◇◇◇
時刻は午前十時過ぎ。俺は今、電車に揺られていた。日曜日という日と、東京の都心付近に向かう電車というだけあってか、かなり混み合っており、見渡す限りどこもかしこも人、人、人だらけ。窓から見えるはずの景色も覆い尽くされているような有様だった。
「やっぱり日曜日だから、電車は混んでるな」
「それでも平日の朝に比べたらマシな方じゃない?」
「それもそうだ。平日の朝の込み具合は冗談じゃないくらいだからな、
普段の日曜日だったならば、俺は自宅の自室でアミュスフィアを被り、《SA:O》にダイブしている頃だ。しかし今日は普通の日曜日ではないから、ダイブの予定はすべて潰れていて、そのうえで俺はこの電車に揺られている。そして俺と同じように普通ではない日曜日を送っている人が今、俺の隣に座っていた。
若干茶色がかった黒髪をセミロングヘアにし、もみ上げの辺りを白いリボンで結んでいる。白いワンピースのような形状の服を着て、上から白緑色のトレンチコートを羽織っている、度の入っていない眼鏡をかけた少女。
SAOの中で出会い、俺が一生守っていき、愛していくと誓った、朝田詩乃。
大切で愛おしいその人が今、俺の隣で同じように電車に揺られている。
「それにしても、茅場晶彦の恋人だった人だっけ。そんな人があれにもいたのね」
「あぁ。俺も最初聞いた時にはびっくりした。だけど、菊岡さんにわざわざ電話して、俺に連絡を取って来たんだから、本物に違いないと思う」
俺と詩乃が電車に揺られているのは、昨日の菊岡からの連絡が理由だ。
昨日、ログインする寸前の俺に電話をかけてきた菊岡は、「《SAO事件記録全集》に記されている英雄であり、茅場晶彦であるヒースクリフと戦い、決着を付けたキリトに会いたい」と声をかけてきた人がいる」と連絡してきた。
もしかしたら俺を狙っている誰かかと思って身構えたが、その詳細を聞いてみたところ、なんと「茅場晶彦の恋人であった人」であるという話が出てきた。
俺達をデスゲームに閉じ込め、四千人もの犠牲者を出し――俺にリランと、彼女達が生きられる世界を作れるものと称した《ザ・シード》を渡してきた茅場晶彦の恋人であった人。
現在アメリカに在住しているというその人の事を聞いた時、その存在がにわかに信じ難かったが、菊岡に電話をかけてきているという時点で、本物であるという可能性を高くしていた。
――茅場晶彦の恋人だったその人が俺と会いたがっている。本当かどうかはわからなかったが、その人の頼みを俺は断る気にはなれず、菊岡に承諾すると言った。
そこから一時間ほど経った頃に菊岡から連絡が来て、「その人は明日に日本へ到着し、午前十時三十分過ぎ頃に東京駅付近にある、大きな喫茶店で待ち合わせをする」と言ったのだった。
そして今、俺は待ち合わせの時間に合わせるように家を出て、電車に乗ったのだ。
「茅場晶彦……ヒースクリフの元恋人……その人があなたに会いたがってるのはわかるけれど、どうして私まで?」
「……」
詩乃からの問いかけに、俺は言葉を詰まらせた。その人からの――正確には菊岡を経由した――連絡にあったのだが、その人は俺だけじゃなく、「SAO事件記録全集にて俺の伴侶と記されているシノンにも会ってみたい」と頼んできたのだ。
SAO事件記録全集には俺の事を大々的に取り上げた文章が多々存在しているのだが、その中にはしっかりと、『《黒の竜剣士キリト》には伴侶であるシノンという女性プレイヤーがいた』という供述も存在しているのだ。
これはつまり、俺の伴侶はシノンであるという事実が、世界中に広まってしまっているのを意味する。
その事は未だにシノン/詩乃には話していない。話してしまったらどんな反応をするのか、予想出来て仕方がないからだ。
「『俺の近くに居た人だから』って。『ヒースクリフを倒した俺の傍に居たシノンなら、きっとヒースクリフから何かしらの言葉を聞いているかもしれない』って」
「そんな理由なの。っていうか、なんでその人は《シノン》がキリトの傍に居たって知ってるの?」
「……菊岡さんがゲロった。黙っておけって言ったのに、ばらしやがったよあの人」
「……その話、知ってるのはその人と菊岡さんだけなのよね?」
恐る恐る聞いてくる詩乃。予想通りの反応だし、予想通りの言動だ。キリトの伴侶はシノンであるという事実は世界中に広まっていると知ったならば、もうどうなるかなど想像するまでもない。
だが、SAO事件記録全集が語っているのはキリトとシノンの事だけであり、シノンが詩乃であるという話は載っていない。そのあたりは僥倖と言えるだろう。
「こんな話を知ってるのは菊岡さんとその人だけだよ。他の人には知れ渡ってないから大丈夫だ」
「そうよね。それを聞いて安心したわ」
胸をなでおろす詩乃を見ながら、俺は思考を巡らせた。
これから会おうとしている茅場晶彦の元恋人とはどのような人物なのだろうか。菊岡からはその人が茅場晶彦の元恋人であるという話だけしか聞いていなかったから、具体的な人物像などはすべて現地で知る事になる。
だが、茅場晶彦の元恋人というくらいなのだから、きっと俺達でも知らない茅場の事を知っているのは確かだろう。もし聞けたならば、その話を具体的に聞いておきたいところだ。
茅場にはリラン/マーテルという事実上の娘がいたけれど、その娘すらも知らない話が大量にあるのだから。
「……リラン……リラン?」
「え?」
その時、俺はふと口から漏らした。詩乃が反応を示したが、気にする余裕はなかった。
そういえば、その茅場の元恋人の女性は、マーテルの事を知っているのだろうか。その人は茅場の傍にそれなりの時間居たはずだし、だとすれば茅場からマーテルの話を聞いてもいるはずだ。もしそうならば、マーテルの事も聞いておかねばなるまい。
そしてそのマーテル/リランは、今日はいつも以上にフリーだと言っていたから、いつでも通話に出られる状態のはずだ。茅場の元恋人から許可をもらえたら、一緒に茅場の話を伺うのもありだろう。
その事を詩乃に話すと、詩乃は納得したような様子だった。
「確かに、リランにとってはヒースクリフがおとうさんだものね。その人が許してもらったら、一緒に話を聞いた方がいいかも」
「そうだろ。それにリランからしても興味深いだろうな、父親の元恋人が相手なんだから」
その人の話を聞いた時は、きっとリランは驚くだろう。その時の光景が安易に想像できて、どこか笑いたい気持ちになった。リランもきっと驚く事になる、茅場の元恋人。その人の事を色々話しているうちに、俺達の乗せた電車は目的地である東京駅に着いた。
休日ならではの沢山の人混みが作る川の流れに乗りながら電車を降り、改札口を出て駅前に出る。スマートフォンを取り出して地図アプリを起動してみると、東京駅前からおよそ五分くらい歩いたビルの中にある比較的大きな喫茶店が目的地であるとわかった。
詩乃と一緒に話をしながら歩く事になるから、一応俺はデートをする事になる。それを俺は話そうとしたが、その前に詩乃の方がその話を持ち掛けてきた。「とても短いデートになるわね」と。
先を越されてしまった事に苦笑いして俺は応じ、詩乃とのとてつもなく短いデートをしながら、目的地に向かう事になった。
平日の朝ほどではない人の群れの中を進んでいき、大通りを過ぎる。走っていく車の音を聞きながら二人で話しつつ歩いていくと、地図アプリが案内した通りの時間で目的地である喫茶店に辿り着く事が出来た。
どちらかと言えば銀座もしくは渋谷の真ん中付近にありそうな気のする風貌のビル。外からでは喫茶店の中の様子を確認する事は出来ない。かなり奥まったところにあるようだ。窓から外が見えるような喫茶店じゃないから、利用客もそこら辺のチェーン店より少ないに違いない。
そんな場所を指定してきているという事は、かなり気密性の高い話を俺達にするつもりなのだろう。まるでボス部屋の扉を前にしたような緊張感を募らせながら、俺達はビルの中に入り込んだ。
俺達を出迎えてきたのは呉服店だった。このビルは階層毎に店が異なっているという、都心のビルなどによくある構造をしていた。奥へ進んで案内図を見ると、目的の喫茶店は建物の一番上にある事がわかった。すぐ傍にエスカレータがあったが、時刻を確認してみれば待ち合わせの十分前とあった。
時間はもうすぐそこまで迫っているから、早めの行動を取らなければ。俺達は少し速足でエレベータへ向かい、目的地である喫茶店を目指した。
エレベータが止まって扉が開くと、喫茶店ではない様々な店が隣接し合っている光景が見えてきた。どうしたのだろうかと思って案内図を見れば、喫茶店は最も北側にあると示されていた。どうにも時間がかかってしまっているな――そう思いながら北を目指して歩いていくと、徐々に人の数が減っていった。
一番人気があったのはエレベータとエスカレータの付近であり、そこから離れた喫茶店にはほとんど人気がなかった。というよりも、その喫茶店の開店時刻は午前十時二十分で、今さっき開店したばかりというのが人気のなさの原因だった。
中に入ってみると、比較的広々とした店で、いくつものテーブルと椅子が並んでいるのが見えた。しかし人は店員以外居ない。目を凝らしてみてみるが、客の姿を認める事は出来なかった。
俺達がこれから話をする事になるであろう女性らしき人の姿も見当たらないものだから、二人揃って首を傾げる事になってしまった。
「あれ、お客さん、いなくない?」
「あぁ。どうやら俺達が最初の客って事になっちゃったみたいだ」
詩乃も同じ事を考えていたのだろう、目を点にして店内を見回している。てっきり目的の人は辿り着いているとばかり思っていたから、この展開を読む事は出来なかった。
時刻を見てみれば、午前十時二十五分ぴったりと表示されている。十時三十分に合流するという話だったのに、五分前になっても目的の人は店に来ていなかった。
いやそもそも、よく考えてみれば、俺はその人の顔も名前も知らない。ただ茅場晶彦の元恋人の女性であるという話だけしか聞いていないのだ。持ち掛けた菊岡は俺達の写真と名前はその人に送っているらしいが、俺達には「会えさえすればわかる」と言っていて、名前も教えないばかりか、顔写真を送ってくれもしなかった。
だから向こうが俺達を見つけるしかないのだが、その人物が見つからないのではどうしようもない。今になって菊岡にやられた事に腹が立ってきた。
「どうする、和人」
「まいったな。向こうは俺達がわかるって話だけど……いないんじゃどうしようも……」
「――和人?」
急に名前を呼ばれた気がして、俺は「え?」と言ってしまった。今、確かに俺を呼ぶ声が聞こえた。詩乃のものではない声色の持ち主が、確かに俺の名前を呼んでいた気がした。その声は詩乃も聞こえていたようで、詩乃は店の入り口の方を見ていた。
その視線に誘われるように目を向けてみると、こちらに歩いてくる人がいる事に気付いた。
「え?」
歩いてきているのは女性だった。
光の加減のせいなのか、あるいはそういう色相なのか。だとすればかなり珍しい、深緑がかっているように見える黒髪をショートヘアにし、右側をヘアピンで止めている。ゆったりとしたデザインの紺色の服に身を包み、頬元にリズベット/里香と同じようなそばかすが若干ある、深い翡翠色の瞳をした、特徴だらけの女性だ。全体的に愛莉に似た雰囲気だから、恐らく年齢は同じくらいだろう。
だが、いずれの特徴を把握したとしても、知らない女性である事に変わりはなかった。その女性は真っ直ぐ俺達の元へ歩いてきて、すぐ前で立ち止まり、声をかけてきた。
「あなた達、今和人って言ってなかったかしら」
「え?」
「あなた達の話し声に、和人っていう言葉が聞こえた気がするの」
きょとんとする俺の前に、詩乃が割って入る。その顔は少し警戒心を出しているような表情になっていた。
「……失礼ですが、どなたですか。私達に何か用があるんでしょうか」
女性は詩乃を注視した。まもなく、懐からスマートフォンを取り出して、モニタと詩乃、俺を交互に見るを繰り返す。詩乃は警戒心を解かず、じっと女性の事を睨み続けた。
その様子を見つめる事数秒後、俺はふと気付いたものがあった。突然声をかけてきた特徴の多いこの女性だが、どこかで見た事があるような顔だ。全体的に薄らとしか覚えていないけれど、どこかでこの女性を、この女性の顔を見た事があるような気がしてならない。
この女性を見たのはいつだっただろう。
この女性は誰だっただろう。
かなりの有名人だった気がするが――そう思ったそこで、女性はスマートフォンから俺達へ視線を固定させた。
「……そう。あなた達ね。桐ヶ谷和人君と、朝田詩乃さんは」
詩乃は目を見開いた。俺も同じような動作をしてしまっている。今、この女性は俺の名前だけではなく、詩乃の名前までも呼んだ。この人は俺達の事を知っているというのか。
驚いてしまっている俺達を数回交互に見るなり、女性はその厳格そうな表情を、穏やかなものへ変えていった。
「……初めまして。今日ここであなた達と待ち合わせをしていた、
「神代、凛子……?」
その名前を聞いた次の瞬間、俺は大きな声を出して驚いてしまった。びっくりしている二人の視線を浴びる中で、頭の中にあったものと名前が線で繋がる。
そうだ。神代凛子だ。
茅場晶彦と同じ東都工業大学重村研究室出身で、詩乃と愛莉が使い、現在は木綿季が使用しているという医療機械、メディキュボイドの開発者。IT開発業界の人間ならば知らぬ者はいない有名科学者。
その経歴などを調べているうちに見つけた名前と顔写真と、目の前にいる女性の顔は一致していた。
「神代凛子博士……メディキュボイドの開発者!」
「えっ、メディキュボイドの開発者!? この人が!?」
詩乃もさぞ驚いている様子を見せている。自分の使っていたあの機械の開発者がここにいるというのだから、驚かざるを得ないのだ。
「あぁ、間違いない。メディキュボイドについて調べてたら出てきた人だ」
「そ、そうなの!? 嘘でしょ……?」
だが、ここでもっと驚くべき事情が発生している。俺達は茅場晶彦の元恋人の女性と会う約束をしていた。そしてこの神代凛子博士は、俺達と待ち合わせしていたと言っている。
これはつまり、茅場晶彦の元恋人は、メディキュボイドの開発者である神代凛子博士だったという事だ。
茅場晶彦の元恋人がそんな有名人だったなんて話を知り、実際に出くわす事になるなど、誰が予想できるというのか。
驚きのあまり言葉が上手く出せないでいる俺達に軽く苦笑いしてから、神代博士は言った。
「その辺の事は、菊岡さんから知らされてなかったのね」
「え……えと……」
一気に緊張が高まる。茅場晶彦の元恋人と聞いていたけれど、まさかそれがかの有名な科学者である神代博士だったとは、全然予想出来てなかった。どう対応すればいいのかわからないでいると、神代博士が店内へ向けて軽く一歩踏み出した。
「ひとまず、座りましょう」
「え、あぁ、はい」
神代博士に言われるまま、俺達はがらんどうの店内を進んだ。そして最も奥の席の近くで神代博士は椅子に腰を掛け、俺達も対面する形で椅子に腰を掛けた。
目線を前に向ければ、そこにいるのはかの有名な神代博士。茅場晶彦の元恋人と会うという話だけで十分に緊張できたのに、やって来たのは神代博士という有名人だから、緊張の強さなどこれまで経験した事が無いくらいのものになりつつあった。詩乃の方も同じような有様だ。
一体何から話をすればいいのか――そう思う俺に声をかけてきたのは、神代博士の方だった。彼女はどこか穏やかさと哀愁を両立させたような雰囲気を漂わせていた。
「桐ヶ谷君……あなたの話は読ませてもらったわ。SAO事件記録全集のキリト、なんだってね」
「えっ、えぇ、はい。というか神代博士、いえ、神代先生は読んだんですか。SAO事件記録全集」
「えぇ、電子書籍版の方を。アメリカでも発売されてるけれど、私は日本語も普通に読めるから、原本を読む事が出来たの」
菊岡の言っていた通りだ。神代博士はSAO事件記録全集を読んで、俺達の事を、そしてSAO事件の事を知った。
そして読んだのだろう、SAO事件のヒーローであるキリトの事を。そんな事を知らない詩乃はきょとんとして、小声で話しかけてきた。
「SAO事件記録全集? それって何なの、和人」
「詳しい話は後でするよ」
珍しく詩乃はそのまま食い下がった。神代博士は苦笑いを交えた溜息を吐く。
「あの人を止めた人っていうくらいだから、どんな大人なのかしらと思ってたけれど……まさかあなたがあの英雄キリトだったなんてね。それで、英雄キリトの付き人だったシノンが、そんな人だったなんて」
「その話を知ってるのは今まで俺の仲間達だけでした。今日で神代先生が加わったような……感じです」
「そんなに緊張しなくたっていいわ。別にあなたを責めたりするわけじゃないの」
神代博士はそう言うなり、やや俯き加減になっていった。胸の中に引っかかる感情があるような様子だった。
「……そうよ。私はあなたを責める事なんてしない。寧ろ私の方が責められるべきなの。あなた達だけじゃない、SAO生還者達全員に、私は責められるべきなのよ」
神代博士の言葉が耳に届くと、俺の中の緊張は瞬く間にどこかへ消え去っていった。
そうだ、メディキュボイドの偉大なる開発者という認識でいたけれど、この人こそが茅場晶彦の元恋人だった。茅場晶彦の、俺達の知らない事を沢山知っている人なのだ。そして今の言葉から察するに、SAO事件に関与した話もあるらしい。
気になって、肩を落とす神代博士に声をかける。
「それはどういう意味ですか。いやそもそも、神代先生はどうして俺達を呼んだんでしょうか」
神代博士は顔を上げた。先程のような穏やかな雰囲気は消えて、悲しげな表情が浮かんでいる。
「あの人を止めた英雄キリトと伴侶のシノン。あの人の罪を知ったうえで、あの人と戦ったあなた達になら、話せると思ったの。あなた達がSAOに閉じ込められている間の、あの人の事を、そこで私が犯した罪の事を」
「罪……」
その言葉に詩乃はぴくりと反応を示した。神代博士に見つからない――いや、見つかってもいい――ように、俺はそっと右手を詩乃の手の上に載せる。直後に、神代博士は言葉を紡ぐのを再開する。
「桐ヶ谷君、朝田さん。あの人がSAOにダイブしている間、あの人の身体がどうなっていたか、知ってる?」
「いえ、知りません。知ってるのは長野県の山荘に茅場晶彦が遺体で見つかったって事と、移動した痕跡がない事からずっとそこに居たって事しか……」
「そう。SAO事件を起こした後、あの人はずっとその山荘にいたの。そこで彼は……ずっと私に身体の世話をさせていたの」
俺も詩乃も驚いた。長野県のとある山荘で茅場の遺体が見つかった時、そこには茅場は一人だけだったという事から、茅場はずっと一人でそこにいたと思っていたし、世間もそう報じていた。
「神代先生が茅場の身体の維持を?」
「えぇ。いくらあの人でも、何の手立てもなしにログインし続けるような事は出来ない。だからあの人は私に世話をさせたの。私の胸の中に、遠隔起爆型のマイクロ爆弾を埋め込んで脅迫する事でね」
その言葉に凍り付きそうになった。茅場は自分がSAOでヒースクリフになっている間、神代博士を脅し続けていたというのは、全く聞いた事のない話だった。いや、どこかで聞いたかもしれないが、その内容は既に忘れてしまっていた。
「茅場晶彦は、貴方にそんな事をしてたんですか」
「えぇ。身体に爆弾を埋め込まれて、あの恐ろしい計画の協力を強いられていた――世間ではそういう事になっているわ」
「え?」
詩乃と一緒に首を傾げる。神代博士は首を横に振った。
「でも、それは本当の事ではなかったの。あの人は、事件が終わった後に私が逮捕されてしまわないように計画してくれていたのよ。だから私は計画に加担していたにも関わらず、不起訴処分になって、実名報道もされず……アメリカに脱出する事が出来たの」
神代博士は左鎖骨の下あたり、丁度心臓の付近に手を添えた。恐らく爆弾が埋め込まれていた場所なのだろう。
「あの事件が終わった後、私は警察病院で手術を受けた。そこで見つかった爆弾は確かに本物だった。でもね、私はそれが起爆しない事を、あの人が最初から起爆させる気を持っていなかった事を知っていたの。あの爆弾は世間の目を誤魔化すためのカムフラージュ。私が事件が終わった後に逮捕されないようにって、あの人がくれたプレゼントだったのよ。
……あの人は決して、世間で言われているような悪魔の科学者なんかじゃなかった。その事を、あの人と戦って決着を付けたあなたに、どうしても話しておきたかったの」
神代博士の声からは大きな感情の動きを感じられた。そしてその言葉が全て嘘ではないというのがわかる。いや、神代博士に言われる前から、俺は茅場晶彦がいわゆる
「……知ってます。あいつはあんな事をしても、悪魔の科学者なんかじゃないって、俺は思えました。俺も、あの世界であいつの事情を沢山知る事になりましたから」
世間では悪魔だの狂気だの実は《壊り逃げ男》の元凶だの言われている茅場。だがあんな茅場にも、マーテルという愛娘が居たのだ。ここから先はきっと、今はリランという名前の茅場の娘も聞くべき話だろう。
神代博士は俺に問うてきた。
「……桐ヶ谷君。あなたはあの人から何を聞いたの。あの人と決着を付けた後、あの人から何を聞く事が出来たの」
俺は咄嗟にスマートフォンを取り出して操作する。電話帳を開いて通話相手を選択し、一つの名前をモニタに表示させた。茅場が後からそうなった存在であり、茅場に愛されていた娘。
神代博士が胸に埋め込まれた爆弾と同じ、茅場からプレゼントされた者と言える存在。
その名前を表示させながら、俺は神代博士に問い返す。
「……その事を話す前に、神代先生に紹介したいのがいるんです」
「紹介したい人?」
「はい。SAO事件記録全集では、俺には白いドラゴンが居たってありますよね。実はそいつはアーガスで茅場に育てられたAIで……偶然俺の相棒になってた奴なんです」
次の瞬間、神代博士の目が見開かれた気がした。俺は構わずに続ける。
「そいつは茅場が娘のように可愛がってて……決戦の後に、俺に託してくれたんです。それでその後に《ザ・シード》っていうVRMMOを作れるプログラムも渡してきて……茅場は《ザ・シード》を「その
「――マーテル」
俺はスマホから神代博士に視線を向け直した。神代博士は驚ききったような顔をして、俺のスマホを見つめていた。そしてその口から、俺達以外は知らないはずの名前が出てきたような気がした。
神代博士は更に続ける。
「そのAIの名前、もしかして……マーテルっていう名前?」
マーテル。
リランの本当の名前であり、俺達と茅場晶彦しか知らないはずの存在だ。その名前をこの人が知っているという事実を突き付けられ、俺も詩乃も唖然としてしまった。神代博士は少し早口になって、問い
「そのAIは今もいるの。あなたの相棒なの。ここで話が出来たりとか、するの」
「え、えぇそうです。そいつにも、貴方の話を聞かせたいと思ってて……」
神代博士は顔を変えず、何も言わなかった。しかしその顔は「そのAIを早く呼んで」と確かに言っていた。俺は無言のままスマホを操作し、通話を開始した。二回のコール音の後にスマホと電脳世界は繋がり、声が聞こえてきた。
《もしもし、和人か》
「……リラン」
《今日は予定があるからログインしないという話だっただろう。その用事の最中でかけてくるとは、どうかしたのか》
リランには事前に予定があるからログインできないと言っていた。だが、神代凛子博士と会うとは伝えていない。
「今日、実は茅場晶彦……お前のとうさんの元恋人に会ってるんだ。その人の話をお前にも聞かせてやりたくて――」
《アキヒコの恋人……だと!?》
スマホの向こうのリランは驚きの声を上げた。父親には恋人がいて、その人と俺達が会っていると聞いたのだから、当然の反応だった。
それに俺が答えるよりも前に、リランは一気に早口になって話しかけてきた。
《アキヒコの恋人と言ったな? その
「その人は目の前にいるよ。名前は神代凛子。メディキュボイドの開発者で――」
《こうじろ……りんこ……》
それを最後にリランは静まり返った。あまりに急すぎる変化を繰り返す相棒。流石に心配になってきて、俺は声を掛けた。
「リラン、どうした」
《……和人、その人を電話口に出して。
スマホはテレビ通話モードになっていた。モニタに向こうのカメラが映したリランの姿が映し出されている。そしてそのリランの顔は、とても驚いているようなものとなっていた。それも、これまで見た事が無いくらいで、更には口調まで素に戻ってしまっている。こんな顔をするリランは珍しいどころじゃない。
何も言う気になれず、俺はそっと神代博士にスマホを差し出した。テレビ通話モードに変えて。
「えっと、ここに映ってるのがそのAIです。今はリランって言うんですけれど、かつてはマーテルっていう名前で……」
神代博士はそっと俺のスマホを受け取り、その画面を覗き込んだ。今にも泣き出してしまいそうな顔をしていたから、俺は更に驚いてしまった。
俺のスマホに映るリランと見つめ合う事数秒、先に声を出したのは神代博士の方だった。
「……マーテル」
《……リン……コ……》
「マーテル、あなたなの。あなたなのね?」
《リンコ、リンコなんだよね?》
神代博士の声は震えていた。瞳に涙が蓄えられ、今にも溢れ出してしまいそうになっている。
「私の事、わかる……?」
《……わかるよ。忘れたりするわけないよ。また会えたね……やっと会えたね……》
リランは神代博士同様、震える声で答えた。
《……ママ》
スピーカーからしっかりと聞こえたその声に、神代博士は涙を
母と娘の再会。