キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 アイングラウンド編第3章、開始。




―アイングラウンド 03―
01:清き水を二人で浴びて


          □□□

 

 

「どこ行ったんだよ、あのレアモブ」

 

「そんな遠くには行ってないはずだ。よく探してみろ」

 

 

 広い草原の中、森に通りかかったところ。彼女は今樹木の影に隠れていた。草原の方からは複数の足音と男達の声がしてきて、彼女は見つからないようにしながら樹木の影から草原を見ていた。

 

 彼女は今、追いかけられていた。発端はほんの数十分前の事だ。街を歩いていたところ、彼女は複数の男達に出くわした。如何にも自分に会う事を目的にやって来たと思われる複数の男達は、街の外に出ようと言って彼女に寄ってきたのだ。

 

 彼女は特に疑わなかった。疑う理由がなかったと言ってもいいかもしれない。男達は見知らぬ者達だったけれど、この街ではこんな出会いも珍しくはないし、声をかけられる事もまた珍しくない。それに自身には連れていってもらいたいところがあるから、この男達にそれをお願いしてもいいだろう。

 

 彼女は男達に言われるまま、草原へ赴いた。

 

 

「ちくしょー、本当にどこにいきやがったんだ。全然見つかりやしないぜ」

 

「結晶とかで逃げられたか」

 

 

 それから状況は一変した。穏やかそうに見えていた男達のうちの一人が、草原に出た彼女に剣で斬りかかってきた。その一人だけではない。その場にいた男達全員が、それぞれの得物を引き抜き、一斉に彼女を襲った。口々に「こいつを殺せ」、「こいつを殺せばバランスブレイカーが手に入る」などと言って。

 

 

 明らかにこの人達はわたしを傷つけるつもりでいる。ここまで連れて来させたのはわたしを傷付けるためだったのだ。

 

 

 最初の一撃を受けて気が付いた彼女は走った。男達は勿論追いかけてきたが、追いつかれないように走り続けた。そうして森に差し掛かろうとしているところまでついた位置で、彼女は一際大きな樹木を見つけて、その陰に隠れたのだった。

 

 彼女が隠れた頃に、男達は先程まで彼女がいた場所まで走ってきて、周囲のモンスター達を狩り尽くすと、辺りを手あたり次第探し始めた。気付かれないように気配を殺し、彼女はひたすら男達が去るのを待っていた。

 男達は相変わらずぎらついた目で探し回っていたが、そのうち一人がしびれを切らしたように言った。

 

 

「やっぱり逃げられたみたいだ。ったく、殺せばバランスブレイカーが手に入るかもしれないっていうのによ、もったいねぇぜ」

 

 

「あいつで間違いないんだよな。攻撃してもブルーカーソルにならないうえに、バランスブレイカーの武器が手に入るって噂のモブってさ」

 

「そうに違いないみたいだ。現にオレが攻撃してるっていうのに、ブルーカーソルになってねぇ。このゲームもまだ調整不足の部分があるみたいだ」

 

「そのおかげでオレ達はバランスブレイカーを手に入れられるんだから、最高だぜ」

 

 

 男達の口からは妙な言葉ばかりが飛び出してきている。その意味はほとんどわからない。ただ、わたしを狙っている事だけは間違いない――彼女はそう思い、様子を伺い続ける。やがて男達のうちの一人が溜息を吐いた。

 

 

「やっぱり逃がしちまったみたいだな。仕方がねぇ、退くぞ」

 

「バランスブレイカーはまた今度だ。いずれにしても手に入れてやるぜ」

 

 

 男達は口々に言うと、来た道を振り返って歩き出し、草原の中へと消えていった。男達の後ろ姿が完全に見えなくなると、彼女はようやく大きな樹木の陰から草原方面へ出た。

 

 姿を見せても男達が向かってくる気配はない。どうやら完全に撒く事が出来たようだ。

 

 

「……」

 

 

 彼女のいる場所は静寂に包みこまれていた。モンスター達も男達に狩り尽くされて姿を消している。男達は一匹残らずモンスターを狩り、彼女を探し出すための炙り出しに最適な環境を作り上げたのだ。

 

 もし、あの時隠れる事が出来なかったならば、モンスター達と同じように狩られていたのかもしれない。あの男達はあそこまで徹底して、彼女の事を探し出そうとしていたのだから。そう思うと、彼女の背筋はひんやりと冷えた気がした。

 

 同時に、胸の中に疑問と思いが起こる。

 

 どうしてわたしは狙われているのだろう。

 わたしの中に何があるというの。

 あの人達はどうして、わたしを攻撃してくるの。

 

 考えこもうとしても彼女は理解できなかった。誰かに聞いてみなければ答えは得られそうにない。ふと空を見上げて、彼女はもう一度問う。

 

 

「どうしてこの世界の人達は、わたしを狙っているというの」

 

 

 尋ねてみても、何の返事もなかった。

 

 ただその場には、風に揺れる草木の音が満ちているだけだった。

 

 

 

 

 

          ◇◇◇

 

 

 

 ユピテルに本来の記憶を取り戻させてから一週間。俺達はオルドローブ大森林の最深部へ辿り着き、エリアボスと戦う運びとなった。

 

 薄暗く湿っぽい、悪魔型モンスター達の蔓延(はびこ)る洞窟の最深部にエリアボス前特有の扉はあった。ついにエリアボスのいる場所に辿り着いた俺達はその時、一旦扉の前で進行をやめて街へ戻り、メンバーを集めた後にエリアボスの扉へ向かった。

 

 開かれた扉の先に居たのは、二本の剣を持ち、更に《幻腕(げんわん)》という魔力で構成された腕をもう一対持っている巨人(ギガース)。事実上四本の腕と四本の剣を持っている巨人の姿は、かつて《SAO》の最上階である第百層、紅玉宮で戦う事になった《皇帝龍ゼウス》を彷彿とさせるものであった。

 

 しかし、ユピテルの問題を全て解決させた今、誰も臆する事なく戦う事が出来、快勝というべき結果を残す事に成功した。

 

 オルドローブ大森林の守り主である巨人が倒された事によって、次のエリアであるフィールドが解放されたのだが、同時に戦場となった洞窟の一角に階段が存在しているのが認められた。

 

 もしかして、リューストリア大草原の時と同じように地下神殿が存在しているのではないか――そう思って進んでみたところ、予想は大当たりだった。巨人との戦場の地下に、リューストリア大草原で見つけた神殿と全く同じ構造の神殿があったのだ。

 

 その時と同様に奥に向かってみれば、光を放つ卵型の石が祀られるように置かれている祭壇が発見でき、リューストリア大草原の時同様にプレミアが回収したのだった。

 

 リューストリア大草原とオルドローブ大森林で起きた同様のケース。

 

 そこから導き出された答えは一つ。間違いなく、プレミアのクエストは各フィールドのエリアボスとリンクしている。最初こそダミークエストを進めるだけのものだったが、今はエリアボスを倒す事で出現する神殿の最奥部に存在する、卵型の石を集めるものとなっているのだ。

 

 その先に何が待っているのかはわからないけれど、きっと今後もエリアボスを倒せば、プレミアのクエストを進める事が出来るだろう。俺の抱いた確信は皆も同じだったようで、皆で目的を共有。今後もフィールドの探索とエリアボスの撃破を続けていくというのを攻略の方針に決めたのだった。

 

 

 しかし、同時にプレミアのクエストについてわからない事が多いという事実も存在していた。プレミアのクエストが光る石を集めるものだというのがわかったが、それ以外の情報は全く得られていない。プレミアのクエストは結局何で、どういうものなのか。

 

 思った事を話してみたところ、皆もこれを気にしていたらしく、結局皆でプレミアのクエストについての情報を集めるというのも攻略方針の中に加えられ、各自様々なクエストを進めていくという事になった。

 

 その一環として探索を開始した俺達の現在地は、《ジュエルピーク湖沼群(こしょうぐん)》の一角、《ライニクス流道》という場所だった。オルドローブ大森林のエリアボスの撃破によって出現したそこは、湖沼群の名の通り水浸しになった大地だった。

 

 

 入って早々熱帯雨林という湿気のある場所を示す言葉が弱々しく感じられるくらいの湿気に包み込まれ、足元は水で満ちていた。周囲は岩山で囲まれており、ところどころに大きさがまちまちな滝が出来ていて、大量の水が流れ落ちている。

 

 湖沼群というのだから、きっと水の多い場所なのだろうとは思っていたけれども、その有様は俺の想像を遥かに超えるものだった。あまりの水の量と環境に驚きながら、俺はシノンと《ライニクス流道》を歩き出したのだった。

 

 

「それにしてもあちこち水だらけだな。なんだか服が重い気がする」

 

「そんなコートなんか着てたら、水気を吸って重くもなるでしょうよ」

 

 

 どこもかしこも水辺で埋め尽くされている場を歩く中、ふと零した小言にシノンが喰い付いてきた。

 

 水が余るくらいにあるためなのか、このフィールドはオルドローブ大森林以上に湿気がひどい。そのあまりある湿気を吸い込んでいるせいで、服が(おもり)を付けられているように重く感じられた。もしかしたら、シノンの言うように俺の着ている服がコートだからというのも影響しているのかもしれない。

 

 けれども、俺はこれ以外の服装を基本的に持ち歩かないようにしているし、防御力だってこのコートが一番高いのだ。フィールド探索でモンスターと出会う以上、どんなに重くてもこのコートだけは外せない。

 

 

「これが今のところしっくりくる装備なんだ。外すわけにはいかないよ」

 

 

 そう言って振り返ってみる。声をかけてきたシノンはというと、相変わらず露出度が高めなデザインの、緑を基調とした軽装に青いマフラーを巻いている。この世界に来てからずっと着ている戦闘服だが、水を吸っても重くならなそうな服装だ。

 

 

「シノンのはいいな。あまり重くなさそうだ」

 

「そんな事はないわよ。ちょっと動きづらくなってるかも」

 

「そうか? いつもと変わらないように見えるけれどなぁ」

 

「そう見えるだけよ。実際はかなり重いんだから」

 

 

 普段はいつでも信用できるシノンの言葉だが、今に限っては信用するべきかどうか疑わしい。シノンの服装は《SAO》や《ALO》に居た時よりも明らかに肌の露出が多く、布面積が少なめのように思えるものだ。水を吸ってもそんなに重くならなそうに見える。

 

 本人が言っているのだからそうなのかもしれないけれど、やはり疑いは晴れそうにない。

 

 

「それにしても、ここら辺はあまり敵がいないようになってるのかしらね」

 

 

 シノンの呟きと一緒に周りに目をやる。ジュエルピーク湖沼群の最初のエリアと思われるここだが、一面深さの強弱のある水辺というだけあって、蟹型モンスターや脚の生えた魚型モンスターなどといった、《水棲系モンスター》にカテゴライズされるモノ達が沢山見受けられる。

 

 エリアの賑やかしの一種であるオブジェクトだって、海藻や珊瑚礁を思わせるようなデザインのものだ。水棲系モンスターの群れと海の中を思わせるオブジェクト、そして一面に広がる水辺。

 

 言うなればここは、陸と海が混ざり合う珊瑚礁地帯というべきだろう。現実では決してあり得ない、仮想世界だからこそ実現できる光景だ。

 

 その水棲系モンスター達だけれども、ここまで来るのに交戦した数はオルドローブ大森林やリューストリア大草原の時と比べてとても少なく、ちょっと戦うだけでエリア中のモンスターを殲滅できてしまった。そのおかげで、今ここにあるのは陸海珊瑚というべきオブジェクトと岩山から流れてくる水、そして俺とシノンの二人の姿だけだった。

 

 

「このエリアだけモンスターのポップ数が少ないのかもしれないな。もしくはこのフィールドそのものがモンスター少なめに設定されているか」

 

 

 もしそうなのだとすれば、ここはあまりレベリングに向いていない場所と言えるだろう。このアイングラウンドを元に形成された浮遊城であるアインクラッドの、第二十二層や第八十層といった非戦闘区域と一緒だ。

 

 レベリングや強さを求めるプレイヤー達はそそくさと走り去っていき、のんびりする事をモットーにするプレイヤー達が残されるに違いない。

 

 現に他のプレイヤー達の姿は見受けられず、やはりこの場にいるのは俺達だけという事になっている。皆先に進んでいっているようだ。

 

 

「って事は、ここはプレイヤーもあまり来ないし、モンスターもいない。ほとんど圏内と変わらない場所って事よね」

 

「そういう事になるな。一つのエリアをじっくり探索する連中もあまりいなさそうだ」

 

 

 今回俺は《使い魔》であるリランを連れてきていない。リランは今、ストレア達と一緒に他のフィールドへ行って、アルゴのように情報収集をしている。その情報はもちろん、プレミアのクエストに関するそれだ。

 

 リューストリア大草原とオルドローブ大森林はエリアボスを倒したけれど、まだ探索していない部分も多い。その探索していないところにプレミアのクエストに関連する情報がないかどうか、探っているのだ。

 

 俺とシノンも同じようにプレミアのクエストに関連する情報を求め、この《ジュエルピーク湖沼群》にやってきている。ここは一番最初のエリアだから、それらしきものは見受けられないが、きっとこの先に行けば見つけられるはず。

 

 

「ここには何もなさそうだ。早く先に進も――」

 

「待ってキリト」

 

 

 急に声を掛けられて、俺は再度シノンへ向き直る。シノンは地面を浸す水に手を伸ばし、ぱしゃぱしゃと音を立てていた。水に何かある事を確認しているようだ。

 

 

「ここの水だけど、かなり綺麗じゃないかしら」

 

「え?」

 

 

 言われて俺はふと地面に目をやる。俺達が足を置いている地面は、足首より下くらいの水位で浸されている。その水は太陽の光を浴びてきらきらと輝いており、何より下の地面がはっきりと見えるくらいに透き通っているものだった。

 

 不純物の混ざっていない、純水というべきだろう。飲み水にも使えそうだし、瓶に入れて街に持ち帰れば料理の素材などにも利用できそうだ。それがこのエリア一面に満ちているという事に改めて気付かされ、俺は少し驚いてしまった。

 

 

「確かに綺麗な水だな。ここ一帯の水全部がこうか……」

 

「そうでしょ。それにここはモンスターもプレイヤーもいないから……」

 

 

 言いかけたシノンは背を向け、そのまま歩き出した。

 

 急な方向転換に驚きながらついていくと、水の量が増えてきたのがわかった。シノンは地面の(くぼ)みによって出来ている、水嵩(みずかさ)の深いところへ向かっているのだ。シノンに付いていくにつれて窪みが深くなり、水嵩は高くなっていった。

 

 

 導き手であるシノンが立ち止まった頃。俺達が居た場所は、鍾乳洞などによくみられるリムストーンプールを階段代わりにして降りて行った先にあった、大きな窪みの底だった。水嵩は足首よりも上くらいになっており、靴はすっかり水浸しになってしまっていた。

 

 周りには宝箱も無ければ、モンスターの姿もない。本当に足元の純水以外何もない場所だ。聞いてみなければシノンがここに来た理由は理解できそうにない。

 

 

「シノン、ここは?」

 

 

 直後、シノンはブーツを脱ぎ、腰回りのベルトを緩めて脚を覆う装備を外した。脚を露出させて素足を水の中に浸けるなり、そのままくるりと俺の方へ振り返ってきた。突然装備を外されたものだから、思わず胸がどきりとしたその時、顔に冷たいものが飛んできた。

 

 

「わわっ!?」

 

 

 声を上げて驚きながら顔を拭ってみたところ、手に水が付いた。地面と足を浸している水と同じものだ。そして眼前のシノンは、軽くキックをした後のような姿勢をしつつ、両手を後ろで組んで、俺と目を合わせていた。

 

 

「こんなにも水が綺麗で、モンスターも人もいないところなんだし……ちょっと水浴びしていきましょうよ」

 

 

 何かを楽しみにしているような表情で、若干頬を桜色に変えながらシノンは言った。

 

 俺はもう一度地面に目をやる。ここの透き通る純水は心地の良い冷たさで飲むのもいいし、浴びるのにもいい。

 

 空は晴れてそれなりに強い日差しが照り付けてきている、水浴びには最適の気象設定だ。

 

 

「水遊びか。言っておくけれど、それなら容赦しないぜ」

 

「全身びしょ濡れにしちゃうつもりだけど、いいかしら」

 

「こっちもその気さ。とことんずぶ濡れにするぞ!」

 

 

 そう言って俺は足元の純水を手で掬いつつ、シノンへと投げかけた。ぴしゃりという音と共にシノンの顔に水がぶつかり、「きゃっ」という嫌そうな感じの無い声が上がる。

 

 髪の毛から水を(したた)らせながら、今度はシノンがその足で水を飛ばしてくると、俺はズボンを捲り上げながら靴を脱ぎ、先程話に挙げていたコートを脱いでタンクトップになった。その時丁度胸元にシノンの飛ばした水が飛んできて、タンクトップも水浸しになる。

 

 お返しと言わんばかりに俺も素足で思いきり水を蹴り上げ、シノンに被せてやった。胸元から足までびしょびしょになると、さぞかし楽しそうにシノンは笑い、両手で水を飛ばしてきた。その量が思ったよりも多く、今度は俺も頭から足までびしょ濡れになる。

 

 飛んでくる水は全て冷たくて、浴び心地がよくてたまらなく、思わず笑いが上がる。

 

 

「はははっ、もうお互いびしょ濡れだな!」

 

「まだまだ! まだ浴び足りないんだけど!」

 

「それじゃあ、もっと行くぜ!」

 

 

 俺は両手も両足も使って沢山水を飛ばし、シノンの身体を濡らしてやり、シノンもまた水を飛ばして俺の身体を濡らしてくる。もう既に二人揃って頭の先から足の先までびしょ濡れだった。

 

 こんなふうに水浴びを楽しんだのはいつ以来だっただろうか。もっとも記憶に新しいのは小学生低学年の頃だ。それも本当に低学年のころだけで、小学校高学年と中学生になってからは、こんなふうに水を楽しんだりする事はなかったし、部屋にこもっている時間も長くなっていた。

 

 

「シノンってば、今日は随分と機嫌がいいな!」

 

「あなたが一緒だからよ! あなたが一緒にいてくれるから、楽しくて!」

 

 

 そう言って更に水を飛ばしまくってくるシノン。その顔はこれ以上ないくらいに楽しそうに遊ぶ少女の表情そのものとなっている。

 

 シノン/詩乃だってそうだ。頭の中にある詩乃の記憶の中には、詩乃がこうして外に出て水を浴びながら、遊んでいるものは存在していない。俺と同年代だった時にもそういった経験はなく、インドアに尽くしていたようだから、これが初めての水遊びと言ってもいいかもしれない。

 

 俺は今、初めて水遊びを経験するシノンと水遊びをしている。たかが水遊びかもしれないのに、ここまで楽しさを感じているのは、それもあるからなのだろう。

 

 

「あはははっ、気持ちいーっ!」

 

「最高だよ、ほんと!」

 

 

 ばしゃばしゃと音を立て飛ばしてくるシノンの水を浴び、同じ音を立てて俺もシノンを水浸しにしてやる繰り返し。小さな子供の時に経験できなかった事を、今更ながら経験して、その楽しさを満喫しているのが俺達だった。

 

 

「キリトっ!」

 

「んっ? おぉっ!?」

 

 

 思い切り水面を蹴り上げて水を掛けようとしたその時、シノンの方が先にジャンプ、俺の目の前に両足を合わせて着地した。ばしゃんと水しぶきが上がり、沢山の水が一気に身体に飛んできたが、一緒になってシノンが体重を預けてきた。

 

 流石にシノンの体重まで来るとは思ってもみなかった俺は、

 

 

「あっ、うぉあッ!」

 

「あっ!」

 

 

 シノンの体重を支え切れず、そのまま地面へ倒れ込んでしまった。どばしゃんという大きな音と共に巨大な水しぶきが俺を中心に上がり、大量の水が身体を撫で上げてきた。

 

 しぶきが終わった時、俺は全身びしょ濡れとなっており、抱き着いて身体を預けているシノンもまたびしょ濡れになっていた。そして何が起きたのかよくわからないでいるような顔で、上目遣いで俺の事を見ている。

 

 彼女の黒色の瞳と俺の黒色の瞳が合わさる事数秒。彼女の顔に笑みが生じ、そのまま大きな声で笑い始めた。体重が支えられなかった俺が、もしくはびしょ濡れになっている俺が可笑しいのか。理由はわからないけれども、その笑いは確かに俺を誘ってきて、俺もまた笑わずにはいられなくなり、やがて大きな声で笑い始めた。

 

 二人で笑う事十数秒後、先に笑いを止めたのはシノンの方で、シノンはとても心地よさそうに俺の胸に顔を擦り付けてきていた。まるで俺の全てを感じ取ろうとしているかのように。

 

 全身びしょ濡れだというのに気持ち悪くなく、寧ろ包み込んでくる水の冷たさが心地よくてたまらない。そのうえからシノンだけが持つ暖かさが来ているのだから、これ以上なく気持ちよくて仕方がなかった。

 

 

「ねぇキリト」

 

「うん?」

 

「私ね。こうして水遊びするの、初めてなの」

 

 

 やはり、と思った。シノン/詩乃は記憶の通り、こんなふうに水遊びをしたりする事はなかったのだ。俺は身体を預けるシノンの背中に手をまわし、抱き締める。

 

 

「そうだろうな。君はずっとインドア派だったもんな」

 

「えぇ。こんなふうに水を浴びたり、誰かと水遊びするなんて、全然考えた事もなかった。おかあさん達とも、こんなふうに遊んだりする事はなかったな」

 

 

 シノンはもう一度俺の胸の中で顔を上げた。そのまま上目遣いで俺と瞳を合わせる。

 

 

「こんなふうに水遊びするのって、こんなにも楽しいのね。……その初めての相手があなたで、本当に良かった。ありがとう、キリト」

 

 

 桜色に染まるその頬を見て、俺もまた頬が暖かくなったような気がした。

 

 やった事と言えばただの水遊びなのに、ここまで感謝されるというのは、シノンにとってそういう普通な事が普通ではなく、特別な事だったという事だろう。

 

 

「水遊びでお礼をされちゃ、なんて言ったらいいかわからないよ」

 

「だって、本当の事なのだもの。誰ともこんなふうに遊んだ事なかったんだから」

 

「……そうだな」

 

 

 やはりシノンの記憶の中には、親や家族と一緒に水遊びに出かけたというものはない。憶測にすぎないけれども、彼女の母も、祖父母も、彼女に本当はこういう事をさせてあげたかったけれど、させられないでいたのかもしれない。

 

 やはりシノンにとって、一般的に普通な事は特別である事は多いのだ。その特別な事を、特別でなくさせていくのが、俺のやるべき事なのかもしれない。そう思い、俺はシノンのびしょ濡れになった頭に手を添えた。

 

 

「ちょっと先の話をするけれどさ、シノン」

 

「え?」

 

「前にも言った事だけれど、このまま俺達一緒に居続けて、現実でも結婚して……ユイとストレアとリランに身体を与えてあげられて、その()達の弟でも妹でも出来て、その子が少し大きくなったら、こんなふうに遊ばないか。山でも海でも川にでも出かけて、家族みんなでずぶ濡れになるくらいに水遊びして、さ」

 

 

 シノンは少しきょとんとしたような顔をした。どう対応すればいいのかわからないような様子にも見える。俺は今、早とちりしすぎた事を言ったかもしれない。胸に若干の焦りがこみ上げてきて、取り繕うように言いなおした。

 

 

「あぁいや、あくまで俺の想像図だよ。ただ、そうできたら楽しいかなって思って……」

 

「……私でも……」

 

「え?」

 

 

 シノンは少しだけ首を傾げて、尋ねるように言ってきた。

 

 

「こんな私でも、そんな事出来るかな。自分の子供と遊んであげられたり……出来るのかな」

 

 

 シノンは如何せん他人と遊ぶという事をしてこなかったし、してこれなかった。だから、いざ自分に子供が出来た時などに、それが出来るのかと言われたら、不安になってしまうのかもしれない。

 

 その気持ちがくみ取れたような気がした俺は、迷わず頷いた。

 

 

「……大丈夫だよ。君ならできる」

 

「……本当に?」

 

「もちろん。それに君一人じゃない。俺が一緒にいるからさ。二人で……いや、皆で一緒になって、生まれてきた子供と遊ぼう。そのためにも俺は……君に尽くすよ」

 

 

 シノンはもう一度きょとんとした様子を見せたが、やがて穏やかな笑みをその顔に浮かべ、唇を開けた。

 

 

「……あなたにそう言われると、出来るような気がしてくる。……不思議」

 

「そう、かな。でも、俺は本気だよ」

 

「わかるわ。だから私も、本気で私に尽くしてくれるあなたを……愛してる」

 

 

 その言葉の後に近付いてきた詩乃の唇を、俺は自分の唇で受け入れた。

 




――アイングラウンド編第3章第1話の時点で前もって言える事――

・キリシノたっぷり。


―副題的なもの―

『キリト・イン・ビーストテイマー アイングラウンド03 ―大地ノ女神―』

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