キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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03:姫の口付け

          □□□

 

 

 

 突然現れた水を司る狼竜と、その主と思われる青年に誰もが釘付けになる。もう少しで擲弾(てきだん)の直撃を受けそうだったユナは変わらずに歌い続ける事が出来ていた。青年は(あたか)もユナの守護者、騎士のようだ。

 

 

「な、なんだあいつは……!?」

 

 

 クラインが青年を見つつ言ったその時に、キリトは気が付いた。青年の頭上に表示されているナンバーは、二とある。彼の者はオーディナル・スケールで二番目となる成績の所有者であるらしい。

 

 ニュースなどでも、オーディナル・スケールでランキング二位、一位になったものにはどれ程の恩恵が与えられるのかと議論がなされていた事もあったが、まさかここにその二位に該当する者が現れるとは。そしてその者もやはりというべきか、《ビーストテイマー》であり《ドラゴンテイマー》だった。

 

 

「ランキング二位って、マジかよ……」

 

 

 思わず呟いた次の瞬間、青年は地を蹴ってジャンプし、宙を舞った。間もなくして華麗にキリト達と同じ地面に着地する。無駄がなくてしなやか、しかし強靭であるその身のこなしは、かつての忍者を思わせる動きだ。仮想現実ならば普通にできるけれども、現実世界では早々出来るものではない。

 

 海外のフリーランニングやパルクール実施者でも難しい動きだろうし、実際にその者達が見たら腰を抜かしそうだ。そんな常識離れしているような動きをして見せた青年の隣に水の狼竜が舞い降り、すぐさま白の刃竜が襲い掛かる。

 

 青年も竜もまだ白の刃竜を攻撃していないが、ランキング上位者程ターゲットを集めやすい傾向でもあるのだろうか。白の刃竜は真っ直ぐに青年に飛び掛かったが、その間に水の狼竜が入り込んで受け止めた。二頭の巨大な竜は絡まりながら近くの建物に突っ込み、轟音と衝撃を放ってくる。

 

 SAO、ALO、《SA:O》で見てきた大型モンスターを《使い魔》とする《ビーストテイマー》ならば繰り広げる事の出来る、怪獣映画さながらの光景だ。白の刃竜は抑え付けてくる水の狼竜にブレードで斬りかかったが、その刃は水の狼竜の身体に食い込んだ瞬間に酷く遅くなる。

 

 水の狼竜の毛並みは青く見えるが、あれはどうやら水らしい。水の鎧を纏っているのだ。その鎧で刃を受け止めているようで、水の狼竜は余裕そうだった。その隙を突いて青年が白の刃竜の許へダッシュし、片手剣で二回鮮やかに斬り付けて離脱。主人が確かなダメージを入れたところで《使い魔》の水の狼竜も、口の奥から白の刃竜の顔面目掛けて極太水流を放ち、一気に白の刃竜を吹っ飛ばした。

 

 業務用超高圧洗浄機とほとんど同じ激流に当てられて、白の刃竜はごろごろと地面を転がり、ダウンする。相当大きなダメージを入れられたようで、もう瀕死のようだ。このままいけば倒せるだろう。

 

 

「キリトッ!」

 

 

 後方のシノンから声が届く。自分に止めを任せようと思っているらしい。現に何の偶然なのか、キリトの居る位置はダウンしている白の刃竜から近く、容易に接近して斬り付ける事が出来る。

 

 このオーディナル・スケールにラストアタックボーナスがあるという話は聞いた事はないが、ラストアタックは狙うべきものだ。キリトは片手剣――と言っても真実は小さなロッド――を握りしめて、白の刃竜に向き直る。

 

 次の瞬間、白の刃竜はむくりと起き上がり、もう一度戦闘態勢を取った。まだ終わらせない、終わらないという意志を見せつけるかのように身構えて、ブレード攻撃を繰り出す姿勢を作り上げる。このまま飛び掛かるか。

 

 キリトは白の刃竜の次の行動を予想して動き出したが、同刻、先程颯爽と現れた青年がパルクールして白の刃竜の懐に飛び込んだ。思わず注視した直後に、青年は鮮やかな身のこなしで白の刃竜の周囲を廻りながらの斬り付けを四度放った。

 

 四発目で美しい四角形が描かれるその動きは、四連続攻撃片手剣ソードスキル《ホリゾンタル・スクエア》の動きに他ならなかった。

 

 オーディナル・スケールは現実世界の肉体と精神を直接使用する関係上、ソードスキルなどは一切使えないようになっている。三年以上ソードスキルと一緒に暮らしてきたようなものであるキリトでさえも、生身でソードスキルを放てた事などない。

 

 しかし青年はその不可能のはずのソードスキルを使って見せた。普段からたっぷりとソードスキルを使える環境に居て、身体そのものにソードスキルの動きを焼き付けたかのようだ。いずれにしても常軌を逸しているようにしか思えず、キリトは驚きのあまり瞬きを繰り返すしかできなかったが、白の刃竜が再度ダウンした音で我に返った。

 

 白の刃竜は今度こそ地面に倒れ伏し、動けなくなっている。間違いなく、後一撃加えれば終わりだ。この戦いは人類側の勝利で終わらせられる。

 

 

「――そこだッ!」

 

《行け、キリトッ!!》

 

 

 キリトは咄嗟に走り出し、白の刃竜に接敵する。今度こそ躓いて転んだりしない。このチャンスを逃すものか――白の刃竜の身体が近付いてきたところで、キリトは片手剣を振り上げる。

 

 同時に白の刃竜へ接敵するチャンスを作ってくれた青年にも近付き、その隣を切り抜けたその時――

 

 

「――――スイッチ――――」

 

 

 

 不意に声が聞こえて、世界がスローになった気がした。青年の声が世界の時間を遅くしたようだった。スイッチ――それはSAO、ALO、《SA:O》で使われる用語であるが、最初に登場したのはSAOだ。

 

 誰かがソードスキルを放った後、その者と交代する形で攻撃を仕掛ける事で、隙を打ち消す、攻略の必須戦術。言われてみれば、この状況はまさに自分と青年のスイッチだった。

 

 だが、青年がそんな事を言い出すという意味は――

 

 

「――――はあああああああッ!!」

 

 

 考えるより先に手が動き、声が出た。倒れ伏す白の刃竜に向けて渾身の縦斬りを一発お見舞いする。手元に剣はないが、鱗と甲殻、筋肉を切り裂く確かな手ごたえが返って来て、白の刃竜が断末魔を上げた。

 

 剣を白の刃竜の身体より引き抜くと、白の刃竜の身体は一瞬にして白い光に包まれ、七色の光を出しながら大爆発する。拡散した七色の光は広がっていくかと思いきや白の刃竜のいたところに集まり、凝縮し、消滅した。オーディナル・スケールでボスが倒された時の特有のエフェクト。異界より召喚されていたボスが、異界に強制的に帰らされたのだ。

 

 戦闘が終わり、沈黙が満ちる。

 

 

「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

「すげええええええッ!!」

 

 

 プレイヤー、観客達が一斉に声を上げて静寂を切り裂いた。喜びはどんどん広がり、一帯が歓喜と祝福の声で満ち溢れる。その音は夜の九時過ぎであるというのを忘れさせるくらいの騒ぎだった。その中で一人、響き渡る声を出したのはユナだった。

 

 

「ボスモンスター攻略、おめでとー! ポイントサービスしておいたからねー!」

 

 

 歌姫の宣言で、プレイヤー達の頭上にポイントが加算された通知が届けられる。ただのボスではなく、SAOの英雄の《使い魔》と同じ特徴を持つ《英雄の使徒》が狩られたのだ、ボーナスポイントはたっぷり入るだろう。

 

 誰もが手に入ったポイントと残高に目を向けて喜ぶ中だったが、キリトはそうではなかった。何故かポイントが入ってくる気配がない。確かに白の刃竜に止めを刺したはずだったのに。いや、それ以前に気になる事がある。

 

 あの青年は確かあの時に――。

 

 

「そして、今日一番頑張ってくれた人にはもっとサービスしちゃうよ!」

 

 

 そんなユナの声がしてすぐに、気配が近付いてきたのを感じ取った。我に返って振り向くと、そこにユナがいた。誰もが心奪われるという美少女の容姿をしたユナとの距離がどんどん縮まってきて、キリトはその瞳に釘付けになる。

 

 そして歌姫はキリトとの距離を近付けていくと――キリトの右頬に口付けをした。

 

 

「……!!」

 

 

 右頬に心地よい感触がすると、周りのざわめきが一斉に止む。全員が硬直して、目の前の光景が信じられないような顔をしている。現にキリトも信じられなくて、ぎょっとしていた。ユナに、キスをされた。

 

 

「今日の最優秀者(MVP)は貴方! 貴方にはポイントたっぷり載せておくね!」

 

 

 皆の憧れの歌姫が宣言すると、小さな効果音が鳴り、表示されているポイント残高とランキングが目に見えて上昇するのが確認出来た。まさしく女神の祝福だった。仮想現実に住まいつつも現実世界と繋がっている女神が、口付けと合わせて祝福をくれたのだ。だが、キリトはそれにありがたみをちっとも感じなかった。

 

 硬直していたプレイヤー達の視線が、どんどん攻撃的なモノに変わっていっている。「俺のユナちゃんの唇を奪いやがって」。誰もがそんな事を思っていそうな顔で睨み付けてきている。そんな目で見られるような事はこれまでのVRMMO生活の中で、一度や二度ではなかったが、未だに慣れる事はない。思わず冷や汗を垂らしたその時、ユナがくるりと周囲に向き直った。

 

 

「皆も頑張ってボスと戦えば、この人みたいな事してあげるから、次も頑張ってね! それじゃあまったねー!」

 

 

 一応周囲を(なだ)めた後に、ユナはキリトから離れ、天から射す光に包まれるようにして消えていった。重大イベントの終了の合図が広がり、プレイヤー達は続々と解散していった。合わせてキリトに向けられた視線も消えていく。

 

 もしかしたら羨望と嫉妬を募らせたプレイヤーに殴りかかられるのではないかと冷や冷やしていたが、どうにか杞憂で終わってくれたようだ。深く溜息を吐いた直後に、声が聞こえてきた。観客として遠くにいたイリスの声だった。

 

 

「キリト君、お疲れー!」

 

 

 誘われて向き直れば、イリスとシノンとリラン、クラインと風林火山の者達が歩み寄ってきていた。が、キリトはぞっとする。イリスとリランはともかく、クラインと風林火山の者達は引き続き嫉妬に満ちた攻撃的な視線を向けてきている。

 

 そしてシノンに至っては――ずももという音が聞こえてきそうな、不機嫌極まっている雰囲気が立ち込めていた。

 

 間もなく、クラインがキリトに掴みかかってくる。

 

 

「キリの字ぃ! てめぇ、なんでそうも女の子ほいほいなんだよ! ユ、ユユ、ユナちゃんまで攻略開始しやがって!」

 

「いやいやいやいや、そんなつもりねえよ! お前だってわかるだろ!? ユナがあんな事してくるなんて思ってなかったっての! 事前情報もないし!」

 

 

 ありのままを伝えるが、クラインは「なんだとー!」と言ってヒートアップ。そこに風林火山の者達まで加わり、手が付けられなくなる。いよいよどうしたものかと思ったところで、イリスが待ったをかけてくれた。

 

 

「まぁまぁ落ち着きなさいな。君達ボスを倒せてポイントも稼げて、ランキングも上げられたんだろう。もうちょっと喜ぶべきじゃないか?」

 

 

 年上美人女性であるイリスに言われ、クライン達は渋々キリトから離れる。やれやれ助かった――イリスに礼を言おうとしたところで、《声》が聞こえてきた。リランがあるところに視線を向けている。

 

 

《まさかランキング二位が登場してくるとはな。とんでもない有名人ではないか》

 

 

 そう言われて、キリトははっとする。あの忍者さながらの身のこなしの青年のおかげで助かったわけだが、あの青年こそがランキング二位であると確認できた。しかもあの青年はリランと同じ狼竜を従えていると来た。驚くべき事が連続しているが、その中で最も重要なモノは、あの時青年が口にした言葉。

 

 スイッチ。その言葉はSAO事件記録全集でも書かれていない。スイッチはあくまで攻略戦術の一つであり、取り上げるくらいのものでもないからだ。知っているのは、それこそSAO生還者くらいだ。

 

 それを知っているという事は、あの青年は――。

 

 

「にしても、イリス先生がオーディナル・スケールに参加しないなんて、意外っすね。なんでやらないんです?」

 

 

 クラインがイリスに疑問を口にする。キリトとシノン、リランやその妹達は知っているが、クラインはまだイリスがオーディナル・スケールに参加しない理由を知らなかった。思考モードから戻ったキリトが説明するより先に、イリスが応答する。

 

 

「VRだと無関係で助かるんだが、私はこう見えて、生まれつき心臓が悪くてね。子供の時から激しい運動とかスポーツは避けるように決められてきたんだ。だから、激しい運動をしなきゃいけないオーディナル・スケールなんて(もっ)ての(ほか)なのさ」

 

 

 クラインも風林火山の者達も意外そうな顔をする。イリスから話を聞いた時、彼らのような反応をしたのは自分達もだ。

 

 VRで会っている時や攻略している時は全然わからないが、イリス/愛莉は何らかの心疾患を患っているらしく、その影響で運動が出来ないのだ。現に愛莉が現実世界で走ったところ、スポーツをしたところを見た事がない。そして運動しないかという話を持ち掛けられると、苦笑いして「駄目」と返す。

 

 愛莉は自分の意思でインドア派になったのではなく、身体が生まれつきそういうふうになっていたから、インドア派にならざるを得なかったのだ。自分のように選択したのではなく、半ば強制させられた。選択の余地も自由も無かった。

 

 そんな境遇にいたという愛莉の一面を教えられた時、思わず言葉が出なくなった。だが、本人はそんな事を微塵も気にしていないのも、すぐにわからされた。今も愛莉/イリスは笑っていた。

 

 

「おかげで学校の体育の授業は全部やらなかったよ。ま、七色くらいの時には既にアメリカに居て、AI研究に没頭してたんだけどね。寧ろ丁度良かったってもんさ」

 

「そうだったんすか……なんか、オレ達だけで楽しんじゃって、すみません」

 

 

 急に申し訳なさそうにするクラインに、イリスは首を横に振って答えた。

 

 

「いいさいいさ。君達は自由に出来る事を謳歌すりゃいいの。実際オーディナル・スケールは見てるだけでも十分に楽しいしね。そして面白いモノも見つけられた」

 

 

 そう言ったイリスは、キリトに歩み寄ってきた。表情が真面目なものになっている。

 

 

「キリト君。今のボスだけど、わかるね」

 

「あのボス、《英雄の使徒》にリランと同じ角が生えてましたし、ブレードも同じものでした」

 

「あれは間違いなく、SAOサーバーにあったモンスターデータと同じだよ」

 

 

 イリスの言うように、あの白き刃竜の身体の一部は、リランのモノと合致していた。特に額の角なんかは、そのままだ。あの白き刃竜はリランのデータを基にしている――そうとしか思えなかった。

 

 

《しかし、あんなものがSAOサーバーにあったのか。少なくとも同じサーバーデータを使っている《SA:O》には、あんなものはいないし、SAOの時だって我以外にこの特徴を持ったモノはいなかっただろう》

 

 

 リランが他の狼竜と違っているのは、額の聖剣である。この剣はリラン/マーテルが破損した自身を直すために、SAOサーバーデータベース内の様々なデータをコピーして吸収する際に、強力な狼竜のデータと、同じく強力な聖剣のデータを取り込んだがために発現したものだ。

 

 その他モンスターやNPCといった様々なデータのコピーを吸収しているにも関わらず、リランに狼竜要素と聖剣要素だけが表出ているのは、それらデータが極めて大きくて重要なデータだったからだという。

 

 リラン/マーテルの、聖剣を額から生やした狼竜の姿とは、ある意味マーテル自身が吸収したデータに逆に蝕まれた結果、出来上がったものと言えるんだそうだ。なので、基本的にリランと同じような特徴を持ったモンスターは存在していない。リランは唯一無二(オンリーワン)の狼竜なのだ。

 

 しかし、先程の白の刃竜は、その唯一無二のリランに酷似した特徴を持っていた。リランと酷似した特徴を持つボスモンスターの話自体、キリトは前から聞いていたが、実物を見たのは今回が初めてであった。

 

 あれには驚くほかない。間違いなく、あれはリランと同じだ。それを目にしたイリスが顎元に指を添える。その動作はキリトの癖だったが、いつの間にかイリスまで似たような事をするようになっていた。

 

 

「多分だけど、オーディナル・スケールの開発陣がリランをリスペクトして作ったんだろうね。リランの事はSAO事件記録全集に載ってるから、知ろうと思えば知れる。真似しようと思えば真似出来る」

 

「でも、なんでよりによってリランなんです。他にも色々あるでしょう」

 

 

 どうしてオーディナル・スケールの開発者達は、リランと似たモンスターを登場させてきたのか。事前情報も何もなしに。ただカッコいいから、モンスターとして映えるからというのもあるのかもしれないが、それ以上の理由を感じざるを得ない。

 

 だが、そのそれ以上の理由とは何の事なんだろうか。考えを回すが、答えは勿論でない。情報もデータも、何もかもが不足しているために、何の予測も出来そうになかった。

 

 一人思考を回すキリトを見つつ、イリスは掌を広げる。

 

 

「そりゃあわからないよ。断言しとくけど、オーディナル・スケールの開発は私は関わってないからね。オーディナル・スケールの開発者達が何考えてるかは、わかりっこないってもんさ。ただ、リランと同じ特徴を持ってる《英雄の使徒》はこれからも現れるはずだ。だから、これから出てくる《英雄の使徒》とも戦ってみるしかないよ」

 

 

 現に先程の《英雄の使徒》を倒した事により、プレイヤー達が大興奮するくらいのポイントが発生し、ランキングも上がった。この事実はネットで拡散され、更なるプレイヤー達を呼ぶ事になるだろう。おまけに《英雄の使徒》にラストアタックを仕掛けた自分は――ユナからキスという祝福をもらえた。

 

 《英雄の使徒》と戦えばユナにキスしてもらえる――その事実はポイントボーナスの話よりも、もっと早く広く拡散していく事だろう。現に今もこのバトルに参加したプレイヤー達が使うSNSを通じて、全国に拡散されているに違いない。次の《英雄の使徒》を相手にしたボス戦はユナのキスを求めるプレイヤーでごった返す事だろう。

 

 そんな情報の根源になったのは自分である。その真実にキリトは胃が痛くなりそうだった。直後に、キリトは接近する気配を感じて向き直り、ぎょっとした。シノンが向かってきている。

 

 明らかに不機嫌極まりない表情と雰囲気を出したまま、歩いて来ている。

 

 

「し、シノン……」

 

 

 シノンは何も答えない。ただ歩みを続けるだけだ。距離が縮まると、シノンは手持ちの対物ライフルをぽいと地面に投げ捨てて――クラインが投げ捨てられた対物ライフルを器用にキャッチ――、両手を自由にする。

 

 

「あ、あの、シノンさん、今のはね、今のはですね」

 

 

 今のは事前情報無し、何も知らなかったんだ――言い訳を考え、何とか口にしようとするが、しどろもどろして上手い具合に出てこない。拙い、このままでは拙い。冷や汗を垂らしつつ、キリトは次の瞬間を待った。

 

 間もなくシノンはキリトの至近距離まで来て――そのままキリトの右側に回り込む。

 

 

「え」

 

 

 そしてシノンは顔を近付け――キリトの右頬に優しく口付けた。

 

 

 まさかのユナの行動の再現をしたシノンに、キリトも含めた全員が呆気を取られる。クラインを含めた風林火山の者達は完全に硬直してしまっていた。シノンの顔が離れると、キリトはきょとんとしたまま声を掛ける。

 

 

「シノ……ン?」

 

「……上書き」

 

「へっ?」

 

 

 シノンは少しだけ顔を伏せる。目を合わせようとしても中々合わない。

 

 

「ユナは現実にはいないから、あなたは誰にもキスされなかった。でも、今私がキスした。だから、あなたにキスしたのはユナじゃなくて、私。私なんだからね!」

 

 

 なるべくシノンの言っている事は理解するようにしてきたが、そのキリトでも今のシノンの言っている事は掴めなかった。ユナは現実に居ないから、俺は誰にもキスされていない、シノンにだけキスされている――彼女はそう言ったようだが、シノンの気持ちはわからない。直後、イリスが笑いかけてきた。

 

 

「おやおやおや、シノンがまさかこんな事を言い出して、やり出すだなんて、微笑ましいね」

 

「え、えっと、イリスさん」

 

 

 助けを求めると、イリスはシノンに並びつつ答えた。

 

 

「シノンはキリト君がユナにキスされたのが気に食わなかったんだよ。だから君にキスする事でユナのキスに自分のキスを上書きしたって事だよ」

 

 

 イリスに言われたところで、ようやくキリトは意味が掴めた。先程自分はユナに想定外のキスをもらってしまったが、シノンはそれに焼きもちを焼いた。だからユナにされたのをなかった事にしようとして、自分にキスをした。

 

 シノンの言った上書きとは、そういう意味だったのだ。

 

 

「な、なるほど、そういう事なのか……」

 

「そういう事だろう、シノン」

 

 

 イリスに声掛けされても、シノンはぷいとそっぽを向いた。後ろ手を組んで、頬が若干赤みを帯びているのは見逃さなかった。図星のようだとわかり、胸の中が熱くなるような気がした。やがてイリスが耳元で囁くように言ってきた。

 

 

「君のお(ひい)(さま)は、大好きな君を誰にも渡したくないんだよ。他人が君にキスする様なんて勿論許せない。君だってそうだろ、騎士様?」

 

 

 明らかにからかってきているが、内容は図星だった。シノン/詩乃の事は誰にも渡したくはないし、だからこそ守るように誓っている。もし詩乃が今の自分のような事になったならば、その時自分は今の詩乃と同じような行動を取るのだろう。彼女の思いがわかった気がして、更に胸が熱くなった。

 

 間もなく、自分達を傍から見ていたクラインとその仲間達が抗議の声を上げてきた。

 

 

「くっそぉぉ、んだよんだよんだよ! オレ達にそんなもん見せつけて自慢してんじゃねえぞキリの字のリア充がぁぁぁ!」

 

「いや、見せつけてないんだけど……」

 

「畜生ー! 今度の《英雄の使徒》はオレが狩るからなぁ! んでもってお前にくっそ(たけ)ぇ飯の一つでも(おご)らせるからなぁー!!」

 

 

 キリトの弁明も聞かず、クライン達は夜道をどたばたと駆けて行ってしまった。途中で全員がバラバラの方向に走り出す。それぞれの帰路についたのだろう。思わずきょとんとしたまま彼らを見ていたところ、イリスがまた声掛けしてきた。

 

 

「クライン君達は本気だぞ。次に彼らがボスにラストアタック決められたら、君に奢らせに来るだろうね」

 

「そうでしょうか」

 

「さぁね。ひとまず今日はこれでお開きだ、気を付けて帰るんだよ、()()()。特にお姫様の事はしっかり連れて帰ってあげる事」

 

 

 そう言ってイリス/愛莉はオーディナル・スケールを終了、ぽんとキリトの肩を叩いた。同時にキリトもオーディナル・スケールを終了させて和人に戻る。愛莉はそのままシノン/詩乃の許へ向かう。いつの間にか、詩乃の手元に対物ライフルだった短いロッドが戻ってきている。

 

 

「詩乃、明日の午前中にそっちに上がらせてもらっていいかな」

 

「上がるって……来てくれるんですか、愛莉先生」

 

「あぁ。こうして東京に戻ってこれたんだ、会って話がしたい。経過観察もしたいしね。午前中は開けておいて欲しいんだが、大丈夫かな」

 

 

 詩乃の顔がぱぁと明るくなる。やはり愛莉と会って話が出来るというのは嬉しいのだ。自分を治してくれている恩師なのだから、当然だが。

 

 

「大丈夫です。私も愛莉先生とお話したかったから、丁度良かったです」

 

「それは何よりだ。じゃ、明日の十時過ぎに会おう」

 

「はい!」

 

 

 詩乃の返事を聞いた愛莉は「よろしい!」と言い、続けて別れの挨拶を告げて、夜道へと消えていった。明日の予定は特にないので、《SA:O》にログインしようと思っていた。それには詩乃も誘おうと思っていたが、どうもそういうわけには行かなくなったらしい。そんな事はよくあるので、気にする事もなかったが。

 

 ダークファンタジーのレイヤーから解放されたビルに表示されている時刻を確認する。既に九時三十分を廻っていた。大きなイベントではあったものの、短時間のうちに終わってしまった。オンラインゲームのイベントなどそういうものであり、そんなに時間がかかるものではない。今から帰れば十時くらいに着くだろう。

 

 和人は詩乃へ歩み寄る。彼女は愛莉の向かって行った方を見続けていたが、やがて和人に気付いて振り向いてきた。先程のような不機嫌そうな顔ではなく、小さくて静かな笑みが満ちた顔だった。

 

 

「愛莉先生、明日来てくれるって?」

 

「えぇ。ごめん和人、明日の午前中はログインできないわ。いえ、もしかしたら一日使うかもしれない」

 

 

 愛莉と詩乃自身の話によれば、自分と出会う前、愛莉は詩乃を連れて出かけたり、買い物に出たりする事もあったという。明日もきっとそんな事を詩乃とやるつもりなのだろう。愛莉だって久々なのだから、詩乃と過ごしたがっているに違いない。

 

 

「別に気にしてないさ。たまには愛莉先生との時間も過ごさないとだよ。というか、愛莉先生との時間は俺との時間より貴重だろ?」

 

「そんな事ないわよ。和人との時間は一番大事。だから……その……これから……」

 

 

 詩乃は途中で声を小さくする。頬がまた赤く染まりつつある。その兆候を見て和人は目を見開いた。詩乃は今、()()()()()()()()。これまで結構な回数やってきているので、その兆候は既にわかるようになっているが――タイミングが悪かった。

 

 

「ごめん、詩乃。今日は無理なんだ」

 

「えっ? そうなの?」

 

 

 驚いて、更にきょとんとする詩乃。無理と言われるのが意外だったのだろう。

 

 

「あぁ。明日の朝に直葉が合宿に出かけてさ、俺がいないと家が空くんだ。だから、今夜は無理なんだ。ごめん」

 

 

 詩乃は何か思い出したような仕草をする。直葉の事は、詩乃も既に聞いていたが、今の今まで忘れていたようだ。

 

 

「そういえばそうだったわね。直葉、明日から合宿で、和人の家は和人だけになるって……」

 

「そうだよ。だからさ、明日以降に来ると良いぜ。それでその時また……お願いしてくれ」

 

 

 詩乃はすんと微笑み、頷いた。今夜は無理でも、明日以降ならばいける。直葉には悪いかもしれないが――数日間は存分に詩乃のお願いを聞いてやれるのだ。和人はそれが嬉しくて、胸の内の一部がくすぐったかった。

 

 

「おい和人、早く帰るぞ」

 

 

 驚いた後に振り返ると、人の姿に戻ったリランが居た。今度は彼女が不機嫌そうな顔をしていた。

 

 

「《SA:O》で美味い飯を奢る予定であろう。我はしっかり憶えておるぞ」

 

「そうだった、そうだった。お前、そのためにまだ飯食ってないもんな」

 

 

 リランは日中にチェスで和人に勝ったが、その際の贈り物を和人から受け取っていない。内容は《SA:O》の街で美味しいご飯を奢るという事だ。だからこそリランは夕食の時間を過ぎても、食べ物に手を付けていなかった。彼女の表情は空腹の表れだ。

 

 これは早く帰られなばならない。和人は苦笑いしながらリランに「わかったわかった」と言い、すぐに詩乃に振り返り、手を差し伸べた。

 

 

「詩乃、帰ろう。送ってくからさ」

 

「……ありがとう、和人」

 

 

 詩乃はそう言って、その手で握り返してきた。詩乃の手の暖かさと感触は、ユナの唇よりも心地よいものだった。

 

 




――原作との相違点――


・最初のボス戦にアスナがいない。

・最初のボス戦にシノンがいる。

・MVPはキリト。

――小ネタ――

・シノンは原作同様独占欲強め。キリト大好き、誰にも渡さない。

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