日が暮れて夜が来る時間の事。
魔物や妖怪に出くわすかもしれない時間。
■■■
妙な事が起きた。スリーピングナイツの皆が《SA:O》にやってきた翌日、ぼくは学校があるにも関わらず、ある場所に呼び出された。そこは木綿季が入院しているあの病院であり、治美先生と倉橋先生のいるところでもあるところだった。
丁度昼休みの半ばくらいだっただろうか、その頃にスマートフォンに病院から連絡が来た。中身は学校を早退して来てほしいという文章だけ。それだけなら怪しんだだけだったかもしれないけれど、アドレスはあの病院のもので間違いなかった。
かつてぼくとおねえちゃんが入院し、今は木綿季が入院しているあの病院で、何かぼくに伝えられなければならない事柄がある。それだけはわかった。
それに、今朝から妙な事は起きていた。今日の深夜十二時過ぎに、何故か《SA:O》にログインしてきた木綿季が、「朝になったら事情を話すよ」と言っていたのに、本人は朝になってもプローブの中に現れる事はなかった。
今日は木綿季とはおはようの挨拶もしていないし、一緒に朝ご飯を食べたりもしていない。そして木綿季の入院する病院からの連絡。
――もしかしたらついに、木綿季の中のウイルスが死滅して、木綿季がメディキュボイドから出られるようになったんじゃないか。それをいち早く教えたくて、病院はぼくに連絡を渡してきたのか。
ぼくはそんな事を考えながら、電車に揺られていた。木綿季はおねえちゃんと同じエイズ患者だったけれど、おねえちゃんと違って新薬が間に合ったのだ。HIVを駆逐してしまうウイルスを含んだ新薬を投与された事で、木綿季の身体の中に長らく巣食っていたHIVは死滅していき、木綿季はエイズではなくなった。
これまではエイズは骨髄移植なんていう、大きな準備と難しい条件を達成しなければならない手術をしなければ治らなかったけれど、新薬のおかげでそれら全てを飛ばして、直接治せるようになった。木綿季もその一人で、いよいよメディキュボイドから出られるようになるのだ。
生まれた時から始まった闘病生活を終えて、普通の人として生活できるようになる。本人がこれを一番楽しみにしていたようだけれど、それはいつしかぼくも同じになっていた。
木綿季が早くメディキュボイドから出られますように――本人には言っていないけれど、ぼくはずっとそう願っていた。もしかしたらその願いが成就したのかもしれない。
そんな思いを抱きながら、ぼくは目的の駅に到着した電車から降りて、すっかり進む事に慣れた病院までの道を進み続けた。そしてつい昨日と同じように病院に辿り着き、その中に入る。
「……あれ」
そこでぼくは気付いた。病院は昨日とは様子が異なっていた。
エントランスの中は、脚の悪そうなお年寄りや小さな子供を抱えた母親といった、様々な人達が行き交っていた。それは昨日と変わらない。問題は受付に居る人達と、看護師達の様子だ。彼女達は昨日とは違って、どこか忙しない様子を見せている。何か重大な問題が発覚してしまったのを伝えられたかのようだ。
その様を、エントランスの一般人達――ぼくも含めている――は、不思議そうに見ていた。
「なんだろう」
「あれ、もしかして
受付、看護師達の様子を見るのに少し夢中になっていたせいで、玄関の方からの呼び声には驚いてしまった。きっと呼んだ方も驚いてしまっただろう。ちょっと申し訳なく思いながら振り向いて、ぼくは驚きはしないもののきょとんとした。
そこにいたのは、女性だった。見た感じ年齢はぼくとそんなに変わらない、明るい栗色の長髪を
「……!」
ぼくはその女性に見覚えがあった。以前和人の彼女である詩乃の誕生日を祝った時に初めて出会い、そして《SA:O》で一昨日一緒に遊んだ。その《SA:O》でのアバターとほとんど変わらない見た目をしている女性は、和人達と同じSAO生還者であり――SAOの時は木綿季と仲良く暮らしていたっていう、
「貴方は……
「あぁよかった。やっぱり海夢君なのね」
明日奈は駆け足気味でぼくに近付いてきた。当然彼女の方が背が高いので、ぼくは見上げ見下ろされる形になる。ぼくにとっては日常生活の一部なので、気にする事は特にない。
しかし、どうして彼女がここにいるというのだろうか。もしかして具合が悪くなって早退し、その足でここまで来たというのか。いや、それなら東京の病院の方に掛かるはずだから、それは無いだろう。実際血色もよく、具合が悪いようには見えない。
色々模索していたところ、彼女はぼくにもう一度声をかけてきた。
「海夢君がここに居るって事は、やっぱり呼ばれてきたんだよね」
「え?」
「わたしもそうなの。木綿季の主治医の治美先生からメールが来て、すぐに病院に来てくださいって……」
そういえばある時、木綿季は「時折海夢と同じように明日奈も会いに来てるんだよ」という話をしていた。SAOで仲良く一緒に暮らして、一緒に苦楽を共にした明日奈は、木綿季がエイズである事、木綿季がこの横浜の病院に入院していて、メディキュボイドの中に居るという話を本人から聞いたそうだ。だから明日奈はぼくと同じように、時折木綿季の許を訪れるようにしているという。
だけど、ぼくは明日奈と一緒に木綿季のところへ行った事は無い。ぼく達がこうして居合わせたのは、これが初めてだ。
「ぼくもそうです。治美先生から呼ばれて、早退してここに来ました」
そう言うと、明日奈は不安そうな表情を浮かべた。
「木綿季、何かあったのかな。木綿季はもう大丈夫だって聞いてたんだけど……」
実のところ、その心配はぼくの胸の中にもちゃんとあった。木綿季は新薬を投与された事でエイズを治した。もうじきメディキュボイドの中から出られる。今日、こうしてぼく達が呼ばれたのは、木綿季の治療が完了して、彼女がメディキュボイドから出られる事をいち早く知ってほしかったからだ。ぼくはそう思ってここに来ている。
けれどその裏で、ぼくも木綿季の身に何かあったのではないかという心配が存在している。無意味だ、無駄だ。思い違いだ。そう思っても消えてくれない心配が、胸の中に小さく渦を巻いている。
それはきっと、ぼくと同様にここに来た明日奈の中にもあるのだろう。
「わかりません。でも、治美先生は木綿季はもう大丈夫だと言っています。だから――」
「あの、白嶺さん……それと結城さん、でしょうか」
ぼくの返答を遮って、受付の方から声がした。
二人して振り返ると、そこにいたのは白衣を着た女性医師だった。いない時もそれなりにあるけれど、ぼくがこの病院に来た時、木綿季のところへ案内してくれる人だ。その人は今、ぼく達の許へ近付いてきていた。やはりというべきか、何か重大な問題を目にしたかのような顔をしている。病院の奥とエントランスを行き来する医師達と同じ顔だ。
その女性医師に返事をしたのは、明日奈だった。
「そうですけれど……あの、わたし達はこの病院の
女性医師は「やはりそうなのですね」と言って、どこか安堵したような様子を見せると、
「はい。狐灰先生がお二人をお待ちしています。詳しいお話は狐灰先生がされるという事なので、こちらへいらしてください」
そう告げて、病院の奥の方――エレベータのある方角へ歩き始めた。詳しい事情も話さずに、女性医師はどんどんぼく達から離れていく。話を少しくらい聴きたいところだったけれども、そんな余裕があるようには見えない。彼女も焦っているのかもしれない。ひとまずは、いつものように後をついていき、治美先生に会うしかないだろう。ぼくと明日奈は同じ事を考えたようで、両者何も言わずに、女性医師の後を追って歩き始めた。
病院の中は騒がしかった。患者の人達は騒いでいないけれど、医師や看護師達はひどく忙しない。患者達は何が起きているのかよくわからない様子で、医師達を見ているだけだった。ぼくも明日奈も同じようになりながら、女性医師についていく。
いつも木綿季のところへ行くために通っている道順を通っていき、乗り継いだエレベータから降りたところで、ぼく達は二人の医師と出くわす事になった。それは木綿季のいる部屋にいるはずの治美先生と、倉橋先生。そして二人がいるそこは、木綿季のいる部屋に行くための通路の前のラウンジだった。
「治美先生、倉橋先生」
「海夢君、結城さん……」
二人はぼくと明日奈を目に入れながら、静かに近付いてきた。同時に、ぼく達を誘導した女性医師がエレベータを使って去っていく。どこか忙しない様子だった女性医師とはまた違って、二人は険しい表情をしていた。
……覚悟はしていたつもりだけど、ぼくの考えていた事こそが思い違いで、明日奈の考えていた事の方が正しかったらしい。ぼくをそんなふうに考えさせる二人に近付き、明日奈が声をかける。
「治美先生、倉橋先生。どうしてここに。どうして木綿季のいるあの部屋じゃないんですか」
答えたのは治美先生だった。深刻そうな、もしくは悲しそうな表情を浮かべているのは変わりがない。こんな顔の治美先生を見たのはいつ以来だっただろうか。確か前に見たのは、おねえちゃんがまだ生きていて――おねえちゃんがもう助からないとわかった時だった。
「今、木綿季ちゃんの部屋には沢山のスタッフ達が詰めかけていて……それにそもそも、迂闊に立ち寄れるような状態じゃないのよ」
ぼくの横にいる明日奈は尋ねる。声色に戸惑いがあった。
「迂闊に立ち寄れない? どういう事なんですか。確かに木綿季はエイズになっていたから、迂闊に入ったりできない無菌室に居ましたけれど……」
ぼく達がいつも使っていた無菌室とガラス越しに繋がるあの部屋ならば、立ち寄れるじゃないか。そこさえも使えないなんて、どういう事だ。明日奈から引き継ぐようにして尋ねようとすると、倉橋先生が答えてきた。
「……お二人に詳しいお話をいたします。一緒に来てもらえますか」
そう言うと、治美先生と倉橋先生は奥の方へ歩き出した。勿論木綿季のいる無菌室のある方角とは別だ。この階にも診察室というか、その階にいる患者達のデータなどを取り扱っているところがある。二人の向かっているところはそこだ。
しかし、どうしてぼく達がそこへ向かわねばならないのだろう。ここで話が出来ないというのはどういう事なのか。疑問を抱いて立ち止まるぼくに、明日奈は「行ってみよう」と声をかけてきた。
――ここで止まっていてもしょうがない。明日奈の言葉でそれを理解したぼくは、ひとまず背中を向けている二人の医師を追って歩いた。
十数秒も経たないうちにぼくと明日奈は二人に追いつけたが、その時ぼく達の居場所は行き慣れない診察室の前になっていた。扉の前には『担当医:狐灰治美』という立札が付けられている。ここが治美先生の診療室というわけらしい。その扉を開けて治美先生と倉橋先生が入っていき、ぼくと明日奈も続けて入る。
部屋の中は他の診療室とほとんど同じ内装だった。薬とか本の入った棚があって、簡易ベッドがある。テーブルにはかなりモニターの大きなパソコンが置かれており、如何にも診察のために使うものといった様子だった。
そのテーブルとセットになっているであろう椅子に治美先生と倉橋先生は腰を掛けた。ぼくと明日奈も患者が座るための椅子に腰を掛けて、四人で向き合う形となる。しかし、ぼく達はこの二人による診察を受けに来たわけではない。話を聞きに来たのだ。
「……それで治美先生、話って何ですか」
ぼくの問いかけに治美先生は答える。その目線は何故かぼくの右肩に向けられていた。
「海夢くん、今日木綿季ちゃんとお話しした?」
「いいえ。木綿季とは挨拶もしていませんし、プローブの電源を付けても中に居ません。今日は木綿季と会ってないのと同じです」
明日奈が少し驚いた様子を見せる。木綿季からぼくとの日常の事をある程度聞いているのが彼女だから、今日起きた事は彼女にとって驚くべき事だったのだろう。そしてぼくの返事に応えたのは、倉橋先生だった。
「はい、こちら側のメディキュボイドの操作によって、ただいま木綿季くんの意識は完全に閉ざさせています。こちらが操作するまで、眠りから覚める事はありません」
「なんでそんな事を? 木綿季に何があったって言うんですか」
いよいよ明日奈の声が大きくなる。胸中は心配でいっぱいだろう。ぼくもまた、同じような状態だ。いつもの木綿季みたいにポジティブな気分を持とうとしても、出来ない。
そんなぼく達を見て少し肩を落としてから、治美先生はパソコンに向き直り、ある程度の操作をした。画面の表示が切り替わり、電子顕微鏡で撮影したような写真が映される。
沢山の柱のようなものが生えた、なめらかな球体が撮影されているモノクロ写真。それが画面の左側に表示されていた。その写真に写っているモノに、ぼくは見覚えがあった。それでも一応、治美先生に答えを聞いてみる。
「治美先生、それって……」
「ええ。これはあの時あなたの身体から見つかったウイルス。HIVが変異を遂げて、かつての自分だったHIVを捕喰する性質を手に入れたモノ……それがこの写真に映っているモノよ
」
治美先生はぼくと明日奈の方へ向き直る。
「結城さん、海夢くん。あなた達は木綿季ちゃんがどんな状態だったか、理解しているはずよね」
「はい。木綿季はエイズでした。だけど新薬が投与された事で、もうそうじゃなくなったって……」
「ええ、そうよ。木綿季ちゃんの身体に巣食っていたHIVは新薬のウイルスによって全て駆逐された。HIVによって破壊されていた木綿季ちゃんの免疫細胞は元に戻って、木綿季ちゃんの身体をもう一度守るようになっている。彼女は正常な身体に戻りつつあったの」
そこで治美先生に割って入ったのは、意外にも明日奈の方だった。
「でも、木綿季はメディキュボイドからなかなか出てこれないんでしたよね。確か、新薬の中に居るウイルスが生き続けているとかなんとかで……」
新薬。それはHIV感染者の体内のHIVを全て喰らい尽くす性質を持ち、HIVを喰い終わると餌を失い、そのまま死滅するようになっているウイルスを内包している。発見当時は世界を揺るがせたというそれのおかげで、世界中からエイズ患者というモノがいなくなり、そのうちエイズやHIVが地球上からいなくなるとも言われていた。
その新薬がHIV感染者、エイズ患者であった木綿季にも投与されて、実際に彼女の体内からHIVは殲滅された。もうメディキュボイドに入っている必要は無くなったのだが、彼女は出してもらえていなかった。新薬に含まれるウイルスが何故か体内で生存し、いなくならないという現象が起きていたからだ。
「そうよ。私達はどうしてこんな事が起きているのかと、ずっと研究と観察をしていたの。そして昨日……ある事実が発覚したの」
そう言って治美先生がパソコンを操作すると、ディスプレイの右半分にもう一枚の写真が表示された。左側と同じモノクロ写真で、似たようなものが写っている。しかしそれは、左側のそれと比べて、表面も柱も目に見えて荒れ果てたような形状をしていた。別物だ。
「これは……」
「……落ち着いて聞いて。これは、木綿季ちゃんの身体の中から見つかった新型ウイルス。新薬のウイルスが変異した結果、誕生したものだと思われるわ」
そういえば、新薬の基となったウイルスが見つかった時にされた話もそんな感じだった。また似たような事が起きたらしいと、ぼくは不思議と揺るがなかった。
「そしてこれは今……木綿季ちゃんの体内で爆発的に増殖し、免疫細胞を再び捕喰して、木綿季ちゃんの免疫機能を破壊し始めている」
その答えにぼくは愕然とした。いや、聞き間違いじゃないかと思った。治美先生に何か言われたけれど、それを聞き間違えてしまったんじゃないか。
「治美先生……今、なんて……?」
明日奈がか細い声で治美先生に尋ねる。ぼくと同じように今の言葉を上手く聞き取れなかったのかもしれない。治美先生はぼくと明日奈の方へ向き直った。
「詳しい事はまだわかっていない。スタッフ達が調べているわ。けれど、とにかくわかっているのは、木綿季ちゃんの身体の中に新たなウイルスが発見されたのよ。それは新薬のウイルスが変異したものと思われる……そして、それはかつて木綿季ちゃんの身体の中に巣食っていたHIVのような性質を獲得して、木綿季ちゃんの免疫細胞を壊し始めているの。治りかかっていた木綿季ちゃんの身体の免疫細胞が、もう一度破壊され始めているのよ」
木綿季の身体が、またウイルスに壊されている――。その言葉だけがぼくの頭の中で木霊した。木綿季はエイズじゃなくなった。新薬のおかげでエイズじゃなくなり、普通の人と同じように生きていく事が可能になった。そう告げていた治美先生が、今はそれを真っ向から否定している。
「なんでこんな事になったのかはわからない。もしかしたらの話だけど、木綿季ちゃんという十四年以上HIVを内包し続けた患者の体内という、ある種の特殊環境に置かれた事で、新薬のウイルスがもう一度変異を起こしたのではないか――そう考えているわ。このウイルスが発生した事により、とても危険な事が起ころうとしているの」
治美先生に言われても、全然状況が理解できないし、整理も出来ない。そんなぼくを見ながら、倉橋先生が付け加えるように言った。
「新薬を投与された事によりHIVが駆逐され、免疫細胞が回復していた木綿季くんの身体には、常人のものと同じ栄養剤や薬が投与されていました。完全なる隔離や除菌、滅菌がされたものではないので、それらの中には微細な細菌やウイルスが含まれています。免疫細胞を破壊され尽くしたエイズ患者に投与してしまうと、それらのウイルスに感染してしまうため、これまで木綿季くんに投与される事もなかったのですが、今日では投与されていました。新薬でエイズが治ったと判断していたので……」
ぼくも明日奈も信じられないような顔をしているしかなかった。きっとこの思いは、治美先生と倉橋先生の中にも存在している。
「木綿季ちゃんの身体で見つかった新型ウイルスは、さっきも言ったように爆発的に増殖して、ものすごい勢いで木綿季ちゃんの免疫細胞を壊していっている。発生からどれくらい経過しているのか、まだわからないけれど、もう木綿季ちゃんの免疫細胞は機能していないと一緒……木綿季ちゃんはこれから、栄養剤の中に混ざっていたウイルス群を原因とした病気に罹っていくわ。感染症、脳症……ウイルスを原因とする病気なら、どれが出てきても不思議じゃない」
つまり、木綿季はエイズに逆戻りした。これから――いや、すぐに――免疫細胞を破壊し尽くされて、病原に対して完全に無防備な状態となる。そして、普通ならば感染しようが症状を起こす事の無いウイルスに感染し、それら症状を起こしていき始めるのだ。
普通ならどうという事の無い病原に猛威を振るわれ、ありとあらゆる病気になって、身体を壊されて行って、最終的に死に至る。
ぼくの大好きだったおねえちゃんは、それで死んだ。
そのおねえちゃんと同じ事が、今度は木綿季の身に起ころうとしている。エイズから解放されて、もう大丈夫と言われていたはずの木綿季が、未知のウイルスが率いるウイルスの群れに、殺されようとしている。
かつての事を思い出してしまって、頭の中が麻痺してしまっているぼくの横で、明日奈がまたか細い声で治美先生に尋ねた。
「それじゃあ、それじゃあ木綿季は……木綿季はどうなるんですか……!?」
治美先生は俯いて、答える。悲しみを隠し切れないけれど、告げるしかないかのようだ。
「木綿季ちゃんはHIVによって免疫細胞を破壊し尽くされ、弱り切っていた。それが新薬でなんとか持ち直し始めていたけれど、常人を遥かに下回っていたわ。ウイルスの方からすれば、簡単に壊してしまえる。木綿季ちゃんの身体はボロボロからの治りかけ、そこに追い打ちを掛けられたら、ひとたまりもないわ」
「じゃ、じゃあ……」
戸惑う明日奈とぼくに、治美先生は顔を上げて答えた。
「……木綿季ちゃんの身体は、持ってあと二ヵ月よ。そのくらいの猶予しか残されていないとしか、私には断定できない」
その一言で、ぼくの足元ががらがらと大きな音を立てて崩れたような錯覚が襲ってきた。
木綿季はエイズから回復した。
家がないので、ぼくの家に住まう事になった。
ぼくの両親と養子縁組して、ぼくの家族になる事になった。
ぼく達と一緒に美味しいものを食べたり、どこか遠くを旅行したりする事になった。
そして本人の意向で、白嶺神社の巫女になる事になった。
白嶺神社のお祭りで巫女舞を披露する事になった。
木綿季には本当に色々な予定が立てられていた。これから木綿季は、楽しい日々を送っていく予定になっていた。
それなのに、そのはずなのに、それが全部白紙に帰った。
全部なかった事になった。
「なんだよ、なんだよそれ!?」
気付いた時、ぼくは胸の内から突き上げてきた衝動に動かされ、立ち上がっていた。胸の内から出て来るものを、大きな声で言うしかなかった。
「木綿季は、木綿季は助かるって言ってたじゃないか! おねえちゃんみたいに死ぬ事なんかないって、死ぬ事は無くなったって、治ったって言ってたじゃないか!! 木綿季は生きたがってるんだよ!? 木綿季はぼくと家族になるって言ってるんだよ!? 家族になって、一緒に暮らして、巫女になるって、そう言ってるんだよ!!? なのに、なのに、なのに!!」
治美先生も、倉橋先生も、明日奈もぼくを見上げていた。驚いているのは明日奈だけで、治美先生と倉橋先生は俯いているだけだった。この人達は木綿季を助けると言っていた。ぼくに、木綿季は助かると言っていた。ぼくは今までそれをずっと信じていたのに。
「なのに、なのに、なんだよそれ――」
「――聞いて、海夢くん」
怒鳴り散らすぼくに、治美先生が声を掛けた。その声はぼくのものよりも小さかったのに、凛として芯が入っていた。それはしっかりとぼくの耳に入り込み――ぼくの怒りを、吐き出したいものを鎮めた。いや、一時的に抑え付けてきた。
ぼくを黙らせるなり、治美先生は言葉をもう一度紡ぎ始めた。
「……問題は、それだけじゃないのよ。とても危険な事っていうのは、そういう事じゃない」
これ以上の何の問題がある。そう尋ねようとするよりも前に、倉橋先生が続けた。
「問題は……木綿季くんの身体から発見されたウイルスの感染性、その強さです」
「感染……性……?」
今度は倉橋先生から治美先生がバトンタッチして話をする。
「今のところ、木綿季ちゃんの新型ウイルスは血流を通して体内を循環してると思われているわ。免疫細胞を破壊して増殖する性質だから、かつて木綿季ちゃんの身体に居たHIVとの類似性がある。でも、詳しい調査はまだやっている最中で、身体のどこにそれがいるのか、よくわかっていないの。
そして、これでもし――あくまで可能性だけれど、木綿季ちゃんの口内などの粘膜、皮膚で新型ウイルスが確認されるような事があれば……木綿季ちゃんの身体から、木綿季ちゃんのいるあの無菌室の空気中にウイルスが散布されている事になる。
人の免疫細胞を破壊してありとあらゆる病気を発症させるウイルスが、ばら撒かれる事になる……」
治美先生はまた俯きつつも、はっきりした声で続けた。
「新型ウイルスに対抗できる術は今のところない。抗体もないし、ましてや新薬から生まれたから新薬は効かない。
まだ私が勝手に考えている段階だけど……木綿季ちゃんの身体は……罪のない人だろうと無差別に殺す、最悪のウイルスの苗床になろうとしているかもしれないの。
いずれにしても、今後の結果によって、木綿季ちゃんをもっと深いところに隔離しなければいけない」
――――
Q.こんな事起こりそうか?
A.今作はあくまでフィクション。ただしウイルスの変異力は侮れないものである。