キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 ※ショッキング描写注意。

 ※アンケートはもう少し続けます。




11:猛狂の白猫

         □□□

 

 

 長く続いていた塔の頂上に、ようやく着いたシノンは深く溜息を吐いた。既に攻略しきったエリアであるクルドシージ砂漠の最奥部に位置する、《アデルザネード管制塔》が今のシノンが行くべき場所だったからだ。

 

 《アデルザネード管制塔》には転移石が置かれておらず、入口から頂上まで徒歩で歩いていくしかない。キリトやシリカのような《ビーストテイマー》、それもリランのような有翼のドラゴンをテイムできているならば、その翼の助けを借りて上まで一気に登る事も出来るそうなのだが、シノンはキリトと違って《ビーストテイマー》ではないので、徒歩で砂の塔を登るしかなかった。

 

 ここに来た理由は、とあるプレイヤーからの呼び出しだった。ログインしてすぐにメッセージが届いている報せが確認できた。開いてみたところ、差出人はヴェルサとあり、用件は『話がしたい。《アデルザネード管制塔》の頂上で待っているので、来てほしい』と書かれてあった。

 

 ヴェルサ。キリトと同じ二刀流を操る凄腕のプレイヤーであり、他プレイヤーの助けを進んで行うプレイスタイルを敢行している。既に多くのプレイヤーがヴェルサに助けられており、ヴェルサのおかげで詰んでいたところをクリアできたとか、レアアイテムを入手する事が出来たなどの話は耐えない。そんな彼女は実に多くのプレイヤーの指示と友好の意思を受け、今やアイングラウンドのアイドルとも言われている。

 

 そのヴェルサの助けは自分達も借りた。アインクラッドを誕生させて、アイングラウンドを滅ぼそうとした横暴な《黒の竜剣士》であるジェネシスを止めた時だ。世界の命運と、この仮想世界分野の運命を決める戦いに彼女は手を貸してくれて、ジェネシスを倒す手助けをしてくれた。

 

 あの時、もしもヴェルサが手を貸してくれなかったならば、ジェネシスを止められていたかどうかわかったものではない。彼女の助力がこの世界を厄災から救ったのだ。皆の間ではすっかりそんな話が浸透しており、彼女と一度も話をした事がないシノンの友人達の間にも、ヴェルサへの友好の念が出てきているのは把握できていた。

 

 だが、そんなヴェルサが自分だけを呼び出したのは()せない。話がしたいとメッセージには書いてあったが、何の話がしたいというのだろう。もし友達になりたいだとかの話ならば、アスナやリズベットなどの友人達も一緒に呼んでいるはずだが、彼女達には何も来ていない。ヴェルサからのメッセージは自分にだけ届いている。ここに自分以外の仲間達の姿がないのが証拠だ。

 

 

(なんなのかしら、本当)

 

 

 胸の内で呟き、シノンは階段を上った。そもそもここまでの道のりも妙だった。《アデルザネード管制塔》はクルドシージ砂漠の最奥部という事もあって、当然多くのモンスターが縄張りを作っている。特にその中で最も強く、数が多いのがトーラスというミノタウロスに似たモンスターだ。

 

 この《アデルザネード管制塔》はトーラスの巣と言える場所であり、ここを攻略する時はトーラスの群れとの戦闘は避けられない――それがアルゴやシュピーゲルから共有してもらった情報だった。

 

 なのに、ここに来るまでトーラスとも、その他のモンスターとも出会わず、戦う事もなかった。《アデルザネード管制塔》の中は砂が時折流れ落ちる音がする、静かでがらんどうなダンジョンと化していた。まるで巨大な嵐がやってきて、全てを吹き飛ばしてしまったかのようだ。

 

 ここで何か異変でも起きたのだろうか。だとしたら、ここの頂上で待っているというヴェルサは無事なのだろうか。いずれにしても胸騒ぎを覚えずにいられなかったが、ヴェルサの頼みを無視するわけにはいかず、シノンは《アデルザネード管制塔》を登り、ついに頂上に着いたのだった。

 

 塔の頂上は円形だった。空は青く澄み渡り、心地よい風が吹き抜けていく。周囲にはクルドシージ砂漠の遠景が見受けられたが、陽炎が起きてゆらゆらとしている。その様子がどこか幻想的に感じられ、シノンは少し息を呑んでいた。

 

 

「……!」

 

 

 その時、少し離れたところに影が認められた。人影だ。猫のような耳が頭から突き出ており、白いコート状の服が風に煽られてぱたぱたと音を立てている。その背中に携えられているのは二本の剣。アイングラウンドのアイドルであり、一時期の協力者であるヴェルサの後ろ姿だった。

 

 

「……ヴェルサ」

 

 

 声を掛けると、ヴェルサは一瞬身体をぴくりと言わせた。間もなくゆっくりとこちらに振り返ってきた。その顔は相変わらず、帽子の側面から伸びる垂に隠されていて、大まかな形さえ把握する事が出来ない。見方によってはマフラーを巻いているようにも見える。

 

 

「メッセージ読んだわよ。まさかあんたから来るとは思ってなかったけれど」

 

「……」

 

「それで、ここに呼び出した理由って何かしら。私に話があるみたいだけど」

 

 

 ヴェルサはじっとこちらを見たまま、動きを見せない。それどころか声も発しない。こっちを見る事に集中してしまっているかのようだ。一回しか見ていないが、ヴェルサはもっと明るく、非常に活発的な()だ。それがここまで静かだと、何かあったようにしか見えない。

 

 

「……どうかしたの。そんなに黙り込んで。あんたってもっと明るくなかった?」

 

 

 シノンに問いかけられても、ヴェルサは答えない。これはいよいよどうしたものかと眉を寄せたその時、ヴェルサは行動を起こした。それまで被っていた帽子を外し、マフラーのような垂も引き抜く。帽子を外しきると、ぶるぶると犬や猫のように頭を数回振って、再度こちらに向き直った。

 

 シノンは思わず注視してしまった。ヴェルサの素顔は初めて見るものだった。

 

 顔の形はよく整ったそれであり、可愛さを感じさせてくる。俗に言う美少女の顔だ。髪の毛は丁度自分と同じセミロングくらいで、青みがかった黒色。そしてその目は美しい青水色をしていた。水色の瞳と言えばプレミアもそうだが、彼女のそれとはまた異なった色合いだった。

 

 しかし、その行動は掴めるものではなかった。どうしていきなり帽子を取り払って、顔を見せてきたというのか。そんなに可愛らしい顔をしているならば、どうしてファン達に見せてやらなかったのか。どうにも疑問が湧いてきて仕方がなかったが、それを中断させてきたのはヴェルサだった。

 

 

「……やっと会えたね。ずっと待ってたよ」

 

「え?」

 

「アイングラウンド……アインクラッドと同じところ。名前は違うけど、本当は同じところ……ここに行けばまた会えるって、信じてた……やっと、会えた。ずっと、会いたかったよぉ……」

 

 

 素顔を見せたヴェルサは歓喜していた。

 

 会いたかった?

 

 ここに来れば会えると信じてた?

 

 ヴェルサの言った事を頭の中にリフレインさせるが、意味を掴む事は出来ない。ヴェルサはお構いなしに続けた。

 

 

「あたし……あたしだよ。この顔見ればわかるでしょ。いくらおかしくなってたって、あたしを忘れるわけないよ」

 

「ちょ、ちょっと待って頂戴。ヴェルサ、あんたは何の話をしているの。やっと会えたって……私とあんた、前にどこかで会った事あったっけ?」

 

 

 応じつつシノンは思考を巡らせる。記憶の中――アインクラッドでの日々を苦しくならない程度に探っていく。だが、そこでどんなに探っても、ヴェルサなんていう名前は出てこない。ヴェルサの容姿や顔も思い出そうとするが、それに該当する人物は見当たらない。

 

 そんなシノンを見て、ヴェルサは少し驚いたような顔をした。

 

 

「……そんな。そこまで、そこまでおかしくさせられてるの……あいつのせいで……」

 

「え?」

 

「……そうだ。そうだよね。だってそんなに弱弱しくないもんね。無理矢理忘れさせられてるんだよね。本当じゃなくさせられてるんだもんね。だからあたしの事もわからないんでしょ――」

 

 

 ヴェルサははっきりした声で伝えた。

 

 

 

「――おねえちゃん」

 

 

 

 その一言にシノンは目を見開いた。一瞬のうちに頭に戸惑いが生まれて、油に付いた火のように広がる。おねえちゃんだって? 自分には――一応と言う形ではあるけれども――義妹である直葉/リーファがいるけれども、血の繋がった妹などいない。

 

 

「え? おねえちゃん?」

 

「そうだよ、おねえちゃん。あたしだよ、見ればわかるでしょ?」

 

 

 明らかに人違いよ――咄嗟にそう思うしかなかった。ヴェルサの素性はVRMMOの中という事情もあって知る由もなかったが、どうやら長らく会えないでいた姉妹がいたらしい。それと自分が似ていたために、ヴェルサは間違えてしまっているようだ。

 

 シノンは思わず溜息を吐き、応答する。

 

 

「……えっとね、ヴェルサ。私には姉妹は居ないわ。それにあんた、どうにも私がおねえちゃんに見えてるみたいだけど、人違いよ。よく見て頂戴」

 

 

 たまたま同じゲームで遊ぶ他人のアバターが、自分の家族や兄弟や姉妹に似ていて、その人ではないかと間違えてしまう――これもVRMMOの弊害なのだろう。このアバターはSAOの時からコンバートし続けているモノなので、現実の自分とほとんど同じ外観なのだが――ヴェルサの姉は余程現実世界の自分に似た人であるらしい。

 

 これでわかってくれたはずだ。そう思ったシノンが改めて向き直った時、ヴェルサは俯ていた。人違いだとわかって、落ち込んでいるのだろう。

 

 

「……あんたのおねえちゃん、本当に私みたいな人なの? もっと違う人じゃないの」

 

「……そうだよ。おねえちゃんは今みたいじゃない。もっと強くて、かっこよくて、あたしを、先輩達を守ってくれた……」

 

「そうでしょ。だから――」

 

 

 言おうとしたシノンの言葉を、ヴェルサは遮った。

 

 

「けれど、先輩達がみんな殺されて、おねえちゃんは今みたいな弱い人になっちゃった。本当は強くて、かっこよくて、優しいおねえちゃんなのに、あいつのせいで、あいつが来たせいでおかしくなった。そうだよ――」

 

 

 ヴェルサは顔を上げた。シノンは思わず息を呑んだ。ヴェルサの表情は尋常ならざる怒気に包み込まれていた。

 

 

「みんな、キリトのせいだ」

 

 

 その口から発せられた言葉に、シノンはもっと目を見開いた。今、ヴェルサはキリトと言った。ヴェルサはキリトと関係のある人だったというのか。自分ではなく、キリトと何かあったというのか。

 

 

「そうだよ。キリトが全部悪いんだ。あいつが来たせいで、あたし達は滅茶苦茶になった。先輩達はみんな罠に嵌められて死んだ。みんなあいつに殺された。それでおねえちゃんはあいつに連れ去られて、おかしくされた。キリトにおかしくさせられて……先輩達をみんな殺したキリトと一緒にいるようになって、妹のあたしの事も忘れて、弱くなって、弱くさせられて。そのくせキリトは英雄って言われて、血盟騎士団の団長にまでなって。近付いても全然殺せないところに逃げて。おねえちゃんと一緒に逃げて」

 

 

 ヴェルサの吐き出す言葉はSAOでの出来事だ。あのデスゲームの中で、ヴェルサは何か凄惨な目にあってしまったのだろう。そんな事はあのデスゲームの中では珍しくない出来事だ。

 

 だが、それにキリトが関わっているというのはどういう事だろう。キリトと何かあるのであれば、キリトの話の中にヴェルサが出てきているはずだが、彼の話の中にヴェルサが登場してきた事はない。勿論ヴェルサの姉もだ。

 

 

「やっと会えたのに、おねえちゃんはキリトのせいでおかしくなってて、あたしの事も忘れてて、一緒に戦っても弱くて……本当は強いって言ってあげても、思い出してくれなくて……キリトを殺せば元に戻ると思ったのに、SAOは終わっちゃって、もう殺せなくなって」

 

 

 そこでシノンは閃くものを認めたが、同時に背筋に悪寒を走らせた。そういえば、自分と一緒にパーティを組んだ者がSAOの時に居た。それは同じ血盟騎士団の団員であったが、明らかに自分に何か思っている事があるような振る舞いをしていて――。

 

 思い出そうとしたそこで、シノンは飛ぶように驚いてしまった。いつの間にそんな事をしたのか、ヴェルサがすぐ眼前――息がかかるくらいの距離にまで近付いて来ていた。目の前がヴェルサの顔でいっぱいになってしまっており、ヴェルサの目の前もまた、自分でいっぱいになってしまっていた。

 

 そこでヴェルサは、笑っていた。

 

 

「……でも大丈夫だよ。あたし、おねえちゃんを元に戻す方法、見つけたから」

 

 

 その直後、ぞぶりという嫌な音がした。遅れて背中が粟立つような悪寒が走り、足が崩れた。全身から力が抜けている。まるで足から地面へ流れ出てしまっているようだ。引っ張られるように地面へ仰向けに倒れた時、視界に表示される《HPバー》がある程度減っている事、そしてその横にアイコンが出現している事に気付いた。

 

 ――麻痺状態だ。いや、それにしては妙に複雑な模様が描かれている。麻痺状態を更に強化しているかのようなデザインだ。麻痺を上回る麻痺を撃ち込まれたらしい。

 

 その犯人であると思われるヴェルサは、シノンを見下ろした。その右手には背中の鞘から引き抜かれた双剣のうち一本が握られている。これでやられたらしい。

 

 

「ごめんね、おねえちゃん。これ、どうしても必要なんだ。おねえちゃんを元に戻すために」

 

「あんた、何、して……」

 

「するのはこれからなんだよ」

 

 

 ヴェルサは笑みに似た顔をしたまま剣をもう一本引き抜いてみせた。その剣は異様な形をしていた。シルエットこそは店売りの剣に似ているのだが、中央部分に青白く光る結晶のようなものがある。その中で雷のような光がびかびかと光っている。まるで帯電しているかのようだ。おまけに柄にはレバーのようなものまで付けられている。

 

 こんな複雑なギミックの付いた武器がこのゲームに存在していたとは驚きだが、それを気にしている余裕などない。ヴェルサはすうぅと息を吸い、吐くと同時に剣を降らせてきた。

 

 ずがっという音と共に二本の剣はシノンの肩に突き刺さった。痛みと熱に似た不快感がその部分を中心に広がり、シノンは軽く呻いた。《HPバー》が少し減少するが、そこに目はいかない。眼前のヴェルサの頭上に表示されているアイコンが緑からオレンジへと変色するのを、シノンは見ていた。プレイヤーを攻撃したせいでオレンジカーソルが適用されたのだ。

 

 

「ヴェルサ、あんた、オレンジカーソルになって……」

 

 

 オレンジカーソルになってしまったのは、普通ならばかなりの事態なのだが、しかしヴェルサは涼しい顔をしてシノンを見下ろしていた。

 

 

「こんなのブルーカーソルに比べたら気にする程の事でもないよ。それに街の衛兵NPCが襲ってきたところで、あたしとおねえちゃんに比べたら全然弱いから、普通に殺せちゃうよ。それで馬鹿みたいにポップしてくるから、経験値がいっぱい手に入るんだよねぇ」

 

 

 シノンはまた目を見開いた。この少女の言っている事は常軌を逸している。街や村を守る衛兵NPCは尋常ならざる強さを持っているから、オレンジプレイヤーもブルーカーソルプレイヤーも忌避する。だが、ヴェルサの口ぶりはまるで、その衛兵NPCを狩りまくってきたかのようだ。

 

 そんな事をやってのける存在をシノンは知っていた。アルゴから、シュピーゲルから、そしてキリトから、その話を聞いていた。そいつの特徴と、ヴェルサの特徴のいくつかが合致している事に、シノンは今更ながら気付いた。

 

 

「ま、まさか、あんた、は……」

 

「オレンジカーソルとかブルーカーソルとかどーでもいいよ。あたしはおねえちゃんを元に戻したいだけ。これからおねえちゃんを元に戻してあげるから……」

 

 

 やはり話が噛み合っていない。こちらの話はヴェルサに一切通じておらず、ヴェルサは自分の話だけを延々と進めている。その中にシノンはいつの間にか巻き込まれ、抜け出せなくなっていた。ヴェルサは上半身を少しだけシノンに傾けると、小さく口を動かした。

 

 

「ほら、早く戻って来て、おねえちゃん」

 

 

 そう言ってヴェルサは両手の剣の、レバー部分を力強く握った。それが切っ掛けとなり、剣の本質が覚醒した。身構えている暇さえなく――シノンの脳が中心から発火した。

 

 

「ひうぐッ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!」

 

 

 視界が一気に白く焼けて、合わせて全身に灼熱の炎が広がる。四肢が引き裂かれつつ焼かれる痛みと熱が襲う。神経がぶちぶちと引き千切られ、細胞も血も体液も一瞬で熱せられて沸騰して、身体が痛みそのものに喰われたかのようだった。どこかが痛いなどというわけではない。全身が激痛と高熱に襲われている。どこにも逃げようがない。

 

 

「あ゛う゛ッ、ひあ゛ぐッ、い゛だあ゛ッ、い゛だあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!」

 

 

 叫び声が出せる事が不思議と思えるくらいの、ヴェルサ同様に常軌を逸した痛みだった。顔の筋肉が麻痺して、涙と涎が出てきて飛び散り、止まらない。この世にこんな痛みが、こんな感覚が存在している事が信じられないが、それを思考する余裕などシノンにはなかった。

 

 しかし幸運なのかそうではないのか、痛みと熱から急に解き放たれた。目の焦点が上手く合わないうえに、涙のせいで全てがぼろぼろに歪んでいる。ヴェルサの姿も輪郭を失って、ぐちゃぐちゃになっていた。

 

 

「どうかな、おねえちゃん。これがあたしの力だよ。おねえちゃんを助けるために受け取った力だよ。相手プレイヤーのアミュスフィアの安全機能を麻痺させて、高電流の感覚を流すんだってさ。痛覚抑制機構(ペインアブソーバ)も無効化するから、どんな洗脳とかも解いちゃうんだって」

 

 

 ヴェルサの言葉はもはや独り言だった。シノンは呼吸を繰り返しているのに精一杯で、どんな言葉の意味も掴めない。だが、ヴェルサの言葉の断片から、ヴェルサの使っているモノがプレイヤーのアミュスフィアにさえ干渉するとんでもない代物だとわかった。

 

 

「い゛、あ゛、い゛、や゛、あ゛……」

 

「……あれ、まだ足りないんだ。キリトの洗脳、こんなに強いんだ……どこまで腐ってるの、あいつ」

 

 

 ヴェルサが毒気づくと、剣はまたもや覚醒した。ヴェルサの突き立てる剣から姿の見えない蛇が放たれ、剣を伝って身体の中に入り込み、毒牙で神経も血管も食い千切ろうとしている。肉を溶かして引き千切り、どんどん食っていく。全身がバラバラになっていく。そうとも思える痛みと熱が全ての方向から襲い来る。

 

 

「い゛ぅ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!」

 

 

 叫んでいるうちに視界がどんどん白く染まっていく。痛みと熱は白い色をしていた。どんどん広がっていく。意識が、神経が、身体が白に溶かされていく。だが、白い痛みと熱はシノン/詩乃を溶かそうとはしていなかった。どこまでも痛みと熱を与えるつもりだった。

 

 

「お願いおねえちゃん、早く元に戻って。おねえちゃんのそんな声、あたしも聞きたくないよ。だからお願い、早く元のおねえちゃんに戻って。早く、早く、あたしのおねえちゃんに戻ってよぉ」

 

 

 ヴェルサは懇願するように言い、レバーを引いた。再び詩乃の身体を痛みと熱が襲い、たまらず詩乃/シノンは叫ぶ。

 

 

「ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」

 

 

 最早辛うじて出せている声だった。喉の水分が弾けてしまって、掠れている。口の中は涎でいっぱいになっているのに、喉が動かせないのだ。次期にこの涎も、体中のあらゆる水分が蒸発するだろう。その前に体液が、血液が蒸発しようとして血管が破れ、行き場を失った水分が肉を吹き飛ばしたりするのだろうか。最早頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 

 電撃が収まるとヴェルサの声がした。やはり「おねえちゃんおねえちゃん」と呼んでいる。誰に向けて言っているのかも定かではない。何もかもが狂っている。

 

 このまま狂った少女に殺されるのだろうか。こんな呆気ない最期を、自分は迎えるというのだろうか。この痛みに焼き尽くされて、消えるのだろうか。視界が白く染められていく。

 

 白に染まっていく世界の中で、一つの影が見えた。それは少年だった。黒いショートヘアで、線の細い顔をしていて、優しくも力強い目をしている、黒いコートが特徴的な男性。

 

 自分が初めて好きになった男性であり、一生一緒にいる事を約束した人。狂ったヴェルサの言葉の中にも登場したその名前を、シノンは口にしていた。

 

 

「き……り゛……と……かず……とぉ……たす……け……」

 

「……また、キリトぉ……ッ!!!」

 

 

 その言葉がヴェルサの怒りに火をつけた。両手の剣が目覚め、再び熱と痛みがシノンの身体を走り回る。白みがかっていた視界が元の色を取り戻し、意識が強引にこの世界に引っ張り戻される。死に行こうとしていないというのは、皮肉にもその痛みと叫び声のおかげだった。

 

 

「い゛ゃ゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――ッ!!!」

 

「全部キリトのせいだ。キリトがあんな事をしたせいで、あたしもおねえちゃんもこんな事に、こんな事をしなくちゃいけなくなって……全部、よくも、全部、よくもぉ……!!」

 

 

 ヴェルサは怒りに燃えていた。その怒りが電撃となって襲ってきている。正確な行き先を掴めておらず、あちこちを飛び回り、関係のないものまで全て巻き込んでいる。ヴェルサの怒りは暴れ狂えるだけ暴れ狂っている――シノンは痛みと熱の中でそう思っていた。

 

 

「よくもよくもよくも――あう゛ッ!!?」

 

 

 その時、何かが上空を通り過ぎ、ヴェルサと剣がどこかに飛んでいった。痛みと熱が一気に引き、ぶおおと風が吹く。一体何が出来たか把握できなかった。意識が遠ざかっていく。その中で、シノンは微かに聞こえる声を掴んだ。

 

 

「ノン――シノンッ、詩乃ッ!!!」

 

 

 何回も聞いた声。そして今この瞬間に求めていたもの。耳にしたその時に、シノン/詩乃の意識はホワイトアウトした。

 

 

 

 

 

         □□□

 

 

 

 

 

「シノンッ、詩乃ッ!!!」

 

 

 《アデルザネード管制塔》の最上階に到達し、リランの背中から飛び降りて早々、キリトは横たわるシノンの身体を抱き上げつつ、呼びかけた。

 

 昨日妙な事を言って、異様な雰囲気を出していたヴェルサと、シノンが話をするためにクルドシージ砂漠に出かけていったという話を聞いたキリトは、その場にいた全員にヴェルサの話をした。

 

 ヴェルサがそんな事を言い出したのは信じられなかったのだろう、全員が驚きの声を上げていたが、やがてキリト同様にヴェルサの事を疑い始めた。シノンがそんなヴェルサに会いに行っているなど、危険すぎる。何か良からぬ事が起きるかもしれない。

 

 皆が口々に言い始めると、迎えに行こうと思っていたティア、それに付き添っていたプレミアとストレア、意外な事にレインもやってきた。新たにやってきた者達に同じ話をすると、やはり同じ反応をした。ヴェルサには絶対に何かある。シノンの身に何か起きてしまっているかもしれない。どうにも確認せずにいられなくなったキリトは、その場全員を連れてクルドシージ砂漠へ向かった。

 

 攻略しきった砂漠地帯に辿り着くと、キリトはリラン、ユピテル、ストレアの四人パーティを組み、シノンの捜索に当たる事にしたが、リランの翼で手っ取り早く向かう事の出来る《アデルザネード管制塔》を目指すのを決めた。一番奥から手前に向かえば、徐々に探すのが簡単になってくると踏んだからだ。進化で筋力も上がったリランは三人乗ってもへっちゃらで、平然とクルドシージ砂漠の空へ飛行。《アデルザネード管制塔》へ向かい始めた。

 

 そして《アデルザネード管制塔》の頂上に差し掛かったところで、それは見つかった。仰向けに倒れているシノンに剣を突き立てているヴェルサ。そして身の毛も弥立(よだ)つような悲鳴を上げるシノン。ヴェルサがシノンを襲っている。それも尋常ならざる方法でだ。

 

 激しい怒りに襲われたキリトはリランにヴェルサへの突進攻撃を仕掛けさせ、弾き飛ばした。地上に素早く降りたキリトは、襲われていたシノンの身体を抱き上げていた。

 

 

「詩乃、詩乃ッ!!!」

 

 

 本当の名前で呼びかけても、詩乃は返事をしない。光を持たない虚ろな目をしたまま横たわっているだけだ。まるで本当に死んでしまったかのようだった。

 

 

「キリトにいちゃんッ! シノンねえちゃんッ!!」

 

「キリト、シノンッ!!」

 

 

 間もなくユピテルとストレアが駆け寄ってきた。この二人――そのうちユピテルはリランと同じで、人の精神状態を細かく診る事が出来る力を持つ。咄嗟にキリトはユピテルに呼び掛けした。

 

 

「ユピテル、シノンは、詩乃はどうなってるんだ!?」

 

 

 呼びかけに応じず、ユピテルはウインドウを開いた。軽い操作をした後に、一気にその顔を驚愕のそれに変える。信じがたいものを見ているかのようだった。ストレアもまた唖然の表情をしている。

 

 

「そんな……こんなの、ひどい……こんな事をするだなんて……」

 

 

 見る見るうちにユピテルの顔が怒りに染まっていった。人間――特に女性の精神と心を治療する使命を持つが故に最も見たくなくて、許しがたい行為を見たようだ。直後、ユピテルは強引にキリトから詩乃/シノンを引き寄せると、うつ伏せにさせて項に両手を叩き付けた。

 

 

「ストレア、力貸して! 出力を上げるから!!」

 

「わ、わかった!」

 

 

 ユピテルの咄嗟の指示を受けたストレアはユピテルの背中に両手を当てた。《MHHP》、《MHCP》だけがわかる治療が開始されたのはわかるが、シノンの状態、何の治療が必要なのかがわからず、キリトは苛立った。

 

 

「ユピテル、詩乃はどうなってるんだ!?」

 

「話しかけないでッ!!」

 

 

 普段のユピテルから想像できない勢いで怒鳴りつけられ、キリトは言葉を詰まらせた。《MHHP》の彼でさえもこんな状態ならば、事は一刻を争うのかもしれない。シノンの事はこの二人に任せるべきだ。

 

 咄嗟に判断すると、塔の頂上がずしんと揺れた。ヴェルサを弾き飛ばして旋回してきたリランがキリトの隣に降りてきていた。彼女は身構えて、鼻に皴を寄せて吼える。その目線の先に居るのは、攻撃を受けて倒れているヴェルサだった。

 

 

《こいつめ……これが本性だったとはな!》

 

 

 《声》に応じてキリトも背中の剣を引き抜き、構える。

 

 

「ヴェルサ……何のつもりだ。シノンに何をした!?」

 

 

 リランの攻撃を受けて横たわっていたヴェルサは、ゆらりと起き上がった。その時ヴェルサのトレードマークである猫帽子が外れている事に気が付いた。彼女は青みがかった黒髪をセミロングにしていた。

 

 そしてようやく露になったその顔だが、やはり可憐な美少女のそれそのものであった。しかしその青水色の瞳と、表情は激しい怒りのものになっていた。憎むべき敵を見つけ出したかのようだ。

 

 

「何をした……何をしただって……それはこっちが言いたい事だよ。お前こそ何をしたんだ……あたしのおねえちゃんを、どうおかしくしたんだ。どうやったら元に戻るんだ……お前はどんな洗脳をおねえちゃんにかけたんだ……!」

 

 

 まるで意味が分からなかった。おねえちゃんを洗脳した? どんな洗脳を掛けた? それとシノンに何の関係があるというのだ。初めて出会った時の会話以上にちぐはぐだった。

 

 

「おねえちゃん、洗脳……何の話だ」

 

「何の話……だと……? お前は……やっぱり全部忘れているのか。あれだけの事をやっておいて……全部……全部全部全部!!」

 

 

 叫びつつぶんっとヴェルサは腕を振るう。その言葉の意味はやはり掴めない。意思疎通が全く上手くいっておらず、互いの言葉がドッジボールのように飛び交っていた。

 

 ヴェルサの叫びの直後、背後から多くの声がした。振り向けば、他の地点を捜索していたアスナ、ユウキ、カイムにシュピーゲル、レインにプレミア、ティアの姿があった。結局皆ここに駆けつけてきてくれたらしい。

 

 

「皆……!」

 

「キリト君、これは……どういう事なの!?」

 

 

 そう言ったアスナと同じように、皆は戸惑っていた。死んだように横たわっているシノンに、治療に取り掛かっているユピテルとストレア、そしてキリトとリランと対峙するヴェルサ。情報が絡まり合っている状況である事にキリトは今更ながら気が付いた。

 

 

《アスナ、皆、気を付けろ! シノンはヴェルサがやった。ヴェルサはまともではない!》

 

 

 リランの《声》を聞いて皆が驚き、アスナはキリトの隣に並んだ。直後、ヴェルサが真っ先に反応を示した。

 

 

「……アスナ。やっぱりアスナもあの時みたいにそいつの味方……今もそいつに味方……あたしの邪魔する……」

 

「え……!?」

 

 

 アスナと一緒にキリトも驚いた。ヴェルサはアスナを知っているらしい。それも昔から知っているかのような口ぶりだ。思わずキリトはアスナに問う。

 

 

「アスナ、こいつを知ってるのか?」

 

「……!」

 

 

 その時アスナははっとしたような反応を見せた。やはりどこかで会った事があるようだ。間もなく、ヴェルサが更なる怒気を顔に募らせてきた。

 

 

「何も、何もあたし達の事を知らないくせに……邪魔しないでよ……そいつは、そいつはあたしの大事な先輩達を(みなごろし)にして、おねえちゃんをおかしくしたんだ!! 《月夜の黒猫団》の先輩達をッ!!!」

 

 

 最後に出てきた名前にキリトは凍り付いた。

 

 《月夜の黒猫団》。かつて自分が所属していたギルドであり、自分が壊滅させた者達。守りたかったサチが居て、結局守れなかった場所。

 

 その名前を知る目の前の少女の姿を改めて確認して、キリトは目を見開いた。記憶が一気にフラッシュバックする。

 

 《月夜の黒猫団》と出会った夜、その構成員の皆を紹介してもらった時。棍使いケイタ、盾持ち片手棍使いテツオ、短剣使いダッカー、槍使いササマル。そして同じ槍使いサチ。そのサチには大切な妹が居て、その娘こそが《月夜の黒猫団》の最重要選手。

 

 その娘は青みがかった黒髪をセミロングにしていて、青水色の瞳をしている。そして一番目を引くのはデフォルメされた猫の顔がデザインされた耳付の帽子――そのいくつもの特徴が、目の前のヴェルサと言う少女と共通している。

 

 

「まさか君は……《マキ》……!?」

 

「まさかあなた……《マキリ》!?」

 

 

 その名前を口にしたのと、アスナが言ったのは同時だった。

 


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