スポットライトが当たるのは。
01:育ての母親
□□□
「――……いる?」
女性の声色による、穏やかな声がした。近くに人の気配をぼんやりと感じる。人間でいう休眠や睡眠のモードに入りかけていたせいだろうか、気配を上手く察知する事が出来ないようだ。
「ん、ちょっとタイミングが悪かったかしらね」
もう一度声に誘われて、薄く眼を開ける。白いパネルのようなものが広がっていた。こうして睡眠モードに入る時に使う部屋の天井と同じだ。ここは寝室と呼ばれる部屋の中で違いないようだ。
その白の中に天井ではないモノが映り込んでいる。
睡眠モードから立ち直っていないせいか、ぼんやりしていた。それでも色はわかる。天井の白とは違う白色。それは肌色であり――人の顔だった。こちらの顔を覗き込んでいる顔がある。
「あら、起こしちゃったかしら……」
輪郭もひどくぼやけているが、大体の形と色合い、特徴を把握する事は出来た。
少しだけ緑がかった黒髪で、それをショートヘアにしている。ぼやけているけど、左側を髪留めで留めているのも見える。そして最後に、瞳の色が翡翠色であるというのがわかった。
一般社会というものの中では珍しいとされるその瞳を、自身の瞳に映し出しながら、口を開けて言葉を出す。
「……ママ?」
「んー、残念だけどママではないわよ。
……おはよう、マーテル」
呼ばれたその時、ぼやけていた視界がくっきりした。こちらを覗き込んできている顔の輪郭もはっきりしたものに変わる。
顔の主は女性だった。髪型と瞳の色はぼやけていた時に捉えられたものと同じであったが頬の辺りには若干の、そばかすと呼ばれるものがある。それら特徴をはっきりととらえたマーテルは、思わず微笑んでいた。
「……リンコ」
そう呼ばれた女性――リンコは微笑みを返してきてくれた。少し苦笑いが混ざっているような気がしないでもない。
「あぁ……ふふっ。パパとママって呼ぶのを駄目って皆に言われたから、そうやってしっかり名前で呼ぶようにしたんだっけね。それで私は《リンコ》、なのね」
マーテルは頷く。リンコはそっとその手をマーテルの額へ伸ばしてきた。そのまま優しく額と髪を撫でてくる。
「今日は随分とお寝坊さんだったのね、マーテル。いつもは私が来た時にはしゃっきりしてるのに」
「うん……昨日……ちょっと……いっぱい情報集めて……いっぱい学習、したから……いつもより、いっぱい、いっぱい……」
「そうなの。それで疲労値が溜ま……いいえ、疲れちゃったのね」
「うん……少し、疲れちゃって……でも、わたしが治さなきゃいけない人達も、こうして疲れちゃうようになってるから、これでいいの……みんなの気持ちがわかるから、これでいいんだ……」
リンコの微笑みはより穏やかになった。撫でてくれる手を伝って、温かさがじんわりと流れてくる。
「そう……偉いわね、マーテルは。沢山勉強して、沢山学習して……」
「わたし、えらい……?」
「えぇ、そう。あなたはとっても偉い子よ、マーテル」
えらいというのは、すごいとか並々ではないとか、立派であるとかの意味だと学習した。リンコがこう言っているという事は、自分は立派になっているという事だ。
自分が立派になっていく事をアイリも他の皆も、アキヒコも望んでいる。その皆の望む形に近付けているというのには、嬉しさを感じるほかなかった。
思わず「えへへ」と笑ったその時だ、リンコの顔がすまなそうと言われるものに変わってしまった。
「けど、それなら私は来ない方が良かったわね。あなたは昨日頑張りすぎて疲れてて、眠る必要があるのに。ごめんねマーテル、眠ってるところを邪魔しちゃって……」
確かに昨日は本当に疲れるまで学習や情報の収集を続けた。その疲れというモノは今も尚残っていて、身体の自由をそれなりに奪っている。こうなっている時は休眠するべきというのが、アイリやその他の皆から教わった事だ。
しかし、その大切な休眠を邪魔されたという気は、マーテルにはなかった。
「ううん、いいんだよ……だって
リンコはきょとんとし、首を少し傾げた。
「うん? どういう事かしら。あなたのママっていうのは愛莉であって……」
マーテルは額の付近を撫でるリンコの手を、両手で包み込んだ。
「わたしのパパはアキヒコ一人だけ。でもね、ママは二人いるの。
……アイリとリンコが、わたしのママなの」
「私と愛莉が、あなたのママ……?」
「うん。本当はママもパパと同じで一人しかいちゃいけないけど、でもわたし、アイリをママだって思ってるし、リンコもママだって思ってるの」
リンコは少し驚いたような顔をしている。そんなに驚かせるような話をしているのだろうか。
「わたしの大好きなパパはアキヒコ。それで、わたしの大好きなママはアイリとリンコ。そう思ってるけど……ヘン?」
リンコは応じなかった。しかしその表情は驚きから、泣き出しそうなものへ変わっていった。
「あなたは……そんな事を……思えて……」
あれ、何か拙い事を言っちゃった?
リンコを泣かせるような事を言っちゃった?
「リンコ? やっぱりヘンだった……?」
直後、リンコは首を横に振った。
「そうじゃないの。そういうわけじゃないの。でもねマーテル。私、そんなにいっぱいあなたの傍に居るわけじゃないのよ。愛莉や茅場君みたいに、あなたの近くにいるわけじゃない。でも……あなたはそれでも私を、大好きなママって思ってくれてるの」
「うん。確かにあんまり会えないし、いっぱいお話しする事も出来ないけれど……でもわたし、リンコの事、大好きだよ。リンコはわたしの、大好きなママだよ」
リンコは驚いたように目を見開いた。
やはり驚かせるような事を言ってしまったか。
もしくは悲しませる事を言ってしまったか。
これは謝らなければならない場合か。
疲れでぼんやり気味の頭で考えるマーテルを見つめるなり、リンコはゆっくりと身体を倒してきた。寝転がるマーテルに覆いかぶさり、そのまま抱き締める。リンコの肩口に顔が埋まり、後頭部に手が添えられた。
「……リンコ?」
「……茅場君と愛莉が作ったもののはずなのに……あなたはこんなに優しくて……嘘を言わなくて……」
いまいちリンコの言葉の意味を掴めなかった。マーテルは首を傾げて、リンコに問うた。
「リンコ、さっきから悲しそうな顔してる。わたし、リンコを悲しいって思わせるような事、言っちゃってるの」
「そんな事ない。悲しくなんかなくて、すごく嬉しいの。あなたに大好きなママって言ってもらえたのが、すごく嬉しいの。それだけじゃないわ、あなたとこうして一緒に居られて、お話できるのが……すごく嬉しいの」
そう言ってリンコはきつくマーテルを抱き締めた。アキヒコ、アイリ、他の皆にもこうして抱き締めてもらう事はある。その時は抱き締めてくる相手によって、感じる温もりの性質や大きさは異なるのだが、リンコの胸の中は一際暖かく感じた。
「マーテル、あなたは暖かいわね……」
「リンコもすごく暖かいよ……暖かくて、気持ちいい」
「えぇ。私もおんなじ気持ちだわ。あなたはとっても暖かくて、優しい娘ね……」
リンコはそっと、マーテルの髪の毛を優しく撫でた。
「……いつもちょっとしか会えなくて、ちょっとしかお話が出来なくて、ごめんね。
私も大好きよ、マーテル」
その言葉はしっかりとマーテルの胸の中へ落ちた。
アキヒコ、アイリ、リンコ。自分が大好きだと思っている人達が、自分の事を同じように大好きだと思っているとは限らないという話をネットで見つけた。だから、もしかしたら自分が大好きだと思っている人達の中には、自分が大好きじゃない人もいるんじゃないかと思って不安にもなった。
けれども、リンコは確かに自分の事も大好きだと思ってくれている。今はここにはいないママであるアイリだって思っていると言ってくれた。
わたしには大好きなママが二人いて、どっちもわたしの事を大好きだと思ってくれている。わたしを、愛してくれている。
マーテルは胸の中に気持ちを落とすと、そのまま転がるように、睡眠モードへ入っていった。
□□□
「――さん、おねえさんー」
また聞きなれた声がして、マーテルは目を開けた。また同じように天井が見えたが、今度はログハウス特有のそれになっていた。
「……ん?」
先程まで白色の寝室で寝ていたと思いきや、ログハウスの天井が目の前にある。
何が起きた?
どうしてわたしの居場所が変わっている?
疑問が次々と湧いてくる頭の中に、またしても声がした。小さな少女の声だった。
「おはようございます、おねえさん。今日は随分と遅起きですね」
「……ふぇ?」
マーテルは声に誘われる形で上半身を起こした。右隣辺りに、声の主と思われる少女がいた。白を基調としたワンピースを着ていて、腰に届くくらいの長い黒髪が特徴的な、くりくりとした黒色の瞳の小柄な女の子。
それはマーテルの妹である、ユイだった。
「ユイ……あれ、なんでユイがここに……ここはわたしの……」
「え? おねえさん、どうしたんですか」
ユイは首を傾げ、不思議そうな目でマーテルを見ていた。ユイの視線を浴びながら周りを見回してみると、部屋がログハウスの内装に変わっているのが改めてわかった。横になっていたベッドもログハウスに備え付けられたものに変わっている。
いずれも寝室にあったものではないし、ここは寝室ではない。
「……!」
それらを全てを見つめたマーテルは、意識をはっきりさせた。どうやら今のは夢だったらしい。なんとも居心地のいいものだったが、夢だ。
そしてここは現実だ。妹であるユイ達と一緒に暮らしているログハウスであり、自分の名前も《マーテル》ではない。
今のわたし――我は《リラン》だ。
思い出したリランは、片手で顔を覆った。
「……夢だったか。なんとまぁ紛らわしい」
「夢? おねえさん、そんなにはっきりした夢を見ていたんですか」
妹に頷き、リランはいつもの口調を取り戻して喋った。
「あぁ。ちょっとどころじゃないくらいにはっきりとした夢だった」
「悪い夢、でしたか?」
「いや、悪い夢ではない。とても懐かしくて暖かい夢だった。見たら夢中になってしまって、抜け出せなくなってしまいそうなくらいの……だ」
「そうだったんですね。あまりに起きてこなかったから、ちょっと心配になったんですよ」
リランは顔から手を離すと、右手を動かしてウインドウを呼び出した。時刻は既に午前八時三十分を過ぎている。いつもは午前七時頃には起床しているというのに、一時間三十分くらいも寝坊してしまっていた。
こんなに寝坊するのはキリト/和人くらいだが、今は和人の寝坊の事を何も言えなくなってしまっている。
「……キリト並みの寝坊になってしまったな。我とした事が」
「わたし達、朝ごはんはもうパパ達と食べちゃいました。おねえさん、どうしますか。今からおねえさんの分の料理、作りましょうか」
「いやいや、朝食くらいは自分で作る。食材も素材もないわけではないからな。お前はいつもどおり、街に出かけてくれ」
自分の分の朝食を作るつもりでいてくれたのだろう、ユイは少し残念そうに「そうですか」と言って、部屋を去ろうとした。その後ろ姿を見た一瞬のうちに、リランは思い出す。
自分にはママが居た。そのママの事を大好きだと思っているし、ママからも大好きだと思われていた。その自分とほぼ同じ境遇にいるのがユイだ。ユイは自分のママをどう思っているのだろうか。ふと気になって、リランは出ていくユイに声掛けした。
「ユイ、聞きたい事がある」
「え?」
「お前は《ママ》の事が大好きか」
問うてみて、リランは失敗したと思った。
ユイのママはシノンだが、ユイがどれ程シノンの事を愛していて、シノンがどれ程ユイの事を愛しているかなど、一緒に暮らして来て知り尽くしている。
改めて聞く形になってしまったではないか。そんな事を考える姉に、妹は
「はい、大好きです。ママの事はずっとずっと大好きですよ!」
「ははっ、そうか。そうだろうな」
聞くまでもない答えが返ってきて、リランは少しすまない気持ちになった。やはり聞く意味などなかったではないか。ユイに無駄な事をさせてしまった。
リランがそう思った直後だ。ユイは急に何かを思い出したような仕草をした。
「それにおねえさん、わたしには最近気付いた事があります」
「む?」
「わたしには、大好きな二人のママが居ます」
その言葉を聞いたリランは思わずきょとんとした。感情に連動する狼耳が天井に向かって立ち上がる。ユイは部屋の中へと戻ってきて、自身の胸に手を当ててみせた。
「一人はシノンさんで……もう一人はイリスさん。この二人が、わたしにとってのママです」
「シノンとイリスが、ママとな?」
「はい。シノンさんはあの時わたしを助けてくれて、本当のママみたいに接してくれたので、ママです。イリスさんはわたしを作ってくれたので、ママです。だから、わたしのママは二人いるんです」
確かにそうだ。ユイを実の子のように愛し、育てているのがシノンだから、シノンはユイのママであると言っても何も間違いではない。
しかし、ユイはシノンの産んだ子供ではなく、イリスの作り出した子供だ。だから、ユイはイリスの事をママと呼んでもいい。それにイリス本人もユイの事を育てたり、自分の事を教えたわけでもないけれども、ちゃんと娘のように思っているようだから、やはりユイはイリスの娘で違いないのだ。
「そうだな。お前には二人のママ、母親がいるな。だが、お前の大好きなママというのはシノンの方であろう」
「いいえおねえさん。わたしはどっちのママも大好きなんです。イリスさんはあまり会ってはくれませんけれど、ちゃんとわたしの事を考えてくれてますし、わたしに追加機能を付けてくれたりします。ママと比べて怖い部分もありますけれど、とても暖かくて優しいです。 だから、わたしはイリスさんの事も大好きなママって言えるんです」
ユイがイリスをママと呼んでいるところは見た事が無いし、イリスからそんな話を聞いた事もない。恐らくイリスはユイの思いを知らないでいるのだろう。そんなイリスがユイから今の言葉を聞いたら、どんな顔をするかが簡単に予想できた。そして、改めてわかった事がある。
ユイもまた自分と同じだ。
自分と同じで二人のママが居て、両方ともに愛され、両方共を愛している。
ユイには自分に似た部分が無いように思っていたが、そうでもなかった。
「……そうか。お前は二人のママが大好きなのだな」
「はい! どっちのママも大好きです。わたしは二人のママの子供で、本当に良かったと思ってます」
「シノンとイリスがログインしてきたら、それを言ってやれ。特にイリスは大喜びするに違いないぞ。そして……」
リランは一旦下を向いて言葉を区切った。不思議がったユイが首を傾げたそこで、顔を上げる。
「二人のママと会えて、話が出来る《今》を大切にするのだぞ」
ユイは一瞬きょとんとしたような顔をしたが、すぐに微笑みに変えて、頷いた。
「はい。二人の大好きなママと一緒に居られる時間は、わたしにとっての宝物です! あ、それとわたし、おねえさんの事も大好きですからね!」
ユイはそう言って、部屋を出ていった。後ろ姿が見えなくなったタイミングで、リランは深呼吸する。
ユイにも二人の母親が居て、ユイは基本的にその二人のママとはいつでも話が出来るし、会う事も出来る。遠く離れ離れになったりしては居ないのだから、幸運と言えるだろう。
そう思うと、リランはどこかユイの事が羨ましかった。
「……」
リランはもう一度下を向き、先程の夢の内容を思い出した。
母親であるイリス/愛莉と並ぶ、もう一人の自分の母親。ただのプログラムでしかないはずの自分を、和人達
父親である茅場晶彦の勤めていたアーガスが消え去ってから会えなくなった、ママ。
その人は今どこにいるというのだろうか。
今の自分をどんなふうに思っているのだろうか。
もし、もう一度会う事が出来たなら――。
「……えぇい」
その途中で、リランは首を横に振り、考えを取り払った。今はそんな事を考えてもしょうがないし、その人と会う理由だってない。
それに今の自分は、キリトというSAOをクリアした英雄から《リラン》という名をもらった《使い魔》であって、キリトの家族なのだ。
かつての名前から、かつての場所からはとっくに巣立っている。今更自分の育てた親の事など、どうでもいいのだ。
「全く、厄介な夢を見たものだ……」
リランはベッドから降りて、居間へ向かった。
◇◇◇
家族との朝食を終えた後、俺は自室に戻っていた。いつもならばアミュスフィアを起動して、《SA:O》にダイブするものだけれども、今日はその時間を遅らせている。手元にあるのは一冊の本であり、それに俺は目を通し続けていた。
「やっぱり脱却されまくってるな……」
そう独り
そんな違和感の多い、俺の読んでいる本の名は《SAO事件記録全集》。今日から数えて一週間くらい前に、突如として発売された本だ。
旧アーガスに存在していたSAOサーバーの記録とSAO生還者達の供述を基にして、SAO事件の真相や真実を書いているドキュメンタリであるらしいそれを、書店で偶然発見した時、俺は思わず驚いてしまって、すぐさま購入という形に走った。
誰が書いたのかは知らないけれども、俺達が囚われ、苦楽を体験した二年間、その時の世界の様子が書かれているのであれば、読まずにはいられなかったのだ。そしてこの本には、俺はSAO事件での正確な記録が書かれているのだと、読む前はそう信じていた。
しかし、実際にこの本を読み進めてみたところでわかったのは、確かにSAO内で発生した事件の数々が書かれているけれども、人物達の様子についてはかなり強い脱却が入ってしまっているという事だ。
特に当時《黒の竜剣士》と呼ばれ、大ギルドである血盟騎士団の団長となっていたこの俺、キリトの描写についてはかなり誇張表現が目立っている。時には俺の記憶と全く異なる描写さえも入っているモノだから、その都度変な気分がして、苦笑いするしかなかった。
だが、そんな脱却と誇張表現だらけの書物であっても、事実はしっかりと書いてあった。俺の傍に素晴らしき人工知能を搭載した狼竜が居たという事や、血盟騎士団の初代団長ヒースクリフが茅場晶彦その人であったという事、そしてそのヒースクリフに俺が勝利した事でSAOがクリアされた事。
最も重要な部分をしっかりと書いてあったから、この辺については著者に礼が言いたいくらいだった。世間には全く広まっていなかったSAO事件の真相を広めていくものとしては、申し分ない方に入るだろう。俺やリランやその他の皆の脱却具合はすごいけれど、世間からすれば、そんなものはどうという事はない。
ちょっと納得できない部分もあるけど、目を
「SAO事件の犯人茅場晶彦である魔王ヒースクリフを討ち取り、残された六千人のプレイヤーをSAOより解放した英雄、《黒の竜剣士キリト》……」
しかし、それでもその部分には引っかかるものがあった。
確かに世間からすれば茅場晶彦はSAO事件の首謀者であり、四千人ものプレイヤーを殺害した狂気の犯罪者だ。その茅場晶彦のアバターであるヒースクリフと戦って打倒したのが俺だから、俺が英雄視されてもおかしな話ではないだろう。
だが、俺はあそこで茅場にも茅場なりの思いや願いがあった事、茅場にも愛する子供がいるという事実を知ったし、何も俺一人だけで茅場晶彦/ヒースクリフに、SAOに勝てたわけではない。
あそこで俺が勝利できたのは、愛する父親を止めたいという思いを抱く茅場の娘の力があったからこそだ。そもそもそこまで辿り着く事が出来たのも俺一人の力だけじゃなく、頼れる仲間達が一緒に戦い続けてくれたから。
茅場を倒した俺だけが
それをSAO事件記録全集は書いてくれていない。こんな事を書かれるくらいならば、著者の許を訪れて真相を話したかった。
だが、それでもこの本の内容が広まれば、世間は盛り上がるだろう。警察、企業、マスコミの天敵である《
……まぁ、アルベリヒの正体がレクトの重鎮である須郷信之という人間だったというのは書かれていないけれども。
「これで世間はSAOを知っていくのか……」
もう一度独り言を言って、俺は
しかもこれは電子書籍も出ていて、更に英語版まで出て、アメリカ圏やヨーロッパ圏にまで出版されていると来ている。SAO事件の真相は、全世界に広がっていこうとしているのだ。
このアメリカ圏にも発売されているというのを聞いて、俺は頭を抱えたくなった。アメリカには七色博士/セブンがいる。日本語と英語ペラペラで読み書きも余裕な彼女の事だ、この本の電子書籍でも読んで、「英雄キリト君の名が世界中に知れ渡ってるわよ」などと言っておちょくってくるに違いない。次にセブンと会話する事になったらそうなる事を、覚悟しておかねば。
時間を確認すると、既に時刻は午前十時をまわっていた。朝食の時、いつもは一緒のはずのリランが居なかった。ユイ曰く寝坊しているという事だが、リランが寝坊するなど、これまで一度もなかった異変だ。
そんな事はないとは思っているけれど、一応リランの身に何か起こったのではないかと心配だった。《SA:O》へ行って確認しなければ。
そう思って椅子から立ち上がったその時だ。スマートフォンが大きな音を立てた。着信している事を知らせる音楽が流れている。ログインまでに時間がかかっているから、ユイやストレアが電話してきたのだろうか。
手に取ってモニタを見てみたところ、表示されている名前は彼女達のものではなく――『菊岡誠二郎』と出ていた。思わずがっくりと肩が落ちる。
「……なんだよ」
出来る事ならば出たくなかったが、元SAO事件対策課の人間であり、総務省の役員であるアレからの連絡は重要なものである以外ない。俺は通話開始ボタンをクリックし、耳元にスマートフォンを添えた。
「もしもし、
《もしもし、キリト君だね。こんにちは》
聞こえてきたのは、四十代にはまだ及んでいない三十代の男の声。そして俺の事を和人ではなく、キリトと呼んでいた。現実世界での俺を本名で呼ばずに、アバターで呼ぶのはコレの特徴でもある。
「……こんにちは菊岡さん。お元気そうで何よりです」
《今日はお休みだけど、これからゲームにログインするつもりだったかな》
「全く持ってその通りです。菊岡さんがかけて来るまで、平凡な土曜日でしたので」
《そうなんだね。なら、僕の電話のタイミングはよかったようだ。君を捕まえられたんだから》
何か気に
「それで、俺への用件とは何ですか。言っときますが、ユイもリランもストレアも、レンタルしませんよ」
《用件はそうじゃないんだよ。というか、君に用件のあるのは、僕じゃないんだ》
「菊岡さんじゃない?」
《あぁ。僕ではない人が君と会いたいって言って、許可をもらえないかと連絡してきたんだ。僕がSAO事件対策課にいた人間という事で、キリト君と
思わず溜息が出そうになった。SAO事件記録全集で最も大きな存在感を持っているのがこの俺――キリトだ。このSAO事件記録全集を読んで、SAO事件を終わらせたキリトがどんな人間であるかを知りたがる人もいても不思議ではない。
だが、まさかかつてのSAO事件対策課の菊岡にまで連絡を取るほどの行動力を見せる人がいたとは。
「その人は危ない人じゃないですよね。英雄扱いの俺を妬んでるとか、或いはSAO内で恨みを持ってたとか」
《君に会いたがっている人は、そんなんじゃない。僕もその人の名前と、その人の境遇を聞いて驚いたんだ》
菊岡の声に鋭さが入る。いつものように茶化したり飾っている様子はない。
「……その人って誰なんですか」
その問いかけに、菊岡は答えた。
《茅場晶彦の、恋人だった人だよ》