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「「「「乾杯!」」」」
その一声と共に、かちんと四つのグラスが軽くぶつけられた。
揃っているのはキリト、ユイ、リラン、そしてシノンの四人。集っている場所はログハウスの一階、リビングルームだった。部屋の丁度中央にあるテーブルには色とりどりの料理が並べられていて、四人で囲むように座っている。
「こうして家族皆でここでお食事をするなんて、いつ以来でしょうか」
「アインクラッドの時以来だよ。《ALO》にもこんな場所はなかったからな。そうだよな、シノン」
娘であるユイと、ほぼ夫であるキリトの応答にシノンは頷く。ユイの思っている事と感動は、シノンもまた胸の中で抱いていた事だ。
かつてアインクラッドの第二十二層にのみ存在し、アインクラッドの崩壊とともに消え去っていたログハウス。《SAO》のクリアの後、シノンはずっとあの家の事を恋しがっていた。
家族四人で暮らした思い出がたっぷりと詰め込まれた一軒家。他のプレイヤーからすればどうという事の無いものだろうけれども、シノンが唯一アインクラッドに残して来てしまったと思っていたモノ。
《SAO》をクリアして《ALO》に移行し、移動方法を身に着けた後、もしかしたらここにもまたあそこが存在しているのではないかと思って、シノンは空を駆け回っていた。森林エリアに差し掛かれば隈なくその場所にログハウスがないか探した。
しかし、シノンがどんなに感覚を鋭敏にさせて探し出そうとしても、あの家が見つかる事はなかった。《ALO》の全土のどこにも、家族四人で過ごしたログハウス、それに近しいものを見つけられはしなかったのだった。
だが、あのアインクラッドの基となった大地とされるこのアイングラウンドの話を聞いた時、シノンは閃いたのだ。アインクラッドの基となったという設定があるのであれば、きっとそこに二十二層の基となった場所があるのではないかと。
だからこそシノンは想い人であるキリトや仲間達と共にフィールド攻略を、アイングラウンドの探索を急いだ。あの場所を見つけるために、多くの敵を倒し、多くの場所を探索し尽くした。
そしてついに今日、あの場所を見つけ出した。ジュエルピーク湖沼群の北方向にある、針葉樹林と山々に囲まれた、大小さまざまな湖が点々と存在する、敵モンスターの生息していない平穏な森林と草原で構成された一帯。
その場所の空をリランの翼で駆けた時に、本当に見つかったのだ。アインクラッドで無くしてしまったとばかり考えていたあの家が。
しかも奇跡に思ったのが、その家を買うためのコルはキリトとシノンとリランの三人の手持ちを全て合わせれば買えるくらいの値段だったという事だ。三人にコルをしかと確かめ合って、シノンが代表となってログハウスに近付き、購入。
再度手に入れたのだ、かつての居場所であった、思い出の沢山詰まった家を。
購入処理をしたあと、シノンはたまらずログハウスの中に飛び込んだ。ログハウスの内装は生活必需品と家具が最低限集められている状態だったけれども、その様子はまさしく、アインクラッドの第二十二層にあったログハウスと同じだった。
キリトとリラン、まだ何も知らないプレミアを置いてシノンはログハウスの隅々を確認し、一人で二階の寝室を調べたりもした。寝室もベッドもやはりあの時と同じ、家族四人で一緒に寝た場所だった。
またあの家に戻ってくる事ができた。ようやく帰ってこれた。ここでシノンは床に座り込んでしまい、一人静かに泣いた。そのシノンにキリトもリランも気づかなかったわけがなく、キリトはシノンを見つけるなり、ゆっくりと近づいて抱き締めてくれた。
キリトの胸の中でシノンが一頻り泣いた後、三人でプレミアを連れてはじまりの街へ帰還。集まっていた皆に第二十二層の原型を見つけた事を報告した。
皆が本当かと驚いたその後は、皆一緒に家の場所へ向かい、森や草原に辿り着いたところで各々食材探しに出掛けた。二時間に渡る探索と食材探しで見つかった食材を家の中に集めると、シノン、アスナ、リーファといった料理スキルを上げている者達によって調理がなされ、豪勢な料理を用いたパーティーが開催されたのだった。
《SAO》に居た時にはしなかった森の家でのパーティー。それは最初から最後まで大盛り上がりで行われ、夜の八時頃にお開きとなった。そして今午後九時頃、森の家にキリト、シノン、ユイ、リランの四人は集まり、小さな小さなパーティーを開いていた。
「まさかクローズドベータテストの段階でこの家が実装されてるなんてな。正式サービス開始の後に実装されるフィールドにあるとばかり考えてたよ」
「私も。こんなに早くこの家を見つける事ができるなんて、全然思ってもみなかった」
キリトに返事をしてから、シノンは口元に飲み物を運んだ。《はじまりの街》の大宿屋に宿泊していたときも、よくこうして夜に四人で集まったりしたものだ。けれど、今感じている喜びと幸福感はその時よりも遥かに大きいものと思える。
それがこの家の中にいる事が理由であると言うのは、何も考えなくともわかった。シノンがコップの半分くらいまで飲み物を飲み終えたその時だ、リランがきょろきょろと周囲を見回しているのが見えた。
「リラン、どうかした」
リランはシノンへ向き直ってから、首を横に振った。なんでもないという意思表示だったが、明らかに何らかの思いがあるのが把握できる。それは本当だったようで、すぐにリランは呟くように言った。
「これが、お前達の見ていた光景なのだな」
「え?」
「アインクラッドにいた時の我はピナのような小さな竜だった。いつも飛んでいるか、キリトの肩に留まっているくらいだったからな。こうして
確かにアインクラッドに閉じ込められていた頃、リランは狼竜形態と小竜形態しか持っておらず、非戦闘圏内では小竜形態になって暮らしていた。勿論この家にいた時も小竜形態だったから、人狼形態を得てここにいるのは新鮮なのだろう。
当時を懐かしむようにキリトが言う。
「確かにそうだったな。あの頃のお前は俺の肩に乗ってるか、飛んでるかのどっちかだったもんな」
「物食べるときだって犬食いだった。だが今はこうしてお前達と同じように食事を楽しむ事もできるし、お前の肩を借りる必要もない。あの時と随分と変わったものだ」
人狼の姿で食事を楽しむリランを見つめて、シノンはふと思う。リランは《ALO》、スヴァルト・アールヴヘイム、アイングラウンドを渡り歩いてきているけれど、見せる姿は人狼形態と狼竜形態のみであり、小竜形態は《SAO》以来見た事がない。
最早リランと言えば狼竜形態と人狼形態のどちらかと言うイメージが定着しているようなものだが、そこはどうなっているのだろう。気になってシノンはリランに話しかけた。
「ねぇリラン、あんたってあの時の姿には戻れないの?」
「あの時?」
「ほら、《SAO》に居たときの姿よ。ピナみたいなあの姿。あれに戻れないの?」
リランは「ふぬ」という独特な事を言って身体を見てから、シノンへ向き直る。
「別に戻れないというわけではないぞ。ただ、あの姿だとできない事も多いし、何よりずっと飛んでいなければならないからな。それに、疲れたらキリトの肩や頭に停まらなければならなくもある」
「ほぅ、俺の事を考えて小竜形態には戻らないでいてくれているのか。随分と配慮してくれてるじゃないか」
悪戯っぽく笑うキリトの視線を受けると、リランは呆れたように掌を広げた。
「お前を疲れさせるのは我としても本意ではないからな。だが、普通の使い魔はこんな事は考える事もできずに主人の肩や頭に停まるぞ。ここまで主人の事を考えてくれる使い魔はおらぬのだから、感謝してほしいところだ」
「そうだな、色々考えてくれてありがとう、俺の相棒」
キリトが純粋に笑むと、リランもまたふふんと言って笑った。キリトとリランという、会話し合う主人と《使い魔》の光景。《ビーストテイマー》と《使い魔》の関係性を根本から覆しているやり取りもまた、かつてのアインクラッドの第二十二層のこの家でよく見られたものだ。
それがわかったのが嬉しいのか、ユイが笑った。
「パパとおねえさん、本当にあの家に居た時みたいです」
「違うわよユイ。私達は居るのよ。この家に」
言ってやると、ユイはその顔を見せた後に周囲をぐるりと見回した。分析と解析が得意なユイがやるから、家全体の構成を分析したのだろう。シノンの思惑はすぐに当たった。
「そうでしたね。この家はアインクラッド第二十二層にあった家と完全にデータが一致しています。家の周辺の構成には若干のデータの違いがありますけれど、このエリアがアインクラッドの第二十二層の原型であるというのには間違いありません。わたし達は帰ってきています」
「そうよ。だからユイ、今日からはここがまた私達の家になるの。もうはじまりの街の宿屋を使わなくても良いのよ」
ユイは嬉しそうに再度笑んでみせた。これまでははじまりの街にある宿屋に宿泊料を支払い続けなければならなかったし、何より他のプレイヤー達が頻繁に行き来してあまり落ち着かなかった。なので自分達がログインしていない間はユイが心配になる事も多かったけれど、これからはその必要はなくなり、ユイもここでのびのびと過ごせるようになる。
管理者は一応リランという事になっているから、管理の問題もない。ようやくユイに安寧の場所を与えてやる事ができたのだ。
それに、パーティーの時に話していたけれども、これからはここで皆を集めて会議や集会をする予定にしている。ジュエルピーク湖沼群の北なんかあまり目立たないだろうし、周辺にモンスターも居ないからプレイヤーがやって来るのは稀だから、来訪者や聞く者の事を気にせずに攻略の話も、機密な情報のやり取りも出来る。
今日こそは皆がそれぞれの場所や攻略に戻っているけれども、これから仲間達が集まる憩いの場所として賑やかになっていくだろう。皆が集まれる場所を見つけられたという点から見ても、この場所を入手できたというのは大きい。
だが、シノンにはそれ以上の理由がここにはある。このモンスター達の居ない静かな森に佇む一つの家はかつてのように――。
「ん、ふわぁ……」
シノンが思うよりも先に、間延びしたユイの声がした。ユイはとても大きな口を開けて欠伸をしていた。口を閉じてからも目の辺りを軽く擦る動作を付け加える。かなり眠そうな様子だった。
ユイは比較的遅く寝る傾向にあり、午後十時過ぎ、十一時過ぎまで起きて活動しているというのも珍しくないのだが、今はまだ午後九時半を過ぎた頃。ユイが眠気を覚えるのには早いくらいだ。
「ユイ、眠い?」
「はいです。なんだか急に眠くなってきてしまって……もっとパパとママと、おねえさんとお話をしていたいのに……」
帰りたかった家を見つけたのはシノンやキリトだけではなく、ユイとリランもそうだった。二人もまた、自分達がログアウトしている間にこの家を求めて探索したり、情報を集めてくれていた。
そうしてようやくここに辿り着けたのだから、安堵と安心を抱いたはずだ。それにそもそもあんな豪勢なパーティーを皆で楽しんで、美味しい料理をたくさん食べた後なのだから、眠くなっても仕方がないだろう。
椅子から立ち上がったキリトが、ユイに手を差し伸べる。
「今日は色々あったから疲れたんだろう。話ならこれからいくらでも出来るし、今日はもう休もう、ユイ」
「はいパパ……またあのベッドで、皆で川の字になって……」
「あぁ、寝よう」
ユイは眠そうなままゆらりと立ち上がり、キリトと手を繋いだ。続いてシノンが立ち上がったところで、キリトはリランへ顔を向ける。
「リラン、お前も一緒に来いよ」
「我はまだ眠らない。もう少しこのエリアを飛んでいる」
「いいの。あんたもここまで来るのに結構疲れたんじゃ」
「我の事は大丈夫だ。それよりユイの事を寝かしつけてやってくれ。ユイにとってはお前達との時間が大事なのだ」
そう言ってリランは立ち上がり、ログハウスから出て行ってしまった。まもなく巨大な獣が降り立ったような音が少しだけ聞こえ、遅れて大きな翼が羽ばたいたような音がした。リランが狼竜形態となって空へ飛んでいったようだ。
あの家に居た時にはキリト、ユイ、小さくなったリラン、シノンの四人で川の字を作って寝ていたというのに、リランは小竜形態になろうとしない。人狼形態がそれほど気に入っているのか、もしくは妹であるユイがパパとママとしっかりと眠れるように気を配ったのか。
リランの思惑は今度隙を見つけて聞いてみるとしよう――思いながらシノンはキリトとユイの許へ寄り添い、ユイの華奢な手をしかと握った。三人でゆっくりと階段を上がっていき、寝室に入る。
《はじまりの街》の民家、宿屋のような人感センサーのような機能はこの家にはなく、人が入ったとしても自動的に明かりが点く事はない。なので、部屋の中は暗かったのだが、窓の外から月上りが差し込んでくる事により、明かりなど必要がないくらいに光が満ちていた。
睡眠を邪魔する事の無い優しい光だ。これならばユイもぐっすりと眠れる事だろう。三人でベッドへ向かっていき、キリト、ユイ、そしてシノンの順でその上に寝転がった。
アインクラッドの第二十二層で毎日のようにしていた川の字を作って眠る。その再現をするように備え付けの掛け布団を半分だけかけてやると、ユイは大きく深呼吸をした。
「パパ……ママ……わたし……嬉しいです……またこうして、一緒に寝られるんですから……」
「あぁ。今日からまたここで暮らしていけるんだから、明日からももっと楽しいぞ」
「でも、今日はもう疲れたから……ゆっくり眠りましょう。ユイ」
「はいです。パパ、ママ、おやすみなさい」
二人で「おやすみ」と返事をすると、愛しき娘は再度深呼吸をし、くぅくぅと健やかな寝息を立て始めた。アインクラッドが無くなってからは体験する事の出来なかった光景に幸せを抱きながら、シノンは目を閉じた。
◇◇◇
ユイを寝かしつけた俺は、ユイに続いて眠りに落ちて、そのままアミュスフィアの自動ログアウト機能に任せようと思っていた。
だが、ユイが眠りに就いて五分くらい経ち、俺も同じように目を閉じていたその時、ぎしりという小さな音と共にベッドが揺れた。
目を開けてみればユイが眠っているのが見えたが、ユイの向こうで眠ろうとしていたシノンの姿が無くなっていた。俺よりも先にログアウトしたのかとも思ったが、気配を下の階から感じる事が出来た。シノンはまだこの世界に居て、ログアウトしたわけではないらしい。
一瞬だけ、アインクラッドでシノンが居なくなった時の事が頭の中でフラッシュバックする。シノンと出会ってそれなりに経った頃で、シノンが記憶を失っていた時だ。ショックで記憶を取り戻したシノンは俺とリランに何も言わずにこの家を出ていった。
あの時のような事はないというのはわかっているけれど、それでもあんなのを経験した後だからか、確認しないと妙な不安に襲われる。ユイを起こしてしまわないようにベッドから降り、俺は寝室から出た。
階段を下りてリビングに着いても明かりは点いていなかった。シノンの姿も確認できない。気配がしているのは外からだ。それも家からそんなに離れていないところにいるらしい。
気配に誘われるように家を出て、草原に足を踏み入れる。空は既に星で埋め尽くされており、大きな月が太陽の代わりと言わんばかりに大地を照らしている。心地よい冷たさの夜風に吹かれて草木が音を立てており、このエリアそのものが人間を本能的な部分を癒そうとしているように感じられた。
ログハウスの周りは小規模な針葉樹林に囲まれているが、そうではない草原の部分を歩いていくと一分くらいで湖を見渡せる場所に着く。こんな夜中に針葉樹林の中を行く事を好むような娘じゃないのがシノンだし、何より針葉樹林からはシノンの気配など感じなかった。
感覚を研ぎ澄ませ、気配を探る。プレイヤーの気配がある。湖の方だ。ここにいるのは俺達だけだし、リランも狼竜となって空を飛んでいるはずだから、やはり気配の正体はシノンに違いない。
核心を抱いて気配のする方へ向かっていく。夜の帳が下りたせいか若干の不気味さを感じさせる針葉樹林を横目に草原を歩いてくと、湖が見えてきた。
ジュエルピーク湖沼群周辺というだけあって、水そのものがとても綺麗というように設定されているのだろう、湖は鏡のように夜空を、星々を、月を映し出している。
現実世界では早々見る事の出来ない、美しい光景。仮想世界が織りなす芸術の世界。思わず見とれそうになっていると、ちょっと先に人影が見えた。望遠スキルをそれなりに上げているためか、具体的な容姿も既にわかる。
黒茶色の髪の毛に、見覚えのあるパーカー姿。つい先ほどまで見ていた人の後ろ姿であり、草原の上に腰を掛けていた。間違いなくシノンだ。探していた気配もシノンからしている。やはりシノンの気配で間違いなかった。
夜風と共に近付き、ある程度近付いたところで声をかける。
「シノン」
シノンは特に驚くような反応もしないで振り返ってきた。結構急に声を掛けたはずなのに驚く様子がないのだから、もしかしたら俺がやって来る事を前もって予想していたのかもしれない。
「……キリト」
その声をしかと耳に入れてから、俺はシノンの元へ近付いていった。その隣まで近付いたところで、俺はシノンにもう一度声を掛けた。
「まだ、寝てなかったのね」
「どうしたんだ、急に出て行って」
シノンは軽く俯いた。何か言い辛そうな事を言おうとしている素振りだった。もしくは俺にだけ言いたい事があったからここに来た。これまでの経験が言っているのか、そんなふうに感じられる。
「何か、あったか」
「……」
するりと隣に腰を下ろし、そのままゆっくりと近付く。シノンの視線は目の前に広がる景色に向けられていた。
「ねぇキリト。私達、戻ってこられたのよね。ここに」
「え?」
「アインクラッド第二十二層……ではないけれども、帰ってこられたのと同じよね」
ここはアインクラッドではなく、アイングラウンドだ。そしてそのアインクラッドの第二十二層の原型になったのがこの場所だ。
アインクラッドの基になった世界だから、第二十二層の原型もあるはず。そう思って俺達はアイングラウンドを捜索した。その末にここに来れたのだから、体感的にはアインクラッド第二十二層に帰ってこれたのとほとんど同じだろう。
「そうだな。帰ってこられたんだ、俺達は。この景色のある場所に、あの家に……」
「そうよね。そのためにここまで、頑張って来たんだもんね……」
そう言ってシノンはもう一度俯いた。
俺達はずっと求めていた。帰る場所を。かつて帰る場所であったあのログハウスを。アイングラウンドにそれがあるというのがわかっていたからこそ、クローズドベータテストの段階であるというのにも関わらず、必死になって探索をしていたのだ。きっとシノンの思いもまた同じであったからこそ、ログハウスを見つけた時、あんなに泣いたのだろう。
そのシノンに声を掛けようとしたが、俺よりも先にシノンの方が先に口を開いた。
「私、すごく嬉しかった。ここを見つけられて、あの家を見つけられて、本当に嬉しかった」
「俺もそうだよ。また家族皆で揃って――」
「ううん、そうじゃないの」
「え?」
シノンは俺に近寄り、体重を預けてきた。寄りかかってきた彼女の身体を支え、その温もりが身体に流れ込んでくるようになる。隣に座ったシノンが体重を預けてくるのは珍しくない事だ。
そしてその時は――俺にだけ話したい事がある時だ。俺の考えを当てるように、シノンは口を開いた。
「また……忘れられる場所を見つけられたから……嬉しかった」
「忘れられる場所?」
「うん。全てを忘れられる場所。私が人を殺してしまった事、PTSDになってしまった事、おかあさんやおじいちゃんやおばあちゃんに迷惑を散々かけてしまった事、あなたにずっと負担をかけ続けている事……そういう事を嫌な事を全部忘れて居られる場所。私にとって……あの家はそうだったの」
シノンの言葉に目を見開いてしまう。
アイングラウンドがアインクラッドの原型と聞いてから、シノンは俺よりもはりきってこの場所を探しているように見えていた。それはきっと俺と同じ考えと感情に突き動かされていたからとばかり思っていたが、実際はそうではなかった。
シノンは続ける。
「だから私は探したの、あの家を。それであの家が見つかった時、すごく嬉しかった。あの家に居る間だけ、自然と忘れられるから。私のやって来た事を、罪を、全部……忘れてしまえるから……」
「シノン……」
「……勿論、あなたと過ごせるのもあるし、ユイと過ごせるのも、リランと過ごせるのもあるから、あの家は好きよ。けれど、本当に好きな理由は……そうなの。あそこは私にとって……何もかもを忘れてしまえる場所なの……」
俺は言葉を出す事が出来なかった。シノンは俺の身体から離れ、三角座りになる。
「……こんな事言ったら、あなたに怒られそうね。ううん、怒られるべきかもしれない」
シノンの言葉には明らかに自嘲があった。恐らく俺が怒る事を前提に話していたのだろう。しかし、俺はその気を起こす事は出来なかった。
シノン/詩乃の抱えているものの大きさと重さは、常人ならば到底耐えられなさそうなくらいのものだ。それこそ、逃げ場を欲してしまうくらいに。その逃げ場に俺は名乗り出て、実際ここまで詩乃の心と身体を支えてきているつもりだった。
しかし、どんなにやったところで俺だけでは限界がある。結局、俺一人が出来る事などたかが知れているのだ。
だからこそ詩乃はあの家を欲し、俺もまた欲したのだ。
家族と過ごせる場所、懐かしい思い出に浸れる場所というのは表向きで、俺があの家を求めていた本当の理由は、詩乃にもっと大きな逃げ場を与えてやりたかったからなのかもしれない。
いや、もしかしたら俺自身もまた、無意識のうちに詩乃と同じ事を考えていたのかもしれないのだ。意識の下で逃げ場を探していたからこそ、俺は躍起になってこの場所を、あの家を探していたのだろう。
そんな俺に、詩乃を怒ったりする事などできやしない。改めて自覚して、俺は離れていった詩乃/シノンの肩を抱き寄せた。
「俺も、そうだと思う」
「え?」
「俺も君と同じ事を考えてたんだと思う。あそこに居れば、色んな事を忘れられる。現実から逃げられる。だから、俺もあそこが欲しかったんだと思うよ。色んな理由を付けてたけれど、結局は君と同じ事を考えてたんだ」
「……」
シノンの方から小さな声が聞こえる。俺は構わずに続けた。
「逃げちゃいけない事は沢山ある。けれどあの家にいる時ぐらい、それを忘れたいよ、俺だって。だから、あそこにいる時は全部忘れていよう。アインクラッドで暮らしたときみたいに全部忘れて過ごして……また苦しい事に、逃げちゃいけない事に立ち向かえるように、休める場所にしよう」
シノンから小さく名を呼ぶ声がした。
てっきり否定されると思って言ったから、俺からの反応は予想外だったのだろう。しかし、俺はこれ以上何も言う気になれなかったし、シノンの事を否定する気なんか微塵も起きなかった。
やがてシノンは肩に乗る俺の手に自身の手を載せてきた。シノンだけが持つ確かな暖かさがじんわりと手を伝わって全身に広がっていく。
「……本当に、それでいい?」
「……それで、いいんだよ。あそこは俺達の家なんだから」
「……ありがと、キリト……」
現実世界のどこを探しても存在しない、俺達だけの場所。その存在の大きさと意味を思い知りながら、俺はシノンの手を握った。