キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 長め。


 


08:想い人は君だけ

          □□□

 

 

 

 次への行動が決まった後、キリトは一人ベッドルームへ向かった。話の途中で抜け出した二人、サチとマキリが休んでいる場所であった。

 

 あの後二人はどうなったのかというのが気になっていたというのもあるが、第一はサチと話がしたかったからだ。あの時消えたとばかり思っていた彼女。自分が守りたかったのに、守れなかった人。結局救う事のできなかった女性。そんなサチが蘇ってきた。まるで夢のような出来事であるが、だからこそ本当に話をしてみたい。

 

 そんな思いに駆られて、キリトはベッドルームの前へ来た。ドアの前に立ち、軽く二回ノックする。中から聞いた事のある声で「どうぞ」という返事が来た。答える代わりにドアを開けて中に入る。そこでやはり、サチが居た。ベッドに座り、妹であるマキリに膝枕をしてやっていた。マキリは帽子を脱ぎ、姉と同色の髪を(さら)して、寝息を立てていた。

 

 

「……キリト」

 

「……サチ」

 

 

 呼び合ったのはほぼ同時だった。キリトは導かれるようにサチの(そば)へ行く。近付くだけで、その温かさを感じられるようになった。間違いなく、サチは生きているとわかったが、それを簡単に受け入れる事はできず、キリトは確認しようとした。

 

 

「……さっきも言ったけれど、やっぱり君なんだな。俺の知ってるサチ……なんだな」

 

 

 サチは(うなづ)きを返してくれた。顔には笑みが浮かんでいる。ちょっと触っただけで崩れてしまいそうな、雪像にも似た(はかな)さと美しさを持つ微笑(ほほえ)み。それは(まぎ)れもなく、自分の知っているサチによる微笑みだった。

 

 

「こっちこそさっきも言ったけれど、また、こうして会えちゃうなんてね……キリトにまた会えるなんて……夢みたいで実感がわかないよ……」

 

「俺もだ。色々現実的じゃないような経験をしてきたつもりだけど、今回はものすごいっていうか、本当に現実じゃないみたいに感じる……」

 

 

 しかし、どんなに否定してもこれは現実だ。《電脳生命体(エヴォルティ・アニマ)》となってサチとマキリは(よみがえ)り、自分の傍に、目の前に確かにいる。その事実だけは揺るぎない。その事を噛み締めながら、キリトはサチの膝元を見た。

 

 来た時と同じようにマキリがサチに膝枕(ひざまくら)をしてもらって眠っている。目元を見てみれば、泣いた跡がくっきりと残っていた。部屋は防音仕様となっているので聞こえなかったが、ずっと泣いていたらしい。

 

 

「マキは、あの後どうなったんだ」

 

「マキはずっと泣いてた。やっぱり《月夜の黒猫団》の皆が死んじゃった事がショックだったみたい。この娘は本当は、すごく優しいから……」

 

 

 かつて自分も所属していて、その壊滅の引き金を引いたギルド、《月夜の黒猫団》。そのギルド名の名付け親、メンバーの中で最強、そして最年少であったというのがこのマキリだった。

 

 そしてマキリは、《月夜の黒猫団》の構成員であった先輩達を《SAO》に誘ったのは自分だと言っていた。マキリはその事に常に責任を持っていたからこそ、誰よりも強くなる事を選び、実際に強くなって、《月夜の黒猫団》の守り人のようになっていた。だからマキリは、結局《月夜の黒猫団》が滅びた事、先輩達が皆死んだ事がこれ以上ないくらいに悲しく、悔しかったのだ。

 

 ……本当は自分こそが《月夜の黒猫団》を滅ぼした原因であり、サチを含めた構成員全員を死亡させ、生き残りのマキリを狂気に(おちい)らせたというのに。マキリは何も悪くない。元はと言えば――。

 

 

「俺のせいなのに。俺があんな事をしたばかりに、《月夜の黒猫団》の皆は、サチは死んだっていうのに……」

 

 

 それは《SA:O》での決戦で終わらせた思いのはずだったのに、またしても口の中から出てきた。未だに残っているようだ。キリトは驚くと同時に納得していた。やはり《月夜の黒猫団》の事は消える事はないのだ。いや、消えさせてはならないという事なのだろう。やはり自分は許される事などないのだ。

 

 

「キリト、忘れた?」

 

「え?」

 

 

 不意にサチに声を掛けられて、キリトは一瞬きょとんとした。

 

 

「《月夜の黒猫団》が全滅したのも、私が一度死んだのも、キリトのせいじゃないよ。《SAO》っていう環境自体が悪かったの。《月夜の黒猫団》はきっと長くは生きていられなかった。いずれ、あぁなってしまったんだろうって思う」

 

 

 キリトは首を横に振って否定する。そんな事があるものか。自分がもっと強くなって、彼女達を守れるようになっていたならば、あんな事にはならなかった。

 

 

「違う。俺がもっと強くなって、皆の事を守れていれば、君もマキも死なずに済んだ。あそこで俺があんな事をしなければ……」

 

 

 今更そんな事を思ったところで、現状は何も変わらない。だから前を見て進むのだ――マキリとの最終決戦の後に心に抱くようにしていたものが突き上げてきて、キリトはぎゅうと拳を握り、自分の(ひたい)に当てた。

 

 これ以上言ったところで何も変わらないのだ。なのにどうしてこんな言葉が出てくるというのだろう。自分への疑問が止まらなくなりそうだった。それにサチへの思いだって、かつてとは――。

 

 

「ううん、きっとそうじゃないと思う。キリトは優しいから、そう思ってくれてるんだと思うけれど、本当はそうならなかったって、私は思うの。キリトが守ってくれたとしても、攻略組の皆が守ってくれたとしても、《月夜の黒猫団》の皆は、私達は生き残る事はできなかった。だって、アインクラッドだと恐ろしい事が何度も起きてたんだから。そうでしょう?」

 

 

 サチの言っている事は否定のしようがない。実際サチ達が死亡した後、厄災と呼べるような出来事が何度もアインクラッドを、自分達攻略組を襲った。その都度(つど)自分達は乗り越えてきたものの、犠牲者が出なかったのは本当に奇跡だと思った。

 

 あの中にもしサチ達《月夜の黒猫団》が居たとしたら――どういうわけなのか、いずれにしても落命していたとしか思えなかった。そんなはずはない。皆で守るようにすればきっとなんとかなったはずだ。そう思い直しても、逆に《月夜の黒猫団》を守ろうとしていた者達が犠牲になったのではないか。そんな結論にばかり辿(たど)り着いてしまった。

 

 

「そんな出来事に耐えられるくらい、私達は強くはなかった。だから、仕方がない事だったんだよ。だからお願いキリト、自分を責めないで。キリトは何も悪くないんだから……」

 

 

 それはサチから何度も言われている事だった。あなたは悪くない。何度そう言ってもらっただろうか。サチは言い飽きている頃だろう。何度も言わせてしまっているのに、未だに自分が悪くないという心境に辿り着けない。そんな自分が不甲斐(ふがい)なく感じてきてしまっていた。

 

 

「……ごめん。俺、何度も君にそう言わせてるな。なのに全然駄目なんだ」

 

 

 サチの顔に微笑みが浮かんだ。まるで自分がこう言ってくる事をわかっていたかのようだ。

 

 

「……ありがとうね、キリト。私達のために、そこまで言ってくれて。でもねキリト、もう大丈夫だよ。皆は助からなかったけれど、私とマキはこうして助かる事ができて、私はキリトの傍に居られるようになった。私とマキはそれだけで十分だよ。これ以上の事なんて何もいらないよ」

 

「……サチ」

 

 

 キリトはか細い声を出していた。そこにサチは答えてくる。

 

 

「ねぇキリト、聞きたい事があるの」

 

「え?」

 

「私、こうして生き返れたわけだけど……これからずっと、キリトの傍に居てもいい? キリトの傍に居て、キリトと一緒に遊んでいって、いい?」

 

 

 それに対する答えはすぐに出てきた。迷わずキリトは頷く。

 

 

「当然じゃないか。寧ろ、サチには近くに居てほしいくらいだよ。でもまぁ、その……」

 

 

 それより先は言えなかった。先程から実感している事があり、これは伝えなければならない事実なのだが、言葉が詰まってしまった。そんなキリトを見ていたサチは、小声で「あ……」と言ってから、口を開いた。

 

 

「……ありがと、キリト。私はそれで十分だから、もう何もいらないよ。これからよろしく、ね」

 

「あぁ、こちらこそ」

 

 

 サチは自分の気持ちが、言いたい事がわかっていたのだろうか。自分の思っている事を顔から読み取ったのだろうか。いずれにしても、サチに思っている事を読み取られたような気がして、キリトは少ない言葉しか返せなかった。

 

 俺の思いは、今は――。

 

 

「それよりキリト」

 

 

 もう一度サチに声を掛けられて、キリトは我に返った。

 

 

「さっきからずっと思ってたけれど……シノンさん、なんだか良くないみたい」

 

 

 その一言でキリトの意識は強くこの場に引っ張られ、固定された。先程まで見ていたモノの記憶が蘇る。

 

 そうだ。サチとマキリを助けると決めた辺りから、シノンの様子はおかしくなっていた。何か強い不安に駆られているかのような、いずれにしても不安定な状態。いつ不調を起こしたとしてもおかしくないとわかるものであった。

 

 サチとマキリを助けたら、彼女に寄り添っていてあげなければと思っていたのに、サチとマキリへ(いだ)いている気持ちに引っ張られてしまって、忘れてしまっていた。いや、除け者にしていたと言っても過言ではない。

 

 一番の想い人であり、守るべき人であり、愛する人であるというのに。

 

 

「あ……!」

 

「シノンさん、キリトに傍に居てもらいたかったはずだよ。だから――」

 

 

 サチに最後まで言われるより先にキリトは高速で回れ右をし、来た道を戻った。最早身体が勝手に動いていた。身体に意志が置いて行かれている。本能的にシノンの(もと)へと向かおうとしているようだった。

 

 

 その身体に意識がついていけたその時には、シノンがいると思わしき部屋のドアの前だった。

 

 その中へ入ろうとしたそこで、声がした。

 

 

「シノンお前、何のつもりだったのだ」

 

 

 リランの声だった。自動ドアがデフォルトになっている《GGO》では珍しい、手動式になっているドアの向こうの部屋には、気配が二つ感じ取れた。リランとシノンが中に居るらしい。

 

 

「何のつもりって、何……」

 

 

 シノンの声が返されてきた。声色はかなり弱弱しい。突かれたくないところを突かれた際の反応のものによく似ていた。いや、実際そうであるようだ。

 

 

「先程のボス戦の時、お前はサチを撃とうとしていたではないか。あれは何のつもりだったのだ」

 

 

 キリトは思わず目を開いた。

 

 シノンがサチを撃とうとしていただって?

 

 何かの聞き間違いかと思ったが、そうではなかった。間もなくシノンの声がする。

 

 

「そんな事……そんな事してない……違う、違うッ!」

 

 

 シノンはリランの言葉を否定していた。キリトもそれに同調したくなる。そんな事は何かの間違いだ。シノンがそんな事をするわけがない。だがリランは事実を告げた。

 

 

「あの時サチのアニマボックス信号に揺らぎがあった。自分の命の危機を感じた時に出るものだ。その事はお前達に教えていなかったが、そういうものがあるのだ。ユピテルとユイとヴァンは戦闘に夢中で気付かなかったみたいだが、我は拾えた。確認しようと思ってそこを見てみたら、お前がサチを撃とうとしていた。弱って動けなくなっているサチを、《ヘカートⅡ》で撃ち抜こうとしていた」

 

 

 シノンの喉の奥から、か細い悲鳴のような声がした。信じたくないが、図星であったらしい。そんなものを見てしまったからこそ、リランもこんなに(けわ)しい声色で詰め寄っているのだ。

 

 

「サチとマキリの状態は今は安定しているが、あの時お前に撃ち抜かれたりしたならば、サチは確実に死んでいた。お前の手で死んだのであれば、それはお前が殺した事に他ならぬ」

 

 

 シノンはサチを殺そうとしていた。リランは確実にそう告げていて、キリトを完全に瞠目させていた。いずれにしても信じがたい話だ。

 

 シノンがサチを殺そうとしていた?

 

 なんのために?

 

 そんな事をして何になる?

 

 いや、そもそもシノンがそんな事をしていたならば、それは――。

 

 キリトの思った事の続きをリランが言った。悲しそうな声だ。

 

 

「……お前はかつて、銃で強盗を撃って殺した。普通、人を撃ち殺せば、その時は罪に課せられるが、お前の場合はそうではない。お前のやった事は正当防衛であり、お前達を殺そうとしてきた強盗への正しい対応だ。罪には値しておらぬ。

 (むし)ろお前が強盗を撃ち殺さなかったならば、お前の母親も、周りの人間達も全員強盗に撃ち殺されていた可能性さえある。だからお前の行動は正しかった。お前は人殺しでも殺人犯でもない。潔白(けっぱく)だと自信を持って言える」

 

 

 それはキリトも再三思ってきた事だった。シノン/詩乃のやった事、強盗を射殺した事は罪ではないし、詩乃があの時の強盗を射殺したおかげで、それ以上犠牲者が出るのを未然に防ぐ事ができたのだ。

 

 

「だが、もしあの時お前がサチを本当に撃ち殺していたならば、最早(もはや)擁護(ようご)はできぬ。相手が《電脳生命体》だとしても関係ない。あの時お前がサチに向かって《ヘカートⅡ》の引き金を引いていたならば、お前は本当の人殺しになるところだったのだぞ」

 

 

 よく聞くとリランの声は震えているのがわかった。リランもシノンの行動が信じられないし、信じたくないのだ。そしてシノンに悪意がなかったと信じたいのだろう。

 

 リランはその声のままシノンに問い詰める。

 

 

「シノン、何故だ。何故お前はあの時サチを撃とうとした。そんな事をして何になったというのだ。お前は何を思ったのだ。何故本当の殺人者になろうとしたのだ。何故、その手を本当に血で染めようとしたというのだ」

 

 

 キリトは完全に沈黙していた。リランと同じように、シノンからの答えを聞くだけの姿勢になる。

 

 シノン、君は何を思っていたんだ。どうしてそんな事をしようと思っていたんだ。教えてくれ。そう思って答えを待ち続ける。

 

 すると、予想より早くシノンの口が開かれた。

 

 

「……怖かった」

 

「怖かった? サチがか? 何故サチを恐れる必要がある? 確かにサチの妹であるマキリはお前を襲い、お前を(ひど)い目に遭わせた張本人だが、サチはそうではないはずだぞ」

 

「違う、違う違う……怖かったの……怖かったんだもん……!」

 

 

 シノンの声に涙が混ざった。リラン達《MHHP》には、周囲のプレイヤーのアミュスフィアやフルダイブマシンにストレス緩和(かんわ)の動きをするように働きかける力がある。その中には思っているけれど話せない事、胸の内に溜まった汚泥を出させるというものもある。それが今働いているようだった。

 

 シノンは震える声で続けた。

 

 

「サチは……キリトにとって大切な人だった……キリトはサチの事でずっと苦しんでた……そのくらいキリトにとってサチは大事で、大切な人だった。キリトが、恋してた人だった」

 

「……確かにそうだな。我があいつのところに行ったのは、あいつがサチの事で苦しみ続け、それが頂点に達しそうになっていたからだった。そのくらいあいつにとってサチは大切な存在であったのは間違いない」

 

「そのサチが生き返ってきたのを見た時、怖くなった……サチはキリトが好きな人だった……だから、サチが生き返ってきたら、キリトはまたサチの事が好きになって……サチのところに行っちゃうんじゃないかって……キリトをサチに取られるんじゃないかって……」

 

 

 シノンはぼろぼろと泣いている。直接見ていなくとも、キリトははっきりとイメージする事ができた。そんな彼女の声は嗚咽と一緒に続く。

 

 

「……私は結局サチの代わりでしかなくて……サチが生き返ったならもういらなくなって……捨てられるんじゃないかって……そう思えて……仕方なくなって……怖くてたまらなくなった……そしたら私……サチを……動けなくなってたサチに銃を向けてッ……」

 

 

 キリトはまたしても目を見開いていた。それまで別々になっていた点と点が、一筋の光で結ばれたのがわかった。あの時シノンが震えていた理由、「本当にサチを助けるの?」と尋ねてきていた理由がようやくわかった。

 

 シノンはサチの代わり?

 

 サチが居ればシノンはもういらない?

 

 自分にとって本当に大切な人はサチの方?

 

 頭の中に湧いて出てきた問いかけへの答えを、気付いた時キリトは実行していた。手動式のドアを開き、部屋の中に入る。

 

 感じられていた気配の通り、リランとシノンだけが居て、シノンはソファに座っていた。驚いた二人の視線が集まってくる。

 

 

「「キリ――」」

 

 

 二人で同時に発してきた呼びかけを無視し、キリトは歩く。涙でぐしゃぐしゃの顔になっているシノンへ歩み寄り、その距離を狭めていった。

 

 そして抱擁(ほうよう)できるくらいの距離まで近付いたところで、完全に唖然としてしまっているシノンの顔へ、自らの顔を近付け――そのまま唇で彼女の唇を塞いだ。

 

 

「ッ」

 

 

 シノンは声を出そうとしたが、それをキリトはキスで止めていた。紛れもなくシノンが欲しているものではないとわかる行動だとわかっていた。だが、それでもキリトはやめる気にならなかった。彼女に本当の事を告げる事を示すように、じっと唇を重ね続ける。

 

 十数秒ほど続けたところで唇を離すと、シノンはきょとんとしきったような顔になっていた。(ほほ)は当然のように赤くなっていて、そこに涙の流れた跡がくっきり残っている。

 

 

「き、りと……」

 

 

 やはりか細い声でシノンは呼んできた。それに応じるようにして、キリトはシノンの華奢(きゃしゃ)な身体を強く抱き締めた。胸の内から強い感情が突き上げてくる。

 

 

「ごめん、シノン。全然気付いてあげられなくて。君がそこまで思い詰めてた事に気付かなくて、本当にごめん」

 

「え……」

 

 

 後ろからリランの声がした。

 

 

「……我らの話を聞いていたのか、お前」

 

「うん。ドアの前でずっと聞いてた」

 

 

 シノンがぴくりと反応したのがわかった。自分のした事を知られてしまった事に驚くと同時に焦燥(しょうそう)したのだろう。

 

 

「シノン、もう一度謝る。本当にごめん。君がそれだけ思い詰めて苦しんでたって事に全然気が付かないでいてしまって。一番最初に気付かないといけなかったのが俺だったのに」

 

 

 シノンはキリトの背中に手を廻し、服を掴んできた。

 

 

「キリト……私……サチを……サチを撃とうとして……あなたが……居なくなるって思って……サチに取られるって思って……だってキリトは……サチの事を……」

 

 

 サチが帰ってきた。キリトにとってサチは元恋人。その人とまた会えたなら、キリトはサチのところに行く。自分はサチの代わりでしかなかった――それがついさっきまで聞いていたシノンの言い分だった。思い出すだけで胸の内がずきずきと痛んでくる。

 

 

「あぁ、そうさ。サチは大切な人だった。言っちゃうと俺はサチを愛してた。サチを愛していたから、俺はサチを守りたいと思っていたんだ。サチは、俺の恋人だったんだよ。だから、また会えて嬉しかった」

 

 

 それは紛れもない事実だ。かつて自分はサチを愛し、サチから愛してもらっていた。だからこそサチを守りたいと思ったし、守れなかった事を後悔し、ずっと引きずってきていた。

 

 

「でも……本人はわかってくれてるかどうかわからないけど、今はもう、そうじゃないんだ」

 

「……え?」

 

 

 抱き締めているシノンがきょとんとしたのがわかった。つい先程サチと再会できた時、そして話をした時、キリトは自分の中の変化に気付き、少し驚いていた。その事を包み隠さず、キリトは口にした。

 

 

「俺、もうサチの事が本当に好きってわけじゃないんだ。サチの傍に居たいとか、サチを守ってやりたいとか、もうそんなふうには思ってない。……俺にとってサチは、もう、本当に大切な人だとか、本当に愛している人だとか、そういうものじゃないみたいなんだ」

 

「それって……?」

 

 

 キリトは一旦シノンの身体を離したが、その肩から手を離す事はしなかった。涙でぐしゃぐしゃになった後のシノンの顔をじっと見つめ、翡翠(ひすい)がかった水色の瞳の中に自分の姿を映し出し、自身の黒色の瞳の中に彼女の姿を映し出す。

 

 

「今の俺にとって本当に大切な人、本当に愛している人、本当に守りたい人は……君だけだよ、シノン」

 

 

 宣言すると、シノンの瞳が見開かれた。そう言われる事が予想できていなかったようだ。

 

 

「君がサチの代わりだなんて、そんなわけないし、俺だってそんなふうに考えた事は一度もないよ。まぁ、時折サチの事を思い出す事だってあったけど、それでも君がサチの代わりだとか、サチを守れなかった代わりに君を愛しているとか、サチが帰ってきたから君はもう必要ないだとか、そんな事は思ってないよ」

 

 

 キリトはふと頭の中の図書館を開いた。シノン/詩乃との思い出が書かれた本をいくつも開いていく。

 

 

「今の俺がいるのは、俺がこうしてここにいられているのは、全部シノンのおかげだ。シノンが俺の傍に居てくれて、俺を愛してくれて、俺と一緒に戦ってくれてきたからこそ、今の俺があるんだ。

 それに俺の中には君の記憶がある。君の事がわかる記憶があるって何度も話してきたし、その副作用みたいなものを一緒に乗り越えた時だって、君が一生懸命向き合ってくれたから乗り越えられたんだ。君がいなかったら、今の俺はいないし、そもそも俺は生きてなかった可能性だってあるんだ」

 

 

 生きていなかったというのは正直過言だ。だが、もし自分がシノンと出会わなかったならば、大切な人と共に生きるという事、本当に人を愛するという事、本当に愛している人と家族になるという事を知る事なく、自分の殻に籠もって、自分で作り出した暗闇の中で一人で溶け、朽ち果てていくだけであっただろう。

 

 そんな自分が作り出していた暗闇を払ってくれたのはサチではなく、シノンだ。シノンは自分を光のように言ってくれた事があるが、それは自分にとってのシノンの事でもあった。

 

 シノンという光が照らしてくれるようになったから、俺は今、こうして生きている。俺を救ってくれた光を持つ人はたくさんいるが、その中で最も強い光を持っているのはシノンだけだ――キリトはサチと話している時からずっと、胸のうちでそう思えて仕方がなかった。

 

 

「確かにサチが生き返ってきたけど、今の俺にとってのサチは……大切な仲間の一人で、愛している人っていうわけじゃない。俺が本当に好きで、本当に愛してて、本当に守りたいのは君だよ、詩乃」

 

 

 シノンは「あ……」と小さな声を出した。瞳が小刻みに揺れている。それさえも愛おしく思えて、キリトは右手で彼女の右頬を包んだ。

 

 

「辛い思いをさせて、本当にごめん。俺は大丈夫だ。これからもずっと君の傍にいるし、今みたいに君を支え続ける。敵が君を襲ってきたなら、俺が君を守るために戦うし、勝つ。ずっと前に言った時の繰り返しになっちゃうけれどさ――」

 

 

 キリトはひと呼吸をおいてから、しっかりした声を出して伝えた。

 

 

「俺の命は君のものだ、詩乃。君のために使っていくし、君を守っていく。これからも一緒に過ごしていって、近い将来は一緒に暮らそう。そのためにできる事はやっていくし、努力もしていく。だから……大丈夫だよ、詩乃」

 

 

 そう言ってもう一度、キリトはシノンを抱き締めた。その形を支えてやるように、優しく包み込むようにして。その中でシノンが震える声で言った。

 

 

「私……キリトと、和人と一緒にいたい。どこにも行ってほしくないっ。ずっと、一緒にいたい、の……」

 

「あぁやってしまったのは、結局君が俺にそう思ってくれてたからだったんだろ。まぁやりすぎだったとは思うけれど、俺と一緒にいたいって思ってくれて、離れたくないって思ってくれてたのはすごく嬉しいよ。それで、サチに銃を向けても、撃たなくてありがとう。俺は君が大好きだよ、詩乃」

 

 

 それでようやく全部だった。サチと話した時から、シノンの真意を聞き出した時まで思っていた事を、本当に全て伝えられた。

 

 今言った事こそが俺の真意であり、俺が貫きたいと思っている事であり、これからずっと胸に抱き続けていく事だ――そう思うキリトに抱き締められていたシノンは、その身体をより強く震わせ始めた。間もなくしてその手をキリトの背中に再度廻し、ぎゅうと掴んできた。

 

 

「キリト、キリ、トぉおお……う、う゛あ゛あ゛、うあああああああああッ」

 

 

 シノンは大きな声を出して泣き出した。何度も聞いてきた彼女の、心からの声による叫び。それを嫌と思った事など一度もない。寧ろ、いや、やはり、それさえも愛おしかった。

 

 その声を全身で聞きながら、シノンの頭に手を伸ばしたその時――。

 

 

 

「……(いて)ッ!」

 

 

 

 不意に、ごすっという音と共に痛みに似た不快感が頭頂部付近を襲ってきて、キリトは声を上げた。

 

 急な事でびっくりしたのだろう、シノンが「えっ」と言って泣き止んだ。びっくりしたのはキリトもそうだった。一体何事かと思って振り向いてみれば、リランがチョップをした後の姿勢になっていた。今のはリランによる一撃だったらしい。

 

 

「リラン、急に何するんだよ!?」

 

 

 リランはぐぁっと噛み付くように顔を近付けてきた。

 

 

「出てくるのが遅い! そして我の言いたかった事を全部言いおって! 何故それをもっと早くシノンに言わなかった? お前がもっと早くシノンの異変に気が付いて、今のを全部言っておれば、こんなふうに我がシノンに詰め寄る必要もなかったし、シノンだって長時間苦しまずに済んだのだぞ! 元はと言えばこの一件、お前の監督不行(かんとくふゆ)(とど)きが全ての原因ではないか!」

 

「……う」

 

 

 リランの言い分はわからないでもなかった。リランの言う通り、もっと早くシノンにこの事を、自分の真意を伝える事ができていれば、シノンがここまで思い詰める事はなかっただろうし、シノンの行動についてリランが詰め寄る事もなかっただろう。

 

 全ては自分の監督不行き届きが原因――悲しい事に、リランの言った事は的を得ていた。急激に湧いて出てきた申し訳なさに襲われるキリトを横に、リランはシノンへ近付いてきた。

 

 

「……ほら見ろ。キリトはこの通り、お前の事を一直線に見つめているではないか。そんなに軽い奴ではないだろ?」

 

 

 シノンはまたきょとんとした。キリトも一緒にきょとんとする。リランは続けてきた。

 

 

「お前の知っているキリトは、我を《使い魔》として駆り、お前を愛し、お前を守る最高の《黒の竜剣士》で……お前しか見つめる事ができないような不器用者だ」

 

「お、おいおい! 不器用者ってなんだ」

 

 

 キリトの抗議をリランは「事実であろうが」と言って跳ね飛ばしてしまった。だが、言い方こそ悪いものの、自分はシノンを見つめるので精一杯で、シノン以外の女性を見つめる事ができなくなっているのは事実そのものであった。

 

 

「だから大丈夫だぞ、シノン。お前の思っているような事をキリトはしないし、できない。何も心配はいらぬ」

 

 

 リランは微笑みながらそっと言った。間もなく、一瞬瞳が見開かれたかと思うと、その顔はほころび、柔らかい笑みが浮かび上がった。

 

 

「……そうだったね」

 

「そうだったでしょ?」

 

 

 リランがそう言うと、シノンは「うん」と深く頷いて笑った。その後にキリトに向き直り、もう一度瞳を合わせてきた。

 

 

「……その、キリト……迷惑かけてしまって、ごめんなさい。後でサチにも謝らないといけないわね」

 

「迷惑じゃないよ。ただ、サチには謝っておいた方がいいかもだな」

 

 

 やはりというべきか、シノンの顔が曇った。改めて自分のやった事を確認して、後悔してきたのだろう。後悔できる分、良い。

 

 

「その時、どう言えばいいかな……」

 

「そうだな……」

 

 

 それについても考える必要がありそうだ。そして今の自分の胸に抱かれている真意を、サチにはっきり伝えなければならないだろう。

 

 

(ごめん、サチ。俺が好きなのは……もう君じゃあないみたいだ)

 

 

 

 

             □□□

 

 

 

 

「……すぅ」

 

 

 サチは鼻で深く溜息を吐いた。膝元で妹を寝かせているための、大切な人であるキリトに再会できた喜びと、少なくとも彼と一緒に居られる安心が大きかったが、それよりも大きくありそうなものもあった。だがそれは、良い事だった。起きて良かった事だったのだ。それをサチは妹に話した。

 

 

「マキ……私、安心した。あなたが本当にあなたに戻ってて……キリトにまた会えて……キリトを自由にできてたから……」

 

 

 サチはマキの髪をそっと撫でた。電子の存在となった自身の胸の内に宿っていた思いを改めて見つめる。

 

 自分はずっとキリトが好きだった。《月夜の黒猫団》がモンスターに襲われた時、突然現れて助けてくれて、《月夜の黒猫団》に入ってくれて、「君は死なないよ。君を守るから」と言ってくれたのが、キリトだった。

 

 思えば彼と過ごした時間というのは本当に数日程度であったから、彼の事など何も知らない。彼がどういった人なのか何もわからない、理解していこうという勇気だってないくせに、彼に惹かれ、彼の事ばかりを考えるようになってしまって――気付いた時には身の程知らずにも、キリトの事が大好きになっていた。

 

 そんな事が許されるはずもなかった。何故なら自分がキリトと親密になるという事は、キリトを見えない鎖で繋いだうえで縛り付けるのと同じだったからだ。マキが自分の近くにいなければならないという鎖で縛り付けられているのと同じように。

 

 だから、キリトを好きになってはいけない――そうわかっていたはずなのに、サチの胸の中に宿った想い、恋心は消えてくれなかった。

 

 そんな想いを抱いたまま死して、電子の存在として蘇った後に彼と再会できた時、サチは嬉しくてたまらなかった。自分達の運命が決まってしまった世界とよく似た世界で叶った奇跡の再会。物陰から彼を見つめていた時、見つかりたくないと思っていた半面、出ていきたいと思ってもいた。

 

 そんな事ができる勇気なんてないはずなのに、出ていけばキリトにショックを与えてしまうかもしれないのに、物陰から出ていって、彼とまた話をしたい。恋人のキリトのところに行きたい。そう思っていた。

 

 

 だが、ある時それはぷつりと切れた。

 

 

 自分がいなくなった後のキリトの隣には、別の女性がいた。名前をシノンというらしい女性が、キリトに寄り添うようにしていた。初めは友達かと思ったが、それはすぐさま違うとわかった。シノンはキリトに寄り添い、支えている女性だったのだ。そしてキリトもまたその女性に寄り添い、支えてやっていた。シノンはキリトの恋人だった。

 

 そしてその愛情の深さにも驚かされた。シノンはどこまでもキリトを想って行動をし、キリトと仲睦まじく話をする人だった。そんなシノンと、キリトも仲睦まじく接して、見た事がないくらいに楽しそうに、嬉しそうにしていた。

 

 そして今、再び会って話ができたキリトが起こした行動を見て、はっきりした。キリトはシノンの異変の話を聞いて、一目散にそこへ向かっていった。それはつまり、キリトが心の底からシノンを愛しているという事に他ならなかった。

 

 一度キリトは自分を愛していたと言ってくれた。そう言ってもらえたのはとても嬉しかった。こんな自分でも好きになってもらえるとわかったのだから。でもそこで自分は一言付け加えた。「私よりもシノンさんを愛してあげて」と。それをキリトは実行してくれていた。自分よりもシノンの事を愛してくれていたのだ。だからキリトはシノンの異変を聞いて、すぐにそっちへ向かって行った。

 

 それはキリトが自分の鎖から解き放たれて、自由になっていたという証拠だった。それが理解できたサチは、深く安心していた。

 

 

「もう、大丈夫だね……」

 

 

 キリトはもう縛られていない。私はもうキリトを縛っていない。キリトは自由だ――それがサチを何よりも安堵させてくれた。

 

 

「いつか、あなたの事も自由にさせてあげないとだね……」

 

 

 そう言ってサチは、膝元で眠るマキの頭をもう一度優しく撫でた。

 

 

 その直後だった。一粒の雫がマキの頬に落ちていった。

 

 

 それが自分の涙であるという事に、サチはすぐに気が付いた。

 

 

「あ……」

 

 

 マキを濡らしてはいけない。そう思ってサチは目元を(そで)で抑えた。それが皮切りになったかのように、涙はとめどなく出てくるようになった。

 

 

「う……あぁ…………ッ」

 

 

 嗚咽(おえつ)まで出てきたところで、サチは自分の胸の中にあるものの正体に気付かされた。

 

 

「これ、でよかった……これでっ、よかったのに……」

 

 

 それが事実のはずだ。これで良かったのだ。キリトを縛る事がなくなったのだから。彼を自由にさせられたのだから、これで良かったのだ。

 

 そのはずなのに、それなのに――。

 

 

「キリトっ……私……まだ…………」

 

 

 遠くにいる彼に聞こえてしまわぬように声を押し殺して、サチは呟いた。

 

 

「あなたの事…………………好き…………だよ……………」

 

 

 




――くだらないネタ――

・今回推奨BGM『unlasting』



――そんな事はないと思うけれど――

Q.キリト、サチへの想いが軽すぎない? サチが生き返ったらシノンに「ごめんシノン、やっぱり俺にとってサチが……」みたいになってもよかったんじゃね?

A.本作のキリトにとってのシノンは伴侶であり、恋人であり、守るべき人であり、自分の身体半分あげているような存在である。更に過ごした時間から見てもサチは数日程度、シノンは三年近くであり、更には交わってさえいる。最早キリトは『シノン一直線』であり、『シノン以外の女性に好意、恋愛感情を抱く事ができなくなる呪い』にかかっていると言っても間違いではないかもしれない。

 本作のキリトにとってシノンと一緒に居る事は祝福であり、幸福で「そうだ」とわからなくなっている呪いでもあるのだ


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