キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 祝・アリシゼーション編スタート。






13:私が彼に出来ること

         □□□

 

 

「ごめんな。我儘(わがまま)言って……」

 

 

 SAO生還者が暮らすマンションの部屋の一つ、詩乃の使っている部屋に、詩乃と和人は居た。

 

 日が暮れかかっており、部屋の中には窓から夕陽が差し込んできていた。まだそれなりの明るさがあるけれども、もう少ししたら明りを付けなければならないだろう。オレンジがかった光に満たされる部屋の中、ベッドに二人で並んで腰を掛けている。

 

 

「急にこんなお願いされて、迷惑だったろう。ごめん」

 

「そんな事ない。私もあなたに会いたかったから……」

 

 

 詩乃はどうしても和人に申し訳なさそうに振舞うしか出来なかった。例え和人から変に思われようとも、そうせざるを得ない。

 

 詩乃は先程まで、かつて自らが通院と入院をしていた病院に向かっていた。

 

 今から丁度三時間ほど前、詩乃は《SA:O》にログインしていた。そのまま午後を潰すつもりでいたが、ログインしている最中に大きな異変が起こり、ログアウトせざるを得ない状況となったため、戻ってくる事になった。

 

 ログアウトから間もなくして、ユイから電話がかかってきた。出てみると、ユイはかなり焦っている様子で「パパがママの入院していた病院に行きました。今のパパはすごく心配だから、ママも行ってあげてください」と、和人の現状を教えてきた。

 

 その時――というよりも《SA:O》からログアウトしてから――既に、詩乃は和人の許へ向かおうと考えていた。とにかく和人の許へ向かわなければならないのが今。和人の今の状態をとにかく見なければ。その思いに駆られた詩乃は部屋を飛び出し、かつて自分の利用していた病院へ向かったのだった。

 

 そしてそこで、詩乃は和人と遭遇した。近くには直葉もおり、二人揃って詩乃の登場に驚いてきたが、詩乃は構わず和人の許へ寄った。和人は蒼白程ではないけれども、かなり顔色が悪く、病院にも無理してやってきているような有様だった。そこで和人も直葉も「どうして詩乃がここにいる?」と尋ねてきたから、詩乃はようやくそこで理由を話した。

 

「ユイから連絡があって、和人が病院に向かったと聞いて、いてもたっても居られなくなったから来た」。多少飾り付けはしたものの、そう伝えると、ひとまず二人は納得した様子を見せてくれた。

 

 そこで詩乃は改めて和人がひとまず無事であるという事に安心したが、その後すぐに和人は詩乃と直葉を驚かせるような事を言った。

 

 

 「詩乃の部屋に行きたい」と頼み込んだのだ。

 

 

 あまりに突然すぎる頼み事に勿論直葉は驚き、「おにいちゃん具合悪いのに何を言い出すの!?」と反論した。流石にその時は詩乃も和人の意図が読めず、何かの冗談だと思っていたが、和人はすぐに「家からここまで来るのに結構疲れた。それに彼女である詩乃に話したい事があるから、詩乃の部屋で休んでいきたい」と、追加してきた。

 

 確かに和人と直葉の住む家と、詩乃と多数のSAO生還者達が暮らすマンションでは、後者の方が病院から近しいところにある。それに話す和人の調子はあまり(かんば)しいものではなく、長距離を移動するのは難しいように見えた。恐らくそれを和人自身もわかっていたからこその頼みなのだろう。

 

 妹である直葉はその意図を読み取れたらしく、「和人をちょっと詩乃の部屋で休ませてあげられないか」と尋ねてきた。

 

 元々和人の事を見たかった、和人の事が心配だったからこそここまで来た詩乃にとっては、直葉からの頼みは丁度いいものであって嬉しいものでもあった。直葉からそのような頼みをされたという事は、直葉が詩乃の事をとても信頼しているというのを意味している。

 

 

 まだ家族でもないというのに、私は直葉にしっかりと信頼されている――その事実を受け止めた詩乃は直葉に「任せておいて。十分に休ませたら帰らせるし、何なら最後まで送り届けるから」と言って引き受け、二人と一緒に病院を出た。

 

 

 その後直葉と一旦別れて、いつもより倍に気を配りながら和人と歩き、既に何回も和人を招き入れている自分の部屋へ戻ってきたのだった。

 

 病院を出てすぐ、電車とバスに揺られている時の和人は若干ふらついていた。本人は大丈夫だと何回も言っていたが、明らかにそうではなかったから、詩乃はずっと和人の事を支えていた。しかしそれは最初だけで、詩乃の部屋との距離が縮んでいくなり、和人の状態は回復し始め、最寄り駅に辿り着いた時には快方に向かっていた。

 

 そのおかげで、和人は比較的すんなりと詩乃の部屋へ来る事が出来た。到着からすぐに、詩乃は和人を休ませるべくベッドに座らせて、自身もその隣に座ったのだった。

 

 ベッドに腰を掛けるなり、和人は深々と溜息を吐いた。ひどく安堵しているような様子だった。

 

 

「詩乃、あの時来てくれてありがとうな。あそこで君に会えて良かった」

 

「ユイに言われて行ったのよ。ユイ、私がログアウトしたら真っ先に電話してきて……あなたの事をすごく心配してたから」

 

「あぁ。俺もユイに言われて病院に行ったんだ。ユイの言う通りして本当に良かったよ」

 

 

 もしユイが何も言わなかったならば、和人は今でも家で休んでいる程度の事しかしなかっただろう。ユイは間違いなく良い事を和人に言った。次にログインした時には、何かしらのお礼をしてやらねば。

 

 そんな事をふと考えようとしたそこで、和人は頭を軽く抱えた。思わず詩乃は和人の身体を支えに出る。

 

 

「和人……!」

 

「大丈夫だよ。ちょっとふらっとしただけだ……大丈夫だよ」

 

 

 大丈夫だよ――パニックを起こしたり、精神的に不安定になった時の詩乃に、和人がかけてくれる言葉だ。心の中をパニックや不安に支配されそうになった時に、和人がそう言ってくれると、不思議と心が穏やかな状態に戻ってくれる。

 

 心の中の嫌なものを取り払い、退けてくれる、和人だけが使える魔法の言葉。しかしそれは、今の詩乃に効きはしなかった。

 

 

「和人……あなたは、どうしたの」

 

「……!」

 

 

 和人は顔を上げて、ゆっくりと詩乃へ向き直った。

 

 和人はユイから言われて、あの病院へ行っていた。あそこで何かしらの検査を受けて、診断結果を聞いてきたはずだ。病院に到着して和人を見つけたら聞こうと思っていたが、いざ和人を見つけたその時に忘れてしまい、ここまでずっと聞きそびれていた。

 

 

「和人、お医者さんはなんて? あなたはどうしたって言ってたの」

 

 

 和人は顔を逸らし、床に目線を向けた。言いたくない事を言おうしているようにも見えたが、流石にこれを聞きそびれているわけにはいかなかった。詩乃の意志が通じたのか、それとも和人自身話すべきと考えてくれていたのか、和人の口が開かれた。

 

 

「……アドレナリンとノルアドレナリンの異常な過剰分泌。それによる身体的疲労……だってさ」

 

 

 和人から登場した二つの言葉に、詩乃は思わず驚いた。アドレナリンとノルアドレナリンとは脳内物質の事だ。名前こそよく似ているものの、それぞれ異なった役目を持ち、それ相応の役割を果たす、誰の頭の中にも存在しているもの。これが極めて過剰に分泌するような事があれば、それは脳の異常となる。

 

 その異常を引き起こす存在の事を思い出して、詩乃は和人に返事をした。

 

 

「アドレナリンとノルアドレナリンの過剰分泌って……それって」

 

「あぁ、デジタルドラッグだよ。医者曰く、俺はデジタルドラッグを使っているようにしか思えないんだそうだ。実際に検査してみても、それ以外は考えられないらしい」

 

「……!」

 

 

 デジタルドラッグ。現実世界に存在する麻薬や危険薬物と同じように使用者の脳に浸透し、脳内物質の分泌を異常なものに変え、異常行動を引き起こさせるものだ。その話は和人やリランから既に聞いていたし、その存在がいかに危険かも、ニュースや和人の話によって熟知していた。

 

 だからこそ、詩乃は数の言葉が信じられなかった。危険なデジタルドラッグを、デジタルドラッグの危険性を話した和人が使っている?

 

 

「あなたが……デジタルドラッグを使ってる……そんな事って……!?」

 

 

 和人は視線を再度詩乃へ向けた。見慣れている黒色の瞳は、不安や動揺で濁っているように見えた。

 

 

「俺も否定したよ。俺はそんなものの使い方も知らないし、導入の仕方だってわからない。なのに俺の脳にはデジタルドラッグを使った患者と同じ状態になってた形跡があるんだってさ。俺はデジタルドラッグを使ってて間違いない……だそうだ」

 

 

 詩乃は言葉を出せなくなった。和人はその手をゆっくりと伸ばしてきて、詩乃の手を掴む。手を通じて、和人の身体が震えているのがわかった。

 

 

「その話を聞いた時から、怖くて仕方がなかった。デジタルドラッグなんて使った覚えもないのに、俺の身体は勝手にそうなってたんだから。だから……君と一緒に居たかったんだ。君と一緒に居なきゃ、おかしくなりそうだったんだ」

 

 

 身体と同様に震えた声で、和人は訴えるように言った。その言葉の一つ一つを耳に入れた時、詩乃は胸の中がぞくりとするのを感じた。胸の中だけではない。背筋から二の腕にかけて、冷たい何かがぞくぞくと駆け巡っている。それは戦慄だった。どこから現れたのかわからないが、戦慄が詩乃の身体の一部を這い廻っている。

 

 和人と一緒にいるというのに、どうしてこんな感覚が来るのか。いや、そもそも目の前にいる和人は、かなり戦慄している。もしかして和人の抱く戦慄が彼の腕を伝い、ここまで来ているというのか。気になりはしたが、考え込むと悪い方向に進みそうだった。

 

 ひとまず戦慄を振り払うように詩乃はぎゅうと目を瞑り、再度瞼を開いた。戦慄に震える和人がそこにいた。

 

 

「和人が、デジタルドラッグだなんて……そんなの……」

 

「しかもさ……俺、覚えてないんだよ。身体が、頭がそうなってた時の事。デジタルドラッグを使ってた時のこと、何も覚えてないんだよ。デジタルドラッグを使ったようになった時、気を失ってたんだ」

 

 

 詩乃はもう一度驚いた。和人が顔を上げて、震える瞳を向けてきた。

 

 

「……詩乃、俺達は今日《SA:O》にログインして、ジェネシスと戦ったよな。その最中なんだよ、記憶がなくなってるの。なぁ詩乃、何か見てないか。俺に何が起きたか、見てないのか」

 

 

 (すが)り付いてくる和人の目を見て、詩乃は更なる戦慄を覚えていた。同時に、頭の中にあの時の事がフラッシュバックする。

 

 日中、詩乃/シノン達は《SA:O》にログインしていた。きっと今日はボスと戦う事になるというキリトの提案のもと皆でレイドパーティを組み、フィールドの最奥部エリアへ向かった。

 

 そこに待っていたのはボスではなく、前から目を付けてきているジェネシスとアヌビスのコンビだった。ジェネシスはキリト達を付け回しており、キリト達が探索に気を取られている間にボスと戦って撃破、その後で重要そうなアイテムを手に入れたと主張。

 

 更にキリト達が集めているクエストの専用アイテムである聖石を手に入れたと伝えてきたうえで、クエストを発生させているNPCであるプレミアをさらいに来た。

 

 クエストを進める以前に、これまでずっとプレミアと過ごしてきたキリト達はジェネシスを迎撃すると即断。ジェネシスとの戦闘を開始した。

 

 その戦いの最中に、ジェネシスとアヌビスは突如として狂暴化し、それまで追い詰める一方だったキリト達のパーティを押し返した。仲間達は次々ジェネシスとアヌビスにやられていき、シノンもそのうちに入りそうになっていたが、途中でジェネシスとアヌビスの動きが止まった。

 

 やられたと思われていたキリトが、ジェネシスとアヌビスに斬りかかったのだ。目を血のような赤色に光らせ、足元に純白の炎を燃え上がらせるという、異常な状態になって。

 

 そこからの戦いは一方的なものだった。キリトは異様なまでの攻撃力と敏捷性で自分達を散々苦しめたアヌビスとジェネシスをも上回る速度と攻撃力を発揮して、無言無表情のまま両者を追い詰めていった。

 

 勿論アヌビスもジェネシスも抵抗したが、白い炎を纏う赤い目のキリトには全く歯が立たず、結局追い詰められる一方になっていた。

 

 やがて負傷したジェネシスはアヌビスと共に撤退、戦いはキリト達の勝利となったが、戦いが終わっても尚キリトは元の状態には戻らなかった。

 

 たった一人でジェネシスとアヌビスという強敵を打ち負かしたという状況に皆が(おのの)いて動けない中、ユピテルがキリトの許へ向かって力を使ったところ、キリトは突然痙攣を始めて活動を停止。そのままログアウトの光に包まれて消えていったのだった。

 

 これまでSAO、ALOと渡り歩いてきて、そこで異様な戦いというものを見る事もあったが、それら全てを霞ませてしまうくらいに異様極まりない戦い。それが今日の戦いだった。その戦いを繰り広げたキリトを見ていた時、シノンはとある存在とキリトを重ねていた。

 

 まだSAOに閉じ込められていた時に体験する事となった異様極まりない戦いの中、立ち向かう者達全てをたった一体で(みなごろし)にした、荒れ狂う狼竜。

 

 あの戦いの時のキリトは、その狼竜にそっくりだった。あのキリトは狼竜に取り憑かれた狼男(ライカンスロープ)であり、狼竜の作り出す衝動に任せてジェネシスとアヌビスを殺戮しようとしていた。シノンは少なくともそう思うしかなかった。

 

 その話を、詩乃はひとまず和人に話した。戦いの途中に差し掛かった頃だろうか、和人の顔は徐々に蒼褪めていき、話が終わった頃には顔面蒼白になっていた。

 

 

「俺が……そんなふうに……?」

 

「えぇ……あなたがジェネシスとアヌビスを撃退したの。あの時のあなたは、SAOで《笑う棺桶》を討伐した時のリランみたいだった」

 

 

 俯く和人の目がかっと見開かれる。《笑う棺桶》討伐戦におけるリランの暴走は、詩乃にとってもそうではあるけれど、和人にとっての一番のトラウマと言ってもよいものだ。

 

 

「俺が……あの時のリランみたいになってた? ジェネシスとアヌビスを殺そうとしてた?」

 

 

 和人は信じられないような顔をしていた。きっとあの時のキリトを見ていた自分も、同じような顔をしていたのだろう。詩乃は自分自身を和人に見ているような気がしていた。

 

 

「覚えてない……何も、覚えてない。俺はなんでそんな事をしてたんだ。なんで俺があの時のリランみたいになって……なんで……なんで……俺はなんでデジタルドラッグなんか……」

 

 

 和人は詩乃から手を離し、自分の頭を抱えた。髪の毛を力強く掴んで、何度も何度も首を横に振っては、「なんで、なんで」と繰り返す。完全に混乱しきっている状態だった。

 

 これまで和人と一緒に過ごしてきて、こうなった和人を見る事は多々あった。その時詩乃は必ずと和人を助けたいという思いに駆られ、和人に手を差し伸べてきた。そしてその思いは今の詩乃にもあった。

 

 

 和人が苦しんでいる。

 

 助けてあげなきゃ。

 

 落ち着かせてあげなきゃ。

 

 

 思いは詩乃の身体を動かし、その手を和人に――。

 

 

(……!)

 

 

 次の瞬間、詩乃は目を見開いていた。混乱する和人の手を伸ばした直後に、身体が急に動かなくなった。もう少しで和人の身体に触れられるところで指先が止まり、それ以上前に進む事が出来なくなる。

 

 

(あ……れ……?)

 

 

 詩乃は自分の身体の感覚がわからなくなっていた。胸の中には確かに苦しむ和人を救いたいという思いがある。いつもならばその思いに従って身体は動いてくれるというのに、和人に触れる寸前で硬直している。《SA:O》で麻痺状態に陥ってしまったかのようだ。

 

 

(なん……で……)

 

 

 茫然とその場に立ち尽くしながら、詩乃は改めて自らの胸の中を探った。そこには確かなものがあったが、その存在に詩乃は言葉を失う。

 

 胸の中には、和人への思いと一緒に恐怖が存在していた。それも和人への思いよりもはるかに大きい、黒くどろどろとした恐怖だ。それは詩乃の胸をとうに破り、詩乃の全身へ広がっている。詩乃の身体には今、血液ではなく恐怖が循環していた。

 

 詩乃はすぐさま恐怖の根源を探した。それはすぐに見つける事が出来たが、その正体に詩乃はもう一度目を見開いた。

 

 怖いと感じるのは、目の前にいる和人だった。

 

 

 

 目の前の和人が、怖い。

 

 

 

「あ……」

 

 

 気付いた時、詩乃はか細い声を絞り出していた。自分の事が信じられないでいた。

 

 目の前にいるのは自分の愛する人、これまで一緒に過ごしてきた和人。

 

 

 怖さを感じる要素が微塵もない人だ。

 

 いつものように接し、触れられる人だ。

 

 

 そのはずなのに、怖くて仕方がない。怖さを感じる必要など微塵もないはずなのに、和人が怖くてたまらない。

 

 手を伸ばそうとしても、和人への恐怖が勝る。指先が常に小刻みに震えて、感覚が薄れてしまっているようにも感じる。そのせいで和人に触れる事が出来なかった。

 

 

「詩乃、俺は……俺はッ……」

 

「――ッ」

 

 

 詩乃は歯を食い縛っていた。頭の中に和人との思い出がフラッシュバックしてくる。

 

 これまで和人は自分の事を受け入れて、発作が起きた時は率先して落ち着かせてくれてきた。自分が苦しんでいる時は、和人が積極的に助けてくれた。

 

 和人がずっと傍に居てくれて、ずっと助けてくれたから、今の自分がここに存在していると言ってもいい。

 

 その、今まで助けてくれた和人が今、苦しんでいる。苦しんで、救いの手が差し伸べられるのを待っている。

 

 今ここにいるのは自分一人だけだ。和人に救いの手を伸ばせられるのは、自分ただ一人だけだ。今すぐにでも和人に救いの手を伸ばしてやらなければ、彼は苦しみで壊れてしまうに違いない。

 

 そのはずなのに、手を伸ばす事が出来ない。いつも助けてくれた和人がこうして救いを求めているのに、手を差し伸べてやる事が出来ない。

 

 和人はいつだって私を助けてくれる。

 

 だから和人が苦しんでいる時は私が助けてやるんだ。

 

 そう決めていたはずなのに、それが出来ない。手を伸ばそうとすると、一気に怖さが強くなって、結局止まってしまう。空中で止まる指先を目の中に居れたその時、全身を駆け巡る恐怖が頭の中に入ってきた。

 

 

 和人を助けたい。

 

 でも和人が怖い。

 

 

 このままじゃ和人が壊れる。

 

 私が助けなきゃいけない。

 

 

 でも、和人が怖い。 

 

 

 恐怖はありとあらゆる形に姿を変えて、頭の中を縦横無尽に飛び交った。思考がまとまらなくなり、空中で止まる指先から色が抜け落ちる。それでもなお和人へ手を伸ばす事が出来ない。どうして、なんで、どうしよう。

 

 

「……!」

 

 

 ふと自身の右手の指先から手首へ目を向けた時、光るものがあったのに詩乃は気付いた。白銀色に煌めき、中央に黄緑色の宝石が嵌め込まれている銀の腕輪。

 

 その存在にようやく気付いたそこで、詩乃は和人の右手首に目を向けた。揺れ動く和人の右手首には、自分の右手首に嵌っているものと同じような銀色の腕輪が存在している。両者共に同じ銀色の腕輪を右手首に付けているのだ。

 

 自身の腕輪の煌めきと、和人の腕輪の煌めき。暖かい銀色の光。その両方を交互に見たその時、止まっていた詩乃の身体に力が戻った。恐怖が和らいだ一瞬の間を突いて、詩乃は動き回る和人の右手を掴んだ。

 

 和人はかなりの力で両手を動かしており、すぐに引き剥がされそうだったが、詩乃も同じように力を込め、和人の手を握り締めた。

 

 

「和人、これッ!!」

 

 

 和人の右手を眼前に持って来させ、同時に自身の右手首も眼前に持ってくる。二人で右手を組合い、互いに自分の右手首を見ている状態になると、和人の動きが止まった。

 

 

「……和人、お守りが見えるでしょ。それだけを見るの。何も考えないで、それだけを見る事に集中して」

 

 

 パニック発作を起こした時に施してもらう、愛莉から教わっているやり方。それを詩乃は和人と、自分自身に言い聞かせた。落ち着かさせなければならないのは、和人と自分自身だ。

 

 

「何も考えては駄目。何も考えないで、お守りを見る事だけに集中して……ゆっくり息をして……」

 

 

 そう言って詩乃は自身の右手首、そこに嵌る銀の腕輪を見つめた。いつの間にか自分の息も荒くなっていて、心臓の鼓動も早くなっていた。しかし詩乃はそれさえも気にせず、ただ自分の言った事を実行する事だけに集中した。お守りの煌めきを見る事だけに、ただただ集中した。

 

 

 白銀色の煌めきを見つめ始めてからどのくらい経ったのか――その疑問を感じた時、詩乃は我に返った。自分自身に意識を向けると、呼吸も鼓動も、感覚も元に戻っているのがわかった。混沌としていた胸の中も静けさを取り戻している。

 

 

「……」

 

 

 前方に目を向けてみれば、そこには一人の少年の姿があった。詩乃の手に掴まれながら、自身の右手首を見つめている。先程までは怖くて仕方がなかった彼だが、今はなんともなくない。それを改めて確認してから、詩乃は彼の名を口にした。

 

 

「……和人」

 

 

 和人は反応を示さなかった。だが、やがてゆっくりとその顔を上げて、黒色の瞳で詩乃を見つめてきた。先程までのような震えは一切ない。

 

 

「……詩乃」

 

「……落ち着いた?」

 

 

 和人が言葉なく頷いたのを見てから、詩乃はそのまま和人の身体に手を伸ばし、そのまま抱きすくめた。胸元に和人の頭を連れ込み、その髪の毛の中に顔を埋めると、ようやく言葉が出てきた。

 

 

「……私にも、あなたの身に起きた事はよくわからない。あなたと同じで、なんにもわからないの。考えても何もわからなくて……あなたに何が起きてしまったのかわからなくて……すごく怖い」

 

「……!」

 

 

 和人の喉元から嗚咽に近い声がした。詩乃は和人の背中にしっかりと手を当てる。

 

 

「でも、そう思うと同時にわかる事があるの。今のあなたは、私の知ってる和人よ」

 

 

 詩乃は目を閉じて深呼吸をしてから、続けた。

 

 

「今こうしてここにいるあなたは、私の傍に居てくれて、私の事を助けてくれる、私の大好きな和人よ。それだけは間違いない。だから……大丈夫。今のあなたはちゃんとあなただから……私の知ってるあなた。だから、大丈夫」

 

 

 和人に言うと同時に、詩乃は自分自身に言い聞かせていた。

 

 

 ここにいるのは和人だ。

 

 自分の知っている和人だ。

 

 だから何も怖がらなくていい。

 

 だから大丈夫、大丈夫。

 

 

 時間も気にせずに、詩乃は自分と和人にそう言い続けた。

 

 それからしばらく経った頃に、動かなくなっていた和人はようやく動き出し、詩乃の胸から離れた。その顔は落ち着きを取り戻したような表情になっていた。

 

 

「……ありがとう、詩乃。おかげで頭冷えた」

 

「もっとあなたに出来ることはあるとは思うけど……こんなことしか出来なくて、ごめんなさい」

 

「そんな事ない。君のおかげで楽になった。やっぱり君のところに来て良かったよ」

 

「……」

 

 

 和人は弱々しくも微笑んでいた。身体的にも精神的にも、かなり疲れてしまっているのは確かのようだ。今の和人では家に帰るのも難しいかもしれない。

 

 だが、直葉には和人を帰すと言ってきたから、やはり帰らせないわけにはいかないだろう。いい方法はないか――ふと考えたその時、詩乃は和人を抱き締めた時を思い出した。

 

 和人からは和人だけが持つ、詩乃のお気に入りの匂いがするのだが、今の和人からは汗の匂いが強く感じられた。かなり汗を掻いているようだ。

 

 汗を掻いているならば入浴するのが一番効き、疲労もある程度軽減させられる。思い立った詩乃は和人に声掛した。

 

 

「ねぇ和人、疲れてるんなら……」

 

「え?」

 

「お風呂、入れてあげる」

 

 

 詩乃が言うなり、和人はさぞかし予想外であったと言わんばかりに驚いた。

 

 

「お風呂って……なんでまた」

 

「お風呂に入ればリラックスできるし、疲れもよくなるでしょう。それに今のあなた、結構汗臭いわ」

 

「そ、そんなに臭いしてたか」

 

「えぇ。だから一番風呂に入れてあげるわ。入って休んで頂戴」

 

 

 そう言って立ち上がろうとしたその時、詩乃は右手を掴まれたような気がして止まった。和人が右手を掴んできていた。

 

 

「……詩乃、待ってくれないか」

 

「え? いいのよ和人。私はあなたが先でも全然気になんか――」

 

「そうじゃなくて……」

 

 

 和人はゆっくりと立ち上がって、詩乃を見つめた。

 

 

「それなら、お願いしたい事があるんだ」

 

「え?」

 

 

 

 

         □□□

 

 

 

「はぁ……」

 

「……ん、と……」

 

 

 浴室の中には湯気が満ちていた。いつも使っている、足を延ばしても全然端に付かない浴槽の中には湯が張られており、そこから湯気が立ち上っているのだ。

 

 その浴槽の中に今、詩乃は居た。

 

 

「……詩乃の使ってる風呂、結構広かったんだな。かなり余裕あるよ」

 

 

 しかし一人でではない。すぐ後ろに普段は居る事の無い人物が居て、一緒に浴槽を満たす湯に浸かっている。その人物の前に詩乃は居て、腹部に手を回されている。

 

 

「俺と一緒だといっぱいになるんじゃないかって思ってたんだけど、そうでもなくてよかった」

 

「……もう」

 

 

 詩乃は大きな溜息を吐いた。今、詩乃の後ろにいるのは和人だ。

 

 詩乃が和人に入浴を勧めたところ、和人はあろうことか詩乃と一緒に入りたいと言ってきた。流石にその時詩乃は断ろうとしたが、そもそも和人は目を離せないような危なっかしい状態であるという事に、言ってから気が付いた。

 

 和人を風呂に入れたいが、和人から目を離したくはないし、なんだか和人の頼みも断りづらい。結局詩乃は和人の頼みを受け入れて、和人と一緒に入浴する事にしたのだった。

 

 

「和人ったら、こんなお願いしてくるなんて」

 

「だって、せっかく風呂に入れてくれるんだから、一緒がいいと思って。君もこれで風呂が済むから、良いだろ」

 

「そうかもしれないけど……」

 

 

 和人とはもう身体を重ねているから、一糸纏わぬ身体を見せつけているのには抵抗を感じない。けれど、こうやって一緒に入浴するというのは初めてだ。そのせいなのか、妙な恥ずかしさを詩乃は感じていた。

 

 

「なんだか変な気分だわ。いつものお風呂にあなたがいるんだから」

 

「……」

 

 

 和人は何も言わなかった。少し疑問に思った詩乃が声を掛けようとしたその時、詩乃は背中に暖かいものが当たるのを感じた。

 

 

「ひゃっ、和人?」

 

「詩乃……本当にありがとう」

 

「え?」

 

 

 和人が喋ると、背中に息が吹きかけられるような感じがした。和人が背中に顔を当てているらしい。

 

 

「俺、本当に詩乃と一緒で良かったよ。詩乃が居てくれなかったら俺は駄目なんだって、よくわかったんだ、今日。君は俺の心の支えなんだ。君がいないと……俺は駄目なんだ」

 

 

 確かに今日の和人は、かなり自分の事を求めていた。ここまでわざわざ来たのも自分と一緒に居たかったからと言っていたし、今もこうして一緒に風呂に入ってさえいる。

 

 

 いつも和人を求めるのは自分で、和人が自分を受け入れてくれるのだが、今日に限ってはそれが逆転していた。

 

 

「……和人」

 

「だから、お願いだ。一緒に居てくれ、もう少しだけ……もう少し、だけ……」

 

 

 詩乃は瞬きを繰り返していた。今、和人は自分に甘えてきているようだ。いつもは自分が和人に甘える側だというのに、やはりそれは今逆転してしまっている。

 

 わかるなり、詩乃は心に弾むものを感じた。

 

 

 いつもは甘えるしか出来ない自分でも、和人を甘えさせてあげる事は出来る。

 

 和人から求められる事が出来る。

 

 和人は今、自分を求めてくれている――。

 

 

 その嬉しさこそが、詩乃の心の弾むものの正体だった。それを掴んだ詩乃は、軽く後ろを見た。

 

 

「……そんなふうに言わなくてもいいわよ、和人」

 

「え?」

 

「私、いつもそんな感じでしょう。そんなふうに言って、あなたに頼ってる。でしょ?」

 

「……そういえば……」

 

「だから、あなたも何も言わずに同じことをしていいの。私も、あなたに頼られたい」

 

 

 和人は少し驚いたような様子だ。背を向けていてもそれはわかった。

 

 

「だから和人、何も言わないで私に頼って。出来る限りの事はするから」

 

 

 和人はまた返事をしなかった。しかし間もなくして、和人は詩乃の事を抱き寄せてきた。同刻、胸元に和人の手が来ている事に気が付く。

 

 

「じゃあ、もっと君の事を求めても?」

 

「……えぇ、いいわよ。今日は交替。あなたが満足して?」

 

 

 和人は小さく「ありがとう」と言い、詩乃を求めてきた。いつもは受け入れてもらう側の詩乃は、静かに彼の事を受け入れた。





 詩乃が和人を欲するように、和人もまた詩乃を欲する。

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