キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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15:冷たい機械と暖かい生命

 

 

 

          □□□

 

 

 何とか遠くまで逃げてくる事ができたようだ。キリトは洞窟の外を見ながらそう思っていた。時刻は夜に差し掛かろうとしており、常に黄昏に包み込まれている空に闇が満ちようとしている。そのゆっくりと迫ってきている暗闇もここまで逃げてくるための助力となっていたのだろう。

 

 《GGO》の自然環境は全くと言っていいほど役に立たず、(むし)ろ障害となる事ばかりだったのだが、今回ばかりは役に立ってくれた。

 

 

「シノンねえちゃん……」

 

「ユピテル、集中しろ。事態が重いのはお前が一番よくわかっているはずだ」

 

 

 すぐ隣から聞こえた声にキリトは振り向き、自分の身体にかかっている重さを再認識した。今、キリトはシノンを胸元に寄り掛からせていた。彼女は身体を縮こまらせて、キリトの胸の前でぎゅうと拳を握り締めている状態だった。

 

 そんな彼女の(うなじ)に《リンドガルム》から降りたリラン、共にここまで逃げてきたユピテルが手を当てていた。そのうちのユピテルが非常に心配そうな表情を浮かべてシノンを見つめている。一方でリランは(けわ)しい表情をしていたが、それがユピテル同様の心配から来ているモノであるというのがキリトはすぐにわかった。

 

 

「……シノン」

 

 

 キリトは寄り掛かってきているシノンに声を掛けたが、応答はなかった。変化と言えば、その時だけシノンの握られている(こぶし)がより強く握り締められ、身体の縮こまり具合が強くなった程度だった。声が聞こえているのは確かだが、肝心な返事が来そうになかった。

 

 無理もないだろう。見せられたモノがモノだったのだから。現にキリト自身もその時の光景が頭の中で延々とループ再生されてしまって止まらなくなっている。荒野の一角についに姿を現した《死銃(デス・ガン)》。

 

 その正体は《電脳生命体》となって(よみがえ)った《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の幹部達であり、それらがプレイヤー達に何らかの手段を取る事でくも膜下出血を起こさせ、そのまま死に(いた)らしめていた。それが《GGO》で勃発している《死銃》事件の正体であった。

 

 それだけでも十分すぎる問題だというのに、現実はその遥か上を行っていた。《死銃》という殺人犯グループの中に混ざっていた《ヘカテー》というプレイヤー。そいつは顔がシノンのそれと完全に同じものであるどころか、シノンの体験した出来事を全て的確に話す少女だった。何らかの通常ではありえない事が起きてシノンから分離したもう一人のシノンというべき存在が、《死銃》の中にいて、尚且(なおか)つ主犯格であった。

 

 そんな光景を見せられたこちら側の者達は、ほぼ全員が混乱した。目の前に起きている光景が現実のそれなのかと疑いもした。他の者達にその確認は取れていないものの、少なくともキリトはそう思えていた。

 

 その、周りの者達が混乱しきってしまうような光景と真実は、シノンにこれ以上ないくらいの負荷の刃となって襲い掛かった。何故か自分がもう一人いて、そいつが《死銃》の一人をやっていて、多くのプレイヤー達を勝手な思想の許、殺してきている。

 

 それをヘカテーはシノンの罪であると言っていた。かつてシノン/詩乃は銀行強盗を射殺したが、それは正当防衛であり、一切の罪に問われるものではない。だが詩乃本人はそれをなかなか受け入れられるような状態ではなかった。やはり自分のやった事は罪であると思い込みそうになっていた。

 

 そこにヘカテーは拍車をかけた。ヘカテーは自身がシノンである事を告げた後に、更なる殺人行為を重ね、それはシノンの罪であると言ったのだ。シノンが罪を犯しているにも関わらず裁かれずにいるから、無事に裁きを下されるように、更なる殺人を犯しているのだと言った。

 

 そしてそれを聞いた《笑う棺桶》の幹部達はシノンに向けて「お前は俺達の側にいる」と責め立てた。そこからシノンは喋っていない。ここで既にシノンの精神は限界付近にまで行ってしまったのだろう。もう少し何かあれば、精神状態不安定化による回線切断や強制ログアウトに繋がっていただろうが、そうはならなかった。

 

 《笑う棺桶》の者達とヘカテーがシノンを容赦なく責めていた途中でユピテルを載せたピトフーイ達が乱入してきて、煙幕を張ってくれたのだ。その隙を突いてリランがキリトとシノンを回収、更にピトフーイのゴグマゴグの背中からリランの背中へとユピテルが飛び移ってきて、シノンへ力を使い始めた。更にシノンとキリトを守ろうとしてくれたシュピーゲルも合流してリランの背中に搭乗し、持っている銃火器で《死銃》への目くらましを仕掛けてくれた。

 

 リランはキリト、シノン、ユピテル、シュピーゲルの四人を載せてその場を離脱し、この洞窟のある一帯まで逃げたのだった。そして洞窟に身を隠すなりリランは《リンドガルム》から降り、ユピテルと一緒にシノンへ力を使い始め、現在に至っている。

 

 リランとユピテルの二人が力を使っているから、後は大丈夫だ――キリトは当初そう思っていたのだが、今のシノンは二人に力を使われているはずなのに、容体が回復する気配がほとんどない。身体から伝わってくる震えも止まらないし、こちらの声に答えようともしてくれない。

 

 リランとユピテルの力を使えば、ほとんどそういった状態から回復させられているはずなのに。現状をキリトは信じ難く思えていた。ふとユピテルの方を見てみると、彼は力が入っているような表情を浮かべつつシノンを見つめているのがわかった。

 

 そのユピテルへとキリトは声を掛ける。

 

 

「ユピテル、シノンは」

 

 

 余裕がなくなっているかと思われていたユピテルだが、意外にも返事をしてきた。

 

 

「……こんな事がある事を、初めて知りました。シノンねえちゃん、ぼく達の力が効きにくくなっているみたいです」

 

「え? お前達の力が効かない!?」

 

 

 キリトは思わず驚いていた。対象の人間が付けているVR機器の内部に干渉し、信号を操作して脳内物質の動きなどを正常化させて、結果的に精神状態を良い方向へ導く力を持っているのがリランとユピテルの二人である。その力にキリトも何度も助けられてきたし、キリトの周りの皆だってそうだった。

 

 特にシノンはPTSDやそれに関連した事象によって精神が不安定化した際に二人の力を使ってもらう事で、大事に至らずに済んでいた。だからこそキリトは二人の力に大きな信頼を寄せていたのだが、それが効かなくなっているだって?

 

 キリトが尋ねるよりも先に、リランが答えてきた。かなり険しい表情になっている。

 

 

「こうして(うなじ)に接し続ける事で、力が効いているかどうかわかるようになっているのだが、今のシノンは異様なまでに力の効きが悪くなっている。どうやら、シノンの中に我らの力へ対する《耐性》ができてしまっているらしい」

 

「同じ薬を何度も服用し続けると、その薬の効き目が悪くなるのと同じです。最初は少ない量でも大きな効果が感じられても、それを続ける事で投与の量を増やさないと効果が出てこなくなる……身体がその薬への抵抗性を獲得してしまうんです。

 シノンねえちゃんはぼくが知っている人の中で、最もぼく達の力を多く使われてきました。ぼく達の力による治療をあまりにも多く受けていたせいで、シノンねえちゃんはぼく達の力に抵抗するようになってしまっているんです」

 

 

 ユピテルの説明でキリトはごくりと唾を呑み込んだ。シノンは何度もリランとユピテルの力に救われてきている――それが真に何を意味しているのかわかった気がした。シノンは耐性を得てしまうほどに、リランとユピテルの力を多く使われてきてしまっていたのだ。

 

 リランとユピテルの弱点でもある《嘘を吐く事ができない》という特徴から考えて、シノンが《MHHP》の力に対する耐性を得てしまっているというのは、前代未聞の事態なのだろう。そしてそれは、もうシノンに対しては《MHHP》の力の効果がほとんど期待できないという事だ。今ここまでの事態になっているというのに、頼みの綱は切られてしまっていた。

 

 そうなったとしてもここにイリスがいればどうにかできたかもしれないが、生憎彼女は今ログアウトしている。彼女の子供達及び生き返らせたサチやマキが《死銃》に狙われた際にどのような不具合が出るか定かではなく、下手すればそのまま修復不可能なまでに破壊されてしまう恐れもある。彼女達にそういった事象を起こらせないために、イリスは付きっ切りでモニタに当たっているのだった。

 

 これまで打ってきている手がほとんど塞がってしまっている事に気が付き、キリトは冷や汗を背中に流していた。

 

 

「そんな……どうにかならないのか」

 

「ただ、決して力が完全に効かなくなっているわけではありません。シノンねえちゃんの精神状態と脳内物質に、最適化への動きが感じられています。速度はこれまでよりも遅いですけど……」

 

 

 ユピテルが付け加えるように言ってきたその直後に、シノンの首元が若干の動きを見せた。間もなくして小さな小さな声が聞こえてきた。

 

 

「……キリト……」

 

「シノン!」

 

 

 キリトは思わず大声で答えてしまった。シュピーゲルが外で見張りをしてくれているけれども、大きな音を立てれば自分達の居場所が《死銃》達に、ヘカテーにばれてしまう。だから音はなるべく小さくと思っていたが、やはりシノンからの応答には大声で反応してしまった。

 

 それにシノンも耳元で大声を出されているのだから、嫌な気持ちになっている事だろう。ただでさえ嫌な気持ちを通り越した感情でいっぱいになっているというのに。キリトは自分の失敗を胸中で悔いながら、シノンへ静かに声掛けを返した。

 

 

「……シノン」

 

「キリト……私は、どっちなの」

 

「え?」

 

 

 キリトは目を丸くした。徐々に表情が強張(こわば)っていくのを感じる。シノンの顔が恐れと不安でいっぱいになりかけているようなものになっていたからだ。その表情のままシノンは問いかけてくる。

 

 

「私は本当に私なの。本当はヘカテーの方が本物だったりするんじゃないの。罪を認めてるヘカテーが本当の私で……いつまでも罪を認めようとしないで、逃げてばかりいる私は……私じゃなくて……」

 

 

 キリトは「なっ」と言い出しそうになった。すぐさまシノンの現状が理解できるようになる。シノンはヘカテーという自分そっくりの不気味な存在に出会った事により、自分自身という物がわからなくなっているのだ。それは全てヘカテーがシノンの事を全て語り尽くし、尚且つシノンにできていない事をできていると主張してきたからだろう。

 

 今ここに居るシノンが本物かどうか。その答えなどすぐに出す事ができる。キリトはその自信が確かにあった。だが、それを言い出す事はできなかった。ここにいるシノンが本物であると主張するという事は、それはつまり、シノンが弱い少女であるという事を自分も、彼女自身にも認めさせる事になってしまうからだ。

 

 自分の知る詩乃は、悪く言えば「自分自身のトラウマを克服する事ができないでいる弱い少女である」という事を、容赦なく彼女に突き付ける事――それが今キリトが胸の内で思っている事を伝えるという事だった。

 

 

「キリト、ううん、和人、教えてよ。私はどっちなの。私は本当に私なの……?」

 

「君は……」

 

 

 本当の名前で呼ばれたキリト/和人は答えを返そうとするが、やはり出せなかった。彼女の望んでいる答えは、きっと自分が思っている事だ。だがそれを言われるという事はつまり――。

 

 

「――詩乃」

 

 

 答えに詰まり続けるキリトを差し置いて、シノンへと答える声があった。今、ユピテルと一緒にシノンの項に手を添えて治療を続けているリランだった。まさかリランが言ってくるとは思わず、キリトはシノンよりもリランに目を向けた。

 

 直後、当然のようにシノンが振り返ってリランへ向き直り、リランの手が項から離れそうになったが、リランはシノンと共に動く事によって適切な位置を保った。

 

 

「……多分、こんな事を言ったところであなたを納得させる事なんてできないかもしれない。知ったような事を言っているだけになるかもしれない。でも、これだけは言わせてほしい」

 

 

 キリトは思わず目を見開いた。リランが少女らしい喋り方と声色になっている。それはつまり、彼女は今()に戻っているという事だ。普段からそうではあるものの、本当に心のあるがままに言いたい事を言う時、伝えたい事を伝える時には、リランは素――マーテルという本来の姿を取り戻して伝える。その時は目つきが普段のリランのそれではない、より穏やかで健気なものとなるのだが、今のリランの目つきはまさしくそれになっていた。

 

 そんな目でシノンをしかと見つめ、リランは口を開いた。

 

 

「わたしの知っている詩乃は、今わたしの目の前にいる詩乃だよ。詩乃はあなたで、ヘカテーは詩乃じゃないよ。あいつこそが、本物の詩乃じゃない癖に本物みたいに振舞ってるだけの存在だよ」

 

「リラン……それ、本当に……?」

 

 

 不安を隠せないでいるシノンに、リランは深く頷いた。

 

 

「だってわたし、ずっと詩乃の事見てきてるもん。あなたがどういう人なのか知ってる。あなたがどれだけ苦しんで来たか、あなたがどういう思いをしてきてるのか……そりゃあ、いつも見ていたっていうわけじゃないし……キリトみたいな恋人……でもないから、わからないところも沢山あるけれど、それでも三年近くは一緒に過ごして来てるから、わかるんだ」

 

 

 確かにリランはシノンと出会うほんの一日前に自分と出会い、そして《ビーストテイマー》と《使い魔》の関係となった。その翌日からシノンが一緒にいるようになり、三人一緒に暮らすようになった。

 

 それから《SAO》をクリアして《ALO》に行った後も、《SA:O》に行った後も、この《GGO》に来てからも自分達三人は基本的に一緒に居る。リランの中に蓄積されているシノンへの知識や理解も相当大きなものになっているのは違いなかった。

 

 流石に自分やイリスよりかは劣るかもしれないが、それでも十分すぎる量があるだろう。シノン/朝田詩乃という少女がどんな人なのかの真実がリランの中にはある。

 

 それをリランは何の躊躇(ためら)いもなく話した。

 

 

「本当の詩乃は、自分のやった事にちゃんと罪悪感を持って、それで苦しんでいる方の、あなただよ。これだけは何を言われてもわたしは曲げたりしない。わたし達が知っている詩乃はあなた一人だけだよ、詩乃」

 

 

 そう言ってリランは口を閉ざして微笑んだ。キリトが言いたかった事、しかし言えずにいた事をリランにほとんど言われてしまったようなものだった。だからこそキリトの中には焦りが生まれていた。ここにいる詩乃が詩乃本人で間違いないと告げるという事は、つまり――。

 

 今まさにキリトが胸中で思ったその時、シノンが答えた。

 

 

「……じゃあ、私はやっぱり、いつまでも逃げてて……いつまでも自分の罪と向き合う事ができないでいる……の……?」

 

 

 やはり予想通りの反応だった。勿論それにキリトは何も言えなかった。リランの言った事に賛同しているけれども、それを口にするという事はできない。詩乃に「お前は弱い女だ」と言う事などできやしないのだ。相変わらずキリトは喉で言葉を詰まらせるばかりだった。

 

 だが、そこでまたしても違う声が聞こえてきた。発生源はユピテルだった。

 

 

「――詩乃ねえちゃんは弱い人です」

 

「え?」

 

 

 ユピテルにその場の皆で向き直った。ユピテルは疲れの蓄積が見えてきているものの、真実を伝える表情を顔に浮かべていた。そしてその口からは、キリトの信じる事のできない言葉が出ていた。その続きを彼は言ってきた。

 

 

「詩乃ねえちゃんは弱い人です。それは間違いない事実です。少なくともぼくはそう思いますよ。詩乃ねえちゃんもご自身をそう言っておられますが、その通りです。詩乃ねえちゃんの言っている事に間違いはありません」

 

 

 キリトは目を見開いた。胸の内から怒りが湧いてくる。

 

 ユピテル、お前は何を言っている。お前は女性の心を癒すために産まれたんじゃなかったのか。そんなお前が言っていい事ではないだろう。キリトが怒り出そうとした次の瞬間、ユピテルは続きを話した。

 

 

「――だから、詩乃ねえちゃんは生命(いのち)です。正しい心を持った暖かい生命です。正しい心を持っている生命だからこそ、今のようにご自身の行いに苦しむくらいに弱いんです」

 

 

 キリトは思わず目を丸くした。そのキリトにユピテルは顔を合わせてくる。

 

 

「和人にいちゃん。和人にいちゃんは詩乃ねえちゃんが好きなんですよね。それはどうしてですか。和人にいちゃんはどうして詩乃ねえちゃんが好きなんですか」

 

「え?」

 

 

 ユピテルの吹っ掛けにキリトは更に目を丸くする。ユピテルは即座に反応して、もう一度問うてきた。

 

 

「和人にいちゃんは詩乃ねえちゃんが好きなのでしょう。お二人は恋人同士で、もう夫婦の関係だと言ってもいいくらいです。ですが、どうしてそうなのでしょうか。和人にいちゃんは詩乃ねえちゃんがどうして好きなのですか」

 

 

 完全に同じ質問だった。そのため、キリトは即座に答えの導き出しに取り掛かる事ができた。頭の中の図書館(ライブラリ)に入り込んで、シノン/詩乃との記憶の書かれた本を取り出して開く。

 

 どうして自分が詩乃を好きになったのか。

 

 どうして自分が詩乃を愛おしいと思うのか。

 

 その切っ掛けは《SAO》の時に彼女と出会い、しばらく経って、彼女の記憶が取り戻された時だった。彼女が銃で人を殺してしまった事、その事でずっと苦しんでいる事、誰にも頼れずにいたという事――それを聞いてすぐに、キリトは思った。

 

 この人は俺と同じだ。俺と同じ罪を犯し、俺と同じように苦しみ、そして一人だけにされて生きてきた。俺とこの人は似た者同士だ。きっとこの人は俺と同じ苦しみを味わってきたのだろう。

 

 そう思えた直後にキリトは驚きを覚えた。まさか自分以外にもこんな苦しみを味わっている人がいてしまっているなんて。この苦痛を味わうべきなのは自分一人だけで良いというのに。この詩乃までもが同じ苦痛に(さいな)まれているだなんて。それが信じられなかったが、詩乃からの告白を聞いている途中でキリトは思い直した。

 

 この苦痛に苛まれるのは自分一人だけでいい。詩乃までも苛まれる必要なんてない。だから詩乃の苦痛を取り除いてやりたい。そう胸中で思った直後には、詩乃へ対する明確な恋愛感情が生まれていた。そんな感情を抱かせてくれる彼女と一緒に過ごしているうちに、それはどんどん大きくなっていき、最終的に打ち明けた時には、彼女も同じ感情を自分へ向けてくれているというのがわかった。

 

 そこからついに、自分達は恋人同士になり、システム上の夫婦となったのだった。その一帯まで思い出したところで、キリトはその事を口にしようとした。

 

 

「俺は……あ!」

 

 

 キリトは思わず声を上げてはっとした。どうして自分が詩乃を好きになったのか。それは詩乃が自分と同じ苦痛を味わっているとわかったから。その答えと、ユピテルが詩乃へ出した指摘が結び付いた。

 

 あぁそうだ。自分は、詩乃は――。

 

 

「……そうだよ。弱かったからだ」

 

「……!」

 

 

 胸元の詩乃の目が見開かれるのがわかった。キリトはそちらに目を向け、見開かれた彼女の目と向き合うようにした。

 

 

「詩乃が弱かったからだ。詩乃が俺と同じ弱い人だったからだ。俺と同じで弱い人で……守りたくなるような、暖かい生命だったからこそだ」

 

 

 詩乃は自分と同じだった。自分は詩乃と同じだった。詩乃は弱かった。そして自分もまた同じように弱かった。それがわかったのは、果たしてキリトだけだった。肝心な詩乃/シノンは完全にきょとんとしてしまっていた。

 

 

「どういう、意味なの……あなたが弱いって……私も弱いって……?」

 

 

 そこでユピテルが付け加えるように言う。先程よりも柔らかい声色だった。

 

 

「すみません詩乃ねえちゃん。いきなり言われて意味がわからなかったでしょう」

 

 

 シノンはユピテルに向き直った。続けてユピテルが話す。

 

 

「弱くていいんですよ、詩乃ねえちゃん。だって()()なんですから。ヒトは、生命は、()()()()()()なのですから」

 

「弱くて……いい……?」

 

 

 シノンの問いかけにリランが頷いた。

 

 

「詩乃はずっと強盗を殺した事に苦しんできた。あなたはそれを自分が弱いからって言ってたけど、そうじゃない。そもそも苦しくて当然なんだ。あなたは正しい心を持っているのだから。

 正しい心を持っているからこそ、あなたは人を殺してしまったという現実に苦しんでいるんだ。ううん、苦しいって思う事ができているんだよ。それはあなたが本物だって事、ヒトだっていう事なんだよ」

 

 

 リランと交代するようにユピテルが続ける。

 

 

「普通、他人を殺してしまった人はその事に苦しみます。不可抗力でやってしまったならば尚更です。それが当たり前なんです。詩乃ねえちゃんが今も尚トラウマに苦しんでいるのは、詩乃ねえちゃんが弱いからでも、詩乃ねえちゃんが本物ではないからでもありません。苦しいのは、詩乃ねえちゃんがヒトだからです。

 この地球上にいるヒトは全て弱いんです。どんなに強いと言っている人も、そう言い張っているだけで本当は弱いんです。そしてヒトは弱いからこそ支え合い、愛し合い、時に争ったりするんです。もしヒトが本当の意味で強い生き物ならば、支え合う事も、愛し合う事も、争う事さえもやめてしまっています。強いなら、そんな事する必要もないのですから」

 

 

 ユピテルはきょとんとしたままのシノンと目を合わせた。

 

 

「そして、そういった苦しみや弱さを持たないものこそ生命や人間の完全形みたいに言われますけれど、そうじゃありません。もし生命やヒトをそんな形に持っていってしまったなら、それは生命でもヒトでもなくなった、ただの機械です。複製(コピー)貼り付け(ペースト)でいくらでも増やせるし、自分で考えているように見えるけれども、結局は命令された事を繰り返すしかできない、冷たい機械と何も変わりません。ぼくの知っている詩乃ねえちゃんは、そんなヒトじゃありません」

 

 

 ユピテルは一呼吸置いてから、シノンへもう一度言葉を掛けた。

 

 

「詩乃ねえちゃん、お聞きします。あなたは和人にいちゃんが好きですか。もしあなたが本物の詩乃ねえちゃんなのであれば、和人にいちゃんが好きだと思っているはずです」

 

 

 そう言ってユピテルは口を閉じた。やがてシノンは下を向く。その流れをキリトはただ沈黙を持って見ていたが、キリトが思ったより早くシノンは行動を起こしてきた。

 

 

「……リラン、ユピテル、ちょっとの間だけ、向こう向いててもらえる」

 

 

 言われた二人はシノンから手を離し、洞窟の外の方を向いた。その光景にキリトがきょとんとしたその時、シノンは素早くキリトに向き直ったかと思うと、キリトの量頬を両手で包むようにしてから――その顔をぐいっと近付けてきて、その唇をキリトの唇と重ねてきた。

 

 

「……!」

 

 

 思わずキリトは目を見開いた。何度も感じてきた彼女の唇の柔らかさ、温もりが唇に触れてきたかと思うと、一瞬にして全身へと流れ込んでいった。割と最近もやった記憶のあるキスだが、今のそれはひどく久しぶりに、とても心地よく感じられていた。

 

 そこから十数秒程経過した頃に、シノンはゆっくりと顔と唇をキリトから遠ざけていった。目もなくして閉じられていたその(まぶた)が開かれる。翡翠がかった水色のその瞳の端に、薄らと涙が浮かんでいた。

 

 

「私……キリトが、和人が好き。和人の事、本当に愛してる……その気持ち、確かにある……本当に和人が大好きって気持ち、ちゃんと、あるから……!」

 

「詩乃……!」

 

 

 思わず声に力が(こも)った。同時に胸の内に嬉しさがこみ上げてくる。目の前にいる詩乃は、間違いなく詩乃本人だ。それが疑いようのない事実であると認識できたような気がした。

 

 それをいつの間にやら視線を戻して来ていたリランが肯定(こうてい)してきた。

 

 

「そう思っているなら、あなたは間違いなく、わたし達の知ってる詩乃――本物の詩乃だよ」

 

 

 二人でそちらに振り向くと、ユピテルが笑みを浮かべて付け加えてきた。

 

 

「詩乃ねえちゃん、大丈夫です。あなたは本物です。そして――」

 

 

 そこでユピテルは少し顔を険しくした。いよいよ本題に入ろうとしているかのようだ。

 

 

「ヘカテーは、詩乃ねえちゃんを模して作った、ただの機械です。自分は裁かれるべきという言葉を言う事、《GGO》で好成績を残したプレイヤーを殺害する行動を命令されて、ただそれを繰り返しているだけにすぎない、冷たい機械です」

 

 

 そう言われてキリトはまたしてもはっとする。そこにリランが問い掛けてきた。いつものリランの顔に戻って。

 

 

「キリト、お前はあのヘカテーをどう思う。詩乃の記憶を持ち、詩乃の顔をし、詩乃になりすまして殺人を行うただの機械であるあいつを、許しておけるか」

 

 

 その問いへの答えは瞬時に出た。キリトは即座にそれを出す。

 

 

「許しておけるわけないだろ。詩乃は、ここにいる一人だけだ! ヘカテーは詩乃じゃない!!」

 

 

 またしても声に力が入ってしまったが、これだけは大きな声で言わずにいられなかった。ようやく決心がついた。ヘカテーは詩乃ではない。詩乃はここにいる詩乃一人だけ。自分と同じ弱いヒトであり、暖かい生命を持った詩乃ただ一人だけだ。

 

 それを証明するにはどうすれば良いか。そんなのは最早単純明快(たんじゅんめいかい)だ。その事をキリトが言うより前に、リランがシノンへ声掛けをした。

 

 

「……まぁ、今まで我らの言ってきた強い事と、シノンが手に入れたがっている強さは違うものであろう。それを手に入れる方法は我らにもわからぬが、少なくともヘカテーを完全に破壊する事はそこに繋がる(しるべ)となるはずだ」

 

「リラン……」

 

「我らはあいつを、ヘカテーを完全に破壊し、この《死銃》事件を終わらせに行く。顔色が随分よくなったようだが……どうだシノン、共に行くか?」

 

 

 リランの問いに、シノンは強く頷いた。

 

 

「まだ混乱してる部分も、不安な部分もあるけど……私も行く。私が私だって、私が本物だって事を、証明しに行きたい」

 


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