キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 沢山の人を救えても、一番大切だった人を救えないなら、意味はないと同じだよ。





05:どんでん返しの末に

         ■■■

 

 

 

 次に目を覚ました時、ぼくは病院のベッドに居た。

 

 目の前にあるのは白い天井で、消毒液のような匂いがする。天井にはシーリングファンが取り付けられていて、ゆっくりと回っている。明らかに日本の病院だった。

 

 よくトラックや車に撥ねられると、神様に拾われて異世界へ転生するなんて話があるけれど、そうじゃなかった。

 

 ぼくが目を覚ましても、身動きが取れなかった。身体のあちこちが痛くて、ほとんど動いてくれなかったのだ。よく見れば、身体のいたるところが包帯でぐるぐる巻きにされているのがわかった。よく医療系ドラマとか、アニメのワンシーンで出てくるけが人の描写が、そのまんまぼくにされていた。

 

 どうしてこんな事になっているのか、すぐに考えようとしたけれど、その時ぼくは頭がうまく回らなくて、結局何も理解できなかった。それから結構な時間が経った後で、夜にしか帰ってこないはずのおかあさんが、お医者さんと一緒にぼくのところにやってきた。

 

 目を覚ましているぼくを見たおかあさんは泣き出して、ぼくに縋り付いてきたけれど、すぐさまぼくは事情を聴いた。答えたのはおかあさんじゃなく、お医者さんだった。

 

 お医者さんによると、ぼくとおねえちゃんは車に撥ねられて大怪我をして、この病院に運ばれて手術を受けたというのだ。そうなったのはぼくとおねえちゃんだけじゃなく、かなり沢山の人々が同じような事になったらしい。

 

 そこまで聞いて、ぼくは車に撥ねられる寸前の事を思い出す事が出来た。おねえちゃんと買い物に出かけたあの日の夕方、スーパーマーケットまであと少しというところで、信号が赤なのに止まらなかった車に撥ねられたのだ。ぼくもおねえちゃんもすごい大怪我をして、沢山の輸血を使う長い手術を受けたという。あの日からは三日も経過していた。

 

 ぼくはすぐにおねえちゃんを探したけれど、おねえちゃんは隣のベッドにいた。声をかけても返事はしてくれない。死んじゃったんじゃないかと思ったけれど、まだ意識が戻ってきてないだけという説明をお医者さんがしてくれた。

 

 その言葉の通り、おねえちゃんはぼくが目覚めて半日経った頃に目を覚まして、ぼくと並んで事情説明を受ける事になった。

 

 

 ぼく達の入院している病院は、横浜港北総合病院。丁度ぼくとおねえちゃんが話していたところだった。そこで治療を受けたおかげと、一応打ちどころがよかったおかげで、ぼく達は全治一ヵ月だという事だった。

 

 おねえちゃんはそれを聞いて安心していたけれど、ぼくはそうならなかった。あの車の事が気になっていたのだ。ぼくとおねえちゃんだけじゃなく、沢山の人を撥ねたっていう車。

 

 

 あの車はなんだったのか――その質問に答えてくれたのは、その日の夜にわざわざ京都から戻ってきてくれたおとうさんだった。

 

 おとうさんによると、あの車のドライバーは(ヘン)になっていてまともな状態じゃなく、暴走していたらしい。危険な薬物をやってるわけでもなければ、お酒を飲んで泥酔していたわけでもない。でも(ヘン)になっていた。だから信号もずっと無視して、五十キロ走行の車道を百二十キロで走っていたらしい。(ヘン)になっていて何もわからなかったから。

 

 その(ヘン)になったドライバーの運転する車が撥ねた人の数は、ぼく達も含めて十人に及んでいるという。その十人の被害者の家族はそのドライバーを責めたらしく、おとうさんとおかあさんもドライバーに話を伺おうとしたらしいけれど、応じたのはドライバーの家族だったという。

 

 その家族の話によれば、あの車のドライバーは最近もっとひどく(ヘン)になって、あの日事故を起こした事どころか、車に乗っていた事さえもわからなくなっていたというのだ。

 

 確かに事故を起こしているのに、ドライバーは(ヘン)になっていて応じれない。警察もこのドライバーを逮捕するかどうか、扱いにかなり困っているそうだ。それでもとんでもない額の慰謝料を払う事になっているのは確かだそうで、近々ぼくとおねえちゃんへの慰謝料が支払われる事は決まっていた。

 

 でも、ぼくにとってはそんな事はどうでもよかった。ぼくと一緒に撥ねられた、おねえちゃんは無事だったんだから。死なずに済んだんだから。それだけで、本当に良かったと思った。

 

 

 だけど、ぼく達はその時点で、全然無事なんかじゃなかった。寧ろ他の人達の中で一番ひどい事になっていたのだ。

 

 

 ぼく達が目を覚ましてから数日経った頃に、病院の中が騒ぎになった。騒ぎの原因はぼくとおねえちゃんだった。ぼくとおねえちゃんは(ヘン)になったドライバーの運転する車に撥ねられた後、この病院で手術を受けた。その時大量に血を流していたために、ぼく達には輸血製剤が使われた。

 

 

 その輸血製剤が問題だった。それはウイルスが紛れ込んで汚染されてしまっていたものだったのだ。

 

 こんな事が起こるのは何十万分の一という確率なんだそうだけれど、ぼく達は運悪くその一に当たってしまっていた。

 

 輸血製剤を通じてぼく達に感染したウイルスの名前は、ヒト免疫不全ウイルス。一般的にHIVと言われるものだ。

 

 

 体内に入り込んだ場合、人の免疫細胞を捕喰(ほしょく)して増殖し、人の免疫細胞をほぼ完全に破壊してしまう性質――生態というべきか――を持ったウイルス。これに感染してしまうと、後天性免疫不全症候群――エイズと呼ばれる病気になる。

 

 

 ぼくの中にそれに対する知識はあった。でも、まさかそれにぼくとおねえちゃんがなってしまったなんて話は、全然信じられるものじゃなかった。しかもそれだけじゃなく、ぼく達の体内に入り込んだHIVは薬剤耐性型――治療薬の効きにくい厄介な性質のそれだったのだ。

 

 普通のHIVとは違う性質を持った凶悪なHIV。お医者さん曰くHIV自体は厄介なモノじゃないって話だけれど、普通の薬が効かない時点で、それは間違ってると思った。ぼく達は凶悪なウイルスに感染したキャリアとなっていた。全然知らない間にエイズ発症者予備軍になっていた。

 

 その事を悲しんだのはおかあさんとおとうさんもそうだったし、京都にいるおじいちゃんとおばあちゃんもだった。でも、一番悲しんでいたのはおねえちゃんだった。

 

 おねえちゃんはぼくが感染してしまった事が、何よりも悲しいと言っていた。

 

 

 ぼく達がHIVに感染したという話をされてから数日、ぼくはぼんやりしてしまって、記憶があまりない。気付いた時には、ぼく達には多剤併用療法という治療方法が開始され、主治医となったお医者さんが二人、付くようになっていた。

 

 片方はこの病院に勤めている内科医であり、エイズの治療に詳しい倉橋という男性医師。もう片方は世界的なウイルス学者で、ウイルス治療の専門家でもある女性医師。狐灰(こはい)治美(なおみ)という人だった。

 

 ウイルス学の専門家である狐灰先生を中心に、ぼく達の治療が進められた。倉橋先生も様々な治療方法をぼく達にしてくれたけれど、狐灰先生の方はもっと熱心にぼく達の治療に取り組んでくれた。

 

 狐灰先生とは治療を通じて仲良くなって――いつしか狐灰先生は、治美と呼んでほしいと頼むようになった。ぼく達はそれを受け入れて、治美先生と呼んでいた。

 

 治美先生の治療方法はとても良いものだったらしく、ぼく達は薬剤耐性型HIVキャリアとなっても、一般的にエイズと呼ばれる病気を発症する事はなくて、傷を治す事も、リハビリに励む事も出来た。

 

 これならきっと大丈夫。ぼくもおねえちゃんも、家に帰れる――そう思って病院での毎日を過ごした。

 

 でも、結局退院できたのはぼくだけだった。退院間際になったその時に、おねえちゃんの容態は一気に悪くなった。おねえちゃんはぼくよりも先にエイズを発症してしまったのだ。

 

 おねえちゃんは病院に取り残され、治療を続ける事になった。

 

 

 家に帰れたのはぼくだけだった。その頃、おかあさんは仕事のやり方を変えて在宅ワーカーになって、家で仕事をするようになっていた。おねえちゃんとぼくの二人で切り盛りしていた家には、おかあさんが居てくれるようになっていた。

 

 退院した後、ぼくは学校に行かなかった。おねえちゃんの事が気になって、学校だの勉強だのといった事に打ち込める余裕がなかったのだ。学校に来なくなったぼくを心配して、親友の和人が電話してくる事も多かったけれど、その電話にはきちんと出て、和人には全てを話した。

 

 ぼくが事故に巻き込まれた事を、病院に入院していた事を、HIVに感染した事を、おねえちゃんがエイズになった事を、全て。これで和人に拒絶されるかもしれないと思ったけれど、和人は全然気にしていないどころか、ぼくの事をすごく心配してくれた。早くぼくに学校に来てほしいと言ってくれたし、やる気になったらネットゲームに来てくれとも言ってくれた。

 

 その言葉に元気付けられて、ぼくは頻度こそ少ないものの、ネットゲームには行った。そして和人/キリトと遊んだ。不思議な事に、ゲームで遊んでいる間は元気になれた。全てを忘れられた。時間も頻度も少ないけれど、ぼくは活力をゲームから得ていた。

 

 

 その事がわかっていたおとうさんとおかあさんは、すごく高いゲーム機とソフトをぼくに買い与えてくれる約束をしてくれた。そのゲーム機こそが、ナーヴギア――ソードアート・オンラインだったのだ。

 

 

 ぼくは楽しみだった。ここじゃない世界に行ける、嫌な事だらけの現実世界から抜け出せるような気がして、とても楽しみだった。

 

 でも、ぼくは結局そこにはいけなかった。ソードアート・オンラインはゲームオーバーになれば現実でも死んでしまうようになっているうえに、ログアウトできなくなる悪魔のゲームだったのだ。

 

 ぼくは病院での検査とおねえちゃんへのお見舞いでたまたまログインできなかったけれど、それが幸運だった。ナーヴギアは政府からの人に回収されて、ぼくはSAOに閉じ込められずに済んだのだった。でも、親友の和人はSAOに閉じ込められた。大切な親友さえも、奪われたのだ。

 

 ぼくは一層塞ぎ込んで、本当に病院に行く時以外、本当に家から出なくなった。丁度この時からだ。おねえちゃんの容態はどんどん悪くなっていった。おねえちゃんは色々な感染症になって、どんどん身体が壊れていった。

 

 そしてSAO事件が起きた一ヵ月後に――。

 

 

――一緒に居てあげられなくてごめんね。カイ、おねえちゃんの弟に生まれて来てくれて、ありがとう――

 

 

 そう言い残して、おねえちゃんは死んだ。大好きだったおねえちゃんは、この世の人じゃなくなった。

 

 治美先生も、倉橋先生も、誰もおねえちゃんを治してくれなかった。ぼくの家の神社に祀られている神様もそうだ。誰もおねえちゃんを助けてくれなかった。

 

 でも、誰かを責める事が出来なかった。責めたところでおねえちゃんが喜ばない事は知っていたから。

 

 

 だけど、それからぼくは一層塞ぎ込んだ。

 

 

 

 

           ■■■

 

 

 

 

「海夢くんの身体には、本当に驚かされました。何せ、世界中で起こりえなかった事が起こっていた、いえ、確認されていなかったものでしたからね」

 

 

 無菌室の真ん前の面談スペースで、倉橋先生がぼくを見ながら言う。相変わらず申し訳なさそうな顔をしている。この話をする事自体が、ぼくにとって失礼に当たると思ってくれているのかもしれない。

 

 それに続けて、治美先生が顎の近くに指を添える。

 

 

「澪夢さんと海夢くんは同じHIVに感染していたわ。薬剤耐性型HIV……感染すれば、まずエイズの発症は避けきれない。確かにHIV感染者は、治療によって普通の人と同じ寿命を生きる事が出来るけれど、それでも薬剤耐性型は普通のHIVと比べてエイズの発症率は高いわ。あなたも澪夢さんと同じようにエイズを発症すると、私は思っていた。でも、あなたはどんなに強いストレスにさらされても、エイズを発症する事はなかった……それが疑問で仕方がなかったけれど」

 

 

 その原因を見つけた時、病院が大騒ぎになったのはよく覚えている。

 

 HIVに感染してしまった患者は、免疫細胞を破壊されてその他のウイルスに対して無防備な状態にされ、ありとあらゆる感染症に罹っていく。そして最終的に様々な感染症を原因として死に至るのだ。これがエイズと言われる病気の一般例だ。

 

 かつては治療方法が存在せず、普通の薬が効かないという事から、不治の病と言われていたけれど、それは過去の話。今はしっかりと治療をすれば、HIVの活動を抑えて、普通の人と同じように暮らす事が出来るようになっている。

 

 でも、ぼく達に感染していたHIVは薬剤耐性型という、薬の効きにくいものだった。だからおねえちゃんはエイズになって死んだ。薬剤耐性型HIVは、死神の遣わせたものといっても間違いじゃない。感染した人は高確率でエイズになって、HIVを含めたウイルスの群れに殺されるのだ。

 

 だけど、そのウイルスの群れでも殺せない人が存在している。HIVに対する完全な耐性を持った骨髄を持っている人だ。

 

 これは白人の中の一パーセントくらいにしか確認されていないそうだけれど、その人達はHIVが身体に入ってもエイズにならない。その人達の免疫細胞はHIVが喰い付けないようになっているのだ。餌の無いところに入れられたHIVは、飢えて死ぬ。殺すはずの人間の体内で、HIVは殺される。

 

 この人達の骨髄をHIVに感染してしまった患者に移植する手術を行う事で、その患者のHIV感染、およびエイズを完全に治してしまうというのが、かつてのエイズの完全治療法だった。

 

 

「でもまさか……その理由が……ね」

 

 

 治美先生は驚きの混ざった視線でぼくを見ていた。このHIV完全耐性型の骨髄を持っている人は白人の中にしか存在していないうえに決して多くは無いし、そもそもこれ自体が遺伝子の異常の一つだともいわれている。だから、滅多に存在していない。それが医学の、世界の常識だった。

 

 

 でも、ここ最近でそれが覆った。

 

 

 ぼくのだ。

 

 ぼくの骨髄は、白人にしか確認されなかったはずの、HIV完全耐性型の骨髄だったのだ。

 

 

 だからぼくはおねえちゃんと同じHIVに感染しても、エイズにならなかった。白人にしか確認されなかったはずのものが、アジア人で確認された。それが判明した時、治美先生と倉橋先生は勿論、病院中が大騒ぎになったのは、よく覚えている。

 

 

『海夢の骨髄、HIV完全耐性型だったんだよね。それも、外国でしか見つかってなかったはずのものだったんだってね』

 

「そうです。だからこそ海夢くんはHIVに感染しても平気だったんです。まさかこんな事がわかってしまうなんて、思いもよりませんでした」

 

 

 倉橋先生の声に若干興奮が混ざっている。遠い海外にしか確認されてなかったものが、この日本で、しかもこの病院で発見されたのだから、ここに勤める倉橋先生も、治美先生も嬉しくてたまらないのだ。ぼくの骨髄があれば、沢山のHIV感染者、エイズ発症者を助けられるかもしれないのだから。

 

 

「言い方は悪いかもしれないけれど、海夢くんの遺伝子構造は突然変異を起こしているものと言えるの。元々HIV完全耐性型の骨髄を持っている人も、元々の遺伝子の異変でその性質を獲得するにあたっていると言われている。海夢くんの場合はこの遺伝子の異変が成長に影響してるみたいで……あなたが他の人と比べて小柄なのはそのためよ」

 

 

 このHIV完全耐性型の身体であるという説明を聞くと同時に、ぼくの身体がチビな理由はわかった。それでもお医者さん達からすれば、ぼくという存在の発見は快挙だったんだろうし、喜ばしい事だったのだろう。

 

 だけど、この事実がわかった後の調査で判明した事で、ぼくは喜べなかった。

 

 

「……でも、どのみちおねえちゃんは助からなかった」

 

「……えぇ、そうね。澪夢さんの事は本当に気の毒よ」

 

 

 ぼく以外の人の場合もそうだけれど、骨髄にただHIV耐性があっても意味はない。

 

 骨髄を移植してHIV感染者、エイズ患者を治すには、その骨髄の持ち主と対象となる患者の、HLAと呼ばれる白血球の型が合わないといけない。HLAが一致していないと、移植された方の身体が強力な拒絶反応を起こして、結局死んでしまう。血液型の一致していない血液を輸血してしまった場合と同じなのだ。

 

 

 そしてぼくの骨髄――正確にはぼく自身のHLAの型と、おねえちゃんのHLAの型は一致していなかった。ぼく達は家族だったのに、姉弟だったのに、一致していなかったのだ。

 

 

 だから、ぼくの骨髄がHIV完全耐性型なのだとしても、おねえちゃんに移植して、おねえちゃんのエイズを治す事はできなかった。

 

 

「確かにそうですね……新薬のもととなるものがもう少しだけ早く見つかってくれたなら、その時海夢くんのお姉さん……澪夢さんが助かった可能性もなかったわけではありません」

 

 

 お医者さん達の驚き、医学のひっくり返りはそれからすぐに起こった。

 

 おねえちゃんが死んだ後で受けた定期検診で、ぼくはこの病院で血液検査を受けた。エイズを発症しないとはいえ、血液中にHIVが生き残っていたら危ないから、ぼくの定期検診は続いていたのだ。

 

 その血液検査の時だった。治美先生と倉橋先生が、ぼくの血液の中から変なウイルスが見つかったと言った。そのウイルスはHIVの形によく似ているけれど違うものである、全く未知のウイルスだったらしい。ウイルス学の専門家だった治美先生は、集中してこのウイルスの解明に取り組んでいった。

 

 そしてそれから数日後に、ぼくはまたこの病院の、治美先生のところに呼び出された。治美先生はひどく驚いた様子だったし、その話を聞いて、ぼくも同じように驚く事になった。

 

 

 ぼくの血液の中から発見されたウイルスを培養して、試しにHIVと同じところに置いたところ、そのウイルスがHIVを捕喰して、全滅させたというのだ。

 

 そのウイルスは、HIVを捕喰して殺す新種のウイルスだった。

 

 

 HIV感染者がエイズになるのは、HIVが免疫細胞を捕喰して壊すからであり、HIVが免疫細胞を捕喰しなくなったら、免疫細胞は再生し、感染症にかからなくなる。即ちエイズではなくなる。

 

 ウイルスの性質を見いだした治美先生は、試しに許可をもらった一人のエイズ患者に、薬と混ぜてこのウイルスを入れる実験を行った。すると、その患者の体内に巣食っていたHIVを、ウイルスは片っ端から食べて、増殖していき、患者の体内のHIVを全滅させた。そしてウイルスは食べ物を失って死滅し、HIV共々患者の体内から消え去った。

 

 HIVに侵されていた患者からHIVは消滅し、エイズは快方に向かったという結果が出た。勿論危険性もあって一回じゃなく、数回同じ実験をしたらしいけれど、結果はどれも同じ。

 

 ウイルスを接種された患者から、HIVはいなくなったのだ。

 

 これがわかるなり、世界中の病院が大騒ぎになった。日本の病院もあちこちで大騒ぎになって、ニュースもそれ一色に染め上げられた。「難しい手段でしか治せなかったエイズが、一人の日本人の少年の体内から発見された物質によって、治せるようになった」と。このウイルスは専門の機関で研究された後に培養され、薬として使える形になって、《新薬》という名前で世界中の病院へ送られていった。

 

 

 エイズ患者にとっては夢みたいな希望。不治の病とされていたエイズが、それを作り出すHIVが脅威でなくなった。世界中が喜びの声で溢れ返った事だろう。治美先生と倉橋先生を含めた沢山のお医者さんがぼくを英雄と言って、エイズ患者を救った功労者として、ぼくの家に沢山のお金を入れてくれた。ぼくの家がお金に困る事はなくなった。

 

 

 でも、これはすべておねえちゃんが死んだ後に起きた出来事だ。世界中の数えきれないくらいの人が助かっても、ぼくの大好きだったおねえちゃんは助からず、一人死んでいったのだ。

 

 

 だから、ぼくは自分の身体に存在する骨髄も、新薬になったウイルスも大嫌いだ。

 

 一番助けてほしかった人を助けてくれなかった、役立たずだ。

 

 

「《新薬》はHIV完全耐性型の骨髄所有者を見つけ、その人とHLAの型が一致している必要があるなどの難しい条件をすべてスキップして、患者の治療をする事ができます。現にこの新薬の投与という治療が生まれたおかげで、世界中のエイズ患者の数が激減しました。一説では地球上からエイズがなくなるのも、時間の問題であるとも言われています」

 

 

 また熱の入ってきている倉橋先生の話を聞いてから、ぼくは治美先生に尋ねる。

 

 

「治美先生。あのウイルスはなんで発生したんでしょうか。どうしてぼくの体内から見つかったりしたんでしょうか」

 

 

 治美先生は頷いて、話し始めた。

 

 

「新薬になったウイルスだけれど、私は突然変異によるものだと思っているわ。ウイルスが突然変異って聞いて驚くかもしれないけれど、そもそもウイルスだって生き物なの。他の動物のように突然変異を起こしても、なにもおかしな話じゃない。毎年冬になると流行するインフルエンザが良い例ね。インフルエンザは突然変異を繰り返して、次々新しい性質を獲得する。毎年違うワクチンが必要になるのはこのためなのよ。

 それにエイズを発症させる原因であるHIVは、元々チンパンジーやゴリラといった猿の中にあった、SIVと呼ばれる免疫不全を引き起こさせるウイルスが原型でね。これが何らかの変異を起こして人間に感染する力を得て、この地球上にいる全ての人間に感染できるようになったという経緯があるの。だからHIVがもう一度変異を起こしたとしても、おかしくはなかったのよ。今まで確認されていなかっただけで」

 

 

 声色はいつもどおりだし、口調だっていつも聞いている治美先生のものだ。けれど今の治美先生から紡がれてくる言葉はすべて、熱を帯びているような気がする。倉橋先生ほどじゃないけれども、治美先生は熱弁を振るっているようだ。

 

 

「そして海夢くんの体内で発生したあのウイルスだけれど、あれはHIVが変異したもの。あの時海夢くんの体内のHIVは極限環境に置かれていたわ」

 

『入ったはいいけれど、餌がなかった環境、ですよね』

 

「そう。HIVは人の免疫細胞を餌にして増殖するわ。でも、海夢くんの免疫細胞はHIVが食いつく事の出来ない性質を持ったものだった。海夢くんに感染したHIVは食べ物のないところに置かれたも同然だったのよ。普通ならそこで増殖できずに死滅するはずだったけれど……」

 

 

 治美先生は黒色の瞳でぼくを見つめていた。ぼくは思わず息を呑む。

 

 

「ウイルスは生きるために変異を起こし始めた。そしていち早く変異を起こしたウイルスは、かつての自分の形だったHIVを捕喰して、増殖する方法をとったのよ。極限環境に置かれた事で、免疫細胞よりもHIVを優先的に食べて破壊して、爆発的に増殖する性質を手に入れた。そしてHIVを全て食べて破壊してしまうと、免疫細胞に食いつこうとせず、今度こそ死滅する――これが新薬になったウイルスの経緯と性質だと、私は思っているわ」

 

 

 まるで絵空事のような話だ。これなら医学と科学がタッグを組んで開発してるって言う、医療用ナノマシンの話の方がよほど現実感がある。けれど、治美先生の言った話は全て真実だ。真実だから新薬は出回り、世界中の人々が助かっている。

 

 

「……生きるのを諦めなかったウイルスから生まれたのが、新薬」

 

「そういう事になるわね。厳密に言えば新薬の投与はこのウイルスへの感染。このウイルスに感染する事で、HIVは駆逐されて……患者は元の身体に戻る事が出来る。本当に魔法みたいだと思ったけれど、こんな奇跡が起こるなんてね」

 

 

 奇跡は起きた。世界中の人々に。でも、ぼくには奇跡なんか起こらなかった。ぼくが――。

 

 

 次の瞬間、轟音がした。

 

 大気を掴む事のできる力を持った巨人が実際に大気を掴み、思いきり引き裂いたかのような大轟音だった。

 

 

 そんなものがどこからともなく耳の中に飛び込んできたのだから、驚かないわけがない。倉橋先生も治美先生もさぞかしびっくりしたような顔をしてきょろきょろしていた。その中でぼくは、一つの事実を掴む。今の音は朝に聞いたものと同じだった。あの時あの音をたてていたのは木綿季だ。

 

 そして今の音は、木綿季のスピーカーからした気がした。

 

 

「ゆ、木綿季」

 

『海夢、またウジウジして、先生達に当たるつもりだったでしょ。お見通しだよ』

 

 

 やはり木綿季があの音を鳴らした犯人だった。

 

 

「そんなつもりじゃ……」

 

『そんな事したって、おねえさんは喜んでなんかくれないよ。それに海夢だって、嫌な事ばっかりじゃなかったでしょ』

 

「……」

 

 

 ぼくは黙り込んだ。木綿季に言い返す事ができなかった。

 

 

 そうだ。不幸続きのぼくにも、嬉しい事がなかった訳じゃない。

 

 

 そしてその始まりは、この木綿季からだ。

 

 

 

 







――補足――

Q.HIVの突然変異なんてありそうなの?

A.この作品はフィクションだが、現実でも可能性はゼロじゃない。
 そもそも現実では本当に医療用ナノマシンでエイズなどの病気はどうにか出来るようになるかもしれないらしい。

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