりだった。

 けど、結局つもりでしかなかった。わたしはあなたの事を治す事なんてできてなかった。メディキュボイドも使ったけれど、それで《SAO》に巻き込ませる事になって、あなたに与えるべきでない苦痛を与えるような事をした。

 それだけじゃないわ。あなたが苦しむ事になった事件のその場にいたわけでもないくせに、あなたの事を知ったような事ばっかり言って……結局あなたを追い詰めていた」

 

 

 愛莉は懺悔(ざんげ)をしてきていた。詩乃は呆気(あっけ)に取られたようになっていたが、愛莉の声を聞くのに集中していた。

 

 

「あなたと三年間近く一緒に居たのに、診ていたのに、わたしは結局あなたを治してあげられなかった。あなたに救われた人達がいるっていう大切な事に気が付かないでいた。今まで余計に苦しめて、余計に辛い思いをさせてきて、本当にごめんなさい……ごめんなさい、詩乃…………」

 

 

 愛莉は今にも大声で泣き出してしまいそうな声になっていた。その声で詩乃に謝っている。これまでずっと一緒に過ごしてきて、治療をしてくれていた愛莉が、こんなふうになったのを見るのは初めてだった。そして、ここまで謝られている事もまた、初めての事だった。そんな愛莉の言葉を、詩乃は頭の中でリフレインさせる。

 

 

 愛莉の治療が良くないものだったから、自分はずっと苦しんでいた?

 

 愛莉の治療は、最初から最後まで余計な事だった?

 

 

 その問いかけに対する答えを、詩乃は即座に出せた。

 

 

「……愛莉先生のおかげです」

 

「え?」

 

 

 愛莉のきょとんとした声が聞こえた。詩乃は続けた。

 

 

「愛莉先生が私を一生懸命診てくれたおかげで、私は人を信じようと思えるようになったんです。愛莉先生があの時あの病院で話を聞いてくれて、治そうとしてくれて……一緒に居てくれたから、話を聞いてくれたから、私は殻を破って外に出る事ができたんです。

 それに、愛莉先生がメディキュボイドを使わせてくれたおかげで……確かに《SAO》には巻き込まれましたけど、そこで本当の友達と……誰よりも大切で、大好きな和人と出会えたんです。今日ここで祥恵さん、陽介さん、瑞恵ちゃんと出会えて、話が聞けたのも、愛莉先生が私を治そうとしてくれたのが切っ掛けなんです」

 

 

 気が付いた時、詩乃は愛莉の背中に手を伸ばし、抱き締め返していた。そのまま言葉を続ける。

 

 

「愛莉先生が私を治そうとしてくれたから、私を診てくれたから……私はここまで来る事ができたんです。この人達に、皆に、和人に出会えたんです。だから……」

 

 

 詩乃は愛莉の胸から顔を離し、見上げた。すっかり見慣れた赤茶色の瞳に自身の顔を映し出しながら、涙でぐちゃぐちゃになっている顔で、精一杯の笑みを浮かべた。

 

 

「あの時から私を治そうとしてくれて、診てくれて……私と一緒に居てくれて、本当にありがとうございました。大好きです、愛莉先生」

 

 

 ようやく、愛莉への感謝の言葉を届ける事ができた。それを受け取った愛莉は、ぼろぼろと涙を零して呆然としたような顔になっていたが、やがて見た事もないような満面の笑みを浮かべ、返してきた。

 

 

「……はい! どういたしまして!」

 

 

 その言葉の後に抱き締めてきた愛莉の胸の中に、詩乃は再び包み込まれた。その中で詩乃は、確かに思っていた。

 

 

 私は罪人じゃなかった。

 

 

 私は確かに、人の命を奪ったけれども、同時にここにいる命を、未来を救えていた。その事実を受け入れるのに、そんなに時間はかからないだろう。

 

 

 何故なら、私には大切な友人が、仲間が、命を救った人達が、

 

 

 大好きな愛莉先生が、ユイが、

 

 

 誰よりも愛おしい和人がいるのだから。

 

 

 

 

          





 ――原作との相違点――

・祥恵が郵便局員から銀行員になっている。

・陽介(瑞恵の父親、祥恵の夫)が出てきている。

・詩乃の故郷に向かったのが直葉、明日奈、里香の三人になっている。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。